【全体公開版】きみのけものより、愛を込めて。


ガタン、と何かが揺れる物音がして、ヒカリは反射的に瞼を持ち上げた。身体を動かそうとも試みたのだが、やけに重たい。力むことを繰り返す。息を吐き、思い切り吸い込む。くすんだ空気が肺に刺さる。

身体の周りには厚い布が巻かれている。狭い空間の左右に取り付けられた窓ガラスのようなところから、真っ白いだけの景色が見ゆる。
どうやらここは、ウィンターランドらしかった。そうだと知覚すると、肌を寒さがまとわりつきだした。毛布を手繰り寄せ、被った。
なのに額は汗でベトついていて、黒髪が張り付いてしまっていた。ヒカリはますます混乱した。

「……おれ、は」

声はしゃがれていた。泣き喚いた後であるかのように。試しに唾を飲むと、喉に針でも刺さったかのように痛んだ。

「ぁ、……」

背筋が粟立つ。熱が這い上がってくる感覚が、全身を満たしにくる。そっと腕を抱くと、心臓の音が簡単に裡に響もしてくる。

ここはどこで、自分は何をしに来たのか。その現実をおもむろに取り戻そうとする頭を、熱がしつこく阻みにくる。己の中で暴れ回る厄介な猫が人間然とした意思を、獣じみた本能だけに塗り替えようとする。

ヒカリは誰のものかも分からないソファに丸く縮こまった。あっという間に玉のような汗を作っては、こめかみから顎下に、真珠のようにこぼれ落ちてゆく。

——壬の使命は、運命の丁を見つけだすことだ。

常夏の古道で聞いた男の声がこだまする。ひっそりと海辺の雑木林に紛れたような東屋で、ヒカリは古めかしい作りの机を隔てて、彼と向かい合っていた。

妻と娘らに店を託し、自身は一人独学で研究に勤しんでいるという学者を名乗る彼。
獣化について知っていると踏んだヒカリは、彼に招かれ、そのままたくさんの話をした。正確には相手方がほとんど止まらず語っていたのだが。

学者とはああいう性質なのだろう。オズバルドはとても寡黙だが、魔法学のことだととても饒舌になる。溜め込んだ膨大な知識が、外に出て行きたがるに違いなかった。

彼はやや癖の強い人柄ではあるが、気さくな御仁であった。比喩を多用する話ぶりが難解であったが、それでもたまに戯けたりしてこちらの緊張を解こうとする心構えが窺えた。

あの夢のようなやり取りを交わして、もう二月も経った。変わり目といえば、そこだったろう。
あれ以来、学者との会話が何度も再生される。

烏色のローブを翻し、男は鷹揚な語り口を崩さない。
知性的で、されど燦然とした目つきが、分厚いレンズを隔てて度々覗く。

獣は育つ。宿主と共に。男は自分にそう言い聞かせてきた。

——獣が如何にして育ってゆくか……君はなんだと思う?

彼の問いかけに、ヒカリは何も答えられなかった。育つ、という言葉を掴みあぐねて、そこから思考は停滞してしまう。

学者は半ば呆気に取られてしまっている自身を咎めることなく、それどころか口元を緩ませた。その先にある言葉をつらねるのを、待ち侘びていたかのように。

曰く。ヒートがやってくる時は決まっている。

産声を上げた時、心が揺さぶられた時。もしくは——

運命の丁への恋心を知ってしまった時。

宣告と共に身に覚えがあるだろう、と彼は確信めいた口ぶりでヒカリを見下ろす。いっそ貫くようで、無慈悲で怜悧にすら映った。

ヒカリはしばし硬直し、言の葉を紡ぐことすら叶わないでいた。

脳裏には、ただ一人だけの人物が思い浮かんでいた。
否定の言葉を重ねることもできたろう。だが、肯定するための材料の方が多すぎて、それを押し込めるに能うものは無きに等しい。

愛しく思う気持ちを注がれた獣は、もう止まらない。
壬は、眠っている丁を起こしにゆく。運命を手繰り寄せるために。
堅牢な扉を開くための鍵は、もう握らされている。あとは向かうだけだとのたまうが、畢竟、心が置き去りならば言葉に意味は通らない。

ヒカリには成すべきことがある。果てなき理想だって、泰然として灯している。
そして、彼にだって、果たさなくてはならない責務や悲願がある。

この壬の体は、枷のように重たい。脱ぎ捨てて、代わりがあるならそうしたい。
育ててしまった想いも、ヒカリの心を脆弱に作り替えようとする。獣はそれに従って、やがてヒカリを狂わせるだろう。

学者は、彼とつがうべきであると、柔い言葉遣いで諭しにくる。それが何よりの最善であると、言葉の裏に忍ばせて。
ヒカリはどうしたって首を縦に動かすことはできなかった。
自覚した思いが傾れ込み、晒され、未だ自身を揺さぶって仕方がなく、音を発することすらままならない。獣が今更知ったのかと怒るように、爪でも立てているのか、胸の内側が熱く疼くようだ。痛いのに、甘い。

学者は椅子から立ちあがろうとして崩れ落ちかけたヒカリを支えてやり、休ませてやってから、発情期がまたやってくるであろうことを告げた。その上で、より強力な抑制剤の調合について記したものを手渡してくれた。

——君が何かを背負っているのはわかる。でもね、気持ちにだけは嘘をついてはいかれないよ。何よりも宿主自身が、獣を愛さなくては、いつか君自身が壊れる。

今思えば、あの学者の言葉にはどこか覚えがあった。ひどく懐かしく、そして恋しいような感覚が蘇るが、結局のところ、その正体までは分からない。

夕刻が過ぎ去ってようやく、ヒカリは東屋から出た。
空の色を吸い込んだ海辺が、風の気まぐれに従い波を引いたり押したりして、最後には気休めに水音を鳴らす。

魔物の気配はないが、ヒカリは念の為、学者の前を先導していた。海猫に似た鳥が囀り、空の端に消えるのを仰ぐ。
黒みのかかった灰が階調の如く末広がる砂浜を辿っていくと、望んでいたけれど、望まなかった人物の姿を認めた。

ヒカリは一瞬、動けなくなった。潮風にローブをたなびかせる、世界で一番美しいと思える彼が自身まっすぐ先のところに佇んでいると思うと、しがらみの何もかもが抜け落ちて、彼だけに囚われてしまいそうになる。立ち所に胸が騒いで、急かされて、背後を顧みなくなった。

腕を伸ばす。
その手を取ってくれたら、本当にそれだけで、代え難い幸せに飲み込まれて、窒息してしまえそう。この魂は、この上なく満たされよう。

猫が鳴く。甘ったるい音色で、彼を欲している。そんな錯覚めいているのに、やけにうつつに馴染む何かが、心の臓を加速させた。

清廉の象徴たる白を纏った彼は、翡翠のまなざしを自身に当てがって、そっと綻ぶ。
だが、普段からヒカリに見せるようなのとは、少しだけ異なるように感ずる。言うなれば、他人に向けるのに等しい。

この手は、何の温もりも収められぬまま、宙を彷徨した。
彼が、後ろへと、ヒカリから離れたのだ。それは瑣末で、無意味に思われたが、実際には瞭然とした拒絶を表している。
恋焦がれた人は、随分と遅くまで過ごしてらっしゃったようでしたが、と言葉を紡ぎ出す。さも何もなかったように、平然と。
ヒカリは遅れてやってきた抉るような痛みで、軽く返答を発するのがやっとになる。
そこからの記憶は、朦朧としている。ただろくに会話も交わさずに、ひたすらに帰路を辿っていたような気はしている。自分の中の獣が、猫が泣いてばかりいるから、あやそうにも、心が乱れていては、ままならない。

それから程なくして、ヒカリは強いヒートに見舞われた。キャスティの尽力で作り上げた強い抑制剤によってなんとか治められたが……また一週間も経たないうちに、身体は火照りを訴えた。

ヒカリの体質は、今となってはテメノス以外の全員が知っている。
彼にだけ、秘匿されているのだ。それも時間の問題だろうが……もし知られたなら、ヒカリは彼の前から消えようと決めていた。
テメノスの心は、ヒカリと等しいところにまで届いていない。自分と同じか、あるいは近しいほどの恋情は、そこに存在していないのだ。
そうでなければ、あの紫の砂浜での事や、このところ彼自らがヒカリを避けているように思われる、その説明がつかない。
望まないで、彼の本能だけを味方につけるのは、どうしたって許し難い——

「てめ、のす……」

名を呼ぶだけで、己の中の猫も応えるように鳴いているのがわかる。
日に日に、育ってきている。同時に苦しみは膨れ上がり、時に呼吸すらままなくなる。

「てめのす……」

嫌なのに、名前を口にしてしまう。きっとあの豪雪の夜から、ヒカリの何もかもが、変わってしまった。
あの夜、ヒカリを支えたあの手のひらのたっとい感触でさえ、浅ましい熱を掻き立てた。

「てめのす……てめのす、てめのす……っ、てめのす……」

ヒートのたびに、これだ。彼の名前ばかり呼んでは、勝手に身体を蝕む根源を追い払おうと浅はかな手は拙く動く。聞くに絶えない、卑しい水音が、布の隙間をすり抜けて這い出てくる。ああ、煩わしい。

俺の猫よ、俺の中から出て行ってくれ。邪魔をしないでくれ。
息をすることすらむつかしくなる、こんな恋慕、擲つことが叶うのならば、そうしたい……。


『——そんなに苦しいなら殺しちまえよ、ヒカリ……』

ゆくりなく暗く燻った黒霧が立ち込める。それはやおらに物陰から輪郭を得た。弱ったヒカリの耳元にありつき、囁きにくる。『ほらよォ、そこに刀がかけてあんだろ?一思いに突き刺しちまえよ、猫如き、すぐにご臨終だぜ』ヒカリの綻びを狙い、陰はすかさず忌まわしい言葉をつらねにくる。

何度も追い払ってきた。だが、もう……いい加減、疲れてしまった。
己は、何のためにこの猫を孕っているのだろう。守っているのだろう。そんな問いかけが、堂々巡りになる。
発情期はもう一月中、無慈悲に頻度を増やして、ヒカリを狂わせた。

『早く楽になろうぜ、ヒカリィ……?』 力なく萎れた黒い耳を、陰が指先で弄する。血の通ったそこが、震え、身体に悍ましい悦が走るのが憎らしい。『お前にとってその猫は邪魔なんだろ? もちろん俺に取ってもなァ。刀すら握れなくなるなんて、ゴミカスの疫病神だもんなァ、ええ?』逃げようとする尾を難なく掴み取り、つねり上げる。

「——ッ」

痛いはずなのに、身体は身悶えた。力なく腕を伸ばすが、ただ側の布切れに縋るだけになる。
陰の指先が尾の形を確かめるように付け根を目指しにくる。

必死に声を抑えようと口を塞ぐが、身体は我が物ではないような艶めいた音色を引き出そうと促しているかのようですらあった。
気持ちが悪い。憎い陰によってなすすべもなく身体を蹂躙されそうになっていると言う事実に、吐き気だって覚えているのに、身体は、どこまでも愚直である。

散々、身体を弄され、辱められ、逃げたいと強く望むのに、身体が動かない。それどころか刺激を貪らんとする。喘ぎ悶え、かぶりを左右に振るヒカリの黒髪を陰が乱暴につかみ、引っ張り上げた。喉の奥が引き攣り、怖気が込み上がる。やがて汗まみれの首まで手のひらが降りてきて、冷たい温度が締め付けにくる。爪先が食い込み、鋭い痛みが感覚を支配する。
今なら簡単に、泡を吹いて、窒息でもして、事切れてしまえる気がした。「……ぁ、かげ……も、いき、……が」

本能が死を拒む。ここにきて陰は深い愉悦をかんばせに湛えた。
そして、刀の方角へと、ヒカリの体を無理やり向かせてゆく。

『やめてほしいか? なら、はやく俺の言うとおりにしろ——殺れ、お前の獣を』

「ぁ……」

こんなのは自分じゃない。獣がおかしくさせているだけだ。
はやく楽になるべきだ。殺めてさえしまえば、また平常の自分に戻れるのだから——
ヒカリは陰の拘束から逃れた。追ってくる気配はない。

狭い空間だ、少し体を動かして、手を伸ばすだけで良かった……ヒカリはそれを取ろうとして、逡巡する。

また、猫が泣いている。かなしい、かなしい……何度も、ヒカリの中で鳴く。
陰の舌打ちが、耳に届く。

『どうした? まだ迷ってんのか、おい——』









「——ひかりん、伏せて!」

反射的に身体を伏せた。陰の漏らした舌打ちと同時、獣人の少女がつがい、弾いた矢が飛ぶ。

綿の詰まった椅子の背の部分に矢が突き刺さる時には、もう陰の姿はなかった。

「よし……っ! 消えたみたい」

遅れてマヒナも彼女の肩に収まる。額を手の甲で拭い、安堵を浮かばせる彼女を、ヒカリはまじまじと見上げるしか出来ないでいた。

「オーシュット……」

いつかの日よりも大人びたような顔つきを見せるようになったオーシュットが、ヒカリの隣に収まった。

「ひかりん大丈夫だった? ごめんね、気付くのが遅れちゃって」

「いや……助かった。ありがとう」

礼を述べてから、みゆるものの色を取り戻したヒカリは、辺りを見渡す。窓の向こうは、ゆっくりと景色が動いていて、それに倣い音を立てて揺れる。
誰かの話し声が外からかすかに聞こえてくる。

「ここ、は……馬車の中、なのか?」

それも高貴な身分のものが利用しそうなものだ。部屋の中だと思い込まされても気が付けないかもしれない。

「うん! そーだよ。外にはおふくろととっつぁん、あとあぐねぇもいるよ」

言われて、曖昧だった部分が徐々に取り戻されていくのがわかる。名もなき村に立ち寄ったキャスティを連れ、次の行き先は他の面々が滞在しているストームヘイルであったはず。
ヒカリはそこで、ライメイの元を訪ねる心算でいる。オーシュットは確か、グラチェスを探しにいくと話していた。

「すまぬ……また、眠ってしまっていたのだろう」

頭がやけに重たく、口の中は乾き切っていた。身体は空けにでもなったかのよう。
これはよほど長く眠りこけていたに違いない。

「ううん。ヒートが来るとずっと起きてなくちゃいけないから、疲れちゃうんだよね。仕方ないよ」

ヒート中は眠れない。身体中の細胞が強制的に興奮状態へと至るがゆえに。熱を治めるか、薬が効くのを待つか……はたまた疲れ果て、気絶するか。
ヒカリは薬を服用したが、中々効かず、体感半日以上は熱と闘っていた。

「あとさっきの悪いやつ、ひかりんが弱ってるのを狙ってたんでしょ? なんかあったら言ってね。すぐに倒しちゃうから」

「……そなたがいてくれなければ危うかった」

切々と溢す。発情期の余韻と薬の副作用かで錯乱しかけていた。猫を殺すのだと刀に手をかけて、心の臓でも刺すつもりだったか。それでは陰の思う壺だったろう。

でも——本当にあれで殺せていたなら、どうなっていたろう。この煩悶から解き放たれていたろうか。彼の事を忘れて、前だけ向いて生きてゆけたろうか。「……ひかりん? お腹すいたの?」

覗き込んだ濁りのないまなこがヒカリをいっぱいに映している。胸が軋むような覚えがして、視線をそうっと逸らす。確かに空腹だが、気力が追いついていない。
ゆるやかにかぶりを振る。

「いや……何もできないというのがこんなにも苦しいとは思わなかった」

腹の中とは異なる事を口にする。彼女にはもう、丸分かりだろうが、やっぱり繕わずにはいられない。

けれど、本当のことだ。先が見えない、というのは。
このままで良いのかという自問自答は、繰り返し過ぎてもう元の色すら分からない。

「……ひかりん、あのさ」

どこか研ぎ澄まされた面持ちで、オーシュットはヒカリの来ていた衣服の裾を引き寄せた。

「ずっとこのまま黙ったままでいるの? 私、ひかりんがどんどん弱っていくのを見るのはつらいよ」

「……わからない」

勇ましく、時に無邪気な彼女の瞳に、水の膜を張るのを見るのは耐え難い。
それに、見ていると、自分まで、心が酷く痛む。情けない姿はこれ以上晒したくなかった。

「俺は前に進まなくてはならない。足を止めるわけにはいかぬのだ、オーシュットよ……」

この先何があろうと。我が友達のためにこの身は在る。例え、自分の気持ちを捨ててしまおうとも。感情を切り捨ててでも成さなくてはならない時があるとすれば、それは他でもない、今だ——

「でも!」オーシュットの目尻からとうとう、涙が零れ落ちる。「ひかりんから、傷ついた匂いがするよ。辛くて、悲しくて……ずっと助けを求めてる……きっとこれは、ひかりんと、猫さんのものなんだよ」彼女は、ヒカリの痛みを、我が物としているのだと気付かされる。自分の代わりに、泣いているのだ。
そう思うと、もう、どうしようもなくなる。この手を額にあてて、瞼をきつく締める。震えた唇の間から、深い息が漏れ出た。

「……ああ、分かって、いる」

そうしてやっと捻り出した言葉は、震えを帯びていた。

「ひかりん……教えて。めいたんてーのこと、好き?」

「……っ、おれは」

オーシュットの小さな手が、ヒカリの頬に触れ、強引に向き直させる。
眉根を寄せる。ああ、駄目だ。言ってはいけない。止まらなくなってしまう——「……好きだ。好きに決まってる……っ」噛みつくように、口にしてしまった。

誰よりも、世界で一番、テメノスが好きだ。
この気持ちは消えない。育った我が黒猫も殺せもしない。

「ひかりん」オーシュットが、その小さな体躯を使ってヒカリを包み込む。獣の、匂い。それから、マヒナと、陽だまりの香りがする。
温かい。こんな汗まみれで汚い身体なのに、まるで厭わない。ぎゅうと力を込めにくる。
顔だけ離して、不敵な笑みが向けられる。

「へへ、ちゃんと大好きなんじゃん、めいたんてーのこと」

純然たる言葉が、胸を衝く。「おれ、は……」喉元まできている、行き場のない苦しみ。思うあまり、焼き焦がされそうな熱情。それらは正常な判断をかなぐり捨て、とどまるよりも先に、この口は回り出してしまう。「何度も忘れようとした。獣を、押さえつけようとした……だが、駄目だった。寧ろ強くなってゆく……いっそ殺してしまおうかとしたが、できなかった」

また、猫が鳴いた。大口を開けて鳴く。そして、胸の扉を引っ掻いて、こじ開けんとする。

このきまぐれで、いうことなんて聞き入れちゃくれない、厄介極まりない獣。テメノスへの、想いで育った、ヒカリの核。

「うん。だってひかりんの匂いすっごく強いもん——なくせないよ、絶対」

ヒカリの汚れた衣服にも構わず、鼻を擦り付けて、オーシュットは屈託なく言って退けてしまう。
心のどこかが、柔らかな輪郭を描き始める。彼女に寄りかかったなら、どこまでも受け止めてくれるのかもしれない。どんな澱みだって、彼女の持つ温かな心が融解してしまえる。

だが、そうはしない。彼女はヒカリが立ち上がる事を望んでいるのだから。何よりも自分が、そうしなくてはならないと、この身を動かしたがっているから。

「ちゃんと、テメノスに伝えてね。大好きだーって。ひかりんが自分で決めた時でいいから。約束だよ?」

はい、指切り、とオーシュットが小指を差し出す。ヒカリも彼女より大きな自身のを絡ませ、そして、お決まりの言葉を互いに言い合う。気恥ずかしいが、異国で学んだこの方法は、心に確かなものをもたらしてくれる。「……ああ、約束だ」

——我が獣よ、今は少しだけ、待ってはくれないだろうか。
使命を終えた時、全てを明かしに彼の元へゆく。戦や人の前で何かいう時は、落ち着いていられるのに、どうしてかこういった時の覚悟というものは、形を整えるのに苦労する。

オーシュットは、身体を丸めて、ヒカリの側に寄り添い続けてくれていた。獣人の体は温い。ふさふさとした尾が振れて、ヒカリの手首を撫ぜる。

馬車の窓から、アグネアとキャスティが軽くノックして、手を振りにくる。どうやら、ストームヘイルに辿り着くのはもうすぐらしかった。




防寒服を着込み、ヒカリはオズバルド、アグネアと共にメイ城を目指す。あそこに戦友がいるのだ。会うのは少々久方ぶりだが、話をしに行くだけであるからと、オーシュットとキャスティとは途中で別れた。

「ヒカリくん、本当に大丈夫だべか? 一日休んだって……」

足回りを彩るドレスの裾をヒラつかせ、アグネアは前をゆくヒカリの横までやってくる。雪街で過ごすには、些か涼しいような装いだが、ステップを踏むにはちょうど良いやもしれない。その証左に、足はいつもの黒地ヒールであった。

憂慮をふんだんに塗りたくったまなざしを向けられるが、ヒカリはやんわりと首を横に振った。

「問題ない。ライ・メイに交渉をしに行くだけだからな」

仮にあのムゲンの息がかかっていようとも、かつての強い絆が、積み上げてきたものが自分たちの間にはある。
そう易々とは崩されない。ヒカリの足取りに、迷いはなかった。

「そうだべか……体調が悪くなったらすぐ言ってね? 私も飛んでいくし、もしもの場合はオズバルド先生に運んでもらうべ」

確認がてら、アグネアはオズバルドを仰いだ。自分たちの最後尾を担う、巨躯の持ち主。レンズに雪粒が付着するのに若干煩わしげに顔を顰めつつ、ヒカリに向け小さく「……無理はするなよ」とだけ告げた。両者を一瞥し、ふっと小さく笑みをこぼす。

「心遣い、感謝するぞ。二人とも……ああ、城が見えてきたな」

堅牢なる造りのメイ城は、長い橋に繋がれて、宙に浮かんでいるように映る。その頂点は、雲にも届くだろう。

ヒカリは少しだけ足を止めて、鉛色の空を見上げた。今も同じ空を、誰かが見ているだろうか——テメノスは、今、街のどこで、何をしているのだろう。

会いたい、と思う。より近しいところにいたいけれど、それでも、彼の顔を見られるだけでも、満たされる。

嘘だ、と見えない猫が前脚で抗議する。
分かっている。本当は……それだけでは足りないのだ。

好きだと伝えたい。叫びたい。喉が枯れたっていい。届くまで、何度も——

テメノス、俺はここにいる。

最後にそれだけ願掛けのように口の中で唱えて、また、自分の意思で身を突き動かす。その揺るぎなき背中はやがて、雪舞う白銀の中に染まった。

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