【全体公開版】きみのけものより、愛を込めて。
扉のほんの僅かな隙間からは、橙色の灯りが漏れ出て、縁取っている。ドアノブを捻った先の温もりにささやかな安堵を予感しながら、テメノスは躊躇わずに扉をくぐる。
「……戻りました」
「おかえり。寒かったろう」
この目を瞬かせ、テメノスは自らの懸念が的中したのだと悟る。
夜更けすぎ、同室の彼は眠っているものだと、その可能性に賭けていた自分は確かに居た。
「……ヒカリ。まだ、起きていたのですね」
言えば、彼は申し訳なさげに眉根を下げた。
さりげなくその目元に目配せする。黒味がかかっており、血色も芳しくない。
こちらの憂慮を内包した視線を認めたらしい彼は、曖昧に口元を緩めた。
「ああ……すまない。そなたが眠りたいのに、俺が起きていたら邪魔になるだろう……今、部屋を出よう」
潜めたような声で、彼は謝辞を述べた。夜更けであるし、心地よい室温に巡り会えたこともあり、ぬるま湯に浸るような眠気が漂っているのは、その実のところではあるけれども——だとしたって、そんな心無いことは思わない。
「いえ、その必要は。そうだ、紅茶でも淹れましょうか? 気分が落ち着きますよ」
キャスティが心配していたのも頷ける。ろくに眠れていないのだという事前情報の通り、ヒカリのかんばせには疲労が滲み出ていた。
彼はそれを誤魔化したがるのだろうが、倒れてしまっては元も子もない。自分の中に、迫るものを覚えた。
弱っていく姿を見ているだけというのは、やっぱり、自分の良心がじくじく痛むのだ。普段から彼には主に戦闘面で助けられているし、そういう恩義を抜きにしても、仲間として放っては置けない。
例え、誰かに託された義務感が伴っていたとしても、だ。
どうにかしたいものだが……と思いはするものの、その原因が分からないのでは……と思考は堂々巡りに至ってしまう。
結果、せめてもと思い鎮静作用のある紅茶を飲ませる、という付け焼き刃のような方法を試行することになった。
ヒカリは砂漠育ちだし、寒さが苦手かもしれない。向こうも夜は冷えるようだが、それでも日の入りから沈む頃まで延々と雪の止まぬ地は、身体の順応に時間を要するはず。ふと思いついて、保存用の箱に閉じ込めてあった木の実を取り出し、小さな切れ目を入れる。そこから滴る雫を数滴、液の中に溶け込ませた。
礼を告げてからマグを受け取り、ヒカリはふうと息を吹きつけて、唇にあてがった。
その様を見守り、自分も口に含む。茶葉の香りごと味わいとなって己を満たす。僅かに舌を刺激する辛味が後を引いた。
「美味しい。ありがとう、テメノス」
「……いえ。少しでも、あなたの助けになれば良いのですが」
安心させるように微笑みかけるというのは、神官の仕事で染み付いた仕草だ。だが、そんな私情など知りもしない彼はそれを真面から受け止めて、綻ぶなどしてみせる。これを見ると、内側がむず痒くなるような気がする。ああ、彼は素直なのだな、と。
だからこそ、こうやって頑ななのが気がかりに感ずる。
「そなたは優しいな。……心配をかけてしまって、すまない。本当は、分かってはいたのだ、皆、俺を気にかけていてくれたことは」
空いた手が、密かに握り込まれたのが視界の端に映る。
彼はまだ、踏み切る手前で、逡巡している。未だ、しまい込んだものをそのままにしておきたい、そんな風に捉えられる。
頭の片隅でそんなことをつらつらと考えながら、テメノスは彼の肩に手を置いて、そっと顔を覗き込む。
「何か、理由があるのでしょう?……ああ、いいのですよ、無理に話そうとはしなくて。ただ、私も仲間達も、あなたに健やかであってほしいと願う気持ちは同じです。それは、知っておいてほしい」
彼の立場が、弱音を吐露する事を許さないというのは多かれ少なかれ、止まる理由になっているだろう。
だが、せめて仲間の前では、そういったものに拘わずにいてほしいものだ。個人的な、願いにすぎないが。
「……テメノス」
黒い目が驚きを内包させたように、自分の姿を湛えて、揺らめいた。
こんな時、キャスティなら聞き出していたろうか。自分も暴くなんて荒技が出来るが、そうはしたくない。
彼が、彼自身で決着させた上で、打ち明けるべきだ。
テメノスも器用な方ではない。誰かに胸襟を開くようなことも、むしろ苦手な方だ。だからなんとなく、分かるのだ。彼の、迷いは。
無論、中身も、その質量も知りえはしない。されどその一部くらいは。知っていても良いと思った。
「辛かったり、苦しかったら助けを求めてください。皆、あなたのためにできることをしますから。……もちろん、私も」
「……そう、か」
ようやく、目が合う。戸惑いがちな色が、かんばせに浮かび上がる。
その機微に、自分が触れてしまうのは躊躇われる。澄んだ玲瓏な黒に、触れるのは烏滸がましい——そんな言い訳めいた言葉を唱えて、あとは何も言わないでいた。
彼が容器の中を飲み干してしまうまで、テメノスは穏やかに待つ。
寝床に着くよう促し、テメノスはマグを両手にシンクに向かう。軽く洗って、布上に干しておいた。
白のしとねに膨らみが横たわっているのを確認し、角灯を消した。部屋の橙に暗い青が混じり出す。外は猛吹雪に切り替わり、空が喚いているかのようだ。不吉な覚えが徐々にもたげるのに蓋をしながら、テメノスも布団に潜った。
滑らかな感触だが、冬の寝床には冷たくて敵わない。これはこの身一つで温まるのには時間を要しそうだ……とそっと息を吐いた。
☆
どれほど時間が経ったろう——浮き上がった意識が如実に体の冷えを訴えかける。テメノスは自ずと瞼を持ち上げた。
部屋が暗い。消えてしまった暖炉を付け直そうと、包まった布の温もりから離れたがらない身体を無理やり動かす。
残った薪を入れ、マッチを探すが、見当たらない。止むを得ず、聖句を唱えた。淡い粒子が舞い、静謐な青い炎が灯り出す。
両手をかざすと、ほんのりと温かみを感じ取れた。部屋に行き渡るには時間を要しそうだ。
布団の中に埋もれたヒカリの様子を一目見ようと、テメノスは両腕を抱きさすりながら彼の元へ寄る。
片手に薄布を摘んで少し捲り上げると、目を固く閉じた彼の表情が露わとなる。
額も、晒された首筋も汗に塗れていて、テメノスはぎょっとさせられた。
すぐに清潔な布を持ち出して、拭き取ってやる。肌に触れてみて分かったが、体は冷たい。
そして大きく胸を上下させて、洗い呼吸を繰り返している。
「……ぅ、」
唇の隙間から呻きが漏れる。相当厄介な悪夢にうなされているのだろうということは、自明だった。
結びが甘かったのか、髪紐が解けて艶やかな黒髪がシーツに零れる。
命の燃え尽きる間際のように冷たい身体が、かろうじて繋ぎ止めるために心臓を鳴らしている。そんな錯覚さえ覚えた。
吹雪は酷くなるばかりで、小さな窓をしつこく殴りつけにくる。ミシミシと音を立てて、耳に煩い。
やがて薪の爆ぜる音が、部屋にこだまする。炎が激しく揺れ、粉を撒き散らし、何かの予兆を訴えかけてくる。
テメノスはヒカリの背中を摩ってやりながら、周囲に意識を巡らせた。先ほどから空気が澱んでいるように感じられるのは、気のせいではなかろう。気色の悪さも同時に、背筋を這い回る。
「ぁ……くる、な……っ」
シーツを握り込み、深い皺が幾重にも刻み込まれゆく。顔色が悪い。ヒカリは何かを拒むようにかぶりを左右に動かし、後退するように脚も動かし始めた。
「ヒカリ……?」
堪え切れずに震えた音色で名を呼んだ。尋常のうなされ方ではない——そう考え、咄嗟に彼の手を取る。やはり、冷たい。しかばねのように、体温が損なわれてしまっている。
瞼をきつく結んだまま、苦痛を浮かばせ、彼は身を捩らせる。
邪の気配は、どこか身に覚えがあった。ヒカリが剣を振るう時、稀に見るそれに近しい。
だが、その比ではなかった。あの時よりももっと濃密で、底知れぬ悪意が醸されている。
「いや、だッ……おまえは……おれじゃ……なっ……い」
ああ、このままでは。テメノスは瞬時に頭を巡らせ——誦じてきたものを一つ、抜き出す。
唇を動かし、最後の一句を終えた途端、春風のような柔さが両者を包み込む。安易な回復魔法だった。これは、手短で、神官の中でも初歩中の初歩で、すぐ扱えるように習わされる。
だから咄嗟に唱えるのには、向いていた。
若々しい緑の息吹の色合いが、夜の仄暗さを吹き消す薄いヴェールとなる。
こんなものでどうにかなるとは思えやしない。だが、彼の苦痛を少しでも和らげたかった。
「ヒカリ……大丈夫です、私がついていますから」
到底届くかも分からない言葉が、紛れもないテメノス自身の口からこぼれ出ていた。
自分でも、これが正しいのかは分からない。寧ろ、誰かを呼びつけた方が良かったのかもしれない。
だが、どうしてかそれはしなかった。いつかの逡巡は払拭され、テメノス自身の手で彼を救い上げるべきであると、強い何かが訴えかけにくる。
いつの間にか、彼の手に指を絡ませていた。冷え切った温度は先程よりかは本当に僅かだが、取り戻されてはいた。されど、これではもどかしくて仕方がない。
繰り返し、回復魔法の祝詞を詠唱するが——言わずもがな、埒があかない。
テメノスは履いていた部屋靴を脱ぎ捨てて、彼が横になっている寝台へと、乗り上げた。
躍起になっているのだろう、そう自覚するための平静さならば一欠片くらいは残っていた。
だが、あのまま彼を放っておいたら、体の温かみは潰えて、心臓は止まっていたかもしれない。とにかく、必死だったのだ。
テメノスは自分の身を使って、彼を温めることに決めた。戦闘であれだけ果敢に舞っていた彼の体は、こうしてみると存外頼りない。簡単にこの腕で閉じ込めてしまえた。
鼓動の音がこちらに伝わってくる。決して忙しくない、この遅緩さと、時折遠のくような律動の力無さが、テメノスを着実に焦慮を抱かせんとする。
息を吸う。どうか、どうか助かってくれと何度も決まった祝詞の中にひたすらに願いを込めながら、彼を抱きしめ続けた。
窓が喧しい音を立てて軋む。そのうち突き破られて、雪風に侵されてしまうかもしれない。こめかみをじわり込み上げる怖気がなぶる。
邪なるものがすぐそばでせせら嗤っている。そんな気配を直感が読み取ってすぐ、肌が粟立たせる、生温い感触がテメノスの肩に触れた。そこから離れろ、と囁かれているような気がした。だがここで彼を離してしまえば、もう、駄目な気がした。
「大丈夫です……大丈夫ですから……"傷を……苦痛を、癒したまえ"……」
立て続けに魔力を消費しているためか、一瞬だけ視界が眩む。
構わない。この腕の中の彼が、悪夢から解き放たれ、生きてさえいてくれるのなら。
鳴りを潜めていたような時計の針が動く音が、耳を打つ。どれほど経ったろうか。少し、頭がぼうっとする。魔力が底を尽きるのも、もうじきか。
彼の小さな吐息が、鎖骨に掠める。くったりとしていたはずの指先が、テメノスの痛んだ脇腹の上で、ぴくりとみじろいだ。「ん……」
目を見開く。いつの間にやらびっしりと額に黙り込んだ汗を適当に拭い、じっと息も潜めて、彼を見つめた。
顔に張り付いた黒髪の隙間から、慣れ親しんだ深い瞳が現れて、意思を持ってまばたき始めた。
「……おれ、は……なにを」
くぐもったような音色だった。テメノスはなんとなく、否、ちゃんと確かめるために彼の顔を見たかったので、長い髪を耳にかけてやる。
うっそりとしていたが、遅れて彼はみじろぎ出す。
「……良かった。気が付いてくれたようで」
心からの言葉だった。安堵のあまり、吐息が混じる。
いつの間にか、部屋は温かくなっていて、彼の心音も瞭然と生を刻んでいた。
どっと押し寄せてくる疲労感に、今度はテメノスの腕が彼へ預けたままになる。
眠気の波が寄せては引く感覚に目を細めるが、すべき事を成したとそのまま眠ってしまうは——今は少し、堪えなくては。
ヒカリは視線を彷徨わせた。現状を計りかねているようで、戸惑いがちに疑問を口にする。「て、てめのす……どうして……」
ちょっと舌足らずなのが面白く思えるくらいには、テメノスの心情には余裕が生まれつつあった。
強い安堵が尾を引いて、それから穏やかな思いが揺蕩う。
「あなたは、ずっとうなされていたのですよ。身体も冷たくて……私は生きた心地がしませんでした」
テメノスは悠揚な口吻ながらに、本当の思いを言葉に潜らせた。それを感じ取ったのか、ヒカリの眉宇が曇る。
彼は何かを抱えている。その正体は、あの時俄かに表出した邪の気配であったろう。
なんとか退けられたが、あんなものに彼が夜な夜な、もしくは何かの拍子に苦しめられているとしたら。常人であれば気が狂うだろう。
「すまない、テメノス……心配を、かけたな。それで、その……俺は何かしていないよな? そなたに……」
謝りながら、彼は惑っていた。深い憂慮が、強すぎるほどテメノスに向けられている。本質的な優しさが、彼自身を案じることにもっと使われたっていいはずだろう。
かぶりを振る。
「謝らないでください。あなたは何かとずっと戦っていた……そして打ち勝ってここに戻ってきてくれた。それだけで、十分なのです」
労わるように、その背中を撫でた。ヒカリは驚いた様子だったが、腕を退けることはしない。ただちょっとだけ緊張しているのか、身は強張ったままだった。
「……そう、か。そなたが、俺を引き戻してくれたのか。……ありがとう」
噛み締めるように呟いて、テメノスをじっと見据えてきた。あどけないような綻びを、湛えたままに。
テメノスは敢えて飄々として、「ええ、まあそんなところですよ。どういたしまして」と返しておいた。これは、歳上の意地のようなものだ。
ヒカリはこうして見ると、やっぱり戦いの時の勇ましさなどは本当に仕舞い込まれていて、なんだか今見ているのは違う彼のように感じられる。
されども、気高き理想を追う王子とて、年相応な柔さがあっても良いだろう。幼く笑ったって良い。そんなことをひっそり思う。
あまねく命は尊く、守られるべきであろうと言う聖火の教えを前提にしたとしても、ヒカリが、ヒカリとしてこの瞬間にでも、現世で生きていてくれて良かった、と心から思う。
そう、だから、遅刻してやって来る、達成感のようなものが胸を満たした。エルフリックよ、力添えに感謝します——と口の中で捧ぐ。
「……それで、ヒカリ。私、なんだか疲れてきてしまったので眠っても良いですか?」
だが、またヒカリが邪悪な、闇に囚われてはいけない。何か、自分にできることをしたい。否、テメノス自身がが何かをしたい、というべきか。
今は、少し休ませてもらうとする。回らない頭では、良い案も引き出せそうに無い。
「それは、構わぬ、が……」
ヒカリは、自身と寝台を交互に一瞥して、何か面映げにしている。
テメノスはよく分からなかったので、体を横にずらして、距離を詰めた。部屋は温かくなりつつあるが、やっぱりまだ肌寒ったい。
「……ああ、あなたの身体はもう温いですね。良かった……」
この温かさが、テメノスにはひたすらに心地が良かった。昔、悴むような冬に、ロイと抱きしめ合って寝たようなことを思い出して、じんわりと胸の中心が熱くなる。
でもそれともまた、違う気もする。噛み合うような感覚、と言うべきか、握り合っている手のひらも、よく馴染み、しっくりくるものだから、離したく無いような気がしてしまう。
濛々としたままそんな事を考えて、身体にのしかかる鉛のような眠気の塊に、あえなく押しつぶされてしまう。
「……おやすみ、テメノス」
寝台の上に体も意識も委ねかけている自分に、ヒカリが優しい音色をそっと差し出すから、もう、本当に眠ってしまうことにする。
ヒカリの腕がおずおずと自分の背中にまでやってきたのに気がついたところで、意識はふっと途切れた。