2023年没作品詰め合わせ
淡い春の香りがする。
たったそれだけの理由で、この脚は誘われるように動いていた。ブライトランドの小さな農村の、街外れの小さな湖のほとり。そこに見知らぬ季節は色付いていた。
水のせせらぎを潜り抜け、鳥の囀りが側から離れると、花の絨毯が目路の端から端まで広がっていた。
あのたおやかで、人を酔わすような芳香の正体は、この白花の群勢だったらしい。
乾燥させたならば紅茶の原料にも使われるその花は、誰かに育てられているというわけでもなく、己らの生命力と住まう場所が幸運にも噛み合っていたという理由から、繁殖を重ねていったらしい。
白や黄色の蝶や蜜蜂が、膨大な蜜というご馳走を前にして、狂喜に近しく舞い狂う。
幼い頃はやんちゃだったものだから、彼らがどうやって餌を食べたり運搬しているのか、気になって仕方がなく、自分で花の蜜を吸うなどしてみたことがある。美味しくはなかったが、ロイと一緒にはしゃいだ昔日の記憶がふと蘇って、懐かしさや哀愁などが、まぜこぜになる。
不意打ちの春嵐の予兆のような一陣が吹きつけて、片手で庇ったところで、テメノスはふと違和感に気がつく。
何事もなかったかのような陽気の薄布が降りてきて、花の芳しさが立ちこめたが、異なるものも混じっていた。直感的なものに引き連れられ、木陰まで近寄ると、一際浮いた艶を放つ黒が横たわっていた。茂りを布団のように沈ませて、何もかもを預けた相好で目を閉じている。か弱い色など塗りつぶしてしまいそうな真っ赤な装束に、白い花弁と小さな葉の粒が散りばめられて、もはや精巧な人形がそこに飾り付けられていると言われても、疑いを抱かないだろう。
蝶々たちが気まぐれに飛んできて、彼の額や腹のところなどに羽を休めにくる。テメノスはなんとなしにそれを眺めていたが、ややもすれば半歩踏み出した。春の妖精は慌てたふうに逃げ惑い、山吹色の器を転々とする。
彼の胸がゆったり上下しているのを認めてから、この手を伸ばし、彼の肩をひとたびは揺すったものの、逡巡の末に取りやめた。太い幹が伸ばした枝が蓄えた深い色の葉の集まりが、端正なかんばせに程よい暗がりと、涼やかさを差し込ませている。
この彼の、硬く閉ざされた瞼が開くと、いつもの凛とした黒が揺らめき何かを映す。
すうと鋭利に変われば、彼は刀を振うし、柔らかく揺らめけば、誰かに向けて優しい言葉を与えにくる。
だがこうして黒目を隠して、テメノスが近づいたことにも厭わず、安らかなる寝顔を晒したことは、今この時までには一度とてなかったろう。
彼はいつも、テメノスが眠る頃には起きていて、目を覚ます時には布団を畳んでどこかにいる。そんな人だ。
あとは——目元が薄ら黒いのを見つけてしまったからには、彼を寝かせておくのが正しいとしか思えなかった。
テメノスはそっと腰を下ろし、持って来た軽めの本を取り出し、栞紐を抜き取ってから、目の前の字面に意識を費やした。
遠くの鳥達のさえずりと、木漏れ日の隙間を縫った陽気を襟首に受けながら、時折流れ込む芳しさに鼻腔をくすぐられた拍子に、ヒカリの寝顔を確認したりして。
その内周りが気にならなくなって、捲り終えた本を閉じていた。
思っていたよりも味気ない内容だった。薄い書物を仕舞い込んで、未だ深く寝入っている剣士を見遣る。寝返りのひとつも打たずに、ただ密やかにそこに横たわる彼とふたりだけ。うつつから抜け出したような花園で。そのことが一葉のように降りてくると、なんだか妙な気になる。
指先が動いて、黒髪を掬い取る。唇が食んでいて、気がかりだったのに痺れを切らしてのことだった。
柳眉がかすかに顰められ、音になりかけの吐息を漏らしたのち、彼はおもむろに三日月よりも細い隙間から色を覗かせた。
「……ん、ここ、は」
掠れた声が耳朶を摩る。玲瓏な黒が薄瞼を退けて、やおらに姿を現す。鏡面のような澄んだところが、淡い空の天色を模している。
「おはようございます」
控えめに決まった挨拶文句を口にしてから、少し眠たげな彼の顔をしかと見下ろしにゆく。
なんだか驚いた風に、黒いまつ毛を瞬かせて、テメノスと視線を交えたまま、肝心の何かは返せないでいる。
「……偶々、ここに通りかかりましてね。気持ち良く眠ってらしているものですから、起こすのも酷だと思いまして」
嘘は言っていない。ヒカリはおもむろに身体を起こし、辺りをうっそり見渡す。やがてテメノスに視線を戻して、ややぎこちない風に「そう、か」と溢す。ほんの少しの静まりを挟み、「すまぬ……少しうたた寝を、と思ったのだが随分と寝入ってしまった」申し訳なさげに眉根を下げた。
「いえ、構いませんよ。たまにはこんな時があっても良いでしょう」
ヒカリは少しだけ驚いた素振りを見せてから、考え込むようにして眠たい瞼を細めた。なんとなく言葉足らずに思えて、手ずから先を言葉にした。
「たまには休んだっていいんです。穏やかな時間も、旅中には必要でしょう」
皆、それぞれ成すべき事があるが、それに追われているうちに、自分も預かり知らぬところで疲弊するものだから、たまにはこうやってゆるりと過ごす時間があっても良いだろう。
その意図が伝わったかは定かでないが、ヒカリはふっと目元を緩めた。
真面からそれを認めた時、テメノスは彼が心置きなくそんな顔を見せる相手がどれほど居るのだろうか、というささやかな疑問が脳裏を掠めた。
「……ありがとう、そなたは俺が眠っている間隣にいたのだろう?」
テメノスが片手にしまった本を見て、察してみせたらしい。
その音色の柔さを感じ取って、テメノスはうべない、「ええまあ……」若干濁らせてから、ちょっと不格好にはにかんだ。
「あなたは強いですし、ここは長閑ですが。万が一もあるでしょうし」
色を正してから、なるたけ歯切れの良いようにと努めて言ってみる。取ってつけたような気もするけれど、でも本当のところは、彼を放っては置けなかった。
花畑に置き去りにされた砂国の剣士、それもやんごとない美青年ともなれば、憂いが先立つ。
「……そうか」それだけ溢して、ヒカリは口元を緩めた。言葉数は少ないが、そこから滲むのは与えられたものを噛み締めるような柔い何かだった。
「だが、そなたがここまで来てくれなかったら日暮れまで眠っていたやもしれぬ。そのことを思うとな」
ヒカリがこういう、誠実さと生真面目なところを掛け合わせた部分を持ち合わせているのは、テメノスもそこそこに知るところだった。いっそ真っ直ぐに——突き刺さりすぎて貫くほど、自身に向け大仰な恩義を差し向けてくる。
ほろ苦い笑みが出た。彼のこういう一面は嫌いじゃないが、こそばゆい。
「さすがに、誰かが迎えに来ますよ。たまたま、私が見つけただけです。寝冷えしたら大変ですけどね」
自分も膝やらローブについた花びらや草の破片を払い落とす。来た時より日が大きく傾き出している。
「さて、そろそろ戻りますか、ヒカリ。——立てますか?」
立ち上がってから、試しに手を差し出せば彼は従順にもそれを掴んだ。逞しいように思えて、自分よりも少しだけ小さいのがちぐはぐに思えた。
「……ああ」
二人、並ぶ形になる。互いの手が解けて暫ししても、ヒカリはその場から動かずにテメノスを見上げていた。
風が横髪を揺らしては、彼の目路をいたずらに遮りにくる。
それに厭うことなく、自分に目線を当てていた。その意味が分からず、とうとう首を傾げる。
「どうかしましたか、ヒカリ。まだ眠たいので?」
「いや……そなたは、白いと思ってな。まるでこの中の一部のようだ」
「……」
「……どうかしたのか?」
「花びらがついてました」
「ああ……気が付かなかった。ありがとう、テメノス」
「いえいえ。さて、今日は特別です。暗くなってきたので、私があなたの灯りとなりましょう」
たったそれだけの理由で、この脚は誘われるように動いていた。ブライトランドの小さな農村の、街外れの小さな湖のほとり。そこに見知らぬ季節は色付いていた。
水のせせらぎを潜り抜け、鳥の囀りが側から離れると、花の絨毯が目路の端から端まで広がっていた。
あのたおやかで、人を酔わすような芳香の正体は、この白花の群勢だったらしい。
乾燥させたならば紅茶の原料にも使われるその花は、誰かに育てられているというわけでもなく、己らの生命力と住まう場所が幸運にも噛み合っていたという理由から、繁殖を重ねていったらしい。
白や黄色の蝶や蜜蜂が、膨大な蜜というご馳走を前にして、狂喜に近しく舞い狂う。
幼い頃はやんちゃだったものだから、彼らがどうやって餌を食べたり運搬しているのか、気になって仕方がなく、自分で花の蜜を吸うなどしてみたことがある。美味しくはなかったが、ロイと一緒にはしゃいだ昔日の記憶がふと蘇って、懐かしさや哀愁などが、まぜこぜになる。
不意打ちの春嵐の予兆のような一陣が吹きつけて、片手で庇ったところで、テメノスはふと違和感に気がつく。
何事もなかったかのような陽気の薄布が降りてきて、花の芳しさが立ちこめたが、異なるものも混じっていた。直感的なものに引き連れられ、木陰まで近寄ると、一際浮いた艶を放つ黒が横たわっていた。茂りを布団のように沈ませて、何もかもを預けた相好で目を閉じている。か弱い色など塗りつぶしてしまいそうな真っ赤な装束に、白い花弁と小さな葉の粒が散りばめられて、もはや精巧な人形がそこに飾り付けられていると言われても、疑いを抱かないだろう。
蝶々たちが気まぐれに飛んできて、彼の額や腹のところなどに羽を休めにくる。テメノスはなんとなしにそれを眺めていたが、ややもすれば半歩踏み出した。春の妖精は慌てたふうに逃げ惑い、山吹色の器を転々とする。
彼の胸がゆったり上下しているのを認めてから、この手を伸ばし、彼の肩をひとたびは揺すったものの、逡巡の末に取りやめた。太い幹が伸ばした枝が蓄えた深い色の葉の集まりが、端正なかんばせに程よい暗がりと、涼やかさを差し込ませている。
この彼の、硬く閉ざされた瞼が開くと、いつもの凛とした黒が揺らめき何かを映す。
すうと鋭利に変われば、彼は刀を振うし、柔らかく揺らめけば、誰かに向けて優しい言葉を与えにくる。
だがこうして黒目を隠して、テメノスが近づいたことにも厭わず、安らかなる寝顔を晒したことは、今この時までには一度とてなかったろう。
彼はいつも、テメノスが眠る頃には起きていて、目を覚ます時には布団を畳んでどこかにいる。そんな人だ。
あとは——目元が薄ら黒いのを見つけてしまったからには、彼を寝かせておくのが正しいとしか思えなかった。
テメノスはそっと腰を下ろし、持って来た軽めの本を取り出し、栞紐を抜き取ってから、目の前の字面に意識を費やした。
遠くの鳥達のさえずりと、木漏れ日の隙間を縫った陽気を襟首に受けながら、時折流れ込む芳しさに鼻腔をくすぐられた拍子に、ヒカリの寝顔を確認したりして。
その内周りが気にならなくなって、捲り終えた本を閉じていた。
思っていたよりも味気ない内容だった。薄い書物を仕舞い込んで、未だ深く寝入っている剣士を見遣る。寝返りのひとつも打たずに、ただ密やかにそこに横たわる彼とふたりだけ。うつつから抜け出したような花園で。そのことが一葉のように降りてくると、なんだか妙な気になる。
指先が動いて、黒髪を掬い取る。唇が食んでいて、気がかりだったのに痺れを切らしてのことだった。
柳眉がかすかに顰められ、音になりかけの吐息を漏らしたのち、彼はおもむろに三日月よりも細い隙間から色を覗かせた。
「……ん、ここ、は」
掠れた声が耳朶を摩る。玲瓏な黒が薄瞼を退けて、やおらに姿を現す。鏡面のような澄んだところが、淡い空の天色を模している。
「おはようございます」
控えめに決まった挨拶文句を口にしてから、少し眠たげな彼の顔をしかと見下ろしにゆく。
なんだか驚いた風に、黒いまつ毛を瞬かせて、テメノスと視線を交えたまま、肝心の何かは返せないでいる。
「……偶々、ここに通りかかりましてね。気持ち良く眠ってらしているものですから、起こすのも酷だと思いまして」
嘘は言っていない。ヒカリはおもむろに身体を起こし、辺りをうっそり見渡す。やがてテメノスに視線を戻して、ややぎこちない風に「そう、か」と溢す。ほんの少しの静まりを挟み、「すまぬ……少しうたた寝を、と思ったのだが随分と寝入ってしまった」申し訳なさげに眉根を下げた。
「いえ、構いませんよ。たまにはこんな時があっても良いでしょう」
ヒカリは少しだけ驚いた素振りを見せてから、考え込むようにして眠たい瞼を細めた。なんとなく言葉足らずに思えて、手ずから先を言葉にした。
「たまには休んだっていいんです。穏やかな時間も、旅中には必要でしょう」
皆、それぞれ成すべき事があるが、それに追われているうちに、自分も預かり知らぬところで疲弊するものだから、たまにはこうやってゆるりと過ごす時間があっても良いだろう。
その意図が伝わったかは定かでないが、ヒカリはふっと目元を緩めた。
真面からそれを認めた時、テメノスは彼が心置きなくそんな顔を見せる相手がどれほど居るのだろうか、というささやかな疑問が脳裏を掠めた。
「……ありがとう、そなたは俺が眠っている間隣にいたのだろう?」
テメノスが片手にしまった本を見て、察してみせたらしい。
その音色の柔さを感じ取って、テメノスはうべない、「ええまあ……」若干濁らせてから、ちょっと不格好にはにかんだ。
「あなたは強いですし、ここは長閑ですが。万が一もあるでしょうし」
色を正してから、なるたけ歯切れの良いようにと努めて言ってみる。取ってつけたような気もするけれど、でも本当のところは、彼を放っては置けなかった。
花畑に置き去りにされた砂国の剣士、それもやんごとない美青年ともなれば、憂いが先立つ。
「……そうか」それだけ溢して、ヒカリは口元を緩めた。言葉数は少ないが、そこから滲むのは与えられたものを噛み締めるような柔い何かだった。
「だが、そなたがここまで来てくれなかったら日暮れまで眠っていたやもしれぬ。そのことを思うとな」
ヒカリがこういう、誠実さと生真面目なところを掛け合わせた部分を持ち合わせているのは、テメノスもそこそこに知るところだった。いっそ真っ直ぐに——突き刺さりすぎて貫くほど、自身に向け大仰な恩義を差し向けてくる。
ほろ苦い笑みが出た。彼のこういう一面は嫌いじゃないが、こそばゆい。
「さすがに、誰かが迎えに来ますよ。たまたま、私が見つけただけです。寝冷えしたら大変ですけどね」
自分も膝やらローブについた花びらや草の破片を払い落とす。来た時より日が大きく傾き出している。
「さて、そろそろ戻りますか、ヒカリ。——立てますか?」
立ち上がってから、試しに手を差し出せば彼は従順にもそれを掴んだ。逞しいように思えて、自分よりも少しだけ小さいのがちぐはぐに思えた。
「……ああ」
二人、並ぶ形になる。互いの手が解けて暫ししても、ヒカリはその場から動かずにテメノスを見上げていた。
風が横髪を揺らしては、彼の目路をいたずらに遮りにくる。
それに厭うことなく、自分に目線を当てていた。その意味が分からず、とうとう首を傾げる。
「どうかしましたか、ヒカリ。まだ眠たいので?」
「いや……そなたは、白いと思ってな。まるでこの中の一部のようだ」
「……」
「……どうかしたのか?」
「花びらがついてました」
「ああ……気が付かなかった。ありがとう、テメノス」
「いえいえ。さて、今日は特別です。暗くなってきたので、私があなたの灯りとなりましょう」
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