【全体公開版】きみのけものより、愛を込めて。
野天ということもあり、どこまでが店内なのかも曖昧なところだ。囲いの役目を果たしている簡易な柵を頼りに、古めかしい石畳と、その隙間から丈を伸ばした木々がひしめく地帯に差し掛かる。
陽の光はもうほとんど消えて、持って来た杖の青白い灯りだけが頼りとなる。
自分が迷子になるのではないかという懸念が過るが、それでも、ヒカリを呼び戻す必要があった。
誰も、そうしないのだから自分がやるしかあるまい。半ば無意識に、テメノスは理由をつけたがっていた。
それにこのカフェテリアのビュッフェは美味で、彼にも知ってもらわなければ、勿体無い——何も、自分が必ずヒカリの向かいにいて、彼のことを眺めていなくてはならないという、そういうわけではないのだけれど。
そこまで考えたところで入り組み出した道の、開けた場所を追い求めた。
濃ゆい緑と砂混じりの潮風をかき分けてゆく内、人影を見つけて、テメノスは鈍り始めていた脚を止めた。
「……あなたは」
明かりを強めて、テメノスは自身の目を疑った。いつか見た獣人の子供が、ここに来るのが分かっていたという形で、自分を見上げていた。
今度はフードを被っていない、生き物の白い耳が、テメノスが恐る恐るに近づく度にぴくりと揺れる。
僅かに顰められたような眉根や、どこかすました様な顔立ちが、年不相応に理知的なものを感じさせる。だからテメノスも、彼のことはよく覚えていた。
あの雪街で、無事に親族に会えたのかと気掛かりに思っていたのだが。こんな数奇な再会もあるものなのか。
「どうしてここに? もしかしてこの近くに住処が——」
少年は何も言わずに首を振る。テメノスの手首をそっと掴み取り、来てほしいとまなざしで訴えに来た。
戸惑っていれば、法衣の裾を控えめに引っ張るなどする。小さな指が南の方角を示した。
「……迷ってるんでしょ。こっちだから」
どうしてそれを、という疑問は飲み込む。テメノスは訳も分からぬまま、幼子の摘むだけの力に従った。
木々は正しい道を教えてはくれない。だが、少年の前では、自ら退いて、先を促しているかののように映った。その証左に、あっという間に、海の見える砂浜へ来た。
テメノスは彼に話しかけるのも忘れて、ひたすらに自分を引き連れる、頼りない背中を見た。犬か狼かのような尾が、ゆるゆると意思を持って振れる様は、彼を現実のものたらしめている様に感じた。その反面、足取りは軽やかですばしこく、地を滑っているかのように錯覚させられる。息を切らしながら、うっそりと白く鈍い光を湛えた輪郭を見る。
「あの、もう少しゆっくり——」
獣人の健脚は少しばかり追いつくのは骨が折れる。少年はゆくりなしに動きを止めた。自分とは異なり、やはり静々と、肩さえ上下させていない。
やはり黙して、自身を見上げる彼に対し、今度はテメノスからその手を掴み取った。この間よりかは、温かい、気がする。
「お兄さんは、あの人に会いに行くの?」
卒然の問いかけに、テメノスは隣の彼を見下ろす。彼がただ行先を見据えているから、その方向を見ると、木と木が隣り合うあわいに、東屋に似たシルエットがぼんやりと捉えられた。古い建築物の残骸に紛れて、ひっそりと構えられている——テメノスの目には、そんなふうに映った。
だが、獣人の子の言う、あの人とはどこにもおらない。テメノスは湧き起こる疑問の数々はひとまず置いておき、不思議の権化に向き直る。
「彼が中々戻ってこないので、呼びに行こうと」
また砂浜に留まったので、テメノスは膝を折って彼と目線を合わせにゆく。
大きな緑の瞳が忌憚抜きにじっと自分を見ている。小さな唇が、僅かに震えた。
「大切、なんだ」
濃紺と紫の混じり合う空の下、少年の混じり気のない白は際立って、目に眩しく感ずる。
テメノスは咄嗟に返そうとした塗り固められた言葉が喉の奥で支えているのを認めて、顔を顰めかけた。
「……仲間ですからそれは、当然でしょう」
言い聞かせているような口ぶりになることが、少し、煩わしかった。
——ヒカリは大切だ。共に旅する仲間として、友として。
その枠を超え、少しの特別が伴ってきたことくらいは、認めたってよかろうに、テメノスはどこまでも躊躇う。その二文字から形成される領域は、時間をかけて固めた要塞に欠落を生むように思えたからだ。
仲間と共に過ごすのは楽しい。心が安らぐ。自ら灯りを見出さなくてはならない、暗がりの中でも誰かがいるなら別だ。
だが心の何処かでは、深くに何者かが来ることを拒んでいたろう。その癖して、触れて欲しい気もして、とにかく自分は、複雑で踏み込み難い人間だという自覚はある。
どれだけ持論を組み立てたところで、テメノスはやっぱり、たった一言に対し、答えを紡ぐことはできなかった。
動ずるテメノスを遮るように、今度は利発的な射抜く視線が、残酷なほど無垢に、貫きにくる。
「愛しい気持ち、見つけたの?」
「……あなた、いったい何なのですか。そんなこと、聞いてどうするのです」
自らの声色に、震えが帯びる。
なんてことはない、子供の気まぐれによる台詞。ただ平然と否定を口にすれば良かっただけなのだ。
「僕ら獣は、皆焦がれているよ。明るみを。暖かな灯火を」
賢しい少年の言葉を咀嚼するのも束の間、東屋の仄かな明かりが薄らぎだす。
少し離れた位置にあった扉が立ち所に音を立てる。深まりつつある宵闇に紛れ、特徴的な人の影が二つ、こちらへ近づいてくる。
探していた人物は、杖を片手に佇む自分を認めるなり、驚いたような素ぶりを見せた。されどややもすれば、離れたところからでもわかるような凛然さが、テメノスだけを目指しにくる。
陽のような、人。悠久に等しく変わらずにあそこにあって、照らす煌めき。
時間などそんなに開けてはいなかったはずだが、再会のような構図になるのがけったいに感ずる。
まだ彼を深くまで知らなかったいつかの頃は、躊躇いばかりが勝って、テメノスを止まらせたものだが。今となっては、この手を伸ばして、彼の手を取ることが容易くなってしまった。
それから——己の心持ちは随分と揺れ動きやすく、そして柔く脆いような形を帯びた。
知らない、知りたくはない。「お兄さん」
獣人の子が、自身の手を握る力を強めた。痛いくらいの感触。テメノスは自ずと彼を見た。
「大切な気持ちを、捨てちゃだめだよ……約束、してね」
さながら、思いを抑えようとして、しまいこめない震えた言葉が訥々と、不恰好さを補おうとして、形を作るような——涙を流す手前の子供が発する時のそれだった。
「私に、それは」
出来ない。己には使命がある。そして彼にも。
芽吹き出したこの危うい感情は、一刻も早く捨て去るべきものだ。
どれだけ自分を焦がし、尊いものだとしても、後に必ずテメノスを、彼を苦しめる。
「……じゃあね」
地を蹴り上げた少年に、テメノスは声にならない驚嘆を溢し、伸ばした手を空に掻いた。
彼が疾駆するその方向は、まさしくヒカリと店主が並んでいるところであり、それに拘わない彼の速度は緩まない。
「あ……」
少年の白い残像は、背丈の高い男の胴体を通り抜けた。実体のない身体がふわり浮かぶ。張り詰めていた自身の呼気が宙にほどけた。
「テメノス」
自身を呼ぶその音色が、甘やかに鼓膜を撫でた。籠手に覆われた、重たい剣を握る気高い腕が、自身に向け、躊躇いもなしに伸ばされる。
いつだったか、彼の手のひらのあわいに、指を絡ませにいった夜があった。
あの時の、迫ったものとは異なる。
紫色の宵に惑わされ、自ら彼のを掴み取ってしまったのならば——それはもう、彼との間にあると、時間をかけて紡いだようなたっとく、純然たる信頼を冒涜するようで、耐え難い。
この胸に燻る穢れた感情は、その手首を強く掴んで、引き寄せてしまおうと、そんな欲を掻き立ててしまう。
テメノスは、ヒカリの手を取らなかった。砂を踏み締め、半歩、後退した。それは明確な拒絶だったろう。
彼のかんばせに、戸惑いが浮き上がる。それを認めてしまえば、胸が軋む音を立てた。
なんて事のないように仮面を作り上げて、テメノスは微笑み、労りの言葉を与えにゆく。神官然としていながら、長い時をかけて作った歪なかたち。
——旅はいつか終わる。行き着くところが何であれ、物事には始まりも終わりも存在する。
その時、晴れやかに彼の背中を見送れるように。澄み渡る聖火の祝福を、授けられるように。そうなれるように、ゆっくりとこの愛しさに両手をかけて、締め殺す。或いは、よく研がれた切先で、脈打つ熱を帯びた感情の中心を、抉るか。
なんだっていい、彼を想う己を、眠らせることができるのなら。
分かっている。それもどれも、自分を守るためでしかないと。
この手からすり抜けゆく様を何もできずに眺めるよりかは、ずっと、ずっと良い。
これ以上大切を育くんでしまえば、喪った時、テメノスは壊れるだろう。もう耐え忍ぶのにも、疲れてしまう。
強い感情は自身を翻弄し、とっくに狂わせているが、テメノスの軸をかろうじて支えたのは、皮肉にも時間をかけて積み上げてきた自分自身という人格だった。
この日を境に、テメノスは巧妙に、かつあたかも自然なふうを装い、ヒカリと距離を取った。
新しい街に訪れることもなくなり、情報も要らなくなったからと理由をつけ、他の仲間と同じ時間を過ごす。
空虚に思えるこの心には、いつまでも偽りの欠片差し出し、埋めたように錯覚させればいい。
やがて、深雪の街にたどり着く。白と灰、それからくすんだ青の色味しかないようなその街で、テメノスは聖堂騎士の青年と顔を合わせた。クリックと会うのはこれで三度目であった。
仲間には何かと振り回されがちなテメノスであったが、この青年相手には、割と自分のペースに引き込める。その上反応が良いので、ついからかってしまう。
だがそんな彼も、最近になって良い顔つきになった気がする。剣の腕もめきめきと上がり、街の騎士たちも彼の昇進を噂していたくらいだ。 テメノスとしては、自らの正義感を無闇に振り回すのではなく、見定めるような姿勢を見せるようになったところを評価したい。
巻き込みたくはないが、クリックになら信頼を預けても良いかもしれない。
だが、この先何があるかも分からない。互いに命の危険に晒されることになるのだ。
昔日の友人に似た面影のある彼はあいも変わらず先導したがる律儀さがあるため、それに倣う。
調査のため、仲間も連れて行こうという運びとなったのだ。いつもの面子……ソローネとパルテティオが、宿屋で寛いでいるはずだ。両者とも、温い室内に篭っていたいのだろうが、ここは引っ張り出さねば。
街の丘の方にある、メイ城をふと仰ぐ。ヒカリは半日遅れでストームヘイルに到着し、あそこに訪うらしかった。
思えば、もうヒカリとはひと月近く、まともな会話をしていない。
キャスティ曰く、このところ、体調がすぐれないとのことだった。
彼のことが少しでも思うと、思考がくすんで、憂慮ばかりが先走る。半ば無意識に、下唇を噛む。
「……テメノスさん、どうかしたのですか? 唇 なんか噛んで。切れちゃいますよ?」
足を止め、クリックは気遣わしげに自身を見下ろす。テメノスは首を横に動かした。
「いえ、何でも……ただ、今日は一段と冷えると思いましてね。震えてしまうものですから」
なんて言いながら、両腕を抱く仕草を取れば、彼は少し慌てたような素振りを見せる。されど前よりかは、慣れたような調子に感ずる。
「マフラーでも貸しますか? こんな大事な時に風邪でも引かれたら困りますし」
大事な時。彼の言う通りだ。何か別のことを考えている場合ではない。
これから、建築士ヴァドスの審問を執り行う。クラックレッジの遺跡で掻き集めた情報と照らし合わせ、手引きした黒幕へと辿り着く。
当然、一筋縄では行かないが、求めた真実へは、着実に近しくなっている。
聖堂機関は黒に近いやもしれない、とクリックに伝えたらどうなるだろう。彼のことだ、そんなはずはないと反駁はするだろう。
だが、もしかすれば、実直なる帰属意識を破ってでも、正しさを選び取るかもしれない……そんな淡い期待めいたものを、ほんの少しだけ、抱いていないと言えば嘘になる。
「いえ、結構です。というより、君の方が鼻が赤いじゃありませんか」
戯けるように肩をすくませて、クリックの隣——正確にはすぐに彼が辿り着く前に再びゆったりと歩み出したので、結局斜め後ろのようなところから追う形となる。
クリックは気恥ずかしげに鼻を擦るなどしたが、ややもすればしかつめらしい顔つきになって、ついでに弛みかけた背筋も伸ばす。
「これはもう慣れましたので問題ありませんよ。それよりも……テメノスさん」
「なんです、子羊くん」
含んだ笑みを混えるテメノスに、クリックはあからさまにムッとして、癖毛を荒っぽく掻く。
久方ぶりな気がするやり取りだが、気が休まる自分がいた。
なんとなく——彼が自身の親友に似ているからかもしれない。
「あーもう……その呼び方は結構です! それで、何か悩み事でもあるのです?」
ああ、こうして濁りなき憂慮を湛えて、真面から自分を見つめにくることも。
根拠のない問いかけを溢しそうになって、吐息で誤魔化す。生半な白さは、雪景色に溶ける。
「……なぜ、そう思ったので?」
「元気がない気がしたので。たまに遠くを眺めたりなんかしてるじゃないですか。そんな調子じゃあ俺も仲間の皆さんも心配しますよ?」
テメノスは少し黙って、違和感のない間を見計ってから、足を早めた。「子羊くんのくせに生意気ですね……私は大丈夫ですよ」
彼に見破られてしまうほど、自分は悄然としていただろうか。
「あー……なんでしょう」クリックは眉根こそ困ったような形を描いていたが、口元は緩ませていた。「テメノスさんってちょっと素直じゃないところありますよね」そう言って、難なく隣まで来た。
ちらりと一瞥して、また先をゆく。鎧か何かが擦れて、カシャ、と断続的な音を立てて、歩幅を合わせにくる。
「君がお人好しすぎるんです」
そう、本当に。
信じることが得意な、まっすぐな人たち。テメノスは彼らをよく知っている。
明るみの側を見てきたからこそ、自分は懐疑を持ってして道を開ける。それが必要であり、使命であるから、そうする。
「勝手に言っててくださいよ、もう」
うんざりしたような癖して、ちょっと面白がっているのか、それとも得意にでもなったのか。
静けさに馴染むほど、彼のかんばせは穏やかな色を浮かばせる。
「でも、大事なことは隠さない方がいいですよ。お節介かもしれませんけど」
「……」
気軽な台詞であったが、深い意味が矢になって、テメノスの痛むところを掠めていった。
ゆえに一瞬だけ、自分の身体が意志を持って動いていることを、失念しかけた。
けれど再び、降り積もるばかりの積雪を除けた、足場を見つけてそこを登る。
その間にもクリックは宿屋の前に立って、テメノスを急かすために、諸手を振っている。
テメノスは彼を目指しながら、その背後から斜めにかけてにある大きな影か、もしくはそのなり損ないを見つめた。細かな雪が多く降るせいで、うっすらとして輪郭すらおぼつかない。けれど確かにこの先の遠くには、物々しい城ひとつ、石橋に繋がれているはずだ。
テメノスは口の中で祈りを呟いた。こんな時、結局自分は疑いの対象ですらある神に頼るしかない。
この聖句は、祝詞は……届くだろうか——彼に。
分からない。けれどもう、ここまで来た。
吹雪く風にローブをはためかせ、前へ、ゆく。
いつだってそうだ。暗闇を掻き分けてでも、この身は動かさなくてはならない。光を、よすがにして。