7/28「私たちを呼んでいる黎明へ」サンプル
「あちゃ〜、また転んでしまったべ」
それも結構派手に。朝念入りに梳かしたばかりの茶髪に枯れ葉がついてしまっているのを取っ払う。
複雑なステップは、連続で打ち出すのにはまだ少し練習する必要があるみたいだ。
『月踏み』だって、何回も転んで、足を捻ったり膝を擦りむいたりしたが、それでもなんとかものにした。積み重ねた努力が、アグネアの前向きさを形作っている。だから少しの失敗などではへこたれない。
「ぜーったい、踊れるようになるべ!」
くるり、くるり。色鮮やかなオレンジのフリルがふわりと花咲く。これは木立の舞といって、戦闘でも応用できる。鋭く尖らせたつま先を駆使し、相手の足元を掬うようなイメージだ。
——さて、ここに仲間の一人や二人でもいればアグネアの腕を引き、本来の目的を思い出させてくれることだろう。
アグネアは野営に向けて焚き木を集めてくるようキャスティに頼まれていた。火をつけるのはあんまり得意ではないが、嫌いではない。暗い中にポッと朱色のともりがもたらされるあの瞬間は、自分の心も明るくなるようで、アグネアは密かに好いている。中々火がつかないと大変だが、その分成し遂げた時の喜びも増す。ターンを続けながら、しばしその想像に馳せていたが、突として頭を左右に振りたくった。
「……って、駄目駄目!キャスティさんに怒られちゃうべ……っ!」
練習は後、後! と言い聞かせ、アグネアは慌てて薪になりそうな木の破片などがないかあたりを見渡す。
今日のリーフランドの森は穏やかだ、と思う。生まれも育ちも緑に囲まれていたからか、何となく分かるのだ。風は心地良く、耳を澄ませると聞こえてくる動物の鳴き声なども柔らかい。
お気に入りの曲を口ずさみたくような、素敵な日だ。枝を拾い上げながら、頭の中で旋律を奏でてつま先がリズムを取っていた。
「むむ……?」
アグネアはふと、足を止めた。
この先には確か小さな湖があるはず。幼い頃、父やパーラと共に釣りに出かける際はもっぱら小川やあの湖だった。
村の名物は果物だが、時折肉や魚が恋しくなる。釣った魚を捌いて、アグネアが煮付けにしたりムニエルにしたりすると、パーラは丸い目をきらきらさせたのち、頬をほんのり赤らめて皿の上のものをペロリと平らげてしまうし、父は切り分けたものを口にした途端、微かに目元を緩ませる。アグネアは二人を見ていると、ついつい甘やかして、ご飯を作りすぎてしまうのだった。
森を離れ、砂漠や海岸、雪降る街など巡ってきたからだろうか。思い出が湧き水のように止めどなく蘇ってくる。そういえば、しばらく行っていなかったな。惹かれるがままに、茂みを飛び出しかけて、留まる。
誰か、いるべ。
人の気配を感じたアグネアは、そっと身を屈ませる。森の中には魔物だけでなく、野盗などの害意ある人間たちが潜んでいることもある。特に日が沈みだす頃に彼らは活動的になる。その場合、見つからないようやり過ごすのが賢明だろう。
息を殺し、意識を研ぎ澄ませてみる。オーシュットほど冴えてるわけではないが、悪意は感じなかった。ほっと胸を撫で下ろすも、すぐに好奇心をくすぐられて、茂みの隙間の先をじいっと注視してみる。
「————」
「————」
あれっ、と素っ頓狂な声をあげそうになって抑えた。
ヒカリくんにテメノスさん。帰って来てたんだ。
一時的に四人四人で別行動をしていたのだが、近々合流できそうとの連絡が届いていた。早ければ今夜、とのことであったがもう到着していたのか。他の二人はもうキャスティ達の元にいるのかもしれない。
そんなことを考えながらも、視線は彼らに釘付けだった。
普段通り呼び掛ければ良いはずなのに、なんとなくいけないことのような気がして出来ない。
ふと、テメノスがヒカリに歩み寄った。一歩、二歩、隙間は狭まり、二人の距離が溶け合う……その直前まできていた。
髪に絡んだ小さな葉を取ってやり、白いローブを纏った神官は、砂国の剣士の黒髪を指で丁寧に梳いてやっていた。さらりとしてそうな白髪の間には、翠色の瞳が、愛おしそうにヒカリを見ている。
アグネアは急激に顔が熱くなるのを感じた。
一刻も早く、この場から走り去るべきだ、と頭は警告を促すも、身体は動かなかった。寧ろ次第にもっと見ていたいという、自分でも理解が追いつかないような思いが込み上げてきた。
見慣れていたはずの森の多彩な緑と、わずかな木漏れ日、漂う蜜が如くの甘い空気感。その全てが、見知らぬ回路を伝い、アグネアの脳裏へと鮮烈に刻み込まれてゆく。
橙の細やかな煌めきを映す湖を背景に、テメノスの白と翠緑、ヒカリの赤と黒。それらが交わる様は、絵になる程美しい。
淡い予感の通りに、唇が合わさる。その瞬間、聖なる光が弾けて二人を取り巻いた。実際には、ただの微風が吹きつけただけだが……アグネアにはそう見えたのだ。
お互いに綻びながら指を絡ませ合うその姿に、ため息が漏れる。
木漏れ日のヴェールが二人を祝福してくれているに違いない。目頭が熱い。自分は、泣いてしまっているようだった。
「すごく、すごく……エモーショナル[#「エモーショナル」に傍点]だべ!」
あまりのことに叫んでしまっていた。涙声で恥ずかしい限りだが、耳にしているのは動物たちくらいだろう。
筆舌に尽くしがたい感動がアグネアの胸中を満たしてゆく。
アグネアとて、伊達に彼らと旅をしていない。どれほどの苦難を乗り越えて来たのかを知っているし、力添えしてきた。それらを材料にして、頭の中では、彼らがいかにして愛を育んできたのかが次々と浮かびあがり、一つの物語として組み上げられていった。アグネアは思う、今なら自分は劇作家になれるのではないかもしれないと。
だが、それよりも、表現者としての創作意欲が強く刺激されている。
『クレストランドの神官は、砂漠の国の第二王子と運命的な出会いを果たし、旅仲間として迎える。目の前の巨大な闇に自ら足を踏み入れ、大切な人はこの手からすり抜けてゆく——それでも使命を果たさなくてはならない。失うことは悲しく、痛みを伴うが、それでも神官は、王子へ手を伸ばすことを選んだ。彼を抱き寄せ、彼は想いを口にする。あなたが、好きなのだと。この手を繋いで、明日を、未来を生きたいのだと——』
これをメロディにしたら、どんなフレーズが似合うかな。自分の脚で、身体で、魂で踊りたい。
気がつけば、ドレスの裾を掴み、ステップを踏んでいた。
「……アグネア、何をしているんだ?」
「はわっ⁉︎」
突然、背後から声をかけられて転びかける。咄嗟に木の幹にしがみついたが、バランスが悪く、足が攣りそうだ。ヒカリが手を差し伸べてくれた。
「えへへ、ごめんね……って」
後方のテメノスが珍妙なものを見るような表情を湛えているのを目の当たりにして、アグネアはようやく自分のしでかしたことを理解した。
隠れていたはずが、自ら茂みを飛び出して踊っていたのだから驚かれるのも無理はない。
「えっ、えぇっと……ちょっとステップの練習してて……そのぉ、夢中になっちゃって……偶々お二人を見かけて」
我ながら無理がある言い分だ。さっきから視線が定まらない。
そんなアグネアにテメノスは仕方がないというように深い吐息を溢した。
「アグネアくんは分かりやすいですね……見てたんでしょう?」
ううっ、と呻いた。どうしたって嘘をつくのは苦手だ。顔にも出るし、なんなら挙動不審だし、ああ、なるほど、我ながら分かりやすすぎる。パーラにも、幼馴染のガスにもよく指摘されてきたことだった。
「ご、ごめんなさい! 覗き見なんてしちゃってっ」
深々と頭を下げると共に、謝罪を口にする。悪気はなかったが、好奇心はあった。ともかく良くないことをしてしまったことに相違はない。
「アグネア……頭を上げてくれ」
ヒカリに促されるまで、アグネアはじっと腰を直角に曲げたままを保っていた。血が昇ってしまった頭をおずおずと持ち上げると、毎朝丁寧に仕込んである長い三つ編みが、へそのあたりまでだらんと垂れてきた。
「確認させてください。あなたは、どこまで見てたのですか?」
ええと、と苦笑いで頬を掻きつつ、舞台で覚えるものとは違う類の汗が背中の辺りを舐めるのを覚えた。
「その、何を話していたかまでは分からなかったんだけど。二人がき、キスをしているところは見てしまいました、べ」
「……そうですか」「そう、か」
テメノスは微笑みの裏で若干気まずそうにしている、というふうに見える。ヒカリに至っては、緩く折り曲げた指で口元をそっと隠すような仕草を見せた。頬がほんのり色づかせ、幾度も目を瞬かせるという仕草はささやかなものに思えて、まるきり新鮮な彼の変化を証明してくれていた。
見られたのが恥ずかしかったのか、ひょっとしたら甘いキスの余韻が残っているのかも。彼にバレていないことを祈りつつ、でもやっぱりほわあ、と声を出してしまう。それから、背筋をしゃんとしてから、聞かなきゃ、と手のひらを強く握った。
「あのっ、二人は、その……」
アグネアが尋ねるより先んじて、テメノスがヒカリの手を取った。隙間なく結ばれる繋ぎ方。まるで彼と彼が合わさるべきピースであるかのようだ。
「お察しの通り、私達は、いわゆる恋人同士の関係です」
毅然と言い放つテメノスを一瞥して、ヒカリもアグネアに視線を据えた。
「……隠していてすまなかった、アグネアよ」
真剣な面持ちの彼らに反して、アグネアはパッと華やぐような胸の高鳴りにむずむずとこそばゆいような唇を波打たせた。
——特に、ヒカリくん、良かった、という気持ちが込み上げてきた。彼は気付いてないのだろうけれど、ウェルグローブでの一件以来、彼は目に見えてやつれていた。心配で、夜にこっそり様子を見に行ったり、戦闘にも参加しなくてもあたしたちでなんとかするから良いよ、と声をかけたりしたが、彼は大丈夫だの一点張りだった。ヒカリくんを助けてあげたいのに、もどかしくて、悔しく思いながらも、それぞれの目的のために一旦離れた。
あれから、彼の窮地をテメノスが救い上げた——とキャスティから聞かされた時は驚いた。けれど、納得はできる。テメノスはアグネア的にはミステリアスでちょっと変わっている気もするけれど、優しいひとだというのは、旅を通してよく知っている。
それも結構派手に。朝念入りに梳かしたばかりの茶髪に枯れ葉がついてしまっているのを取っ払う。
複雑なステップは、連続で打ち出すのにはまだ少し練習する必要があるみたいだ。
『月踏み』だって、何回も転んで、足を捻ったり膝を擦りむいたりしたが、それでもなんとかものにした。積み重ねた努力が、アグネアの前向きさを形作っている。だから少しの失敗などではへこたれない。
「ぜーったい、踊れるようになるべ!」
くるり、くるり。色鮮やかなオレンジのフリルがふわりと花咲く。これは木立の舞といって、戦闘でも応用できる。鋭く尖らせたつま先を駆使し、相手の足元を掬うようなイメージだ。
——さて、ここに仲間の一人や二人でもいればアグネアの腕を引き、本来の目的を思い出させてくれることだろう。
アグネアは野営に向けて焚き木を集めてくるようキャスティに頼まれていた。火をつけるのはあんまり得意ではないが、嫌いではない。暗い中にポッと朱色のともりがもたらされるあの瞬間は、自分の心も明るくなるようで、アグネアは密かに好いている。中々火がつかないと大変だが、その分成し遂げた時の喜びも増す。ターンを続けながら、しばしその想像に馳せていたが、突として頭を左右に振りたくった。
「……って、駄目駄目!キャスティさんに怒られちゃうべ……っ!」
練習は後、後! と言い聞かせ、アグネアは慌てて薪になりそうな木の破片などがないかあたりを見渡す。
今日のリーフランドの森は穏やかだ、と思う。生まれも育ちも緑に囲まれていたからか、何となく分かるのだ。風は心地良く、耳を澄ませると聞こえてくる動物の鳴き声なども柔らかい。
お気に入りの曲を口ずさみたくような、素敵な日だ。枝を拾い上げながら、頭の中で旋律を奏でてつま先がリズムを取っていた。
「むむ……?」
アグネアはふと、足を止めた。
この先には確か小さな湖があるはず。幼い頃、父やパーラと共に釣りに出かける際はもっぱら小川やあの湖だった。
村の名物は果物だが、時折肉や魚が恋しくなる。釣った魚を捌いて、アグネアが煮付けにしたりムニエルにしたりすると、パーラは丸い目をきらきらさせたのち、頬をほんのり赤らめて皿の上のものをペロリと平らげてしまうし、父は切り分けたものを口にした途端、微かに目元を緩ませる。アグネアは二人を見ていると、ついつい甘やかして、ご飯を作りすぎてしまうのだった。
森を離れ、砂漠や海岸、雪降る街など巡ってきたからだろうか。思い出が湧き水のように止めどなく蘇ってくる。そういえば、しばらく行っていなかったな。惹かれるがままに、茂みを飛び出しかけて、留まる。
誰か、いるべ。
人の気配を感じたアグネアは、そっと身を屈ませる。森の中には魔物だけでなく、野盗などの害意ある人間たちが潜んでいることもある。特に日が沈みだす頃に彼らは活動的になる。その場合、見つからないようやり過ごすのが賢明だろう。
息を殺し、意識を研ぎ澄ませてみる。オーシュットほど冴えてるわけではないが、悪意は感じなかった。ほっと胸を撫で下ろすも、すぐに好奇心をくすぐられて、茂みの隙間の先をじいっと注視してみる。
「————」
「————」
あれっ、と素っ頓狂な声をあげそうになって抑えた。
ヒカリくんにテメノスさん。帰って来てたんだ。
一時的に四人四人で別行動をしていたのだが、近々合流できそうとの連絡が届いていた。早ければ今夜、とのことであったがもう到着していたのか。他の二人はもうキャスティ達の元にいるのかもしれない。
そんなことを考えながらも、視線は彼らに釘付けだった。
普段通り呼び掛ければ良いはずなのに、なんとなくいけないことのような気がして出来ない。
ふと、テメノスがヒカリに歩み寄った。一歩、二歩、隙間は狭まり、二人の距離が溶け合う……その直前まできていた。
髪に絡んだ小さな葉を取ってやり、白いローブを纏った神官は、砂国の剣士の黒髪を指で丁寧に梳いてやっていた。さらりとしてそうな白髪の間には、翠色の瞳が、愛おしそうにヒカリを見ている。
アグネアは急激に顔が熱くなるのを感じた。
一刻も早く、この場から走り去るべきだ、と頭は警告を促すも、身体は動かなかった。寧ろ次第にもっと見ていたいという、自分でも理解が追いつかないような思いが込み上げてきた。
見慣れていたはずの森の多彩な緑と、わずかな木漏れ日、漂う蜜が如くの甘い空気感。その全てが、見知らぬ回路を伝い、アグネアの脳裏へと鮮烈に刻み込まれてゆく。
橙の細やかな煌めきを映す湖を背景に、テメノスの白と翠緑、ヒカリの赤と黒。それらが交わる様は、絵になる程美しい。
淡い予感の通りに、唇が合わさる。その瞬間、聖なる光が弾けて二人を取り巻いた。実際には、ただの微風が吹きつけただけだが……アグネアにはそう見えたのだ。
お互いに綻びながら指を絡ませ合うその姿に、ため息が漏れる。
木漏れ日のヴェールが二人を祝福してくれているに違いない。目頭が熱い。自分は、泣いてしまっているようだった。
「すごく、すごく……エモーショナル[#「エモーショナル」に傍点]だべ!」
あまりのことに叫んでしまっていた。涙声で恥ずかしい限りだが、耳にしているのは動物たちくらいだろう。
筆舌に尽くしがたい感動がアグネアの胸中を満たしてゆく。
アグネアとて、伊達に彼らと旅をしていない。どれほどの苦難を乗り越えて来たのかを知っているし、力添えしてきた。それらを材料にして、頭の中では、彼らがいかにして愛を育んできたのかが次々と浮かびあがり、一つの物語として組み上げられていった。アグネアは思う、今なら自分は劇作家になれるのではないかもしれないと。
だが、それよりも、表現者としての創作意欲が強く刺激されている。
『クレストランドの神官は、砂漠の国の第二王子と運命的な出会いを果たし、旅仲間として迎える。目の前の巨大な闇に自ら足を踏み入れ、大切な人はこの手からすり抜けてゆく——それでも使命を果たさなくてはならない。失うことは悲しく、痛みを伴うが、それでも神官は、王子へ手を伸ばすことを選んだ。彼を抱き寄せ、彼は想いを口にする。あなたが、好きなのだと。この手を繋いで、明日を、未来を生きたいのだと——』
これをメロディにしたら、どんなフレーズが似合うかな。自分の脚で、身体で、魂で踊りたい。
気がつけば、ドレスの裾を掴み、ステップを踏んでいた。
「……アグネア、何をしているんだ?」
「はわっ⁉︎」
突然、背後から声をかけられて転びかける。咄嗟に木の幹にしがみついたが、バランスが悪く、足が攣りそうだ。ヒカリが手を差し伸べてくれた。
「えへへ、ごめんね……って」
後方のテメノスが珍妙なものを見るような表情を湛えているのを目の当たりにして、アグネアはようやく自分のしでかしたことを理解した。
隠れていたはずが、自ら茂みを飛び出して踊っていたのだから驚かれるのも無理はない。
「えっ、えぇっと……ちょっとステップの練習してて……そのぉ、夢中になっちゃって……偶々お二人を見かけて」
我ながら無理がある言い分だ。さっきから視線が定まらない。
そんなアグネアにテメノスは仕方がないというように深い吐息を溢した。
「アグネアくんは分かりやすいですね……見てたんでしょう?」
ううっ、と呻いた。どうしたって嘘をつくのは苦手だ。顔にも出るし、なんなら挙動不審だし、ああ、なるほど、我ながら分かりやすすぎる。パーラにも、幼馴染のガスにもよく指摘されてきたことだった。
「ご、ごめんなさい! 覗き見なんてしちゃってっ」
深々と頭を下げると共に、謝罪を口にする。悪気はなかったが、好奇心はあった。ともかく良くないことをしてしまったことに相違はない。
「アグネア……頭を上げてくれ」
ヒカリに促されるまで、アグネアはじっと腰を直角に曲げたままを保っていた。血が昇ってしまった頭をおずおずと持ち上げると、毎朝丁寧に仕込んである長い三つ編みが、へそのあたりまでだらんと垂れてきた。
「確認させてください。あなたは、どこまで見てたのですか?」
ええと、と苦笑いで頬を掻きつつ、舞台で覚えるものとは違う類の汗が背中の辺りを舐めるのを覚えた。
「その、何を話していたかまでは分からなかったんだけど。二人がき、キスをしているところは見てしまいました、べ」
「……そうですか」「そう、か」
テメノスは微笑みの裏で若干気まずそうにしている、というふうに見える。ヒカリに至っては、緩く折り曲げた指で口元をそっと隠すような仕草を見せた。頬がほんのり色づかせ、幾度も目を瞬かせるという仕草はささやかなものに思えて、まるきり新鮮な彼の変化を証明してくれていた。
見られたのが恥ずかしかったのか、ひょっとしたら甘いキスの余韻が残っているのかも。彼にバレていないことを祈りつつ、でもやっぱりほわあ、と声を出してしまう。それから、背筋をしゃんとしてから、聞かなきゃ、と手のひらを強く握った。
「あのっ、二人は、その……」
アグネアが尋ねるより先んじて、テメノスがヒカリの手を取った。隙間なく結ばれる繋ぎ方。まるで彼と彼が合わさるべきピースであるかのようだ。
「お察しの通り、私達は、いわゆる恋人同士の関係です」
毅然と言い放つテメノスを一瞥して、ヒカリもアグネアに視線を据えた。
「……隠していてすまなかった、アグネアよ」
真剣な面持ちの彼らに反して、アグネアはパッと華やぐような胸の高鳴りにむずむずとこそばゆいような唇を波打たせた。
——特に、ヒカリくん、良かった、という気持ちが込み上げてきた。彼は気付いてないのだろうけれど、ウェルグローブでの一件以来、彼は目に見えてやつれていた。心配で、夜にこっそり様子を見に行ったり、戦闘にも参加しなくてもあたしたちでなんとかするから良いよ、と声をかけたりしたが、彼は大丈夫だの一点張りだった。ヒカリくんを助けてあげたいのに、もどかしくて、悔しく思いながらも、それぞれの目的のために一旦離れた。
あれから、彼の窮地をテメノスが救い上げた——とキャスティから聞かされた時は驚いた。けれど、納得はできる。テメノスはアグネア的にはミステリアスでちょっと変わっている気もするけれど、優しいひとだというのは、旅を通してよく知っている。
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