7/28「私たちを呼んでいる黎明へ」サンプル

一.「温もりを重ねたなら」

「……黒いな」
 閑古鳥の鳴くような小さな宿の食卓に静寂が揺蕩う。ゆえに、ヒカリはオズバルドの呟きも容易に拾い上げることができた。
 だが、以後誰かが返答を返すこともなく。ただ黙々と食事を口に運んでいく。
 目下に気を取られ、難しい面持ちをした彼の視線が自身に向けられていることを認めるのには、少し時間を要したのだった。ヒカリは首を傾げた。
「……俺の顔に何かついてるのか?」
「違う」
 即座に否定される。そういえば、今日は本を片手に携えていないのだなと今更ながらに発見する。珍しい事もあるものだ。
 彼は食事は二の次であり、宿に着くなり魔法学の書を読み耽るべく部屋に篭ることもしばしばある。此度はキャスティからお小言貰ったのだろう、きちんと朝食の時間に間に合わせてきた。
 オズバルドは不意に、目下へ指先を当ててみせた。
「?」
 意図が分からず、頭に疑問符を浮かべているとキャスティがそっと立ち上がり、「ヒカリ君、最近眠れているかしら」と柔らかな笑みと共に尋ねかけてくる。
「……少しは」
 答えながら、つい目を背けてしまう。この時点でもうキャスティは察してしまっているだろう。
 このところ何日かは、ろくに眠りにつけていない。その上昨日からは食欲も湧かなくなってきてしまった。心配をかけまいと、皆と同じテーブルを囲む際は面に出さないよう無理矢理に胃に収めている。弱った胃腸を半ば無理やり稼働させているためか少し気分が悪いのだが、顔に出てしまっていたのだろうか。
「オズバルドはね、あなたの隈が日に日に酷くなっていくものだから、心配しているのよ」
 キャスティの指摘に、愕然とする。自分の見てくれすらも気が回せていなかったのか。
「それは……すまない」
「後でちゃんと診せて頂戴。あと、食べられないのなら無理しなくて良いわ」
 やはりキャスティには敵わないな、と思う。彼女の面倒見の良さは勿論、薬師として積み上げた経験がそうさせるのだろう、彼女は周囲の変化に目敏い。
「……人間は眠らなければ頭の情報を整理することはおろか、吸収する力も衰える。何より、疲労が残ったままでは本来の力も発揮できないだろう」
 澱みない口調で語り出したオズバルドに、先ほどから黙していたテメノスが驚いたように顔を上げた。
「出立は明日にする。お前はもう休むと良い」
 それだけ告げ、フォークを手に取り肉を切り始めた。照れ隠しのつもりなのだろう、オズバルドは不器用なだけで、心根は優しい人物だ。
 胸の辺りがほのかに温かくなるような覚えがして、ヒカリはそっと綻ぶ。
「お言葉に甘えておきましょう、ヒカリ?」
 そんな自分の表情に気が付いたのか、テメノスは白髪の裏にあるまなじりを緩めた。口元は揶揄めいた弧を描き、ヒカリの二の腕を小突いてくる。
 皆、優しい。
「ああ……そうさせてもらうとしよう。ありがとう、三人とも」
 重たい腰を上げ、椅子を机に戻しておく。
「ええ。——ではまた後で」
 ヒカリが背を向けて程なく、テメノスが溢した何気ない暇乞い。
 どこか含みのある口吻であると気付いたものは、誰もいない。

 ◆

 蝋燭の火が揺らめいては直立するさまを、うっそり眺めていた。
 埃臭く侘しい部屋の窓からは、混じり合った虫の鳴き声が漏れ出てくる。
 ヒノエウマでは感じられぬ夜の生命の息吹は、旅を始めたばかりの頃のヒカリにとっては一種の趣深さを感じさせる。初めて目に飛び込んだその時の、心の揺さぶりや鮮烈なる情景は今もなおくっきりと記憶の中に残り続けている。だが——
 目を閉じさえもせず、ヒカリはじっと床に転がっていた。薄い布を下に敷き、それよりも、少し厚手の布団を被せてある。
 城下町で過ごしていた頃は、床に布団なるものを敷いて寝ていた。すっかり板についてしまい、天蓋のベッドなんかよりもこちらの方が好ましくなっていった。
 寝返りを打つ度に木の板が軋む。明かりはあれど、やはり夜は暗く、寂しい。
 真反対に、頭の中でひっきりなしに無意味な言葉の羅列が飛び交っており、煩わしいことこの上ない。
 ヒカリは寝間着の胸元を強く握り込んだ。血が滲みそうなほど爪先が食い込む。
 そうでもしなければ、自身を取り巻く音、温度、触覚全てが煩わしくなり、本当に気が狂ってしまう。
 何者であろうとも、傷つけたくは無い——誰かや何かを憎むよりも、手を取り合うべきだ。彼らは友であるから。それがヒカリのたっての願いである。
 しかし、ひとたび夜の帳に飲み込まれてしまえば、その願いは酷く遠くにあって、手繰り寄せようとしたなら崩れ去ってしまうような脆く儚いものに思えてしまう。
「……俺は、何を」
 碌なことを考えつかない。
 オズバルドが言っていたように、不眠によって思考が鈍っているのだろう。一度でも深く眠ることができれば、余計な思索は払拭できるはずだ。
 だが、目を閉じてしまえば。
『……ヒカリィ』
「……っ!」
 落としかけていた瞼を咄嗟に開く。条件反射で側に掛けてあった刀を手に取りかける。
 ウェルグローブ近郊で将軍・ロー相手に刀を振るって以来、陰が這い寄る頻度が増えてきた。
 夜、目を閉じると血濡れたような赤いまなこを妖しく揺らめかせ、ヒカリの名を呼ぶ。何度も、何度も。『ヒカリィ、なあ、ヒカリィィ……』
 臓腑を這い回るような気色悪さに、こめかみを冷や汗が伝う。
 他者に嫌悪を抱くことが殆どないヒカリであっても、この陰の存在は酷く忌まわしいものであった。残虐で衝動と本能のままに暴れ狂う、さながら躾のなっていない子供のようなこれは、何度拒もうとも這い上がってくる。
 また、眠れないのか。
 呼吸が浅くなる。心音がやけに速く、裡に響いて喧しい。
 明けることのない夜に独りきりだと錯覚してしまいそうになる。この冷たく無機質な暗闇からは抜け出せないのか。
 酷く、恐ろしい。
「……ッ、誰だ」
 扉の向こうに人の気配を察知し、ヒカリは錘のような身を起こした。気配の主を睨め付ける。
 敵意は感じられないが、巧妙に隠せているやもしれない。
 刀を今度は強く握り、構えを取る。——が、見慣れた白を目にした瞬間、戦意は霧散した。
「……やはり起きていましたか。ヒカリ」
 彼が敷居を跨ぎ、ヒカリとの距離を詰めてゆくうち、蝋燭の灯が彼のかんばせを照らした。
 淡い微笑み。見慣れた表情だ。
 一体、何の用があるのだろうか……。
 ヒカリは困惑し、考える。随分夜は更けている上、テメノスはいわば長眠者ロングスリーパーに近く、きちんと眠らないと落ち着かないと話していたのを知っている。
 ゆえにわざわざ訪ねてくるということは、よほど大事な用があるのだろうと思い至る。
 だが、まずは非礼を詫びねばならない。
「すまない。気配を感じて咄嗟に——」
「構いませんよ……それよりも」
 自身の脇をすり抜け、テメノスが目指していた先。それは壁際の小さな棚であった。
 あ、と声を上げた時にはもう遅い。
 キャスティが直々に調合した安眠草を練って作られた丸薬。服用すれば大抵の人間は快眠できるという代物だ。彼女には悪いと思いながらも、口にすることは叶わなかった。
「キャスティからもらった安眠薬、服用していませんね」
 指摘とともにスッとその目が眇められる。ああ、これは。
 テメノスの得意とする審問が始まる手前のそれだ。
「……そ、それは……ええと、すまない」
 じっと見つめられ、ヒカリは辟易としてしまう。 お互いを高め合うために剣で語らうならまだしも、このように一方的に探られるのは苦手だ。
「謝って欲しいわけではありません。あなたのことです、何か理由があるのでしょう?」
「それは、そうだが」
 本当のことを打ち明けるべきか——逡巡して、口籠る。
 沈黙が続く。その間、テメノスは特に急かすこともなく壁に背を預けていた。
 この陰のことは、己からは誰にも打ち明けたことがない。ク家と繋がりの強い、それこそ城内の要人達は把握しているが、旅の友は当然異国の血族に関することなど知るはずもない。
「実を言うと……眠るのが怖いのだ」
 陰が這い寄るから、とは言えない。
 伝えようにも、発しようにも、喉の奥で何かがつっかえるようでままならなかった。
「ふむ。ではやはり、眠れないのではなく眠らない[#「眠らない」に傍点]のですね」
「……え?」
 特に深掘りする質問を重ねることもなく、テメノスは耳に届くか届かないかの呟きを繰り返しては、ひとりでに頷く。そんな彼にヒカリは戸惑い、眉根を寄せた。
 そんな自身をよそに、彼はなぜか背負ってきていた布袋を床に乗せ、中身を探り出した。この目を瞬かせ、彼が手に掴んだものを覗き込んでみる。
「それは……香か?」
 ク国では馴染み深い形状だ。かつては王族や貴族層が独占していたものだが近年は庶民にも普及されつつある。
「やはり、知っていましたか。街の行商人から買い取ったものです。ヒノエウマの出身だそうで事情を話したらまけてくれたんですよ」
 淀みなく話しながら、蝋燭の火を先端にあてがった。
 すると、たちまち細い煙が天に伸び、充満する。
 どこかで嗅いだことのある香りが、鼻腔を満たした。
 確か、麝香《じゃこう》——鹿の魔物から採取できる僅かな分泌液を乾燥させたものを香木と調合したものだ。ヒカリは口元を微かに緩ませた。
「安らぐな……ク国でも似たものを焚いてもらった覚えがある」
「それは良かったです」
 隣に母がいた頃、寝室で街を駆け回り、街の友たちとの出来事を話すのが日常の一部だった。
 母はその際、侍女に頼んで香を焚いてもらっていたのだ。甘く雅で、不思議と心が和らぐ、そんな香りだった。
 母のことを思い出す度、この胸に波紋のような痛みが広がる。一度落とされれば、全身に巡った。
『許せねェんだろ? お前の母を殺した奴らが』
「……く、」
 黙れ、と叫びかけて留まる。テメノスのいる場で取り乱すわけにはいきまいと代わりに深い呼気を吐き出した。
 落ち着いてようやく、彼がせっせと布を広げている様が目に入った。
「……何を、しているのだ?」
「見ての通り、寝支度をしています」
「……」
 なんて事のないように答えられてしまうものだから、呆気に取られた。柔らかそうな枕を置き、それからゆったりとした所作でローブの留め具を外す。
「床で寝るのはあんまり経験がないのですが、たまには良いでしょう」
 カナルブラインで何度か耳にした年若い聖火騎士の嘆きに今なら共感できるだろう。
 ヒカリには、テメノスの意図が全く読めない。いや、布団を設えた時点で頭では理解ができているが、それを受け入れるのが難しい。
 隣の自分の敷布をぽんぽんと叩き、「さあ、ヒカリ。もう就寝の時間はとっくに過ぎてます」自分を招かんとするテメノス。その声色がやけに優しく感じられて、ヒカリは得心する。
 彼なりの気遣いだったのか。表面上は見せないが、かなり心配させてしまっていたのかもしれない。
 おずおずと布団に入り、テメノスと向き合う形になる。
 思っていたよりも距離が近い。彼の息遣いがこちらにまで伝わってくるほどには。薄暗さに慣れたこの目には、灯りを塗り込めた彼の肌を捉え、その白さがヒカリにささやかな驚きをもたらした。
「教会でも怖い夢を見たとかで、眠れない、もしくは眠らない子供は結構おられましてね。その時はこうやって一緒に寝てあげるんですよ」
「そうなのか」
 俺は子供ではないが……という指摘は野暮かと思い胸に留めておく。確かテメノスは本職以外では子供に紙芝居を聞かせることもしていたと聞く。物腰柔らかな彼ならきっと皆から好かれていたのだろうと思う。
「でも、私の子守唄は不評でしてねぇ」
「なぜだ?」
「歌詞を間違えるものですから、怒られてしまうんです。子供の記憶力は侮れません。聖なる炎に感謝と祈りを捧げましょう 清く青い星となれ〜♪のところが思い出せなくって」
 歌詞云々以前にテメノスはあまり歌が上手い部類ではないようだ。音が外れているのがあまり聞いたことがないはずの自分でも分かる。
「ふっ」
 意外であり、ついおかしくて吹き出してしまう。
「あ、いやこれは……すまない」
 気恥ずかしくなり、頬に熱が集まる。
 目前の彼は安堵したように微笑んでいる。その翡翠を彷彿とさせる美しい双眸に、自身が映し出されている。
 見入ってしまっていることに気がついたヒカリは、咄嗟に視線を逸らす。
「歌が上手くないのは自覚してるんで、構いませんよ。むしろ私の歌なんかで笑ってくれたのならなによりです」
「……ありがとう。そなたは優しい」
 今は別のベクトルで胸が騒がしいが、恐怖はかなり和らいだ。
 何よりテメノスが自分を気にかけていてくれたことが知れて嬉しく思う。
「いえ、お節介でなければ良いのですが」
 とんでもない、ヒカリはかぶりを振る。
「そんなことはない。このように布団を並べて眠るのも久方振りで忘れていたが……誰かが隣にいるというのは安心できるな」
 心からの言葉だ。テメノスは少し驚いたように瞳を揺らした。場に再び沈黙が広がる。
 橙色の灯火をぼんやりと眺めているうち、テメノスが口火を切った。
「手を、拝借してもよろしいですか」
「……こうか」
 布団の中で温まっている自らの手を差し出す。
 もう、躊躇うことはしなかった。
「……こうすると怖さも消えて無くなるはずです」
 おもむろに重なる感触があった。テメノスの自分よりも少し大きな手のひらが包み込んでいる。
 温かい。寧ろ少し熱いくらいだ。ヒカリはそっと目を閉じる。
 隣で眠るのも、手と手を通して互いの温度を確かめ合うのもいつぶりだったろうか。
 指先が手の腹をなぞる。それは羽で撫でるようであったり、強く引っ掻く手前のようなのを繰り返した。擽ったいのだが——妙な感覚を引き出される。ヒカリは閉じていた目を瞬かせた。
 夜ゆえ、感覚が鋭くなっているだけだろう。内心そう言い聞かせる。
「……テメノス。擽ったいのだが」
 咎めたらすぐにその手は引っ込められた。が、すぐに名残惜しくなる。先ほどのような触れ方をしなければ、手は繋いでいたい、と思う。
「その、手は離さなくていい」
 何も言わずに、テメノスは手を差し出す。今度はヒカリから重ねる。熱い、けれど落ち着く。
「ヒカリはもっと甘えることを覚えても良いんですよ」
 声が近い、気がする。それに、自分の背中をトントンと一定のリズムで叩かれる。子供にするようではないか、と抗議するよりも強く、眠気の波が押し寄せ、ヒカリは次第に船を漕ぎ始める。間を置いて、やや舌足らずにいらえた。
「……そう、だろうか」
 かつて母にも、こうして隣り合って寝付けてもらったことがあったことを思い出す。
 優しい音色の子守唄に、彼女の纏う香水の甘やかな香り、そして……温もり。
「共に旅をしている以上、皆で助け合っていかねば。それに、こんなになるまで誰にも助けを求めないのは頂けません」
 テメノスの言葉の半分も、もう上手く咀嚼出来ずに「…ああ」と曖昧な応答を溢す。薄目がちに、仕方ないなという風に微笑む彼が見えた、気がする。
「お説教は後で……今は、おやすみなさい、ヒカリ」
 手のひらの温かさによって、底抜けの安堵に包まれた。柔らかな微睡に溶かされるように、眠りへ落ちてゆく。
 ああ、そうだ——自分は決してひとりなどではなく、かつての戦友たちが、今は隣を歩いてくれる旅の友たちがいる。それだけで、どこへだって往ける。血を流さない、友たちが幸福を享受できる国に、きっと変えられる。揺らぎなき理想の灯火を胸に抱いて、普段の身体を丸める癖を無意識に作って、深く眠った。
 いつの間にか、常闇を纏った陰の声は聞こえなくなっていた。
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