あなたを呼んでいる黎明へ
決まった掛け声と共にグラスのぶつける音が、港町の酒場に響いて回った。
各々の酒が波打ち、樽のジョッキから雫が飛び出す。そして隠しきれない嬉々とした仲間たちの表情もまた、溢れた。
テメノスは新鮮なる心持ちでいた。こんな風に弾んだ空気を享受しながら酒を飲み交わすのは、いつぶりだろう。
「ん、……ここのプラム酒は甘くて美味しい。同じのでも飲む場所で味が違うの、面白いね」
黒髪と耳飾りを揺らし、艶やかな唇を拭う美女が、テメノスの向かいに。蛇という社会の陰りに根を生やす組織に属しながら、その檻を壊すことを望む。
フレイムチャーチから旅立ち、迷いながらも辿り着いた都会街で偶々犬を助けたのが彼女、ソローネとの出会いの始まりだった。
「っかあー!久々の酒はうめえな!」
さらに海を渡り、オアーズラッシュという小さな炭鉱町までやって来たら、大志を抱いた青年を招き入れることとなった。
彼はパルテティオ。将来有望な商人である。というのも、まだ共に旅をしてそう長くはないが、彼の優れた審美眼と対話力は既に十分堪能させてもらっているのだ、そう評させてもらっている。
テメノスは、グラス入りの葡萄酒を空気と混ぜ合わせ、少しずつ口に含んでは舌で転がす。その深みのある味わいに、愉悦の笑みを浮かべた。
「そういや、キャスティは?」
「街の人に捕まっていましたよ。そのまま一泊するそうです」
「随分と親しまれてんだねぇ」
テメノス達が船でカナルブラインへやってくる頃には、キャスティは街の人たちに囲まれ、その輪を抜け出すように街を後にする間際であった。なんでも、彼女は街に蔓延る感染病を治療はおろか病原となる魔物を倒し伏せたらしい。
テメノスはその話を聞き組んだ当初、いまいち要領を得なかった。
彼女の透き通るような白い肌と麗しいブロンドは、慈愛溢れる女性の容姿そのものであり、想像し難い。——実際に斧を手に取れば、その印象は儚く散ったわけだが。
「この街の救世主だって持ちきりだもんな。頼りになる薬師が俺たちに着いてきてくれるなんて頼もしいじゃねーか、なあテメノスさんよ」
「ええ、それはもう」
隣で屈託のない笑みを浮かべるパルテティオに諾う。
彼女の治療現場を間近で見させてもらったが、病状から的確な処置を見出し、一人で複数人分の働きをこなしてみせる。その卓越ぶりたるや、後から街に来た同業者も、感心を覚えるほど。テメノス自身も、そう数多くの薬師を見てきたわけではないが、彼女が格別なのはすぐに理解が及んだ。
「救世主といえば、テメノス、あんたもそうなんじゃないの?」
含んだ笑みで、ソローネはテメノスに視線を定める。何が言いたいかはわかるが、素知らぬ顔で肩を竦めてやる。
すると、しらばっくれるなと睨めつけられてしまった。
ソローネとは初対面時からなんとなく波長が合うため、今に至ってはもうこんな砕けた口調と、態度である。
しかし歳の差で敬われても居心地が悪いので、別に構わない。
「私は、仕事ですから。それに、クリック君やあなた方の助力があってこそです」
教皇、薬師、神学者ルーチーを殺めた犯人である建築士ヴァドスとの戦いを想起する。
クリックは、フレイムチャーチで初めて会った時は自分の後ろに隠れるなんてことをしていたが。此度の戦いにおいては勇ましく剣を振るい、自分を守るとまで豪語してみせた。
そして仲間達は言わずもがな、大変頼もしい。テメノスが一人でカナルブラインまでやって来ていたなら、悪戦を強いられたろう。
自分なりの模範解答に、「いんや」パルテティオはかぶりを振った。
「お前のあの推理がなけりゃあ、あのヘルメスって踊子も殺されていたんだ。それを食い止めたことは誇って良いはずだぜ」
パルテティオの言葉に、複雑な感情が湧き起こり、テメノスは返すものを途端に失う。
命一つ、守れはすれど、もう、いくらかはすり抜けてしまっているのだ。悔恨は初めてではなかれど、消えゆくものでもない。分解されてもなお、霧のように揺蕩うのだ。
ヴァドスによって、教皇は殺められた。ルーチーも息を引き取っていた。そしてそれを手引きする誰かがいる。これからも、繰り返すのか。巡りゆく疑問は、途絶えない。
「私は、自分のやれることをするだけです。それに、まだ真実には遠い」
言い聞かせるような口吻になる。
テメノスとしては此度の件は消化不良感が強かった。神学者ルーチーらを殺めた犯人であり、邪神の僕であるヴァドスを追い詰めたところまでは良い。
だが彼は意味深な言葉を残し、その場で気を失い仰臥してしまった。程なくして、聖堂機関の連中にヴァドスの身柄を捕えられ、悪態と共にその場に取り残された。
あの鴉はなぜこうも介入したがるのか。それも引っ掛かる——思考の海を漂い始めたテメノスの肩を、パルテティオが強く突く。「おいおい、あんまり思い詰めすぎんなよ?」
気心の知れた友人にするような、明るい調子で彼は親指を立てた。
根っからの性格なのだろう。本当に前向きな青年だ。
「それに、お前ならやれるぜ。俺らだってついてんだからよ」
その言葉も、根拠の有無に限らずありがたい。
彼のお陰で、湿っぽくならずに済んでいる。
ちなみにテメノスが深い長考に耽っていた際、彼は初めて目の当たりにしたため突然、立ったまま気絶でもしてしまったのかと慌てふためいていたらしい。クリックが共感し、宥めていたとかなんとか。ソローネが面白可笑しく話してくれたのが記憶に新しい。
「ふふ、ありがとうございます。頼りにさせてもらいますよ」
残りのワインを飲もうとして、空になっていた事に気がつく。この一杯限りなのが惜しい。
「それに——犬の嗅覚を舐めてもらっては困る。牙を使えば鴉に噛みついてやれますしね」
「んん? なんてったって急に犬?」
疑問符を浮かべ出すパルテティオに、ああ、と得心する。
あの聖堂機関の女どもは、テメノスだけに聞こえるように捨て台詞を残していったのだ。
こちらの思索ばかりが先行してしまっていたことを内心侘びつつ、説明を付け加える。
「鴉の連中が言っていたものでね。それを思い出したのです」
「ふーん。なら首輪も買わなくちゃねぇ?ワンワンって上手く鳴く練習もね」
ジェスチャーをしてみせる彼女を横目に見遣る。あいも変わらず、自分と似てジョークがお好きなようで。
「私は気ままな犬なものでね。要りませんよ」
ソローネの茶化しも素気無く躱わせば、「つまんないの」と返される。
「でもまあ、しけた顔したって仕方がないよ。次の指針が決まっただけ収穫。でしょ?」
卓上に腕を置いて、確かめるように顔を覗き込まれる。
行儀が悪い、と咎めつつも、テメノスは深く首肯する。
「……ええ、そう考えるようにします」
そう答えてやれば、ソローネは満足げに口元を緩ませて、定位置に戻った。少しだけ、癪だ。何が、とは言わない。
「——ああ、そうだ。私に助手を依頼する時はたんまり報酬頂戴ね。今回のも貰いたいくらいだけど」
もう幾分か慣れたような飄々とした調子で、ソローネはジョッキをあおる。いつの間にか干した果実とナッツを頼んで、早速それを摘んでいた。
テメノスはソローネの聞き逃せない発言に、その目を細めた。
「……こちらがギリギリの活計を立てていることを理解した上で言ってます?」
ただでさえ多く必要な回復源であるブドウやプラムに加えて、此度の船代とかなりの出費を強いられている。
パルテティオが少し足してくれたが、それでも切迫している。食費は魔物の肉を焼くなどして賄うことを強いられている状況だ。
干し果実を咀嚼するソローネの視線がパルテティオに向く。
引き締まった肩を竦めるのに反して、表情は緩い。
「すまねぇなソローネ。俺が代わりに支払いたいところだが、街を復興させたばかりで、手持ちが少ねえんだわ」
軽く言ってのけるパルテティオに向け、ソローネの向けるものが胡乱げなそれに変質する。
まともな地図が手に入るまでの間、テメノスたちが街までの経路を行ったり来たり——つまり無駄に迷っていたことは間違いなく金欠の大きな要因の一つと言えるだろうが、あえて黙っておく。
「じゃあ聞くけど、なんで飲んでるわけ、私たち」
その指摘は最もだろう。ナッツを摘もうとしたパルテティオの手を、ソローネがすかさず阻む。彼は唇を尖らせながらも、「酒は別もんだぜ。それにご無沙汰なんだ、勘弁してくれよソローネさんよ」そんな釈明をする。
「明日から野宿とか言い出したら怒る自信あるけど?」
「俺は商人だぜ? まあ上手いことやるから見とけよ。ここに来るまでの間、仕入れた奴を上手く捌いてみせっからよ」
オアーズラッシュからここに来るまでの道中、確かに彼は行商人から何かを買い取っていた。
「ふぅん。じゃあお手並み拝見させてもらおうかな。ダメだったら私が盗んで回るからね」
ナッツをパルテティオの口に投げ入れてやり、挑戦的に自分たちを見やるソローネに、テメノスはやれやれと息を溢す。
「それはやめていただきたい……私も職権濫用は避けたいのでパルテティオに賭けるほかありませんね」
神官なる自分へ、信仰者達は時たまに布施として食べ物などを捧げにやってくる。
丁重に断っているが、旅をしている身としてはかなり有り難い品々ばかりなのである。誘惑に負けてしまいそうになるが、堪えねばなるまい。
「おうよ、任せとけって。 大船に乗った気でいな」
胸を叩く彼は、どこまでも自信に満ち溢れている。
彼を迎え入れたのは間違いなく正解だったろう。金銭的なやりくりにおいては彼の存在なしではとっくに手持ちは底をついていたやもしれない。
「頼もしい限りです……では、主に金銭的な準備が整い次第、街を出ましょうか」
「次はどこにいくつもり?」
ソローネの問いかけを皮切りに、持ち込んでいた地図を卓上に広げる。
これに関してもパルテティオ様様で、質の良い地図を割安で買い取り、テメノスに預けてくれた。
「ふむ……クラックレッジに向かいたいところですが、今の私たちで辿り着けるか……」
オアーズラッシュからそのまま北上することもしてみたが、魔物が強すぎて這々の体で逃げ仰せてきたのだ。
当時を思い出したのか、ソローネは渋い顔を見せた。飲み干したグラスを音を立てずに置く。
「認め難いけど、無理だね。魔物を撒くのにも限度があるし」
「ならよ、ひとまずは西を目指すか? 俺としてはサイの街に興味があるな。気になる噂があってよ」
パルテティオが指を当てがうのは、砂漠地帯、ヒノエウマの中心部であった。テメノスは彼の横顔を見遣った。
彼の醸すものがそこに向かいたいのだと如実に表している。こちらの視線に気づいた彼は、どうしてか少し面映そうに、言葉を続けた。
「それによ、キャスティは記憶がなくて大変だろうに、俺たちに加わって戦ってくれもしたんだ。力になってやりてえよ」
「それは私も同感だね。後回しで良いなんていうけど、助けられた身だもん、優先させてあげたいよ。ねぇ、テメノス?」
「そうですね……」
テメノスは下顎に手を添え、思案顔を作る。
キャスティに報いたいというのは、自分も同じ心持ちである。
それは確かなのだが——未踏の地へと足を運ぶのは、経験の浅い自分には少し、緊張が伴う。ゆえに少し、考えたくなるのだ。
旅は探り探りで、自ら足を運んで経験を重ね、経路を切り開くほかない。
魔物を薙ぎ倒しながら、自分達の糧となれば良いくらいの心持ちでいるくらいが丁度良い。
サイの街に辿り着ける頃には、テメノスの目的地も突破できるほどに至れていたなら、重畳といえる。
地図の微細なる部分に視線を巡らせ、目についたのを指先で示す。
「……ひとまずはここからそう離れていない、宿場町を目指してみますか。慣れない土地です、慎重に行きましょう」
石橋を叩くようにして、つつがなければ進路を増やす。テメノスの言葉に、二人は一様に首肯する。
一面砂の地帯——テメノスにとっては未知に等しいが、文献で知識がないわけではない。
日差しが照り付けている間は汗が蒸発するほどの灼熱だというのに、夜は冷えるのだという。
ハーバーランドの穏やかな気候とはまた大きく変わる。
他にも懸念されることは一つや二つどころではないが、何にせよ、準備が要る。
キャスティにも相談して、万全の状態で出立したいものだ。
「フフ、いいねぇ。こういう一見何にもないようなところには遺跡なんかが隠されてたりするもんだよ。お宝があるに違いないよ」
獲物を見る目で紙面をなぜ回すソローネから感じ取れるのは、刺激を貪る、いっそ無邪気な欲。
自身が先導する旅だ、色々懸念ばかりに意識を向けがちになるが、彼女はイレギュラーをも含めた、縦横無尽なる旅路そのものを愉しむ姿勢でいる。
「またそんなことを……まあ、遺跡は興味がありますが」
神官ギルドで聞いたような、伝説の武器なんかは、そう言った一見気付けないような場所に隠されているものなのだろう。
なんだかんだでお互い、好奇心に突き動かされがちである。盗賊に引っ張られるのか、探偵が助手を帯同させるのか。どちらにせよ、気がつけば同じ場所にいるような感覚だ。
自身の返答に、ソローネはわかっていたというふうに口元に弧を描く。「だろうと思ったよ」
東大陸を彷徨っているうちに、彼女とはその分長く過ごしてきた。段々とこちらの考えも把握できるようになったらしい。
「ねぇ、パルテティオ? 砂漠に良い服はこの街にありそうかな?」
「んー、行商人の奴らとは何人か会ってるが服飾系も居たな。あたってみるぜ」
彼がカナルブラインへやってきてまずしたことといえば、故郷の銀コインを配り、同業者達と肩を組み合うことであった。
特に彼は同性に好かれやすい。好青年で酒の付き合いもよく、話の引き出しの多い。ゆえに年下からは兄貴と呼ばれ、目上からは可愛がられる。これはもう、天性のものだろう。他者が真似できるものではない、彼の武器である。
ソローネは見るからに上機嫌になり、パルテティオに残ったナッツの皿ごとスライドして寄越してきた。
「さっすが。デキる色男は違うね。頼りにしてるよ」
なお、干した果実は彼女が余すことなく食べ尽くした。
今に限ったことではないが、ソローネは現金な女である。そんな彼女に反し、パルテティオは人好きのする笑顔で返す。
「おうよ、あんがとさん——あとはキャスティ次第だな。明日、俺の方から話しておくぜ」
「ではお願いしますね。私は出費の算出と……砂漠地帯の予習でもしましょうか。まずは情報集めからですね」
港町ということもあり、同じ旅人が古今東西から集まってくる。砂漠を超えてきたばかりというのなら、大抵は西口を潜ってくるはずだ。
「りょーかい。暇だし付き合うよ」
盗賊はついてくるつもりのようだ。悪い気はしないが、思うところはある。ソローネは妖艶な色香を放つ佳人ということもあり、神官服を纏った自分と並ぶと、どうにも悪目立ちするのである。
「……いいですけど、手癖感覚で盗むのはやめてくださいよ」
自分たちの認識と周囲の目というのは剥離するものだ、惜しいことに。そんな心の呟きは言葉にせず、忠告は一つだけに留めておく。
「分かってるって。フフッ……砂漠の秘宝、待ってて。絶対に手に入れるよ」
少女というよりかは少年めいた闘志を燃やす。
どうやら砂漠に宝が眠っているのは彼女にとってはもう、確定事項らしい。
「おいおい……? ソローネの奴、本来の目的忘れてねぇか?」
「やれやれ……」
これにはパルテティオも困惑気味に囁きかけてくる。耳を傾け、テメノスはふっと綻ぶ。
ソローネは元来こんな調子だ。こうなったら本気で宝を見つけ出すまで躍起にだってなる。
もちろん、歯止めが効かないようなら首根っこ掴んででもやめさせるが。
この弛みには、呆れも籠っているが、存外、この状況を楽しんでいる自分に対する、可笑しさも内包されている。
賑やかなのは、良い。背中を預け、他愛もない話をする仲間がいる。
冷たく無機質な道筋が、ほんの少しだけ、ほの温かいもののように思えた。
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