探偵と黒猫(仮)
「みゃあお……ッ」
牙を剥き出しにし、猫は高らかに鳴き続ける。首から尾にかけて針のように尖らせて威嚇している。総身から恐怖が色濃く浮き出ていた。
意を決するというよりかは、いい加減そうしなくてはならないという強制力をもってして上を向いた。
化け物がいた。
それは獣の形をしている。鳥やヒョウなどがいたが、耳が尖っており長い尾がある。なによりと、テメノスの記憶にあるものより一回りは大きい。
赤い目をギョロリと動かし、何かを探し回っているが、確実にこちらへ来ていた。
獣が咆哮を上げると、夜空は破れた。月と星は失せて、濃紺だけがある。キーンと耳鳴りがしたが、止んでからは鼓動の音がやかましい。
テメノスは無理矢理浅くなる呼吸を整え、びしょ濡れになった手のひらで滑り落としそうな端末を何とか繋ぎ止め、咄嗟に胸ポケットにしまい込んだ。
『フー……ッ』
獣は真っ黒だったが、舌は赤く、涎が滴り落ちた。
その闇で出来たような毛に覆われた指には剥き出しの鉤爪があって、それは容易に人の中心を貫けるだろうという確信を抱かせる。認めた時には目路をよぎる。ヒュ、と喉の奥に空気が抜けた。
雑木林が薙ぎ倒され、街路に横たわった。その衝撃で足底が浮きそうだった。
そう遠くないところに、黒い毛に覆われた足が地を踏み鳴らし、箱庭を飾っていたものは恣意的に再起不能にまで破壊されてしまう。
テメノスは土煙に咳き込みそうになるのを堪え、鋭い爪先が迫るより疾くと、黒猫を片腕に抱いて脱兎の如く駆け出した。逃げますよ、とも言ってられない。
闇に囲われては、人間はひたすらに喰われぬよう凌ぐしかない——そう遠くない過去に学んだ教訓である。
テメノスがかの異形の名を知ったのは、イェルクを殺した犯人・建築士ヴァトスと対峙した時だった。
かつての変死事件のようにイェルクの遺体の状態は到底人為的にも捉えられなかったが、何者かが侵入した痕跡が残っていたため、テメノスは証拠を辿り、言わせていた警部補のクリックと共に彼を追い詰めた。
建築士ヴァドスが爪で頭を掻き毟り、額を赤く染めながら、何かを呟いたのが不条理な夜の始まりだった。異形は突として舞い降り、目を剥く彼を喰らった。『妖獣』——人の世が生み出した禍。戦いの後、ほとんどが爛れてしまった黒い書物の読み解ける部分にはそう綴られていたが、その本当の意味は掴めていない。
テメノスが経験してきた共通の特徴ならいくつかある。
まず、その姿は獣のようだが、常に闇を纏っており、全容は不明な部分が多い。羽があれば飛ぶこともあるあたり、原型の獣の特徴は有している。
更には、人間の血肉に執心し残虐に喰らい尽くしてしまう。これが厄介で恐ろしいが、それだけではない。
闇を使役し、時間や空間の概念を無きものにする。咆哮がその合図だった。こうなると、恐らく外からは誰も干渉できない。
テメノスはこの妖獣を前にして幾度も窮地を潜り抜けてきた。
だがそれは、クリックやオルト達が背中を預けてくれたのが大きい。警官としての身体能力を兼ね備えていたとしても、一人で相手をするのは、到底、匹夫の勇だ。その上比類なき巨体。自ら命を捨てに行くのに等しい。今のテメノスは銃をもう扱うことができない。最後の頼みの綱も、置き去りにしてしまった。
「は……ッ」
滑るように辺りをかけずっても、暗い石道と雑木林が続いている。奴の動向を仰ぎながら先読みして動くが、見つかるのは時間の問題だと経験が言っている。
「……ッ」
一刻も早く、聖典を——考えが過るのとほぼ同時に、稲妻のような痺れる痛みが身体の伝線を迸った。テメノスは転ぶのを免れたものの、足をもつれさせた。燃えるような痛みが内側で暴れ回っている。 ぶわりと脂汗が湧き出す。
テメノスは鈍る五感に言うことを聞かせ、建物の裏に滑り込んだ。
また木々が踏み荒らされている。人間の匂いを辿るにしては、無造作な動きなのが不可解だった。
「にゃ……」
腕の中の黒猫は今に至るまでずっと震えている。それでも吊り目がちな瞳は憂慮を湛えて、テメノスをくっきりと映し出している。
「古傷が疼いただけです。大丈夫……」
安心させるために口にするのに、そのための材料に欠ける。暗示でしかなかった。
今もなお湧き出す雫が耳上のくぼみに滲んだ。
「みゃ、みゃ」
律儀に詰めをしまった黒猫の軟い手が、テメノスの右腕に擦り付いた。溜め込んだような呼気が冷たい外気にほどけた。
猫の主張するように、テメノスのそこは激しく痛んでいた。治療は済んでいるが、思い出したように疼くことがあった。夜に突然吹き返すこともあるし、今のような状況下であれば、避けようがないものだった。
カルディナとの激戦によって、テメノスは腕を負傷していた。 銃で撃たれたわけでも、刃物で傷をつけられたわけでもない。漆黒の牙がテメノスに噛み付いたのだ。皮膚を裂き、肉を抉り抜いた。果てしない渇きのままに、人のなれ果ては食らおうとしてきた。
女は、一度人間を辞めた。妖獣になったのだ。正確には、取り込んでいたのだろう。テメノスにはそう見えた。
夜の書——あの女はそう言っていた——を片手に連ねた詠唱が、鴉の群れのような闇の煙を噴き出し、目を剥いた女を蝕んだ。
肉や骨の音を立てて彼女の身体は作り替えられていった。灰色の長い髪が、警視庁の隔離された地下室の石床に散乱した。生命への冒涜に等しい工程は、到底、現世に生きる真人間が受容できるものではなかった。
テメノスの脳裏に、一種の諦念が閃光のように突き抜けた。悪夢のような様相は、この腕が痛むたび吹き返す。「……んにゃ?」
怖いのか? 猫はテメノスに問いかけている。そんな確信めいたものを感じさせるのは、この子が聡いからなのだろうか。それとも、そう思いたいからなのか。
妖獣とテメノスが立ち向かうべき大きなヤマは切り離せない。この先だって、こんな窮地には立たされるだろう。黒猫を見た。
「私はこんなところで立ち止まってはおられないのです」
汗を拭い取り、テメノスは気丈に見せようとするが、白い歯を覗かせるのが精一杯なことに気付かされるだけだった。黒猫は瞬き、今度は胸板に齧り付いた。
「にゃ、にゃぁ」
尾が手の甲を叩きつけた。動物相手に感情が分かるというのも奇妙な話だが、彼は今し方、確かに何かを伝えたがっていた。
『……ノス!……聞いてるかい⁉︎』
「……え?」
怒声が鼓膜を揺さぶった。まさかと思いテメノスはスマホを見遣った。
通話中と表示された画面。押し寄せてくる雪崩のような安堵と疑問を憶えかけたが、黒い獣がこちらに近づくのに伴い、方角を変えた。黒猫が肩に乗り上げてきた。テメノスは落ちないかと危ぶんだが、彼はちゃんとついてきた。
聡明な子だ。腹の負傷で早く動き回れないという己の現状をよくよく理解した上で、自身を頼っている。
妖獣は遮蔽物を破壊しては、その辺りを
探っている 。人食らいの本能以外の目的に突き動かされているように映るのは、こちらの思い違いだろうか? 何やら今は反対方向にいるが、着実に刻限が迫っていた。
「ソローネ君!」
潜めた声を極限まで引き上げて、彼女に呼びかけた。
テメノスは妖獣の形成する特殊な領域が、電波を寄せ付けないことをよくよく知っていた。ゆえに単独でこの窮地を脱する術は、ひたすらに凌ぐことだと裁定を下していた。
藁にもすがるような思いの末、安堵の深い溜息をこの耳はしかと拾い上げた。
『ようやく繋がったか……あんたが前に話してた、妖獣とやらが現れたんでしょ?今、そっち向かってるから』
なぜ、彼女と繋がったのか。居場所まで特定できるということは、GPS経由か——テメノスは際限のない疑問に蓋をした。代わりに、どっと疲れた後に発するのに近しい、掠れた音色が這い出た。
「……聖典を置いてきてしまいました」
この領域の中心部、ベンチの下に革鞄がある。家族の形見であり、力を与えてくれた、聖典があそこにあるのだ。
『生きてるなら取り戻せるよ。それよりも、時間を稼ぎな』
ソローネはこういう時、責めることはしなかった。そうする猶予があるなら、次の打開策を打ち出す。テメノスの少ない情報から、状況を読み取ってみせることもした。瞬間瞬間の判断力の精度は彼女の右に出るものはいない。
「分かりました」弱音は要らない。テメノスは必要最低限を打ち出し、彼女に伝えることにした。こうしている間にも、巨大の妖獣は木々を雑草のように掴み掻き分け、中を弄っていた。
肩にしがみついていた猫を落ち着かせてやるように撫でたが、濡れた手のひらを拭いているようでまるで形を成さない。生ぬるい空気を吸った。
「……妖獣は辺りを破壊して回っています。カルディナ以上の巨体ですが、挙動がおかしいです」
『おかしいって何さ』
妖獣は皆、獣の優れた五感を兼ね備えている。だが此度は違った。まるで虱潰しだ。
「奴の感覚が鈍いのか、手当たり次第に破壊している……そんなふうに見て取れます」
『ふうん。好都合だろうけど、探し回る能はあるのか』
己の不能を喚くでなく、別の手段を選び取る。理性を失くした獣のすることではない。彼女の考察は正鵠を射ていた。
ソローネは元掃除屋というだけあって、卓越した身体能力を持つ。彼女の助力が今、喉から手が出るほど欲しい。
「時間はそう残されていません。ソローネ君、後どれくらいで——」
「にゃお!」
猫が鳴いたのと、妖獣が顔を上げたのはほぼ同時だった。こちらへ向かってくる。テメノスは再び地を蹴った。画面の光をスーツに押し付けて隠す。くぐもった返答が返ってきた。
『今、面倒なルートをゴリ押しで飛ばしてるけど。あと五分はかかるよ」
五分、五分。反芻して、口端が引き攣った。テメノスがいらえるより先に、黒猫は包帯の巻き付けた身体を跳躍させていた。軽やかな四つ脚を駆使して、一目散に駆け出してゆく。
「どこへ行くのです……!」
職務や冷静さを保っている己であれば、猫の一匹、あのまま逃し、己が生き残ることを先決としたかもしれない。
だが、テメノスはそれを許せなかった。例え小さな命だとしても、己にこびりついた呵責が微塵の逡巡も打ち砕いては、急かす。
葉が降る。楠の大木が崩れ落ちるのを、その猫は身軽さを活かして迷いなく先を行った。そしてほんの一秒も要さずにそれは傾斜にぶら下がった。精密な判断だった。
次々と悪路へと移ろう街路樹を、猫は未だ疾駆していた。テメノスはつんざく獣の汚い咆哮に鼓膜を破られそうになりながら、敏捷する黒い輪郭を見逃さぬように目を凝らし続けた。
黒猫は目的のベンチを見つけると、良かったとでも言うように小さく鳴いた。息を切らして追いついたテメノスは、小さくて優しい動物の起こした行動に胸を打たれたままではおられなかった。上空の大きな闇塊は許してくれなかったのだ。
『……ああ、やっと見つけた。そこにいんだろ、兄弟』
化け物の口調は喜悦を表すように細やかな震えを孕んでいた。硬いアスファルトにドス黒い杭が打たれ、歪んだ。猫は瞬時に後転した。威嚇の体勢を保ちながら、脚は怯懦を誤魔化せずに震えていた。
狙いは、この黒猫だった? それに、言葉を使う妖獣は稀だ。該当するのはカルディナくらいだが、それでも正気を失っており飛び出すのは呪詛だった。
『お前のせいで目も鼻も効かねえんだわ……最後のひとかけら、寄越せよ』
妖獣は手のひらと名状するには物々しく爪を剥き出しにした、五指で促した。黒猫に向けて。
「にゃ……」
黒猫は押し付けられた太い指を押し返そうと試みていたが、そうは出来ず、後退した。色濃い戸惑いがありありと窺えた。状況がのめていないように映る。
『本当、随分と貧弱になったよな』
呆れたように妖獣は溜息ひとつ吹きつけて、小さな黒猫を指で摘み上げた。
「ぅ゛、にゃぁ……ッ!」
吊るされた黒猫は踠くが、到底離れられない。ぎょろりとした赤いまなこに黒猫を宿し、一通り観察した化け物はせせら嗤う。
『クク、ざっこ。ちっせえし鳴くしか能がねぇじゃねえか』
ぶらりと振り子のように猫は揺さぶられていた。テメノスは腹底から怒りが沸々と迫り上がってくるのを覚えて、堪えた。
感情に乗っ取られては何も成せない。
「にゃ、あぁ゛っ」
猫は爪弾く要領で草地に投げつけられ、身体をぶった。柔軟な受け身を取っていたが、腹の傷から響く痛みに呻いていた。
『しぶとく生き延びていたみたいだが、これならいない方がマシじゃねえの?』
ベンチ下に素早く腕を潜り込ませ、革の触れ心地を我が物とする。ここで無碍にする気はない。
「にゃ、にゃあぁ」
黒猫はよろけながらも、妖獣に向かって気丈に鳴いていた。テメノスには分からない異種族の意思の疎通を交わしている。
『あン? とぼけんじゃねえ……ああ、そういうことか」
妖獣は頭を低くすると狼にも似ていた。黒猫の目と鼻の先に醜悪な闇の形相をこれでもかと寄り付かせ、ひとりでに得心したような素振りを見せた。
「にゃぉ、にゃ、にゃあ!」
『テメエが抜け殻でも心臓は嘘をつかねぇ。そうだな、せめての慈悲に痛くないように一瞬で殺してやっても良いぜ——そこのヒョロガリと一緒にな』
「……っ」
炯眼がテメノスを射抜いた。明確な殺意によって、末端まで凍りつく寒気が過ぎる。背後に隠した聖典を滑り落とさぬように力を込めた。
やはり、カルディナを計略に嵌めた人物と、この妖獣と。世の裏側に蔓延る組織が確かに存在するのだ。テメノスは密かに固唾を飲んだ。
『お前、例の刑事だろ』
闇の形に馴染んだ声の音を操り、異形はテメノスの驚きや推察を丸々と嘲るようにのたまった。
そうして弱者をなぶるための爪先を黒猫の首に当てがった。
呼気を吐き出す。嫌な夜風によって前髪が目元を遮った。
「元刑事ですが……ご存知ですか」
狼男の化身のような妖獣は、うんざりしたような口調でいらえた。
『飼い主 がお前を買い被ってるンでね。いやでも覚えちまうんだよ』
飼い主。初めて耳にする言葉だ。名前も規模も分からない、組織の首領か。
確かめたいことは多くあるが、テメノスは聖典を表に露わにさせた。わななくような唇は噛んで誤魔化す。妖獣の顔つきが目に見えて変わった。
『チッ、そういうことか……あの野郎、騙くらかしやがったな……あとで刺す』
暗く澱んだ巨躯の内側に籠らせるには、やや大きな呟きが耳を打つ。
「……あなたが、何を目的としているかは計りかねますが」
ロイ、イェルク、遥か太古から我らを見守る聖火神エルフリック様。私は信徒として従順だったあの頃には戻れない。縋るように聖句をなぞっても、信じたものは戻ってこなかったのだから。私は、私の行くべき道を拓くために祈りを捧ぐ。聖典を開くたび、テメノスはいつもこの祈りを胸の内で唱える。
「彼は私の友人です。解放してください」
彼らからの贈り物であり、使命を果たすための導でもあった。聖典は浮き上がり、テメノスの手のひらに重さも古さも覚えさせない。ほのかに温かい煌めきの粒子が舞う。
聖なる盾よ。尊き命を守り賜え。それは囁きのように滔々と連ねられ、世には存在しなかった古い魔の根源を呼び覚まし、緻密に組み上げてゆく。
「みゃ、みゃお!」
黒猫が駆け出した。闇の獣が爪を突き立てるが、テメノスの聖句が加護をもたらし、それらを全て弾いた。
「にゃっ、にゃあ!」
妖獣の猛攻から黒猫を守り切った。自身めがけて一直線に飛び込んでくる彼を受け止め、この両腕で包んでやれる小さな温かさを頬に感じた。テメノスは心底胸を撫で下ろす。
「……良かった」
遅れて、腕が軋んだ。テメノスは小さく唸ったが、激痛を噛み殺し、心配させまいと撫でた。
脂汗が背中を舐める。
聖火神の奇跡も対価無しでは打ち込めない。それが回ってきたのだ。魔法が潰え、御伽話と化した時代にこれを扱うのは手重い——だがそれよりも、テメノス自身の問題だったろう。ほんの、ほんの少し前まではクリックやオルトの隣で毅然と戦えていたのだから。
異形が逆上することも覚悟したが、当の彼は三日月よりも赤目を細くし、嗜虐的を湛えた。
『なんだ、顔色が悪いぜ? もう次は撃てねえんだろ。無理すんなよ、なァ?』
「にゃ……ッ!」
斬り込まれた大木がテメノスに迫る。すんでのところで跳躍した。
「……ッ!」
距離を取り、遁走を図る自分達を、狼の妖獣は追ってきた。荒ぶ闇の残滓が追い縋り、足首や頸に纏わりつく。いつ足を引っ掛けてもおかしくない悪路を、テメノスはひたすらに駆けた。木々はもうそこらじゅうに散らばっていて、ともなると、強固な建物に紛れるしかない。
奴が自分から明かした視覚や嗅覚の鈍さに賭けていた。
だが、悪魔のような獣は味を占めたのか、的確に狙いを矯めるべく努めている。あろうことかその身を縮ませて、建物の隙間をすり抜けて吠え散らかす。煙とも雲とも言えぬ闇の塊が波のように押し寄せ、テメノスの背中を嘲笑った。
肺が絞られ過ぎて気道が焼き切れそうだ。まだ走らねばならないのに、錘となった我が脚は油断すれば膝ごと崩れ落ちてしまいかねない。酸素を必死に取り込むが、堪えきれずえづいた己を、黒猫の柔らかい毛が労るように触れた。
「はぁっ……は、あぁ、すみませ……っ」
原型を留めていない捻じ曲がった看板の支柱に身体を預け、喘鳴の息遣いで黒毛を揺らした。
どういうわけか、化け物に命を狙われている黒猫。彼自身も、その訳を理解できていないように見える。妖獣の手のひらにも満たない小さな生物だとは思えない賢さや複雑な感情を有していて、テメノスをずっと心配している。見限って、離れてくれてもいいのに、今もずっとくっついていた。
守らなくては。その使命感は、焦燥となり、テメノスから冷静さを奪ってきた。
「にゃ……」
視界に砂がかかっている。思ったよりもこの身体には負荷がかかっているようだ。
腕が熱を持ち、脈打っている。駄目だ。次に聖典を開けば、間違いなく昏倒する——
『人とは無力なものだ、テメノス。それゆえに、何かに縋らずには生きられん』
カルディナが放った言葉が、彼女の声で頭の裏に響いて回った。
力無きは無価値。彼女は頑なだった。
テメノスは断罪したが、縋る先をどうにかしてそばに置いておきたいという面においては、あの女と同じかもしれなかった。
縋る先は、すなわち光だった。手を伸ばす代わりに、どうにかして、懐かしい声を引き摺り出した。
『君は賢いし、いつだって落ち着いてるね。時折思うんだよ。もしかしたら、君ならって——』
違うんだ、ロイ。このちっぽけな頭だけではどうにもならない。私は今も間違えているのだから。彼にそう伝えたいが、命の終わりは二人を分つ。永遠にこの手を届かせなくする溝、あるいは果てなき絶壁だった。それでも、彼らに通じなくても、テメノスは。
「猫さん、私は言いましたよね。こんなところで、立ち止まってはいられないと」
捨てられない、過去と確執。きっと執着すること自体が、己を生者たらしめている。
「みゃ?」
化け物の身体が膨らむ。大きな闇が自分達を爛々と見下ろしている。死角に回り込むのはもう難しくなった。
黒猫が肩に回り込んだ。腕を強く掴んだ。痛みが、現世に取り残された己に何をなすべきかを現しめる。
「諦められない。必ず、全てを解き明かすまでは……」
彼らに、報いるまでは。
聖典に刻まれた文字を、テメノスは読み取ることができないはずだった。
だが一度開き、突き動かされるままに捲れば、聖火神の灯火を思わせる青い粒子を纏わせた聖句が、頭の中にすぐ浮かんでくる。
「うみゃ、にゃお」
黒い体毛すら塗り替える輝きを浴び、猫は驚いたように鳴いた。前脚をそっと伸ばすと、触れたところからぶわりと煌めきがあぶれる。
『その古臭え聖典——』
大きくなった妖獣は低く吐き捨て、手のひらがどこぞの屋根を鷲掴みにした。容易く握り潰され、木片が霰のように降り注ぐ。
文字を認識しようとすると、目の前が眩む。一種の神々しさに反して、指先は痺れ始めていた。
『選ばれたことを後悔させてやるよ。ああ、死んじまったら意味ねえか』
月が無くなった紫煙揺蕩う曇天に、狼の鉤爪がギラつく。振りかぶる手前、テメノスはまなじりを決した。
最初から、これしか手立ては残っていない。
「にゃ、にゃ……ッ!」
浮き上がる文字をなぞる指先に、柔らかいがしっかりとついてくる猫の手がある。まっすぐな瞳と視線を重ね、テメノスは頷いた。
「……私は、私の真実を、貫く」これが私の、生き方だ。意味のない譫言になっても、脳髄の奥の奥まで埋め込んでやる。
一匹目掛けて鋭いひと薙ぎが飛来する。やけに遅く見えるのはきっと気のせいなどではない。命はすぐそばまで脅かされているのだ。鼓動が鳴る。辺りが凪いでいる。静かな呼吸の音まで内側に届く。まだだ。確実に撃ち抜かねば、逆に殺される。
古の詠唱がどんなものだったかは定かでない。時代を追うごとに長くなっていったとも聞く。
「聖火の光よ、輝きたまえ! 万物を照らし、ッ、邪悪を、打ち払い、たまえ——」
己の心身を削った詠唱は、組み上げるたび喉奥が張り裂けんばかりの鋭い針が突き刺さるようで、形の歪な砂山のように崩れてゆく。半分は失敗だった。間もなく前後不覚になる。それでも聖典は主から離れ、白い光輪から奇跡を顕現させた。
「んにゃあぁ……!」
未完成系の詠唱の対価のせいで、テメノスにはもう、ろくに首を動かす力もないが、それでも自身の側で漆色を仰いでいる子猫の様子ははっきりと認識できた。
そのまろくて強い意志を宿す宝石のような目に、無比たる強靭な黄金の槍が闇の塊を貫くさまが映り込んでいた。
『オイ、痛えじゃねえかよ……』
闇の化身たる妖獣は生きていた。確かに神の捌きは通っていたが、身体を縮ませることで命拾いしたようだった。胸上から前足の付け根にかけて千切れていた。当たる場所が異なれば、風穴となっていたろう。
土煙を掻き分け、瓦礫の上を這い、彼は黒猫を睥睨した。眼光と殺意を保ったまま、鋭いつま先を差し向けた。
「にゃ……」
黒猫の顔つきに恐怖が浮かぶ。テメノスは彼を何とか助けてやりたいのに、指先一つ動かすのもむつかしい。
『クソ猫に白髪。お前ら諸共八つ裂きにしてやる』
あと、もう少し。もう少しのはずだと負け惜しみのように唱える己は無様に違いない。
腕に乗っていた長い尾が密やかにうねっていた。正確には、血や脈の流れを感じたのかもしれない。そして彼の心の奔流でもある。
「んにゃ、にゃあ、にゃ」
猫は精一杯に鳴いていた。狼は地を蹴り付け、獲物を噛み砕くための尖った歯の奥の口腔さえ見せつけ、吠えた。
『黙れ、人間にしか頼れねえ愚図が。今更殊勝ぶるなッ!』
「……っ!」
テメノスはただ、動くことを放棄した身体を横たえたまま、かろうじて働く視覚や聴覚で目の前の出来事を受け止めるしかない。
黒き猫は狼の足蹴りで弾き飛ばされ、倒壊した家の残骸に飛び込んだ。奥に埋もれ、身動きが取れないだろうと思うと、臓腑を冷たい感触が舐め回す。
『俺は俺だ。もう誰にも俺であることを邪魔させやしねぇ……ッ』
妖獣の執心する心臓の持ち主は、力を振り絞るように疾駆する。化物の爪を避け、高らかに飛翔した。そうやって、テメノスの前に降り立つ小さき獣に眼を見開く。己を庇い、守護させめんとしているのだ。
「猫さん……駄目です、私を庇っては……」
「にゃにゃにゃ……!」
テメノスがかろうじて手を伸ばすと、嫌だ、と頑なに首を振ってみせた。先ほどまで怖気や怯えを露わにしていた彼からは打って変わり勇敢だった。気高くもあった。
テメノスはそんな黒猫にどこまでも目を奪われたが、すぐに彼の無謀を食い止めなくてはならないという焦慮に駆られる。
「……ッに゛ゃぁ!」
猫の黒毛が逆立つ。昂りを体現するように波を描いていた。
彼の心が強く、果てしなく果敢なる佇まいであろうとも、彼の命はひとつしかない。風前の灯だった。
「……めて、ください……ッ、やめ、て」
懇願することしかできないのに、この嗚咽も叫びもないものとして扱われる。どうして、この身体は貧弱なのか。世の理不尽に晒されるのか。いいや、己は——どこまでも暗愚なのか。
『ククク……大人しく贄になるんだな』
狼の爪が黒猫を貫通した——
紫の影が視界の端から端を過った。瞬きするよりも速く。いいや、それよりも先駆けて、鈍く光るダガーがあの狼を牽制していた。斬られた分厚く黒い体毛が雲散した。テメノスは、あぁ、とつい力なく溢した。彼女は、いつも必要な時に裏切らない。
ひらりと着地するなり、呆気に取られたまま上空を仰ぐ黒猫に、テメノスはもう大丈夫ですよ、とそばで教えた。
妖獣は目玉をぎょろつかせ、忌々しげに舌打ちを吐き捨てた。
『なんだテメェは』
テメノスが信頼しているソローネという仕事人は、斬撃を花弁のように軽やかかつ最低限の動きで躱す。どこからともなく伸ばしたワイヤーを引き、壁を伝って高峰に上り詰めた。
彼女がここに来られるかは、賭けだった。妖獣の施した結界を見つけ出すことが出来ない可能性もあるからだ。しかし、それは杞憂に終わった。
夜風で被さってくる前髪を退け、抑揚のない片目が妖獣を見据えた。
「名乗る必要ある?」
ああ、これは。テメノスには彼女が何を思っているか、何となく読めていた。一言で表すのなら、冷徹だった。彼女は視線を留めたまま短剣を抜き取り、構えた。彼女の得意武器は銃でも手榴弾でもなく、このひときわ軽い得物だった。彼女は物心ついた時からリーチに乏しいが近接に秀でた、いわば闇討ちに特化した戦いの術を叩き込まれてきたという。
ソローネは血の繋がらない肉親を手ずから殺めた。暴力で御する母を、次に自身を目に掛け、教育を施した張本人でもある父を。その彼から上物の短剣を受け継いだ。なんでも彼がひと昔に任務中に手に入れ、長らく隠し持っていたのだという。渡されたのは死に際で、多くは語られなかった。
短剣は一見凡庸な形に見えるが、彼女が手にすることによっていっとう美しい輪郭を現し、柄に嵌め込まれている紫色の宝石が鋭く煌めいた。彼女の意思に沿っているかのように、剛気な爪を柔軟にいなしていった。
『クソ、お前もかよ……鬱陶しい!』
短剣の鍔に埋め込まれた小さな宝石の装飾が、化け物には目眩しに感ずるのか、その目を眇め、眉間には皺を刻んでいた。
「ツラだけじゃなくて声も可愛くないね」
一瞬一瞬の判断がソローネの強みだ。腰に携えた拳銃を分かっていたように一発、不意打ちで撃ち込む。脇腹に命中する。意図的に急所から外していた。
『ぐうぅ……ッ、灯火の奴隷共がアァ……!』
苦痛に顔を歪めながらも、追撃は躱す。ソローネは惜しい、と呟きながら次なる一手を飛ばす。
「ふぅん、案外反応が鈍いね。本領発揮できてない感じ?」
ソローネの放った手のひらよりも小さなダガーは、妖獣の後脚に命中し、闇の塵芥を撒き散らして深々と抉り抜いていた。
あれはテメノスもよく見る妙技だった。彼女が隠し持っていたそれは、投擲に特化しており、宵闇を物ともしない精度で狙い撃てる。
『ほざけ、クソアマが……ッ!』
「図星みたいだね」
ソローネは口元を緩めた。挑発が効いたことにしてやったりと得意になっているのだろう。
『俺だってなァ、心臓さえあれば——』
有無を言わさず銃声が、二発、三発。鈍い音が遅れて鼓膜に送り込まれる。煙火薬の匂いも等しく漂ってくる。
狼の呻吟が冴えた耳を打った。テメノスが確認できる限りでは、やはり銃弾がどこかに命中していて、奴もまた仰臥している。
ソローネはテメノスの想像を超えて強い。以前よりもずっと技量が増している。 互いの事情や職業を汲み、ソローネは自身の奥の手であり続けた。そんな彼女だったが、仮想めいた空間にも、妖獣にも見事に順応していた。
「……あんたさ。その首輪、誰から貰ったの?」 狼に目を凝らすと、なるほど分厚い体毛のおかげで首が隠れていたが、確かに輪が嵌められているようだった。それも大層窮屈な形だった
ソローネにもまた、首に枷があった。見てくれは窮屈な装飾品に思えるが、支配者に背けば針から猛毒が血管に送り込まれて、死に至る。
テメノスは今でもよく覚えている。父から鍵を奪ってくると告げて、一週間もしないうちに、自宅に転がり込んできたソローネのことを。随分と悄然とした姿だったのを放ってはおけるはずがなく、彼女が落ち着くまで話を聞くことはしないで、しばらくそっとしておいた——支配者を失い、裏社会で根を生やしていた【蛇】は瓦解したというが、依然として素性不明である首領の行方は分かっていない。
「うちのお供 を殺ろうとしたあんたを許す気なんてないけど」
少しご無沙汰な呼び方だった。彼女とほんの一瞬、視線が合わさる。
「人間でも妖獣でも、もう殺さないって決めたんだ」
ソローネは武器をしまった。もう戦う気は無いのだと示していた。
彼女らしい、と思った。妖獣は人間にとって災厄のような存在だが、彼女の裁定基準は別のところにある。
『……』
妖獣が慄いたような口を開きかけた直後、鐘の音が響いた。荘厳な旋律のような緻密な音色の絡まり合いは、夜明けを呼ぶ。
冴え渡ったのは、テメノスが側の壁伝いに、なんとか背中を預けられたちょうどその時でもあった。
『——時効だよ。来なさい』
誰かが呼んでいる。自分達に向けてではないと悟ったのはほぼ直感的なものだった。たった一言だが、狼の彼が発するにしては、鷹揚かつ人間然としている。
積み木のように崩れていた亜空間が、等しく早送りに組み立てられてゆく。不条理は抹消され、秩序で埋め尽くされ、自律を果たす。何も聞こえなかったはずの街道に、遠く車の過ぎ去る音や、人の気配が点在する。現世が返ってくる。まるで世界そのものの摂理が、常闇を間違いだとみなすように、すみやかに。
全てが修復される頃には、弱った獣は跡形もなく消え失せていた。
「……黒猫さん」
「にゃ、ぁ」
緊張が解けたのか、黒くて小さな猫はやおら瞼を落とし、テメノスの腕の中に行き着くと、穏やかな寝息を立てた。柔軟な身体が委ねられると、隙間から液体のように垂れ落ちてしまいそうだ。しっかりと抱き上げた。
牙を剥き出しにし、猫は高らかに鳴き続ける。首から尾にかけて針のように尖らせて威嚇している。総身から恐怖が色濃く浮き出ていた。
意を決するというよりかは、いい加減そうしなくてはならないという強制力をもってして上を向いた。
化け物がいた。
それは獣の形をしている。鳥やヒョウなどがいたが、耳が尖っており長い尾がある。なによりと、テメノスの記憶にあるものより一回りは大きい。
赤い目をギョロリと動かし、何かを探し回っているが、確実にこちらへ来ていた。
獣が咆哮を上げると、夜空は破れた。月と星は失せて、濃紺だけがある。キーンと耳鳴りがしたが、止んでからは鼓動の音がやかましい。
テメノスは無理矢理浅くなる呼吸を整え、びしょ濡れになった手のひらで滑り落としそうな端末を何とか繋ぎ止め、咄嗟に胸ポケットにしまい込んだ。
『フー……ッ』
獣は真っ黒だったが、舌は赤く、涎が滴り落ちた。
その闇で出来たような毛に覆われた指には剥き出しの鉤爪があって、それは容易に人の中心を貫けるだろうという確信を抱かせる。認めた時には目路をよぎる。ヒュ、と喉の奥に空気が抜けた。
雑木林が薙ぎ倒され、街路に横たわった。その衝撃で足底が浮きそうだった。
そう遠くないところに、黒い毛に覆われた足が地を踏み鳴らし、箱庭を飾っていたものは恣意的に再起不能にまで破壊されてしまう。
テメノスは土煙に咳き込みそうになるのを堪え、鋭い爪先が迫るより疾くと、黒猫を片腕に抱いて脱兎の如く駆け出した。逃げますよ、とも言ってられない。
闇に囲われては、人間はひたすらに喰われぬよう凌ぐしかない——そう遠くない過去に学んだ教訓である。
テメノスがかの異形の名を知ったのは、イェルクを殺した犯人・建築士ヴァトスと対峙した時だった。
かつての変死事件のようにイェルクの遺体の状態は到底人為的にも捉えられなかったが、何者かが侵入した痕跡が残っていたため、テメノスは証拠を辿り、言わせていた警部補のクリックと共に彼を追い詰めた。
建築士ヴァドスが爪で頭を掻き毟り、額を赤く染めながら、何かを呟いたのが不条理な夜の始まりだった。異形は突として舞い降り、目を剥く彼を喰らった。『妖獣』——人の世が生み出した禍。戦いの後、ほとんどが爛れてしまった黒い書物の読み解ける部分にはそう綴られていたが、その本当の意味は掴めていない。
テメノスが経験してきた共通の特徴ならいくつかある。
まず、その姿は獣のようだが、常に闇を纏っており、全容は不明な部分が多い。羽があれば飛ぶこともあるあたり、原型の獣の特徴は有している。
更には、人間の血肉に執心し残虐に喰らい尽くしてしまう。これが厄介で恐ろしいが、それだけではない。
闇を使役し、時間や空間の概念を無きものにする。咆哮がその合図だった。こうなると、恐らく外からは誰も干渉できない。
テメノスはこの妖獣を前にして幾度も窮地を潜り抜けてきた。
だがそれは、クリックやオルト達が背中を預けてくれたのが大きい。警官としての身体能力を兼ね備えていたとしても、一人で相手をするのは、到底、匹夫の勇だ。その上比類なき巨体。自ら命を捨てに行くのに等しい。今のテメノスは銃をもう扱うことができない。最後の頼みの綱も、置き去りにしてしまった。
「は……ッ」
滑るように辺りをかけずっても、暗い石道と雑木林が続いている。奴の動向を仰ぎながら先読みして動くが、見つかるのは時間の問題だと経験が言っている。
「……ッ」
一刻も早く、聖典を——考えが過るのとほぼ同時に、稲妻のような痺れる痛みが身体の伝線を迸った。テメノスは転ぶのを免れたものの、足をもつれさせた。燃えるような痛みが内側で暴れ回っている。 ぶわりと脂汗が湧き出す。
テメノスは鈍る五感に言うことを聞かせ、建物の裏に滑り込んだ。
また木々が踏み荒らされている。人間の匂いを辿るにしては、無造作な動きなのが不可解だった。
「にゃ……」
腕の中の黒猫は今に至るまでずっと震えている。それでも吊り目がちな瞳は憂慮を湛えて、テメノスをくっきりと映し出している。
「古傷が疼いただけです。大丈夫……」
安心させるために口にするのに、そのための材料に欠ける。暗示でしかなかった。
今もなお湧き出す雫が耳上のくぼみに滲んだ。
「みゃ、みゃ」
律儀に詰めをしまった黒猫の軟い手が、テメノスの右腕に擦り付いた。溜め込んだような呼気が冷たい外気にほどけた。
猫の主張するように、テメノスのそこは激しく痛んでいた。治療は済んでいるが、思い出したように疼くことがあった。夜に突然吹き返すこともあるし、今のような状況下であれば、避けようがないものだった。
カルディナとの激戦によって、テメノスは腕を負傷していた。 銃で撃たれたわけでも、刃物で傷をつけられたわけでもない。漆黒の牙がテメノスに噛み付いたのだ。皮膚を裂き、肉を抉り抜いた。果てしない渇きのままに、人のなれ果ては食らおうとしてきた。
女は、一度人間を辞めた。妖獣になったのだ。正確には、取り込んでいたのだろう。テメノスにはそう見えた。
夜の書——あの女はそう言っていた——を片手に連ねた詠唱が、鴉の群れのような闇の煙を噴き出し、目を剥いた女を蝕んだ。
肉や骨の音を立てて彼女の身体は作り替えられていった。灰色の長い髪が、警視庁の隔離された地下室の石床に散乱した。生命への冒涜に等しい工程は、到底、現世に生きる真人間が受容できるものではなかった。
テメノスの脳裏に、一種の諦念が閃光のように突き抜けた。悪夢のような様相は、この腕が痛むたび吹き返す。「……んにゃ?」
怖いのか? 猫はテメノスに問いかけている。そんな確信めいたものを感じさせるのは、この子が聡いからなのだろうか。それとも、そう思いたいからなのか。
妖獣とテメノスが立ち向かうべき大きなヤマは切り離せない。この先だって、こんな窮地には立たされるだろう。黒猫を見た。
「私はこんなところで立ち止まってはおられないのです」
汗を拭い取り、テメノスは気丈に見せようとするが、白い歯を覗かせるのが精一杯なことに気付かされるだけだった。黒猫は瞬き、今度は胸板に齧り付いた。
「にゃ、にゃぁ」
尾が手の甲を叩きつけた。動物相手に感情が分かるというのも奇妙な話だが、彼は今し方、確かに何かを伝えたがっていた。
『……ノス!……聞いてるかい⁉︎』
「……え?」
怒声が鼓膜を揺さぶった。まさかと思いテメノスはスマホを見遣った。
通話中と表示された画面。押し寄せてくる雪崩のような安堵と疑問を憶えかけたが、黒い獣がこちらに近づくのに伴い、方角を変えた。黒猫が肩に乗り上げてきた。テメノスは落ちないかと危ぶんだが、彼はちゃんとついてきた。
聡明な子だ。腹の負傷で早く動き回れないという己の現状をよくよく理解した上で、自身を頼っている。
妖獣は遮蔽物を破壊しては、その辺りを
「ソローネ君!」
潜めた声を極限まで引き上げて、彼女に呼びかけた。
テメノスは妖獣の形成する特殊な領域が、電波を寄せ付けないことをよくよく知っていた。ゆえに単独でこの窮地を脱する術は、ひたすらに凌ぐことだと裁定を下していた。
藁にもすがるような思いの末、安堵の深い溜息をこの耳はしかと拾い上げた。
『ようやく繋がったか……あんたが前に話してた、妖獣とやらが現れたんでしょ?今、そっち向かってるから』
なぜ、彼女と繋がったのか。居場所まで特定できるということは、GPS経由か——テメノスは際限のない疑問に蓋をした。代わりに、どっと疲れた後に発するのに近しい、掠れた音色が這い出た。
「……聖典を置いてきてしまいました」
この領域の中心部、ベンチの下に革鞄がある。家族の形見であり、力を与えてくれた、聖典があそこにあるのだ。
『生きてるなら取り戻せるよ。それよりも、時間を稼ぎな』
ソローネはこういう時、責めることはしなかった。そうする猶予があるなら、次の打開策を打ち出す。テメノスの少ない情報から、状況を読み取ってみせることもした。瞬間瞬間の判断力の精度は彼女の右に出るものはいない。
「分かりました」弱音は要らない。テメノスは必要最低限を打ち出し、彼女に伝えることにした。こうしている間にも、巨大の妖獣は木々を雑草のように掴み掻き分け、中を弄っていた。
肩にしがみついていた猫を落ち着かせてやるように撫でたが、濡れた手のひらを拭いているようでまるで形を成さない。生ぬるい空気を吸った。
「……妖獣は辺りを破壊して回っています。カルディナ以上の巨体ですが、挙動がおかしいです」
『おかしいって何さ』
妖獣は皆、獣の優れた五感を兼ね備えている。だが此度は違った。まるで虱潰しだ。
「奴の感覚が鈍いのか、手当たり次第に破壊している……そんなふうに見て取れます」
『ふうん。好都合だろうけど、探し回る能はあるのか』
己の不能を喚くでなく、別の手段を選び取る。理性を失くした獣のすることではない。彼女の考察は正鵠を射ていた。
ソローネは元掃除屋というだけあって、卓越した身体能力を持つ。彼女の助力が今、喉から手が出るほど欲しい。
「時間はそう残されていません。ソローネ君、後どれくらいで——」
「にゃお!」
猫が鳴いたのと、妖獣が顔を上げたのはほぼ同時だった。こちらへ向かってくる。テメノスは再び地を蹴った。画面の光をスーツに押し付けて隠す。くぐもった返答が返ってきた。
『今、面倒なルートをゴリ押しで飛ばしてるけど。あと五分はかかるよ」
五分、五分。反芻して、口端が引き攣った。テメノスがいらえるより先に、黒猫は包帯の巻き付けた身体を跳躍させていた。軽やかな四つ脚を駆使して、一目散に駆け出してゆく。
「どこへ行くのです……!」
職務や冷静さを保っている己であれば、猫の一匹、あのまま逃し、己が生き残ることを先決としたかもしれない。
だが、テメノスはそれを許せなかった。例え小さな命だとしても、己にこびりついた呵責が微塵の逡巡も打ち砕いては、急かす。
葉が降る。楠の大木が崩れ落ちるのを、その猫は身軽さを活かして迷いなく先を行った。そしてほんの一秒も要さずにそれは傾斜にぶら下がった。精密な判断だった。
次々と悪路へと移ろう街路樹を、猫は未だ疾駆していた。テメノスはつんざく獣の汚い咆哮に鼓膜を破られそうになりながら、敏捷する黒い輪郭を見逃さぬように目を凝らし続けた。
黒猫は目的のベンチを見つけると、良かったとでも言うように小さく鳴いた。息を切らして追いついたテメノスは、小さくて優しい動物の起こした行動に胸を打たれたままではおられなかった。上空の大きな闇塊は許してくれなかったのだ。
『……ああ、やっと見つけた。そこにいんだろ、兄弟』
化け物の口調は喜悦を表すように細やかな震えを孕んでいた。硬いアスファルトにドス黒い杭が打たれ、歪んだ。猫は瞬時に後転した。威嚇の体勢を保ちながら、脚は怯懦を誤魔化せずに震えていた。
狙いは、この黒猫だった? それに、言葉を使う妖獣は稀だ。該当するのはカルディナくらいだが、それでも正気を失っており飛び出すのは呪詛だった。
『お前のせいで目も鼻も効かねえんだわ……最後のひとかけら、寄越せよ』
妖獣は手のひらと名状するには物々しく爪を剥き出しにした、五指で促した。黒猫に向けて。
「にゃ……」
黒猫は押し付けられた太い指を押し返そうと試みていたが、そうは出来ず、後退した。色濃い戸惑いがありありと窺えた。状況がのめていないように映る。
『本当、随分と貧弱になったよな』
呆れたように妖獣は溜息ひとつ吹きつけて、小さな黒猫を指で摘み上げた。
「ぅ゛、にゃぁ……ッ!」
吊るされた黒猫は踠くが、到底離れられない。ぎょろりとした赤いまなこに黒猫を宿し、一通り観察した化け物はせせら嗤う。
『クク、ざっこ。ちっせえし鳴くしか能がねぇじゃねえか』
ぶらりと振り子のように猫は揺さぶられていた。テメノスは腹底から怒りが沸々と迫り上がってくるのを覚えて、堪えた。
感情に乗っ取られては何も成せない。
「にゃ、あぁ゛っ」
猫は爪弾く要領で草地に投げつけられ、身体をぶった。柔軟な受け身を取っていたが、腹の傷から響く痛みに呻いていた。
『しぶとく生き延びていたみたいだが、これならいない方がマシじゃねえの?』
ベンチ下に素早く腕を潜り込ませ、革の触れ心地を我が物とする。ここで無碍にする気はない。
「にゃ、にゃあぁ」
黒猫はよろけながらも、妖獣に向かって気丈に鳴いていた。テメノスには分からない異種族の意思の疎通を交わしている。
『あン? とぼけんじゃねえ……ああ、そういうことか」
妖獣は頭を低くすると狼にも似ていた。黒猫の目と鼻の先に醜悪な闇の形相をこれでもかと寄り付かせ、ひとりでに得心したような素振りを見せた。
「にゃぉ、にゃ、にゃあ!」
『テメエが抜け殻でも心臓は嘘をつかねぇ。そうだな、せめての慈悲に痛くないように一瞬で殺してやっても良いぜ——そこのヒョロガリと一緒にな』
「……っ」
炯眼がテメノスを射抜いた。明確な殺意によって、末端まで凍りつく寒気が過ぎる。背後に隠した聖典を滑り落とさぬように力を込めた。
やはり、カルディナを計略に嵌めた人物と、この妖獣と。世の裏側に蔓延る組織が確かに存在するのだ。テメノスは密かに固唾を飲んだ。
『お前、例の刑事だろ』
闇の形に馴染んだ声の音を操り、異形はテメノスの驚きや推察を丸々と嘲るようにのたまった。
そうして弱者をなぶるための爪先を黒猫の首に当てがった。
呼気を吐き出す。嫌な夜風によって前髪が目元を遮った。
「元刑事ですが……ご存知ですか」
狼男の化身のような妖獣は、うんざりしたような口調でいらえた。
『
飼い主。初めて耳にする言葉だ。名前も規模も分からない、組織の首領か。
確かめたいことは多くあるが、テメノスは聖典を表に露わにさせた。わななくような唇は噛んで誤魔化す。妖獣の顔つきが目に見えて変わった。
『チッ、そういうことか……あの野郎、騙くらかしやがったな……あとで刺す』
暗く澱んだ巨躯の内側に籠らせるには、やや大きな呟きが耳を打つ。
「……あなたが、何を目的としているかは計りかねますが」
ロイ、イェルク、遥か太古から我らを見守る聖火神エルフリック様。私は信徒として従順だったあの頃には戻れない。縋るように聖句をなぞっても、信じたものは戻ってこなかったのだから。私は、私の行くべき道を拓くために祈りを捧ぐ。聖典を開くたび、テメノスはいつもこの祈りを胸の内で唱える。
「彼は私の友人です。解放してください」
彼らからの贈り物であり、使命を果たすための導でもあった。聖典は浮き上がり、テメノスの手のひらに重さも古さも覚えさせない。ほのかに温かい煌めきの粒子が舞う。
聖なる盾よ。尊き命を守り賜え。それは囁きのように滔々と連ねられ、世には存在しなかった古い魔の根源を呼び覚まし、緻密に組み上げてゆく。
「みゃ、みゃお!」
黒猫が駆け出した。闇の獣が爪を突き立てるが、テメノスの聖句が加護をもたらし、それらを全て弾いた。
「にゃっ、にゃあ!」
妖獣の猛攻から黒猫を守り切った。自身めがけて一直線に飛び込んでくる彼を受け止め、この両腕で包んでやれる小さな温かさを頬に感じた。テメノスは心底胸を撫で下ろす。
「……良かった」
遅れて、腕が軋んだ。テメノスは小さく唸ったが、激痛を噛み殺し、心配させまいと撫でた。
脂汗が背中を舐める。
聖火神の奇跡も対価無しでは打ち込めない。それが回ってきたのだ。魔法が潰え、御伽話と化した時代にこれを扱うのは手重い——だがそれよりも、テメノス自身の問題だったろう。ほんの、ほんの少し前まではクリックやオルトの隣で毅然と戦えていたのだから。
異形が逆上することも覚悟したが、当の彼は三日月よりも赤目を細くし、嗜虐的を湛えた。
『なんだ、顔色が悪いぜ? もう次は撃てねえんだろ。無理すんなよ、なァ?』
「にゃ……ッ!」
斬り込まれた大木がテメノスに迫る。すんでのところで跳躍した。
「……ッ!」
距離を取り、遁走を図る自分達を、狼の妖獣は追ってきた。荒ぶ闇の残滓が追い縋り、足首や頸に纏わりつく。いつ足を引っ掛けてもおかしくない悪路を、テメノスはひたすらに駆けた。木々はもうそこらじゅうに散らばっていて、ともなると、強固な建物に紛れるしかない。
奴が自分から明かした視覚や嗅覚の鈍さに賭けていた。
だが、悪魔のような獣は味を占めたのか、的確に狙いを矯めるべく努めている。あろうことかその身を縮ませて、建物の隙間をすり抜けて吠え散らかす。煙とも雲とも言えぬ闇の塊が波のように押し寄せ、テメノスの背中を嘲笑った。
肺が絞られ過ぎて気道が焼き切れそうだ。まだ走らねばならないのに、錘となった我が脚は油断すれば膝ごと崩れ落ちてしまいかねない。酸素を必死に取り込むが、堪えきれずえづいた己を、黒猫の柔らかい毛が労るように触れた。
「はぁっ……は、あぁ、すみませ……っ」
原型を留めていない捻じ曲がった看板の支柱に身体を預け、喘鳴の息遣いで黒毛を揺らした。
どういうわけか、化け物に命を狙われている黒猫。彼自身も、その訳を理解できていないように見える。妖獣の手のひらにも満たない小さな生物だとは思えない賢さや複雑な感情を有していて、テメノスをずっと心配している。見限って、離れてくれてもいいのに、今もずっとくっついていた。
守らなくては。その使命感は、焦燥となり、テメノスから冷静さを奪ってきた。
「にゃ……」
視界に砂がかかっている。思ったよりもこの身体には負荷がかかっているようだ。
腕が熱を持ち、脈打っている。駄目だ。次に聖典を開けば、間違いなく昏倒する——
『人とは無力なものだ、テメノス。それゆえに、何かに縋らずには生きられん』
カルディナが放った言葉が、彼女の声で頭の裏に響いて回った。
力無きは無価値。彼女は頑なだった。
テメノスは断罪したが、縋る先をどうにかしてそばに置いておきたいという面においては、あの女と同じかもしれなかった。
縋る先は、すなわち光だった。手を伸ばす代わりに、どうにかして、懐かしい声を引き摺り出した。
『君は賢いし、いつだって落ち着いてるね。時折思うんだよ。もしかしたら、君ならって——』
違うんだ、ロイ。このちっぽけな頭だけではどうにもならない。私は今も間違えているのだから。彼にそう伝えたいが、命の終わりは二人を分つ。永遠にこの手を届かせなくする溝、あるいは果てなき絶壁だった。それでも、彼らに通じなくても、テメノスは。
「猫さん、私は言いましたよね。こんなところで、立ち止まってはいられないと」
捨てられない、過去と確執。きっと執着すること自体が、己を生者たらしめている。
「みゃ?」
化け物の身体が膨らむ。大きな闇が自分達を爛々と見下ろしている。死角に回り込むのはもう難しくなった。
黒猫が肩に回り込んだ。腕を強く掴んだ。痛みが、現世に取り残された己に何をなすべきかを現しめる。
「諦められない。必ず、全てを解き明かすまでは……」
彼らに、報いるまでは。
聖典に刻まれた文字を、テメノスは読み取ることができないはずだった。
だが一度開き、突き動かされるままに捲れば、聖火神の灯火を思わせる青い粒子を纏わせた聖句が、頭の中にすぐ浮かんでくる。
「うみゃ、にゃお」
黒い体毛すら塗り替える輝きを浴び、猫は驚いたように鳴いた。前脚をそっと伸ばすと、触れたところからぶわりと煌めきがあぶれる。
『その古臭え聖典——』
大きくなった妖獣は低く吐き捨て、手のひらがどこぞの屋根を鷲掴みにした。容易く握り潰され、木片が霰のように降り注ぐ。
文字を認識しようとすると、目の前が眩む。一種の神々しさに反して、指先は痺れ始めていた。
『選ばれたことを後悔させてやるよ。ああ、死んじまったら意味ねえか』
月が無くなった紫煙揺蕩う曇天に、狼の鉤爪がギラつく。振りかぶる手前、テメノスはまなじりを決した。
最初から、これしか手立ては残っていない。
「にゃ、にゃ……ッ!」
浮き上がる文字をなぞる指先に、柔らかいがしっかりとついてくる猫の手がある。まっすぐな瞳と視線を重ね、テメノスは頷いた。
「……私は、私の真実を、貫く」これが私の、生き方だ。意味のない譫言になっても、脳髄の奥の奥まで埋め込んでやる。
一匹目掛けて鋭いひと薙ぎが飛来する。やけに遅く見えるのはきっと気のせいなどではない。命はすぐそばまで脅かされているのだ。鼓動が鳴る。辺りが凪いでいる。静かな呼吸の音まで内側に届く。まだだ。確実に撃ち抜かねば、逆に殺される。
古の詠唱がどんなものだったかは定かでない。時代を追うごとに長くなっていったとも聞く。
「聖火の光よ、輝きたまえ! 万物を照らし、ッ、邪悪を、打ち払い、たまえ——」
己の心身を削った詠唱は、組み上げるたび喉奥が張り裂けんばかりの鋭い針が突き刺さるようで、形の歪な砂山のように崩れてゆく。半分は失敗だった。間もなく前後不覚になる。それでも聖典は主から離れ、白い光輪から奇跡を顕現させた。
「んにゃあぁ……!」
未完成系の詠唱の対価のせいで、テメノスにはもう、ろくに首を動かす力もないが、それでも自身の側で漆色を仰いでいる子猫の様子ははっきりと認識できた。
そのまろくて強い意志を宿す宝石のような目に、無比たる強靭な黄金の槍が闇の塊を貫くさまが映り込んでいた。
『オイ、痛えじゃねえかよ……』
闇の化身たる妖獣は生きていた。確かに神の捌きは通っていたが、身体を縮ませることで命拾いしたようだった。胸上から前足の付け根にかけて千切れていた。当たる場所が異なれば、風穴となっていたろう。
土煙を掻き分け、瓦礫の上を這い、彼は黒猫を睥睨した。眼光と殺意を保ったまま、鋭いつま先を差し向けた。
「にゃ……」
黒猫の顔つきに恐怖が浮かぶ。テメノスは彼を何とか助けてやりたいのに、指先一つ動かすのもむつかしい。
『クソ猫に白髪。お前ら諸共八つ裂きにしてやる』
あと、もう少し。もう少しのはずだと負け惜しみのように唱える己は無様に違いない。
腕に乗っていた長い尾が密やかにうねっていた。正確には、血や脈の流れを感じたのかもしれない。そして彼の心の奔流でもある。
「んにゃ、にゃあ、にゃ」
猫は精一杯に鳴いていた。狼は地を蹴り付け、獲物を噛み砕くための尖った歯の奥の口腔さえ見せつけ、吠えた。
『黙れ、人間にしか頼れねえ愚図が。今更殊勝ぶるなッ!』
「……っ!」
テメノスはただ、動くことを放棄した身体を横たえたまま、かろうじて働く視覚や聴覚で目の前の出来事を受け止めるしかない。
黒き猫は狼の足蹴りで弾き飛ばされ、倒壊した家の残骸に飛び込んだ。奥に埋もれ、身動きが取れないだろうと思うと、臓腑を冷たい感触が舐め回す。
『俺は俺だ。もう誰にも俺であることを邪魔させやしねぇ……ッ』
妖獣の執心する心臓の持ち主は、力を振り絞るように疾駆する。化物の爪を避け、高らかに飛翔した。そうやって、テメノスの前に降り立つ小さき獣に眼を見開く。己を庇い、守護させめんとしているのだ。
「猫さん……駄目です、私を庇っては……」
「にゃにゃにゃ……!」
テメノスがかろうじて手を伸ばすと、嫌だ、と頑なに首を振ってみせた。先ほどまで怖気や怯えを露わにしていた彼からは打って変わり勇敢だった。気高くもあった。
テメノスはそんな黒猫にどこまでも目を奪われたが、すぐに彼の無謀を食い止めなくてはならないという焦慮に駆られる。
「……ッに゛ゃぁ!」
猫の黒毛が逆立つ。昂りを体現するように波を描いていた。
彼の心が強く、果てしなく果敢なる佇まいであろうとも、彼の命はひとつしかない。風前の灯だった。
「……めて、ください……ッ、やめ、て」
懇願することしかできないのに、この嗚咽も叫びもないものとして扱われる。どうして、この身体は貧弱なのか。世の理不尽に晒されるのか。いいや、己は——どこまでも暗愚なのか。
『ククク……大人しく贄になるんだな』
狼の爪が黒猫を貫通した——
紫の影が視界の端から端を過った。瞬きするよりも速く。いいや、それよりも先駆けて、鈍く光るダガーがあの狼を牽制していた。斬られた分厚く黒い体毛が雲散した。テメノスは、あぁ、とつい力なく溢した。彼女は、いつも必要な時に裏切らない。
ひらりと着地するなり、呆気に取られたまま上空を仰ぐ黒猫に、テメノスはもう大丈夫ですよ、とそばで教えた。
妖獣は目玉をぎょろつかせ、忌々しげに舌打ちを吐き捨てた。
『なんだテメェは』
テメノスが信頼しているソローネという仕事人は、斬撃を花弁のように軽やかかつ最低限の動きで躱す。どこからともなく伸ばしたワイヤーを引き、壁を伝って高峰に上り詰めた。
彼女がここに来られるかは、賭けだった。妖獣の施した結界を見つけ出すことが出来ない可能性もあるからだ。しかし、それは杞憂に終わった。
夜風で被さってくる前髪を退け、抑揚のない片目が妖獣を見据えた。
「名乗る必要ある?」
ああ、これは。テメノスには彼女が何を思っているか、何となく読めていた。一言で表すのなら、冷徹だった。彼女は視線を留めたまま短剣を抜き取り、構えた。彼女の得意武器は銃でも手榴弾でもなく、このひときわ軽い得物だった。彼女は物心ついた時からリーチに乏しいが近接に秀でた、いわば闇討ちに特化した戦いの術を叩き込まれてきたという。
ソローネは血の繋がらない肉親を手ずから殺めた。暴力で御する母を、次に自身を目に掛け、教育を施した張本人でもある父を。その彼から上物の短剣を受け継いだ。なんでも彼がひと昔に任務中に手に入れ、長らく隠し持っていたのだという。渡されたのは死に際で、多くは語られなかった。
短剣は一見凡庸な形に見えるが、彼女が手にすることによっていっとう美しい輪郭を現し、柄に嵌め込まれている紫色の宝石が鋭く煌めいた。彼女の意思に沿っているかのように、剛気な爪を柔軟にいなしていった。
『クソ、お前もかよ……鬱陶しい!』
短剣の鍔に埋め込まれた小さな宝石の装飾が、化け物には目眩しに感ずるのか、その目を眇め、眉間には皺を刻んでいた。
「ツラだけじゃなくて声も可愛くないね」
一瞬一瞬の判断がソローネの強みだ。腰に携えた拳銃を分かっていたように一発、不意打ちで撃ち込む。脇腹に命中する。意図的に急所から外していた。
『ぐうぅ……ッ、灯火の奴隷共がアァ……!』
苦痛に顔を歪めながらも、追撃は躱す。ソローネは惜しい、と呟きながら次なる一手を飛ばす。
「ふぅん、案外反応が鈍いね。本領発揮できてない感じ?」
ソローネの放った手のひらよりも小さなダガーは、妖獣の後脚に命中し、闇の塵芥を撒き散らして深々と抉り抜いていた。
あれはテメノスもよく見る妙技だった。彼女が隠し持っていたそれは、投擲に特化しており、宵闇を物ともしない精度で狙い撃てる。
『ほざけ、クソアマが……ッ!』
「図星みたいだね」
ソローネは口元を緩めた。挑発が効いたことにしてやったりと得意になっているのだろう。
『俺だってなァ、心臓さえあれば——』
有無を言わさず銃声が、二発、三発。鈍い音が遅れて鼓膜に送り込まれる。煙火薬の匂いも等しく漂ってくる。
狼の呻吟が冴えた耳を打った。テメノスが確認できる限りでは、やはり銃弾がどこかに命中していて、奴もまた仰臥している。
ソローネはテメノスの想像を超えて強い。以前よりもずっと技量が増している。 互いの事情や職業を汲み、ソローネは自身の奥の手であり続けた。そんな彼女だったが、仮想めいた空間にも、妖獣にも見事に順応していた。
「……あんたさ。その首輪、誰から貰ったの?」 狼に目を凝らすと、なるほど分厚い体毛のおかげで首が隠れていたが、確かに輪が嵌められているようだった。それも大層窮屈な形だった
ソローネにもまた、首に枷があった。見てくれは窮屈な装飾品に思えるが、支配者に背けば針から猛毒が血管に送り込まれて、死に至る。
テメノスは今でもよく覚えている。父から鍵を奪ってくると告げて、一週間もしないうちに、自宅に転がり込んできたソローネのことを。随分と悄然とした姿だったのを放ってはおけるはずがなく、彼女が落ち着くまで話を聞くことはしないで、しばらくそっとしておいた——支配者を失い、裏社会で根を生やしていた【蛇】は瓦解したというが、依然として素性不明である首領の行方は分かっていない。
「うちの
少しご無沙汰な呼び方だった。彼女とほんの一瞬、視線が合わさる。
「人間でも妖獣でも、もう殺さないって決めたんだ」
ソローネは武器をしまった。もう戦う気は無いのだと示していた。
彼女らしい、と思った。妖獣は人間にとって災厄のような存在だが、彼女の裁定基準は別のところにある。
『……』
妖獣が慄いたような口を開きかけた直後、鐘の音が響いた。荘厳な旋律のような緻密な音色の絡まり合いは、夜明けを呼ぶ。
冴え渡ったのは、テメノスが側の壁伝いに、なんとか背中を預けられたちょうどその時でもあった。
『——時効だよ。来なさい』
誰かが呼んでいる。自分達に向けてではないと悟ったのはほぼ直感的なものだった。たった一言だが、狼の彼が発するにしては、鷹揚かつ人間然としている。
積み木のように崩れていた亜空間が、等しく早送りに組み立てられてゆく。不条理は抹消され、秩序で埋め尽くされ、自律を果たす。何も聞こえなかったはずの街道に、遠く車の過ぎ去る音や、人の気配が点在する。現世が返ってくる。まるで世界そのものの摂理が、常闇を間違いだとみなすように、すみやかに。
全てが修復される頃には、弱った獣は跡形もなく消え失せていた。
「……黒猫さん」
「にゃ、ぁ」
緊張が解けたのか、黒くて小さな猫はやおら瞼を落とし、テメノスの腕の中に行き着くと、穏やかな寝息を立てた。柔軟な身体が委ねられると、隙間から液体のように垂れ落ちてしまいそうだ。しっかりと抱き上げた。