【全体公開版】きみのけものより、愛を込めて。


燭台の紅色の火が颶風に吹き曝され、潰える。
断罪の杖が石畳に叩きつけられ、暫し地下空間の静寂を塗り替え、支配する。

「……は、」

周囲の音がやけに遠くに感じるのに、自身の呼吸の音だけは、内側に響いて回る。

形を崩し始めつつある視界の中心には、晒された口元だけに歪な笑みを描いた女。
その手には、濁った色を纏う長剣。鋒は何人かの血で穢れていた。

「ほお、滑稽だな」

乱れた茶髪を払いのけ、嘲りを含んだ音色で囀る。烏の醜い鳴き声、もしくは、それにも満たぬ穢らわしさが、臓腑に不快感をもよおす。
奥歯を噛む。自分のゆくべき場所に、この女は逃すべき障壁に過ぎない。頭では理解できても、憤懣はこの身体を傀儡に作り変える。

「獣のような目だ。理性を失いかけた、ただ食らうだけの衝動に酔わされた」

「……うるさい」

黙れ。その腐った口を塞げ。罵倒ならいくらでも吐き散らかせる。この醜女から言葉を発する権限を奪い取ったならば、我が信ずる神に倣う裁きに相応しかろう。否、この激情が、女の命を刈り取ることだけで自身を立ち上がらせる。

溜まった血痰を吐き出す。どこかの骨が折れている気がして、動くたびに痛むが、金輪際構わなかった。

「テメノス……!」仲間の盗賊が、自身の肩を強く掴む。切羽詰まった目をしているが、テメノスはそれについて、何か所感を抱けることはなかった。

「お前は下がってろって……! その状態じゃあ戦えねえよ」

パルテティオまでもが、テメノスの腕を強く引き戻しにくる。
だが、頭はどこまでも冷め冷めとしていて、なりふり構いはしなかった。
それでいて、この身体の中心で激しい音を立て続けている衝動は、常に燃え盛っている。
早く動き出さなくては、と、身体を前に押し進めようとする。
テメノスはつとめて穏やかに、平静さを装い、彼らに向け、微笑むさえ与えにゆく。

「何を言うのです、お二人とも……私はまだ戦えますよ」

よくよく見たら、腕も足も、斬られていたようで、血で塗れている。
だが、それがなんなのだというのだろう。あの女を討たない理由にはならない。

「……あんた、何、その目は」

彼女が当惑を滲ませるその意味が分からない。手の力が緩んだので、すかさず引き剥がす。パルテティオのも、同じく。なんだかいつもより、力さえ湧いてくる気がする。なんなのだろう、これは。不思議だ。

「ククク……自ら死にきたか。愚かな男だ」

「好きなだけ遺言でも残しておけ。ここがお前の眠る場所だ」

言いながら、杖を構える。魔力を込める。ありったけに。クバリーから明確な苛立ちが醸される。醜悪な気配が濃くなり、肌がひりつくが、それが臆する理由にはならない。

「口だけは達者だな……お前もクリックと同じように、冥府へ還れ、軟弱な犬が!」

眼裏には、クリックの亡骸がこびりついて離れない。彼は苦しみながら、地を這い、やっとのことであそこまで来て、寒さに蝕まれ、果てたのだろう。

彼は、命をかけてまで、真実への経路を繋いだ——

「……聖火の光よ」

小声で詠唱を始めれば、身体中の血液が燃え滾って、沸騰しそうな熱が巡りゆくのがわかる。クバリーの剣が飛んでくる。澱んだ青を纏って、テメノスの首を切り飛ばそうとする。

奴の剣が鈍ったのか、否、自分の見ゆるものが異常なのか。
やけにゆったりとして映る。テメノスはすかさず身体ごと使って地面を滑り、それを避けた。硬い石の床などものともせず、抉られ、その周囲を亀裂が迸る。

「あの女に裁きを——」

ほんの一瞬だけ、驚きを滲ませたかの女に向け、手を伸ばし、平坦に呟く。
光明の矢がなんの前触れも無しに空中に出現し、淀みを裂く。クバリーの肩口を貫きた。鮮血が乱れ咲く。

「ッ、……貴様!」

再び強烈なひと薙ぎが迫る。テメノスはそれを呼吸と等しく、当たり前に躱す。間髪入れずに衝撃波が飛ぶが、即座に盾を展開し、防ぎ切った。
いつの間にか、宙を舞っていた。自分で足を蹴って、やったことのはずなのに、意思が伴っていないように感ずる。
まるで、己の中に潜む別の存在が操っているかのようだ——他人事のように、思う。

あの女を殺めろ。頭の奥の方で、冷たい号令が響もす。それにまつろって、また手を伸ばす。無慈悲じみた光の矢が俄かに降り注いだ。

随分と高く飛んだ。されど、この身は勝手知ったるという風に着地してみせる。

呼気を吐き出す。どうしてか、唸りが混じった。
身体が熱っぽく、荒々しい欲ばかりが湧き上がる。テメノスはもう、杖を置き去りにしていた。

「貴様……その姿はなんだ……?」

姿。なんのことだろう。見てくれなどこの際どうだっていい。
クバリーはあの光矢を弾ききれなかったのか、ほんの少し前よりずっと、裂傷の数が増えていた。血の滲む脇腹を庇いながら、それでも剣はしっかりと握っている。

「テメノス……あんた……」

背後のソローネが、震えを帯びた声色で自身の名を呼ぶ。これまで散々、呼びかけられていたような気もするが——テメノスはそれにいらえることなく、毅然と足を動かす。前へと。

「遂に我を失ったか、汚らしい雄犬めが……!」

汚らわしいのはどちらなのだろう。クバリーは続け様にしゃがれた声で何か宣っていたが、もはやどうでも良い。ここが彼女の死に場所なのだから。

「……聖なる光よ、炎よ」

臨界点を迎えた魔力が、テメノスの掌に籠る。青い炎が、激しい音を立てて浮かび上がる。
夥しいほどの聖句や詠唱文句——中には忘れていたようなものも全て、吹き返され、頭の中に羅列されてゆく。

「ッ、くるな……化け物! 死ね!死ねェェッッ!!」

甲冑が業火に剥がれる。クバリーは多様な盾を組み上げる術を持っていたはず。だが、飛んでくるのは剣撃ばかりだ。蓬髪が無様に振り乱される。
紫電を纏わせ、喚き散らしながら飛んでくる彼女の突進ごと聖盾で勢いを殺し、焼き払う。

断末魔が禁忌を封じ込めし空間を風靡し、耳をつんざく。

後ろでパルテティオが何か叫んでいたが、よく、分からなかった。多分、もうやめろ、とでも言っていたのだろう——

甲冑の融解したクバリーの素顔が目下にある。微かな呼吸の音が唇の間から漏れ出ていた。
テメノスはいつの間にか、女の上に馬乗りになっていた。転がった力を失った剣は、頭身の半分も残っちゃいない。
だがこの鋭利な部分を心の臓にでも突き立てれば、女の息の根は完全に止まるだろう。捻じ曲がった柄を手に取る。

「——」

許せなかった。目の前の女が、カルディナが——否、なによりも自分自身が、憎い。
クリックに向け、暇乞いを告げたあの夜が、呪いのように脳裏で廻り続ける。
彼は友人だった。助手でもあるかもしれなかった。テメノスを信じると言ってくれた人でもあった。

また、喪った。選択を誤った。どれほど強く抱きしめたとて、この手から砂のようにこぼれ落ちてしまう。

「……く、そ……っ」

身体中を満たしていた、あの熱は瞬く間に抜け落ちてゆく。
力の根源を失ってしまったテメノスは、力無く頽れ、持っていた凶器はその手からカランと音を立てて落ちた。

銀の破片に移し込んでいた己の頭には、まごう事なき獣の耳が、あたかも初めから存在していたかのように揺れていた。
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