雪降る夜に針は指す

ホワイトアウトは来ない


銀世界においては、彼は白によく溶け込む。雪の妖精と呼ばれるあの手のひらに乗っかるほどの小さな鳥よりも、彼はずっと真白い。
森林に迷い込んでも、都会街の雑踏に紛れても、彼を見つけるのは簡単だった。けれど、ウィンターランドにおいては特別で、逆にむつかしくなる。
今は分厚い外套のフードの中で、寒さに小さくぼやいては、腕を抱いたり、足をバタつかせて小さな飛沫を作ったりしながら、好きにやっている。
繊細なまつ毛の束の裏に、彼を彩る唯一の色彩が、好奇心に微かな輝きを湛えている。瞬きの度に見え隠れしながら、あちらそちらへ移ろう。顎に指を添えて何か考え出したかと思えば、よく分からない空中図を描き出し、ああ、あれは、これか。だのと呟きなんだか忙しなかった。平常は理知的で落ち着いた佇まいの彼だが、こういう一面も時たま浮上する。

「オズバルドが前に話していましたが、枝木に付着した霧の粒が過剰に冷やされると白い花のように見えるそうで……改めて見ると、自然の神秘そのものですね。私の故郷では雪は稀ですし——」

聞き心地の良い音色が、彼の情動と知識欲に乗って滔々と傾れ込んでくる。ありのままを受け止め、ヒカリもまた、彼を好きにさせている。
彼はどうにも、氷に覆われた枝木が気になるようだった。要約すると、雪山の上の方が気温は低いのに、麓の方の木々で見られるというのが、不思議なのだと語る。

ほんの限られた時間にしか見られない、氷の華。自然の凶器によって生まれた、人の目を惹きつける幽遠の美。幾重にも並び、視界の果てまで続く。現世から離れた幻想の佳景を形成していた。

近くは透明色の輪郭を、遠くでは白い鋭利な形の華々は、降り注ぎ始めた日の光で時間をかけて徐々に溶けてゆくのだろう。細い枝先から滴が散るのを見つめながらぼんやりと先を惜しむ。

上の空に見えたのだろう、隣の彼は、気遣わしげな視線でこちらを窺っている。
ヒカリは何を言ったものかと迷ったが、やがて絶え間なく仄かな温かみを提供してくれる目下の揺らめきを見遣って、柔らかく呟いた。

「……温かくなってきたな」

ちゃぷん、と音を立てて、試しに片足だけ外に晒すと、俄かに冷えてゆくのが分かってすぐに引っ込めた。
前に皆で雪道を辿った際、この湯が湧き出る地点を見つけた。もっと別の村里などでは、穴を掘り続けていたら湯が湧き出て、そこに身体を浸かる習慣があるらしいが、ここでは深さはそれほどなく、足首までを沈ませる程度だ。思い切って下履きを脱ぎ、手頃な腰掛けを用意して浸かると、これが気持ち良い。

テメノスはああ、と小さく溢した。下唇を隠したマフラーに飲まれ切れなかった白い吐息が噴き出し、消える。

「そうですねぇ……その分、出るのが億劫になってしまいますが。もうどれくらい経ったのかな……半刻? いやもっとかな」

温まったところから血の巡りが良くなる。赤みの帯びた足を一瞥してから、ほう、と淡い白い息を吐く。空に跡形もなく溶けてゆく。

「なんだか、あなたといると時間が過ぎるのがあっという間ですね」

肩を竦めて、戯けたふうに言うが、ヒカリを見つめる双眸はどこまでも柔らかい。面映くなり、曖昧にいらえてしまうのがもどかしかった。
体感的には随分長居しているし、そろそろ抜けても良いが、彼はこの場から動く気配が無いし。ヒカリも好きな人と居られるならどれだけ居座っても良い気がしてしまう。

好きな人、というと懸想しているかのようだが——否、心持ち的にはおんなじかもしれないけれども——今の自分たちは恋仲、と名状していい間柄だ。信じ難いくらいなのだが、そうなった。脳裏に掠めたら、そのことに拘ってしまって羞恥が込み上げる。
全く、色事は大変だ。少しのことで揺さぶられて振り回される。

今日、テメノスをこの場所へ誘ったのは自分だ。ストームヘイル郊外、街の建物内の方がよっぽど温かく、快適だが、それでも彼をここに連れて行きたかった。
静かで重々しい鈍色の町は、彼にとって二度目の再訪であった。この近くの隠された遺跡について、調べなくてはならなかったため、今度は皆揃って街に暫し留まる必要があった。

端的に言えば、ストームヘイルはあまり良い思い出のある場所ではない。ヒカリは橋から転落し、生死を彷徨った。和解を果たすまでは仲間達の怒りは暫く治らなかった。テメノスは——大切な友人を失ってしまった。誰かが口にしたわけでも、当人が何か言ったわけでもないが、一晩宿をとって何も収穫がなければ撤収しようという不文律がいつの間にか生まれていた。

ヒカリは、隣でもう一日費やしても良いのでは、と提案する彼が、皆から離れたところで、ひっそりともの寂しげな色を浮かばせたのを僅かな間見つけた。そのまなざしがある場所を指しているのも分かった。たった一日の滞在であっても彼とここで過ごすのは避けるべきだ。そう考えた。

分からない、気のせいかもしれない。でも、癒しの術を知らない自分でも、彼の気持ちを少しでも軽くできたら良い。淡い願いだった。
それから、ここに連れて、彼と時間を共にしたが、それだけでは足りないことのように思えてならなかった。
テメノスは、陰に脅かされていたヒカリのために、共に眠ってくれたし、その後も気にかけてくれていた。彼の優しさに、救われたのだ。自分は何か返せているだろうか。
彼の痛みも、苦しみもよく知っている。ヒカリも母と離れた時は、心を抱える自分の体という器が、原型を留めぬほどズタズタに切り裂かれる覚えがした。程なくして、メイ家の前当主——ライ・メイの兄が手引きをしていたという事実を知り、ほんの少しでも暗い感情を抱かないわけではなかった。陰が殺せ、と何度も囁くが、それでも堪えたのは、母が言い残した言葉と、継いだ意志、己の確固たる核を守り切ることができたからだった。
それは自分の場合で、彼は彼だから、同じにはなれない。されど似ているとは思う。テメノスにも、決して譲れぬ大切で侵し難い核が、埋め込まれている。——雪街を越え、確固たる決意と強い意志をもってして霧も掻き分け、ヒカリに手を伸ばした。あなたを守ると、明日を生きたいと、そう言ってみせたのは、テメノスが強いひとだからだ。

もっと近くにいたら、彼のことが分かるだろうか。彼の綺麗な魂。あるいは宝石の心臓。そのたっとい一片だけでも触れられるだろうか。友と語らうのに忌憚など微塵もありやしなかったのに、途端に勝手が分からなくなる。

絶え間なく湯気を纏った湯水を運びに来る川の緩やかな流れに足先で逆らっていると、彼のと触れた。ここでは温まっているが、丸太に腰掛けている半身は万年冬の外気に晒されている。特に手袋もしていない彼の手指は冷たいだろう。仄かに赤く、寒さに痛がっているみたいに映る。

テメノスの温もりが好きだ。ヒカリをそっとハグして、手を繋いだら熱くなって、溶け合うみたいだった。きっと今、少しの勇気と恥ずかしさと引き換えにそうしたら彼の助けになる。

心臓が煩いが、意を決して彼の手の甲に自らの重ね合わせた。
案の定冷たい。テメノスはちょっとだけ驚いたふうに瞬いたが、すぐに破顔して、微笑ましいものを見るようなまなざしが注がれる。
彼はヒカリが皆に望むように対等に接するが、特例として二人きりになるの、子供にするように接することがある。自分としては、そんな扱いは滅多にされないどころか、彼が初めてだったろう。言わずもがな、自分は成人だし、幼稚だと言われたこともなければ、他者に縋ることも、弱みを出すこともしてこなかった。
でも横にいる真白い彼は、ヒカリを王子で剣士で気高い旅仲間として見ながら、同時に一回り年下の男として接している。最近は、それに恋人が付け足された。否、それが包括した。

「ふふ、ヒカリの手、冷たいですね」

言いながら、ヒカリの手を握ったり離したり、揉んだりする。いつかしたみたいな変な触り方ではないが、恥ずかしさと遊ばれてるのだろうかという疑念でごちゃ混ぜ状態になる。おかげで冷たいままなのに変な汗が出てきている気さえした。

「そなたの手が赤くなっていて心配だったのだ……握れば、少しは良くなるかと」

「そうでしたか。なら、こうしましょう」

彼と肩が触れ合い、反射的にビクついてしまう。すごく近しい。薄い粉雪を乗せた彼のまつ毛の細部までがよく見える。最後にこうしたのは、いつであったか——
握り合ったままの異なる手と手が、ヒカリの外套のポケットに潜り込んだ。大きな膨らみ。

「寒い時はよく、ここに手を突っ込みますよ。周りにバレない程度にね」

そう言って彼は空いた指を唇に寄せた。さながら、秘め事を表すようにして。
ここに手を埋めてしまうのは、自由を塞ぐため、転びかけた時対処ができないだとか、いざという時危ないだとか、芯のところでは、なんとなくはしたない気がしていて、ヒカリが避けていたことだった。

確かに温かい。手袋には勝らないが、剥き出しよりはずっと良かった。それに彼のと密着してると、汗ばむくらいに至るのはあっという間であった。

「あったかい?」

そばに居るとこそばゆい。彼がヒカリの顔を覗き込んでいる気がしたが、見つめ返すのが恥ずかしくてできない。対して、彼は特に照れている素振りもない。手のひらも自分よりかはずっと乾いていた。
ヒカリはこれでも恋人になって間も無くは、浮かれていた。表に出さないようにするのに苦労したし、にやにやするソローネや、オーシュットに看破されて、相当慌てたし、訊かれて彼の好きなところを口にしてみると、たったひとつだけでも顔から火が出そうになっていた。だから最近になってようやく、慎めていた。彼の前でも。はしたなくないくらいには、多分。

でも、好きは膨らむばかりだ。ヒカリが頷くと、彼は嬉しそうに口元を微かに緩めた。そしてヒカリのつむじへ向け、彼のてのひらが降りてくる。乱れないようにと丁寧な心遣いと、愛おしみを細やかに感じ取れるのが不思議で、どこまでも腑に落ちて、最後には抗いようもない喜びが込み上げる。言葉にするのも、飲み込むのにも大きすぎて困る。困り果てた末に愛しい彼を見上げると、端正な顔立ちが途端に綻ぶ。自分だけにこんな優しい顔をするのだ、彼は。その実感だけで、このまま卒倒しても良かった。

この好きという想いは、相当な厄介ものであり、綿菓子のように甘ったるくてふわふわしてるくせに、膨大で苛烈で、天真爛漫だった。ひとりの子供のようで、抑圧すれば大人しいが、外に出て行きたがる。たくさん溜め込むほど、放った時に身体中を支配する。泣きたくなるほどの強い想いは、あんまりにも大事なので、やっぱり守っておきたい。
だからヒカリはちゃんとその子を大事に大事に、秘密に育ててきたし、彼にはもちろん、存在を誰かに教えることもないものだと思ってきた。
想いを結ばせ合うだけでも満たされすぎているのに、テメノスは簡単に詰めてくる。恋人に向けた面持ちと言葉を惜しげなく使う。この調子で、耐えられるだろうか。受け止めるのは、溢れてしまいそうで怖い。なのに彼のくれるもの全部欲しい。この矛盾には、ヒカリはまだまだ気がつけない。一個一個向き合うのが精一杯なのである。

「……だが、テメノスよ。これではもう一方がなおざりだな」

ようやく絞り出した懸念に、あいもかわらずおっとりした彼は、のんびりと考えを巡らせている。たった少しの沈黙ののち、ヒカリの肩を自身のそれで突いた。驚いて見れば、目を眇めたくなるくらいにこやかな彼がいる。

「ん、じゃあ……あなたさえ良ければ、ここに来てほしいです」

テメノスは自身の膝上を指先で叩いて示すのだが、ヒカリは大きく咳払いを溢した。そんな、子供みたいなことした覚えがない。あるとしても、母上との少しの思い出だけだ。それでも自分の身分柄、気軽に出来なかった。

「テメノス……揶揄っているのか?」

「そう思います? さあ、おいでなさいな」

テメノス当人からすれば、至って真面目な提案らしい。肩をこれでもかと寄せられて、これ以上に近しいところへ、強引なくらいに、ほら、と促しにくる。
確かに両ポケットと人肌の両方で暖を取るのには良い方法だろうが、いささか刺激が強すぎる。そう言いたいのだが、喉元に突っかかった。

ヒカリは結局、羞恥に覆い被さりにくる期待に勝てなかった。腰を浮かせて、望まれた場所に収まった。さりげなく腕が回ってきて、臍のあたりでひと結びされたかと思えば、空いたポケットの隙間を冬眠用の住処へありついたみたいに両手のひらが速やかに潜り込んだ。当たり前と言わんばかりに、ヒカリも巻き込んで。

「お、重たくないか?」

こちらを覗き込まんとする彼に視線が彷徨する。つい最近まで懸想していた相手が、自分の真後ろで背中に胸板を引っ付けて、腕を使って自身を囚われにする。
頭がおかしくなるのを通り越して、気が狂う。自分たちはこの間まで旅仲間だったはずだが、好きだと伝え合って、恋人という名を冠したならば、全く違うところに来てしまった。
ヒカリのぎこちない問いかけに対して、テメノスは微塵も苦を感じさせないで、腕を微かに力ませた。

「いえ、思っていたよりも軽くて驚いてます」

襟首の辺りが温かい。遅れて彼の吐息だと気がついた。意識し始めたら擽ったくて、身じろぎかけたが、しっかり抱かれているのでもどかしい。

「あ……そ、そうか。なら良かった」

こっちは落ち着かない。テメノスを困らせたくないので、このじっとりとした汗で湿った手のひらを抜き取って乾かしたいのだが、言い出しにくい。

「ヒカリ、何か……緊張してます?」

「いや、そんな、ことは」

背中や分厚い襲着を隔てて感ずる彼の心臓は、狡いくらいに穏やかな音を立てている。
対して自分のは騒々しい。彼が額を肩口に押し付けて、いるのでさっきの嘘もバレそうな気がしている。

「こうしてみて正解でしたね。温いです」

言い終えてすぐに、彼はすうと深く息を吸い込んで、生温かい風が背中に塗りつけられた。

「なんだかここのところの疲れが和らいだみたいです。癒されます」

ヒカリはその言葉にあっ、と声をあげそうになって、代わりに深い吐息一回分が、透明の宙を白く染め上げた。

どうしたものかと逡巡した末に、めいいっぱいに首を動かして、彼の方を見た。
ああ、良かった。今は大分和らいでいる。真実への経路をその身をもってして繋ぎ止めてくれた友を失い——ナナシの里に辿り着き、遺跡の最奥で黒幕であった機長の女を討ってからそう長い時間は経っていない。
否、どれほどの時が巡りゆこうとも、傷は癒えるものでもなければ、忘却すべきことでもない。ずっと残り続けて、己の楔となる。それをヒカリはよく知っている。魂に縛りついたそれは、これから先も彼を蝕むかもしれない。
だったら、彼を照らし、氷のような月も自分がが温める。だからどうか、この手を握っていて欲しい。

影を作るまつ毛の裏にある翠緑が、微かに揺らめいた。湯の中の足が触れた。少しだけ大きな足。この機に観察したら、ここまでも彼のは不恰好なところがない、綺麗な輪郭をしていた。指の形全部、確かめてみたくて、でも躊躇った。好きな人の全部、知りたい。当たり前の欲求だとしても、節度を守りたがる自分もいる。この揺らぎは、水面によく似ているな、と思う。

「……良かった。そなたには、せめて斯様な時間……俺といる間だけでも、安らいで欲しいからな」

彼の寒さでほんのり赤らんでいた頬を撫でさすった。外気を敏感に感知して冷たくなり始めた手の甲へ、熱い手のひらがあてがわれた。同じヒトという種族同士、どうしてこんなに近くにいると安心するのだろう。多分、いいや絶対に、愛しい人だからもっと強くて、触れ合うところ全部馴染んでくるのだ。

「……ありがとう。あなたはいつも優しいですね」

口元は微笑みを描いていたが、眉根は微かに下がる。噛み締めるように咀嚼してから、それははたと降りてくる。

「もしかして、気付いていたのか?」

今度はヒカリの頬を滑らかに触れた。白い息が交差するのが互いの隙間の狭さを示しているようなものだった。しかし、今はただ、彼の心の裡が気になった。

「ええ。気を遣わせてしまったな、と……」ほろ苦い笑み。ヒカリの横髪をそっと耳にかけてから、額に唇の柔い感触があった。「でも、あなたと二人で過ごせて、嬉しかったですよ」

名残惜しいが、街に戻ることになった。濡れないようにまとめておいたローブを、彼は律儀に羽織り、留め具を嵌めた。はためくと、無垢な双翼が羽ばたいているのによく似ていた。彼を純白たらしめる、神官の象徴のひとつ。

針葉樹の立ち並ぶ雪道は、濡れた土と緑の香りが漂う。それだけで、変わり映えのない景色が続く。
ヒカリは彼の背中を追う。会話は無かった。テメノスは、街の宿への帰路を辿りながら、その実、行くあてもなく、彷徨っている迷い人のように映った。何処か知らない遠くを見て、時折何か言いかけて唇を震わせる様は、ヒカリの心を酷くざわつかせた。

これに呼応するように、天が翳り出した。粉雪が舞い始め、服に張り付いては濡らし、素肌には容赦なく叩きつける。外套のフードを被る。そう長くはない時間を要して、白い粉吹雪は視界をすこぶる悪くした。目を凝らすと街の輪郭が見え隠れしている。とにかくそちらへ行けばいい。

もっとテメノスの近くへ——恋人という関係に至って、寄り添っていると心も重なったように感じるが、自分たちが今佇むのは始発点だ、と今、強く感じる。遠くへ、離れてゆく。「……テメノス」必死な声色が、この口から溢れ出た。まだ、届かない。ならば良い。こちらから追いつけばいい。

「————」

彼は真白くて、雪化粧に溶け込んでしまう。本当に、放っておくと消えてしまいそうで、ヒカリはローブのはためきの裏にある手を見つけてから、その微かな隙を見逃さず、すぐさま掴み取った。ほんのり温かい人肌を直に感じながら、荒くなった呼吸を整えた。狭くなった気管を通じて、肺に凍てつく空気が溜まり込むのだが、寧ろ胸が苦しくなる。
咳込みかけるが、堪えて、喉元からやっとのことで組み込んだ言の葉を搾り出す。

「っ……街へはそちらではないぞ、テメノス」

荒い呼気を吐き出し、冷気を宥めながら取り込んでゆくと、次第に落ち着いてきた。見上げた先の彼は、こちらに反応を示し、翠緑色を繰り返し瞬かせはするが、それはどこか夢現の狭間にでも身を投じているかのようにおぼつかない。彼はよく、長考に耽る癖があるものの、それとは大きく毛色が違う。少なくとも、ヒカリにはそう思えたし、焦燥を抱かせた。もう一度強く名前を呼ぶと、やっと肩が跳ねた。

「あ、ああ……すみません」

力なく微笑む彼の手を引いた。一刻も早くここを離れるべきだ。そう思った。
こんなに強く合わさっているのに、手のひらはどちらも冷たいままだ。
テメノスはどこへ行こうとしていたのだろうか。見えない何かに呼ばれているかのようだった。それがなんたるかは分からないが、彼を弱らせてしまっていることは明白だったろう。テメノスは途中でよろけて、ヒカリが肩を貸してやりながら、街の宿まで辿り着いた。戸を叩き、ベルを鳴らすと、室内に飾り付けられた簡素な蝋燭の灯りがまず目に入った。ややもすれば暖気が身に染みて、つい深い溜息がこぼれ落ちた。
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