【全体公開版】きみのけものより、愛を込めて。



幾重の波紋を描く水面は、陽の光飲み込みきれずに、冴えた青緑として、人の眼に晒す。
原理がどうであれ、自分達の目には物珍しく、美しい景色に映ることに相違はない。

遠くでは鳥の群勢がシルエットとなって、思い思いの囀りを響かせている。
たおやかな潮騒と合わせて耳を預けながら、手元の果実酒に口をつける。

赤い身をくり抜いて、中に小さく切った果肉が所狭しとばかりに詰められている。匙で掬えば、きゅっとする酸っぱさと、遅れて甘味と、酒の風味がくる。

「ここは天国……? いや、楽園……」

惚けた台詞が耳打つので、その方向を見遣れば、隣のソローネが盗賊にあるまじきだらしない顔を晒している。この店に迎え入れられてからずっとこの調子だ。いい加減目を覚まして欲しいものだが、ここを後にするまではずっとこの調子かもしれない。

「ソローネ君。顔を引き締めてはいかがですか」

試しに肩をゆすってやる。駄目だ。口元が緩みっぱなしである。
いつぞやのウィンターブルームで、傷を癒していた時の彼女が嘘であるかのようだ。

「テメノス……この夢のような状況を前にしてあんたはどうしてそうも澄ましていられんのさ!?」

机が揺れる。自分のものより度が強い酒を愉しんでいた向かいのパルテティオが驚き、思わずズレかけた帽子を咄嗟に被り直す。

「んだよソローネ。急に机叩くなって……」

ソローネは軽く謝って、一旦落ち着くが、だんだんとそわそわし始めた。普段はテーブルマナーを守る方なのだが、この有様である。
彼女の意識が自分の背後に向かっている事を認めたテメノスは、身を捩り、視線をそちらへ動かす。

「「「おまたせしましたー!」」」

獣人の子供が一、二、三人。いずれも少女だ。三つ子なのだという彼女達は、せっせと大皿を運んでは、背丈より高い卓へと並べてゆく。

「か、可愛い……っ!」

頬を紅潮させ、小さなウェイトレス達の一挙一動を食い入るように眺めていた。
少し前のソローネであれば、ぬいぐるみが好きであったり、オーシュットの尻尾に頬ずりして楽しんでいることに対し、多少の恥じらいを覚えていたはずなのだが……この機会にそれの枷が外れたらしい。

——テメノスら一行はトロップホップを目指す道中、迷いに迷った末、偶々この秘密の露店に辿り着いた。
愛らしい装いに身を包んだ獣人の娘三人に導かれるまま、酒や料理をもてなされている。
代金はオーシュットの加工肉で構わないらしいのだが、本当に良いのだろうか。店主とは少し話をしたが、どうしてかヒカリの顔を見るなり彼を連れて入り組んだところに消えていってしまった。

「すごく美味しいべ! こったら料理、どこで習ったべか」

遠くの円卓では、アグネアが訛りを存分に発揮して、魔物肉と野菜を甘辛く煮付けたものを頬張っている姿が確認できる。
獣人は料理をしない、らしい。オーシュットが彼女の拵えた肉のスープに感動していたのを思い出す。
だが、目の前に並ぶのは間違いなく手の込んだ、人に出せる水準の馳走である。

「本当。ほっぺたが落ちそうだわ。栄養価もバッチリね」

目を見張るキャスティが、獣人の子供らに向け、賞賛を贈った。それを受けた三人は揃って肩を揺らす。ついでに尾も。喜んでいるのが動作で分かる。

「ママと一緒に作ってるの」赤の花飾りと愛らしい耳を揺らし、満面の笑みを作る長女。
「人間の料理、難しいけどとっても美味しいの」おっとりした笑みを浮かべて青い花飾りが揺らす次女に、「たくさん食べて欲しいのー」 そして、両手を振る、黄色い髪飾りの末っ子。

人間の言葉も流暢である。これに関しては、オーシュットの師匠のように、話せる者が身近にいれば身につくだろう。

三人娘は身軽に動き回って、お皿を片付けたり、たまに話し相手などして、如才無い働きぶりであった。

「珍しい果物ばっかりだな。こういうのを集めて売り出せればなあ……けど船に乗せてる間に質が落ちちまうのがネックだな。保温するにしても精霊石は費用が嵩むし……」

大ぶりの肉を挟んだバンズを片手に、パルテティオは眉間に皺など作る。
テメノスはパスタを巻き付けながら、そんな彼を横目に見遣りつつ、いつもの感想を述べてやる。

「おや、また商売の話ですか。あなたは根っからの商人ですねぇ」

そうすれば、慣れ親しんだような反応が返ってくる。パルテティオは得意げに指を鳴らした。 「そりゃあなあ。俺は、商売人の息子なんだぜ?」
手帳と睨めっこしたのち、「ちょっくら果物を試しにいくつか持ち帰ってみてえんだが、品質を確かめるのを手伝っちゃくれねえか? 後精霊石をいくらか買い取らせてくれると助かるんだが……」そんな相談を持ちかけてくる。

品質、つまり味の変化を確かめて欲しいということだろう。船で輸送すれば潮風で痛むから、箱か何かに詰め、その上で一定の温度を保ちたいところだが。

テメノスはうべなう。 譲るといえば首を振るのが彼だ。公正な取引による信頼こそが、商人の礎だと語る。それを尊重するのが常だ。

「別に構いませんよ。精霊石は確かに貴重ですからねぇ……少ししかお譲りできそうにありませんが」

冷温であれば、氷の精霊石か魔法で凍らせた水を敷き詰めるなどが妥当だが。
温かくする、となると火のそれよりかは別の方が良さそうだ。

「助かるぜ。精霊石は知り合いにも頼むか……おい、ソローネも良いか? お前果物好きだったろ……あれ、居ねえ」

ソローネの席はもぬけの殻だった。いつの間にやら周囲の目を盗み、音もなく中座していたのである。

「あちらです。全く、食事中に席を外すとは」

されど、場所なんてすぐに特定するに能う。
身体を後方に向ければ、案の定、慣れた紫が視界に映り込む。

「ねぇ、私も手伝おっか? お皿、重いでしょ? 」

下心満々の申し出である。その証左に、視線が揺れる毛並みの良い尾三つに釘付けであった。

「大丈夫ですよー」末っ子がくるり一回転し、可愛らしいスカートをつまむなどしてみせた。
「ゆっくりしててくださいー」次女は無駄無き所作でお辞儀をする。
「あとでデザートお持ちしますねー」長女は皿を抱えたままに、にこやかに受け応えた。

「うッ……かわ、いいっっ!」

娘達の可憐なる所作にソローネは胸を抑え、膝をつき、一人悶えている。
その大仰な反応は正直見ている分には愉快である。今からでも弄ってやりたくなるが、笑いを堪えつつ、見守ることにする。

「ねぇ? そんな、そんなこと言わずに……お手伝いを……あわよくば、尻尾を……モフらせて……?」

諦めの悪いソローネは呼吸を荒くさせながら三人娘ににじり寄る。もはや本音を隠していない。アグネア達が見ているのに気がついているのだろうか。心象が崩れてしまいかねないのだが。

「おいおい、何やってんだあいつは……」

これには寛容なパルテティオも口端を引き攣らせる。
今まで獣人の村に訪ねたことはあったろうが、あそこまで欲望を曝け出したことはなかったのだが……いや、面の皮が剥がれただけか。テメノスは一人得心する。「やれやれ、困った人ですよ彼女は」

「尻尾は繊細なのでー」困ったように距離を取る姉に、「モフっちゃやーです」指でバツを作る次女。
「お席についてくださいー」それから、やんわり断る末っ子。

三人揃って背を向け、彼女の欲していた魅惑の尻尾は遠ざかる。

「うう、そんな……」

ソローネは見るからに肩を落とし、一人しょぼくれてしまう。彼女らは仕事中なのだ。それもかなり熱心かつ真摯で、動き回れることを心から楽しんでいるふうに捉えられる。
それを妨げられたくはなかったのだろう。

テメノスはパルテティオと共にソローネを回収し、いじけている彼女を尻目に黙々と食事を再開する。

ぶつくさ何か愚痴りながらも、ソローネもやっとこさ、まずは果実類を食し始めた。
それから度の強い酒を頼んで、チーズと肉の上に苺を載せるという、独特の食べ方を見せた。

「ソローネ、ちと飲み過ぎじゃねえか?」

口当たりが良く、彼女の好きな味であることも相まって、早くも出来上がりつつある。
まなじりを赤く染めたままに、パルテティオを睨め付けにいく。

「パルテティオだってもう何杯目ぇ? 私より弱いくせにさー」

彼に関しては途中から度の弱いものに切り替えていたし、キャスティに頼んで、緩和剤も持っている。
ソローネが酔おうとして飲んでいるのは、テメノスから見ても明らかであった。
所謂、自棄酒だろう。

「いや、お前明らかに回ってんじゃねぇか……ペース早すぎんだよ」

パルテティオに水を差し出され、適当な仕草で煽る。呆れを含ませながら自分も果実酒を手に取ろうとすれば、首が卒然と重くなり、軋む。ソローネが腕を回し、意地の悪い笑みで見下ろしていた。

「ねぇテメノス。なんか面白い話してよぉ」

大きなため息をひとつ。
今日はさっさと眠ってもらった方が良いかもしれない。盗賊の理知的な部分はとうに酒に飲まれてしまっている。

「今話してもあなた明日には忘れてるでしょうが」

「つれないなぁ〜……てかさ、あんた最近付き合い悪くなぁい? 夜中に何してんの? 娼館?」

元来、自分は神官だ。酒を楽しんでばかりでは問題視されかねない。
とはいえ、仲間達と会話を愉しむのは好きなので、たまに付き合っているのだが。
確かにここ暫くは、四方山話に付き合ってくれるパルテティオや、なんやかんやで駄弁り合うソローネとも飲んでいない。
夜に何をしているか。言うまでもないが、女遊びなどはしていない。というか、興味も無い。彼女はこちらが淡白であるのを分かった上で揶揄っているのは自明だ。

「何言ってんだよ……テメノスが行くわけねえだろ。確かに最近、この三人で飲んでなかったけどよ」

パルテティオがちらりと自身を一瞥する。彼も気になっているのだろう。
甘い酒で喉を潤しておき、新しい記憶を掘り起こす。

「ちょっとした情報収集ですよ。夜にしか手に入らないものですから」

別にやましいこともない。打ち明ける機会がなかっただけだ。
だが、自己完結しようにも、隣の彼は腑に落ちないと顔に書いてある。
本当に、言葉の通りでしかないのだが。首を傾げたくなる。

ソローネは追撃だと言わんばかりに腕の力を強めにきた。

「ふぅーん。情報収集、ねぇ? そのためにヒカリもわざわざ連れてくの? てか食事もしてるんだって?」

わざとらしく吐息を吹きかけてくる。
香水の匂いも混ざって、咳き込む。「ちょ、酒臭っ……もう飲むのはやめなさい」

ソローネはムッとして、頬を膨らませることをしたが、腕の力に抜かりはない。
そろそろ解放されたいのですが、と視線で訴えるも、素知らぬふりでいなされた。

「あの堅物王子様と親睦を深めてどういうつもり? まさかオトそうとしてる?」

飲んでいた果実酒を吹き出しかけて、口元を覆う。いつまで経っても離れやしない盗賊の面持ちは、いかにも真面目ぶっている。その意味がわからなくて、只々、当惑させられる。

「何馬鹿なこと言ってんですか……他意なんてあるわけないでしょう。あなたの頭は蜂蜜漬けにでもされてるんですか?」

仲間と食事をしたくらいで穿った解釈をされるのは心外というもの。それに歴とした情報収集という目的もある。
語気が強まってしまった自覚はある。テメノスは少し自分が動じていることも等しく認めて、眉根を顰めた。

「何? 酷い言い草。ていうかさ、ヒカリは——」

「ちょっ、おい……ソローネ! その辺にしてやれって」

どうしてか慌て始めたパルテティオによってようやく、厄介者は引き剥がされ、テメノスは暑苦しさからの脱却に至る。此度の彼女の拘束は、やたら長く感じた。

彼の勧めで薬師特性の酔い覚ましを渋々口にするソローネは、不満げな視線をよこしてくる。

「ちえっ。まあ良いよ、あんたも結構頭硬いもんねぇ。そっちの方面に関しては」

「何言ってんですかさっきから……」

全く、妙なことばかりつらねてくる。
ソローネはそれから、ちょっと拗ねた様子は変わらなかったが、ふらりとアグネア達の席まで行ってしまった。
パルテティオは酒の飲めないオズバルドのところまで行って、一方的につるみ始めた。

その様子を離れた席で眺めて、露店の醍醐味でもある海景色に意識を投じた。
底の浅い水面に、夕色の波紋が幾重にも刻まれ、一縷の線を描く。この佳景と共に酒と食事を享受する。それが本来の楽しみ方だろう。
べたつく潮風で張り付きがちな髪を退け、さりげなく周囲を俯瞰的に見渡す。

ヒカリはまだ戻ってこないらしい。もう日はほとんど沈み込んでいるのだが、いつまで話し込んでいるのだろう。

思えば、彼とは新しい街に辿り着くたびに、夜間になると一緒に行動するようになっていた。

それには実は経緯があって、二人にしか共有されていないことだ。

時は遡り、テメノス達がやっとこさ魔物達を退け、モンテワイズに訪れてから数日経った頃のこと。闘技場での一悶着に方を付けて以来、しばらく足を運んでいなかったが、オズバルドに助力すべく再訪した。また新たな地を目指す方向で固まったため、仲間達は買い出しや周辺の探索などをそれぞれ分担して回った。明日か明後日には出立するだろう。テメノスはというと、広い街を散策がてら情報を集めることにしていた。
日中はキャスティとオズバルドがやってくれているが、夜は率先して自分がやるようにしている。
たかが情報、と侮ってはいけない。面白いものを隠す人もいるし、宿屋に融通を効かせるものもいるし、万屋の品揃えが増えるのなんかもありがたい。

街の構造は入り組んでいて、注意深く周囲へ意識を巡らせる必要があった。
街明かりの届かない場所に、貴重な情報源が隠れていたりするものだ。白銀の月と、断罪の杖が頼りだった。

夜のだだっ広い大図書館を一巡し、今夜はひとまずここまでにしようと、こっそり裏口から出る。大陸でも有数の公共施設の警備は、思いの外甘いらしかった。

石階段を降り、街の宿屋を目指す。枯葉が暗闇にも構わずはらりと重力に従う。
クレストランドの気候は安定しており、作物も良く実る。ゆえにゆとりある人々は、学芸に勤しめるのだろう。

白髪に引っ付いた小さな葉を適当に振り落とし、道具屋の前を通り抜けようとした時。テメノスはふと足を止めた。

男の話し声のようなものが、涼風に混じって耳朶を打つ。それから、金属の擦れるような音も、合わさる。
特に気に留めるほどでもないだろうが、夜間は民間人に扮した盗賊などもちらほらと見かける。
テメノスは音の聞こえた方向へと身体を翻すと、ほんの少しの懸念をよすがに歩みを進めた。

「——駄目だな、兄ちゃん」

息をひそめ、物陰に身体を寄せる。明らかに人相の悪い、無精髭の男が誰かと会話をしている。
また、同じ音がする。少し、考えて、それが硬貨の合わさるものだと解答に至る。

「……これでも足りないか?」

よく知った仲間の台詞を拾い上げたテメノスは、石の塀から顔を出し、覗き込むことにした。

やはりかな、黒髪を蓄えた高等な装束に身を包んだ青年が、麻袋を片手に交渉の最中であった。
あんな、悪意が全身から滲み出ているような男に自ら関わりに行くのは、我らが剣士くらいのものだろう。

ヒカリは、日中こそ試合という合意の形式で剣を振るうが、夜には金銭を払い情報を集めるのを買って出ている。無闇に自らの剣で傷つけることを嫌う彼は、金銭でどうにか出来るのならそれ以上のことはない、という姿勢を貫きたがる。出費に関しても、あまり多額なものは控えているようだし、仲間に貢献したいという思いも尊重し、したいようにさせている。彼に限らず、仲間には同じようにしているのだが。

とはいえ、同じ頃合に彼も外を回っていたとは少し意外だ。

「しけた金だな。俺はそんな安いやつじゃねえぜ」

麻袋の中身を見て、雑に彼へと投げ返した。ヒカリは少し眉根を下げるも、すぐに色を正して踵を返した。

「……そうか。ならば仕方ない。失礼した」

テメノスと同じ、宿場の方向へと歩み始めるが、街灯の下まで差し掛かったところでまた振り返る。男に呼び止められたらしかった。

「あんた、いつぞやの闘技場で話題になってたあの異国の剣士様だろ?」

口端を釣り上げる男の下卑た視線を感じ取ったテメノスは、杖を握っていた手に自ずと力を込めていた。

「そのような異名は知らぬが……」

街の人間が噂していたのを、テメノスは知っている。キャスティの口添えもあり、敢えて夜以外は彼に街中に留まらせない配慮をしていたのだが……彼の良心が、仇になってしまった。

男はこめかみを爪先で突くなどして、ニヤニヤと粘着質な笑みを浮かべ、ヒカリとの距離を詰めにやってくる。

「もう顔はバッチリ知られてるぜ。なあ、こんなことすんならもっと別のもので払ってくれねえか?」

「別のもの? 銭では駄目なのか?」

ヒカリは単純に不思議がっているように捉えられる。テメノスは彼の反応から頭を巡らせ、そして気付きに至る。彼は王族であり、城下町で民と触れ合っていたとは言え——この手の輩と対面する経験など無かろう。

「金なんかより、あんた自身に価値があんだろ。俺は男はいけねえ口だが、あんたは別格だ。そこらの女よりよっぽど上等だぜ」

ああ、分かり易過ぎるくらいだ。
自分は良い、まだ人を見る目くらいは養ってきた。だが、ヒカリは異なる。リューの宿で初めて対面した時から、彼は真っ直ぐな人だった。
その証左に、腰に携えた剣を握るそぶりも見せない。体術でもなんとかなろうが、きっと彼はやらない。
ただ、要領を得ないというふうに、男に訊ねかける。

「よく、分からないが……つまり、俺に何をしろと?」

「俺の女になってくれ……無理なら、処女だけでもくれよ。それなら、なんでも教えてやるよ。街のことから周辺のことも、隅々とな……」

テメノスは行き階段を忍び足で下った。気色の悪い御託は、少し離れてもちゃんと聞き取れてしまう。生理的な嫌悪感から、眉間に皺を刻む。

「何を言っているのか……他のことでは駄目なのか?」

戸惑いの孕んだ口吻だったが、未だその手は空を彷徨い、何をすべきかを知らずにいる。

「駄目だぜ、剣士様」

男はとうとうヒカリの肩を掴んだ。粗雑な所作だったが、彼なら意に介さない。それどころか、普通に頼み事を聞き入れてしまいそうな危うさがあるだろうと想定できてしまう。

「どうせ誰も見ちゃいねえ、今ここで脱いでみてくれよ……いいや、俺が剥いでやろうか……」

ふつふつと、腹の底が焼けるような感覚が込み上げてくる。自身の変化に戸惑いを覚えながらも、手は動いていた。
彼がやらないなら、自分が盈月の審判を下すまで——断罪の杖に魔力を乗せれば、淡い煌めきを放ち出す。それを、男に差し向けた。

「て、テメノス……? どうしてここに」

驚きを滲ませたヒカリと一瞬だけ目が合う。男との距離を詰め、テメノスはふんだんなる敵意を込め睨め付けた。

「なんだ、お前は……その服、神官か?」

男は訝しみ、テメノスの全身を舐めるように見る。この品定めをするような視線、そして懐手に隠した武器。
ただの醜悪な欲望を持て余した輩というわけでもなさそうだ。

「神官様が何の用か知らねえが、ここを退いちゃくれねぇか。今取り込み中でね」

杖の輝きを受けて、男の人相がより鮮明に浮かび上がる。据わったような目の奥に、欲の濁った色が燻っている。
顎元に近づけた杖に恐れたような仕草を見せながらも、男はこちらの隙を常に窺っていた。
不快感で今からでも杖の先端から魔法を打ち出してしまいかねないのを、留めた。

「へぇ? あなたがヒカリを剥ごうとしていたを、見て見ぬ振りしろと?」

男の方から大きな舌打ちを漏らし、ややもすれば明確な殺意を突き立てにきた。

「……なら、黙らせるしかねぇな」

袖口に隠していたものが明かりを反射し、一瞬だけ光を放つ。目眩しか。テメノスは咄嗟に温めておいた聖句を唱えようと試みる。

「テメノス! ここは俺が——」

守護の聖盾を発動させ、自身の喉元を狙っていた針を弾く。彼が息を呑む気配がしたが、安心させるように微笑みを作り、背後に向けてやる。

「大丈夫ですよ、ヒカリ。この下郎は私が暴いて差し上げます」

ヒカリは驚いたように見つめ返して、黙して頷いた。
針程度なら盾は壊れまい。男は忌々しげに顔を歪め、巧妙に隠していた短剣を引き抜く。

月光をひとしきり浴び、杖の象徴が呼応するように煌めき出す。
男の喉仏に先端が食い込む。僅かに呻吟が漏らすさまを認めたのち、宣告を明け渡す。

「さて、審問の時間だ」

後から思えば、これが明確な契機だったろう。
テメノスは男がアウトローであることを颯爽と暴いてみせた。杖で魔力を吸い上げられ、身体を思うように動かせなくなった男を、街の警邏に突き出した。

暴れる男を押さえつけ、複数人がかりで連行されていく様を、テメノスはヒカリと並んで見送った。角灯がもう見えなくなる頃、二人の間を街の乾風が吹き抜けた。

「……テメノス、ありがとう」

杖はまだぼんやりと青く輝きを放っている。
ヒカリはまなじりを緩め、穏やかな色を湛えて綻びかける。テメノスはそれを真面から受け止めて、つられて返しそうになるが、とどまる。

「あなたが無事で何よりです。街から犯罪の芽も摘み取られましたし……でも」

少し厳しい事言うような前触れを醸して、テメノスはヒカリを見た。
だが、彼の面持ちにはわずかな緊張が孕みだす。

「あなたは不用心過ぎます。簡単に人を信じすぎてしまうと、後で痛い目を見ますよ」

「そなたのお陰で助かった……ああ、肝に銘じておく」

これで、二度目だな、と彼が小さく呟いた。その意味を咀嚼するがてら、少し、考えるそぶりをとる。
自分の忠告を、彼は素直に受け止めたろう。だが、改善されるかどうかは別やもしれない。
そんな、一抹の懸念がよぎる。

「——これからは、情報収集は一緒に行いませんか」

「……そなたと共に?」

なんて事のない、提案。されどヒカリは驚きを滲ませて、その目を瞬かせた。
その反応を受け止めつつ、テメノスは説明を付け加えた。

「相手によっては、この私も手こずらされることもしばしばありまして……そしてあなたの場合も、高額を要求されることもそれなりにあるのではありませんか?」

こちらも慎重に審問をする相手は選び取っているが、想定外の力を秘めた輩を対峙してしまうこともままあったりする。その時は次の機会に持ち越すことを余儀なくされてしまう。

テメノスの問いかけに対し、ヒカリは深く首肯してみせた。

「……それは、そうだな。その時は口惜しいが手を引くようにしている」

彼とて、旅の資金回りのやりくりの重要性はきちんと把握している。仲間と相談した上で、余剰や自分が集めた分を上手く使い試みているのだろう。
国を追われたとはいえ、王族である彼が、きちんとした金銭感覚を持っていることはなるほど感心に値するが。
他の面においては——特に戦場絡みでない危機管理能力は少し、否、今回のでかなり気にかかる。

「そうでしょう。暴くか、買収するか。どちらがより良い手段であるかは、個々に委ねられるのです。そんな時、私とあなたで見定めて、より有利な方を選び取れば良いのではないか……と」

我ながら澱みなく連ねて、テメノスはちらりと横のヒカリを見遣る。好意を表情に浮かばせて、すっかり乗る気のようだった。

「良い考えだと思う。そなたが無為に傷付くことも減るし、こちらのやりくりの負担も減る」

少し風が強まってきた。ヒカリの横髪が、絶え間なく、振り子のように揺れた。
自分も少し、前髪が降りかかるから困る。今は、厭わないふりをして、テメノスは再来した静謐を破った。

「何よりもあなたが害意を持った相手に絡まれてはいけませんからね……それが一番肝要です」

なんとなしに、足を動かす。梟が鳴くような深い夜だ。もう、宿に向かった方が良い。

「ああ……頼もしい。ありがとう、テメノス」

背後からヒカリが追いかけにくる。その意思のこもった謝辞に、テメノスは毒気を抜かれたような感じがして、同時に、やっぱり自分がいなくてはいけないという思いに駆られた。

自分と歩幅を揃えにくるこの剣士は、どこまでも果敢で、真っ直ぐな志を持つ気高き王子だが。
やっぱり一人の人間なので、誰かがこうして、気安く言葉をかけてやるくらいがいいだろう。
それに、せっかくの、旅仲間なのだから。
胸の内で勝手にそんな、言い訳めいた独白をこぼす意味は、よく分からないでいた。





その後、また新しい街——クロックバンクに辿り着いたテメノスは、ヒカリを連れて早速夜の情報収集に勤しんだ。

ニューデルスタに次ぐ都会街ということもあり、人数は底が知れない。その為普段よりも搾りつつ集めてゆく必要があった。
テメノスは高価な装飾品を身につけた老人に目をつけていた。一見、ただの富裕層に見えるが、所作や振る舞いはどこか不恰好に思えるのが引っ掛かった。
町の中心部にある食事を主体とした酒場で、男の様子を窺う。
下町にある酒場よりかは客層が良いが、それでも男の身なりは浮いていた。

「ヒカリ、どうです。彼の力量は。私で太刀打ちできそうでしょうか」

一人、気取ったような手つきで酒を口に運ぶ男に鋭い視線を添えたままに、テメノスは向かいの彼に投げかけた。

「うむ……見たところ動きに無駄が多いように思わせておいて、周囲に気配を巡らせている。そなたが悪戦するほどではあるまいが、油断は命取りだな」

ヒカリはさすがというべきか、場数を踏んでいるだけのことはあり相手の力量を見極める為の目は秀でている。
彼であればあの男を昏倒させるくらいは容易かろう。しかし今夜はそれが目的ではない。
いつもの癖で顎下を撫でつつ、テメノスは声量を抑えつつ自分なりの見解を言葉にする。

「恐らくですがあの腕時計や首飾りは彼のものでは無さそうですね。特に時計の方は時刻がずれていますし、首飾りはむしり取ったのか、留め具が継ぎはぎです」

盗賊……野盗か何かの類だろうなとは見当がついている。町の奥深くには、盗賊ギルドがあるという噂は耳にしてこそいるが、場所までは突き止められていない。

「よく気がついたな……テメノスは本当に聡明だな。そなたがいてくれて本当に良かった」

世辞の一片すら含まぬ感心を露わにする彼に、テメノスは柔らかな気持ちになった。褒め言葉の中身が嬉しいというよりかは、彼の澱みなさが快い。「それはあなたもですよ。お互いに得意なところを補って、助け合っていきましょう」
自ずと返した言葉に、ヒカリは穏やかに綻ぶ事でいらえた。
思えば、ヒカリと二人、こうして近くで向き合って、穏やかな会話をかわすのは真新しい事のように思える。
ウィンターブルームでは、彼の寝台で眠るなんていう、ちょっとした事件もあったが……それでも、きちんとした応酬はあんまり無かった。

ふと、両者に沈黙が広がる。周囲の賑やかしさが、遠くのものに感じられた。

色々考えて、何か面白い話でもしようかと一瞬思いあたりもしたのだが。それよりもテメノスには、暫し秘めておいてあったことがある。

「ヒカリ、最近はよく眠れていますか?」

真面から確かめにゆけば、手元の飲み水で喉を湿らせていたヒカリが、こちらに視線を定め返す。

「ん、ああ……前よりかは断然良い気がする。目を閉じることに、恐れが減ったからだろう」

確かにこの所は血色も良く、目の下の隈などもだいぶん薄まったように思う。

何かを包み隠しているような、あの躊躇いの所作も無い。だが依然として、あの得体の知れぬ闇の根源のようなものは、彼の中にいるのだろう。

「あの時は、すみません。あなたのベッドで寝てしまった上に、寝坊までしてしまい」

謝辞を述べつつも、やはり、憂慮が先立つ。
彼は、いつも一人で戦っているように映る。彼の立場や、性質がそうさせるのだろうが、やはりいつかは綻ぶ。人の心は、強く結びつけても、何かの拍子に崩れてしまうものだ。

「構わぬ。俺は……そなたに助けられたのだから」

だがそんな懸念など吹き飛ばすような澄んだかんばせで、ヒカリは自身を見遣る。
少々、面映くなる。テメノスは視線を僅かな間、下に降ろす。

「私は大したことはしていませんよ。でも……そうですね、少しでも良い方向に転ぶきっかけになれたのなら幸いです」

「……俺がそなたへの恩義に報えたら良いのだが」

真面目な顔つきでそんなことを言うので、先程までの如何ともし難いような思いは霧散してしまった。その代わり、ふっと吐息混じりに笑みが溢れた。

「そんなこと、気にしなくても良いのです。私たちは仲間ですし、そもそも……」

はたと、言の葉を途切れさせる。その先に何を紡ぐのか、自分でも見つけられなかった。
豪雪の夜。ヒカリの身体は冷え切っていて、躍起にすらなって回復魔法を詠唱していたのを思い出す。
彼を死なせるものかと、切実だった記憶が大半を占めていたが——もしかしたならまたも、己は選択を誤り、一つの尊い命を失うのかと、その恐怖が己を突き動かしていたのかもしれなかった。あるいは、取り返しのつかぬ過去への、烏滸がましい清算のつもりであったのか。

「そもそも、なんだ?」

「あの場に、たまたま私がいて……あなたを放って置けなかった。それだけ、なんです」

私情には蓋をして、テメノスは偽りでもないが、真理でもない返答を組み上げて、彼に渡した。

仲間なのだから、当然だ。何か特別なこともない。他の者たちであってもああしただろう。もしくはもっと上手くやったかもしれない。

「だが俺は、そなたの優しさに触れた。……それがとても、嬉しかった」

「……そう、ですか」

彼自身の裡にある感情を大切にしているかのような口吻。これ以上何かをのたまうのは躊躇われた。

人の密度が増えてきたのか、店内の喧騒が濃くなる。観察対象の男は未だ席を立つような気配がない。
あくせく動き回っていたウェイターの内、小柄な女がテメノス達の卓に熱い皿を慣れた動作で渡し、これまた決まりきったような笑顔で踵を返す。

短く礼を告げ、見送ったのち、テメノスは傍のナイフを手に取る。

「む、それは?」

ヒカリが皿上のそれを覗き込む。初めて目の当たりにするのだろう。
唐土生地に瑞々しい赤や緑の野菜やチーズ、酸味のあるソースが塗りたくられている、ピッツァ。その旨みの調和なる香りが、食欲を刺激する。

「せっかく入店しておいて何も頼まないのは失礼かと思いまして。軽食にはちょうど良いかと」

薄く焼いてあるのでナイフが通りやすくて良い。テメノスは元より食べる量が控えめなので、必要分以上に残してしまいそうだ。

「……あなたも食べてみますか?」

切り離すと、チーズがよく伸びた。糸を引くそれを掬い上げて生地の上に乗せてやる。

「良いのか?」

包み隠しているつもりかは知らぬが、好奇心がありありと窺えた。
この時に限っては、年相応の顔つきに感ずる。されど青年よりかは少年のようですらあった。
揺らめく玲瓏な黒の双眸に吸い寄せられかけて、小さく咳払いで誤魔化す。

「勿論。ああ、取り分けの皿がありませんね……」

見渡す素振りをして、動き回るウェイトレスの忙しなさから、すぐに諦めがくる。やむを得まいと熱々のピザを落とさぬよう手に持ち、彼の方へ、慎重に寄せた。

ヒカリはその目を瞬かせて、ほんのり困ったような色を露わにした。その意味が分からなかったテメノスは、遠慮でもしているのだろうと考えた。腰を椅子から浮かせ、彼の口元に近しいところまで、辿り着く。

あっ、と声にならぬ驚嘆を溢した時には、もう遅かった。彼は口を開け、それを食していた。上唇についたソースをそっと拭き取りつつ、咀嚼を終え喉を上下するその一連の動作を、テメノスはただ見守るしかできない。

「……む、美味いな」

彼の纏うものが柔らかくなる。テメノスの気のせいでなければ、瞳が一瞬だけ、あどけなく煌めいた。

やんごとない身分ということもあり、ヒカリの食事の所作はよく染み付いている。だからこそ揶揄いなどに応えてはくれぬものだろうという、そういった過信が根底にあった。ゆえに手渡したつもりだったのだが。
ささやかな勘違いとはいえ、従順に答えてみせる彼を目の当たりにして、意表をつかれてしまっていた。戸惑う、くらいには。

何もかも飲み干したふりをして、今度こそ彼に差し出しにゆくことにした。

「よかったらこれ全部食べてもよろしいですよ」

今更ながら手で持って食すのだということも、付け加えておく。

「本当か? ……ありがたく貰おう」

どうやら、かなり気に入ったらしい。喜色を包み隠しきれていない。
店員から取り皿を拝借し、二人で均等に分けて食べることにした。
ヒカリはナイフで切り分けながら丁寧に口に運んでいる。
砂国は箸なるものを扱って食すのが主流だが、飲み込みの早い彼はもうすっかり使いこなせていた。

しかし、そうか。自分の思う以上に、ヒカリにとって旅路は未知なるものなのかもしれない。
テメノスも初めてのことが多くあるが、砂国と外とはその剥離がより大きかろう。

目的が目的なものだから、険しいものであるかのように思えるが——仲間と共に辿った合間くらいは、こうして時間を享受できたのならば。きっと彼にとって、支えになるだろう。

自分の胸の内は、複雑に絡みすぎて、いちいち綻ばせるのにも面倒が過ぎる。
こうして和やかさに多少心を預けてみるのも、そう悪くはない。

自らも食しながら、彼をさりげなく観察する。胸底から湧き上がる、仄かな温かさが手伝って、良い食卓になる。

「お気に召したようで何よりです、ヒカリ?」

ピザを食すたび、口元がわずかに緩んでいるのが、幼く思えて、可愛らしい。普段は凛然と勇ましい彼だから、余計にそう感じられる。
とてもとても、本人には言えそうにないが。

「ああ……何やら嬉しそうだな、テメノス」

「ふふ、そうでしょうか? きっと、ここの店の料理が美味しいからでしょうね」

ヒカリの反応にばかり目がいくが、味は本当に良い。焼き加減もそうだが、ソースの酸味が絶妙で、チーズもとろっとしているし、野菜の甘みが染み込んでいて口の中で旨みが広がる。

テメノスの所感に対し、すっかり皿の上を平らげたヒカリは深く頷いてみせた。

「それはそうだな。また……来れたら良いと思う」

「ええ、同感です」

なんて、本来の目的を忘れたような穏やかなようでいて弾んだ会話を交わす。
もちろん、この後狙い目だった情報源はしっかりと"審問"させてもらった。ヒカリから助言を頂戴し、ある程度の推測を立てた上で挑めたこともありそう苦戦を強いられることも免れた。

これ以降、テメノスは情報収集がてら、何かと理由をつけて彼と夕食を摂る機会を増やしていった。欲しい情報を集める効率は格段に上がったし、旅間の楽しみも増えたので、良いこと尽くめだったといえよう。
ヒカリが知らないようなものを頼んで、分け合うか、交換し合いながら食事を楽しむ。よくよく見ないと気が付けないような彼の微細な表情と雰囲気の変化を、テメノスは見つけるたびに記憶の手帳に綴ってゆく。

彼とは盛んに会話を交わすほどではないが、不思議との心地が良い。ヒカリが気質的に穏やかで、向かい合っているだけで心が荒みを忘れてしまうからだろうか。少し、考える。

新たな街に辿り着くたびにそんなことを繰り返していたからだろうか。
とうとう、仲間達——主にソローネに見つかってしまい、あらぬ疑いまでかけられてしまった。
その内秘められたような彼との交流について、話してみようという気は、うっすら持ち合わせていたはずだ。
けれども、何となく、自分の中にしまっておきたかった気もしている。あれ以上詮索されなかったのに、あの場で安堵さえしていた。

物思いに耽っていても時間は徒に過ぎていくだけだ。落ち着かないからと椅子を退けて立ち上がる。

「……どこへ行く」

忍び足で抜け出そうと試みるも、専用の大きな椅子に鎮座していたオズバルドが、テメノスを呼び止めにきた。水面の下は深いのを体現するような音色は、少し拾い上げるだけでも染み込むような心地がする。
薄ガラス越しの瞳が精密に自身を捉えている。少し、肩をすくめつつも、なんて事のないように答えようと努める。「オズバルド……少し、店主さんと話をしてこようかと」

納得したのかしてないのか、分かりかねるが、視線は逸らされてそのままになる。
これはそのまま行っていいものかと迷いが生まれゆくより早く、その偉躯の裏に隠れていたらしいキャスティが顔を出した。

「あら、テメノス。こっそり抜け出すのは禁止よ?」

まなじりが赤らんでおり、口元は柔く緩んでいる。酒気を纏っている証左だろう。
それでいて、自身を上目に見遣るまなざしは、探っているように思える。

「いえ、少し散歩に」

「なんて言ってさ。本当は、ヒカリを迎えにいくんでしょ」

もう一人、オズバルドの背中から現れた。ソローネだ。
彼女はもう、言わずもがな、出来上がっている。だがテメノスに向けられた言葉は、的確な所をつつきにきていた。
こちらをじとりと見つめて、軟弱なところを当てようとする、意地の悪いかんばせ。
苦味の含んだ表情を露わにし出すテメノスであったが、こちらの様子を嗅ぎ取ってきたアグネアらの存在を認めて、不恰好な笑みに昇華する。

「ふふ、そう。店主さんとの話、随分と長引いてるものね。心配なのね」

「……ええ、まあ」

当のオズバルドは困惑気味なのだが、女二人はそれに気がつく様子もなく、ただテメノスに含んだまなざしをこれでもかと寄越しにくる。

「なんなんです?」

「いや、ねぇ? あんたも優しいところあるんだなーって」

「うふふ、そうね。テメノスは優しいわ……」

遅れてアグネア達もやってきて、結局自分の周りをこの場の仲間達全員が囲う形となる。
内心、辟易とするが、まあ、これは自分達の習性のようなものだ。
なんとなく、誰かを中心に集まってしまうというか。

「聞こえてましたべ! 私もヒカリくんが心配だったからテメノスさんに任せますね! 暗いですから迷わないように気をつけてほしいべ」

酒の飲めないアグネアは日中から変わらず溌剌としている。両手に小さく拳を作って、「ファイトです!」などとエールを送りにきた。

「めいたんてー、怖いんならマヒナを連れて行かせよっか?」

オーシュットが近くまで寄ってきて、ちょっとばかしズレたようなことを提案しにくる。
ふわっとした程度の緊張なら覚えているので、匂いで嗅ぎ取ったのやもしらない。
マヒナは夜目が効くし、賢いから道案内もできるだろう。だが大切な相棒を借りるのは、流石に気が引ける。
テメノスはやんわりとかぶりを振る。

「怖くはないですよ。ええと、あちらの林を超えてすぐですよね」

林とはいうが木々はまばらで、古い時代の建物が倒壊してそのままにされたようなのが横たわっているような景色が続くだろう。

「うん。図書室があるんだって。詳しくは知らないんだけどね」

不意に肩を突かれる。「……皆お前に変に気ぃ使ってんだ。まあ許してやってくれよ」若干申し訳なさげな音色で、パルテティオが耳打ちする。
大した距離ではないだろうし、一人でも構わないから、謝られることの程でもない。そもそもこんな大仰に見送られるほどのことでもない気もするが……。

「ええ、分かっていますよ。悪い気はしませんから」

「へへ、そうか……頼んだぜ、テメノス」

ヒカリを、と念を押すように付け加えられたのを気掛かりに思う間もなく、背中を強く押された。
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