2023年没作品詰め合わせ
サイの街の一角、小さな借家にて。ウェーブのかかったブロンドの女が、一枚の手紙を前にして戦慄いた唇から感嘆のため息を漏らす。
まなじりを薄ら桃色に染め、瞳は恋する乙女のように潤んでいた。
リエザはいつものように酒場の仕事を終え、自室で寛いでいた。ウェイトレスの仕事は嫌いじゃない。客の話は毎日飽きないし、田舎娘だった自分があそこまで色んな土地からやってきた人間に囲まれて仕事をこなせる、という実感が嬉しかった。あの村で長らく時間を過ごしてきたし、自分には変化は毒なのかもしれないと思ってきたが、寧ろ心が弾んだ。だが動き回るのは疲れるので、これは嬉しい疲労だったろう。リエザは体を清めてから、良い気分で酒瓶を開け、ほろ酔いのまま眠ってしまおうかと考えていた。その矢先だった。偶然再会した神官の男から、一通の手紙が届いたのは。
リエザはそこに紡がれた言葉の組み合わせをじっくり読み取りながら、胸の中に熱いものが沸々と込み上げるのを感じていた。
整然とした文面であった。それでいて、時折皮肉を効かせたり、ウィットに富むジョークが混じっていた。あの白髪の男の性格がよく現れている。
リエザを気遣いながらも、その多くは、自身に対する謝意が占めていた。
彼の恋人が同じ男であると知ったリエザは、かつての礼と、何か力になれたらと思い、彼に本を譲った。男達の薔薇が咲き乱れる熱い夜を描いた濃厚な恋物語。リエザはあれを初めて読んだ時凄まじい衝撃を受けた。男同士の夜伽という触れ込みから引け目を覚えていた自分は彼方に追いやった。心同士の繊細な糸を編むかのような流麗な文体、それでいて愛を語らうシーンは艶かしく、リエザはすっかり虜になっていた。渡した際、審問官はやや微妙な反応だったが、目を通して心変わりをしてくれたに違いなかった。
彼はこの本が大変参考になったと話しており、お互いの愛が深まった、らしい。リエザはこのたった少しの文から、あらゆる想像を掻き立たせていた。異端審問官は顔立ちが可愛いがあえかな美しさが女性を惹きつけるだろう。特に祈りを捧げる仕草は容易に触れられないほどの神聖さで、彼を純白の神官たらしめていた。リエザは彼のお相手が大方あの赤い雅な異国の装束に身を包んだ剣士だろうと辺りをつけていた。お目にかかれる機会こそ希薄であれど、見てくれこそ高貴な美しさがあるが雄々しい御仁であったと記憶している。流麗でありながら強力無比たる銀の一筋を描く剣筋は、見惚れない方が難しいだろう。
何もかもが完璧だった。まずビジュアルが良過ぎる。色の対比、聖火神のお膝元に仕える神官とおそらく高貴な身分である剣士。もし王族とかだったら本当に不味い。良い意味で不味い。
「でも……どっちが攻めで受けなの?」
誰もいないことを良いことに、大陸内の男同士の恋愛物語を愛好する界隈でしか通じない言葉を口にする。
正直リエザとしてはあの二人が恋仲という事実だけでお腹がいっぱいであったが、やはり気になってしまう。
神官様は顔立ちこそ愛らしいし、戦闘だといつも後ろから支援するタイプに見える。何よりもあの儚くて清廉な容姿の彼が乱れると思うと胸の奥底から熱い奔流が湧き上がってくる。今まで誰にも触れられなかった尊い聖域が、愛する人の色に染まってしまう背徳感が堪らなかった。
しかし……彼の理知的で鋭い双眸や、どこか飄々としていて本心を隠してそうな振る舞い……もしかしたら、夜伽においては彼は情熱的で、獰猛な男かもしれない。ギャップというやつは自身を高揚させる。
それにヒカリという剣士は、堅物そうだが乱れたら凄まじそうだ。高貴な身分なら弱みも見せられなかっただろうし、審問官は年上だというし、その包容力に蕩かされてしまっているのかも。
リエザは口元がだらしなくなっているのを認めて、引き締めた。しかしその桜色の唇の間からは、とても人様には聞かせられない笑いがはみ出ていた。リエザがワイルドランドからヒノエウマまで渡ってくる間に最も培われたものといえば、逞しい想像力であったろう。
再び、一文一文を噛み締めるように読み進める。
書面の最後の方には恋人のところへと越す決意が固まったとまで綴られている。
旅で苦楽を共にしたことで心を通わせ、真実の愛を見つけた二人の行く末は、如何様なものか。
「やっぱり、駆け落ちかしら……?」
愛し合う男女の悲劇を描いた物語を思い出す。城のバルコニーから神官様を見下ろし、なぜそなたはそなたなのか、神官の名を捨て、俺の全てを受け取ってほしい懇願する剣士様に対し、では私の恋人と呼んで。そうしたら私は生まれ変わり、神官としてのテメノスではなくなります……と。
情熱的で、同時に若者の熱病めいた愛も味わい深いが、やはりリエザは幸福な終わりを所望している。
返事は必ず認めるとして、引き続き二人のハッピーエンドについて考えて、考え抜いた。もう酒なんかいらない。ほしいのは甘い甘い終わりなのだ。
例えば、仲間内だけで秘密の結婚式は情緒があって素敵だと思う。
ウエディングドレスは着ないけれど、でも、ヴェールを被せて誓いのキスする二人の美男達は最高だ。——正装のまま自分たちの使命や肩書きを擲って駆け落ちするかもしれない。
「だめよ……」駆け落ちに持っていくのはやめたい。そんな事をしたら、本当の幸せとは言い難いではないか。自分の脳みそが憎かった。ヒカリという剣士は間違いなく高貴な身分の男だ、なんか権力とか人望とかそういう類の力技でなんとかすると思う。テメノス異端審問官もきっと誠意を見せるはずだ。よし、ハッピーエンド。多くに知られず祝福されずとも、彼らはひたむきに逢瀬を重ねて、二人きりの世界に潜り込んだその時は息も忘れるほど情熱的に愛し合うに違いない。リエザの頭の中がモザイクに染まる。ひとしきり楽しんだのち、肺が空っぽになる程呼気を吐き出した。
はち切れそうだ、と思う。この頭とか、胸とか熱くてしょうがない。滾りに滾ったこの情動をどこへぶつければいい。
とにかく、紙が欲しい。あとはペンだ。狭い家の中を探し回り、机上に齧り付いた。
リエザがとにかく見たいと思うものをそこに書き出した。学がない自分では最初から物語は作れないだろう。それでも何かを形にしたかった。
明日も朝早くから棚卸しや仕込みの手伝いをしなくてはならないというのに、リエザは湯浴みの時間も忘れて頭の中に渦巻く熱塊をぶちまけるが如く書き殴った。
旅中で惹かれ合った二人。葛藤や、気持ちに嘘をつくこともあったが、言葉を交わし、心を触れ合わせるたびに、気持ちは膨らむばかり。離れようとしても出来なかった。愛するひとへの気持ちを貫く覚悟を決めた——そんな物語だ。
まず浮かんだのは頭の少ない引き出しをフルに使い、ニューデルスタの都会街で、土砂降りの中、ヒカリを追う神官様のシーン。
「テメノスよ……明日からは俺たちはただの旅仲間だ。昨日のことは無かったことにすれば良い。それがそなたのためになる」
彼の高貴な装束が、重たい雨に打たれ、鮮やかな赤がくすんでしまっていた。
テメノスはそれに構わず、彼を衝動のままに抱き止めた。雨水で冷え切った体の芯は、微かに温かい。美しい黒髪でさえ、どこぞの雨雲から降り注いだ無邪気で優しくない水に汚れてしまって、胸が痛んだ。
「……ヒカリ」
初めて知った恋は、苦しくて、甘やかだった。そして彼の名前を口にするたび、胸が焼けるようで、やめてしまえたなら楽なのに、血を送る場所は、いつもよりも幾分早く、強く、テメノスを叩いて、急かしにくる。
彼が振り向きかけたのが好機だった。素早く濡れた唇を盗み取る。
「んっ……な、なにを……っ」
強引なキスだった。微かな隙間をこじ開け、未だ誰も暴かないところを犯した。官能的な快楽を脳髄に叩きつけるための、横暴なやり口。しかし彼に教えてやるには、この上なく適していると思えてならなかった。惑い逃げようと縮こまる舌を引き摺り出し、ねぶり尽くしてゆくうち、彼の瞳は蝋が溶けてゆくように形がおぼつかなくなった。
微かに熱い口同士が離れた時には、彼の体はくったりしていた。頑なな理性と感情に苦しみ喘ぎながら、自身によって与えられる熱の塊によって溶かされてしまう手前まで来ている、そんなふうに捉えられた。
初めて知ったことがある。好きな相手とする深いキスは、この上なく気持ちが良い。唾液を交換し合うことで、毒を与え、体の抵抗を高めるという、本能的なメカニズムなど、どうでも良くなった。体が瞬く間に火照りを帯びて、脳髄が痺れる。堪らなかった。
「そんな泣き出しそうな顔をして……嘘をつかないで、ヒカリ」
迷子になって宙を彷徨う手をそっと掴み取り、背裏に誘ってから、口同士を深く密着させた。
こんなに、好きなのだ。キスでわかった。体が教えてくれるとはこういうことだ。
「……っ、そな、こと……ン、ふ、はぁ、あ」
「ねぇ、愛してる……愛してます、ヒカリ……っ、私では駄目ですか……あなたを愛するに足り得ませんか……っ」
(中略)
「ヒカリ……あなたが欲しい」
「ああ、テメノス……来てくれ」
薄ら影を作る白髪の奥に見え隠れする目に射止められてすぐ、身動きが取れなくなった。あれだけ聖句を唱えていたあえかで美しい唇は、艶めきを帯び、剣士を食らった。
剣を握り戦場を舞う、有り余るくらいの力を秘めた身体は、神官の額から臍に至るまで降り注ぐキスの猛攻によってすっかり脱力させられてしまった。最後に啄まれたこの口は、最も容易く舌で弄ばれた。ぴっとり密着し合って、漏れ出す音ひとつも逃さぬほどにねぶられた。奪われる酸素が嬉しい。纏っていたもの全部剥かれて誰にも触ることを許さなかった秘めた場所を好き勝手されてしまうのも、彼にだけ許せた。信じられないくらい軟く弱くなっているのは、そういう理屈である。(一部抜粋)
「やあ、リエザちゃんいるかい? ノックしたけど返事が無いんだけどこの時間ならいるはず——」
視界の端に映り込んだ見目麗しき亜麻色の女にも構わず、インクを足しながらひたすらに、綴った。我ながら狂気じみていたが、そのことを客観的に捉えられたのは騎士様に顔を覗き込まれてからだった。「これはこれは……原稿かい?」
「きゃあっ!? み、見ないで!」
「やっと気が付いたか。しかし凄まじい集中力だ。よほど、書くのが好きなんだね」