ひとつなぎの明日
南ティンバーレイン森道。日光の煌めきをふんだんに取り込んだ木々は輝いてみえる。瀑布の水飛沫で虹がかかる景観に、アグネアが感嘆の声を上げていたのが記憶に新しい。
日が沈みかけているということもあり、今日は大事をとって野営をしようという運びになった。明日の昼前にはティンバーレインに到着できるはずだ。
『それじゃ二人とも、水汲みをお願いね』
『ごゆっくり』
木製のバケツを二つ手渡すキャスティに関しては、普段通りに頼んでいるに過ぎないだろう。
だが、ソローネに関しては意味深な言葉と共に含み笑いを向けてきた。
バケツ片手にそのことを思い返す。どう足掻いても彼女に弱みを握られつつある。この間、テメノスとヒカリの抱擁を目撃されたのが大きな痛手だった。
その事を口惜しんでいるうち、大きな水辺に辿り着いた。
沈みかけの日の光を受け、水面は朱色に色づき、宝石のように煌めいている。
こういった佳景を見つけられるのも、旅の醍醐味だろうとしみじみ思う。
「美しいな。水のある場所というのも」
隣のヒカリもまた、見惚れているようで、その黒い瞳に輝きを映していた。
早鐘を打つ鼓動を抑えるべく、テメノスはゆっくりと呼気を吐き出した。
景色を楽しみに来たのではない。まだ目的は成せていないのだ。
「——ヒカリ」「テメノス」
互いの声が重なり、思わず見合わせる。
「……先にどうぞ」
少しの沈黙ののち、気まずくなり先を促す。
「う、うむ……其方に伝えたいことがあってな」
白いかんばせに朱色が差す。他の何よりも綺麗だと、テメノスは釘付けになる。
ヒカリはふっと笑い、テメノスの手を取った。
「ありがとう。其方がいてくれて良かった。あの夜も、この前の戦いも。俺は其方に救われたのだ」
そんなこと、とかむしろ私の方が、とか、色々言いかけて、留まった。
今は、この手を繋ぎ止めたい。
「……っ」
指を絡ませた。その熱を余すことなく、深いところまで感じるように。
そうしていくうち、いつの間にか息遣いの分かるところまで距離が近づいていた。
今、言わなくては。
「ヒカリ……私はあなたと共に明日を歩んでいきたい——手を繋いで」
ヒカリの目が見開かれる。テメノスは彼の言葉を待った。どちらのかも分からない、手のひらに汗が滲む。
「俺は……恐れているのだ」
その唇は微かに震えている。テメノスは彼を抱き寄せたくなって、しかし堪えて彼の言葉にじっと耳を傾ける。
「俺も、そなたを好いている。だがその想いはずっとこの胸に留めて置こうと決めていた。……共になれたとして、いつか俺の陰が傷付けてしまうのではないかとそう考えたから」
ヒカリも同じ気持ちなのだと分かり高揚感が込み上げるも、今は彼をもっと知る必要がある。
「陰……あなたの纏う雰囲気が時折別人のように変わるのはそれが関係しているのですか?」
無言で頷く。テメノスは水のほとりから少し離れた場所に彼を座らせた。
ヒカリの背を摩ってやり、落ち着いたところで、彼は今まで明かしてこなかったことについて話してくれた。八年前、母が亡くなったことがきっかけで陰が発露したこと、ヒカリという器を乗っ取らんとしていること……。
「あの夜、俺は陰に付き纏われていた。テメノス、其方が尋ねてきてくれなければ俺はあのまま飲まれていたやもしれぬ」
彼の手を引き、そのまま抱き寄せた。戦いではあれほど頼もしい彼も、こうやって脆い部分がある。自分はそんなところを守りたい、強くそう思う。
「一人で背負おうとしないでください、ヒカリ。私がいます。仲間だって、皆、あなたを信じています」
「……テメノス」
ありがとう、と。震えた声だった。テメノスは彼の頭を撫でた。壊れ物を扱うような、繊細な手つきで。
それからテメノスも、ストームヘイルでの出来事や昔日の友人の事などを打ち明けた。
話し終えると、今度は自身に身を預けていたヒカリが手を握りぎこちなく指を絡ませた。
テメノスは戻ってきた温度に小さく綻び、言葉にするたびに感じていた胸の痛みが和らぐ覚えがした。そして、思う。もう、絶対にこの手からすり抜けさせることはしない、させたく無い。
「ヒカリ……もう一度、聞かせてもらえますか。あなたの気持ちを」
熱い。体温が、交わった視線が、何もかも。
指先が、あの時のように手のひらをなぞる。彼の身体が震えた。
「……俺は」
「この手を繋いで、其方と共に明日を、その先を見たい——」
衝動的に、その唇を奪っていた。少しカサついているが、柔らかな感触に、愛しさが溢れて止まらなくなる。
「……ん」
こんなに、こんなにも本能的に誰かを求める事は初めてだった。
唇をこじ開け、逃げ腰の舌を捕まえて絡ませた。唾液が蜜のように甘く、夢中になって貪った。
互いに汗ばんだ手のひらが離れかけるが、テメノスはすぐに掴み取り、再びきつく結びつける。
「はっ……んん……ッ、ふ」
くぐもった嬌声が溢れ出る。それが扇情的に感じられて、もっと彼を乱れさせたいという欲が芽生えだす。
これ以上はいけない、と残っていた理性が叫ぶ。ヒカリは息継ぎがままならないのか、苦しげだ。
唇を離す。「すみません……やりすぎました」顔を真っ赤に染めて息を荒くしている彼に繰り返し謝罪を述べた。
まさか、自分がここまで余裕がないとは思わなかったと愕然とさせられる。
「大丈夫だ。少し驚いたが……」
「本当、すみません。気持ちが、昂ってしまって」
ヒカリが可愛くて、止められませんでした。なんて言えないが、本当にその通りだった。
この年で情欲に飲まれかけるとは思いもしなかった。まだ頭が混乱している。
そんなテメノスを、ヒカリは不思議そうに見つめる。
「其方でもそんなことがあるんだな」
「……自分でも戸惑ってます」
困った。大切にしたいのに、感情と欲のままに彼に触れてしまったら。それではただの獣だ。
「俺は……接吻は、その、嫌ではなかった。ただ、外ではなくできれば室内が良い、とは思う……」
最後の方はもう蚊のような声だった。たどたどしい口調もこういったことに不慣れなのだろう。可愛らしいが過ぎるのではないかと悶えそうになるのを抑え込む。自重せねば。
「……はい」
「ええと、あと、俺もどうなるか分からないんだ、何かの拍子で、陰が其方を傷付けないか……と考えてしまう」
「大丈夫です。私が引き戻しますから。それに——」
夕暮れの風に吹き曝され、水面が波を立てる。
美しい水辺を背景に佇むは、白き神官と砂国の王子でもある黒髪の剣士。全く相反するといっても良い二人が惹かれ合い、手を繋ぎ合っている。
テメノスは思う。今があるのは奇跡でもなんでもない、この手で手繰り寄せた必然だと。
「ヒカリ、あなたならばきっと陰にも打ち勝てる……私はそう信じています」
信じる。それだけで、どこまでも前へ進んでいける。
光ある未来を、目指していける。
幸い、光魔法なら得意だ。ヒカリを脅かす闇ならば、この自分が祓ってみせよう。
「其方が言うなら、きっと大丈夫……そう思える」
ヒカリの心からの笑顔は聖火よりも眩しく、貴い——なんて、罰当たりか。でも本当のことだ。
二人は陽が沈むまで寄り添い合った。だが暫しして、大切な事に気付いたテメノスは「やってしまいました……」と項垂れた。
「? どうかしたのか」
「水汲み、忘れてました」
「……」
この後、二人はキャスティにみっちりと叱られるのであった。
日が沈みかけているということもあり、今日は大事をとって野営をしようという運びになった。明日の昼前にはティンバーレインに到着できるはずだ。
『それじゃ二人とも、水汲みをお願いね』
『ごゆっくり』
木製のバケツを二つ手渡すキャスティに関しては、普段通りに頼んでいるに過ぎないだろう。
だが、ソローネに関しては意味深な言葉と共に含み笑いを向けてきた。
バケツ片手にそのことを思い返す。どう足掻いても彼女に弱みを握られつつある。この間、テメノスとヒカリの抱擁を目撃されたのが大きな痛手だった。
その事を口惜しんでいるうち、大きな水辺に辿り着いた。
沈みかけの日の光を受け、水面は朱色に色づき、宝石のように煌めいている。
こういった佳景を見つけられるのも、旅の醍醐味だろうとしみじみ思う。
「美しいな。水のある場所というのも」
隣のヒカリもまた、見惚れているようで、その黒い瞳に輝きを映していた。
早鐘を打つ鼓動を抑えるべく、テメノスはゆっくりと呼気を吐き出した。
景色を楽しみに来たのではない。まだ目的は成せていないのだ。
「——ヒカリ」「テメノス」
互いの声が重なり、思わず見合わせる。
「……先にどうぞ」
少しの沈黙ののち、気まずくなり先を促す。
「う、うむ……其方に伝えたいことがあってな」
白いかんばせに朱色が差す。他の何よりも綺麗だと、テメノスは釘付けになる。
ヒカリはふっと笑い、テメノスの手を取った。
「ありがとう。其方がいてくれて良かった。あの夜も、この前の戦いも。俺は其方に救われたのだ」
そんなこと、とかむしろ私の方が、とか、色々言いかけて、留まった。
今は、この手を繋ぎ止めたい。
「……っ」
指を絡ませた。その熱を余すことなく、深いところまで感じるように。
そうしていくうち、いつの間にか息遣いの分かるところまで距離が近づいていた。
今、言わなくては。
「ヒカリ……私はあなたと共に明日を歩んでいきたい——手を繋いで」
ヒカリの目が見開かれる。テメノスは彼の言葉を待った。どちらのかも分からない、手のひらに汗が滲む。
「俺は……恐れているのだ」
その唇は微かに震えている。テメノスは彼を抱き寄せたくなって、しかし堪えて彼の言葉にじっと耳を傾ける。
「俺も、そなたを好いている。だがその想いはずっとこの胸に留めて置こうと決めていた。……共になれたとして、いつか俺の陰が傷付けてしまうのではないかとそう考えたから」
ヒカリも同じ気持ちなのだと分かり高揚感が込み上げるも、今は彼をもっと知る必要がある。
「陰……あなたの纏う雰囲気が時折別人のように変わるのはそれが関係しているのですか?」
無言で頷く。テメノスは水のほとりから少し離れた場所に彼を座らせた。
ヒカリの背を摩ってやり、落ち着いたところで、彼は今まで明かしてこなかったことについて話してくれた。八年前、母が亡くなったことがきっかけで陰が発露したこと、ヒカリという器を乗っ取らんとしていること……。
「あの夜、俺は陰に付き纏われていた。テメノス、其方が尋ねてきてくれなければ俺はあのまま飲まれていたやもしれぬ」
彼の手を引き、そのまま抱き寄せた。戦いではあれほど頼もしい彼も、こうやって脆い部分がある。自分はそんなところを守りたい、強くそう思う。
「一人で背負おうとしないでください、ヒカリ。私がいます。仲間だって、皆、あなたを信じています」
「……テメノス」
ありがとう、と。震えた声だった。テメノスは彼の頭を撫でた。壊れ物を扱うような、繊細な手つきで。
それからテメノスも、ストームヘイルでの出来事や昔日の友人の事などを打ち明けた。
話し終えると、今度は自身に身を預けていたヒカリが手を握りぎこちなく指を絡ませた。
テメノスは戻ってきた温度に小さく綻び、言葉にするたびに感じていた胸の痛みが和らぐ覚えがした。そして、思う。もう、絶対にこの手からすり抜けさせることはしない、させたく無い。
「ヒカリ……もう一度、聞かせてもらえますか。あなたの気持ちを」
熱い。体温が、交わった視線が、何もかも。
指先が、あの時のように手のひらをなぞる。彼の身体が震えた。
「……俺は」
「この手を繋いで、其方と共に明日を、その先を見たい——」
衝動的に、その唇を奪っていた。少しカサついているが、柔らかな感触に、愛しさが溢れて止まらなくなる。
「……ん」
こんなに、こんなにも本能的に誰かを求める事は初めてだった。
唇をこじ開け、逃げ腰の舌を捕まえて絡ませた。唾液が蜜のように甘く、夢中になって貪った。
互いに汗ばんだ手のひらが離れかけるが、テメノスはすぐに掴み取り、再びきつく結びつける。
「はっ……んん……ッ、ふ」
くぐもった嬌声が溢れ出る。それが扇情的に感じられて、もっと彼を乱れさせたいという欲が芽生えだす。
これ以上はいけない、と残っていた理性が叫ぶ。ヒカリは息継ぎがままならないのか、苦しげだ。
唇を離す。「すみません……やりすぎました」顔を真っ赤に染めて息を荒くしている彼に繰り返し謝罪を述べた。
まさか、自分がここまで余裕がないとは思わなかったと愕然とさせられる。
「大丈夫だ。少し驚いたが……」
「本当、すみません。気持ちが、昂ってしまって」
ヒカリが可愛くて、止められませんでした。なんて言えないが、本当にその通りだった。
この年で情欲に飲まれかけるとは思いもしなかった。まだ頭が混乱している。
そんなテメノスを、ヒカリは不思議そうに見つめる。
「其方でもそんなことがあるんだな」
「……自分でも戸惑ってます」
困った。大切にしたいのに、感情と欲のままに彼に触れてしまったら。それではただの獣だ。
「俺は……接吻は、その、嫌ではなかった。ただ、外ではなくできれば室内が良い、とは思う……」
最後の方はもう蚊のような声だった。たどたどしい口調もこういったことに不慣れなのだろう。可愛らしいが過ぎるのではないかと悶えそうになるのを抑え込む。自重せねば。
「……はい」
「ええと、あと、俺もどうなるか分からないんだ、何かの拍子で、陰が其方を傷付けないか……と考えてしまう」
「大丈夫です。私が引き戻しますから。それに——」
夕暮れの風に吹き曝され、水面が波を立てる。
美しい水辺を背景に佇むは、白き神官と砂国の王子でもある黒髪の剣士。全く相反するといっても良い二人が惹かれ合い、手を繋ぎ合っている。
テメノスは思う。今があるのは奇跡でもなんでもない、この手で手繰り寄せた必然だと。
「ヒカリ、あなたならばきっと陰にも打ち勝てる……私はそう信じています」
信じる。それだけで、どこまでも前へ進んでいける。
光ある未来を、目指していける。
幸い、光魔法なら得意だ。ヒカリを脅かす闇ならば、この自分が祓ってみせよう。
「其方が言うなら、きっと大丈夫……そう思える」
ヒカリの心からの笑顔は聖火よりも眩しく、貴い——なんて、罰当たりか。でも本当のことだ。
二人は陽が沈むまで寄り添い合った。だが暫しして、大切な事に気付いたテメノスは「やってしまいました……」と項垂れた。
「? どうかしたのか」
「水汲み、忘れてました」
「……」
この後、二人はキャスティにみっちりと叱られるのであった。
5/5ページ