探偵と黒猫(仮)
【元警視長カルディナ氏の汚職事件。次々と明らかになる隠蔽——白日の元に晒された警視庁内部の腐敗。その実態に迫る】
明滅するテロップが目の奥に痛い。聴き慣れたオープニングが流れたのち、ニュース番組が始まった。最近ベテランから交代したばかりの進行役のキャスターが、どこから持ってきたのか、内部に主に同性の崇拝者を集めていたころのカルディナの写真と、その経歴が映し出されたモニターを背に澱みなく解説を始める。
警視庁の責任問題。組織の立て直し。こめかみの奥が痛むような羅列にほんの少しだけ視線を滑らす。彼らは遠い星に目を凝らしていた。遅延する信号を受け止め、電波を通じて知らせるが、テメノスにはどこまでも過去であり、表面的であった。脳の奥らしき部分が、冷めていく心地がする。
今のカルディナは、こんなものじゃない。年月をかけて澱み切った瞳、何かの代償のように窪み始めた下瞼、手入れなど念頭にないために揺れる蓬髪。女の手のひらからは古びた血の匂いがして、テメノスは化け物の一部を真っ赤に濡らした相手のことを思うと、いっときは我を忘れかけた。
カルディナは澱みを澱みと解らぬまま育ち、力に固執し、それを正しいと思い込み、誰にも指摘をされなかった——哀れで歪な女だ。
檻の中の哀れな女を見るのは終いだ。テメノスは仕事用とは別に持ち込んできたスーツケースに元々対して多くもない荷物を詰め込んだ。
モニターの中身は相変わらず忙しなく動き回っていた。どうやらどっぷり討論会までやるらしい。仰々しい円卓にコメンテーターから話題のモデルまで、老若男女が揃い踏みだった。『元関係者によりますと、彼女に傾倒する人間が警視庁内部には少なからず存在していたそうですが……カルディナ氏は気に入らない人間を手回しして左遷させたり、辞職に追い込んだりしていたという黒い噂も絶えないようでした。これもまた内部告発の要因の一つとして数えられると考えられますね』『カルディナ氏取り調べの際、反社会組織との繋がりに関しても仄めかしているとのことで、続報が分かり次第お知らせします』ちょうど警察の内情に詳しいという、専門家とやらが滑舌悪く何か言っているが、誰かが息の根を止めた。
辞職者がべらぼうに増えるのに、仕事は絶えない。慌ただしく課長が去ってから、捜査課の一室には自分以外誰も居ない。重たくない鞄一つ肩にかけてあとは部屋を出るだけだった。だが——気を抜いていたのが仇となってしまったようだ。
「……おや、オルト君。もう戻ってきたのですか」
リモコン片手に、随分と険しい顔つきだ。並大抵の部下であれば震え上がるに違いなかった。同時に色濃い疲労が滲み出ており、年に似つかわしくない皺が眉間に深々と刻まれている。
「——俺が席を外している間に姿をくらます算段だったか、テメノス警部よ」
オルトから大学病院に同伴するよう誘われていたが、テメノスは断った。もう、あそこに拘泥する必要はない。けじめだった。
「はて、何のことですかね。今日は早く上がっていいと言われただけですよ」
懐に隠していた封筒を引っ張り出し、仰々しい扉を叩いたのは、今から二週間ほど前のことだが。
人事と話をしたのは、確かにオルトが持ち場を後にして程なくだった。
取り繕った返答を寄越すには、相手が悪いだろう。ここは嘘や欺瞞を見抜くのに長けた鼻の良い犬ばかりいるのだから。無論、鈍り切って馬鹿になったのも、つい最近まで大勢いたわけだが。
「例の変死事件の捜査中止は、俺が異議を申し立てているところだ。辞めるのは早計だ。考え直してくれ……」
オルトは縮れた前髪をくしゃくしゃに掻き乱して言った。「上は何を考えているんだ」と苛立ったように呟き、机を殴りつける——彼らしくない狼藉ぶりだが、ここ最近になって、彼をそばで見てきたテメノスは若き男の心労を慮《おもんばか》り、咎めてやる気にはならなかった。
視線を這わす。慣れてきた紙臭い部屋。いつしか、あの青年がよく出入りするようになって、仕事道具まで勝手に引っ越してきた。実直で、時折おちょくれば反応の良い彼を、テメノスは内心では徐々に好ましく思い、受け入れるようになっていった。
短くも過密な日々はもう胸の奥にしまおう。あいにく、今はオルトに用意してやれる紅茶も珈琲もない。腰を据えて話すより、身支度を整えていとまを告げるのが良い。「……お気持ちはありがたいのですがね」
オルトは一時期こそカルディナの派閥に属していたが、彼女の愚行を前に心を入れ替え、離反した。今は警視正に昇格されている。今後は、彼が組織の立て直しに尽力する要となるだろう。
「上層部が中止を取り消すことはないでしょう。あなたもそれはよく分かっているはず。期待するだけ無駄というものです」
此度の捜査中止。理由を訊けば、皆一様に口を閉ざす。カルディナを誘導した人物も然り、何者かの思惑がうごめいている。
今の警視庁に留まるべきじゃない。これがテメノスの下した裁決だ。
願いを込めてオルトを見据えれば、彼はあからさまに動揺を呈した。部屋の扉を潜りたくて、彼の側とすれ違う。
「本当に、辞めるのか……テメノス警部」
彼には、悪いと思っている。組織の禍根を払拭する手助けをしてやれたら良かった——だが、正義を見失わなかった彼ならきっと。
オルトが内なら、テメノスは外から根を燃やす。
「私はもう警部でもなければ刑事でもない。それが答えですよ」
ドアノブを捻るが、すかさずオルトが強く腕を掴み、阻んだ。
「身を挺してまでお前を信じ抜いたクリックはどうなるんだ」
震えるな、と唱えた。そのために必要な科白は、この脳の芯に至るまで、覚え込ませてきたのだ。
ふと蘇ると安らかな寝顔しか浮かばぬ青年の事を、今は記憶の奥底にしまい込んだ。
「これは彼らのためでもあるのです。どうか止めないで、オルト君」
手首を捻ると、汗ばんだ彼の肌から抜け出すのは容易かった。
寂れたような廊下を抜ける過程においても、オルトは隣を追ってきた。
「……お前はどこまで知っている? 俺では、頼りないか?」
碌に誰も通りかからないが、オルトは潜めた声で問うた。これがクリックだったら、もっと怒っていただろうか。今となっては分からない。
オルトは流石と言うべきか、目敏い男だった。テメノスはこの数ヶ月、巣箱の中に大人しく篭っていたわけじゃない。元より奇人扱いされ、周囲とは距離が空いていたテメノスであるが、更に遠巻きにされるか、悲嘆に暮れていると思われていた。ついに誰も話しかけてこなくなったが、それも好都合と捉えていた。自由に動けるのは良い。
検察官を招致し、証拠の提出を行う一方で、水面下でカルディナが警視庁の地下室に隠していた書物について調査を進めていた。
「あなたは、組織に必要な人ですから。私は、私の務めを果たす——行くべき道がちょうど今、分かれただけです」
なんとも呆気なく、侘しいものだ。世話になったと、告げる相手も見つからないのは。
それでもオルトは、最後までついてきた。元より部署の違った彼とはまともに関わるようになってそう長くない。それでも穢れた経路の終着地で、テメノスと共にカルディナを討ったのは彼だ。告発、証拠を叩き出すのにも、クリックの遺した記録と、彼の助力が無くては成し得なかった。感謝しているのだ、本当に。
「お世話になりました。あとのことは、よろしく頼みます」
オルト、警視庁に向けて深々と頭を下げてすぐに、手を握り合った。
「テメノス、俺は……必ず、お前に追いついてみせるからな」
待っています、とも、ありがとうとも言えなかった。奇しくも彼は、あのクリックの親友なのだと今し方痛感した。悩んでいる間もなく、テメノスは曖昧に微笑んだ。この口から飛び出したのは、随分と白々しい台詞だった。
「また、会えることを願っていますよ」
雨模様の曇天が、ぽつりと涙を溢した。
◆
使い込まれた黒い傘を雨粒がとめどなく滑ってゆく。しとやかな音色、足首が立ち所に冷たさを帯び、水溜りを踏み締めると靴底からじんわり雨水が染み出してくる。灰の高層ビルの元の形が分からなくなるほどぼやけるまで、後ろを振り返りはしなかった。バッグで雨を凌ぎながらバスに駆け込む学生を避け、バリカーの脇を抜けた。味気ない濡れたアスアスファルトから一転、土と緑が色濃く漂う大きな池を前にして、深いため息が、ひとつ。
いつも静かな雨の日は思い出す。
棺に眠る彼を見送った日のことを。
テメノスにはロイという唯一無二の友がいた。孤児だった自分たちはE国の教会で共に過ごしてきた親友、家族のような間柄だった。父親代わりのイェルクと三人でJ国までやってきても、二人は変わることなく、ずっと一緒だった。
イェルクが当時警視監の立場にあるという影響もあり、共に警察学校に通い、晴れて警視庁勤めとなった。ロイは刑事課、自分は交通課だった。
互いに喜びを分かち合い、苦難の時には励まし合った。ロイは多くの事件に携わり、その活躍は自分の耳にもしばしば届けられる。
ロイの方はとりわけ多忙の身だったが、時間の合間を見つけてはテメノスにいろんな話を聞かせてくれる。
彼が親友であることが誇らしかった。心から敬愛していた。
ロイの訃報は、本当に突然だった。
刑事としての使命を全うし続けること四年。彼は、殉死した。誰構わずといっても良いほど慕われる彼だ、葬式には同職の者たち、事件で関わった者たち、テメノスの知らない顔ぶれも多く参列していた。生前の彼の善性や強い正義感に救われた者たちが多くいる証だった。
『御心が天に行われるように、地にも行われますように』
当時祈りを詠んだのはイェルクだった。彼の慈しみの双眸は、この時は深い悲壮を湛えていた。彼は何か知っているのか。テメノスは訊きだせなかった。ただ一度だけ、『君を巻き込みたくない』そう言っていた。珍しくテメノスの自宅で飲み交わした、前夜のことだった。
『あなたのいのちの終わりが、永遠のいのちとなりますように。聖火神エルフリックのお導きがあらんことを……』
そしてわずか一年、今度はテメノスがイェルクの棺を前にして同じ句を紡いだ。
彼はテメノスがロイから受け継ぐ形で刑事課に異動してほどなく警視監を降りていた。その後、故郷の教会勤めとなった。
ロイが長らく追い続けていたとある事件に関して、独自に調べて回っているというのは知っていた。
それが、死因も断定できない変わり果てた姿で、彼は教会で絶命していた。
これはかの変死体の事件と同様の手口だった。ロイ、教皇でさえも辿り着けなかった変死事件——テメノスがこれを突き止めなくてはならない。
あれから季節は一巡し、再び梅雨が訪れた。別れの時は皆、死臭が匂い立つ雨に混ざり、漂っていた。今もなお、テメノスの脳裏にこびりついて離れず、雨の日は決まって嗅覚が狂うおぼえがする。
イェルクの事件以降、一年近く共に真実を追い続けたクリックに向けた哀惜はひた隠しにし、白い部屋に向けてただ行ってきますとだけ言い残した。返事などは当然、あるはずもなかった。彼は話せないのだから。
頭でも、心臓でもないどこかが軋みを上げる。そして叫ぶのだ。誤るな、失うなと。
最後まで、抗えと。
「……ロイ、教皇。あなた達が背負ってきたものはこんなにも、果てしないのか」
波紋で崩れた己の面持ちは、頼りないように映る。
羽織っていたレインコートの裏、聖典をそうっと撫ぜた。彼の子供時代から持ち込んだがゆえに、触れ心地は擦り切れて古びている。ロイの遺品をイェルクが預かり、そして今、テメノスの手に渡っている。
何があろうと、使命と悲願を果たす。だから、もう少し、少しだけ待っていて。胸の内で唱えているのは、果たして彼らのためなのか、自分へのまじないなのか。
池を離れ、橋を渡ってから木々が密集している地帯まできた。都内有数の自然公園であり、今は人数も少なく好きに散策できる。
テメノスが考え事をするのに、カフェや図書館も良いが、こうやって身体を動かすのもよくやっていた。
傘で防ぎきれない雨水が首筋や頬を濡らした。勢い込んで目に入り込んでくるので、反射的に瞑っていたが、ふと足を止めた。
「……おや」
空模様と木陰で薄暗く、目を凝らさないと細かな景色は分からないが、はっきりとそれを見つけることができた。それは生き物だった。何か小さくて可愛い、という巷で略して流行ってそうなフレーズがよく似合う。
リス、なんてこんな建物でごった返している檻の中には当然いないし、かと言ってネズミでもない。黒くてふわふわした手触りをしていそうな、と想像して得心する。猫だ。
尻尾を巻きつけ、耳まで伏せ、身体をこれでもかと丸めて、枯れ葉の敷かれた土床でじっとしている。俊敏な彼らは警戒心が強く、人が近づこうものならすぐに逃げ出すものだが、そのような気配もない。
テメノスはしゃがみ、慎重に黒猫を観察した。尾先だけ白いが、それ以外は本当に真っ黒だ。細やかな雨粒が付着し、毛が縮れて乱れている。木陰とはいえ体温の低下を防ぐにはあまり適した位置ではない。となると、そこまで辿り着くのが困難な状況に追い込まれたか、という仮説が浮上する。
「……すみません、猫さん。少し触りますね」
逡巡するのはほんの少しで、努めて声量を抑えて手を伸ばしてみると、ほんの少しだけ猫の身体がみじろいだ。音と近づく気配に反応したのだろう。指先が触れるとぴくりと震えたが、それでも抵抗はしてこなかった。
ほんのり温かいが、かすかに鉄の匂いがする。痛めつけぬよう細心の注意を払い、確かめてゆくうち、腹のところに指を掠めたら、猫は唸った。覗き込むと、裂傷の後だった。血が渇いた跡があるが、決して浅い傷ではない。
痺れを切らした猫が首を動かし、ぐるると呻吟を吐いたのち、テメノスの親指の付け根へ牙を突き立ててきた。鋭い痛みを覚えるが、耐えられないことはない。テメノスは敢えて気丈に微笑みかけた。
「大丈夫、危害は加えませんから、少し様子を診させてください」
そう言って血の滲んだ手とは反対の方で撫でてやると、猫は驚いたようにテメノスを仰いだ。
えもいわれぬ綺麗な瞳をしている。自ずと息を飲んだ。猫としてはやや細めで、黒目の部分が大ぶりになっている。見つめられると吸い込まれそうだ。
「んにゃ」
猫にしては低い鳴き声だが、どこか悄気ているように見えて愛らしいと思った。
「……おいで」
言うと、不思議そうに首を傾げた。テメノスが抱っこしてやると、大人しくされるがままになっていた。
猫の身体から水気を取り、持っていた布で温めてやる。
「傷を癒やしたまえ」
「みゃ?」
テメノスは苦く笑った。昔、子供の頃はロイと魔法の言葉を考えては、まじないにしていた。
「なんてね。ちょっとしたおまじない、ですよ。痛みが少しでも薄らげばと」
「にゃぁ」
困ったような顔をしている、というのはテメノスの所感で、本当のところは分からない。
だが、黒毛の乱れを整えるように撫ぜると、こころなしか先ほどより少しだけ体が温かくなったような気がする。
「動物向けの病院で診てもらいましょう。ここからならそう遠くないですから」
「にゃ……」
タオルに包んだまま猫は、抱き抱えるとなんだか生まれてほどない赤子に似ている。タオルからすっぽり顔を出している部分が愛くるしい。思わず眉間のところを擽った。
黒猫は見たところ野良だが、その割には聞き分けが良く、獣医があれこれ触れても暴れることはほとんどなかった。ただ、専用の消毒液は染みたようで、全身の毛を逆立てて震えていた。このまま放っておいたなら化膿していてもおかしくはなかっただろうと獣医は言う。テメノスも同意見だ。そして、同族の喧嘩だとしてもここまで抉られることはなかっただろうとも推察した。どこかにぶつけたのか、あるいは別の理由か。
自身の飼い猫かと聞かれて、テメノスは首を振った。抗生剤をもらったうえで、できればそばで様子を見てやって欲しいと言われ、テメノスは曖昧な心持ちであったが、場に従って諾なった。
黒猫のお腹は包帯でぐるぐる巻きにされている。動きづらくはなさそうだが、さっさと逃げて行く気は無いのか、テメノスの隣をゆったり着いてくる。
大抵の猫はここで離れていってしまいそうなものだが。世話をするなら、まずは相手の意思を尊重すべきであると考え直したテメノスは、まず彼の様子を注意深く観察し、判断材料を集めようと試みていた。しゃがんで視線を合わせてやってから、彼に尋ねかけてみる。
「猫さん、お腹空いていますか?」
猫は大きく口を開けて、欠伸をするみたいに返事をした。「んにゃあ〜」
鳴き声は低いが、迂闊にも可愛いな、とごちっていた。小っ恥ずかしく思いつつも、多分、お腹ぺこぺこ、と言っているに違いないと確信していた。テメノスも夕餉の頃合いであったので、コンビニに寄ることにした。ここには案外ペットフードもちゃっかり並んでいるのである。
「ねぇ、見てあれ」
「エグいわ」
「私黒猫が一番好きなんだよね」
女子高校生らしき子達に指差され、ちらちらと見られていた。写真までは撮ってこなかったが、なんだかいたたまれない。
テメノスは曖昧な表情を作って視線を掻い潜りながら、目的のところに猫を抱いて連れていく。包帯はとりあえず隠れるように、と思ってやっぱりタオルを巻いてある。お腹だけ隠しているのが、かえって目立ったのかもしれない。
「どれがいいですか?……って、分からないですよね」
猫缶に、カリカリ、おやつ向けのものまである。猫と暮らした経験のないテメノスにはどれを選んだかと悩みものだった。獣医に聞いておけば良かったと後悔する。
「んにゃにゃ」
しかし黒猫は賢しく、肉球を駆使して緑色の缶を突いた。女の子たちの小さな悲鳴が聞こえた。歓喜のそれだ。
「それですか? ふふ、分かりました」
随分と可愛らしいことをする。つい、笑みが溢れた。テメノスも適当な夕食を選び取り、レジに並んだ。自炊したいが、最近あまり出来ていない。今夜くらいはいいだろう、と繰り返して何日経ったか分からない。
レジ係にまで生温かい視線を浴びせられたのち、テメノスはコンビニを後にした。
黒猫がソワソワしていたので、店を出て徒歩五分くらいの自販機のそばにあるベンチに腰掛けた。
テメノスが猫缶を置き、開けようとすると、黒猫がベンチに飛び乗り、手の甲へ寄り付いてきた。猫特有の、頬を擦るような甘えた仕草だ。
テメノスの絆創膏の貼ってある傷跡を、ぺろりと舐めてきた。
「にゃ」
噛んでしまったことを気にしているようだった。
生まれ故郷でも、長く過ごしてきた都内の住宅地でも、猫達は居たし、たまに撫でたり餌をくれたりしたが、刑事になってからはご無沙汰だった。
こんなに愛くるしいとは。ちょっとした感動ものだ。やわこい黒い毛に触れているだけで、心が解けてしまう。
「すぐに治りますから、大丈夫ですよ。ささ、お腹が空いているでしょう?」
「みゃーお」
缶詰を開けてやると、猫の食いつきはすこぶる良かった。柔らかく煮たマグロを素早く舌で掬うことで瞬く間に山が爪ほどの大きさに削れてゆく様は、見ていて気持ちの良いものだった。テメノスは水を弁当の蓋に淹れてやり、そばに置いた。
「詰まらせるといけませんから、ゆっくり食べてくださいね」
背もたれに委ね、深呼吸ひとつ。時間が、いつもより緩やかに感じる。
一日に限りがあることに、焦燥に囚われていた。早く打開しなければならないと言い聞かせてもきた。
焦りは判断力を鈍らせる。誰かさんの受け売りだったか。
自分をおじさんと揶揄するくらいには、無遠慮な女であったが、洞察力は優れている。
黒猫がぴくりと耳を揺らした。尾が立つのに気を取られていると、胸ポケットのスマホが震え出した。
「にゃっ?」
「噂をすれば、か」
昔の黒電話風の着信音だが、ちょっとばかし耳にくる。側面のボタンを弄りながら耳を寄せた。
『おはよ、名探偵』
外はすっかり暗いのだが、開口一番ジョークを飛ばしてくるのは彼女らしい。
テメノスは軽く頭を巡らせ、向こうからは見えちゃいないが肩をすくめてみせた。
「今は夜ですよ。別に寝ちゃいません」
以前に仕事疲れで熟睡していた時に掛けられて、テメノスが不機嫌だったのを未だに面白がっているようだ。
ああいう時に限ってビデオ通話にしてくるのが抜かりない。寝癖の付いた半開きの顔をばっちり彼女の記録に収められてしまった。
『そう。まあ確かに、寝起きにしちゃあ声が明るい。何か良いことでもあった?』
テメノスは一瞬だけご飯に夢中な黒猫を見やって、ニヤリとした。
「ええ、とても。ソローネ君も会いに来ると良いですよ」
冗談半分で返してやれば、彼女はヒュウ、と口笛を鳴らした。
『何、彼女でもできた? それとも彼氏?』
生憎、隣に未来の伴侶を置くのは到底叶わないだろう。ソローネも承知の上で敢えて言っているとは分かっているから、テメノスも戯けてみせた。
「もっと素敵な子です。ふわふわしていて可愛いんですよ。あなたも気に入ると思います」
端末から少し離れて、黒猫に呼びかけてみると、にゃあん、と鳴き返した。皿の隅々に至るまで舐めて綺麗にしている。猫缶を気に入ってくれたようで何よりだ。
お腹の傷はまだあるはずなのに、最初見た時よりも顕著に元気を取り戻しているようで、内心舌を巻いていた。若いって良いなと思う。
『……やだ、超魅力的。なら、そこら辺の奴らじゃ到底相手にならないね』
案外良い反応を示すソローネに意表を突かれつつも、そういえば甘いもの……特に果実類を好んだり、ぬいぐるみをこっそり持っていたりと、意外な好みを持つ娘ではあったなと思い返す。
彼女との付き合いも交通課時代から続き、四年は経つが、こうした内面がたまに垣間見えるようになってきた。軽口を叩き合うのは、相変わらずである。
「まったく、その通りで」
特殊な世界に身を置いている彼女との関係は、ビジネスライクと奇妙な縁、そのどちらでもある。「……それで、ソローネ君」
出会えたのは幸運だった。彼女の特殊な情報網は、金より価値がある。
紆余曲折あって掃除屋からは足を洗ったが、相変わらず神出鬼没、夜の似合う女人である。
画面のガラスフィルムの奥の奥で、彼女は喉奥を微かに鳴らした。
『分かってる。例のカルト宗教の本山でしょ。あんたが送ってきた悪趣味な動画を解析して、かねがね予想通りだったよ』
あの日、口封じとしてカルディナに貫かれてしまったクリックが守り通したのが、かのUSBメモリであった。彼女が警視庁の地下に隠していた書物に挟み込まれていたのだと後ほど明らかになった。テメノスの助手は、先にこれを見つけ出していたのだ。数々の証拠を提出したが、これだけは隠し持ったまま、ソローネに渡した。
肝心の映像は『月影教』という近年信者を多く増やしているという新興宗教の布教目的の動画であった。一見何の変哲もない、独特の音楽と遠い時代の魔術師かなんかが身につけていそうな黒ローブ姿の信者達の祈りの様子などが流れてくるという五分程度の映像だが、テメノスはこれが次なる自分の目指す場所だと踏んでいた。
「では、奴らは」
『ああ、F町のどこかだね。外からの映像は少ないけどあんたが言ってた三分ちょっとのところに出てくるキャラクターの像が一致した』
やはりか、と拳を握る。次なる手がかりはこれしかないが、先が見えてきた。月影教と変死事件の関連性は、これから手繰ってゆかねばならない。
己は騙されたのだと、全て手のひらの上だったのだと、元警視長の女は絶望していた。精神も肉体も変わり果てても、何度もつぶやいていた。テメノスはその人物を知りたかったが、それも叶わない。だが——
「ありがとうございます。この借りは必ず」
カルディナが隠していた禍々しく、黒い書物。あれを渡し、謀った人物が月影教の内部の人間という可能性は確かに見えてきた。それも、中心の、という仮説は、ここ暫くテメノスの中に浮かんだままでいる。現にあの新興宗教の先導者は公表されていない。にも関わらず熱心な信者が布教し、広まっている。この点も強く気がかりだ。
『報酬に何杯奢ってもらおうかな……なんて。何、もうすぐに首都から出るつもり?』
餌を食べ終えた黒猫が音を立てて水を舐めている。テメノスは背中を丁寧に梳いてやり、予め選び取る気だったことを口にする。
「ええ……間に合えば来週末には」
『ふぅん。まあ、良いよ。必要なら飛んでってあげる。護衛は利子がつくけどね』
頼もしいが、彼女に手や頭脳を貸してきた身としては、憂慮が勝る。
「あなたはもう、
ソローネの、腕から首にかけて刻まれた蛇の刺青は、複雑に絡み付いた鎖を思わせる。彼女がそこから抜け出し、自由になるために争い続けてきたことを、テメノスは知っているし手を貸すこともしてきた。
テメノスは刑事という刑事になったとしても、手錠を嵌めようとは思えなかった。そういう面では、公正に反するかもしれない。それは彼女も同じで、テメノスのことを始末すべきはずだが、ナイフを突き立てる気配は一向にない。
『勿論。でもね、殺めなくても気絶させる方法はいくらでもあるよ。なんなら、教えてあげようか? その身体に』
物騒だが、ジョークだとすぐに分かる。彼女に余裕がある証左だったろう。そんなソローネとの出会いは、テメノスがとある学舎の子供向け講習を終えた帰りのことだった。子犬に絡まれている姿を見て、似ていると面白そうに言われたのがきっかけだったりする。
テメノスはあの時の子犬の舌や柔毛に揉みくちゃにされた己の滑稽具合につい苦い笑みを溢しつつも、きっぱり断っておくことにした。
「それは結構で……」
言い終える直前、カシャン、と缶が地面に転がった。テメノスはそちらに視線を遣るより、周囲の異様さに肌が粟立つのを覚えた。
『……何かあった?」
画面越しのソローネの声は普段よりも幾分か低い。緊張感が漂う。
人気が無い。遠近共に建物の灯りが息を吹きつけた蝋燭の如く吹き消えてしまった。偶然のしじまにしては到底不自然で人為的だ。意図的な常闇の帷が生き物の気配を遠ざけている。
『ねぇ、不味いやつ?』
「……ええ、それはもう、とても」
喉奥から急速に渇きを覚えたせいで、掠れた音色が飛び出た。異常を真っ先に知覚していた黒猫は、物の輪郭すら見えない暗闇の方角を向いていた。