ひとつなぎの明日

「——先生、そろそろこのローブ、新しく見繕った方がいいんじゃない? それとも、私が縫ったげよっか?」

ソローネの提案に、オズバルドは必要ない、と突っぱねるかと思いきや意外にも頷いてみせた。

「……頼もう。街に着いたらな」
「ふふ、任せて」

ソローネは口元を緩ませる。軽快な足取りは、彼女の内側にある喜びを体現しているようだった。
そんな二人の様子を横目で流し見しつつも、テメノスは雨上がりで柔くなった土をしっかりと踏み締めてゆく。

魔物との遭遇を極力避けるための心得は十分に備わっている。その為、比較的快適な旅路を辿っている。
最初はソローネやオズバルドなりの気遣いか、テメノスは後衛で基本的に回復や光の魔法でサポートを行う役回りがほとんどであった。が、北ウェルグローブ森道に差し掛かったあたりで自分も積極的に戦わせて欲しい、と自ら申し出た。

リーフランド全域に鬱蒼と立ち並ぶ森林は経路を複雑化させる。故に以前訪れた際には何度か迷いかけたが、流石に三度目ともなればすんなり進めている。未踏破のティンバーレインに続く経路はもう少し南に進んだ先にあるようだ。

「んっ……?」
「どうしたの、オーシュット?」

オーシュットが突然立ち止まる。耳と尾が逆立っているのは彼女が警戒体制にあることを現している。
そのことを即座に把握したソローネが腰元の短剣に手をかける。
テメノスもまた、得体の知れない何者かからの視線を感じていた。舐め回すような、気持ちの悪い感じだ。首筋に嫌な汗が伝う。

「森がざわざわしてる……」

鳥が一斉に飛び立つ時の鳴き声と木々が揺れる音が不協和音を引き起こす。
不安を引き立てるように、森ギツネが甲高い声を上げる。

「……強い魔力を感ずる。西方から」

人間か、それにしては異質だ。だが魔物にしては随分と粘着質で、執着を孕んでいる。
晒した皮膚が冷えていく。テメノスはたまらずフードを深く被った。辺りの空気が、どうにも水っぽく感じられた。

「マヒナー!」

滑空してきたマヒナがオーシュットの腕に止まる。上空から森の様子を確認してきたのだろう。
獣人の言葉を交わし合う。「そっか……」オーシュットのかんばせに焦りの色を浮かぶ。

「どうだって?」
「……濃い霧が森の中心から勢い良く広がってるって。飲み込まれちゃうとまずいって、魔物たちが一斉に逃げてるの」

一瞬の沈黙。オーシュットでさえも直前まで感じ取ることができなかった森の変容。只事ではない。
「さっきから強い奴の匂いがどんどん濃くなってる。霧は絶対、そいつのせいだと思う!」

騒ぎ立てていた魔物たちの鳴き声が静まり、周囲がうっすら白み出す。
もう、霧が近くまで来ているのだろう。だがテメノスを含め皆取り乱すことはない。
旅の中でアクシデントは多数あった。それらを乗り越えていくうちに、頭で学んだのだ。火急の時ほど、冷静であらねばならないと。

「魔物の仕業、なのでしょうが……森自体から抜け出さなくては飲み込まれてしまうのでは」

森の中心部から抜け出すのと霧に飲み込まれるか、どうあがいても間に合う術はない。

「森から出られないようにするのが目的なんだよ。あいつ、面白がってやってるみたいだ」
「へえ。なら、倒すしかないか」

好戦的な笑みを浮かべるソローネ。彼女は命の奪い合いに愉悦を覚える節がある。戦闘で追い詰められても笑っていられるのは彼女くらいのものである。

「……それが手っ取り早い」

オズバルドまでもが魔法書の紐を解く。オーシュットは既に臨時体制であるし、何とも胆力のある面々だ。
だがテメノスも遅れを取るつもりはない。道が塞がれているのならば、自分達で切り開くまで。

「霧に飲み込まれれば視界が塞がれます。なるべく固まって動きましょう」

杖を握る手に力が籠る。
確かに自分達は数々の魔物を屠ってきた。だがいかなる時も想定外は起こりうるし、小さな油断が命を奪われる切欠になり得る。

「聖なる光よ……我に力を授けたまえ」

先端に清廉なる青い光が灯る。視界が開けるわけではないが、霧の中でも光は見つけられる。少しは頼りにはなるはずだ。

「オーシュット、魔物の位置はわかる?」

「うん……さっきから同じ場所に止まってる。あっちだ」

テメノスを中心に、一行は慎重に歩みを進めてゆく。
霧とは微小の水で構成されている。故に皮膚に触れると蒸発し、それが体温を奪ってしまう。
長くこの場を彷徨っているようでは、体力が奪われるばかりだろう。

「この霧、妙だね。甘いような……」

確かに、とテメノスも諾う。先ほどから花の蜜のような匂いが感じられる。
辺りにそれらしき植物も見当たらないことから、件の魔物が発しているのでは無いかと推察する。

「吸いすぎないほうが良い。人を惑わす魔力の粒子が含まれている可能性がある」
「……もっと早く言ってよ、先生」

それには同意だ。テメノスはすぐに自身のハンカチを鼻と口に当てがった。

「……すまん。昔書物で読んだのを先ほど思い出したのだ。森の魔女なる魔物がリーフランドのどこかに潜んでいる、と。霧を生み出し、旅人を惑わせるらしい」

詫びの印としてオズバルドはソローネにハンカチーフを手渡す。
テメノスはオーシュットに布で口を覆うように促すが、「わたしは大丈夫」の一点張りであった。そのまま脇目も振らずに先導を切ってしまう。

「離れてはいけませんよ、オーシュット!」

何か様子がおかしい、と思いテメノスは彼女の腕を掴むが強い力で振り切られてしまう。
そうしてそのまま疾くと駆けていってしまう。

「——」

その直前、譫言のように何かを呟いていたが聞き取れない。
魔物の粒子にやられてしまったのか? マヒナの姿もいつの間にか見当たらなくなっている。
これ以上離れては不味い。テメノスは足を止め、声を張り上げる。

「ソローネ、オズバルド! オーシュットを追いかけ、」

振り返るも、そこにあるのは木々の輪郭さえも塗りつぶすほどの濃霧がただ立ち込めるのみ。「聖火の光よ……」テメノスは聖火神の祝福の言葉を唱え、尊き灯火の象徴が放つ輝きをより一層強めるよう祈りを込める。
青き明光が大きな波紋を広げる。望んだ仲間の呼びかけは、無い。

このまま動き出すか? それとも止まるか?

テメノスの思考に迷いが生まれる。

ただこうしている間にも、体温は失われてゆき、肺には甘ったるい粒子が入り込む。その不快感にテメノスは眉根を顰めた。

「絶対に……諦めたりなんてしませんから」

オズバルドが探索中や戦闘時に駆使する魔物の発する魔力を感じ取り、気配の元を探り当てるという技法。それを応用すれば。
彼から直接学んだことがあるが、彼ほど精度高いものは望めない。
けれど、だとしても——

目を閉じ、意識を研ぎ澄ませる。大丈夫だ、集中力ならば人一倍はあると自負している。
聖火神エルフリックよ。どうか、力添えください。

祈るのが仕事だが、祈るのは苦手だ。
それだけでは、真実は切り開けないのだから。
ただ無力に打ちひしがれ、泣き言のように祈るくらいならば、この頭を使うし、必要ならば杖を手に戦う。
それが流儀だ。揺るがない。
エルフリックが我々に授けるのは、立ち向かう力だ、とテメノスは解釈している。
選んだ道を突き進む、その時に湧き上がる清廉なる祈り。
それに応えてくださるのだと。









『——テメノスさん』
声。頭に響くようで、すぐそばにいるような。
テメノスは自身を取り巻く空気が、大きく変貌を遂げたことを知覚し、辺りを見回す。
フレイムチャーチの、色彩豊かな山の表情。乾いた風と共に、枯れ葉がさらわれてゆく。
テメノスは声の主を認め、魂が打ち震えた。

「……その声は」

クリック君。

テメノスの知っている彼が、確かに存在している。
少しウェーブのかかった前髪を揺らし、テメノスに駆け寄る様は、いつか自分が好ましいと感じた直向きさ、そのままで。
只々、呆然と彼が近づくのを見ていた。

『やっと見つけましたよ。探したんですからね! ロイさんが呼んでいましたよ』

彼に手を引かれ、驚くほどすんなりと。巡礼路を辿る。追い風に背中を押されているように、容易く。小さな洞窟を潜り、大聖堂前の広間にまで辿り着いた。
その間、彼は常にテメノスの前を歩んでいた。纏っているのは上級聖堂騎士の象徴たる色合いのサーコート。

「クリック君、きみは……昇進したのですか?」
『その話、この前もしたじゃないですか。まだお若いのに物忘れですか、テメノスさん』

白い歯を覗かせて、クリックは悪戯っぽく笑う。

「……」
テメノスは言葉を失った。彼とずっと友人として繋がっていたのならばこんな風に、彼は笑うのかもしれないと、現実のように感じられたからだ。
広間の中心、青き聖火が燃ゆる場所にロイは佇んでいた。
『おっ、やっと来たね。テメノス』
ロイはテメノスの思い出に残っている姿そのままであった。
『申し訳ありません。探すのに手間取っちゃって……』『いいって。助かったよクリック』まるで慣れ親しんだ相手であるかのようなやり取りが目前で繰り広げられる。クリックはロイに尊敬のこもった眼差しを向け、ロイは満更でもない。そんなふうに読み取れる。テメノスはその光景に、言葉を紡ぐこともままならない。

『……テメノス。なにぼうっとしてるんだ?』

調子でも悪いのか、と憂慮を湛えた表情を向けられる。ロイはいつだって、テメノスを気にかけてくれていた。
友人の居ない自分にとっての、かけがえのない親友。かつての己は、どれほど彼に救われてきただろう。
いつだって失ってから、気付かされる。

『今日のテメノスさん、ちょっと変なんですよ。俺が昇進したのかって、本気で尋ねてきたんですよ』
『おいおい、そりゃあないだろう、テメノス。どこか頭でも打ったのか』

都合の良い夢だと分かっていても、テメノスは目覚めたくないと感じてしまう。
ずっと取り戻したかったものが、こんなに近くにあるのだ、揺らがないはずがない。

「いえ、問題ありません。ご存知の通り、健康であることが私の取り柄ですから」

抜け出さなくてはならない。頭では理解出来ているが、身体は自分の先を行く彼らの後を追い続けてしまう。

『なら良いが……ああそうだ、気晴らしに教皇のところで茶でもご馳走してもらおうか? クリック、君も来たら良い』
『そ、それって良いのですか……? 教皇様にそんな、不敬では』

狼狽えるクリックに、ロイは優しく手のひらを彼の頭に添え、撫でてやる。
クリックは忽ち頬を赤らめた。弟のように扱われているのが気恥ずかしいのだろう。
テメノスに対しても、子羊と呼ばれて顔を赤くしていたのをよく覚えている。彼はシャイな一面があるのだ。

『はは、いまさら気にしてどうするんだい? 大丈夫、歓迎してくださるさ。きっとね』
『テメノスさん……ロイさんがこの通りです、行きましょうか』

そうして再び、橙の葉が小道を踊るように軽快に、難なく、時間は一瞬になる。テメノスはいつの間にか上等な椅子に腰を置いていた。

『呼び出したかと思えば菓子を出せとは、お前たちは全く、良くも悪くも子供の頃から変わらんな』

教皇は溜息こそ溢すが、その双眸は温かな色を孕んでいた。
用意された茶菓子は、彼のお気に入りだという、異国の甘味だ。 餡子という甘い豆を煮たものを不思議な弾力のある餅なるものと合わせて食すという。
クリックはおっかなびっくりであったが、一口食すなり目を輝かせ、饒舌に褒め倒した。
ロイだけでなく教皇もそんな彼に生暖かい視線を向け、見守っていた。
自分もまた、穏やかな時間に笑みを溢す。
大切な人達が側で笑い合う、テメノスの望み通りの光景が、ここにある。

「——私は、行かなくてはなりません」

突然立ち上がるテメノスに、隣席のクリックは驚いたように自身を見上げた。彼だけでない、ロイも、教皇も。
ああ、胸が軋む。この世界は、どうにも真っ直ぐに、己を貫き通して生きてゆくのには痛みが伴いすぎる。

『どこに行くって言うんだ、テメノス。君の居場所は、ここじゃないのかい』

ロイが自分を引き留めようと、手首を掴み取った。
彼の手は、こんなにも冷たかっただろうか。
下唇を噛み締める。ここは、望んだ空想ではあるが、現実ではない。

「教皇、ロイ、そしてクリック君。あなた達は、これからも私の中に生き続ける。未来永劫、忘れたりなんかしません」

ロイの手をそっと解き、テメノスは彼らに背を向ける。もう、振り返りはしない。
どんなに希ったとしても、失くしたものは取り戻せない。
けれど、忘れないことはできる。
痛みを、伴ったとしても。

『……テメノスさん、行ってしまうんですね』
「ええ」

さよなら、とは言わない。
まだ成すべきことは成していない。全てを終わらせてから、餞別を贈ろう。

『いってらっしゃい』

優しい音色の暇乞いを皮切りに、一歩を踏み出し——駆けた。





「————テメノス!」

空を割く、銀光。
そしてこの目を惹きつけてやまぬ赤と黒のシルエットを認めた瞬間、テメノスは堪らずその名を呼んだ。「ヒカリ……ッ!」空を舞う彼の手を掴もうと手を伸ばす。
しかし指先が触れたところで、突如巻き起こった颶風が遮った。辺りを取り巻いていたはずの濃霧が突如意思があるかのように収束する。
テメノスの身体は簡単に浮かび上がり、そして重力に従い地面へと打ち付けられた。

「くっ……聖なる盾よ!」

すんでのところで聖火神の加護が込められし盾を展開させる。だが咄嗟のことで魔力を上手く注げず、強度が甘くなってしまった。
腕と脇腹あたりの痛みに悶えながらも、テメノスは自らの身体に鞭を打ち、立ち上がった。
霧が薄らいでいる。テメノスが目を凝らすと、木々の隙間から、女型の魔物の姿が徘徊している姿が見えた。蝶を模った面妖な模様の刻まれた羽、人間のような肢体。禍々しい紅き四つの瞳は、魔女を異形たらしめる象徴といえよう。

「ヒカリ……! 大丈夫ですか」

彼も巻き込まれた。テメノスは辺りを見渡し、少し離れた位置で彼を見つけた。

「……ああ。咄嗟に受け身を取った。問題ない」

ヒカリは衣類に付着した泥を払い、気丈な風して微笑むがテメノスは安心できなかった。
問いただしたいことは山ほどある。だが今は。
彼は病み上がり、見た目よりずっと負荷がかかっているはずだ。

「聖火神の御技で傷を癒したまえ」

躊躇なく回復魔法を詠唱、発動させる。緑色の光のヴェールが展開され、体の芯から熱が生まれ、染み渡る。そうして苦痛がほぐれてゆく。

「……其方の優しい心のように温かい。ありがとう」

柔らかい笑みを向ける彼に、込み上げてくるものを飲み込んだ。本当なら、今すぐにでもヒカリの手を握って、確かめたい。彼が生きているのだと感じたい。だがそれは、障壁を取り払った後にせねば。
だからせめて、テメノスはウインクして、「私が回復魔法を出し惜しみしないのはあなたくらいのものですよ、ヒカリ」あなたは、特別ですから。少し調子に乗って、最後の方は耳元で囁いた。
彼は少し驚いたように瞬き、視線を彷徨わせる。

「こんな時にでも、そなたは冗談が言えるのだな……」

密やかな呟きを聞き逃す自分ではなかった。色に戸惑う瞳の揺らめきに気が付いて、テメノスは鼓動が高まるのを感じた。
だが森の魔女が突如金切り声を上げたことで期待は打ち切られた。余りにも不快な音声に、堪らず耳を塞ぐ。

「……先ほどので仕留めたはずが紛い物であった。奴は幻術の類を扱うようだ」

業物の刀が引き抜かれる。直後、その瞳に静かな闘志が灯る様を、何度も目の当たりにしてきた。
頼もしい剣。けれど、守られてばかりではいられない。
今、禍々しい存在感を放つあの魔女は、果たして本体なのだろうか。この目で見えているものが真実とは限らない。

「……ええ、あなたが私の前に現れるまで、それに苦しまされていましたから。そして恐らくオズバルド達も……」

幻から目を覚まさなければ、魔女に魅入られてしまう。彼らを救うにはやはりかな、魔力の流れを読み取るしかない。一際強い根源がどこかにあるはずだ。
「俺もそなたらを追ってこの森道に入ったところで皆を見失った。……奴を斃す他の道はない」
「待ってください」
今にも駆け出してしまいそうなヒカリに制止をかけた。
闇雲に戦うのは得策ではない。一方的に消耗していくだけだ。

「私が本体を探り当てます。その間、時間稼いではもらえませんか」

言い終えた直後、緋色の衝撃波が飛ぶ。テメノスが聖なる盾を発動させようと祝詞を唱えるより早く、ヒカリがそれを難なく切り伏せた。
そして、「任せろ」と力強く頷いてみせるのだった。

「あなたはそうやって、簡単に人を信じてしまえるのですね……」

つい、本音が溢れた。
彼の直向きさは好ましいが危うくもある。
だから、私が守る。勇ましく剣を振るうなどは不向きだが、自分なりの戦い方で。
テメノスは杖を地に突き立てた。両手を絡み合わせ、深い祈りの仕草を取る。
真実を辿るその時のように、万物は動きを止め、辺りは静寂に包まれた。雲のように魔力の残滓が揺蕩うのが視える。テメノスはそれを辿った。

魔物が扱う魔法は未だ完全に解明こそされてはいないものの、此度の魔女のように魔物特有の言語で詠唱を行う場合もままある。
なれば魔女が詠唱している際の魔力の流れを読み取れば良い。言葉にするだけならば簡単だが、本当に僅かな間に魔力の流れを読み取るのは至難の業といえよう。
深く、深く、魔力を感じ取ることだけに集中する。


「……今のは」

微風、意識しなければ気付けないほどの。魔力の粒子を乗せて、何かに引き寄せられているようにある一点めがけて飛んでいく。
魔力の気流は折り重なり、束となりて渦を描く。
テメノスは現実に意識を取り戻すなり、その中心目指して疾くと走り出した。
途中、魔女の熾烈な黒い薔薇の鞭が襲いかかるが、ヒカリがそれを退けた。

「テメノス! その様子だと見つけたようだな」
「ええ、この先です!」

二人並び、ひたすらに走った。魔力の根源は微動だにしない。否、元来動けやしないのだろう。

「……ようやくご対面です」

森の中心に聳える黒き樹木。かの女型の魔物は奴が生み出した幻影の一つであり、本体などは最初から存在していなかったのだ。
歪な人面模様が浮かび上がり、幹がうねり出す。地面が振動、隆起し腕の形をした大きな根が飛び出してくる。

強烈な魔力の波が皮膚を撫で付け、その痕が軽い火傷のようにチリチリと痛む。
この程度で怖気付く己ではない。テメノスは仕舞い込んでいた聖典の紐を解いた。
開いた瞬間、聖火の青い輝きが視界を満たすほどに溢れ出るものだから、目が眩む。
眩しさに目を凝らしながら浮かび上がる文字を解読する。
テメノスはその文体に覚えがあった。神官の中でも数えられる程しか扱えないとされる光魔法の最上位・神聖魔法。それを発現させる祝詞は、適性のある、聖火神エルフリックの恩寵を授かった者にしか唱えることができない。

「テメノス」

視線が交わる。それだけで彼が何を伝えんとしているかが解る。
魔力の奔流が聖典へと収束する。輝く祝詞を指先でなぞると、光の粒子が天使の羽を象り、ふわりと舞う。
呼吸を整え、テメノスは喉を震わせた。

「エルフリックよ、輝かせたまえ……!」

驚くほどに滑らかに、力強く組み上げられた神聖魔法の祝詞。
それは光の球体からテメノスの周囲を取り巻き、爆発的に肥大してゆく。
悍ましき暗黒の樹木は自らの闇の魔力で対抗するも、神聖魔法の輝きには敵わず、飲み込まれた。
神聖魔法は強力だが、その分心身の負荷も大きい。
テメノスの顎に汗が伝った。頭が締め付けられるように痛む。
だが、まだあと一息だと奥歯を噛み締めた。

「あとは任せろ、テメノス!」

地面を思い切り蹴り上げ、赤き剣士は光の奔流に身を投じる。
苦痛にのたうち回り、無造作に振り回される枝の鞭を目にも止まらぬ速さで切断してしまう。

「——飛燕華ッ!」

ほんの一瞬、その瞳が紅を孕んだ。もう何度か目にしてきた、彼の隠されし部分。
いっそ無慈悲に大樹は切り刻まれ、弾け飛ぶ。さながら、空に咲く緋色の大輪のようだと、ぼんやりとした頭でテメノスはそんな感想を抱いた。花弁が行き場を失った魔力の粒子と共に吹き去ってゆく。

黒髪をたなびかせながら空を見上げるヒカリの背中は、戦いの際とは打って変わってどこか頼りない。テメノスはたまらず彼の元に駆け寄った。

「ヒカリ……」
「て、テメノス……っ!?」

彼の温もりをこの腕に閉じ込める。
鼓動の音が伝わってくる。ああ、彼はちゃんとここに在る。
ヒカリは耳まで赤く染めて、狼狽えている様であったが、テメノスから離れることはなかった。それどころかおずおずと背中に手を回してきた。
どうしようもなく愛しさが溢れ出してくる。

「……帰ってきてくれて本当に良かった」

柔らかな黒髪の感触を確かめるようにして指に絡ませた。
ヒカリはそんなテメノスを上目に見つけて、更に頬を赤くする。けれど堪えるように目を瞑り、少し掠れた声で、「ただいま」と溢した。




「おっ、テメノスこんなところにいたの?」
「——!?」

目にも止まらぬ俊敏さでテメノスの胸板からヒカリが消えた……否、すぐそばの木陰に隠れてしまった。

「えっ、嘘、ヒカリもいるの?」

だがソローネの目は誤魔化せなかった。早速ヒカリを引っ張り出そうとする彼女との攻防が始まった。「ねぇねぇ、さっきテメノスと何してたの〜?」「な、何もしてはいない!」とは言っても剣をぶつけ合うのではなく一方的にヒカリが色々な意味で追い詰められているだけだが。

「何をしているのだ、あいつらは」

遅れて眉間に皺を寄せたオズバルドが現れた。その背中にはオーシュットが乗せられている。
曰く、森の中でなぜか眠りこけていたようで、マヒナが知らせてくれたらしい。

「肉がこんなにいっぱい……へへ……」

幸せそうに涎を垂らし、大きな寝言まで漏らしている。この様子ならば心配はなさそうだと、安堵のため息を吐く。

「ヒカリくーん! どこだべかあー?」

力一杯に声を張り上げるのは、親しんだ赤い花飾りの踊り子だ。
彼女だけではない。青い制服に身を包んだ女薬師に、革のジャケットと帽子を被った壮年の男もが、ヒカリの名を呼びまわっている。

「アグネアさん達!」

テメノスが杖に輝きを灯し振り回してようやくだ、彼らはこちらに気が付き、白い馬が嘶いた。どうやら駿馬を借りて超特急にティンバーレインを目指していたようだが、同じく霧に飲まれてしまっていたらしい。

「ヒカリ君! あなたどこへ行っていたの」

仲間の再会を喜ぶのも束の間、ヒカリはキャスティの前に正座をさせられていた。
皆の大黒柱と呼ぶに相応しい彼女からのお叱りだ、仲裁などはしようものならば凄まれ巻き込まれるのがオチだ。

「いきなり馬から飛び降りるから肝が冷えたべ。あんな深い霧じゃあろくに探せねえべ」
「きゃ、キャスティに皆。すまない」

どうやらヒカリが了承を得ずに抜け出してしまったようで、これでは心配をかけてしまうのも無理はないだろうと得心する。
それでも、テメノスとしては彼が自分を見つけてくれたことは嬉しいことであるから、複雑な心境だ。
ヒカリとふと目が合う。何か言いたげな眼差しだ。後でじっくり話をしなくては、と思う。

「てかよお前ら……服が酷い有様じゃねーか。大丈夫だったのかよ」

旅路において衣類が汚れるのは避けられないが、ヒカリの装束は勿論、テメノスの神官服も上等なものだ。
よく見れば裾の辺りが破れてしまっている。これは……ソローネについでに縫ってもらえないか頼んでみようかと思う。

「ああ。テメノスがいてくれたからな。それに悪さをしていた魔物は斬った」

ヒカリは魔物の残骸を差し示した。樹木としての形はもう見る影もない。
既にオズバルドが、散乱した魔物の木屑や結晶を掴み取り、拡大鏡を当てつつ何かを呟いている。

「……昔どこかで聞いたことがあるわ。迷いや不安を抱えた人間に浸入り、気まぐれに幻覚を見せる魔物がこの森に潜んでいるって。深い霧は、この魔物の仕業だったのね」

どうにも、幻影に入り込んでしまったのはテメノスただ一人だけのようだ。
迷い、か。完全に断つこと難しいと分かってはいたが、魔物の目につけられてしまうとは……まったく笑えない。

「ふむ。森の魔女と聞いていたがこれは……樹木型の魔物の変異体か何かか。推察するに、こいつの操った魔力の幻影が見るものによっては魔女のように見えただけだろう——」

普段は寡黙なオズバルドも、魔法関連が絡むとこの饒舌ぶりだ。最近得た気づきとして、語っている際の彼のトーンが上擦っている際は新たな知見への喜びを物語っているのではないかというものがある。
内心微笑ましく見守っていると、オズバルドがこちらを見遣った。「ところで」

「この膨大な魔力を使役した痕跡から推察するまでもないがお前が使ったのはただの光明魔法ではあるまいな?」

この流れは、と察する。嫌なわけではなく、余力さえあれば彼との議論ならいつでも歓迎ではある。
だが今日は勘弁してほしいところである。これでも結構疲れているのだ。

「待ってちょうだい、オズバルド。議論は結構なことだけれど今は休ませてあげましょう。ヒカリ君もね」

助け舟の出し方が的確で、ありがたいことだ。テメノスは内心安堵のため息を吐いた。
「む……すまん」
オズバルドとて悪気があるわけではない。彼の肩に触れ、いつものように微笑みかける。

「いえいえ。議論はまた別の日にしましょう」
今度は自分の肩に手が触れた。オズバルドではなく、キャスティのそれが。
満面の笑み。圧を感じる——彼女だけじゃない、アグネア達からも。

「オズバルドだけじゃなくって、何が起きたのか詳しい話をちゃんと私達にも聞かせてちょうだいね? テメノスにヒカリ君?」

「そうだべ! こったら魔物、どうやって倒したか知りたいべ」
「まずはしっかり休んどけ! その後たっぷり聞かせろよ、な?」

皆一斉に詰め寄る。テメノスの笑みが引き攣った。ヒカリも困惑気味に苦笑いを浮かべるのみだ。
特に一番後ろでニヤニヤとしているソローネには嫌な予感しかしない。

「ええ、ええ。休んだら、休んだらですよ……」
「そ、そうだな。休んでから」

翌日の朝、テメノスとヒカリは待ち構えていた仲間達に根掘り葉掘り聞き出されることとなるのであった。
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