あなたを呼んでいる黎明へ
「思いの外スムーズに着いたよね」
伸びをし、ソローネは辺りを見渡す。
砂漠の日差しよけとなる帽子が風に舞いそうになるのを、片手で押さた。振り向きざまに同意を促してくる彼女に、テメノスは顔を顰めた。
少し遅れて、隣まで追いついたパルテティオもまた、深い息を溢した。
「おいおい、ソローネさんよ。俺らに荷物持たせといてよく言うぜ」
パルテティオが言うことに同意しかない。彼ほど筋力がない自分にさえ、彼女は重い革バックを押し付けてきたのである。砂漠は砂に足を取られ、思うように進まない。平常よりも荷物を減らせと忠告したはずなのだが。文句を言えば、乙女の必需品だからダメなのだとか、もしくは適当にはぐらかされ、テメノスの体力はジリジリと減っていく一方であった。
それに加えて……
「途中、駱駝に一番乗ってましたもんね」
向こうの懇意で一頭だけ借りた貴重な駱駝に跨り、その毛並みを確かめるようになぜ回していた姿を思い返す。
「え、何ー? きこえなーい」
ソローネがか弱い女人であるならともかく、彼女は短剣どころか剣も扱って積極的に魔物を屠るような腕利きの盗賊である。
それに、彼女は道中、ほぼ荷物無しであった。
一番物を背負わされていたパルテティオは怒っても良いだろうが、「ったくよぉ……」とげんなりした様子を見せるだけで、本気で咎めることはしない。
これではどんどん調子に乗っていくだろう。
「もう、ソローネったら。あんまり男の子たちをいじめちゃダメよ。次からはもう少し荷物を減らすようにね」
「めっ」と人差し指を突き出すのと同時に、被さった布から横髪がふわりと揺れる。最近加わったばかりの薬師のキャスティは、自身と歳が近いようでいて、母親のような包容力を感じさせる。
「はーい。分かったよキャスティ。傷の手当てしてくれてありがとね」
「いいのよ。助け合いだもの」
先ほどとは打って変わり、従順たる少女へと様変わりしたソローネに対し、柔らかな言葉と相好で返す。
彼女に関しては(恐らくは)旅慣れしている薬師ということもあり、そこそこの荷物であるが徹頭徹尾平気そうにしていた。
あの重たい斧を振り回すくらいだ、テメノスよりかはよっぽど逞しいだろう。
だが、それよりも……
「オイ、俺らと態度違いすぎだろ!」
パルテティオと同じ事をテメノスも思っていたところだ。同感だと深く頷く。
ソローネはどこ吹く風で口笛なんぞ吹いている。
「まあ……戦闘ではかなり助けられたのは事実ではありますが」
視界の良すぎる砂漠において魔物から逃げ仰るのは難儀する。荷物も多く、駱駝は手放せない。
そんな中で、ソローネは率先して魔物の相手をしてくれていた。
この点においては、彼女は良い仕事をしてくれていたのだ。一概には責めきれない。
「お、分かってんじゃん。そうだよ、私はこのために——」
だが、自分はそう甘くはない。この目を眇め、彼女を見据えてやる。
「交代交代でやれば良かったことですよ。次からはそのつもりでいてくださいね」「ちぇっ……」
いじけたように捉えられるが、反省しているかは怪しい。
この盗賊には逐一手を焼かされると、同意を求めてパルテティオに視線を向ける。
だが期待していたものは返ってこない。それもそのはずだろう——「なあ、キャスティさんよ」彼は薬師ととっくに並んで、足を動かし始めていたのだから。
「あら、キャスティでいいって言ったでしょう? パルテティオ」
張り付いた横髪を耳にかけ、キャスティは彼の方に向き直る。暑さで頬が薄ら赤いのが、肌の白さも相まって顕著であった。
「……キャスティ。俺からも礼を言わせてくれよ。あんたが作った特製の果実水、すげえ美味かった」
パルテティオの焦がすような太陽よりも眩しい笑顔を真っ向から受け止めてしまえば、眩しさに目を細めたくなる。
それはキャスティも同じようで、されど、快いようにまなじりを緩めた。
「ふふ、良かったわ。砂糖と少量の塩と、レモンとハーブで風味付けしたものよ。脱水対策にはうってつけなの」
なるほど、あの飲料水から塩味を感じたのはそのためであったのか。慣れない味であったが、疲れてくるうちに甘味の方が強く感じられた。
砂漠の灼熱たる環境下に合わせて拵えられた代物、薬師の含蓄の賜物である。
側から耳を傾けながら、感心のあまり何度も頷きたくなる。
「新鮮な水を仕入れて、キャスティのやってる調合で旅人向けに売り出したらいいかもな」
「あら、いいわね。砂漠で倒れてしまう人が減るもの、作り方を教えても良いわよ?」
二人の応酬は弾む。テメノスが先導するはずが、いつの間にか談笑に花を咲かせる彼らの後に続く形となっていた。
「いいのか? そうだな、まずは宿場に置いてもらって——」
皮肉の一つもない会話というのもご無沙汰だろう。
砂混じりの乾き切った空気に、清浄さが吹きつけるようである。
「はぁーあ。態度が違うのはあんたもじゃないのかねぇ? パルテティオ」
断ち切るようにソローネが悪態を吐く。
キャスティのような人物と向き合えば、毒気も抜かれよう。
こればっかりは本人の人となりに依るものだ。
「あなたに向けてのは日頃の行いによるものですよ」
すっかり薬師との会話に夢中な彼の代わりに指摘してやれば、彼女は一瞬、苦い顔をしてみせた。
そこから暫しだんまりで、後ろ手を組む。静かなる足取りでついてくるかと思えば、僅かにその唇が動いている。それを認めたテメノスは、耳を傾けた。
「あーもう本当やになっちゃうなあこの神官様は。大人気ないし童顔だし白髪だし? レディにも優しくないし?」
放っておけば言いたい放題である。テメノスは彼女を睨め付けてやる。「聞こえてますよソローネ君」
怯む事無く、ソローネも横目にぎろりと視線を寄越す。
こんなやりとりも何度目か分からない。喧嘩、といえばそうなのかもしれないが、そのまま別れることもない。
「あんた、さぞかしモテなかっただろうね」
棘のある言葉だが、特に自身には突き刺さらない。テメノスはかぶりを振る。
「別に、興味もありませんし、私は聖職者ですからね」
好意を寄せられた事があるが、自分がそれと同じものを返せたこともなく。それよりかは気の置けない友人を大切にしたいとテメノスは考えている。否、あまり自他共に深い部分に入り込みたくはないという、そういうのはある。だがそれはもう、年月を重ねてこびりついたもので、そう易々と変えられやしない。
「私を女扱いしないのも、それが理由ってわけ?」
探るように、顔を覗き込まれた。まともな回答を待っている時の、彼女の仕草である。
男と女の溝は深い——体はおろか考え方や、頭の作りまでも違うという話を書物で読んだ事がある。ゆえに気を遣って異性には接する。もはや無意識の領域に近い。
だがソローネに対しては、顔を合わせて早い段階で隔たりもなかったように思う。
今まで別段、意識もしてこなかったことだが、言われて初めて気付かされる。
「……どうでしょうね。あなたと私という人間性や互いの相性も根底にありますから。仮に私が別の職についていたとしても、ソローネ君のことは変わらずに接していたように思います」
友人とはまた違うような、相棒と呼ぶにはまだ、少し遠い。だがいずれそれに至れるような、そんな関係と呼ぶべきか。
あくまで、テメノスの所感に過ぎないが。
ソローネはまた文句でも垂れてくるかと思いきや、その目を丸くして、途端に綻ぶ。
「ふぅん……そっか。あんたムカつくところも多いけど、そのまんまでいてね」
彼女は先ほどまでとは打って変わり、上機嫌となる。足取りも軽やかに映る。
「……? 何です、急に」
頭上に疑問符がいくつも浮かべるテメノスであったが、すぐにパルテティオがこちらを呼んでいることを認めて、自ずと意識が向く。
「おい、二人とも。また軽口叩き合ってねぇで、まずは四人でも休める宿を探そうぜ」
ああ、そう、宿を取らねば。
その事を知覚すれば、蜃気楼を生み出す様なむわりとした熱の塊が自身を取り巻くようであった。
飽きることなく熱線を注ぎ込む陽の光が際限なく自身の体力を削り取ってくるのだ。
涼しい室内で過ごしたい。その欲がもたげてくる。
「ええ、そうしましょう。私はもうくたくたですので……」
☆
結論から述べると、四人向けの宿を取ることは出来た。二人一部屋という制約はあるが、その点に対しては不満などは一切ない。元々想定していたことだ。
テメノス達は部屋に荷物だけ置いて、話し合いの末にこの後は自由行動という運びとなった。
ソローネはまだ砂漠の秘宝とやらを諦めていないらしく、情報を集めたいとキャスティの腕を引いて行ってしまった。
パルテティオは商売人の優れた目を光らせ、彼女の後を追うようにして一人、町中を駆けて行った。
若いものはとにかく元気らしい。
テメノスも誘われたが、もう少し涼んでからにしたいと、部屋に残った。砂糖の効いた飲み水は満腔の清涼感がつま先にまで染み渡る。
呼気を吐き出し、寝台に四肢を広げたくなるのを抑えて、とりあえず椅子に背中を預けた。
「少し、だけ……」
最後に呟いた言葉は恐らくそれだった。
ゆるやかなる睡魔の揺籠に、一度でも身を預けてしまったのなら最後。
フッと意識が呼び覚まされ、外を見ると夕刻を迎えていた。
結局、少し休むはずが、午睡を満喫してしまったのである。
身体は随分と軽くなった代わりに、後悔は腹の底から湧き上がってくる。
寝起きでふらつく身体に鞭を打ち、神官のローブを引っ張り出す。
既にほぼ日没ゆえ、熱感は幾分か和らいだ。けれども、やはりこの砂舞う独特の空気感は口を開くのも憚れる。
食事する旅人の姿が天幕の隙間から除く。杯を交わし合い、風変わりな装いの——おそらくこの周辺の兵士らが豪快な笑い声をあげているのがこちらにまで聞こえてくる。
街の奥地にまで歩みを進めようとした矢先、卒然と何かが倒壊する音があたりに響もす。乗じて悲鳴もまた、それに混じり合う。
反射的に身体を向ければ、割れた陶器や倒された卓などが無惨に転がっていた。
「オイッ! テメェこらふざけやがって!」
無駄によく通る罵倒が砂風を掻き消す。黒い陣傘を被った粗野な兵士たちが三、四人ほど。簡素な着物に身を包んだ男女に、恫喝しているような様子が見て取れる。
離れた場所から外野がこぞって彼らを見るので、周囲は漂白されたようにまっさらに映る。
人々は何か囁くなり離れていくような素振りを見せはするも、近づくような気配はない。
「クッソ不味い飯食わせやがって! どう落とし前つけてくれんだ? アァ!?」
痩躯の男の襟首を掴み、男は唾を撒き散らす。
テメノスはゆっくりとその足を動かし、手短な断りを入れつつ人々の隙間を縫う。
「おいおい、また難癖つけてやがるぜ」
「シッ、○国の兵に刃向かえば打首にされるぞ……」
周囲の喧騒から聞き取れる内容で、何となく察するものがある。
自分の性質柄、このような厄介毎に自ら首を突っ込むようなことはしない。
言い聞かせつつも、せめて、近くで様子を伺うくらいは——心の呟きに反して、杖を握る力は強まっていた。
「聞いてんのか、テメェ!」
「ひっ、ひぃぃ……っ! も、もうしわけ……っ」
顔面蒼白で、震え上がった男はもうまともに言葉も紡げない状態だ。彼の奥方らしき女性はしとどに涙で頬を濡らし、見上げることしかできないでいる。
人だかりとまっさらな砂面の境目を跨ごうとしたその時、ざわめきがいっとう濃くなった。
波が動き出すので、テメノスは咄嗟に前へ躍り出る。
視線を一斉に浴びるかと思いきや、そんなことはなく、彼らの注目は別に向いているのだと気がつく。
どうやら、人々は通り抜ける何者かのために、道を開けているようだった。
「あの紋章……ク国の人間か?」
「そんなわけ……あそこは内乱で」
「女が兵士の真似事か?」
姿を確かめようにも遮られてままならない。漸く黒山を抜け、テメノスの対角線上へと姿を露わにした時。
その人物はふと、足を止めた。
定められていたかのように、目と目が合う。
澄み切った黒とそれから、凛然なるいでたち。なるほど、多くの意識を惹きつけるだけのことはある。
漆よりも深い黒髪を蓄え、赤い装束に身を包んだその剣士は、誰かが話していたように、体躯の華奢さも相まって、女性に見えなくもない。
「……そなた達、斯様な狼藉はよせ」
だがその声が鼓膜を振るわせれば、もう誰も疑いなどは抱きやしまい。
一切の怯えもなしに、剣士は兵士らを鋭く見据えた。
「あぁ? 何だテメェは……」
掴み上げられていた男が雑に振り落とされる。剣士はそれをすぐさま支えてやり、声を掛けてやっていた。
だが、その間に、男らは帯剣を抜き取らんとする。
テメノスはすかさず魔力を練り上げる。この位置からならば光明魔法を撃ち込むことは可能だ。しかし——
「一人で来るとは怖いもの知らずだな。しかもチビときた」
「着てる服も上等だな、剥いでやろうか?」
下卑た笑みを浮かべ、男らは一様に剣を抜き取る。
彼は丸腰だ。この状態では真っ向から振り下ろされた剣を受けてしまう。
「……剣を抜いたな。ならば容赦はせんぞ」
男の黒髪を砂混じりの風が徒にたなびかせる。片手には剣の鞘を握り、銀光の鱗片が姿を見せるが、それでも間に合わない。
「聖なる盾よ——」
その剣士はもう一方の空いた腕で庇うような構えをとる。
咄嗟の防御手段として装着していた上腕部から手の甲までを保護する籠手で防がんとしたのだが、テメノスはそれを把握できてはいない。
すぐに詠唱を完遂させ、盾を生み出さんとする。
強度の高いそれをすぐに作り出すのは、今の自分ではまだ、少し心許ない。が、出現自体は叶った。
ごろつき兵士の横薙ぎによって、薄青の盾は砕かれた。溶けた魔力の粒子が飛び散り、煌めいては消失する。
「……なんだ!?」
彼らが動揺を見せるその隙を把握していたように、赤き剣士は後転し、刀を引き抜く。
業物の輝きが切先から根元まで流れゆく。その洗練された所作に半ば見入っていると、男から口火を切った。
「助かる、旅の御仁よ」
先程とは打って変わり、青年はテメノスに向けて穏やかなる笑みを差し向けた。
助力を施した自分に対する——親切心に対する純粋なる感謝と好意がありありと窺えて、少し、たじろいでしまう。少なくとも、初対面の人間に向けるものではないだろう。それか、自分の思い違いか。
言葉を忘れかけて、咄嗟に——ありふれた展開を実現するための、陳腐な提案が口をついて溢れた。
「……よければ助太刀、しましょうか?」
ひそめたようで頼りなさげなテメノスのそれも、青年は掬い上げて、力強く頷いてみせた。
「心強い……頼もう」
途端、赤の残滓が前髪を揺らす。
出鼻を挫かれた男どもは対応するが、舞い踊る銀光に、翻弄されていた。流麗でありながら比類なき力の籠った一撃一撃が、彼らを着実に削いで行った。
「強い——」誰かが驚嘆をあげる。いっそ芸術的な太刀筋だ。ため息さえ漏らすほど。
赤の剣士が目配せする。今だ、と訴えかけられていると判断したテメノスは、聖典を紐解く。
紙面から溢れる青い光を軽く振り払い、光魔法の祝詞を指でなぞりあげる。我ながら、朗々と、それを読み上げる。
「聖火の光よ、輝きたまえ——」
聖火を崇めるもののいないこの砂漠の地でも、光の槍は降り注ぐ。男らは無慈悲なる神の裁きに、泡を吹いてその場で気を失ってしまった。
その後、駆けつけてきた警邏と上官らしき兵士達へと男達を引き渡す運びとなった。
男らはテメノスの神官服を不躾に見つめ、鼻を鳴らして去って行ってしまった。
詮索されるよりかは、よほど良いだろうと考えることにした。
「皆、怪我は無いか? ……その足裏の切り傷、念のため薬師に見てもらうと良い」
青年に手を差し出され、腰を抜かしたままでいた宿の主人は慌てた素振りで立ち上がる。
「い、いえ、この程度……! 唾でもつけておきますゆえ」
「だが……」
青年の視線が落とされる。砂に血痕が点々と染みを作っている。
散乱した陶器の破片で、足の裏を切ってしまっていたらしかった。
この程度の傷であれば、自分の回復魔法で癒せるだろう。テメノスはその場に一歩踏み出た。
「それでしたら、私が治しましょうか。これも神のお導きですから」
宿屋の主人に向け微笑みかければ、彼は戸惑いの色を滲ませ、声を震わせた。
「……あ、あなたは?」
「そうか、そなたは……」
一方で、青年は納得したように自身を見上げる。テメノスは錫杖に両手を添えた。
「ここらでは珍しいでしょう。私は旅の神官です。回復の魔法ならお任せください」
要領を得ない主人の代わりに、青年が頷く。
「ああ。厚意に感謝する……よろしく頼もう」
テメノスは早速、両手指を絡ませる。
聖火を司る神に向け、定められた祝詞を唱えながらも、そこには直向きな想いも乗せる——それが、祈りというものである。
癒しの奇跡が呼び起こされたことで、宿屋の主人の周囲を、淡い緑の光粒が螺旋を描き、取り巻く。
「す、すごい……っ!? 急に体が暖かく……足の痛みもなくなりました」
足裏の傷は跡形もなく消え失せている。主人はその場を跳ねたりして、高揚し、テメノスに頭を下げてきた。
けれども一番の効能は、先程までの恐怖や強い緊張がほぐれたことだろう。
もうすっかり元気を取り戻した彼を、奥方のところへ帰してやる。
「また来られる際はぜひうちに泊まって行ってください! 宿代は要りませんので」
そう言って手を振る彼の暇乞いと身振りに応えてやり、まだ幾分か騒々しいこの場から撒くようにして離れた。
☆
リューの宿場の南方には中規模程度のオアシスの湖がある。
テメノス達が砂道をひたすらに押し進めていた昼頃。河の水音を拾った途端、街が近いのだと歓喜を覚えたのが記憶に新しい。
日中は深い青を落とし込んだような色合いだった水面は、今はもう、境界線すらも定かでないほどの、宵闇に溶け込む濃紺へと変質した。
その中で、水上に浮かびゆく小舟のシルエットが一つ。
冷風が顎元を撫でつけた。テメノスは意味がないと分かっていても、ローブをきつく締めた。
なんとなく、緊張しいな自分がいる。
それはこの場に純然たる静けさが佇んでいるからか、それともこんな、夜空の海の真ん中に取り残されているからだろうか。
どちらでもなく、目の前に青年がいるからか。答えは、全てだろう。
テメノスは本来ならば、夜が迎えにくる前に、ソローネ達と合流する予定だった。だのに、惹きつけられるようにして青年の誘いに応じてしまった。きっと、魔が差したのだろう——そうとも言ってしまわねば、理由なんて、見つけられそうもない。
木板の軋むような音と、水音が一定の間隔でこだます。
際限のない波紋が、水面に描かれる。行先は、あの急な交配を超えた先にある、高台、らしい。というのも、青年の希望でそうなった。
初対面の相手と、小舟を漕いで、夜の景色を拝む。旅をしていれば、こんな経験もあるものなのだろう。
テメノスは手のひらから少量の魔力を送り込んで、聖火を模った部分に仄かな明かりを灯した。
鈍く進みゆく小舟の周囲を、白味のかかった青が照らす。
青年はそれを感心したようにまじまじと見つめて、細かな粒子を指に絡め、「暖かいな」と溢した。
「申し訳程度ですが、月明かりだけでは頼りないですからね」
言いながら、夜空を仰げば、月が見事な円形の輪郭を保っていた。それが一縷の筋となって、水面の模様を浮かび上がらせている。
テメノスは何か話題を探そうとしたが、なにぶん、気の利いたものは思いつきはしなかった。
普段は威勢の良い商人と、揶揄ってくる盗賊のお陰で賑やかなもので、テメノスはそれをこよなく好んでこそいるものの、穏やかな静寂が嫌いなわけではなかった。むしろ、何か考えるには、余計な音の入らない場所が心地よいから、このままでいいとさえ思える。
こんなに大人しい空間はいつぶりだったろうか。
青年の表情に、気まずさなどは窺えない。ただ、黙々と波紋を生み出しては、掻き消す。
「……そういえば」
はたと櫂を動かす手が止まる。小さな雫の弾ける音が一つだけ零れ落ちて、あとはだんまりとなる。
「今更で面目ないのだが、そなたの名を聞いていなかった。俺のことは、ヒカリと呼んでくれ」
柔らかな綻びを湛えて、青年はその手を差し出した。
不思議な響きだ。その意味すら知らないが、青年を名付けるのに相応しい——そう感じた。
「いえ、こちらこそすみません。私はテメノスと申します。どうぞテメノスと」
彼の目を見て応えれば、思いの外力強く握り込まれた。
ぬるいような、冷たいような。革の硬い感触もある。
「ではテメノス。そなたにいくつか聞きたいことがあるのだが」
「聞きたいこと、ですか?」
尋ね返せば、彼は親しみさえ籠ったようなまなざしをそのままにうべなう。
「ああ……その、俺は神官が扱う魔法を目の当たりにするのは初めてでな。これまで町で見かけたことはあったのだが、間近では見たことがないんだ」
どこか気恥ずかしげではあるが、そこにあるのは混じり気のない興味関心だと受け取れる。
それにしても、意外だ。彼はどこまでも、気軽に接してくる。
テメノスは彼の正体——というと大仰だが——恐らくは、否、ほぼ着実に。ヒカリはやんごとない身分だ。町人達の囁きから、もう察しつつあるが、ただのお貴族様ではあるまい。それこそ……
頭の中で展開される余計な詮索を飲み込んで、テメノスはできるだけの穏和な笑みで返す。
「構いませんよ。可能な限りお答えします」
「では。あの盾を出現させる技も聖火神の恩恵によるものなのだろうが……魔法も防げたりするのか?」
守護の聖盾のことだろう。テメノスが咄嗟に発動させたものだが、いたくヒカリの関心を惹きつけたらしい。
「ええ、勿論。ただ、込める魔力の量によって靭性が異なるのと、一度きりという制約はありますが」
「そうか。あの時、完全に刃を防いでいた。そなたの腕が良いのだろう」
純粋な賛辞を真面から渡されて、悪い気などするはずもなく。それに、テメノスはこういった、まっすぐな人の向ける好意には、少しだけ弱かった。
「実はあれ、結構難しいのですよ、完全な聖盾を出現させるのは。今回は上手くいったので、ホッとしているのです」
なのでつい、言葉が滑らかになる。
「そうなのか?咄嗟に生み出しているように見えたが」
それにこのヒカリという青年、存外良い反応をする。表情が硬いように思えて、柔らかに笑うし、驚きもする。言葉数が多いわけでもないというのに。いわば聞き上手、とでもいうべきか。
「その咄嗟が難しくて。例えばこの杖のように、媒介するものに直接流し込むのは容易いのですが——」
その後もヒカリはいくつか神官の扱う魔法に関する質問を重ねた。
テメノスはその都度、懇切かつ丁寧な返答を心がけた。
酒場でやるような、言いたいことをぶつけ合うような、そんな応酬とは程遠い。互いの発するものひとつひとつを噛み締め合う。たおやかなる湖に相応しいような、そんな会話のやり取り。
小舟は緩やかな進行の末、ようやく向こう岸に辿り着いた。
流されてしまわぬよう紐で括り付け、テメノスはバランスを崩さぬよう、杖で支えながら砂上に降り立った。
先の景色に目を眇めれば、幾分か急な勾配がカーブを描いていた。あれは、想定よりも骨が折れそうだ、なんて思うのに、引き返そうとはしない。
強めの風に、ローブがはためき後退させられる。杖を掴む手を離さぬように堪えつつ、彼の後を追う。
やはり砂の上は歩きにくい。風通しも良いから尚更。
ヒカリが足を止めて、テメノスが隣に来るまで待っていてくれていた。
ペースを落として、ゆっくりと、前へ、頂上を目指す。まだ先は長そうだ。
「……そなたは東の大陸から越してきたのだったな。フレイムチャーチ、だったか。どんな町なんだ?」
日中とは打って変わり、灰色の砂が薄い霧のように舞う。
それを互いに庇い合いながら、尽きない会話をまだ、咀嚼しにゆく。
「外からやってくる人たちの言葉を借りるなら紅葉美しい、大聖堂のお膝元……ですかね。そんなに大きな町ではないですよ」
何せ長く育っていた町ということもあり、あまり客観的な印象は語れない。
なので他人の表現を拝借させてもらった次第である。
「紅葉か。それに、大聖堂……どちらにも俺の故郷にはないものだ。興味深い」
砂漠で育ってきた人間ならば、外の緑豊かさや、海などの景色はさぞかし色鮮やかに感じられるものだろう。
「私からしたら、あんまり面白みもないのですけどね」
もう何度繰り返し眺めたかわからない、赤と橙、黄の紅葉。それが枯れゆく様。
そして大聖堂の、精霊石を惜しみなく使い込んだステンドガラスは、見るものに感嘆をもたらすが、テメノスもこれは、見慣れてしまっている。
嫌いなわけではない。ただ、過ぎゆく年月を数え飽きたというだけだ。
「だが、生まれた土地と友たちがそなたを形作っている。尊いものだ」
「……」
ヒカリと目と目があって、テメノスは言葉も紡げぬまま、視線をそっと逸らした。
際限のないまっすぐさは、時に火傷しそうになる。
「友……ですか」
その響きは、自分の思考にまで侵食する。脳裏にチラつく色褪せた記憶に意識を背けるようにテメノスはローブを握る手を強めた。
「どうかしたのか?」
夜は、要らないことにまで考えが及んでしまう。暗闇は人間の本能的に不安や恐怖などを駆り立てるものだと、誰かが言っていた。
上目に自身を窺う彼に向けて、テメノスは咄嗟に誤魔化す為の言葉を探し当てる。
「ああ……私には今、共に旅をしている友……仲間がいるので、そのことを」
ひそめたような声色で言いながら、歩く速度が緩んでしまっているのに気がつく。力を振り絞って足を動かせば、冷たい砂が僅かに入り込んでくる。
「なんと。そうであったのか」
ヒカリは意外であるかと言うように、驚きを滲ませた。
さりげなく歩幅を速め、自身に並ぶ彼を横目に、テメノスは今はこの場にいない仲間の顔を思い浮かべた。
自分が思いもしないところにいるその瞬間に、彼らは同じ空の下で何をしているのやら。なんとなく、見当はつく。
「彼らは、自由なもので。今は酒場にでも、よろしくやってるのでしょう」
パルテティオのおかげで資金も貯まったし、景気付けに一杯やっているのだろう。容易に想像ができてしまうから、自然と口元が綻ぶ。
「……なんだか賑やかそうだな」
「ええ、とても。お陰で退屈しませんよ」
本当に、心からそう思う。この旅路が思いの外明るく和やかなのは、彼らの存在あってこそだ。
最後の坂道を前にした時、ヒカリはふと足をとめた。
手に持った杖の明かりが、彼のかんばせをぼんやりと照らす。陰りと白むところが、揺らめいてあえかに感じられるのが不思議だった。
「テメノスよ、良ければ聞かせてくれぬだろうか。そなたがこれまでどんな旅をして、如何にして仲間と出会ったのかを」
テメノスの方を向いて、彼はまた微笑みかける。
いろんな話をしたが、まだその核心には、触れてこなかった。
手のひらに包まれたようなそれを放つ時、契機が訪う——そんな漠然とした予感を直観的に覚えてきたがゆえに。
意識的に瞬きを繰り返す。密やかなる吐息が微風に溶ける。
「ええ。構いませんとも。少しばかり、長くなりますが」
旅路のことは何度だって話飽きない——面白おかしくでも良いし、大仰に、ドラマティックでもいい。ストーリーテラーになったような気分で話すのは、仕事柄、下手でないはずだ。
そこまで思い至ったところで、テメノスは自分がこれを訊ねられたがっていたことを知覚させられる。
自身の胸中を知ってか知らずか、ヒカリは忍ぶような足取りで前へ踏み出す。
テメノスは立ち止まったままに、ささやかな懸念を口にする。
「頂上に辿り着くまでに、話し終えられるでしょうか」
「問題無い。ゆっくり歩けば良いのだから」
心なしか彼も期待しているような台詞と仕草。
少しだけ安堵する。自分の熱量との剥離があっては、空回りするばかりであるから。
「おやおや……それでは一歩一歩が亀のようになってしまいますよ?」
「それでもいい。俺は、そなたの話が聞きたい」
親しい人にするが如く、彼は促す。
一体どうしたって、自分に拘泥するのだろう。理由なんぞは分からないが、快くはある。
疲れを感じ始めていた脹脛が軽くなる覚えがした。呼吸も穏やかで、この先も、なんてことのないように思えた。
☆
「——そして今、この町に至るわけです」
高みの場所へと、辿り着いたちょうどその時、テメノスは長い旅話を終えた。
風が鳴り止んだのを認め、フードを脱いだ。生き物の鳴き声ひとつもない、静謐の支配する世界はいっそ非現実的であった。
街の景観を一望できるほか、遠くには昼間は黄土色だったであろう、灰の砂山が連なっている。あそこを超えてきたのだと思うと、自身を労いたくもなる。
「……長旅、ご苦労だったな」
「どうも。でも、まだ先は長いですよ」
「それでも、労わせてくれ。そなたの旅の話は、価値あるものだ。この俺に共有してくれたことが、光栄であるほどには」
じっと眼前の砂世界を眺めゆくうち、いつの間にかヒカリは肩一つ分の間を開けた隣にまでやってきていた。
身に余ることを言ってのける彼は、最初から最後まで、こんな調子だ。嘘偽りがないことは、もう十分すぎるほど伝わっている。
「……そう言ってくださいますか」
最後の方は掠れ声となる。
存在感を放つ、上空の満月に、意識を奪われたがゆえに。
故郷や旅路で見たような金色ではなく、冴えた白銀色がぽっかり浮かんでいるのだ。その窪みまで見ゆるほど近しいことは、これまでにない。未知との対面にすら思えた。
見惚れるがあまりの半ば呆然とした返しだったが、彼は力強く頷いた。
「ああ。旅は楽ではないだろうが、少し、気が楽になった」
「お力になれたのなら、幸いです」
そう返しはすれど、彼の口吻がどこか引っ掛かるように思えて、テメノスは彼へと意識を引き戻した。
発言に反して、あいもかわらず彼は泰然とした佇まいで、どこか遠くを見据えている。
少し長いまつ毛や、横髪が微風に揺れた。彼のために吹きつけるようなそれは、銀の粒子を含んで、彼を彩らせた。絵になる程美しい。
テメノスの仮説に倣うのなら、高貴たる人間然とした一人の美丈夫。その完成形がそこにある。
一端の神官でしかない己が、独占が如くに眺めてしまって良いものなのか。そんな疑念すら湧き出るほど。
けれども、これほど頼りになる明かりがあるのだ。気付かれないように意識しつつも、好奇心に後押しされるまま、視線を行き渡らせる。
随分と軽装なのだな、と思う。戦う分には十二分なほどだが、身につけている荷物が、体に巻きつけたそれだけというのは、心許ない。
大体、こんな雅なる青年が、砂漠をたった一人で彷徨って良いものなのか。
余程訳ありなのだろうが、だとしてもだ。
ある程度察しがつくからこそ、危ういものがある。
この青年は何を抱えているのか——本格的に暴くのも良いのではないか。脳裏にそんな誘いの囁きがこだます。
いや、しかし——此度の出来事は、偶然かつ刹那の時間として、自らの記憶に押し留めておけば良い。波風立たないのが望ましい、そうに決まっている。そう言い聞かせる己も、確かにいるのだ。
これ以上踏み込めば、後戻りは出来なくなる。
最終的に、テメノスは、その警告を振り切った。
理屈はない。ただ、そうしなくてはならないと思った。それだけだ。
「……ヒカリ」
そうして、まだ片手に収まらない彼の名を口にした。
慣れない響きはぎこちない。ヒカリは双眸を僅かにゆらめかせ、こちらを見遣った。
「あなたの話も、お聞かせ願えないですか?」
「俺の、か」
眉宇がほんの少し曇る。逡巡が伺えた。
その身にどれほどのものを背負っているかは、知り得ない。
「ええ。私の話をたくさん聞いてくださったのですから、あなたも……でないと不公平でしょう?」
テメノスは敢えて悪戯っぽく笑みを作った。盗賊がよくやるようなのを、参考にして。
ヒカリはその目を瞬かせて、少し考えるような仕草を見せたが、やがて首を縦に動かした。
「……そうだな。そなたにならばよかろう」
了承こそ頂けたが、その表情は冴えない。
無数の星空が瞬く夜の絵画を背景に、テメノスは彼の話に耳を傾けた。
しばしの空白の時間の末、彼は重たい口を開いた。
「俺は、国の名を生まれながらに賜っている」
ヒノエウマの大国・ク。ヒカリは王族と平民の血を継ぐ第二王子にあたる。
戦争を続けてきたク国であったが、ある時を境に、休戦と他国との和平を積極的に締結する動きが見られるようになる。
ヒカリはこの四年、城下町の領主を任されていた。戦争なき間は、平和……いわば小康であったが。水面下で反乱を企ていたムゲンにより、それも潰えた。
滔々と、だが雪崩れ込んでくる情報を頭の中で整理し、組み立ててゆく。
自身の予測通り、ヒカリは王族であった。その所作や言葉、裡に秘められているであろう確固たる信念、身なりに加えて、町の人間の話から程度推察できていた。
そして反乱。これも町人らが囁いていた。未だ明かされぬ、彼がここにいて、旅をするその意義と結びつけると、推理するのは、容易い。
だがテメノスが自ら言葉にすることはない。
ヒカリが、彼自身の意思で語っているのだ。苦痛を纏わせたとしても。懸命に。
「街は……無惨に燃えた。友の命は、剣に、炎によって失われたのだ」
強く握り込まれた拳が震える。
感情を押し込めるようなその音色が、彼の隠されていた脆弱な部分を現しているように思えた。
「俺は父に、友に託されて今がある。必ず、祖国を取り戻したい」
それが、あなたの本懐なのですね。
伝える代わりに、ヒカリを見た。
果てしなさと人間の矮小さを無慈悲に叩きつける無限の星々と、それから宵闇。打ちひしがれてしまいそうなそれを前にしても、彼は遥か彼方を見つめている。
眩しい、そして、強い。テメノスはその目を細めた。
近しい人を失う痛みを、テメノスはよく知っている。同時に、一度刻まれた深傷は決して払拭などされず、残り続けることも。
現に、彼の手は、震えたままであった。彼の心は、目に見えないところで、激しく揺れている。
だが、彼はそれ以上に、澄み切っていた。朗々と、理想を謳うのだ。ああ、だから。それがどうしようもなく、眩しい。
「俺の旅は、かつての仲間達を集めるために。ク国の未来のために」
話し手が口を動かすことを辞めたことで、静けさがたちどころに押し寄せた。
ヒカリはただ、変わらぬ横顔を晒して、黒髪を波打たせている。
重苦しい空気が皮膚を撫でる。テメノスはこれまでになく、言葉に迷った。
あなたならば、王になれる。そんな激励は、全くもって、無責任だろう。『どうかあなたに、聖火のご加護と祝福のあらんことを——』そんな祝詞と祈りとともに、彼を送り出そうにも、喉元で阻まれた。
このまま翌日になれば、きっと彼と会う事もない。ひとときの思い出として、時間と共に削ぎ落とされながら、それでも頭のどこかに残り続けるのだろう。
それでも良いだろう、良いはずだ。だが……
「……そなたさえ良ければ共に、行かないか」
「え?」
不意の誘い文句に、テメノスの躊躇いは容易く掻き消されてしまった。
気のせいか、今度はぎこちがないように、彼の手が差し出される。
「俺にできることと言えば、そなたや仲間たちのためにこの剣を振るうくらいのものだが……役には立てるはずだ」
つい、彼を注視し、その挙動を目で追う。
心なしか緊張している様子だった。
「そなたが、まだ仲間を引き入れる気があるなら、だが……どうかしたのか?」
心底不思議だというふうに、首を傾げる彼に、いよいよ張り詰めていたものが弛む覚えがした。
簡単なことだったのだ。
広大な砂漠に王子一人、取り残さない方法。それから、この、取っ掛かりをどうにかするには。彼を、迎え入れてしまえばいい。
「いえ、とても頼もしいなと思いましてね」
こちらの返しに、ヒカリはただ、純粋に驚き、喜びさえ滲ませた。
「良いのか?」
「勿論。一人より仲間がいた方が、ずっと心丈夫です。旅は助け合いですから」
テメノスは、彼の手を握った。もう二度目のそれは、身体の芯から冷えが和らぐようだった。
「……ありがとう。そなたや、仲間と共に行けること。嬉しく思う」
噛み締めたような謝辞を溢し、はにかむように彼は破顔した。いとけないようなそれは、今しがた初めて見つけた、年相応な部分に感じられた。
解かれた手を宙に浮かせたままにしていたのに気がついたテメノスは、咄嗟に引っ込める。
「……今宵は月が綺麗ですね」
気まずくなり、テメノスは視線を彷徨わせた末に幻想的な月夜へと着地させた。景色を楽しむ風を装い、誤魔化すために放った一言であったが、彼の返答はない。
「……」
「こんなに近くで見たのは初めてかもしれません……ヒカリ?」
ヒカリはまず咳払いして、あれほど真っ直ぐだった黒い瞳は忙しなく、揺らめかせた。目に見える動揺と戸惑いが窺えた。
凛とした、この短い記憶で知っている彼の姿が、また隣で佇んでいるのだろうと信じてやまなかったテメノスは、意表をつかれた。
「ええと、どうかいたしましたか?」
何が彼をそうさせたのか、判然としない。テメノスが顔を覗き込もうとすれば、彼は後退して、それ以上近づかせてはくれなかった。
「……いや、なんでもない。この町へ来るのは久方振りだが、人が変わっても空の美しさは変わらないな」
声が少し震えているのを除けば、まるで年嵩の者が言うような台詞に思える。テメノスはそれを少々おかしく思いつつも、首肯する。
「そうですねぇ。ですが、自然物も気付かぬうちに、変化を遂げているものです。人は……変わらないわけにはいかない、そういう生き物ですから」
いつだって、時間も出来事も、自分を待ってはくれない。徒に揺られては、前に進むことを強いられてゆく。
「うむ。そうだな……上手くは言えないが、分かる気がする」
柔い冷風により視界に降りかかる前髪を退かし、テメノスはそこの岩に立てかけておいた杖を手に取る。
夜は更けていくばかりで、この快さに身を預けていては、暁が来てしまう。
ヒカリも察したのか、角笠を掬い上げる。
「——この後は、どうします? 私の仲間にあなたを紹介しなくては」
「ああ。それは楽しみだ……だが」
少し間を置いて、ヒカリは少し気まず気に「実を言うと、俺はまだ宿を取っていなくて」そう打ち明けた。なんだ、そんなことかとテメノスは唇を波立たせる。
「おや、そうだったのですか。では、宿の主人に掛け合ってみましょうかね。あなたを砂漠に一人寝かせるなんてさせませんから、ご安心を」
下顎を撫で付け、部屋に三人でもよろしいですか、と尋ねてみれば、構わないと言う。ちょっとばかり冗談混じりだったのにも、関わらずだ。彼は、少しお堅いところもありそうだ。
「あなたをお導きしましょう。街の酒場までと言わず、砂漠の向こうの果てまでも。なんてね」
「ふふ……それは心強い。ぜひ、頼みたい」
次のジョークは分かったらしく、彼は和やかに笑って、テメノスの背後に着いた。
聖火の象徴を模る杖を掲げ、青く清廉なる輝きを灯す。それがパッと弾けて、ふわり穏やかな光球が降り注ぐ。
普段なこんな演出めいたことはしないが、明かりは必要だろう。先導するべく、前へ。
そういえば、砂漠に雨は、雪は降るのだろうか。
きっと滅多に訪れない。その証左とでも言うべきか——ヒカリの深い吐息がこぼれ落とされて、言葉にならない感嘆が、表情が露わとなる。
それを見ていると、心の内の形容し難い何かが、優しい輪郭を帯びてくる。
今宵の出来事は、どうか、価値ある記憶としてしまわれますように。ふとした時に、本棚から取り出して、余韻に浸れるような、そんな素敵なものであってほしい。
「そなたをどう名状すべきか、考えていたが……ようやくわかった気がする」
卒然と溢された彼の言葉に、テメノスは足を止めた。
「と、言いますと?」
その手が天に掲げられ、人差し指の示す方向を、つられて仰ぐ。
「テメノスは、月のような人だ」
遠く、掴み取ることの叶わぬ、幻のような衛星。彼は、自分をそれだと直喩する。
何を以って、と言う疑問よりも素早く、疾くと、閃く。
「私も、たった今、答えを得ました」
声にならない驚きを、彼は浅い呼気に混ぜ込んだ。テメノスは、月の裏にある強い輝きに思いを馳せるようにして、ヒカリを見た。
「あなたは——陽のような人だ」
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