【全体公開版】きみのけものより、愛を込めて。



眠れなかった。
一度意識を手放しでもしてしまえば、この非現実めいた自身の様相を滑稽な夢だとくしゃくしゃに丸めて、どこかに捨てされたものなのに。

目路の隅に自身の一部が力無く振れているのが見える。先端に黒みのかかった生きた白い尾。二つついた耳と合わせると、己は犬でもなったか。

自棄になる。テメノスは薄地の毛布を頭ごと被せた。かれこれ半日は、朝食も碌に食べずに、宿屋の自室の寝台に居座り閉じ籠っている。
平常、寝るも起きるも食すも、規則正しさを守りたがるはずの自身から遠くかけ離れてしまった。

ソローネやパルテティオが何回か扉を叩きにきたが、身体が重苦しく、降りることすら難しい。加えて、返答をする気力すら湧いてきやしない。
代わりに頭は騒々しく、短い期間で傾れ込んできた怒涛の出来事が、幾度となくテメノスの脳裏に巡る。

雪街で交わしたクリックとの応酬——ロイを目指したという彼のことを知り、なぜ親友を想起するようになったのか、理解させられたあの夜。彼とならば、共に真実を解き明かすべく歩んでも良いと思えた。

聖堂機関の横で無惨な姿となった彼の亡骸、そして炎と彼の導きで掴んだ糸口、諸悪の正体——テメノスは体の奥底から湧き上がる激情を押さえ付け、彼が遺したものを辿った。聖堂機関が隠していた禁書の数々。そして、クリックを殺した当人であるカルディナこそが討つべき悪だと悟った。

クバリーとの戦い。己の身に起きた劇的な変化——怒りと衝動の奔流に、テメノスは飲まれてしまった。それからは、記憶が曖昧だが、この手であの女を斃した瞬間はよく覚えている。
さながら全身の細胞が咆哮を上げ、テメノスの身体を操っていたかのようであった。

そして、己がゆくべき道には、まだ先がある。カルディナの行先が見えているのだから、彼女を追うべきだ。今、すぐにでも……頭では分かっているのに。

身体を起こして、神官の法衣に着替え、ローブを纏う。そして、杖と同じくらいに重たい聖典を抱えて、部屋を後にする。
そんな当たり前のことが、身体が鎖で繋がれているかのように、実現されない。

動物めいた唸りがまた唇の隙間から這い出た。腹の奥の方から、何かが暴れ回っているような感覚。このせいで、目が冴えて横になっても目を閉じて意識を擲つという行為そのものを身体が拒む。

人の匂いが微かに流れ込み、冴えた嗅覚に掠めた。また同じ匂い。甘ったるい花の香りと、染みついた男の、青々さ。
耳が勝手に動く。器用な指先が、ドアノブの鍵穴に何かを通しているのだと気がつくのには、少々時間を要した。

「——おい、テメノス! 無事か!?」

開錠の音が呆気なく鳴る。程なくして勢い良く扉は開かれた。乱雑に打ち付けられた。

「……何の用です」

普段は抑え込めたような苛立ちをふんだんに込めて、仲間二人を睨め付けてしまう。
パルテティオの眉宇が曇る。ソローネが一歩前に出て、何かを投げつけに来た。

「色々言いたいことはあるんだけどさ」

研ぎ澄まされた鋭利な眼差しが、テメノスを射抜きにくる。
意思に背いて、身体に生えた獣の体毛が逆立ち出す。

「あんた、いつまで閉じこもってるつもり?」

やけに落ち着いているな、と思う。ソローネならともかく、パルテティオも、気遣わしげでこそあるが、平静を帯びている。自身の身に降りかかったこの異常に対し、惑う態度一つ見せるだけで良いのに。ああ、もしかすれば。——知らないのは自分だけなのか。

「……こんな姿でどこへ行けというのです」

怒りに我を失い、その代償として理性なき獣に成り果てた己。
もうずっとこのままなのだろうとさえ予感している。
まつ毛を伏せる。暗澹に押し潰されて、燻んだ思考が何もかもを牛耳る。

だからだろう、ソローネの腕が伸ばされ、自身の肩を力強く掴むのに気が付けなかった。

「あんたの意思で、自分の体を動かしていくんだよ——つがいのところへ」

「は……?」

彼女の怒気混じりの言葉に、咀嚼が遅れる。
眉間に皺を刻んだパルテティオが、波立つ唇を解いた。

「城の方で騒ぎがあってよ……赤い装束の剣士が大橋から転落したってよ。ついさっきな。急いでここまで飛んできたんだぜ」

「な、」

思わず顔を上げた。乱れた白髪の隙間から、見ゆるものといえば、仲間二人の、これまで繕おうとしてきたような、必死さだった。言葉になりきらない部分が、テメノスの脆弱になったところを、何が何でもこじ開けようと試みている。

ヒカリが——大橋から落ちた?——あの、高さから。雪空に浮かんでいるようなあの場所から。

ヒカリが、真っ白で底の見えないあの、谷底に。

ヒカリは……ヒカリも、私は。

受け止めたものの形を整え、現実のものだと取り込もうとすればするほど、身体は抜け殻に近づいていって、見下ろした手のひらは震えていた。

「キャスティは霊峰アルタへにいる。あんたが行くべきだよ、テメノス」

吹雪の中、無惨な姿となった砂国の王子の姿が、脳裏に浮かび上がる。その美しいかんばせが二度と目を覚ますことはなく、積雪の中に赤い血をしとどに流すさまが、いっそ鮮明に。

盗賊は、自分に行けという。
少し前の出来事だろうが、彼は落ちたのだ。それはもう過去のことで、決して引き上げられない。
いつだってそうだ。過ぎ去りし時は揺るがない。今を生きる人の思いは、やがて置き去りなる。

「……わ、」

喉奥に溜まった言葉をやっとの事で吐き出す。

「わたしに……なにが、できるというのでしょう、か」

気持ちから目を背けるために、ヒカリから逃げていた。
彼のためじゃない、自分が恐れていたからだ。
深く愛してしまったのなら……喪った時に耐えられない。テメノスという人間の核が、壊れて元に戻せなくなる。
つい昨日、己はまた選択を違えた。きっと同じようになる。
パルテティオがそばに寄る気配がした。息を吸い込んで、拳を握り込む様が、ちらりと見えたかと思えば。

「……良い加減にしろよッ!」

頬に急激な熱が集まり出す。それから痛みが広がった。「な、にを……」パルテティオは息を荒げ、自身を殴りつけたことで赤らんだその拳をしまった。

そうして、顔を上げざるを得なくなったテメノスに向け、有無を言わさぬ目つきで射止め、吠えた。

「テメノス、お前は今、腹を括らなくちゃならねえ時だろうがよ……! ヒカリは、お前のつがいは、世界でたった一人しかいねぇんだぞ!」

強い刺激が入ってくる。知らないところが、これは怒りの匂いだと示す。それだけじゃない、失望したくはないという懇願さえも。

「つがいって、さっきから一体……」

困惑するテメノスの脇から、落ち着いた音色が降り注ぐ。

「言葉の通りだよ。ヒカリは猫で、あんたは犬。その姿はつがい同士であるまごうことなき証明じゃないか」

反芻して、頭は理解を拒み出すのに——身体は何かを掴み上げて、鼓動を高鳴らせる。
肩を上下させたままに、パルテティオは一瞬、口を開きかけて、躊躇うように視線をずらした。されどそれもすぐに潜まる。意を決したふうに、言葉という言葉を紡ぐ。

「ヒカリはよ……ずっと、お前のことが好きだったんだよ」

「……そんなこと、あるはずが」

冗談めいているのに、本物の生き物が、裡で鳴いている。可愛いものじゃない、獰猛に吠え散らかしている。
その生物はとにかく手がつけられないほど怒っていて、テメノスの中で暴れ回る。そうして、確かめることを急かすのだ。

ヒカリが好きだ。それは今も変わらない。ただ、その気持ちを伝えることはない。そう定めてきた。仮に彼が自分を好いていたとしても……。それが、彼のためになる。そう言い聞かせた。

「ヒカリはね、ずっとあんたの気持ちを大事にしたいからって……自分の身体のことをあんたにだけは隠してきたんだよ。私達はそれを尊重した。けどさ」

思えば、テメノスは彼を避けていたが、実際のところ、彼が宿屋でキャスティに看られながら過ごしていたため会わなかった、というのが多くを占めていた。

なぜ、気が付けなかったのだろう。ソローネの自身を見る目が、明確に咎めるものに変わる。

「どんどん苦しんでいって……見ていられなかった。私、本気であんたに抗議しようかと思ったことあるくらいだよ」

ヒカリが苦しむ姿を、とっくの前——冬景色の夜に、テメノスは目にしていたはずだ。その時、初めて目にした彼の脆い一面に、自分は何を感じていたろう? 手を握りながら、切々と祈りを捧げていた、懸命な己は。
守りたいと、そう願っていたはずだ。彼を知るたび、それは膨らんでいった。
皮肉にも今し方、突きつけられた。

「……私は、」

胸が痛んで悲鳴を上げる。自ずとそこを手のひらで握り締める。

「ヒカリを……失いたくない」

希い。されど、それだけではいけない。
何があろうとも、この手で彼を救わなくてはならない。

ヒカリ……あなたはまだ、私を待ってくれているだろうか。

随分と遠回りをしてしまった。ヒカリが好きだという気持ちに、蓋をして、結局は、彼を傷つけてしまった。

「行けよ、テメノス」

背中を突かれる。パルテティオが、目つきこそ張り詰めていたが、口元は託すように、緩んでいた。

「お前の背負ってるもの、まずはここに置いていけよ。預かっていてやる」この手を奪われて、強すぎるくらいに掴まれた。腑に落ちるとともに、握り返してやった。どこもかしこも、雑然としていて、悔恨も痛みも、哀惜も整理なんてつかない。今日や明日ごときで消えない。

「とにかく今は、ヒカリを迎えに行くのが、お前のすべきことなんだからよ」

でも、それでも、だ。来たるべき時というものは、猶予なんぞ与えちゃくれない。

「……ええ」テメノスはまなじりを決する。「彼の元へ向かいます」二度と、後悔しない。誤らない。

この身はあれほど固まっていたのが嘘であるかのように動きたがっていた。細胞が打ち震える。今なら、彼がどこにいたって、この足で駆けてゆける。

この姿に変わったであろうすぐ後、まるで憑かれたかのように、自分のものかと疑わしいほどの身体能力を発露させたのを想起する。加えて、頭も酷く冴えていた。獣の特性が、自身に力を与えているのだろうか。

そんな仮説は、この際頭から追いやる。手早く引っ掛けてあったローブだけ手に取り、纏う。

ヒカリが落下したであろう地点へ回り込むには、街の外からゆくしかない。距離もある。急がねば。

「このまま尻込みし続けてたら、気絶させてでも連れてってやろうかと思ったけど」

立て掛けておいた杖を寄越される。慣れ親しんでいるような、軟弱な男を惹きつけない笑みを湛えて、ドアノブを捻る。

「行ってきな、相棒。私たちも後を追うからさ」

泰然とした、信頼の匂いがした。

一言、別れを告げ、テメノスは宿屋を飛び出した。生暖かな吐息は凍てつく空気によって淡く白ばむ。
体を縛り付けるような寒さは不思議と感じない。獣が急き立てる。西へ、と主張している。

道行く人、馬車、あるいは石切の長壁を潜り抜け、疲れを知らないまま風を切った。

自らの白すぎる見てくれは、雪化粧によく馴染み、迷彩の役割を担った。その為なのか、別の理由なのか——魔物たちが立ちはだかることはついぞ無かった。

胸の中では、ずっと彼の名を呼んでいる。愛しい人。我が、つがい。
この脈打つものはなんなのだろう。思いの具現化か、もしくは、魂そのものなのか。

本当は、あの時、その手をしっかりと握り取っていたのならば。場を厭わずに、彼をきつく抱きしめて、耳元で未完成で拙い熱情を差し出したのなら。

悔恨と自責が、テメノスの向かい風として針となり地肌に突き刺さる。それでも、今はどうか。

雪原をゆく白き獣は、その足を止めた。結晶を多く塗した毛ひとつひとつが、鋭敏に人の息吹を感じ取って、振れた。

聞こえる。彼のか細い命の音が。
それから、濃い血の匂い。

吹雪が和らぐ。テメノスは目を凝らした。白煙の中、ゆらめく人影を認めた。少しだけ距離を詰めて、背負っていた杖を抜いた。

「……お前は誰だ?」

投げかけた誰何に、ヒカリの姿を模った別の何かは、背中越しに喉の奥を鳴らした。その手には剣が握られている。
彼とは似て非なる邪気の匂い。嗅ぐだけでも吐き気が込み上げてくるほどの。


『ンだよ。愛しのヒカリちゃんだぜ? 喜べよ』

向き合った男は、かんばせもヒカリに酷似していたが、その人相は彼から遠くかけ離れていた。どれほどまでの悪意を注ぎ込めば、こんな見目形に作り変えられるのかと思われるほどには。テメノスは一瞬だけ呆気に取られたが、いっとう強い愛しい人の存在を知覚して視線をそっと落とす。その足元に横たわるヒカリが居た。黒い耳、それから力無く雪に埋れかかる長い尾。まごうことなき、テメノスのつがい——

「お前……ヒカリに何をした」

唸り、牙を剥き出しになる。激しい憤怒の衝動に、揉まれてゆく。

さらに雪が大人しくなる。陰はテメノスの明確な威嚇をいなすかのように、鼻で笑った。
霧を輪郭に纏わせた異形が、やおらに歩み出す。ヒカリを見る。彼は、瞼をきつく締め、苦悶の色を浮かばせ腹を抱いたまま、微かにその身を震わせていた。

これまで感じなかった、冷ややかな汗がこめかみを舐めた。広がりすぎた血液が、彼を中心に氷雪を赤く染め上げていた。

ヒカリの死は、もうすぐそばにまで這い寄っている——

『コイツの猫を殺そうと思ってな……健気に庇いやがって。まあいい、お前から先にやる』

こちらの焦燥など厭わぬ闇の化身は、刀を差し向けた。深淵の色を螺旋が如く纏う禍々しさは、テメノスの血を喰らおうと歯牙をちらつかせる。
嗜虐的に人相を歪め、陰は剣ではなくその青白い手を差し向けた。

『前々からテメェの血を見たいと思ってたんだよなァ……ッッ!』

自身に隷属する黒い塊が、テメノスめがけて打ち出される。涎を垂らした大蛇がテメノスを飲み込まんと、顎門を鈍く光らせる。
咄嗟に盾を複数展開し、これを凌ぐ。尖った先がこれを破りに何度も噛みつき、亀裂が刻まれる。

「そこを退きなさい! ヒカリが間に合わなくなる……ッ、お前の宿主だろう!?」

光明魔法を素早く編み出し、空中に出現、降りしきる矢が束となり、大蛇を撃ち抜いた。
だが陰は怯まない。万物の闇色を自身の傀儡とし、爪繰る。

『黙れよ……ッッ! お前を殺さなきゃ腹の虫が治まらねぇんだよッッ!!』

怒号と共に、陰の分身が白銀を歪に塗り潰した。
無数の糸。殺傷能力は格段に落ちるが、目視に捉えられぬほどの俊敏さで肉薄する。

杖という媒介に込められるだけの魔力を詰め込んで、それから出鱈目じみた詠唱文句を並べた。

「道を塞ぐなら……退けるまでだ」

暗闇を打ち消す輝きと、明るみを貪り食らう闇が拮抗する。
颶風に煽られ、身体からこそげ落とされる魔力に歯噛みする。汗がとめどなく散る。

『オイ、分かってんのか?こいつの中の猫が目覚めやがったのは、お前のせいなんだぞ』

凍てつく視線がかち合う。
殺意の奥に秘められた平静で隠し覆われた憎悪が、間近にあるかのように錯覚させられる。

ヒカリの猫、己の犬。そのどちらも、相手を愛する気持ちから生まれた。
彼はそれを、守り続けた。体を丸くして、今も懸命に抱きしめている。テメノスへの想いを、死なせないために。
形容し難い思いが奥底から天辺にまで突き抜けに来る。

「……知ってますとも——聖なる、光よ」

詠唱を続ける。幾重の闇を突き抜け、断罪の青き流星が彼に刃向かうが、それを掴み取った彼の片掌によって、果実のように握り潰された。

魔力の残滓が、ちりあくたとなる。

「それでも、彼を苦しみから、私が救ってみせる……!」

膨大な記憶の海から引き揚げた詠唱文句を矢継ぎ早に唱え尽くす。
無から生み出された黄金。間違いなくコストの大きさから、一度目に通しただけであるようなそれ。膨大な羅列に微小の針を通し組み上げられた清く無比たる聖槍は、陰目掛けて撃たれた。『ヘッ、開き直ったか! ——』
陰はそれを斬り捨て、時に闇を遣わせた。動かす脚はどこまでもゆったりとしているのに、刀を振るう動きは肉眼では追えない。

『ヒカリにお前は不要だ……ここで死ね』

陰の腕が伸ばされる。それが合図だった。
俄かに立ちこめた濃密なる闇と邪気が、テメノスの"影"から生みだされた。

陰が指を動かすたび、それらは形を変え、テメノスの手首へ、脇腹へ、首元へ纏わりつき、身じろぎすら許せなくする。

「ッ、いつのまに、」

『ザマァねえなクソ犬』冷酷な踵が振り下ろされる。『テメェは誰も救えやしねえんだよ……せいぜいあの世で嘆いてろ』硬い靴裏に力が籠り、背中を抉られるたび、激しい疼痛が広がる。同時、首に纏わりついていた幾重の糸が突っ張る。肉を蹂躙する音が鳴る。呻吟が漏れ、呼吸が、急速に奪われてゆく。

誰も救えない——そうかもしれない。これまで、自分は大切な人を守りきれたことがあったろうか?

視界が霞みだす。正常なる循環が断ち切られようとしている中、思考は損なわれるはず。だのに、別のところにあるように、独白を始める。

親友が去り、自身を育て上げてくれた父のような偉大な人は魔獣に嬲り殺され、親しくなった聖堂騎士の青年は、正義を成した末に無惨に果てた。

そして今、想い人の命はテメノスの目前で儚く潰えようとしている。

「ひ、かり……」

彼に触れようとして、腕が空を彷徨うだけになる。抱き締めたい。その艶やかな黒髪にこの指を絡めてみたい。

あなたのことをこんなにも想っているのだと、伝えたかった。

陰はせせら笑う。臓腑が氷のように冷たい——いつの間にか、地に横臥していたようだった。

『テメェが死ねばヒカリは壊れるだろうな……後で俺が慰めてやるとするか。その首、ちぎり取ってこいつの隣に飾ってやるよ——ああ、でもまずは』

目路の脇に銀光が見ゆる。これまでで最も深い笑みを口元に描いて、陰はそれを天に掲げた。

『血を見せろ……神官様の、真っ赤な血をな——』

逡巡などなかった。人を断つ為の刃は、テメノスを貫いた。
血が噴き出したのだろうか。それとも、静かに水溜まりを作ったろうか。
わからない。刃物の冷たさを感じてすぐ、真反対の灼熱が腹を侵した。生きているのか、死んでいるのかすら曖昧になる痛みが、満腔を支配する。やがて降ろされた暗闇によって、わずかに自身を繋ぎ止めていた一欠片の意識は拠り所を失い、深淵を揺蕩った。













『……ねぇ、聞こえてる?』

懐かしい匂いがした。濡れた土と、それから、少し香ばしさの混じったような、緑。
やんわりと肩を揺さぶられ、テメノスは瞼をふっと持ち上げた。

「……あなた、は」

目覚めてすぐ、一番最初に抱いたのは、三度目にもなる白い少年の顔つきが、少しだけ大人びて見えたことに対する、驚きと戸惑いだった。

『起きて』

すげないように一言だけ告げて、テメノスの腕を強く引いた。傍で、くしゃくしゃになった枯草が潰れた。

どこかで子供の無邪気な笑い声が通り抜けた。あたりをうっそり見渡して、テメノスはここが長らくを過ごした故郷なのだと悟った。

雨が降った跡なのか、整地された道の窪みの水溜まりが、赤い葉をつけた木々を鏡面が如く映していた。

泥混じりの露を溜め込んだ枝先が、何かの拍子で滴をこぼれ落とし、テメノスの手の甲を涙のように濡らした。

『……お兄さん、行こうよ』

真白い少年は、テメノスの手を無理矢理に引いた。心なしか、何かにせき立てられているふうに感ずる。

「どこに?」

少年は脚を動かすが、その一歩の広さに反して、思うように進まない。奇妙な光景だった。

『お兄さんの行くべきところに』

行くべきところ。それはなんだったろうか。テメノスはここにきて、自分が酷く曖昧な状態にあることを知覚させられた。
故郷の鮮明な風景が、覚束ない。うつつなのか夢なのかもさえ、判然としない。
己は、ここで何をしているのだろう。疑問が生じて、動けなくなる。

「ですが、私は……」

何か反駁しなくてはならないのに、それが何であったかがわからず、言葉が解けた。
葉が舞う。風に煽られて剥がれたものが次々降り注いだ。
テメノスはふと、聞き覚えのある声が聞こえた気がして、そちらを向いた。

「……あ」

並木道の傍に、渓流から降りてきたやや忙しいが、すみやかな川がある。湖に繋がっていて、池の底まで見ゆるほどの澄み切った水面に紅葉が浮かび、空には朱色の蜻蛉が戯れる。知る人ぞ知る、佳景であった。
テメノスの友人達は、どうしてかあの場所で、並んで、旅人向けの小舟を待っていた。
あれは幻想なのだろうか。確かめるために、あそこへ駆けて行って声をかけてみたいという渇望と、それはいけないという強い警鐘がせめぎ合う。

少年が、テメノスのローブを掴んだ。

『お兄さんは、お友達にまた会いたいの? その人たちとずっと一緒にいたい?』

眉根を顰める。少年は、ひたすらに押し黙って、テメノスを見る。じっと見つめている。前もそうだった。大きな瞳が、テメノスの中にある、取り繕いの無い純然たる解答を待ち続けていた。

「……わたしは」

クリックとロイが、何かを楽しげに話している様が、ここからよく見える。なんのしがらみもない、注ぎ落とされた笑みを湛えて。

震えた手が、彼らの輪郭を遠くからなぞる。

彼らと逢って、赦して貰えたならば、救われるだろうか。また昔日のように、隣り合いながら、なんでもないようなやり取りをして過ごせたなら、満たされるだろうか。

「あの場所に行ってしまったら、きっと……戻れないのでしょうね」

少年は何も言わない。本当に、不思議な子供。大人しいくせして、ちゃっかりとテメノスの裡側を擽って、時に消せない跡を刻みつけてゆく。いっそ、厄介に思ったことすらある。

されど、薄々、勘付き始めてはいる。彼がなんであるか。何を、求めているかも。

「……私、あそこには行けません」

使命がある。それは彼らの想いを背負いながらも、他の誰でも無い、テメノス自身の意思で、そうすべきであると信じて貫く道だ。

友人に逢うことで、心は満たされたとしても、それは成すべきことではない。本懐は、あそこにはない。

『じゃあ、行こうか』

獣の子供は僅かに綻び、テメノスを再び先導した。彼らの姿が薄らいでゆく。
まだ、彼らにはなむけは捧げられない。もう少し掛かるけれど、必ず、我が使命を果たすと誓う。

これで、良かった。迷いなく、踵を返す。

「……一つ、お尋ねしたいのですが」

先の方に、扉が見える。なんの変哲もない、木の扉が、されど何もないところにある。
この紅葉の道に、終わりが近い。悟ったテメノスは、少年を呼び止めた。

「あなたはどうして……私の前に現れるのですか?」

『もう、分かってるんじゃないの? お兄さんだから』

利発的な少年は、自分を挑戦的に見上げてみせた。テメノスは降参という体で両手を上げる。
それから、辿る心算の先を澄んだ心持ちで見据えたのち、口を開いた。

「私は、間違えてばかりです。誰も救えない……そう言われて、そうなのかもしれないと認めている自分も見つけてしまったのです」

歩んだこの道は、決して清く明るい道などではない。人の屍、はかりごと、翳り、闇、苦痛。
また、過ちを繰り返すかもしれない。そう思うのは自明だった。

『だったら、諦める?』

かぶりを振る。軋みをあげ、悲痛に叫ぶ心は、それでも進みたがる。

「いいえ、そうはしません……あなたが、私を守ってくださったのでしょう?」

白髪に、緑色の——否、翡翠の瞳を持つ少年。
耳とお揃いの尾をゆったり揺らして、テメノスに向け、瞭然たる言葉をくれる。

『違うよ。お兄さんが、自分で選んだんだよ。生きる道を』

おもむろに破顔して、それから、背筋が伸びる思いがした。ああ、そうだ。この子は、他の何でもない、テメノス自身にある。
目を覚ましたその時から、テメノスに呼びかける、獣の、こども。自分の中で眠り続けてきた。

「ええ。私にはまだ、やるべきことがあります。それに……どうしても守りたい人もいる」

この白髪を撫ぜる。耳がさけるように動くのが面白い。白き獣の子は、大人しく受け止めてから、少しくすぐったそうに目を細めた。

『僕たち獣は、つがいを想う気持ちで育つの』小さな手が触れた。前よりもずっと温かい。『その灯火を大事にしてね、お兄さん』ぎゅうと力が籠る。この感触を、忘れないようにしたいと密かに思う。

「はい、必ず」

結局テメノスはしゃがんで、少年を抱き寄せた。自分の獣。ヒカリへの想いのかたちが、生まれて白い犬になった。そして、力をくれた。

『ありがとう……捨てないでくれて』

テメノスの大切な想いの権化は、そっと背中に腕を回して——この胸の中へ、温かで明々とともる、灯火へと姿を変えた。





「——あまねく苦痛を癒したまえ」

詠うが如くの聖句。神の祝福があたりを清く照らし、眩き輪郭を保った羽根が舞う。

陰が信じられないものを見る目で、テメノスを凝視していた。

神の御技により、抉られた腹も、再起不能の臓器も、もげかけた首も何もかもが時間を巻き戻したように修復された。身体に熱が巡りだす。手に馴染む杖を拾い上げ、テメノスは再び陰に対峙した。

『あの状態で詠唱する余裕なんざ……テメェ、何しやがった。喉も潰したはず……』

「さあ? あなたに答える義理はありませんので」

いらえば、陰は見るからに顔を歪めた。自身の腹を切り、血に塗れた剣を構え、テメノスに矯めた。地を蹴り上げる。『……死ね』

我が獣が、テメノスに力を貸してくれる。同時に、これはヒカリが自身に与えてくれたものでもある。
つがいには、そういった非論理的な何かがあるのかもしれない。

「私はもう、負けない。真実を掴み、愛する人も守り抜く——」

憎悪の剣が、横暴に振り下ろされ、強固なる盾を斬りつける。狭間に幾度となく火花を散らせた。

『戯言を吐くその口から潰してやるよ……ッ!』

陰は再び濃密なる夜の闇を放つ。
彼の傀儡が悍ましく変形を繰り返し、亡者のような姿となり、やがて融合し悪鬼羅刹と成り果てた姿でテメノスを取り囲む。

「聖火神エルフリックよ……どうか私にお力添えください」

聖なる力を蹂躙せしめんとする魔物の中心に、一縷の光柱が聳える。

これで終いだ。頭の中にある、聖典のページを繰る。
自身の全てを課してでも、ヒカリを守る。彼と見たい、明日がある。
最もひたむきで無比たる願いが、一つの聖句を呼び醒ました。

「この世の影を照らしたまえ——」

自身を喰らわんとするありとあらゆる闇が、神聖で荘厳なる輝きによって瞬く間に塗り潰されてゆく。
光明に焼かれた魍魎の断末魔が唱和する。一度に多く詰め込まれた魔力は、解き放たれた時、半球の爆発を引き起こす。
自身とヒカリの周囲に広く防壁を作り上げて颶風を庇い凌ぐ。

陰の姿は跡形もなかった。消えたか、もしくは逃げたか。どちらにせよ、あの醜悪な気配はもう感じられない。

テメノスは、ヒカリの元へ向かった。蹲るように、横たわった、黒い猫姿のつがい。彼の身体に、触れた。冷たい。

彼の軽い身体をそっと掬い上げ、自らの膝上へ添える。ああ、今も聞こえる。か細い鼓動と、淡く切なく鳴く、猫の鳴き声。

「ご安心ください……私が、守りますから」

この両手を絡ませ、結びつける。残った魔力を全て注ぎ込み、あらゆる苦痛を、傷を、癒すための神の祝福の言葉を。赤心を込めて紡いでゆく。

まだ、もう少し。手を握ってあげたいけれど、出来ないのがもどかしい。
せめて、自分の温もりを分け与えられたら良いのに。

念じて、切望して……彼の唇に触れた。ほんの少し遅れて、意味のないことだと気がつく。だが、頭では理解していても、体と本能は違った。気がつけば、何度も口付けをしていた。

段々と、身体が火照りを帯びてくる。愛しさでいっぱいになって、この腕は勝手に動かされ、彼を抱きしめていた。

「ひかり……っ、あいしてます」

勝手に言葉まで溢れてきて、自制が効かない。それでも、癒しの祝詞は、淡い緑色で二人を包んでいた。
重ね合わせた彼の唇が温かく思えた頃、閉じられた瞼が震えだす。

「ぅ、ん……」

小さく呻きを漏らして、久方ぶりの黒いまなこが、自身を映し込む。
しばし瞬いたのち、濡れた唇からおもむろに音を紡ぐ。

「てめ、のす……? おれは……」

生きた耳と尾が息を吹き返して、震わせたり振れたりする。
テメノスは堪らなくなって、言葉をしばし忘れかけたが、やっとのことで喉の奥から絞り出す。

「……っ、よかった」

ヒカリはほんの少し身じろいで、テメノスを見上げた。それから自分が収まっていたところに気がついて、そこから離れることも、背に腕を回すこともできずに、ひたすらに視線を面映げに彷徨わせた。

「っ、テメノス……その、そなたが……俺を助けてくれたのか?」

「あなたは橋から落ちてここに倒れていたのです。私が回復魔法を使いましたから、もう大丈夫ですよ」

乱れてしまっている黒髪を退けてやり、そっと慎重な手つきで梳かす。
黒耳が反応を示して、ぴくりと動く。

「そう、か……ありがとう。そなたはいつも、俺を救い上げてくれるな……」

訥々と言葉をつらねながら、頬に朱が差し込みだす。

白いだけのこの場所では、その色味が際立つ。濃やかな彼の愛らしさに、我が食指はその仄かな熱を確かめにゆく。
ヒカリのこんなところも、ずっと前から知っていたのに、どうしたって、離れようだなんて思えたのだろう。

「ヒカリ」

甘やかに、その名を口にする。もう慣れてしまった響き。なのに、降り頻る思いは、そこに積み上げられてゆくばかりだ。

「……っ、テメノス」

顔を寄せた。お互いの息遣いが分かるところまで近づく。テメノスは、自らが発する音一つ一つをつとめて整然となるよう心がけながら、ありたけの思いを込める。

「返すものなんていりません。私は……あなたのためならいつだって、どこへだってゆくのです」

かすかに、身体の深いところにある重い塊が、意思を沈ませようとする。
今この場に必要なのは、何の取り繕いもない、誠実さだけだ。

「……私は自分の気持ちを認めることを恐れていました。そのせいで、あなたを苦しめてしまって、本当に——」彼の目を見て、言う。逸らしかけても、澄んだ黒はすぐそばにある。自戒した。「テメノス」

両頬に硬い手のひらの感触。熱い。微量がほんのわずかだけ、触れ合った。
ヒカリの、晴れた空よりもいっぺんの曇りどころもない清さは、触れるのが叶わないと思うのに、欲しくなる。ゆえに、手を、伸ばしてしまうのだ。

「苦しんでいるのは、そなたの方だろう」

ああ、彼のたっといところが、自分だけを仰いでいる。それだけで、この目を離せない。
やがて、すうと冷たい外気を吸い込んで、白い息が吹きこぼされた。

「暗闇の中で、ずっとテメノスの声のようなものが聞こえていた。俺は眺めていることしかできなかったが……」まつ毛が伏せられる。深い黒が揺らめいた。大切なひとつひとつを、確かめるように。「そなたは、大切なひとを、友を……失った。その時の強い憤りが、悲しみが……俺にも伝わってきた」やがて、額が合わさった。横たわるいつわりなんぞは見つけられやしないと知っているから、複雑な色味を湛えたものが込み上げてくる。

「私は……」

自分で選んだ道だから。そういらえるのならば、簡単だった。
今度は胸の奥がちりちり痛み出す。ああ、今、必要なのはこんな回答じゃなくて。
自分は誤って、彼を拒んだのに。それを無かったかのように、労わることすらするヒカリの心根が、優しい音を奏でて、共鳴する。
このたっとくて、何よりも気高いひとを、絶対に守らなくてはならない。誓いを立てた。

「ヒカリ……私はあなたに笑っていて欲しい。もう二度と、この手を離しません」

だから、どうか。そばに。この先も、あなたがいてくれたのなら。
なんとかして、ちゃんと意味を持たせて伝えたいのに、そう願うのに——想いが主導権を奪ってしまうと、ままならなくて困る。

「あなたが好きです……ヒカリ」

こんな、犬の姿になってしまうくらいには。尾が意思に反して左右に振り切れる。言葉以上のところは、獣が教えてくれる。

「俺も、そなたを好いている。こんな、猫の姿になってしまうほどには」

知ってか知らずか、自身の胸の内と似たことを彼が言う。
嘆くような口吻には到底思えなくって、自ずと口元が緩みだす。

「私も、とうとう犬になってしまいました……でも、悪いこととは思いません」

ちょっとだけ肩をすくませてそう口にしたなら、彼は明眸に映るものをテメノスを留まらせて、驚くようなそぶりを見せた。
でもすぐに、意図を汲み取って柔らかい面持ちへと変わる。

「……ふふ、俺も同じだ。テメノスよ、今こんなふうに共にいなければ、寂しくて泣いてしまうような俺の猫だが……それでも好いてくれるか?」

通じ合えるのが嬉しくて、テメノスは今すぐにでも口付けしたくなるが、堪えた。

「可愛らしいではありませんか。私の方こそ、この犬は中々結構、やんちゃなものですが……受け入れてくださいますか」

彼は何も返さない。代わりに、不意に、唇が合わさった。舌が閉じたところをひと舐めされる。
頬は淡く染まっているのに、口元は緩やかな曲線を描く。猫の、蠱惑的なところがほんの一瞬だけ、見え隠れした。
テメノスの湧き出した動揺を悟ることなく、彼はいらえた。

「当たり前だろう。彼我の獣は自分の一部なのだから——それに俺がどれほど、そなたに焦がれてきたと思っている? そんなことで好きになることをやめられるわけがなかろう」

尾がゆるりと動いて、テメノスのをつついた。反駁も身じろぎも許さないと言わんばかりに、まなざしで射止められてしまう。少しばかり不満げで、なんだか挑まれているように感ずるのは、気のせいではなくって、彼の本質的なところが滲んでいるからだ。

「参りましたよ、ヒカリ」

愛おしいものだから、この互いに譲らない告白の応酬に、喜んで降参する。彼の頭を撫ぜた。くすぐったそうに耳がもぞもぞしだす。

「……む」

でもちょっと不満げで、上目に見てくるのが可愛らしい。

「ふふ、今はね」先程から好き勝手にしてくる尻尾を、自らので絡み取ってやる。

「お返しに、私があなたを想う気持ちはこれからたくさんお伝えするとします。覚悟しておいてくださいね」

「……それは楽しみだ」

白と黒が結びつく。彼の咲かす笑みは、雪だらけの場所を色付ける花のようであったが、同時に不敵めいてもいた。——如何なるものでも受け止めてやろうという、彼の懐が見え隠れしている。

テメノスは可笑しくなって、だけども、彼に応えるべくふっと笑んだ。

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