雪降る夜に針は指す
針糸を手繰る
戻ってきた自分たちを、いの一番に待ち構えていた仲間達が声をかけにきた。急に天候が悪くなったため、彼らは探しに出掛けようとしていたらしかった。
「うわー、ヒカリくん、手がものすごく冷たいべ……!」
悴んで感覚の鈍り切った手のひらを、無邪気で人懐こい踊り子が好きに触っている。まだ残っていたカイロを持ってきて、ヒカリに握らせてくれた。
「うむ、ありがとう。アグネア」
「いいよいいよ! でも、せっかくのデートだったのに急に吹雪いちゃって残念だったべ」
アグネアは表情がコロコロ変わるので面白い。落ち込んだそぶりを見せたかと思えば、「次、頑張ろうよ! 良い景色の場所教えるべ!」と拳を作って励ましにくる彼女に和んでいると、柔らかい感触が被さった。
「二人とも、濡れたままだと風邪を引いてしまうわ。まずは上着を脱いで。代わりのものを持ってくるわ」
薬師曰く、風邪は万病の元である。フードを被ってこそいたが、横殴りの吹雪に打たれて途中から被るのを諦めていた。ヒカリは早速髪紐を解いて、頭のてっぺんから染み込んだ水気を少しでも布に吸い込んでもらおうと試みる。
後は暖炉の近くである程度乾くのをひたすら待つ。その間、毛布で身体を包めた。
「私は熱い茶でも淹れてくるか。髪が濡れてるし、湯を浴びた方が良さそうにも思うけど」
ソローネに要望を聞かれて、ウィンターブルームで飲んだ果実の香りがする茶を思い出した。不思議と身体がじんわりと温かくなるそれが恋しくなり、頼んでみたら、「通だねぇ」と含んだ笑みを寄越された。
「……めいたんてー、どうしたの? なんか……」
テメノスはオーシュットにされるがままになっていた。分厚いブランケットと、マフラーをぐるぐる巻きにされて、身動きが取れなさそうだ。
匂いで感情をある程度読み取れるオーシュットは、テメノスの周りで鼻を動かしていた。高い位置で毛繕い中のマヒナが、不思議そうに顔を傾げた。
「……なあ、ヒカリ。テメノスの奴、何かあったのか?」
胡乱げなパルテティオが耳打ちしてきた。やはり皆、彼の異常には気がついている様子だった。
「分からぬ、街に向かい始めてからずっとあの調子なのだ……」
声を潜めつつ、ヒカリは彼の消え入りそうな背中を憂いた。
焦慮は宿に入ったら居なくなるどころか、何かしろと命ずるように形を変えただけだった。
きっとこの場において、彼の冷え固まった心を溶かし、癒すのに最も適しているのは自分じゃない——
「……すみませんが、私は先に部屋に戻ります。きちんと暖を取って、すぐに体を休めますから、大丈夫です」
卒然と立ち上がり、テメノスはこなれた笑みを湛えるが、ヒカリにとってはその表情も、今さっきの『大丈夫』も、全く表面的な部分は意味をなさないように感じる。
「ちょ、テメノス……何、あんた。酷い顔」
紅茶をトレーに乗せたソローネが睨みを効かせるが、彼は難なく脇を抜け、自室へと繋がる階段へ踏み込んでしまう。
遅れて替えの服を持ってきたキャスティが勢い込み、追いかけてしまいそうなのを、ヒカリは引き留めていた。
「……ヒカリ君」
その先に彼女が何を言いたがっているのか、憂慮を孕んだまなざしを多く受け取ったので、確かめずとも分かる。事情を説明しなくてはならない。だが、伝えられるものの一つも碌にない。吃ってしまうヒカリのコートの裾を誰かが強く摘んだ。考えるまでもなく、曇りない目で仰ぐ獣人の少女である。
「ねぇ、めいたんてーさ、不安とか、怖がってる匂いがしたよ。一人にするのは良くないと思うな」
それは、自身がいつか彼に溶かされたものだった。
ヒカリは真っ当な理由とか、自分に何が出来るかだとかは、まずあれこれ考えたがる頭から追いやった。
「……ひとまずは、俺に行かせてくれぬか」
最初に反応を示したのは、ソローネの方だった。テメノス向けに淹れたはずの紅茶をぐいと嚥下して、見どころのある人間にするような、一種の挑発的な眼差しを向ける。
「行かせてやんなよ、キャスティ」
ソローネはテメノスが故郷を出て程なくして出会い、一番長い付き合いだ。普段から気が付けば互いに気軽で滑稽なやり取りのできる間柄である。そんな探偵の助手たる彼女だが、自分達の関係も森道で発見されて以来、揶揄うこともあれば、こうして背中を押すこともする。
「分かったわ。でも、後で説明してちょうだいね?」
キャスティは容認する代わりに、衣服やらリネンやら、体を温める効能の果実やら、とにかくたくさん押し付けてきた。ヒカリはそれらを全部背負い、手提げた。
我らが世話焼きな薬師が自分達の心配をしているのは、確かめるまでもなかった。他の仲間たちもジェスチャーで健闘を祈る、と親指を立てたり、小さく手を振ったり、あるいは本片手に目配せをする。
目印も分からない手探り続きのこの色恋だが、自分達の周りに仲間がいることが本当に心強かった。
「ああ……恩に着る」
穏やかな音色が溢れ出た。
階段を静々と、されど足早に駆け上がる。がんばれー、とオーシュットの伸びやかな声がよく届く。
木床は踏み締めると時折軋む音を立てた。似た扉が並ぶが、預かってきた鍵に記された番号を見つけて、つつがなく扉を潜れた。
もう慣れた二人部屋。ベッドがない日は、どちらかが床に布を敷いて寝た。テメノスはいつも自分が床で、と言う割には、質の良い寝台を前にして寝心地が良さそうなどと言う。その日は毛布を少し借りて、彼には柔らかい布に埋もれて貰う。元々床に布団を敷いて眠る習慣には慣れっこなので別段問題はない。
その日、彼はひとつしかないが広めの寝台に腰を下ろし、毛布を被り込んでいた。ろくな明かりもつけないで窓辺を見ている。まるでうつつを忘れたように。あえかに。
込み上がる情動を押し込め、せっせと彼がいつもしてくれているみたいに、橙色の火種を落とす。部屋が微かに暖色を帯びるのを見守ってから、彼の隣まで来た。
分厚くて真新しい襲着を肩にかけてやってから、また羽毛の詰まった毛布をかけてやる。
絹糸のような白髪が、微かに揺れ、目元に薄い影を作っていた。
あれだけ恣意的に降り注いでいた粉雪は、いつの間にか止み、煩い風だけが硝子を揺さぶっていた。鈍色の雲が重たく這いずり回り、空の星々の煌めき一つすら、頑なに覆い隠してばかりで見せてくれそうにない。
「……雪街も、故郷も変わらないのです、私にとって」
ヒカリは敢えて何もいらえなかった。彼がひとりでに語り出すのを待っていたし、その時は静かに受け止めることに決めていた。シーツを秘めやかに握り込んだ彼の手の甲に触れて、自分はここにいるのだと伝えるのが、ようやく絞り出した最善だった。
「何処にいようとも、彼らは私を呼ぶ。……いいえ、あれは彼らではありませんね。私が、勝手に生み出したものに過ぎない」
彼ら、と彼が口にして、何たるかはすぐに分かった。彼にとってのかけがえのない人達。この身に残り続ける命の重み。
「私は……この先、守り切れるでしょうか。大切なもの、全て」
腕を抱く。半ば強引に暴いて握った手は、震えていた。
彼が弱さを晒すところを、ヒカリは一度も目の当たりにしたことがなかった。あの優しい綻びの中に、どれほどの苦しみを経てきたのか、押し殺してきたのか。これまでに考えてきたことは一度や二度じゃない。
彼の方は、自分をいとも簡単に暴いてしまえるのに、むつかしいのが歯痒かった。
「……テメノスよ、俺を見ろ」
この世のどんな宝玉よりも美しい翠緑をこの二つのまなこを使って、焼き付けるように捕らえてから、彼を抱き寄せた。とは言っても、この矮躯では彼を包むことができないので、もどかしくてならない。
「そなたが苦しい時は、俺がそばにいる」浅く、幾度とない息遣いは、側に寄らなければ分からなかった、彼の苦しみだったろう。ヒカリは、彼にたくさん甘えてきた。弱みを晒すのは苦手なのに、彼はそれをするりと引っ張り出して、優しく蕩かす。ヒカリにはとてもそんなことはできないし、彼が本当に求めているものは何たるかも、見つけだすのはまだまだ叶わない。
「いつも背中を預けてきたそなたのことを、俺にも守らせてくれぬか。そなた一人で背負う必要はないのだから——」
お願いだから、どうか。切々と望み、与えられるだけの言葉をどれだけ尽くしても、足りやしない。テメノスのために、どうしたら良いのだろう。恋は初めてだ。友に対する穏やかな親愛とは全く異なり、熱くて焦ったくて苦しくて激しい。想い人に何かあれば、自分も同じような痛みを味わってる気になって、それを取り除くためには何をしても良いとさえ思う。身に余りすぎて、果たして自分が抱いて良いものなのか、今も定めあぐねている。
この恋は、いずれ大きな愛に育つこれは、覚悟だ。二人で手を繋いで、おんなじ未来を見るためには、多くを乗り越えてゆく必要がある。それが今なのだ。
ヒカリは、何か言うよりも時間を惜しみなく使って彼の側にいてやるのがいっとう己に向いていると結論付けた。
「……テメノス、今夜は共に寝よう」
彼の目が見開かれる。驚きをふんだんに浮かばせて、ヒカリの顔を多方面から窺い見た。
何か変なことを言ったつもりはない。疑われるのなら心外だ。もうこの身体で実行に及ぶしかない。
本来なら全身を熱湯にかけたみたいに真っ赤に染め上がっても良いくらい、恥ずかしいことをしている自覚はある。
それでも、ヒカリにできるのはこれだった。自分より少し大きくて形の良い、滑らかな手と己のをしっかり結ばせて、柔らかなベッドに体を横に預け合う。
彼だって、ヒカリを眠りから遠ざけた夜を、こうしてたおやかに覆してくれた。
「……変ですね。前とは逆な気がします」
テメノスはそんなことを言って、漸く困ったように口元をほんの少しだけ緩ませた。
たったひとつだけ、彼が、心から笑ってくれますように。できること全部したい。彼の中にある大事な核が、誇らしく煌めくその時を迎えるために。
「たまには良いだろう。俺だって、そなたが弱っている時、こうして甘やかすことぐらいはできるからな」
なんて、少し強気になってしまったが、本当はとても緊張している。自分から開いた腕を背中に回し、胸板まで鼻先がやってくるほど身体を密着させると、いよいよ心臓がまろび出そうだった。でも、今は自分が彼を癒すために尽くさなくては。
「ひとまずはこうしていれば、温かいはずだ」
寝台の上で毛布に囲まれているうち、冬の染み出す意地悪な寒ささえ、二人の温もりからは遠ざかった。
かぶりを少し上に動かすと、伏目がちな双眼を覆う睫毛が微かに揺れるのが見えた。髪色とお揃いの、深い弧を描いている。細やかで精巧な作り物であるかのようだから、いつまでも間近で観察していたくなる。
「ああ、寝るってそういう……」
「どうかしたのか?」
気まずげに咳払いする彼とほんの少しだけ視線が合わさるが、すぐに別の方向へ彷徨ってしまった。
「いえ、なんでも……不思議ですね。あなたと触れ合うと、心が温かくなりますね」
心の臓が眠るあたりをそうっと手のひらでやんわり撫で付けた。静かな情動を湛えた双眸に、息を飲んだ。
ヒカリが何かいらえる間も無く、忍び込んでいた彼の十指が、結び癖の付いた黒髪へゆったり絡みついて、丁寧に梳かした。
恋仲になって分かったことがある。彼は自分のこの長髪に触れるのを好き好んでいるということだ。ひと房手のひらに掬い上げ、「もっと近くに寄っても良いですか?」と問う。どきまぎしながらも、頷く。
「あ、ああ……構わぬが」
ヒカリの了承を得た彼は、早速と言わんばかりに自分よりも長い腕を使って身体ごと包める。近いを超えてゼロになってしまった。
いきなり入り込んでくる過剰な彼そのものに、呼吸の仕方を忘れてしまいそうになる。苦しくなり、思い切り吸い込んだ。鼻腔いっぱいに彼の匂いが入り込んできて、真っ先に顔が熱くなる。新しい服を洗うための石鹸のような香りが多くを占めていたが、彼の匂いを見つけるのは容易かった。優しくて、安心する。あの夜、彼の手を握った時の馴染んだ感覚が、すっかり呼び起こされた。
吐息さえ自分の中に溶け込み、心音も混じり合っている今、自分たちはひとつの存在になろうとしているのかもしれない、なんて突拍子もない考えが浮上する。それなのに、まだ足りない気がしてしまうのは、どうしてだろう。もっと彼に気持ちをあげたくて、彼の中に自分がいることを知らしめたい。もしくは、絶対に消せない彼の証をつけてほしいのに。
「……ヒカリ? そんなにもぞもぞしてどうかしましたか?」
お布団増やしましょうか? と聞かれて、ゆるゆる首を振る。子供みたいな仕草に見られたのが堪らなく恥ずかしい。
このもどかしさに、言葉を吹き込むのは困難を極める。ヒカリは祖国で多くを学んできたが、好いている男に向けて上手く気持ちを表すための術は教わってはいなかった。それが必要となることさえ、想定しちゃいなかった。街中では、取り憑かれたみたいに睦言を囁き合う男女を見かけることはあったが、ヒカリにはよく分からなかった。友を枢要とする自身が、それとは異なる特別を得るとは思わなかったのだ。
「っ、すまない……」
結果として、蚊の鳴くような声で謝ることしかできない。情けない、このまま気を失うように眠って無かったことにしたい。
「おやおや、萎んでしまって……本当は何かして欲しかったのではありませんか? そういう顔してますよ」
「う、それ、は……」
耳たぶの感触を楽しむように揉み込まれた。テメノスは悪戯っぽい顔つきでこちらを覗き込んでくる。視線から逃れては追われる鬼ごとの始まりだった。
「大丈夫ですよ。だって他でもない、ヒカリのお願いなんですから。可愛い恋人のためなら、なんでも聞いちゃいます……なんてね」
揶揄われているのか、本気なのか分からない。テメノスはこんな風にして時折飄々とした振る舞いをして、笑いを誘う時もあれば、こうして少し面映いことも言うので、ちょっとだけ困ってしまう。
「俺は良いのだ……テメノスこそ、無理をしてはおらぬか? いつもたくさん貰っているのだから、今夜は俺にさせてくれ」
眉根を下げて、曖昧に笑う仕草を見せられてしまうと、何か隠されているように思えてならない。
「……あなたが私のために色々しようとしてくれているだけで、私は十分ですよ」
彼は咄嗟に誤魔化しているというのは、もうほぼ確信を得ていた。殻に押し込めた何かが彼の本当の感情なのだとしたら、晒してほしいと思うし、大切な秘め事なら、一番近い自分にくらい、知らせて欲しかった。彼にこうされると、ヒカリは心の内で憮然として、離れた隙間を詰めてやりたくなる。
「——ならば、俺がそなたにしたいことをする……で良いな?」
「え?」
ヒカリは彼の身体に引っ付いたまま、柔軟かつ意のままに体勢を操った。
自分の真下で当惑を示す彼の唇を真っ先に見つめている内、ヒカリは躊躇った。今、とてつもなく恥ずかしいことをしようとしている——そう知覚はすれど、今更止まるのは大事な局面で背中を向けるのと同じだ。震えた自らの口は、彼のこめかみに辿り着いた。「んっ……」
つい吐息混じりに鼻に抜ける声を溢しつつ、彼がしていたように額にも滑らせ、瞬きのために微かに閉じられたやわい瞼にも触れた。テメノスが泣いたらさぞかし美しいのだと思うが、それとは相反して、涙を見せぬ彼の強さが尊いと思う。それから、この後ろには、彼の大事な思考の要が眠っていると思うと、あぶれる好ましさが煮え立つあぶくの如く湧いてきて、垂れた毛先が彼を擽るのにも構わず、頬に吸い付いた。
これは如何なる行為だろう。多分、愛情だ。ふくふくと育ってきた、深くて強くて、今はまだ、稚拙な。
テメノスはヒカリから降り注ぐ唇の雨を受けるたび、目を細めたり、首の側面を撫ぜたり、黒髪を後ろにかけたりする。宥めるかのような仕草に思わせて、喉の奥で笑っているのを今し方、気が付いた。多少の不可解はともかく、拒まれていないことに安堵して、目についた首筋や顎下を喰んだりした。
目の前がぐらつき、シーツを握り込んでいた。汗が滲む。己の下にいる恋人はさっきよりうんと色めいているふうに感じる。鼓動が一際高く鳴った。
肉薄だが、綺麗な弧を描く艶やかな唇に触れてみたい。自らの欲をまざまざと思い知らされる。
テメノスはきっと、ヒカリの全てを受け入れるのだろう。最初からいままでずっと優しい彼は、どれほど傷付けても、叱ってくれもしないのかもしれない。
首裏を何かが掠めた。気色の悪い生ぬるさが纏わりつき、ヒカリの鼓膜を揺らした。
——欲しいなら、手篭めにでもすればいいだろ。身体に教えてやれば良い。
煩い、と心の内で叫んだ。蹂躙という名の力でねじ伏せることも、独りよがりな欲をあてがうのも、己の望むところではない。
背反するものは潰えない。日が登れば沈み、光があれば陰りが差すように。常にその境界線の向こうから早くこちら側へ来いと己を呼ぶ。
裏側の男はせせら笑った。背裏が重たく、鋭利な爪を突き立てられたが如くずきりと痛んだ。古傷の疼きとよく似ていて、奥歯を噛んだ。
——その猫被りが、いつまで持つやら。
これは愛情なんかじゃなくて、知らず知らずに根を伸ばしていたエゴなのだろうか。疑念が頭過ぎる。彼と何かになろうとしているのではなく、彼をどうにかしようとしているのではないか。
——そうだ。だから認めて、喰らっちまえばいいだろ。
腹の底で陰がせせら嗤う。額から頬に冷ややかな汗が伝うのに気が付いて、は、は、と浅い息を繰り返した。
「……ヒカリ?」
落ち着いた吐息が唇を舐めた。翠緑の双眸が訝しみ、ヒカリを細部まで捉えている。今、その色彩は目に毒だ。柱のように強く支え込んでいた腕が無様に震えるのを悟られたくないから、彼の元を離れようと試みた。
「いや、なんでも……すまなかった。今、離れ……」
最後まで言ってしまうより前に、彼はヒカリ手首を捕まえた。有無を言わさず、逃れるなと忠告されていると思うと、抵抗はできなかった。そのまま、上体を起こし、とうとうヒカリの腰まで抱き竦めた。
「……もう少しこのままでいたいです」
彼の膝上に乗り上げて、顔と顔はもうすぐそばだ。今のヒカリにとっては退路を塞がれてしまった、という所感のほうが大きい。
「しかし……」
「私のお返しがまだですから」
柔らかく微笑む彼は何も知らない。罪悪感でこの身体全部、紙切れに等しく引き裂かれてしまいそうだった。
陰が彼を傷付けないか、と口にした時、あなたなら乗り越えられると返してくれた。その信ずるという清さを湛えた言葉をこの先、裏切ってしまうのではないか。
そんな果てしない懸念がもたげる。
「いや……前にも言ったが俺は良いのだ……いつも、優しいそなたに甘えてしまっているから、今日くらいは」
ゆるゆる首を振ってみせても、彼は頑なだった。寧ろ笑みを深く刻んで、挑戦的だった。ヒカリはどきりとした。普段のあえかさを脱ぎ捨てて、彼は今、肉食獣となって獲物を矯めている。微かに濡れた唇を、親指が妖しくなぞり、息を呑むのも束の間、彼は宣告する。「では、好きにさせてもらいますよ……"お返し"ですから」
「……ん、ぐっ」
祝詞、あるいは聖句に祈りを込め、迷えるものを導くためのその手指が、熱い口腔を素早く潜った。
唇を奪ってもらえるものだと思っていたヒカリは、突然のことに驚嘆のなれ果てのくぐもった声を漏らす。戸惑いも抗議もこの口を使わなくてはいけなくて、それを彼によってまんまと奪われて、なす術も無い。
それどころか目の前の男によって至る所を好き勝手に掻き混ぜられて身体をびくつかている。
「んふっ、は、あ、ぅ……っ」
指先が上顎を、頬裏を突き、撫ぜて、絶え間ない唾液を掬い取ってなぶる。
ぐちゅ、だとかぴちゃ、だとか。そういうみだりがわしい音が、自分の口から生まれているのだといううつつは、認め難いのに、感覚が知らしめにくる。遂にはこの頭が酸素不足を言い訳に、働くのをやめようと放棄を呈する始末であった。
——おい、抵抗しろよ。何好き勝手にやらせてんだ。
出来ない。テメノスがヒカリを許すように、自身もまた、どこまでもテメノスを受け入れる。
それにヒカリは、どうしようもなく、昏い悦びを覚えていた。ひとと触れ合うのをどこか忌避する彼が、自分にはこうして身体の内側にまで自ら手を伸ばす。
——お前ならこんなやつ、八つ裂きにするくらいなんてことないはずだ。
陰が煩く騒ぎ立てるが、口の中身を好いた人に暴かれる快楽を覚え始めて、うっとりし始めていたヒカリに、構うことなどできなかった。あの一度きりのキスは柔らかくて熱くて、滑っていて、恋しい。だが、這い回る彼の指先から感ずる苛烈は、ヒカリをかつてなく昂らせた。末端まで疼く熱を孕ませたこの激しい血潮と、その根源たる奔流。そのやり場を知らないのに、期待ばかりが先走る。
「は、ふっ……ん、ぁ、んう……っ」
口が開けっぱなしなので、涎が垂れるのを抑えられない。生理的に涙が滲み出し、舌で感ずるのに塩味が混じる。
言葉でも語りきらないなら、情動を全部この身体で引き受ければ良い。その念を込め、彼の後頭へ縋り、絹のような感触の白髪を手のひらで何故回すような体になる。
「ヒカリ……私はあなたの思うほど、優しくもなければ、綺麗でもないのですよ」
普段よりも幾分か低い音色が、ヒカリの間近で降り注いですぐ、背筋を微弱の痺れが駆け上った。惑う隙も与えてくれずに、指二つで舌を挟み込まれた。
「は、へ……れ、めのす……んっ、ふ、ぁ」
舌先を摘まれて、縮こまったのを柔く引っ張られて、指の腹で弾力を確かめるように揉まれた。
顎を濡らす唾液を自分では止められない。今の自分は、相当にしとげない有り様だろう。
指を抜き取られる頃には、鎖骨まで濡らしてしまっていた。ぼんやりと彼を見上げると、纏わり付いた自分の唾液を躊躇いもなく舐め取っていた。赤い舌を這わす様は、いやに艶かしく、目眩を覚えるほどであった。突如見舞われた分厚い毛皮に隠れていた逞しい爪、つまりは獰猛に飲まれて、身体の芯から力を抜き取られてしまった。そんなヒカリに深い影が覆ったかと思えば、彼の熱い舌が口元を舐めた。
火照った体であっても、彼の一部は燃えるほど熱かった。何よりも、彼の腕と胴の中にすっかり閉じ込められて、籠った中でじっとり湧いてきた汗にも吸いつかれていて、見知らぬ疼きを覚えてきゅっと目を閉じた。いっとう熱い舌が焦らすように降りてきて、首をそらせたヒカリの顎舌を喰んでから、彼の唇は離れた。深い吐息がこぼれでる間際、「すみません」とだけ告げて、彼はヒカリを寝台におろそうとするが、まだそうはされたくなかった。「ま、待ってくれ……テメノス」咄嗟に引き止めるための言葉を搾り出した。
「さっきの言葉は、どういう意味なのか……教えてくれぬか」
沈黙が続く。窓を飽き足らず訪ねて回る吹雪の残滓の音だけが続くが、ヒカリはそれでも待ち続けた。
「……あなたは私をひたむきに好いていてくれますが……私は、違うのですよ。少しの引き金さえあれば、先ほどのようなことをまたしてしまうかもしれない」
ああ、オーシュットが言っていたように、彼は怯えや不安を抱えている。
今までもそうだったのかもしれない。テメノスは自身の胸に多くを秘めて、それをひとりで密やかに消化してしまうか、外に出て行かないように飼い慣らしているのか。
「それの何がいけないのか、俺には分からん。俺は……テメノスをもっと知りたい」
口にしながら、彼の手を取る。頬に寄せて、耳まで覆わせたなら、脈拍や血の巡りを聞き取れるだろうか。
「業突く張りだと分かっていても、俺はそなたの全てが欲しいのだ。……好いているから」
酸いも甘いも、素敵なところも、醜くかろうとも、本能的で獣じみている烈しさだって、この身体と心で引き受けよう。
ひとしきり頬で温もりを確かめたのち、指先へ、口付けた。唇で撫ぜてやりながら、逡巡も擲ち、舌の先で輪郭をなぞった。
「……っ、ヒカリ」
色白で形の整った細長い指。多くを癒し、光を産んだ尊い手。ヒカリをたくさん愛してくれる手。舌でもこの口全部でも、何だって使って愛でたい。飴玉にするみたいに、咥えて、ねぶった。否、もっと本能的に求めている何かに見立てて、唾液の泡立つ音にも厭わず、指の隙間を舌裏で擦り付けた。
テメノスはみじろいで、曇った眉宇も、今は皺を作り、鼻先にまで届く吐息は荒っぽかった。
これ以上は危うい気がして、指先を軽く啄んでから離れた。寝台にて二人、肩を触れ合わせて並ぶ。
「……俺も、そなたが思うほどではない。白状するが、先ほどそなたを組み敷いた時、陰が囁きかけてきたのだ、そなたを、手篭めにしろ、と」
「陰、というと……あなたの中にいるというもう一人の自分、でしたか」
テメノスには、以前、酒場でそれとなく話した覚えがある。その後、明確に陰の存在を打ち明けた。彼は何も聞かずに、あれこれ気を遣ってくれていた。ヒカリにはその心配りが嬉しかった。
「ああ。俺はそう遠くない日に奴と戦い、打ち勝たねばならぬ。消すことは叶わずとも、だ。だから……テメノスには、見ていて欲しい」
友達と歩む王道を掴み取るために。最後の戦いが待っている。相対すべき最大の存在はムゲンでありながら、自分自身でもあったろう。陰との決着も等しく訪う。
それに仲間達を巻き込むべきではない、という考えはもう一掃されている。これまで手を取り合ってきた自分たちには、もう揺るがせない不文律が刻まれている。
ヒカリがテメノスを見据えると、彼は「ええ、勿論」といらえて、ややもすればほろ苦く笑んだ。自嘲じみているふうに感ずるのは、気のせいではなかろう。
「……あなたは強いですね。時折、眩しくなります。目も開けられなくなるほど」
また、これだ。突き放されている気がする。彼と己の間にある見えない壁に阻まれている。
胸がじくりと痛むが、ヒカリはそれをおくびにも出したくはなかった。それよりも、自分の肩を彼のに預けてみる。とはいっても、自分の方が低いところにあるから、正確には腕のあたりになる。
「テメノス、俺は……そなたのそばにいるからな。俺はいつだって、好いているひとには笑っていて欲しい」
また、燻んだ窓が軋む。分厚い浮雲の隙間から、星々が見える。大陸中を巡っても、悠揚たる空の向こうはどうなっているのかは何にも知らない。
でも、それよりも、今一番この頭に深く焼き付けておきたいのは、隣にいる愛しいひとのことだ。
想いを重ね合わせた先へ、もっと彼と行きたい。その為に必要なことを、今日この時までずっと探り回ってきた。
「……ヒカリ」
名を呼ばれて、はたと我に返る。惹き寄せられるあまり、自分の方から顔を近づけてしまっていた。よく通っていて、綺麗な鼻筋は、距離感を誤るとすぐに触れ合ってしまう。
無自覚にそばに寄ってしまうなんて、本当に困りものだ。少し前は、あんなにどきまぎしていたというのに、今は近づきたくて仕方がないらしい。
「っ、そなたをもっと知りたいのだが、俺は色恋など初めてで、どうしたら良いのか分からぬのだ……」
しどろもどろになりかけながら、やっとのことで紡いだのは、ヒカリの弱音であり、本心でもあった。
「……」
テメノスからの返答はなかった。だがこれは、旅中ではよくある事だった。ヒカリの語りかけやさりげないような問いかけに、時間をかけて咀嚼しているようなそぶりを見せて、二人の間をたびたび静寂が立ち込める。
恐る恐る彼を見上げてみたい気もするが、自分の熱を持った顔を見られてしまうのは忍びない。
それでも彼と目と目を触れ合わせることになったのは、こちらよりも長いリーチの腕によって、腰を抱き込まれたからだった。「私も、あなたをたくさん知りたいです」
強い目だった。妖艶な色香の奥に、燦然とギラついている。息を呑むのも束の間、黒髪をそっと耳にかけられた。視界いっぱいにテメノスが埋め尽くされて、瞼をきつく閉じた頃には、唇は容易く奪われていた。 やわこくて、少しカサついている。角度を変えて、数度。微かに空いたあわいを悪戯な舌にちろりと舐められた。
「て、テメノス」
彼が何を言いたいのか、今しがた、理解した。余韻に震えたままの唇よりも、心臓から送られる血の巡りが一気にたぎり始めた。
互いに恋する人たち同士なので、こういうこともできる。例えばキスは情愛の始まりを司り、己らをたらしめてくれる。ヒカリは物欲しくなった。どれほど組み込んだ台詞でも伝わり切らないのなら、この身を彼にあげるしかないのだ。
「こういうの、嫌だったら言ってくださいね」
とんでもない。ヒカリはかぶりを振る。ちょっとばかし勢いがつき過ぎて、彼を驚かせてしまったのは小っ恥ずかしい。
「嫌ではない……から、その……」
「ん?」
「ちゃんと、してくれないか……? 前、みたいなのを」
すぐに証明がしたかった。はしたなくとも、この希いは易々と振り切れるものではなく、それどころか彼の口付け欲しさに食指を伸ばし、望みを露わにさせた。
「前、というと——ああ」
思い出したように顎を手のひらで覆い、何か二、三言小さく呟いてから、頬を膨らませて大きく呼気を吐き捨ててから、白髪の隙間からヒカリを見下ろした。肩にやんわり添えられた手に緊張でビクつく。いよいよだと思うと、途端に身が強張り出してしまうのはどうしようもない。
唇が触れる寸前、息を止めてしまっていたが、我慢が出来ずに湿った息を吹き付けてしまう。テメノスは立ったままだと背伸びしても届かせるのがむつかしいのだが、こうして互いに腰を下ろしていても、彼の身体を近づけて、ちょっと腕を使えばもう簡単に捕獲されてしまうのである。
目に見えるもの白で埋め尽くされて、まるでテメノスが自分の全部、丸呑みしてしまえそうだ、などと益体もないことを思う。
口吸いは、まず手始めと言わんばかりに下の唇を優しく挟まれた。離れゆく時にリップ音が掠めて、また今度は啄むのを繰り返した。
身構えていたが、だんだんとこそばゆさを覚えて、彼の背に縋っていた腕の力は緩み、固く閉ざしていた瞼をうっすら開けて、伺うことくらいは出来た。
「……口を開けて」
直接言われるとは思わず、ヒカリは少し反応が遅れた。顎をそっと掬い取られ、促されてしまい、呻きを混じえながら薄っすら唇を開けて、彼を迎え入れようと試みる。最も近くでじっとり視線を絡みつかせにくるテメノスはまともな判断を掻っ攫うほどに、男の色気に溢れていた。顔立ちは当たり前の如く変わらず可愛らしいのに、纏うものがまるで異なる。一体どこにこんな魅惑の根源を隠していたというのか。
テメノスはヒカリの口をこじ開けて、自らの焦らして温めておいた息を流し込ませ、漸く舌を中に潜らせた。薄めで、柔らかく、そして自分のより長い。ひたりと自分のと密着していると、その形がよく分かる。
「んっ、んん……はっ、ぁ、んん……ぅ」
歯が微かに擦れたが、それも厭わないほど、食べられてしまう、という予感に切迫していた。息継ぎの猶予すら与えない深いキスは、まるで彼の感情が音を必要としない言語によって吹き込まれているかのようだった。荒くて、熱くて、丁寧ですらあった。舌先は舌の裏にやってきて、ぐりぐり突いてくる。
指で虐められたからか、口の中は幾分か鋭敏で、くぐもった声をを漏らすのを抑えられない。
「んむっ、ぅ、んっ、はっ、ぁ……ふ、ん、ん」
徐々に背中を逸らしてしまうヒカリを支え込み。彼もまた身を押し込める。胸板が密着して、鼻腔から必死に取り込み動かしているのがバレているだろう。
苦しい。肺に酸素が足りない、というはずはない。ただ、彼の熱情を一身に浴びて、窒息しそうだった。
しかし、ヒカリは今日一番、満たされていた。己の縮こまりがちな舌を絡め取られ、いやらしい水の混ざる音と共になぶられた。苦痛はどれほど耐え抜くことができても、気持ちが良いものは抗い難く、踊らされてしまう。
「ふぅっ、んっ、んん……っっ」
舌を唇を使って挟み込まれ、じゅうっと強く吸いつかれた。身体を大きく震わせるヒカリは、流し込まれた唾液で反らしがちな喉を動かした。官能的な味に頭が蕩ける。寝台が軋みをあげる。宙を彷徨していた手はこの隙を逃さずに捕えられて、あるべきところに縫い付けられてしまった。
ヒカリは分厚く、白いシーツの沼に深く沈み込んだ。濡れた唇同士の間を、申し訳程度の灯りを授かり、てらてらと淫猥な艶を放つ銀糸が繋ぎ、重力にならって途切れた。
「はっ……」
テメノスは自分の口端を手の甲を使って雑に拭う。目元を遮っていた前髪を退けてから、はあ、と息を吐き、その痩躯をヒカリに委ねにきた。重たくはないが、自分の四肢は全部彼の内側に収まってしまった。あとは……白髪が頬をくすぐるので、身を捩りたくなった。
「すみません、またがっつきました……もう、殴ってください……」
思わず口元を綻ばせた。先程までの獰猛は鳴りをひそめ、ご主人様に叱られて落ち込む大きな犬みたいに、彼はしょげているらしかった。試しに白髪を撫ぜてやると、持ち上がったかんばせは落ち着いているように思わせて、纏うものは萎んでおり、誤魔化しようがなかった。ヒカリは心から思う。彼と恋人になれて良かった、と。旅仲間の枠内で留まっていたのならば、決して見られなかっただろう。
「無論、その様なことはしない。それよりも、折角そなたと寝るつもりが、目が覚めてしまったな」
今はベッドの柔らかさの誘惑には、心を動かされない。それよりも、夜更けにはまだ至らないことを口実に、彼と語らいたかった。
「……それなら、一緒にお茶でもしますか?」
目路の端で遠慮がちにヒカリを窺う彼だけれど、自分のしわ付きの上で乱れている黒髪に触れる指先は全く逆の性質を思わせた。
何やら細かい動きをしているのか、頭皮にまで詳らかに伝わるので妙にむず痒い。
内心可笑しく思えど、もう頭では彼からの茶の誘いに承諾していた。
掛け時計がこぞって時刻を知らせるが、自分たちはそれに構わず、調理台に二人分のカップを並べて、湯を沸かした。銀細工職人製のシルバーポットは、古くから茶を嗜む先人たちからの技術を真似、さらに意匠を凝らした逸品である。
「ちょうど、キャスティから貰った檸檬がある。蜂蜜と生姜に漬けたものなのだが、合う紅茶は何であろうか?」
茶色の蜂蜜の中に、輪切り檸檬、それとハーブが敷き詰まっている。薄い黄色越しの硝子越しとて、見た目が鮮やかだ。
「ああ、それは素敵です」ヒカリと瓶入り檸檬を交互に見遣って、彼は和かにいらえた。それから茶葉入りの小瓶から、迷いなく選び取った。匙から溢れんばかりの山盛りに掬い上げてから、もくもくと湿った煙を立たせる湯に沈ませた。「私も少しお菓子を持ってますよ。いかがですか?」
袋詰めの焼き菓子。紅茶のお供にはうってつけだ。しかし、アフタヌーンティーならまだしも、今は真夜中と呼ぶに相応しい頃合いだ。菓子を食すのには抵抗がある。憚るものが罪悪感と、朝の心配であることを速やかに確かめて、飲み込んでから、ヒカリはポットを片手に返答を待つ彼へ、かぶりを縦に動かした。
「ふふ、夜更けに食べるなど初めてだ……少し、胸が弾むな」
芳しい香りの茶を小さな丸テーブルに並べて、テメノスはくすりと笑った。
「おや、ヒカリは初めてですか? 夜にこっそり味わう菓子は甘美なものですよ。誰かと分かち合うと、殊更にね」
厳密には、初めてではないとも言える。祖国が戦に明け暮れていた頃、長く厳しい遠征があった。その最中で、戦友がこっそり持ってきていた握飯を分けてくれたことがあった。妹が握ってくれたのだというそれは、彼と隠れながら食べるとより塩味が米に染みて、美味しく感じられた。その時ばかりは、目の奥に焼きついた砂上の死屍累々や、血の匂いを忘れることができた。
懐かしい。友たちとの日々を片時も忘れたことはない。必ず、彼と真っ向から話をせねば。 彼なら分かるはずだ。ヒカリは、彼と親しくなってから聞かせてきたのだ。書物で読んだ理想の世。母が教えてくれた在り方。
明日を繋ぐために命を消費しなくてはならない、そんな暗雲を民たちに真っ先に手を差し伸べてみせると。
もう直ぐ、カザンから報せが届くはずだ。城下町の奪還。血を流す世は未来永劫、終わりにする。それまでのわずかな間でも、旅の友たちに力添えしたい。
それなのに、今の今までもまるで何をしても何もしていないように思えてしまう。その所以は、分からないでいる。
「……ヒカリ、あーん」
「……は」
我に帰った時には、テメノスは小さなテーブルに身を乗り出し、彼は半分に切った輪切り檸檬をヒカリへ促す。唇にべとべとの蜂蜜がついて、そのまま滴り落ちてしまいそうだ。
食べさせる気満々の彼に、されるがままに受け止めて、口を動かす。
「ふふ、疲れた頭には甘いのが効きますよ」
「んぐ……ああ」
それ以前に、テメノスの微笑みが自分にはよく効く。こんなに仕草や表情のひとつひとつに晴れたり曇ったり土砂ぶったり虹架けたり、そんなのは恋心以外にありえないのだと、何度も思い知らされてるみたいだった。
柔らかい果肉は、咀嚼するたび酸味が滲み、蜂蜜の甘ったるさによく合う。ジンジャーの微かな辛みがじんわりと体を温めてゆく。
しっかり蒸らした紅茶の香りに、身体中の強張りが解けてゆく。
「落ち着きましたか?」
「ありがとう、テメノス」
彼には直ぐ見抜かれてしまう。彼の前では脆く弱くなってしまうのは、本当に困りものだ。こんなことでは、皆の前に立つ者としては、欠陥だらけだろう。
「いえ、私も、あなたに助けられましたから」
温かくなった両の手が、ヒカリの元まで伸びやかに詰めてきた。そうっと冷たい指先も微かな汗ばんだところも、全部包んでしまった。「……それに、私はいつだってあなたを守れる存在になりたい」
強く、彼自身に言い聞かせている。そう気が付いてからは、今度はヒカリが彼を気遣わしげに見た。
彼は眼裏に湛えたものを確かめ、唱えるようにしてから、翠緑に光を宿す。出会った時から変わらない暗闇の導たらしめる煌めきがそこにある。
「私がついています。共に、往きましょう……明日へ」
月が綺麗だと言った時の、彼のあの銀色の輪郭を、清澄の青を。目を奪われるという感覚を、今もよく覚えている。だから、あれが祖国でとある文学者が残して以来、時代を重ねて伝わってきた遠回りの告白であったのだと勘違いをしてしまったのだった。
でも今となっては思い違いなんかではなくなった。ヒカリは彼を好きになって、彼もまた、明日を見たいと言ってくれた。
「ああ。そなたとなら……どこまでも」
最後に添えた一言は、後悔はなかった。密やかに、慎まやかに育てた我が恋の心は、いつだって理性とは違うところにあって、ヒカリを突き動かす。
柔い手を、自身の固まったそれと繋ぎ合わせる。彼の方から、強く握ってくれた。それだけで、綻びを抑え抜くことはできなくなる。
だが、今はただ、彼のもっと側へ。始まったばかりの自分達の行先に想いを馳せる。
恋は難しい。結ばれた先にある喜び、それから二人分抱える苦しみ。ごちゃ混ぜになって、一緒くたに、大事に大事に育む。番う者同士が隣り合い、おんなじ未来を見るために。きっと、そういうもので、人の性のひとつ。自分達を繋げているのは、見紛いようのない純然たる想いの結晶の形を成しているのだと、高らかに云おう。
お前には必要がない、だとか。裏切られるだとか、捨てろだの、後ろで姦しくがなるものがあるが、ヒカリはそれに構いはしなかった。
耳を澄ませて、この口を使いながら、あるいは、時に安心させるような手が重なったり、つま先を触れ合わせたりして、自分の事を話す。彼のことを聞く。
いつしか氷輪も、淡い陽の温もりで溶かせる。ささやかな願いの先に描いた、予感だ——今は、まだ、この胸に秘めておこう。口にするのは、叶えた時にしたい。