探偵と黒猫(仮)
業火。顎門は天にまで伸び、ひとつの異形のように唸りを上げた。
碌に力も入らず、地べたにぶら下がった鋒が擦れ、刀身からカチ、と震えた音を止めどなく鳴らすのが、煩わしかった。今は何も耳に入れたくなかった。否、この目さえ、抜き取ってしまいたかった。しかし五感は嫌というほど冴えていて、金輪際忘れさせぬと植え付けるが如く、今あるものをうつつたらしめる。
「……あっけないものだ。罪深き血も、無辜なる人肉も炎に焼かれれば灰になる」
明々とする朱色を塗りつけた男の薄い唇が、抑揚無く告げる。その、刹那。
腹を無機質な冷温が占めた。刀はとうとうこの手をすり抜けた。それから程なくして火の粉よりも燃える熱さが身体中を蝕んだ。
「屍人は語らぬ。痛みこそ、人を生者たらしめる」
鼓動がけたたましく鳴った。
襖の向こう。むせ返る鉄の匂いがした。これを嗅がない日は、もう数えられるほどしかない。降りしきる灰が、怨嗟が、一体となる。鬨の声が遠のく。
「そなたは今し方、失ったのだ。核たる矜持を」
男と初めて目が合った。そうして気がつくのだ。理知の奥の奥、しまい切れぬ失望を宿していることに。
「……ぁ」
上手く立てない。崖に落とされてもなお生にしがみついた身体とて今は不能だ。
男が、何かをかざす。四角い、写鏡。されどそこに映るのは、己ではない。もうひとりが睨みつけている。
獣としての、己。最も恐れてきたものだった。
男は血を浴びることも厭わず、短剣を引き抜いた。
仰臥する己を、男は見下ろした。
「そして、己 さえも」
絶叫した。
身体の中で何かが暴れていて、のたうち回った。
それは生命を脅かされている細胞のひしめきではない。それを取っ掛けに末端や口腔、つま先から飛び出たものだった。嗚咽をひとしきり終えた頃、四角い中に収まった。鏡面が濁った波紋を描く。
「忘我の果て、抜け殻となったそなたに、何が残るのか、興味がある」
難解な羅列を続ける彼は、もう不要だと口にする代わりに、短剣を収めた。貫かれたところから血溜まりが広がってゆく。火の粉やひずんでゆく木床の熱さはなく、寧ろ悴む身体が恐ろしい。心臓から送り込まれる血潮が凍てつくされている錯覚が突き抜けた。わけもなく震えた手で胸を掴む。
「……また逢うことがあれば、答えをお聞かせ願おうか」
男は鏡を懐にしまった。炎の揺らめく音だけが静謐を支配する。言葉を咀嚼するよりも、踵を返した男に、手を伸ばそうとしていた。自分の血のせいで踠くしかなかった。
「そなたの漂流は、始まったばかりなのだから」
陽炎の天幕をくぐり、男は姿をくらました。
酷く眠い。否、強制的に意識が黒く塗りつぶされている。
己は今、無様に横たわっているはずなのだが、宙に浮いているような気もした。
体の重みが分からないせいだった。このまま事切れるのだろうかと濛々とした意識の狭間で思う。諦めたい、と願う反面、まだ生きたいと訴えていた。
本能のせめぎ合いの末、真っ暗な闇の中、どこまでも落ちていった。行き先は知らない。次の瞬間に、我に返る。夢から覚めた。もう幾度と夢を見たが、どれも意味はわからないまま。
頭を起こすと、耳が震えた。この目はぼんやりと輝いて、暗闇でも辺りがよく見える。眠っていたのは薄汚れた箱の中で、ここは『街の路地裏』だと頭が認識していた。時折物や場所の名前が浮かぶことがあるのが不思議だった。
静かな道を忍び歩く。水面に、己の顔が映っていた。初めて目の当たりにした時は驚いた のをよく覚えている。今は、頭上にあると錯覚させる白玉のような小さな月が健気に浮かんでいることのほうが関心を惹きつけた。
ゴミ溜め場の饐えた臭いにも、慣れてしまった。それでもここの水溜まりは嫌で、舐めたくない。置いてあった透明の容器を爪で引っ掻いて、匂いを確かめてから湧いてきた水を飲んだ。毛繕いをしないと身体が痒くなるから、済ませておく。これが不便な体だと思うのは、おかしなことだろうか。
遠くには耳に煩い人間達の話し声や、硬くて早い輪っかの足を絶え間なく回している機械の音がこちらにまで届いてくる。ネオンの煌めきが点滅する。
彼らは自分を見掛けると触れてきたり餌をくれる。中には石を投げるものもいる。賢く媚びると得をするが、それでも心を許すな、と誰かが言っていた。皆で手を取り合えば良いのではないかと口にしたこともあるが、良い反応をもらえたことがない。
でも、中には人間と一緒に過ごすのを当たり前にしている同族も少なからず居る。彼らは獣を忘れかけている一方で、幸せそうだ。
屋根まで登り、生ぬるい夜の風を浴びながら人工灯に埋もれた星空を数えた。立ち上る煙に鼻を動かし、下を見るとやっぱり人間達が話をしていた。『客引き』『酔っ払い』などの言葉が頭に浮上する。彼らが何を発し、何をしているのか、中身が分かるのは自分しかいない。そのせいで仲間からは気味悪がられて爪弾きにされて、縄張りから立ち去る。大人しくしていれば問題ないが、結局は違和感と馴染めなさを理由にして、街を転々としてきた。
細い道、暗い場所よりも、もっと広くて大きな場所を堂々と歩きたいと思う時がある。人間をもっと近い高さで見てみたいし、話を聞いてみたい。
次の街を目指してみるのも良いかと思う。
あてのない旅だが、時間は足早に過ぎてゆくから、じっともしていられなかった。この小さな身体では一日一日の感覚が異なる。長く生きるのは難しいのだと早々に悟った。無惨に道路の真ん中で死に絶えている同胞も何度か目の当たりにしてきた。花を咥えて弔う。彼らは、何を思ったろうか。望まないで生きるのは難しいと思うのは、己のみなのだろうか。
少し、疲れた。ふと足を止めると、大きな池が見えた。木がたくさん並んでいて、芝生もある。他の場所でも見たような屋根や柱も見つけた。どうやらここは『公園』らしい、と理解するのには、そう時間がかかりはしなかった。人と街の密集する中では物の広さも限られてくるのだが、歩いても終わりがない。
今日はここで眠ろう。身体を丸めて尻尾もちゃんとしまう。枯れ葉がふかふかしていてちょうど良い。少しは深く眠れると良い、と淡い期待をした。
『……見つけたぜ。愛しい俺の心臓』
一葉が舞い降りた。薄ら瞼を開けた時には、生温い闇を纏った大きな爪が迫っていた。
碌に力も入らず、地べたにぶら下がった鋒が擦れ、刀身からカチ、と震えた音を止めどなく鳴らすのが、煩わしかった。今は何も耳に入れたくなかった。否、この目さえ、抜き取ってしまいたかった。しかし五感は嫌というほど冴えていて、金輪際忘れさせぬと植え付けるが如く、今あるものをうつつたらしめる。
「……あっけないものだ。罪深き血も、無辜なる人肉も炎に焼かれれば灰になる」
明々とする朱色を塗りつけた男の薄い唇が、抑揚無く告げる。その、刹那。
腹を無機質な冷温が占めた。刀はとうとうこの手をすり抜けた。それから程なくして火の粉よりも燃える熱さが身体中を蝕んだ。
「屍人は語らぬ。痛みこそ、人を生者たらしめる」
鼓動がけたたましく鳴った。
襖の向こう。むせ返る鉄の匂いがした。これを嗅がない日は、もう数えられるほどしかない。降りしきる灰が、怨嗟が、一体となる。鬨の声が遠のく。
「そなたは今し方、失ったのだ。核たる矜持を」
男と初めて目が合った。そうして気がつくのだ。理知の奥の奥、しまい切れぬ失望を宿していることに。
「……ぁ」
上手く立てない。崖に落とされてもなお生にしがみついた身体とて今は不能だ。
男が、何かをかざす。四角い、写鏡。されどそこに映るのは、己ではない。もうひとりが睨みつけている。
獣としての、己。最も恐れてきたものだった。
男は血を浴びることも厭わず、短剣を引き抜いた。
仰臥する己を、男は見下ろした。
「そして、
絶叫した。
身体の中で何かが暴れていて、のたうち回った。
それは生命を脅かされている細胞のひしめきではない。それを取っ掛けに末端や口腔、つま先から飛び出たものだった。嗚咽をひとしきり終えた頃、四角い中に収まった。鏡面が濁った波紋を描く。
「忘我の果て、抜け殻となったそなたに、何が残るのか、興味がある」
難解な羅列を続ける彼は、もう不要だと口にする代わりに、短剣を収めた。貫かれたところから血溜まりが広がってゆく。火の粉やひずんでゆく木床の熱さはなく、寧ろ悴む身体が恐ろしい。心臓から送り込まれる血潮が凍てつくされている錯覚が突き抜けた。わけもなく震えた手で胸を掴む。
「……また逢うことがあれば、答えをお聞かせ願おうか」
男は鏡を懐にしまった。炎の揺らめく音だけが静謐を支配する。言葉を咀嚼するよりも、踵を返した男に、手を伸ばそうとしていた。自分の血のせいで踠くしかなかった。
「そなたの漂流は、始まったばかりなのだから」
陽炎の天幕をくぐり、男は姿をくらました。
酷く眠い。否、強制的に意識が黒く塗りつぶされている。
己は今、無様に横たわっているはずなのだが、宙に浮いているような気もした。
体の重みが分からないせいだった。このまま事切れるのだろうかと濛々とした意識の狭間で思う。諦めたい、と願う反面、まだ生きたいと訴えていた。
本能のせめぎ合いの末、真っ暗な闇の中、どこまでも落ちていった。行き先は知らない。次の瞬間に、我に返る。夢から覚めた。もう幾度と夢を見たが、どれも意味はわからないまま。
頭を起こすと、耳が震えた。この目はぼんやりと輝いて、暗闇でも辺りがよく見える。眠っていたのは薄汚れた箱の中で、ここは『街の路地裏』だと頭が認識していた。時折物や場所の名前が浮かぶことがあるのが不思議だった。
静かな道を忍び歩く。水面に、己の顔が映っていた。初めて目の当たりにした時は
ゴミ溜め場の饐えた臭いにも、慣れてしまった。それでもここの水溜まりは嫌で、舐めたくない。置いてあった透明の容器を爪で引っ掻いて、匂いを確かめてから湧いてきた水を飲んだ。毛繕いをしないと身体が痒くなるから、済ませておく。これが不便な体だと思うのは、おかしなことだろうか。
遠くには耳に煩い人間達の話し声や、硬くて早い輪っかの足を絶え間なく回している機械の音がこちらにまで届いてくる。ネオンの煌めきが点滅する。
彼らは自分を見掛けると触れてきたり餌をくれる。中には石を投げるものもいる。賢く媚びると得をするが、それでも心を許すな、と誰かが言っていた。皆で手を取り合えば良いのではないかと口にしたこともあるが、良い反応をもらえたことがない。
でも、中には人間と一緒に過ごすのを当たり前にしている同族も少なからず居る。彼らは獣を忘れかけている一方で、幸せそうだ。
屋根まで登り、生ぬるい夜の風を浴びながら人工灯に埋もれた星空を数えた。立ち上る煙に鼻を動かし、下を見るとやっぱり人間達が話をしていた。『客引き』『酔っ払い』などの言葉が頭に浮上する。彼らが何を発し、何をしているのか、中身が分かるのは自分しかいない。そのせいで仲間からは気味悪がられて爪弾きにされて、縄張りから立ち去る。大人しくしていれば問題ないが、結局は違和感と馴染めなさを理由にして、街を転々としてきた。
細い道、暗い場所よりも、もっと広くて大きな場所を堂々と歩きたいと思う時がある。人間をもっと近い高さで見てみたいし、話を聞いてみたい。
次の街を目指してみるのも良いかと思う。
あてのない旅だが、時間は足早に過ぎてゆくから、じっともしていられなかった。この小さな身体では一日一日の感覚が異なる。長く生きるのは難しいのだと早々に悟った。無惨に道路の真ん中で死に絶えている同胞も何度か目の当たりにしてきた。花を咥えて弔う。彼らは、何を思ったろうか。望まないで生きるのは難しいと思うのは、己のみなのだろうか。
少し、疲れた。ふと足を止めると、大きな池が見えた。木がたくさん並んでいて、芝生もある。他の場所でも見たような屋根や柱も見つけた。どうやらここは『公園』らしい、と理解するのには、そう時間がかかりはしなかった。人と街の密集する中では物の広さも限られてくるのだが、歩いても終わりがない。
今日はここで眠ろう。身体を丸めて尻尾もちゃんとしまう。枯れ葉がふかふかしていてちょうど良い。少しは深く眠れると良い、と淡い期待をした。
『……見つけたぜ。愛しい俺の心臓』
一葉が舞い降りた。薄ら瞼を開けた時には、生温い闇を纏った大きな爪が迫っていた。
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