【全体公開版】きみのけものより、愛を込めて。
ウィンターブルームの朝はとにかく寒い。昇ったばかりの陽はなよなよしていて、頼りにならない。布団から出るのがひどく億劫になる。テメノスは思わず両腕を抱いて、寒い、とぼやきそうになったが堪えて、寝台から抜け出した。
向かいの方角を確かめれば、整然と折り畳まれた布団とシーツが目につく。
同室の剣士はとっくに営みを始めているらしい。彼と同じ時間に起きられた試しは、殆どなかったりする。
部屋を出ずとも分かるような、賑やかで主張の強い足音が行ったり来たりする。恐らくオーシュットだろう。彼女の快活さを、見習いたいとは思えど、やっぱり無理そうだと内心、ごちる。
「おはよー、めいたんてー! おふくろが呼んでるよ!」
勢い良く扉が開かれ、感心したくなるほどのおっきな挨拶。朝からこの声量は、ちょっと耳にくる。一方で、彼女の肩で首を回すマヒナは、淑女らしく控えめに囀る。
ぐいぐいと痛いくらいに腕を引っ張られ、獣人の少女は起きたばかりの自分を連行しようとするので、慌てて制止をかける。「待ってください……せめて最低限の身支度は済まさせてくださいよ」
言いながら、大きな欠伸が出る。まだ目も覚めていなくって、頭がちょっと重い。オーシュットはそんな自分を仕方がないというふうに見つめて、腕を組む。
「しょうがないな〜。手伝ってあげるよ、マヒナもお願い」
オーシュットはクローゼットに飛び乗ったかと思えば、豪快に開け広げた。中身と向き合い、ううんと首を捻りながらも、緑の法衣を引っ張り出そうとする。
「ちょっ……そっちは予備の服で……」
言いかけて、突如マヒナが目前を通過するので、驚きその方向を辿る。
愛用の容器とブラシをしっかり爪に引っ掛けて、梁のぎりぎりを旋回する。
「えー? おんなじにしか見えないよ〜?」
オーシュットが耳を揺らすが、テメノスは冷や冷やさせられて、構ってはいられなかった。上を向きすぎて首が痛い。マヒナが落下させにくるところまで手を伸ばす。
ゆっくりと羽ばたいて、テメノスの手のひらに届け物が着地する。丸い目を瞬かせて、小さく傾げてから、主人の元まで帰っていく。
「ねぇ、聞いてる? ……あ、マヒナ、ありがとね」
腕に着地したマヒナへ、オーシュットはポケットから小さく千切った干し肉の破片を取り出して、食わせてやっている。
小さく息を吐く。オーシュットがいると賑やかになる。それは快いけれど、少しだけ気持ち的に忙しない。
「手前の方に掛けてあるのが普段着です……あの、自分でやるので大丈夫ですよ?」
「一緒にやった方が早いよ? それにあんまり遅れるとおふくろが怒っちゃう」
あたかも当たり前を示し、同時に不思議がっているのが、彼女の口吻から読み取れる。
クローゼットから必要なものを取り出そうと寄れば、曇りのない目が自身を見上げていた。断り切ることはできるが、やっぱりなんとなく、できない。オーシュットには善意しかないのが分かっているからかもしれない。
「……では、私は向こうで着替えてきますので、ベッドを整えるのをお願いできますか?」
雪街の雲は分厚く、見ゆるものに暗澹としたような灰色が薄く膜を張っているよう。
そんな中で、こんな明朗なる朝があれば、少しはしゃんとして一日を始められる気がする。
「合点承知ー! マヒナ、手伝ってくれる?」
マヒナが羽ばたくたび、白く丸みのある形の羽がはらりと散る。
二人で持ち上げたシーツが膨らむ。オーシュットはそれを面白がって、遊び始めたが、そのうち本来の目的を思い出して、皺を伸ばし始めた。
法衣を纏い、ローブの埃などを軽く取り払いながら、彼女らの様子を見守る。
オーシュットが起こしに来るのはこれが初めてではない。が、こんな風に自室ではしゃぐ姿を拝むのは、新鮮である。
整え終えた布団を見て、及第点だと心の内で裁定を言い渡しておく。 出会い始めの頃とひっそり比較していたけれど、くしゃくしゃの羽だらけのあれよりはずっと良くなった。
今日も聖火を司りしエルフリックに感謝を——と心の中で祈っておいた。というのも、オーシュットが終わったんだから、と自分のローブを掴んで強く引くので、首が締め付けられて堪らない。おまけに悠然とのしかかるマヒナの鉤爪が肩に刺さって痛い。
やんわりと抗議しようにも、急げ急げと足が早まるばかりなので、どうにもならない。
自由気ままな彼女であっても、我らが薬師におかんむりの気配があればこうも迫り立てるものらしい。
「おふくろー! めいたんてーを連れてきたぞ!」
ノックもなしに開け放たれてすぐに、薬の匂いが鼻を刺激した。それから、僅かに鉄臭さも混じっている。
水色の後ろ姿をあくせく動かしていた部屋の主は、おもむろに振り返ってみせた。
「あら、オーシュット。テメノスを起こしてくれたのね、ありがとう」
小さく跳ねて、労いを求めるオーシュットの頭を撫ぜるなどしている。テメノスの肩に張り付いていたはずのマヒナも、とっくに彼女の側に飛んで行って、その柔い毛を擦り付けるなどしていた。「うふふ、マヒナちゃんもご苦労様」
キャスティの慈愛は、人間だろうと魔物だろうと等しく与えられる。猪の魔物を治療したという話をオーシュットから聞いた覚えがある。マヒナが懐くのも合点がいく。
テメノスは一歩踏み出して、敢えて恭しいような所作で挨拶文句を告げることにした。
「おはようございます、キャスティ」
「おはよう、テメノス。昨日の疲れは取れたかしら?」
長いまつ毛を揺らし、麗しき薬師は柔く微笑む。だが、少し精彩に欠ける。疲れているのは彼女の方だろうに、いつもこんな風に他者を気にかけるのである。
「ええ。よく眠れましたよ——それで、ソローネ君の容態は?」
「……昨日よりかは熱が下がっているわ。汗が噴き出してきているのがその証ね」
キャスティの傍に鎮座する寝台へと視線を向ける。
数日前の夜、彼女らは雪兎という盗賊団のアジトへと潜入した。
そこの首領らは掃討されたが、彼女は致命傷を負った。ファーザーのナイフが彼女を貫いたのだ。命までは奪われなかった。だが、生殺与奪の権限は彼がとうに握っていたといっても遜色なかった……とキャスティは語っていた。
ファーザーに隙など始めから無かった——地下道から脱出したソローネを迎え入れてすぐ、苦悶を含んだ彼女の呟きが思い起こされる。
幸い、すぐにキャスティが駆けつけたおかげで、処置がとり行われ、傷が悪化することは免れた。
だが、貫いた分はすぐには癒えてはくれない。自分で歩けると主張してやまない彼女をオズバルドに担がせ宿屋まで運んだらしかった。
別行動だったテメノス達は遅れてウィンターブルームにて合流する手筈で、その通りに到着したのだが、現地にいなかったことを悔やんだ。(最も、あれほど深い傷を、自分が癒せるかは怪しくもあるが)
キャスティはあれから一晩中、ソローネのそばで包帯を変えたり、薬を飲ませたりしていた。
傷口から菌が入り込み高熱を出してしまったようで、こうなるといよいよ、回復魔法では癒せない。
テメノスも時折様子を見に来ていたが……彼女はまんじりともしていなかった。本当に苦しいのは、戦っているのはソローネの方、だと言うのだろう。
取り繕っているつもりなのだろうが、そのかんばせには疲労が滲み出ている。僅かな吐息を混じえてから、彼女もまたソローネへと意識を留めた。
「本当はね、さっきまで起きていたの。でも無理矢理寝かせたのよ」
「……そうだったのですか」
休まることを知らぬ寝顔を晒して、彼女は浅い寝息を立てている。
しばし見つめていれば、時折うなされたように眉根を寄せた。言葉の形に成り切らぬ音を漏らして、毛布を硬く握り込んでいた。
その額や首筋には、汗が玉となって浮かんでいる。
入り込んだ異物を排除すべく、その傷を癒すべく、体が熱を発しながら必死に再生を試みている——そんなところか。
——ソローネ君なら大丈夫。彼女は強い。自分がよく知っている。
また立ち上がって、鎖を断ち切るための道を往く。
その時はまた、敢えて軽い調子で、手を差し伸べよう。その方が、彼女も安心するだろうから。
「キャスティ! 街の奴らから買い取ってきたもん持ってきたぜ」
パルテティオの明朗な声で我に返る。いつものコートは前まできっちり閉めて、そのポケットはやけに歪に膨らんでいた。
「まあ、パルテティオ……色々持ってきてくれたのね?」
でも、少し静かにね?と人差し指を唇に寄せたキャスティに、パルテティオは少し面映げにして、帽子を脱いだ。
その片手には、紙袋が抱えられている。
「あ、すまねぇ……ああ、使えそうな布類持ってきたぜ。あとは林檎もある。事情を話したら値引きしてくれてよ。これも、あんたが皆から信頼されてるおかげだぜ」
膨らみの正体は林檎らしい。部屋に入り、それを籠に転がしてゆく。雪原地帯の林檎は甘味が強く、ぎゅっと赤を敷き詰めたような濃ゆい色味をしている。
「あら、貴方だって上手く交渉したのでしょう? 未来の大商人のパルテティオ様だもの」
満面の笑みを向ける彼女に、パルテティオは後ろ頭を掻く。「あんたにそれを言われるとなんか照れるな……」前から薄々察していたが、彼は年上の女性に弱いらしい。
「でも、これくらいはさせてくれよ。あんたはいつも、みんなのために本当によくやってくれてるぜ」
テメノスが彼女に渡そうと思っていたような労いの言葉も、彼が担った。
そうなると……さてどうしたものかと思い、何となしに明後日の方向を見やると、オーシュットが元気よく跳ねているのが目路に入り込む。
「肉の匂いがする〜! ひかりん、その中見せて?」
扉の影に遮られていたため、ヒカリも来ていたのに気がつくのが遅れた。オーシュットは彼の肩を掴み、そのままぶら下がるなどしている。テメノスなら間違いなく後ろに倒れるが、彼は微動だにしないのが、感心させられる。
だが彼が少し困っていたので、やんわりと引き離してやる。紙袋は、あっさり奪われてしまっていたが。
「ヒカリも買い出しを?」
干し肉を躊躇いなく齧り出すオーシュットに苦笑しつつ、さりげなく訊ねる。
その様を眺めているようで、どこか上の空のような彼の顔を覗き込めば、ハッとしてこちらを見上げにくる。
「ん、ああ。備蓄の食料が必要かと思ってな……鍛錬の後に寄ったんだ」
心なしか、顔色が悪い気がする。そういえば、ひとつ前の街では、キャスティが彼の具合を心配していた。その時も気丈に振る舞うようにみせながら、どこか覇気がなかったように思う。最も、自分と彼女以外は気付けていないような、微細なものだったが。
「ヒカリ君もありがとう。たくさん買ってきてくれたのね」
「そなたの助けになればと……この前、薬も大事だが食事が身体を作る、と言っていたろう。なるべく、肉だけじゃなくて野菜も選んできた」
肉は魔物を狩ったものだとして、雪街で採れる作物には限りがあろう。聞けば、温室などを設けて工夫して栽培しているようだった。
キャスティは彼の手元に残っていた紙袋を受け取り、相好に穏やかな色を浮かばせた。
「ふふ、さすがね。覚えてくれていて嬉しいわ……さて、と」
「おいおい、どうしたんだよ、荷物なんてまとめ始めて」
薬師御用達の革鞄に手早く瓶類を詰め始め、如何にも外出する体だ。
制服の中にしまい込んでいた小さな手帳を取り出し、テメノス達に見せにくる。彼女が記憶を失う前に描いたであろう、薬草類のスケッチだ。
その中でも色付けされたものを、彼女の指先が示した。
「……この街から出て南東のところに、洞窟があったでしょう。あそこで採れる苔なら、強力な痛み止めの材料に使えるわ」
あれは薬草園では育てられない代物だし……と付け加える。
紫色の苔で、そのまま細かくして飲むより煎じると効能が高まり、抗生物質として有効だと書かれてある。
だが、この寒さの強い時期には魔物が巣食っている可能性は高い。
「キャスティ、あなた一人で行くつもりなのですか? いくらなんでも危険です」
薬師としても、彼女個人も、魔物に食われてしまっては元も子もないのだ。
されど知っている。こんな時、キャスティは頑ななのだ。
案の定、彼女は首を横に振った。
「それでも、ソローネを楽にしてあげるために、できることをするのが私の……薬師の使命よ」
胸元に手を当て、彼女は真っ直ぐに自分達を見渡す。或る薬師団の青い制服が、誇らしく揺れる様を、何度拝んだことだろう。
「——なら、キャスティ、俺が行くぜ! な、オーシュットも手伝ってくれねえか? マヒナも一緒にな」
力強く名乗りを上げるパルテティオに、遅れて名前を呼ばれて驚いたのか、オーシュットの方から身体を浮かすマヒナ。
彼女を軽く宥めながら、小さいけれど、頼り甲斐のある狩人の少女は、屈託のない笑みで賛同を示した。
「いいよー! パルテのあんちゃんだけじゃ迷っちゃうもんね」
「おいおい、言ってくれるぜ……そういうわけだから、キャスティは休んでていいぜ! ソローネの看病も、テメノスに任せりゃいいんだからよ」
なんて堂々と言ってのけて、親指を立てる。やれやれと肩をすくめながらも、断る理由なんてこれっぽっちも無かったりする。
キャスティが眩しいものを見るように目を細めて、密やかに小さく息を吐くのを、テメノスは丁度見つけた。
これなら、折れてくれるかもしれない。
安堵しかけたが、テメノスはふと、微細な違和感を覚えた。視線がヒカリの方に引き寄せられる。
「……っと」
隣の彼が前へ踏み込もうとして、ふらついたように思えたテメノスは、すかさず手を貸していた。
それを掴み取り、ヒカリは「すまない」と小さく溢す。黒髪の隙間の瞳と自身のが交わる。少し、動揺の色が窺えたのは気のせいだったろうか。
「……待ってくれ、パルテティオ。微力ながら、俺も力になりたい。共に行かせてほしい」
されど直ぐに取り繕って、ヒカリは商人の元へ寄る。ほんの少し触れていたような手の感触は、それに伴い逃れてゆく。
「おっ、いいぜ。けど良いのか? お前もまだ疲れが取れてねえだろ」
ヒカリは強いし、そう易々とは魔物に屈することはなかろう。加減が優れないのが気になるが。
だが、キャスティに並ぶくらいに、彼も頑なである。
「大丈夫だ。それよりも仲間のために何かをしたい」
微笑みのかんばせの裏に、何かを積もらせている。テメノスは違和感のない程度に彼を観察する。
彼とは何かと同室になるのだが、振る舞いには特に変化はない。ただ、一つだけ取っ掛かりを述べるなら——
「おおっ、ひかりんがいるなら百人力ってやつだね!」
フサフサの尾をヒカリの足に巻き付けて、オーシュットは上機嫌だ。ソローネが起きていたなら間違いなく羨ましがっていたろう。
その様に寛大な商人とて愕然とし、「俺との差……っ!」と肩を落とすなどする。だがそれも大きな溜息ひとつで済ませて、色を正してみせた。
「キャスティ、念のためその手帳、もう一度確認させてくれよ」
「……これは預けるわ。その代わり、ちゃんと無事に帰ってくるのよ?」
明眸ごと試すようにパルテティオへと差し出す。念を押した口吻を承り、広い胸板を叩く。
「ああ、任せとけ! 大事な手帳に傷はつけさせねえぜ」
口元に手を添えて、キャスティは綻ぶ。この時は、疲労も忘れた、心からの安堵が滲んでいたように捉えられた。
「うふふ、頼もしいわね——」
そんなやり取りの末、テメノスはキャスティと共に彼らを見送った。
寝坊してきたらしいオズバルドと、ソローネの寝具や衣類などを買い集めてきたアグネアが遅れて部屋を訪った。
自分達にソローネの看病を託し、彼女は仮眠でも取るのかと思いきや——再び焦茶の革鞄を取り付け、エプロンを結び直すことをし始めた。
「じゃあテメノス、行くわよ」
「え? 休むのでは」
訊くも、有無を言わさない青い瞳がテメノスを見つめていた。その手は、テメノスの手首をしっかり掴んでいる。
「薬草園から少し貰いに行きたいの。あと薬の素材と、精霊石の足しもあれば買い取りたいわ」
「それなら私が……」
薬の素材は購入にあたりライセンスが無ければ出来ない。知識を持たぬ者たち悪用を避けるため、最近導入されたものだ。 テメノスも近頃、ギルドで賜ったところであるが……ライセンスにも階級があるため上級の素材までは買えないというのがその実だけれど。
言うまでもなく薬師の中の薬師であるキャスティであれば、素材の買い物には困らない。逡巡も束の間、彼女に引っ張られるがままになる。
「いいから、来なさいな。アグネアにオズバルド。ソローネを頼んだわよ」
任せてください、と手を振る踊子と、ソローネの側で書物へ目を向けたままに頷くオズバルドを一瞥し、部屋の木製扉は閉じられた。
☆
「賢いあなたのことだもの、私が何を言いたいかは、もう分かっているわよね?」
自身を包んだメリアの柔い手の感触がまだ残っている。我らが薬師の仲間だと話せば、愛らしい花のような綻びがテメノスに向けられた。まだ年端もいかないというのに、子供らしからぬ強い意志をたたえた娘……否、領主様だと心のうちで評する。
見送りの彼女が屋敷に戻ったのを認めるなり、キャスティが口火を切りにきた。
何を言いたいか——反芻して、躊躇うが、躱わすことなど許されない空気感に、根負けする。
「……ヒカリのことですか」
何度も口にしているようで、珍しいように思える響きが、静かな白銀の景色に溶け込む。
キャスティのまつ毛が伏せられる。憂うような仕草だった。
「そうよ。前に話したけれど、ヒカリ君はあのままにしておくと、近いうちに臥せてしまうわ。本当は止めたかったのだけれど……あの子、優しいけどああいうところは頑固だから」
キャスティのヒカリに対する理解度はかなり高い。元来心優しく仲間に尽くす彼女に、ヒカリも心を開きつつあるのだろう。
だからこそ、テメノスを連れ出して、わざわざこの話をする理由は、分からなかったりする。
親しさならパルテティオのほうが上だろうし、オーシュットも懐いている。だからこそ、余計に。
そんなことを考えつつも、テメノスは予め考えておいたことを口にする。
「恐らくですが、オーシュットも察していると思います。その上で、彼の負担を軽減してくれるのではないかと……推測ですが」
くっついたり、尾を巻きつけていたのも、本能的に彼のことを探るためだったろう。
彼女がいる限りは大丈夫だろう、という安心感がある。
「そうね。それは私も思うわ。オーシュットの鼻は本当に優れものだし……何より、ああ見えてちゃんと大人だもの。それに段々、頼もしくなってきているしね」
そうだろう。ヒカリの不調は、恐らくだが精神的なものが大きい。
時系列から逆算するに、ウェルグローブでの一件——ク国の前王ジゴの元腹心、今は将軍の男を相手取ったことが大きな切欠となったのは間違いないと踏んでいる。
「でもね」
キャスティが足を止める。残るは薬の素材を扱う店だけだ。
荒ぶ白い風が、容赦なく吹きつけてくるのにも厭わず、キャスティは唇を動かしてみせた。
「テメノスはあの子と同じ部屋なことが多いでしょう? 気遣ってあげてほしいの。あなただって分かっているはずよ、ヒカリ君の現状に気付いているのは、私とあなたくらいだって」
考えてこそいた。自分に何か出来ることはないのかと。毎晩、彼は寝具を顧みずに、音を立てないように気を配った所作で、部屋を出る。
その横顔を盗み見た時、瞳は時折不気味に赤らんでいた。テメノスはそれに凍てつかされた覚えがして、彼を追えなくなるのだ。
返す言葉を見つけられず、途方に暮れかけているテメノスを横目に、キャスティは自らの見解を述べた。
「……あの子は、眠ることができないのね。だから私の薬も飲まないんだわ。無理やり気絶や安眠薬を使っても、根本的な解決にはならないでしょう」
なぜ眠れないのか。その訳までは推理が及んでいない。彼の言葉で聞くのが一番だろうと思う。
「なれば、彼の抱えているものを、誰かが聞き取ってやらねばなりませんね」
あえてキャスティを真面から見て告げる。物事は人間の感情が絡めば絡むほど、複雑になって、解決は遠のく。
個人の思いを拾い上げるのは、自分よりかは彼女の得意分野だ。そう言った意味合いをふんだんに込めたつもりが、キャスティは期待めいた眼差しを向けに来る。そうして、告げるのだ。
「私はあなたにそれを期待しているわ」
「なぜ」
反射的に返す。彼の奥深くまで、この自分が干渉していいものか——という躊躇いが、常にテメノスの中に揺蕩い、身を動かすのを引き止めてきた。
「同じ部屋だからよ」
「……」
黙り込むテメノスに、キャスティは数歩前に進んで、鈍色の空を仰いだ。 「なんて、ね。理由ならあるわ」
振り向きざまにブロンドが揺れる。慧眼のような青い双眸が、歩み寄る自分を捉え続けた。
「弱味を絶対に見せないようなヒカリ君の変化に気づけた上に、その正体まで暴いてしまえそうなあなたなら、もしかしたら……ってね」
「よく、分からない理屈ですね」
ヒカリに気がついたのは、偶々、だろうとは思う。自分で言いながら、根本的な部分の理論は全く固まっていないことに気がつく。
「でも、私にとっては筋が通ってるわよ?」
一面、白いだけの雪道の足跡の溝を辿りながら、キャスティは悪戯っぽさを効かせたかんばせを披露する。
「私は暫くソローネと向き合う。あなたは、ヒカリを助けてあげてちょうだい。……私たってのお願いよ。飲み込んでくれる?」
寒さに悴んで、表情などは上手く作れる気がしない——そんなことで気を逸らそうとするが、畢竟、逡巡は無駄だ。テメノスには是以外の答えなど求められてはいない。
ヒカリの背中を思い出す。いつもいつも、戦闘で見るのはそればかりなのだ。たまに、回復魔法などで支援すれば、振り向いて気丈な笑みを見せるけれど。
同室で茶をしたのも片手に収まってしまうほどだ。そこでした会話も、朧げで思い返すのも難しく、愕然とする。
ああ、こんなにも、彼との関わりは希薄だったのかと。敢えてそうしたわけでもないのに。
込み上げるものを諸々飲み込んで、テメノスは諾なった。
「……ええ、分かりました。私が仲間の助けとなれるなら」
キャスティは当然のように託すけれど、これは思いの外、かなりの、使命的な責務だ。
「ありがとう。さ、最後の店に行きましょうか」
肩についた雪をサッと払い除け、キャスティは毅然として前をゆく。
テメノスは後に続き、薬屋の前で待つことにした。共に店の中に入っても良かったが、想像から外れたような賑やかな話し声が隙間から聞こえてきたので、足がその先を拒んだのだ。
「……」
吹雪く風が強まってきた。白い波が押し寄せては、煙のように立ち込め、辺りを眩ませてしまう。
埋りかけた木箱や、歪な雪のオブジェなどが音を立てて掻っ攫われて行く中で、一人の影を見とめた。
テメノスはフードを目深に被り込み、キャスティから事前にもらっていたカイロに触れる。指先が熱を孕むのを感じ取ってから、そちらへとゆっくり近づいていった。
白い髪の少年。目を凝らさなければ、周囲に溶け込んで見えないほど、儚く映る。
よく見れば、彼も自分と似たようなものを被っていた。
「あなた……どうされました? お母さんやお父さんは?」
「……」
少年は何を言葉を発しないままに、小さなかぶりを控えめに振る。
色んな子供と接してきたが、こういう大人しい子もよく知っている。目線を合わせるべく、身を屈ませる。
「では、一緒に探しましょうか。どこから来たかは分かりますか?」
そっと手を握れば、彼も遠慮がちに、掴みに来た。柔くて冷たい感触だ。テメノスはカイロを取り出して、少しでも温めてやることにした。
少年は場所を指し示すことなく、ただ自分を誘うように拙い足取りで、前へ、前へと踏み込んでゆく。
テメノスはそれに合わせてやり、彼の行先を見守りながらも、あたりに彼の親御がいないかと念入りに視線を巡らせる。
「でも、良かった。盗賊街に迷い込んでいたならどうなっていたことか……」
「……」
半ば独り言の呟きが溢れ落とされる。ウィンターランドは陽が落ちるのが早く、もうすでに薄暗さが差し始めていた。
夜は盗賊の味方だ。夜になるとあそこは人数が増えて更に物騒になる。
「ええと、そこの角を右に曲がれば良いのですね?」
少年が指差すので、テメノスが尋ねれば、今度は大きく頷いてみせた。
「……うん」
ここで初めて、少年は声を発した。年相応の、高さのある音色。
白い毛髪が粉雪混じりの風で目元を隠す。覗き込もうとして、その足取りがふらつき始めたのに気がつく。慌てて声をかけた。
「歩きにくいですよね。おぶりましょうか?」
「ううん」
少年は差し伸べたテメノスの手を軽く退けて、あれだけ懸命だった足を止めてしまう。
吹雪に消えてしまいそうな背中に目を凝らして、並び立つ。
「……どうしました?」
テメノスは彼と向かい合い、ようやく、彼の大きな瞳を覗いた。白の中に際立つ、緑色。
「ねぇ、お兄ちゃんはどこへゆくの?」
今度は、瞭然と少年は言葉という言葉を口にした。
その掴みどころのない問いかけに、テメノスは少し面食らう。
抑揚がない言葉遣いだけでなく、表情もあまり変わらなくて、何を伝えたいのかが計りかねた。
「え?……あなたの、親の元まで……導こうと」
少年は、風で寄せられたテメノスのローブを掴み、そのまま脚にしがみついてきた。
「真っ暗な場所は、こわいよ。お兄ちゃん、早く僕を……明るみへ連れていってよ」
声に震えが帯びてきて、テメノスがしゃがみ、彼と側で顔を合わせるときには涙でくしゃくしゃになっていた。
どこかで見たような、幼いのにどこか冷めたような、賢しいような顔つき。既視感はあるのに、それがなんなのかはまるで分からない。
どこへゆくのか。明るみとはなんたるか。少年はただ、テメノスだけをじっと見据えて、答えを待っている。
「あなたの望む場所は……何処なのです」
彼は何も言わない。その代わり、フードに小さな手を添えた。風に靡いたように思わせて、それを脱ぐ。白くやわそうな毛が露わになるだけだと思い込んでいたテメノスは、瞠目する。
「っ、あなた……獣人、なのですか」
そう、白い耳が息づいていた。恐らく着ている白い外套の中にも、尾が隠れているのだろう。
獣人はトト・ハハ以外で見かけることは滅多に無い。誰か家族がいるにしても、その見てくれを隠しながらひっそりと暮らしていそうなものだ。
「——」
寒さに揺るがない、色の良い唇が何かを訴える。テメノスはそれをうまく聞き取るのに苦労した。現実として存在している獣の耳の細やか体毛が、白い髪と一緒に風向きにしたがっている。
獣人の少年の顔には、ひと回り大きな異人を前にすることに対する怯えも戸惑いも無かった。 ゆえにテメノスは、彼にもっと歩み寄ろうとした。
慎重な足取りだったはずだが、少年はテメノスの伸ばされた手をサッと躱して、身を翻してしまった。
「あっ、待ちなさい……どこへ」
追いかけようとするが、深く降り積もった雪の中を掻き分けながら速く走るのは困難を極めた。
もがいている今この間にも、少年はあの弱々しい歩みなどなかったかのように、後ろに臆することなく遠くの森林へと消えてしまった。
暫しして、呆然としていたテメノスはハッとなり、キャスティの元へと戻りに向かった。
丁度買い物を終えたらしく、紙袋や包みの中は薬草やら瓶やらで結構な数だった。
『明るみにたどり着くまでに、僕をどうか、殺してしまわないで。生かして、愛して』
テメノスの聴覚に狂いがなければ、少年はそんなことを言っていた。
至極当然ながら、その支離滅裂で、謎掛けじみた言葉の組み合わせが表す解なぞは、導き出せてはいない。
そもそも、だ。あれは本当に現実だったろうか。蜃気楼のように、あえかで夢のように感じられた。雪は幻覚を生み出すという、テメノスもそれに当てられてしまったのかもしれなかった。
やがて宿が見えてくる頃には、テメノスは少年の姿や、言葉も諸々、朧げになりつつあった。
それよりもキャスティに託されたことを胸に留めて、どうしたものかと頭を悩ませていた。
外はもう暗い。角灯無しでは余りにも頼りない。テメノスは背中に携えていた杖に、灯りを宿した。青白さが、辺りを照らす。「随分と遅くなってしまったわね……」と星の見えない空を見上げて、共に帰路を辿るキャスティの足が速まった。
買ってきたものを整理する頃には、もう眠るのには相応しい時間にまで至っていた。
宿の扉を叩けば、ベルが鳴り、眠たげな面持ちの主人が迎え入れた。
「おやすみ、テメノス……任せたわよ」
「あなたも。無理はしないように」
テメノスは自室へ続く道の途中でキャスティと別れた。自らのすべきことを、果たしにいかなくてはならない。そのまごう事なき現実が、背中にもたれ掛かるのを覚えたが、振り切るように先を目指した。
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