雪降る夜に針は指す
鈍色を裂く
誰かが、自分を呼んでいる。テメノスが吹雪に打たれながら重たい脚を動かすたび、遠い日に慣れ親しんだか、或いは揶揄いたくなるような青い声が、何度も西から東へ通り抜けていった。
まだ先の景色が見ゆる程度に留まっているが、これ以上天候が荒れれば進んではおられなくなる。雪を凌げる場所に遭難まがいのことになりかねない。早足で宿に戻って、仲間と合流しなくてはならない。頭では、分かっているはずなのだが。
ひたすらに白銀の埃を被った針葉樹と、黒い土色から、再び厚みを取り戻そうとする雪化粧の獣道を辿る。目尻の方では、赤い防寒具を纏った恋人が、従順に後についている。本来ならばその手を握り、隣で歩幅を合わせるべきだった。それが出来ないのは、この震えた手を悟られたくはなかったからだ。寒さと言い訳するには、いかんせん、怯懦が見えすぎる。
テメノスを引き止める彼らの声は、無心を貫こうとすればするほど高まった。
最初は挨拶じみた気軽な口吻だった。記憶の中で揺蕩い続ける、若き我が友人たちそのものであった。
それからテメノスに疑問を投げかけ続けた。なぜここにいるのか。後ろにいるのは誰なのか。責務を全うしているのか——何気ない問いかけは、やがて疑念へ移ろい、猜疑へと変質し、呵責に行き着く。己を模った影は、インクで塗り潰したように真黒く、遠く点になるまで伸びていた。その方向を見やれば、彼らの姿が雪粒に混じり、曖昧に形を得ていた。蜃気楼を思わせたが、視線を真面に動かす間際、息を呑んだ。青白い顔が浮かび上がり、窪んだ眼窩を動かし、自身を見つめている。テメノスはこれに動じてしまった。脚を止めてしまった。
『からだが、もううごかない……さむい、さむい……——さん……おねがい、たすけ……』
『くるしい……さみしいよ……ねえ、きいてるんだろう……こたえてくれよ…… なあ、君は……』
「——!」
断末魔が颶風をすり抜けた。テメノスの知らない、彼らの死の間際を、雪の幻影は容易く作り上げた。皮膚に張り付いた氷が熱を奪う。少しでも気を抜けば、意識を刈り取られてしまいそうだった。その中でも、腕を締め付ける冷たい感触は異質だった。骨まで行き届き、千々になっても構わぬという強さの執念をもってして、自分をここではない、どこかへ連れ込もうとする。彼らの手だろうか。だとしても、テメノスの知る彼らではない。現世の人ならざる何かが、テメノスを誘い込もうとしている。
死へと誘うとされる魔の者は、一度魅入られたならば、自身にとって最も魅力的な姿をして現れるというが、今のテメノスを支配しているのは、死に対する幸福感ではなく、別のものだったろう。だが、最も賢しく、狡猾なやり口でもあった。古くから新しい深い傷跡を呼び覚まし、テメノスの口から明日を望まぬ裁定を引き摺り出しにきている。
長い年月、テメノスを閉じ込めた確執はカルディナを斃したことにより、終幕へと近づいていた。友人たちの墓前で報告を済ませ、旅を続ける理由は、後たった一つの根源を見つけ出すことのみ。
最後に扉を潜った昔日の友、自分の頭を撫でてくれた父のような彼と、それから……テメノスに託し、命を燃やして頽れた友人の姿が、走馬灯まがいの濁流となって雪崩れ込む。正しさが滲む。それほどまでに間違えすぎた。取り残された己は空虚だった。これが、テメノスという人間が選んだ道だったろう。自ら照らさなくてはならない冷たい暗闇に独りきり——飲み干し切れない苦痛はこの体の内側に埋め込み、足を庇ってでも、前へ、前へ。人間らしく、諦め悪く生きていく。
向こう側の誰か——女のような声が、テメノスに対し、疲れただろうと甘言を連ねた。今でなくてもいい。お前が苦しみから逃れたい時。明日さえも疑った時。お前の大事な友人も、その時は許してくれるはずだ。ここまでよくやったと。穢れた人の世から離れゆく喜びを分かち合い、祝福を授けるだろう。
「——!」腕を引かれた。今度は冷たくはなかった。むしろ熱くて、脈打っている。まるで生を叫ぶように。「——街へはそちらではないぞ……」生ぬるい何かが頬に触れた。ああ、そうか。これは、同じ、人のものだ。「テメノス!」
瞬く。荒ぶ冷気が身体中を締め上げた。それは、現実の痛みだった。テメノスは咄嗟に視線を彷徨わせた。一面の雪。鈍色の空。それから、あからさまに血相を変えたヒカリが、自身を見上げていた。ふと視線を落とすと、踵を浮かせ、テメノスの衣服を握ってまでして、何度も試みていたことが見て分かってしまう。
「あ、ああ……すみません」
続く言葉は無く、白いため息だけが溢れた。他に何か言おうにも、形にする前にほろほろ崩れ落ちてしまう。手のひらが滑り降りてきた。寒さに悴んだ、冷たい手だが、力強かった。今ここに自分以外がいることが、街が近づく度に実感となって降りかかる。
彼に己の弱さを晒したくはなかった。年嵩の男としての矜持もあったろうが、テメノスは時折、彼の直向きさに火傷をしそうな時がある。それを快く思うこともあれば、触れるのを躊躇うこともしてきた。つまりは、厄介で、拗れた心情。
宿屋でまず、キャスティ達に上着を剥ぎ取られたテメノスは、暖炉に手をかざした。橙色の、見慣れた火の色合。冷たくなりすぎた手のひらにはほんのりの暖かさすら、沁みてしょうがない。
オーシュットが軽やかにテメノスの側までやってきて、どうしたのかと訊ねてくるが、適当に交わすと、今度は何も言わずにじいと見上げてきた。大きな目だ。獣の耳があるけれど、今はリスに似ていた。くるくる自分のまわりをなぜか囲い、寄越されたブランケットと毛布でうりゃ、と巻きつけてきた。
それから、くんくん鼻を動かし始めた。絨毯の上で膝を立てて座る姿勢をキープすることを強要されたままのテメノスを怪訝そうに見てくる。彼女の鼻は鋭すぎて、こうされると妙な緊張を覚えなくもない。本人には全く悪気がないので、咎めたことはないが。
「ねぇ、めいたんてーさ……何か怖いことでもあった?」
言われて、どきりとした。否定することならいくらでもできたが、獣人の少女から放たれる言葉であることが、テメノスの行動を阻んだ。目を合わせられずにいると、ヒカリはパルテティオに何やら耳打ちされていた。気遣わしげな視線を受けた気がして、背を向けたが、居た堪れなくなる。
ヒカリや、旅仲間の皆が密かに気を回してくれていることは、己の知るところだ。
ストームヘイルという重々しい雪街は、何度足を踏み入れても、心がざわつく。それはもう、鮮烈かつ卒然にこの頭に染み込んだものだ。テメノスはもう、とっくに罹っているのだ。それは病であり、切り離せぬ刻印みたいなものでもある。
その場を後にしようとするが、逃げるように見えてしまったに違いなかったろう。貼り付けた微笑みを差し出すのは得意としているが、ソローネが無遠慮に自身の顔を覗き込まれると、顔を顰められてしまう。己は酷い顔をしている、らしい。彼女の言動の奥に、憂慮が混じっていることは、分かっているはずだった。だが、それでも振り切ってしまうのが愚かな自分のすることだった。
もう寝てしまおうかと思い、部屋の物に身体をぶつけるのにも厭わず、窓際の寝台に腰を落とした。月も雲隠れした宵闇の下、揺蕩う沈黙に身を委ねていた。しばらく待ったが、階段を駆け上がる手前に何か訴えてきたキャスティは追っては来なかった。代わりに部屋の扉を遠慮がちにこじ開けたのは、赤いシルエットの彼だった。テメノスの方に厚い服をかけて、彼は速やかに部屋の明かりを次々灯した。
ヒカリはもとより口数がさほど多くはないが、この時は敢えて何も聞かないでいるのは自明だった。テメノスから少し離れたところに、澄んだ横顔があった。唇を微かに結ばれているが、いつも綺麗な線を描く柳眉は解かれた黒髪が被さっている。幾分か瞬きの多いまつ毛に、テメノスを射抜くのに長けている双眸——彼を形作るもののひとつひとつは、どれほど深く見つめても飽きる気配がない。
だが、今に限っては悪手だったろう。気まずさが漂い、テメノスはいよいよ何か言わなくてはいけないように感じた。
「……雪街も、故郷も変わらないのです」
切り出してから、後悔が湧き上がるものだと思えば、そうはならなかった。口にしてから、本当は誰かに聞いて欲しかったのかもしれない、と気付かされた。それは秘密が秘密であり続けることは存外難しい所以のようにも感じた。白地のシーツを強く握り込むと、ヒカリがそれに触れてくる。彼は自身の話に何かいらえることはなく、その代わりに、頷いてくれた。彼には見えなかった、大切な人たちの幻影について、疑うそぶりも見せない。だからだろうか、つい吐露してしまった。「……私はこれから守り切れるでしょうか。大切なもの、全て」ややもすれば、握り込んだ手は、強引に握り込まれた。
「テメノスよ、俺を見ろ」
玲瓏な黒色の混じった明眸は、陽の強く照りつける中で育ってきた証だ。言われるがままに重ね合わさると、目の奥が焼けてしまいそうだった。彼の二つの瞳には、いつも覚悟が備わっており、気高く、侵し難いものであった。それは彼が大きな国の導き手になるという、遠くない未来をかざさずとも、彼を高貴たらしめるものの一つだった。
そんな彼だが、意を決した面持ちを僅かに晒したかと思えば、テメノスの背に腕を巻きつけ、抱き寄せてくる。彼の抱擁のはずが、自分がそうしているふうに感ずるのが奇妙でもあった。
ヒカリは首を精一杯に動かして、自分を見上げていた。そしてそれよりももっとたくさんの思いをめいいっぱいに押し出し、テメノスに向けて尽くしてくれた。
絶えず脈動を刻むあたりが熱を帯びた。目の前の人がひたすらに愛おしい。
これは紛れもない、恋情だ。彼によってもたらされ、自ら手を伸ばそうとした初めての衝動。
この温かさを、他の誰でもなく、自分が守りたいと思う。明日も明後日も、その先も、彼といたい。リーフランドの湖畔で彼と手を繋いで、好きだと伝えるのに逡巡は要らなかった。彼が頬を赤く染め上げて、テメノスに応えてくれたあの時の喜びは、暗闇を塗り替える明光だった。
今も、思い出す度に噛み締めてしまう。テメノスは彼の背中を掻き抱いてしまいたくなったが、腕をそうっと回すだけに留めた。
「……テメノスよ、今宵は共に寝よう」
耳を疑った。聞き間違いでなければ、彼は共寝の誘いを口にした。恥じらいなき真っ直ぐさが現実のものであることに疑いを抱かせた。
彼をこの身体で愛することは密やかに思い描いてきたことだ。テメノスの衝動的なキスを受け止めた彼は、酷く可愛らしかった。段々と自分に甘えることを覚え始めていたから、やっぱり腕の中で愛されてて欲しいし、彼のために尽くしたかった。
テメノスは否定も肯定も出来なかった。耳をこの間ジャムにしたばかりの木苺のように色付けて、その発熱した身体を側に据えた。
「……変ですね、前とは逆な気がします」
その前とは、彼と手を繋いで眠った夜のことだったろう。テメノスはあれからヒカリの様子をさりげなく気にかけるようになっていった。同室なことも多かったので、余暇にちょっとしたボードゲームに誘ったり、おやつを分けたりと、会話の機会を増やした。顔色も隈も少なくなり、寝息も穏やかだったので、胸を撫で下ろしたものだ。今思えば、その時から自分は彼のことを考える瞬間が嵩むようになっていた。
もっと早く己の想いに気が付けたのなら、何か違ったろうか。ヒカリは奇跡的に助かって、今ここで心臓を動かしている。己の過ちばかり繰り返す愚かしさに、自棄になるか、もしくは二度と繰り返すまいと、遮二無二雪街へ帰るか。そんな行動を起こす己もいてもおかしくはなかった。最後に選び取った信じるという決断には、大いなる勇気が要ったと、今でもそう思う。
彼は帰ってきてくれた。その有り難みは時間が経っても薄れない。二人きりになると、眠る前には彼にハグをして、恋人同士の挨拶だと口にしながら、その実、温もりや鼓動の音を安心材料にしていた。
ヒカリはいつまで経ってもテメノスに触れてこなかった。毛布は薄いが二人分の熱をよく吸い込む。
彼に暴かれることを恐れているわけではない。ただ、望まれるようにはならないだろう。上面はともかく、元より可愛げのない性質の男が艶めいた声や仕草で媚びるのは至難の業だ。ヒカリがそういう幻想を抱いているのならば先に謝ったほうが良い気さえしている。
「……ひとまずは、こうしていれば温かいはずだ」
鼻白んだ。ヒカリの声色は穏やかで、柔らかい。自分の快い眠りのために本当に努めてくれているだけだった。自分の勘違いが先走っていたのだと内心猛省して、遅れて安堵の溜息をゆっくり吐き出す。なんだ、言葉通りだったのか。
そうなると動揺はあっという間に霧散した。彼の鎖骨からシーツまで溢れる黒髪を指で絡め取り、馴染ませながら、テメノスは彼の了承を得てから、この腕を使って引き寄せた。
自分よりも頭一つ分くらいは華奢だと思っていたが、実際にその身体を抱き包めると、テメノスの内側に収まってしまう。初めての新鮮な驚きは、今も引き出せるほど。
つむじに鼻を埋めると、彼はみじろいだ。染みついた汗の匂いと、甘やかな香油も混じっている。頭の裏に湯浴みをする彼を秘密裏に想像してみる。髪を結ったままで入浴するのが彼の常だった。身体を先に濡らし、水気を帯びた指先を肢体に滑らせ、存分に洗い流す。髪の世話は、その後に丁寧にやってるのだろう。毛先の雫が湯に打たれ、火照って赤みを帯びた身体に張りついているさまは、清さと艶めきを同時に成り立たせているのだろうと思った。
そんな煩悩じみたテメノスの頭の中身を覗いたわけでもあるまいに、ヒカリはなんだかもじもじとして、恥じ入る子供のような仕草を見せた。
可愛らしい。期待しているのに、それがなんたるかが分からずに困っている。折り曲げた膝と足先を擦り合わせて、テメノスの胸板に忙しない吐息が吹き付けられた。我ながら狡いと思いながらも、彼を試すことにした。
ヒカリはどこまで穢れがないのだろう。少年の頃から教わらなかったのかもしれない。だったら自分が知識を一から彼に与えねばならない。ちょっと責任重大だが、恋人に費やす苦労を面倒だと思うことはない。
しかしヒカリは根っからの真面目なので、何かしたい、と口にする。微笑ましい。その従順さを好ましく思うのに、こういう時、自分は天邪鬼だ。指の隙間から、黒髪がすり抜けた。
「あなたが私のために色々してくれている、そのことが分かるだけでも十分すぎるほどですよ」
癖みたいなものだった。それも悪い類の。目敏い彼が憮然とするのに気を配るのも束の間、体躯に見合わぬ膂力を持ってして行われた先制の技がかまされる。テメノスは視界が半ば強引に反転させられるのを拒めず、寝床に背中を預けて、彼を見上げるしかできない。
濡れた黒の傘がしなだれる。視界を遮るいっとう濃ゆい色彩は、暖炉の灯りも見えなくする。首筋や頬骨をかゆい程度に掠めてきた。
視線がテメノスの口元を撫ぜ回していた。奪うか奪わないかで迷っているらしい。初々しい唇は、まず目尻のふちに押し当てられた。女も男も、唇は柔らかく作られているのがよく分かる。息づいているそこは、素肌に触れるたびに熱さも荒さも溶け込んだみたいによく分かる。 彼は時折、ん、とかふ、なんて鼻に抜ける声を漏らした。瞼に触れ、テメノスの人より長いまつ毛をさりげなく擽られる。その時の彼は、普段の凛然でも力強さもない、いっそ慈愛に溢れた顔つきをしていた。テメノスは堪らなくなる。彼をこうさせたのは自分なのだ。想われているということが一目で分かる色というものは、本物であり、疑いなんぞ消し飛ぶ。目と鼻の先で起きてい征服行為は、いささか彼の愛らしさを際立てすぎている。頬にリップ音付きで吸いつかれたら、何かの衝動を得た。
愛撫めかした行為は首周りにまで及んだが、生温い感触が肌を濡らしたのを認めてからは、ヒカリの様子が豹変した。テメノスはかぶりを動かして彼の面持ちを覗き込む。発汗している。それも顎先に伝うほど。
——覚えならある。厄介なものが彼を唆しているのだろう。
肌が粟立つ。ヒカリの明眸が鈍い赤を孕ませているのを見た。ひゅ、と呼吸に喘鳴が混じり始めると、テメノスは本格的な危ぶみを覚えた。脊柱の眠るところに触れると、小刻みに震えていた。
自分達には、戦うべきものも、越えるべき壁も、照らし出す道もある。それでもこうして手を取った。ヒカリが踏み込みに来てくれるように、テメノスもまた、彼の深くまで手を伸ばすことになる。
覚悟ひとつ、差し出すのはやぶさかでない。テメノスは大切を守りたい。もう間違えるのも失うのも絶対に御免だし、彼との未来が見たかった。その未来というものがやや漠然としていたり、テメノス自身、想いも覚悟も備わっていても、踏み込まれるのに躊躇いが全くないわけではなかったりするが——それでも、この先二人は深くて悠揚で、未知なる愛とやらを築き上げる。じっくり丹念に成形して出来たものが素晴らしいものであると切に願っている。そのための努力は勿論惜しまない。
陰とやらは、ヒカリをよく苦しめる、己らの障壁だった。目に見えずとも悍ましさをこれでもかと発露して、テメノスを挑発、ヒカリを蝕む間も彼の背中越しに敵意をふんだんにぶつけてくれた。侮るな、と思う。「……ヒカリ」
テメノスが呼びかけると、彼はガラス玉のような澄んだ目を瞬かせた。戻ってきてくれたようだった。しかし、まだ黒い霧は漂っている。
身を起こし、狼狽える彼を抱き込み捕獲した。汗の匂いと湿ってしまった黒髪も丸ごと降りかかるが、全く構わない。寧ろ子猫のように縮こまり弱ってしまった彼を慰めるべく、舐めて毛繕いしてあげたいほどで、これまた全く抱いたことのない初めての欲求だった。
片脚を自分に乗り上げさせて、顔を寄せた。彼はいじらしくも予感に瞼を結ばせたが、テメノスはそれに応えるのには慎重になった。これからを見定めている。かわいい、大事にしたい。愛し子への愛情によく似ている。だが、それだけじゃない。テメノスの喉奥は渇きを覚えている。それは本能的な飢えだった。腹が減ればその分だけ物を体に取り込むし、貪りもする。それとおんなじだった。とどのつまりは、彼が欲しい。自覚すれば、口渇感が増した。
聖火神に仕え、愛を讃えど、色欲は遠ざけてきた身である。側にいる男と清く正しく慎ましく想いを通わせることは許されても、体を交え、溺れてしまうなど、あり得ない。
指一本、これが折衷案だった。見ず知らずの凶暴さが吠えたとて、テメノスは彼を抱けないだろう。ひと月前から自覚して、急加速して願った恋心。これの境界線ひとつ越えて、彼と身体の契りを結ばせるのを恐れている。そうなってしまったら、ただでさえ言うことを聞かない熱情はテメノスの多くを満たしてしまう。そうしたら、損なった時この心は息絶えてしまうだろう。
彼の口の中へ潜らせるのは容易かった。同時に彼の無警戒が危うくて憂いもした。
滑る中は熱くて、柔らかい。直肌越しに感ずる乱れた息遣いは、眠った嗜虐を掻き立てた。頬裏は摩ると吸い付いてくる。溜まり込んだ唾液をわざと音を立ててかき混ぜた。彼の黒いまなこが潤む。それだけでなく、幼さを内包した熱を帯びてゆらゆら、自身を見上げている。それはまごうことなく、己に引き出したもので、鮮烈な艶かしさに密かに唾を飲んだ。はあ、とこじ開けたところから精一杯の息が鼻梁まで触れた。
口を開けたままなので、当然、よだれも垂れてくる。唇の下の窪み、それから顎へ、首の喉仏まできている。透明の蜜が、幹を流れ落ちている。舐めてみたら甘いのだろうと思った。
唾を密かに飲み、指を一本追加して、舌で挟み込んで柔く引いた。眉根を顰めて、くぐもった声が溢れでた。ダラダラ出てくる涎で濡れる。
口の中にも性感帯はあると聞くが、続けているうち、ヒカリは一方的な蹂躙に何かを拾い上げて、無自覚に腰を揺らしていた。いじらしい。立ち込めた淫らな予感に打ち震えた。この夜の力を借りて、彼を暴いてしまいたい。骨の髄まで食べ尽くしたい——
卑しく、穢れた欲を彼に抱いていたことを、まざまざと思い知らされた。
自己嫌悪と浅ましい劣情の狭間で気が狂いそうで、テメノスは吐き捨てるように、己は彼の思うような優しさも、清廉さも何もないのだと口走った。
指を引き抜き、綺麗にしてやるべく舌で舐めてやる。やっぱり甘い。汗のしょっぱさにも厭わないで、自分の体液で塗り替える、一種のマーキングみたいに繰り返した。ヒカリが、「あっ……」とか細く鳴いたら、もういけないと思い、「すみません」すかさず彼のそばから離れることにした。
「待ってくれ、テメノス」
今度はヒカリの方がテメノスを呼び止めた、彼は乱れた息を整えるべく、深呼吸を挟んだのち、先ほどのはどういう意味か、と訊かれた。
そこからテメノスは、理性的だとか、彼の思うような優しさは、ちゃちな仮面の形をしていて、ほんのちょっとの拍子や切欠で剥がれてしまう脆弱さをまざまざと思い知った。それを要約して、彼に伝えた。するとかぶりを振り、何がいけないのかという返答を賜った。
「俺はそなたの全てが欲しい。テメノスを好いているから……」
この場からいっそのこと逃れたかった。従順なヒカリはいっそ慈悲なくテメノスを貫いてみせる。全てが欲しいなんて、そう易々と口に出来るのは、彼の心も魂に至るまでもがひたむきだからだ。
全てが欲しい、その言葉はあまりにも曇りもかけらもなかった。澄み切っている。宵闇と明るみの狭間で、どちらも包める。
まさしく、陽のひと。今もなお揺るがず胸に抱いている所感が降りてくる。優しい温もりが、テメノスの乾いた喉を浸し、頭のてっぺんから爪の先まで瞬く間に行き渡る。
ヒカリは自身の乾き切った手を掴み取った。意表を突かれるのも微かな間、唇で挟み込むなんてことをしてみせた。臆面もなく舌の全部使って、テメノスの指の付け根から、隙間までをねぶる。折り目に歯が触れたら、舌先で宥めてくる。そうして口の中に収まるだけ迎えたら、味なんかしないのに、赤子みたくじゅうっと強く吸われた。
目の前が眩む。頭は彼が自分の欲望を彷彿とさせ、穢らわしい想像を掻き立てた。彼は物覚えが良いが、無自覚なのがたちが悪かった。強気な上目がひたりと合わさる。
やはり彼は自分を買い被っている。こんなことをされては、理性がもたない。
平静を取り戻すために、二人、寝台に腰を落ち着かせた。生半な距離感も、そのうち慣れるだろう。
「俺も、そなたが思うほどではない」口火を切ったのは彼の方で、咀嚼してすぐに心の中身を読まれたかと見紛う。彼は苦く微笑んだ。「白状するが……先ほどそなたを組み敷いた時、陰が囁きかけてきたのだ。そなたを手篭めにしろ、と——」
「陰、というと……あなたの中にいるというもう一人の自分、でしたか」
視線を巡らせるが、もう気配は感じない。
己の中に別の存在がいて、脅かされるなど、並大抵の精神力では耐えられないはずだ。テメノスは彼の苦しみを字面や彼のつまびらかな様子を掻き集めて、照らし合わせては、人の痛みを完全に理解するのは難しいという摂理に呻く。そして、自分であったなら、と置き換えて、もどかしくなった。
「……俺はそう遠くない日に奴と戦う。そして、打ち勝たねばならん。消すことは叶わずとも、だ」
ヒカリは忍ばせていた手を握り込んだ。ここにはない、何かを見据えて、決然を湛えていた。いつかの寝屋で、力なく繕っていた姿からは想像もつかない。
もうすぐ彼の昔からの友人であり、鷹の目を持つという軍師、カザンからの報せがくる。皆が皆、目的を果たしつつある旅だが、誰一人抜けない。ヒカリの大きな革命にも、全員が加わる意思を示していた。
「そなたにはどうか共に来てほしい。見届けてほしいのだ」
来てほしい。その一言を彼から瞭然と口にしたことに、テメノスはかつてとの大きな違いを感じ取った。
「……ええ、勿論」
その手を取っても良いのだろうか、という迷いは飲み込んだ。
テメノスから、引き寄せるべきだ。彼は優しいから、自分から離れようものならばきっと追ってはこないだろう。それよりよ、一番大切な彼の本懐を貫き、果たしにゆくに違いなかった。今、そんな高邁な彼に求められている。幸いなことこの上ない。ただの神官が、なんの巡り合わせか砂国の王子と出会い、こんな所まで来た。つぶさに言えば、近い未来での彼の革命に加わるだけならまだしも、恋仲にまでなっている。何度唱えても現実か疑わしい——
「あなたは強いですね。時折、目も開けていられなくなるほど眩しいのです」
快いが、輝きは目の奥が痛む。
ヒカリは言う。自分のそばで笑ってほしいのだと。好いているから。彼の方がよっぽど、気持ちを伝えることの大切さをよくよく知っていて、この恋路を上手く辿れるのではなかろうか。
不思議と彼と顔を寄せ合ってしまう。ヒカリは我に返ったそぶりを見せて、恋をするのは初めてだと、どうしたらいいのか分からないと震えた声で打ち明けた。
テメノスをもっと知りたい、と彼は何度か口にしていて、それが今になってゆっくり染み渡ってくる。
一緒に歩いて来た旅路だ。多くのことを知った。だが、これからは扉を潜り、互いの内側へ、足を運んでいかなくてはならない。
新しい門出は、最近済ませてばかり。それも二人とも勝手がわからない。感情の波に攫い攫われて、身を引き裂かれる苦しみも超え、天に昇る幸いを分かち合い、どこまで行くのだろうか。
「……私も、あなたをもっと知りたいです」
黒髪を掻き分ける。彼の美しさを司るもののひとつ。これを耳へ引っ掛けてやると、たちまち清らかな頬は淡い桃に色づいた。この見目も、心の作りも、引っくるめてヒカリが好きだ。今はこれで良くって、畢竟、二人を結びつけている核の一つだった。彼を喜ばせてやりたいという、降りてきた第二の衝動にまつろう。
頬に触れ、唇を奪えば、恋人は目をまろくした。あれだけ猛者の強烈な一撃をいなし、受け止め、反撃さえ与えてきた彼だが、テメノスの不意打ちのくちづけには何とも簡単に真面からやられてしまうのが不思議で、とても好ましかった。
自分のものより肉厚だが、小ぶりな感触を愉しむ。形や温度を微細に感じ取りながらゆったり唇を動かし、この中の熱さを脳裏に甦らせた。ああ、だから、本物のキスをしてしまえば、テメノスで埋め尽くせてしまうだろう。
「こういうの、嫌だったら言ってくださいね」
本当ならば、もっと時間を掛けて段階を踏むべきなのに、予定なんぞは狂わされっぱなしだ。この調子では彼を呆れさせるだろう。
だが、ヒカリは首が千切れるくらい振って、そのくせして自分で恥じるという、なんともおかしな行動を見せた。その一連の愛らしい所作に胸を衝かれ、表情のひとつも動かせないでいると、今度は口をもごもごさせ始めた。
「嫌ではないから……その」テメノスはちゃっかり腕を回して離れないようにしてから、目線を下に合わせてやる。「ん?」彼は小さく呻いてから、意を決したように発した。
「ちゃんと、してくれないか……? 前、みたいのを」
ちゃんと、前みたいな。胸の内で反芻して、当時への羞恥やら気まずさがやってくる。
あの時は、どうにかしていたのだ。想いを通じ合わせた高揚と、今すぐにでも彼を自分のものたらしめたいという、稚拙な叫びに突き動かされていた。
「……そうですね、上書きしないと」
呟きは手のひらに閉じ込められて聞き取られはしなかったろう。
彼が望むのなら、そのままに……だが己の欲にはしっかりと自重するよう言い聞かせておかねばならない。先制の代わりに雑に呼気を吐き出す。今もこの先も自分だけに許して欲しい場所へ、蜜に誘われた蝶のような心持ちで舌の唇を柔らかく食んだ。
「ふっ……ん、ぅ」
緊張するあまり目を閉じることも忘れている様子のヒカリだが、テメノスがバードキスを繰り返すうち、表情が和らいできた。
口を開けるよう促す。おずおずとうっすら空いた隙間には、赤い舌が奥ゆかしく待っている。そんなふうに見えた。
実際に確かめるべく、ひと月ぶりかの彼の口腔へと潜った。中に火でも眠らせているかの如く、火傷しそうな粘膜がの感触が直に入り込んでくる。でも、互いの息遣いが溶け合うと、かつてなく充足感を覚えた。
背中の衣服を手のひらが強く握り込んだかと思えば、テメノスの白髪にしがみつかんほどに手のひらに力がこもる。腰を支えてやり、彼の体を掻き抱いた。
「はぁっ、ん……っ、ふぁ、ん、ぅ、は、ぁ」
「……は、」
ヒカリの舌は縮こまっていたが、それを絡め取って攫うのは容易だ。唾液を乗せた熱くてやわこい彼の舌とぴったり密着してるだけで、とびきりに快くて、幸せだった。何より、ここだけでこんなに悦くなれるなら、二つの体のあらゆるところが噛み合うのだろうという、そういう確証めいた実感も同時にやってくる。
テメノスはすうと目を細め、鴉に対する小鳥のような大きさのそれを、じっくりたっぷり愛で始めた。
さっき指で弄ったからか、彼は口の中を自由に弄るキスで背中を逸らすくらいには感度は良好であった。蕩けそうなまなこは、未知の荒波にまんまと飲まれているのが如実に見てとれた。愛らしいが、それに比肩するほど色めいて映る。
「ん、んっ、ふぁ、あ、ぅんっ……ふ、うぅ」
唾液はどれほど啜っても苦にならない。寧ろ自ら貪っていた。
おかしなことに、今、自分自身が一番当惑している。他人を求めるということを知らなかった。本能的に欲しいと思う誰かを前にして、己はこれまでとおんなじ自己でいられるという、確固たる保証がまるでない。
「むっ、んんぅ……っっ、ふぅ、ん、は、ぁ」
口をぴっとり合わせて至る所を弄ってると、いよいよ彼を食べているみたいだった。自分の舌で好き勝手に虐め尽くせるし、テメノスに対抗する気も失せたらしく、すっかり大人しくされるがままの彼の苺みたく甘くて赤い舌を引き摺り出してみて、強く吸ってやる。「んっ、ううっ、ん」瞼をぎゅっと閉じて眉根を潜ませて、彼は懇願するようにテメノスを見る。
もっと虐めて欲しいのだろう。そういう顔をしている。強請る時もそうだが、少なくともテメノスにとっては、彼の望みは顔つきで分かる。こんな指折りの可愛らしさを、読み違えるはずがなかった。
頭を存分に駄目にしてくれる。つぶさにいえば、彼を蹂躙するために、もっと酷いことをしたくなるのを、抑えるための枷が上手く働かない。
「は……っ」
——これ以上は駄目だ。戻れなくなる。警鐘がけたたましく響もすが、なんら役に立ちやしない。テメノスは自分自身のことを理性的な人間だと、根底ではそうやって自負していた。だが、そういったある種の侮りと、慢心の鱗片さえ、彼の前ではぼろぼろに崩れた。
身体の力が抜けてしまったのか、凛とした黒みのあるまなこは蜜蝋のように蕩かして、本当に身体ごと溶けてしまいそうなヒカリを、寝台に縫い付けてしまう。
何をされるのか、という期待を孕ませて、ヒカリは目尻に水を湛えて己を待っている。もうあの禍々しい赤は宿っていない。テメノスは呻くが、口の彼方に飲まれた。更に己にのめり込ませたいという昏く強い欲が後ろめたい。ようやく手に入ったこの青年を、もう二度と離さず、守り抜くという根底が、こんな醜く形を作ることが耐え難かった。
最後の契りを交わすのに、己は相応しくない——理想論だとしても、許し難い。
もっとちゃんと彼に与えられるくらい、綺麗で濁りのない愛にしたい。それは己の三十年程度の生涯と、男としての矜持、加えて彼への敬意と情愛を捧げた誓いであった。
テメノスが謝ると、ヒカリは気にしていないとすぐに許してしまう。殴ることだってしてくれなかった。自分の思った通りの返答に、安堵と今さっきの真新しい決意を固めた。
柔らかいリネンの上に横たわっていたが、この目は冴え冴えとしている。ヒカリは自分とおんなじ二人分がぎりぎり収まるこのベッドで寝る心づもりのようだったが、その通りにしてぐっすりになれるかは判然としなかった。子供を寝かしつけて自分も隣で、というのならば慣れたものだが、日々強い恋情を抱き、募らせている男の隣は落ち着かないだろうと思う。いつか彼と眠れたことが、今はもう遠い出来事のようだった。
テメノスは彼を夜のささやかな茶会に誘った。甘ったるい菓子はプレートに、蜂蜜塗れの檸檬は小さな小皿に盛り合わせた。抽出した茶葉の安らぐ湯気が、備え付けの小さなテーブルに隣り合い、口をつける前から頬の辺りがほかほかする。
ヒカリが楽しそうにしてくれているのが、いっとう嬉しかった。性格柄、はしゃいでいるわけでもなければ、言葉にして何度も自分の気持ちを頻繁に口にしているわけでもない。けれども、醸すものからよく分かる。テメノスには、分かる。
テメノスもまた、彼には笑っていてほしい。花のように綻ぶと、自分の胸も華やぐみたいになる。
「——夜にこっそり味わう菓子は甘美なものですよ。誰かと分かち合うと、殊更にね」
子供の頃は教皇がこっそりくれた。幼く、感情の制御ができないから、テメノスが泣いてしまうと彼は慌てるのでお菓子を貰いやすかった。その割には、嘘泣きはすぐにばれた。
ロイとは、街のものや外から頂いたクッキーや飴などを、二人で分け合った。あの時の彼の、悪戯っぽく白い歯を覗かせた笑みは、ずっと忘れない。
テメノスは彼が帰らなくなってからは、教会で子供たちの相手をするときに隠しておいた飴玉を渡す。中々使わない手だが(中には味をしめた子が、ポケットに菓子がないか弄ってくるので)これをするとよく喜ばれた。
テメノスは揶揄い混じりのつもりだったが、ヒカリの反応は想定より異なった。
寂しげな、と言えばそうだが、面持ちがほんの少し強張った。それは彼が某街の闘技場で見せた敢然からは遠く、密かの森で見せたものとは異なった。
なんとなく、似ている気がする。だからだろうか。あの夜も、今も、彼を放ってはおけなかった。この手は躊躇いなく伸ばされて、あえて気軽な調子でフォークに身を貫かせた檸檬を彼に食わせてやっていた。
ヒカリはまだ、テメノスの手の届くところにいる——まるでいつか本物の天道のようになってしまうかのような言い草だ。先のことなど分からない。だが、そう思ってしまうのは、今現在、願わくばこの先も、自分は彼との未来を望んでいる。その証だったろう。
今宵、ヒカリがいてくれて良かった、と誠に思うのはテメノスの方だ。吹雪の中、幻影に囚われかけた自分の、この腕を強く引いて明るみに連れ出してくれた。彼そのものの注ぐ、優しい陽だまりが、貼り付けたもの全部、濯いでしまえる。テメノスはこれを強く敬い、畏まりたくなりさえした。
それでも——「私はいつだって、あなたを守れる存在になりたい」大切なものは、必ずやこの手で。
口にして、裡側に繰り返してみて、実感へと変わった。強くて、優しくて、真っすぐな彼の、初めて目の当たりにした脆く弱いところもまた、彼の大事な一部で、それは全く強い外殻に守られているようでいて、年相応に見えたり隠されたりしていたのだ。知ってしまった時、テメノスの中で彼は特別になっていった。対価の欲しい回復魔法も、彼のためなら厭わなくなった。何かして彼の心を預けてくれるのなら、それで良い。——だから心が通い合って、テメノスはひどく満たされたのだ。
恋人の肩書きを得たヒカリが変化していくのが嬉しかった。甘えることを覚え、それが自分に適応されているのだと分かると、ますます好きになる。彼には腕を引く力があるが、でもやはりかな、テメノスの腕の中にいて欲しい。
窺うような仕草の彼へ、この手のひらひとつ、詰め込みすぎて重苦しい思いを乗せて、差し上げた。
「私がついています。共に、往きましょう」
どこへ、どこまで。分からない。でも、彼はこの先、多くを導くだろう。ならば、自分だけは、彼にこう言える唯一になろうと思う。それだけではなくて、彼の手を引けるようになりたい。
質量に反して易々と手が重なる。それは自分よりも少し小さくて、努力と才気と意志がたくさん刻まれている。本当に、彼は、どこまでもテメノスに応えてくれる。
「ああ、そなたとなら……どこまでも」
そんなふうに微塵の迷いの余地もなさげに返されてしまうと、テメノスはどうしたものかと思ってしまう。何しろ、心のはずみで本当に世界と時間の許す果てまで、彼と手を繋いでいってしまいかねなかったからだ。
深い夜、テメノスはパッと瞬いた。どうやら過ごしていくうち、眠ってしまっていたらしかった。
向かいでは長椅子の上でも律儀なのか、染み付いているのか、足をきっちり畳んで彼は眠っていた。寝台から持ってきた毛布をかけてやる。運んでも良かったが、起こしてしまうのは気が引けた。テメノスは彼の隣に居座ることにした。眠りの浅い彼が肩を委ねにきた。何気ないことだが、口元は勝手に緩んだ。
自分達のための小さな箱の中は、ゆらめく橙のを薄い膜を被り、入ったばかりに感じた。埃の匂いもマシになってきた。自分も毛布を被ると、とろとろする暖炉の小さな火を眺めているうちにテメノスもうつらうつらとし始める。
温かい。このところ夢ばかり見るからか、夜中に目が覚めてそのまま朝を迎える日も少なくなかった。でも今は違った。守るべきもの、今生きている人がそばにいる。肌が触れ合うと、熱くて、それでいて体が動いているのを現しめ、伝わってくる。必ず、もう二度と——大丈夫、今は。指が触れる。
この上なく深くて快い明るみのための暗闇へと、テメノスの意識は沈んでいった。
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