【全体公開版】きみのけものより、愛を込めて。
街中で力無く横たわる赤い装束の少年——不規則に吐き出される深い息と、爛熟した小さな頬を晒し、手のひらは弱々しく砂を掴む。
頭上から、誰かの悲鳴が降り注ぎ、鋭敏な耳にはよく響き過ぎる台詞の鋒が幼い体を貫いては、傷を生む。そこからしとどに流れゆく血を、他人事のように眺めた。
ばけもの、そう呼ばれたヒカリの身体は、酷く冷たい熱に蝕まれていた。
従者によって側室の間にまで連れてかれた、母のクラは自身を愛し子にするように痛いほどの力を込めて抱きしめにかかる。周囲の抑止も振り切り、ヒカリの汚れ切った身体を自ら清めてやっていた。ほつれた肌に湯が染み渡る。転んだ先にあった何らかの破片が皮膚を破り、深い傷を負ったもの以外は、浅い擦り痕などで済んだ。
「……ヒカリ。あなたは私の血を引いている。壬の子です」
ただ広い浴室に、母の凛と澄んだ音色がひとつ、こぼれ落とされた。
それ以降、クラは何も言わず、ヒカリの伸ばされた黒髪を何度も櫛に通してやっていた。
鏡越しの彼女のかんばせには、隠しきれない憂慮が窺えた。
十歳にも満たずに発露してしまった獣の性質を得てしまう呪い。薬でことなきを得たが、街の人間の何人かには目撃されてしまっていた。
ヒカリの胸の奥には、彼らから投げかけられた罵言の数々や、脇腹などに与えられた固い靴の感触が残っていた。
分からない。なにゆえ、街中で突然倒れ、発熱した上に、奇妙な姿に変わってしまったのか……。
「みずのえ、とはなんですか、母上」
まだあどけないような黒い瞳で、クラを見上げにゆく。よく分からないけれど、その奇妙な響きが、自分をおかしくさせているのは理解に及ぶ。
母は何を伝えたものかと逡巡のそぶりを見せたが、やがて色を正した。自分と同じ漆よりも深い黒が、ヒカリを諭すように合わさる。
「あなたの身体の中には、猫がいるのです。黒い猫……その子はあなたを苦しめますが、でも決して、殺してはならないのです」
猫。自分よりも小さく、命も短いあの生き物と似た耳と尾が自分に備わっていたのだと誰かが嘯いていた。
ヒカリは人間だ。理性なき獣に成り下がるなど、望ましくないに決まってる。身体が制御できない熱に支配され、思考も融解するあの感覚は、ひどく悍ましい。どうにかできるなら、消し去ってしまいたい。治せるならそうしたい。
けれど、最愛の母はしめやかにかぶりを振り、殺すなという。その意味を、ヒカリは掴めないでいる。
「なぜですか?」
「その黒猫は、あなたが幸せになることを誰よりも願っているのです。運命の人を見つければ、あなたもきっと分かる時が来るでしょう」
蓄えたヒカリの黒髪に、クラの編んだ髪紐が巻きつけられ、何巡かして、結び目が生まれる。迷いのない、滑らかな動作だった。
クラは鏡をまっすぐ見つめ、満足げに唇を波立たせたのち、ゆくりなく立ち上がった。襖の方へと引き寄せられているようすだった。ヒカリは不思議に思って母の後ろ姿を見つめ、募る疑問を口にする。
「うんめいのひと、とはなんですか」
「私にとってのジゴ様のように、ヒカリが何にも変え難いくらい大事に思える人のことですよ」
空いた隙間から、ジゴの姿が確認できた。ヒカリが目をすがめれば、クラに向け、軽く手を掲げる彼がいた。あんなに遠くなのに、よくわかるものだといっそ感心する。
ヒカリは一度だけ、真っ白な獣耳を生やした母が、対照的な黒の長尾をゆるりと装束の裏から覗かせた父と並ぶ姿を覗き見たことがある。
城の重臣さえも入ることが禁じられたその一室で、細やかな緑で飾られた庭先が見ゆる広縁。
睦言の一つも聞き取れなかったが、両者の尾は絡みついて、結び合っていた。
「でも、きっとあなたは自分の背負うべきものと天秤にかけて、迷う時が来るでしょう」
薄雲の張った青空よりも遠くを見据えて、母は確信めいたことを口にする。
その横顔はあえかなのに、深いところで切り崩せない覚悟が鎮座しているふうに捉えられたから、ヒカリは時たまに、子供心ながらに不安になるのだ。
母の背中に触れたくて、ヒカリは彼女の側によった。クラはそんな自身と目線を合わせるために、しゃがみにきた。装束に皺がつくと女中に言われそうなものだが、街中ではしょっちゅうやっていて、意に介してもいない。
「私はあなたに光ある未来のために、皆を照らして欲しい。けれど、わたくしは同時に、愛するあなたの幸せも願っているのです」
頬に触れる手のひらは少し冷たいが、柔らかく、安心できる。
この人がいてくれるだけで、ヒカリは彼女の謳う、友のための未来を目指してみてもいいと思える。
「もし、運命を見つけたなら……自分の心に従うのですよ。獣は、素直ですから」
心に、従え。母は確かにそう言っていた。
軟くなった陽の光を受けて、煌めきの輪郭を得た母を、ヒカリはただ見上げるしかできなかった。
「ヒカリ、いつまでも、あなたは私の大切な、世界でたった一人の我が子です。愛していますよ」
クラは今にも逆光に溶けてしまいそうな儚げな微笑みを湛えて、ヒカリの額に柔らかな唇を寄せた。
愛している。意味を知っているはずなのに、この母の言葉は少年である自身にとっては、どこまでも悠揚と聳えていた。じっと仰いでいなくてはならないほどの深奥が、ヒカリを包む。
「はは、うえ……」
何度会いたいと思ったか分からない。
クラに関する記憶は、そう多くはない。大切で、掻き集めてでも保管しておきたいのに、時が経つことに色褪せてしまうことが、酷くやるせなくて、虚しい。
だからせめて、うつつを忘れた時にだけ、母を追う。暖かく、優しい灯火が、ヒカリを心地よい眠りに誘ってくれる。同時に、ひどく切なくもなって、堪えきれずに——ヒカリは結んだ瞼を持ち上げるのだ。
「ヒカリ君……良かった、起きたのね」
暖炉の火が弾ける音が離れた位置から耳を打つ。いつか肌に感じた春の陽気のような柔さが、ヒカリを見つめていた。
「キャスティ……俺は、」
今まで何を、と言いかけてこめかみが疼く。渡された程よく冷えた布を押し当て、浅く息を吐く。すれば、次第に和らいでゆく。安堵の息が空に馴染む。
「これ、今日の分の薬よ。初めて調合したものだったけれど……良かった。ちゃんと作用してくれたみたいで」
混じり気のない、労る口ぶり。ヒカリは唇を動かしかけて、止まる。
「……」
こうべを垂れたまま、キャスティの目を見ることができない。
自身の特異体質。それに関しては、ずっと仲間にも秘匿してきたのだ。
幼少期に臥せて以降、投薬を続けたことで発情期(ヒート)を抑えることができるようになっていた。月に二回ほど、軽く熱っぽくなるくらいで、生活にも大きな支障をきたす事もなく、かつてのように耳と尾が表出することも無かった。ゆえにヒカリは、自分の中に猫がいることを、長らく忘れてしまっていたほどだ。
つい、先日までは。
「キャスティよ……その、気が付いていたのか?」
美しい双眸を覆うためのまつ毛が伏せられる。ガラス玉のようなところがやがて、ヒカリに行き着く。
「……前に、ね。あなたが薬を飲んでいるのを見つけて調べたことがあるの」
暖気を吸い込んで、己の手のひらを熱くさせる寝具をそっと握る。そこから汗がじわり滲んだ。
ブロンドの前髪が彼女に陰を落とし、鼻梁をくっきりと縁取らせた。
「あなたに飲ませたのは、それを再現して、改良したものよ。とは言っても……臥せているあなたを見て、似たような症状の患者を治療した時の記憶が吹き戻されたのだけれど」
寄せられた机上には、彼女が丹精込めて練り上げたであろう練り薬が包紙に載せられていた。そしてたくさんの道具と、薬草、見たことのない素材。
全てを理解したわけではない。だが、一筋縄ではいかなかったはずだ。
ヒカリが飲み続けていた処方薬も、ジゴが大金を積んでまで招致したという、城専属の薬師が編み出したものである。
キャスティは薬を再現どころか、改良まで施した。彼女でなければ成せない絶技だ。
胸底から込み上げてくる自分でも拾い上げられないような思いごと、まずは深い呼気ごと吐き出してしまい——波立たせた唇を、おもむろに開く。
「キャスティ……俺は、この恩義を如何様にして返せば良いだろうか」
彼女がいてくれなかったのなら、と想像すると、腹の底から這い上がるものが、肌を粟立たせにくる。
半身に被っていた毛布を握り込むヒカリの手の甲を、キャスティの手のひらが包む。「いいのよ。……それよりも」
「このことは黙っておくわ。知られたくないのでしょう?」
瞬かれた髪色とお揃いの睫毛の裏を見る。確信めいた色味が、ヒカリを窺う。
彼女の前では、きっと多くを隠しおおせやしない。それはもう、薄々感じ取りつつあったが、ヒカリにとって今は救いだった。
「ああ……だが」
「大丈夫よ。あの場には私とオーシュットしかいなかったから」
ヒカリが臥せたのは、クロップデールの町外れだった。アグネアの衣装の手直しと、ついでに、軽い探索を兼ねて訪れていた。確か、鍛錬の途中だったように思う。幸い、あそこには町の住民が木苺を摘みにいく程度で、人の目は行き届きにくい。
内心、酷く安堵するものの、やはり薄膜を張った懸念は拭えない。未だ、ヒート——いわば発情期と呼ばれるそれがなんらかの綻びによって本格的に始まってしまったのかもしれない。そうなると抑制剤も一時凌ぎにしかならなくなる。
ひとたび考えだせば、悪い予感ばかりが押し寄せてくる。
「オーシュットは鼻が効くでしょう。あなたの異変を感じ取って、私を連れてきてくれたのよ」
「そうであったか。確かに彼女ならば……」
陰の存在も嗅ぎ取っていたくらいだ、暴れ回る獣に関してもオーシュットは以前から気がついていたのではないか。そこまで考えたところで、はたと思い出す。
世話になった城の薬師から聞いたことがある。獣人にも第二の性別なるものが存在しており、ヒカリを苛む獣化は彼らとよく似た性質を有していると。これまでに彼女にそのことを尋ねた試しはなかった。秘めていたものを、晒すのを強く躊躇っていたがゆえに。
「今、思えば……」キャスティは何かを想起したように宙に視線を這わせた。「私が昔治療したのは、耳と尾が生えた人間だったのでしょうね……てっきり、獣人の子が人里に迷い込んだのかと思っていたけれど」ヒカリと似た症状、と話していた患者のことだろう。あんまりはっきりとした記憶ではないのだけれど、と付け足す。
「ああ、きっと……」
そうなのだろう。誠に稀有でありながら、ソリスティアのどこかには確かに、いるのだ。獣化を生まれながらにして賜った人間が。
ヒカリはそのことを知ってこそいるものの、旅を始めて以来、一度もお目に書かれた事はない。加えて密かにその記録や当事者がいないか、新たな人里に辿り着くたび調べて回ってこそいたものの、まともや情報は得られていない。壬はその特異体質に苦しみ、抗う。意図的に人目から離れて暮らしているやもしれなかった。それか、もしくは。"運命"とやらに巡り会いつがったのなら、人々の営みに溶け込むことができるのだろうが。
あらかじめ定められたような未来より、自分で切り拓く方がよっぽど良い。ヒカリは、その運命という言葉があまり好ましく思えばしなかった。「……ヒカリ君」
「あなたの力になりたいわ。できるなら、知っていることをもっと教えてほしいの」
キャスティは包んでいただけの手に力を込めた。薬師としての矜持だけでなく、一個人としての温情が、今しがた、目の前にあるのを認めて暗澹としかけていたところが少しだけ和らぐ気がした。
こうやって、優しい誰かの一部が自分に触れると、なんだか自分まで張り詰めていたものが綻ぶ。不思議だけれど、きっと伝わってくるからなのだろう。その人の、たっとい人となりが。
あの、豪雪の夜もそうだった。ヒカリの手を握ってくれていた人がいた。
ヒカリは暗闇の中でもがき苦しみながらも、彼の声を聞いていたように思う。淡い青色の光粒が降り注いで、自分を呼ぶ。
体の奥底から力が湧いて、散々苦しめた陰も、自らの力で振り払い、色差すうつつを取り戻した。
自分が目を覚ませば、酷く安堵したようにふっと笑って、彼は自分の隣で眠ってしまった。
嬉しいような、申し訳ないような、恥ずかしいような……色んな想いが湧き上がるから、変な顔をしていたかもしれない。
とにかく、あの夜から何もかもが……変わった。
キャスティに差し出された舌を痛めない熱さの茶で喉を湿らせ、ヒカリは小さく息を吸い込み——そうして、キャスティに向け、自身の知る限りを打ち明けた。
ク家の呪いは二つある。一つは、呪われた血縁、もう一つは……この獣の性だ。最も、ジゴが最初の例で、母と会ってから発現したそうだ。ヒカリも、それを引き継いで生まれてきた。
ヒカリの性は母と同じ『壬(みずのえ)』である。ヒートおよび発情期の状態になると同時に、獣の姿へと変質する。黒い猫のような耳と尾が生えだすのだ。
壬はヒートを定期的に起こす。それはつがいである"丁(ひのと)"を見つけるまで続くのだ。
丁には発情期がない。運命を見つけるまでは、人と変わり無い生活を送る。獣人のような優れた感知能力があるのならまだしも、この半端な体質では見つけようもない。
壬もまた、ヒートによりフェロモンこそ振りまけど、世界を占める多くの人間がそれを感知することは叶わない。ただ媚薬を盛られた憐れな男に映るだけだ。
普段のヒカリであれば膂力でそつがなく対応できる。だが、この状態になると思うように力が働かず、地を這いつくばるだけになる。
思考までも灼熱に侵され、ただ身体を慰めることだけを求めて、男に乞う。けだものへと成り下がる——かの薬師はそう話していた。考えただけで、ぞっとする。
ヒカリは身支度を整え、キャスティと共にオーシュットがおるであろう東クロップデール森道へ脚を運んだ。
もう少し休んでからで良いと言われもしたが、身体を蝕んでいたものは今は無くなって、寧ろ鈍らないように動かした方が良いように思われた。
それに、剣が振えなくなるのは不安になる。いつか不必要になるとはいっても、今戦う術を失えば、何もかもが遠ざかる。
せせらぎに耳をすませながら、小さな橋を渡る。茂みを揺らし、慌てた動作で向かいへ飛び込むマモットや、木々のあわいにある水色の空を飛んでゆく鳥を仰いだりする。
その間、キャスティと少し話をする。その多くは、彼女からの質問が占めていた——第二の性別は三つあって、丁、壬は主として、その中間である戊(つちのえ)。戊には発情期もなければ、丁のようにそれを感ずることもない。いわばニュートラルな存在ともいうべきか。人間のほとんどは実質的な戊のようなもの、と捉えることもできよう。
「あら……?」
木々の稜線で羽を休めていたであろう小鳥たちが一斉に飛び立ち、森全体が騒々しくなる。
携えていた剣に触れる。鞘から銀の刀身の一部が露わになる。
「キャスティ、下がっていてくれ」
静謐な所作で抜刀し、木漏れ日に反射する銀の煌めきが朝露の如く鋒からこぼれ落ちた。
横目に薬師を見るが、鈍く重たい鉄塊を背中から取り外し、構えてみせた。
制服のポケットには、投擲して扱う劇薬の数々が顔を出している。
「私も戦うわよ。それに、これはきっと……」
その言葉の先は、分かる気がする。ヒカリが再び口を開きかけた時、緑の景色が揺れた。
正確には、空気が激しく振動した。耳につんざく、獣の叫び。だがその奥には、確かな理性がある。「うおおおおおーッッッ」
鼓膜が破れそうだ。地につけた足裏に力が籠り、柔い土が抉れる。
所狭しと並んだ緑を突き破り、魔物が姿を現す。その金切り声に、別の意味で耳が痛いが、厭わない。
「そっちいったよー!」
朗々とした少女の声。
バーディアンよりも高く跳ね上がったオーシュットが、マヒナと共に着地する。
「オーシュット。あれはそなたの獲物か?」
鳥を模したようで、ところどころ歪な姿をした魔物。羽ばたくたび、近くの水面が波を生む。
知性の象徴として、槍のような得物を鉤爪に掴んでいる。
似たようなのは何度も屠ってきたが、それよりかは一回り大きい。
オーシュットは背中の矢をそっと引き抜いてから、頷く。「そう!」警戒態勢のマヒナと共に、ニヤリと笑みを湛えてバーディアンを見上げた。「隣の森から追いかけてたらこっちまできちゃったよ」獲物を見る目。
片翼には既に矢が突き刺さっており、高く飛び上がる事は難しそうだ。
梟に近しい大きな瞳から、憎悪がひしひしと感じられる。魔物であろうとも、感情はあるが、これは理性を刈り取られた類のものだ。
狩るか、狩られるか、その駆け引きしかない。
「あら……あの子、爪が血だらけね」
キャスティの視線を辿れば、見え隠れする獲物を持たぬ方の前脚の尖った鉤爪には乾いたような血がこびりついているのが見て取れる。
「んー、他の巣を荒らしてたみたい——いくよ、マヒナ!」
マヒナは低空飛行し、そこから高度を急上昇させた後に魔力を編み込む。
風、光、闇……あらゆる属性の魔法を扱うことのできるマヒナは、敵の弱いところを突くのに適している。
真空の刃がバーディアンに降りかかる。それを槍で相殺するが、再び高く飛び上がったオーシュットまでは対応出来ない。
「おりゃりゃりゃ〜!」
弓を連続で五回、左右の羽に集中してつがい、撃ち出す。
飛ぶ力を根こそぎ奪い取られたバーディアンは泣き喚き、身を捩らせるが、枝に絡まっては重力に従い、身を打ち付けながら落下する。
この様子では、オーシュット一人でも仕留められただろう。が、彼女の目配せに気がついたヒカリは、刀を上段に構え直す。
「よし、今だ!ひかりん、おふくろ、お願い! こいつ、今日のおやつだからそこんところよろしくね!」
羽を狙っているのは動きを封じるのもそうだが、胴体を食用にするためだろう。
「ああ」
キャスティを見る。斧を片手に、肩を鳴らす。
「仕方がないわね……奪われてしまった子供達の分、落とし前をつけさせてもらうわよ」
揺らぎなく魔物に狙いを定め、横髪を耳にかけてからふっと笑む。いっそ逞しい……鳥の心臓は、彼女に任せよう。魔物の治療も行える彼女なら、位置も的確なはずだ。
魔物の体表が逆立ち、澱んだ黒羽が自分達めがけて撃ち込まれてゆく。ヒカリはそれを避け、時に刀で弾きながら、肉薄する。
マヒナがすぐに飛んでゆき、彼女の放つ放つ蛍火が空に振り撒かれ、焼き払う。「ありがとう——」呼気混じりに礼を溢し、斧を振りかぶる。吶喊と共に、横薙ぎがてら投擲する。回転をつけて、魔物の頭蓋目掛けて飛んでゆく。
キャスティらの動きを時折視覚に取り込みながら、ヒカリは速攻、対象に肉薄せしめた。死角に入り込み、攻撃の元となるその双翼を斬り落とそうと試みる。
右は斬った。左は——斧によって血飛沫が噴き出す。付け根を貫いたようだった。「あら、外れてしまったわね……」キャスティが肩を落とす。
「——これだけやれれば大丈夫! 」バーディアンの中心を、いっとう大きな矢が貫いた。
巨体がぴくりとも動かなくなるのを認めるなり、オーシュットは矢をつがえているときの、鋭い眼差しを解いた。
ほんの一瞬で、あっけなく絶命した魔物を、オーシュットは得意げに取り出した解体用の得物で捌いていく。
躊躇いなく肉を切り、魔物の中身から不要なものを抜き取る。中々にグロッキーな様相だが、彼女の手つきは滑らかだ。
「私も手伝うわよ、オーシュット」
袖を捲ったキャスティもそれに加わる。貸された包丁を扱い、手袋を嵌め、度の強い酒で消毒を施してから——慣れたふうに肉塊を切り分けてゆく。
「オーシュット、俺にもできることはあるか?」
「ん、じゃあ串に刺してくれる?」
バーディアンの羽は肉が薄く、軟骨は食べられなくもないが、基本的に食べられることはないらしい。(硬い羽は、炎に弱いが汚れにくく、衣服などの素材には向いている)そして羽が大きいほど自尊心が強く、それを奪われると死と同等……だとか。解体中、狩人ならではの色んな含蓄を聞けた。
「二人とも、来てくれて助かったよ。ひかりんは、もう身体だいじょーぶ?」
焚き火の上へ斬った肉を均等に焼くために通した串を固定させ、焦げ目がつくくらいになったら回す。その繰り返しの末に、ようやく肉が食べられるのだ。香ばしい香りが立ち込め、こんがりした日焼けのような肌に、溶けた油が滴っている。
そんな最中、オーシュットの問いかけにより自身が放念しかけていたことが、形を取り戻し始めた。
「ああ、キャスティの薬のおかげで今は大丈夫だ」
キャスティと目が合う。やんわりと何かを促すようなそれを感じ取ったヒカリは、真面からオーシュットと向き合う。
「そなたは、気付いていたのか? 俺が……壬であることを」
もたげ始めた緊張感からか、手汗を握る。しかしヒカリの意を決した問いかけに、オーシュットは首どころか身体全体を使って傾げる素振りを見せた。
「みずのえ? なに、それ……あっ、"おめが"のこと?」
「獣人は皆そうやって呼んでいるのね?」
すかさずキャスティが助け舟を出す。
オーシュットは焼けた肉を取り外し、味付けのされていないそれをヒカリに手渡してきた。
病み上がりだからと、彼女なりの心遣いのつもりらしい。
「えっとね。あるふぁ、べーた、おめがって呼んでるんだ。どうしてかは知らないけど、みんなそう言うの」
変わった呼び名だ、という安直な所感を抱く。だが彼女の言う通りに、獣人の集落では浸透しているのだから、むしろそちらの方が正規の呼び名とも捉えることもできよう。
「ひかりんがおめがなのは、初めて会った時から気付いてたよ? 人間からも甘い匂いがするんだなってちょっとびっくりした」
彼女の口から初めて知らされた事に、ヒカリはいくばくかの、静かなる喫驚を挟んだ。
「……甘い匂い?」
「うん。おめがはみんな、花みたいなふわっとした匂いがするんだよね。発情期になるとブワーッてくるから、すぐに分かったよ? つがいのあるふぁにはいい匂いに感じるらしいけど」
そういうオーシュットは、丁、あるふぁなのだという。ただ、集落につがいはおらず、近辺の同じ獣人の中でも見つかっていない。とはいっても、本人は能天気で、気にしているようなそぶりもない。「オーシュット、昨日のことだがしかと礼を言わせて欲しい」
彼女の口が咀嚼を止めるのを暫し待ってから、温めたとて手放してはならないところを掴み上げて、彼女に差し出す。
「そなたが倒れていた俺を見つけてくれたのだろう。ありがとう」
「いいよー。治したのは、おふくろでもあるしね」
丸太に収まり、浮いた足を揺らす。降ろした頭を上げて拝んだオーシュットははにかむが、そのうちヒカリを強かそうな目で仰ぐ。
「でも気を付けてね。おめがはヒートになると動けなくなっちゃうでしょ? ひかりんが強いけど、なっちゃったら大変なことになるよ」
口調こそ柔らかいが、言っていること自体は正鵠を射ている。だが現状、袋小路の手前にあるようなものだ。
「……俺自身、戸惑っている。なぜこれまで抑制剤で抑えられていたというのに突然ああなってしまったのかと」
思案顔のキャスティも諾う。やはり彼女も思うところがあるようだった。
今回は薬こそ効いたが、もしかしたらまた……ということも十分に考えられる。せめて原因が分かれば、とは思うのだが。
「うーん、確かに……あ、冷めちゃうから早く食べて食べてー!」
「あ、ああ……」
調味料を振りかけ、促されるままに食す。肉は柔らかく、鳥系のものにしては奥深いところにコクがある。焦がしてあるところが程よく香ばしいのが良い。
ヒカリは思わず、ひっそりと綻ぶ。美味しいものを食べると、自然とこうなるものだ。
残りの二人の分も焼いて、あとは干し肉用に持ち帰るようにするらしかった。
オーシュットは自分たちよりもずっと大きな焼きトリに齧り付いて、肉の汁すら残さないほどの旺盛っぷりだった。
よっぽどお腹が空いていたのだろう、ということが窺えた。
「……ヒカリ君。あなたはいっとき、眠れなくて苦しそうにしていた時があったわよね」
夕刻になり始めの薄暗さに、炎が明るさを孕みだす。
伏目がちに溢す彼女を見やる。手に持った串肉があまり減っていない。
「ん、ああ……そうだな。そなたはやはり、気付いていたか」
その頃は我ながら酷い顔をしていた気がする。目元は隈が出来上がっていたし、何より精彩に欠けてやつれていたのを誤魔化すのに苦労した。
「最近は顔色が良かったから安心し切っていたけれど。あの時も、その体質のことで悩んでいたのかしら。ごめんなさい、ちゃんと気がついてあげられなくて……」
キャスティは自分を責めているらしかった。折れた大木に据えていたヒカリは腰を浮かしかける。その代わりに大きく首を左右に動かした。
「そなたのせいではない。それに……あの時は別のことに拘っていた。前に話したが、陰のことで、な」
酒場で、濁しながら打ち明けたことを思い出す。自分の内側の、それも深くに根付いた部分を名状するだけでも苦労するのに。それを他者へ晒すのは、勇気が要るものだ。
キャスティはあの時と同じように、曇りのないガラス玉のような明眸を細めて、そっと笑む。
「そうなのね。ソローネのこともあったから、あなたのことをテメノスに託したのは、間違いじゃなかったみたいね」
初耳だ。でも、あの時、あの場所でテメノスがしたことは、紛れもない、彼自身の意思だとヒカリはよく知っている。
「うむ……テメノスがいてくれて良かったと心から思っている」
肯定の言葉を口にしながら、根底のところでは、手も伸ばしきれない程の想いが詰まっていることは、もうとっくに認めている。
目を覚ました途端のあの深い安堵も、眼裏にずっと焼きついたような、安らかな寝顔も。
あの場所で、生きているという実感が徐々に降り注いで、ああ、彼のお陰なのだと知ってから、ひっそりと寄り添った。
「ん、ひかりん、めいたんてーに助けてもらってたの?」
耳を小さく揺らして、オーシュットが寄ってくる。肉は、もう軸だけになっていた。
尾が膝あたりに触れるのをくすぐったく思いつつ、当時のことをそのまま言葉にする。
「ああ……俺がうなされている間、ずっと側で声を掛けたり、手を繋いだりしてくれていた」
「あら、テメノス……そんなことをしてたのね」
キャスティは目を見開き、「ひとまずは上手くいったとしか言わなかったものだから……」と驚きを混じえたように付け加えた。
そういえば、話したことはなかったか。自分の中にあんまりにも複雑な色味を放つものが揺蕩うと、どうにもそのまま、形容しないでいたくなるが、それがこのことかもしれなかった。
「へー、やるじゃんめいたんてー! ひかりん、見直したでしょ」
マヒナに肉の断片を食わせてやりながら、オーシュットは尾を地に打ちつけた。変わらぬ屈託のなさとちょっとした意外性を持たせた口吻がいささか気になる。
「テメノスは元から優しい御仁だ。俺はそれに、救われた」
「ふーん……そっかそっか」
「どうしたオーシュット?」
眉を眉間に寄せるという、彼女にしては珍しいような顔つきだ。
白髪が振り子のように揺れる。そうしたら、すぐに彼女の胸の澱みの濯ぎ落とされそうなふにゃっとした表情が間近にあるだけだ。
「ううん。ひかりんが嬉しそうだなーって思っただけだよ。匂いも柔らかくて」
「む……? そうだろうか」
獣人は嘘なんてつけないから、きっと本当のことだろう。
でも、自分は本当にテメノスには救われていて、彼の暖かい部分に胸を満たされたのだ。嬉しいと思うのも至極真っ当だろう。
「それで、オーシュット。獣人の皆はヒートが起きたらどうしているの?」
キャスティは焚き火に程よい枝木を投げ入れた。耳に心地が良い音が鳴る。
オーシュットが胡座を組んだ中心には、マヒナが当たり前のように収まっている。頭やら顎やらを撫でられ、戯れて指を嘴で突いたりしている。
「ん、大体皆つがいがいるからなー。まずい時はあるふぁ達を遠ざけたりしてるよ。キャスティが作るみたいな苦いやつ、師匠から作り方教わって飲ませたりもしてるけど……でも勝手に起こるやつは、そいつの近くにうんめいのつがいがいる証だったりするって」
丁達が壬の放つフェロモンに当てられぬよう隔離するか、もしくは薬を服用するか——人間がやれることと、大差はない。
しばし咀嚼したのち、先に言葉を返したのはキャスティの方だった。
「そう、なのね。運命のお相手……つがいがいれば良いのでしょうけれど……難しそうね」
つがいがいれば何もかも丸くは収まるのかもしれない。だが、現実味が持てない、というのが正直なところだ。
キャスティに同意を示せば、オーシュットは唸る。「うーん」
血の通った耳と尾が、同調するように動いて、暫ししてからぴたりと止む。
「あるふぁもおめがも、人間だろうとこの子だーって分かるはずなんだけどなー。私たちと何が違うんだろう? ……あっ、そうだ」
オーシュットがすっくと立ち上がるので、マヒナが慌てて離れる。星の浮かび始めた空の、どこか遠くを人差し指が狙いを定めて真っ直ぐ突き刺す。
「もっと詳しい奴がトト・ハハにいるから、聞いてみたら、いいと思う! 昔師匠から聞いたんだけど、東の方の町外れに学者?がいるんだって」
「東……トロップホップのことかしら?」
「そう、そこ!」
トトハハに移住した人間たちが開拓したリゾート地、だったか。以前にアグネアが、あそこで行われる舞台を見に行きたいと話していたのをふと想起する。
何にせよ、訪ねてみないからには始まらないのだから、まずは目指してみれば良い。
「ここから随分と離れているわね。うん、薬をたっぷり調合しておくわ」
西の端から海を渡り、さらに遠くまで足を延ばすことになる。長旅になるのは自明であった。
早速手帳を取り出して、あれこれと呟き出した
「素材を取ってこよう。そなたの世話になる分、やれることはしたい」
「ふふ、ありがとう。オーシュット、ヒカリ君の体のことは、今はまだみんなに話さないでおいてくれる?」
いつかは、明かす必要が出てくるだろう。だがまだ諸々の整理がついていない今、躊躇う思いの方が優った。キャスティはそんなヒカリの心中を慮ってくれているのだろう。
「うん、分かった! ひかりん、あんまり無理しちゃだめだよ。材料なら、私も手伝うからね」
「二人とも……恩に着る」
「ヒカリ君、苦しい時は我慢しなくていい。私たちを頼ってくれていいのよ……そのことを、忘れないでいてね」
皆、優しい。人を頼ることはできても、心まで預けてしまうのは、少しだけ、苦手なきらいがある。
けれどこうやって、なんの見返りも求めない、無償の温情を向けられると、ヒカリは手を伸ばしたくなる。
「……ああ」
それから暫くしたが、改良された抑制剤が功を奏したためか、動けなくなるほどの発情期に見舞われることはめっきりなくなった。以前と同じように、軽く熱っぽくなることはあれど、数日で治まってくれた。
そのため文字通り方向転換し、クラックレッジから出港させた船で東大陸へ。自身もモンテワイズにて目的を果たし、仲間に手を貸しながら、未踏の地に寄り道を繰り返しながら——トト・ハハを目指す運びとなった。
ヒカリは小さな町の食事処にて、軽食を取っていた。向かいには、穏やかに微笑みを湛え、自分をじっと見つめる神官がいる。
「……どうしたテメノス、食べないのか?」
グラタンなるものを頼んでみたが、当たりだったようだ。細かく刻んだ玉ねぎの甘みが溶け込んでいるのが良い。故郷ではまずこういった多様な野菜が使われた料理は珍しい。
テメノスはパイ生地に野菜や肉を挟んで焼いたものを、洗練された所作で切り分け、食している。
ヒカリはナイフの使い方を覚える際、彼のをこっそりと参考にしたものだ。
だが、思ったより食べ進められていない。自分の方に目配せして、微笑ましいものでも見るように口元を緩ませてばかりいる。
「いえ、なんでも……ヒカリ、せっかくですから私のキッシュも食べてみませんか?」
キッシュという食べ物は野菜の緑と肉の赤らみと、表面はこんがり狐色で、ナイフを入れると良い音がするものだから、食欲を程よく刺激する。
テメノスがフォークに刺したところから、ふんわり湯気が上がる。それをつい、目で追う。
「ああ……そなたのも良いな。目に鮮やかだ」
「はい、どうぞ」
さも当たり前のように、テメノスは自身に向けキッシュを差し出す。
ヒカリはこの行為が彼との食事のたび行われるのを少し不思議に思いつつも、応えた。
「……む」
サクッとしているのに、中はふわふわしていて、旨味が広がる。これは出来立てが一番美味しい類のものだ。
「ふふ、お気に召したみたいですね?」
ヒカリは気が付けば、テメノスとは夜にひっそり食事する間柄となっていた。
体の調子も良かったので、情報収集を再開した矢先——厄介な輩に絡まれたところをテメノスが救い出してくれた。自身を案ずる彼の提案で、夜に情報収集を二人で行うことになったのだ。
「テメノスよ、俺のも少し食べるか?」
そうして、自身の皿を彼に差し出す。小さく礼を告げてから、マカロニなるものをチーズと具材に絡めた。そうして口に運び、「これも美味しいですね」と綻ぶ。
暴くか買収するかの談義は、なぜか食事もセットになった。情報源を探るためでもあるとはいえ、ヒカリはこの時間を好ましく思うようになっていた。テメノスの選ぶ店は外れがないし、いつもより幾分か柔らかい表情でいる彼と他愛もないような話をかわすのは、心が安らぐ。
このことは個人的に内密にしていたのだが、ある時、仲間から冷やかしを賜ったことがある。
テメノスとの時間が増えたためか、それに伴い、酒場で仲間たちと飲み交わす機会が減ってしまっていた。このこともあったため、ヒカリは久方ぶりのパルテティオの誘いに乗った。取り敢えずグラス入りの蒸留酒を一つ、少しずつ飲む。
「だめだよ王子、もっと飲まなきゃ、ねぇ?」
もはや恒例、ともいうべきか、ソローネが絡んできた。香水やら酒の強い匂いが鼻を刺す。眉根を寄せたヒカリが困っているものだと判断したのか、やんわりとパルテティオが引き剥がしてやっている。
「ヒカリ、最近テメノスと何やってんだ? 夜中に二人ともいないってキャスティが心配してたぜ」
運びかけたガラス容器を置く。彼は一瞥するなり、文句を垂れるソローネを片手間で適当にいなしてやっている。そのまなざしには憂慮が窺えるが、何よりも、純粋なる疑問を抱いているらしかった。
「情報収集をしているが……?」
「やーね、プリンス」ソローネはジト目を寄越し、「あんた達が二人仲良くお食事してるのはもうバレバレなんだよ」パルテティオを掻い潜り、自身の胸板を突きにくる。
「む、そうか……いや、隠すことでもないが」
そうは言うが、秘めておきたかったのは実のところだ。何となく、彼との間だけにある穏和な感覚を、大事にしておきたかった。
「お前らいつの間にそんな仲になってたんだ? いや、好きなようにすりゃあいいけどよ……」
おかしなものでも食べたかのような珍妙な表情を作って、若き英才の商人は本音と配慮を混ぜこぜに口にする。彼の性格柄、水臭い、とも思われたろうか。仲間同士、暗黙の線引きは案外しっかりと画しているから、彼も怒るようなそぶりは見せないけれど。
「でもさあ」ソローネは身を乗り出す。そっとはしたくない、と如実に現れているかのような強引さ。
「気になるよねぇ〜? しかもコソコソと……そういうことなのかな? んん?」
「あー……わりぃな、こいつ今日は悪ノリ気味で」
パルテティオは何というか、酒の付き合いが良すぎる。人となりからくるものだろうが、ソローネはそんな彼を振り回して、辟易とさせているであろうことが目に浮かぶ。
普段ならテメノスが叱ってくれようなものだろうが……今夜はそうもいかない。
「いや、問題ないが……そうだな、俺はテメノスに助けられたんだ」
「え、何それ。凄く気になるんだけど」
「ああ。詳しく聞かせてくれよ、ヒカリ」
関心を塗りたくったまなざしが、一様にヒカリへと注がれる。酒場の窓辺を見る。思えば、あの夜も、月夜見の明々とした日だった。
ヒカリはモンテワイズでの出来事を、気さくな友人に向けるような語り口を意識して、彼らに話してやる。
我ながら滔々と話していく内、当時の感情が如何様にして変質し、今この胸に佇んでいるかが、明瞭になった気がする。
だからだろうか。自身の思いをそのまま、口にしていた。
「——テメノスは優しくて……共にいると、安心するんだ、不思議なのだがな」
妙なものだ。合理を求めて二人で行動しているのに、一番満たされているのは心だった。
ヒカリはふと、テメノスと隣を歩む時、またあの夜のように、手を繋ぎたいと望んでいる自分が存在していたことに気がつく。
ヒカリの所感に対し——両者は珍しくも、沈黙の姿勢を見せた。性格には、ソローネが長いまつ毛を瞬かせ、それからパルテティオは、なぜだが難しい顔をし始めた。
なのでヒカリは、再び考えることにした。テメノスのことを考えると、嬉しくなって、心臓の辺りが熱くなる。同時にきゅうと締め付けられる心地もする。
詮無い話をしていたって、食べ物をもらったって、なんだって良い。テメノスがそばにいてくれるだけで、幸せになれる気がする。
それから、触れてみたいと思うのだけれど、普段の自分とは異なるように、気恥ずかしいことのように思えてできない。なんてことはない、ただ、肩に触れることさえも、躊躇う。その癖して、彼にされると、舞い上がる自分がいるのだ。
我ながら女々しい気がするが、この際恥を忍んだっていい。ヒカリはこの正体を知りたいと思った。
「彼の事を思うと……胸が暖かくなるのだが、同時に苦しくもなる。二人は、これが何なのか知っているだろうか?」
両者を一瞥する。
パルテティオは見るからに汗顔して、頬が赤らんでいた。酒のせいではなかろう。
「あー……そりゃあ」
言葉を濁し、やがておずおずとソローネを見遣る。
パルテティオからの暗号めいた視線を受け取っソローネは、艶めく唇で弧を描く。どこか苦味の含んだように、眉間は薄っすら皺を残す。
「なんていうか……染まっちゃったね」
ヒカリがこの言葉を理解することになるのは、もう少し後のことだった。