ひとつなぎの明日
幻惑そのものである暗闇。それはさながら、果てなき経路そのものであった。酷く冷たく、痛みの絶えない、鉛のような身体を引きずり、ヒカリは道無き道を歩んでいた。もはや脚の感覚は麻痺し、動かせているのかすら曖昧な中、ひたすらに、前へ。
自らの四肢に、絡みつくものがあった。闇に潜んだ無数の手の束。亡者のようなそれは、呪言を吐き散らし、引き摺り込もうとする。
「ッ邪魔を、するな……」
それらをやっとのことで引き剥がし、前へ躍り出る。掴まれるより速く、頭は急かすが、身体はむしろ背後へと引きつけられるようであった。
たちどころに全身が粟立つ感覚を覚え、その目を凝らせば、行き先を遮るように陰が佇んでいた。
己と瓜二つでありながら相反する、闇の化身は、ヒカリを待ち侘びていたように歪な笑みを作った。急激に込み上げる嫌悪感をふんだんに乗せてヒカリは彼を睨め付けた。
陰が踏み出すたび、穢れた黒の残滓が漂う。
その二つのまなこは、ヒカリを嘲笑うように紅を孕ませ、ゆらゆらと揺蕩う。
『よォ、ヒカリ——大好きなママの夢が見れて良かったなァ?』
一度視線が触れ合えば、もう離さないと絡み取られた。陰は口元に歪な弧を描き、ヒカリの首筋を指先で、なぜ回す。
冷え冷えとした感触に、眉根を顰める。瞳孔がそろりと蠢き、ヒカリを侵食しようとする、貪欲な陰がそこにある。
本能的に湧き上がる怖気を振り切るようにして、ヒカリは声を荒げる。
「……黙れッ!……道を開けろ」
佩刀を手に掛け、引き抜こうとしたその時。体の至る所の感覚が呼び覚まされ、激痛が迸る。
刀を握りはすれど、手は酷く震えて、冷や汗に塗れ、動かせもしない。
『素直に通すわけねェだろ。ほらよ、剣を取れ。俺を倒してみろ……まぁ、そのザマじゃあ無理だろうがな』
陰が言い終えた時には、ヒカリはその場に頽れていた。臓腑に無数の針が突き刺さるが如くの凄まじい痛みが、ヒカリの体を支配する。
「ぐ、ぅ……っ」
悶絶し、ついに仰臥しのたうち回る。痛い、熱い、寒い、苦しい。そんな感覚を譫言のように頭の中で詠唱することしかままならない。
『こんな深傷を負ったのはいつぶりだろうなァ……死なれちゃあ困るが、良い機会だ』
反駁しようとして、湿った咳と共に血を吐き出す。口端を鉄臭さが伝う。
「っ……駄目だ、身体はやらん……っぅ、」
陰は顎下に溜まった紅い雫を指で掬い取り、甘美なる蜜を味わうように舌で弄んだ。
その光景の悍ましさにヒカリは地面に縫いついた手を泳がせる。
自信を見下ろし、その様を嘲笑うように陰は喉の奥を鳴らした。『クク、無様だなァ、ヒカリ……どうだ? お前を突き落としたあのクソアマどもを滅多斬りにしてやりたくはないか? お前が流した血よりももっと沢山の飛沫を咲かせようぜ……』
脳裏に一瞬、友たちの無惨な姿が浮かび上がって、ヒカリは必死になって声を捻り出す。
「しない……ッ、俺はライ・メイを、友を信じている……か、ら」
視界が夜の帷を下ろしたように、昏さを纏い始める。呼吸が浅く、深く吸い込もうとすれば喘ぎが漏れ出してくる。
陰は忌々しげに舌打ちし、『なァにが信じている、だ。裏切られた癖して、ただ認め難くて、縋っていたいだけじゃァねぇのかよ……アァ?』底冷えする音色を容赦なく叩きつけた。そうしてヒカリの腹に無慈悲な靴底を押し当て、抉る。「あがッ……! ぁぐ、ぅう」
激しい痛みが突き抜けて、つま先が攣る。
陰は恍惚とした笑みを湛え、『ハハッ……アァ、良いなァ。お前は苦しみ苦しんで、もう縋るのが、俺だけになるンだ』ヒカリのいっとう深い傷を見つけ出し、何度も、踏み荒らした。「ッぐぅ……あ゛……ッが、ぁ」
陰の声さえも遠のく中、ヒカリは痛みに抗いながら、どこか醒めた言葉を呟く自分を見つけた。
ああ、人は産まれゆく時から孤独で、果てゆく時もまた、然り。愛すべき友たちも、この時は何処にもいない。一度知覚すれば、どうしようもなく、この心は脆く、崩れゆくようで。
母は世を去り、四年の歳月を過ごした友は戦火に息絶え、そして盟友の裏切り——この先も、己は誰かを失うのだろう。宵闇のような未来だけが、自分の目前で両手を広げて待っている。
陰は甚振る足を止め、しゃがんだと思えばそっと労わるようにヒカリの頬を撫でた
『ククッ……なァ、ヒカリィ……ごめんなァ? 痛かったろ?』
「ぁ……」
『もう喋れなくなっちまったか? なァ、いい加減、俺と一つになろうぜ? そうすればもう、明日も怖くねぇ、お前も独りにならずに済む』
ヒカリの裡に入り込んで、それを爪繰らんとする陰。抵抗する力はもう碌に残っていない。
一つに。惑う思考に終止符を打つそれは、甘美な響きに感じられる。ヒカリは朧な意識の中、視線を彷徨わせた。
延々と繰り返される自問自答は、擲ちたい欲を助長させるだけである。理性はそれでも、疑問で自身を引き留めようとする。
このまま貫けるだろうか、己の掲げた理想を。死、裏切り、悪意——それらに直面してもなお、この足を真っ直ぐ地につけて、前を見据えていられるだろうか。
『決してお前を裏切りはしないものを教えてやろうか? それは、力だ』
問いかけを断絶させる陰の言葉を、ヒカリは辿々しく復唱する。「……ちから」
陰は大層愉しげに舐めずりをし、『ああ、そうだとも』得意げになって、止めどなく、口を動かす。
『目障りなモンは斬り伏せれば良い。裏切ったやつは殺せば良い。お前の背負う悲しみや憎しみは全部、斬っちまえばいい』
ヒカリの封じ込めていた仄暗い感情を引き摺り出す為の甘言は、蠱毒となり全身に巡りゆく。
『さぁ、俺の元へ来い。ヒカリ——』
陰は手を差しべる。ヒカリが自ら委ねることを望むように。
「……嫌だ」
ヒカリは僅かながらにかぶりを振る。それは明確な拒絶を表していた。
この手を取ったなら、きっと楽にはなれるだろう。しかしヒカリはどうしたって出来かねた。
理由は、単純だった。どうしようもなく、温もりが欲しかったのだ。
身体は氷のように冷たく悴み、温かさが欲しいと叫んでいる。
陰の無機質なそれでは、満たされない。自身の手のひらに視線を移した。胸の奥底にまで灯るような、あの温度を、自分は。
「……テメノス」
濛々とした中で瞭然と口にすることが出来た名に、ヒカリはハッとなって、その目を瞬かせた。
押し込めていた感覚が、記憶が、鮮烈に押し寄せてくる。
あの夜。背後で陰は虎視眈々と自身を付け狙い、少しの油断の許されない状態だった。眠ることは許されず、だが疲労は正常な思考を奪い取り、陰との距離は近しくなるばかり——悪循環の末に闇で自身を侵そうとする陰から、彼は寄り添うことで救い上げてくれた。
この手を握って、優しく微笑みかけてくれた。温もりを、くれた。
きっと彼はなんて事のないように、いつものように飄々とかわすのだろう。けれどヒカリにとっては、いつまでも抱きしめていたい、大切な時間だった。
テメノスはもう、街を出た。暇乞いも告げる間もなかった。
ヒカリは彼らに追い付く形で街に辿り着いた時、偶然、かの聖堂騎士たる彼とほんの少しだけ、顔を合わせた。
調べ物がしたくて、本部に戻ると。なんて事のないように、重々しい雪の街に似つかわしくない、屈託のない笑みを向けた彼。
あの後、帰らぬ人になったと聞かされた時、ヒカリはテメノスの姿を探したが、宿屋はもぬけの殻だった。
テメノスは感情を表に晒さない、否、晒すのが苦手なようにも見える。しかし、根本のところでは友を重んじる彼であるから、きっと深く悲しみ、自責し、怒った事だろう。
弱った彼に、寄り添ってあげられたのなら良かったというのに。その願いさえも、目前の荒波に飲まれた。
——ああ、会いたい。
何が出来るだろう。ありきたりな言葉なんぞでは、意味を成さないように思う。
ただ、安心させるように、その手を握ってあげたい。叶う事なら、小さな身体全てを使って抱擁を交わしたい。
一度そう思えば、体温が瞬く間に取り戻され、頬が熱を帯び始める。
浮雲のようでいて、妙に心地の良い癖して、胸を締め付けるようなこれの名を、知らないわけではなかった。
ああ、もうとっくに。自分は、彼を。飛び出しそうになって、つい口を噤む。 言葉にしてしまえば、もう溢れて止まらなくなりそうであるから。
『なんだ……?』
陰が動揺を示す気配に、ヒカリは顔を上げた。
頬に何かが掠めた気がして、天を仰ぎ見る。
「これは……」
暗闇を掻き消す、輝きの霧雨。それらの粒子は意思を持ってヒカリの体を包み込んだ。体の奥底から、優しい奔流が込み上げる。
傷は跡形もなく消え失せ、それに伴い苦痛も和らいでゆく。
——ヒカリ。
——私は、ここにいますから。
焦がれた声が聞こえた気がして、ヒカリは咄嗟に辺りを見渡す。誰もいない。その代わり、携えた剣が祝福を賜ったように淡い翡翠色の輝きを放つ。
魂ごと満たされる温かさに感じ入る。
「ああ、信ずるとは、こういう事だ」
陰に向けてというよりかは、自分で自分に確かめている。 自分を信じ、貫くこと。そして、自分を他人に預けること。分かち合い、紡いだ絆が、自らの力となる。
思うように動かせるようになったこの手で、刀を引き抜く。いつか見た青い炎が、銀光と手を取り合い刃の上に舞い踊る。
『その炎、見覚えがあるな……』
言いながら、陰もまた剣を抜き取る。深淵たる黒が、際限なく燻る。
驚くほど軽やかな身体を前へ突き出し、ヒカリは澄み渡る軌跡を描き出すようにして、清廉なる青を薙いだ。
暗闇はその一筋によって払拭され、無垢なる蒼穹が瞬く間に姿を現す。
洗い立ての眩さと清い風に、陰は纏う黒をたなびかせ、顔を顰めた。
『……チッ、もう少しだったんだがな……』
ぼやき、吶喊と共に黒い剣をしならせた。ヒカリのよく知る、素早い連撃の技。その鋭い太刀筋は、自分と等しいようでいて、ほんの僅かに荒々しい。
ヒカリはそれを的確にいなし、ぶつかり、燻んだ火花を打ち払う。
浅く呼気を吐き出し、剣を握る力を強めれば、炎は大輪を吹かす。
「——これで終いだ、忌々しい陰よ」
霞の構えをとり、ヒカリは陰を見据える。この刃で、奴を断つ。もう二度と揺るぎなき意思を込めて。
陰は口端を釣り上げ、禍々しい黒を螺旋状に取り巻いた。
ヒカリに肉薄せんと空を舞い、吼える。
『終わりなんてねぇよ、お前に血が流れ行く限りはなァッッ!』
刀のぶつかり合う甲高い音が、非現実的な空間に巡り、反響する。ヒカリは俊敏たる身のこなしで回転をきかせ、陰の猛攻を的確に弾き、いなす。
「貴様が消えずとも、俺はその度に斬るだけだ——」
その僅かな隙を捉えた時、ヒカリの目路になぞるべき一閃が浮かび上がる。それを寸分の狂いなく、辿る。
陰の表情に微かな動揺が宿る。ひたむきかつ高潔たる炎の帯が、首筋に触れ——裂いた。ヒカリにはそう映った。
だが、そこにあるのは黒い残滓だけであった。
「……撒いたか」
純然たる静寂が立ち込め、あるのは自らの落ち着いた呼吸音のみ。
刀身から青い炎が消え失せるのを認めたヒカリは、流れるような所作で剣を懐に収めた。
そう遠く無い日に、奴とは再び対峙することになるだろう。そんな確信がある。
足を前に動かし、少し、考える。
暗闇に閉じ込められる前、ストームヘイルの橋上で最後に見たライ・メイの相好には僅かな迷いの色が窺えた。
彼女と向き合い、話をしなければ。緩やかな歩幅は、突き動かされたように速度を増し、やがて風となる。
空と地の境界線も曖昧な夢世界を、ヒカリは疾くと駆け抜けた。
☆
薄く開いた瞼から赤い花の輪郭が見え隠れする。指先がふと震えたのを皮切りに、おもむろに覚醒する。
「ヒカリくん……!」
最初に視界に映り込んだのは、アグネアの驚きを湛えた表情だった。それから誰かの忙しない足音が近づいてきたかと思えば、ベッドが揺れた。「おお、ヒカリ……気が付いたんだな!」パルテティオがそばで自分を覗き込む。感極まったように双眸を少し潤ませていた。
何か言葉を発しようとしたが、口内は干上がっており、上手く喉を震わせることがかなわない。
身体を持ち上げようとすれば、腹の辺りから激しい痛みが広がり、それに伴って冷や汗が噴き出す。声にならない呻きが溢すヒカリを、「おいおい、安静にしてろって」パルテティオがやんわりとベッドに押し返す。
「今、キャスティさん呼んでくるべ!」
アグネアが靴音を響かせ、それが途切れてから暫し経った頃、キャスティが駆けつけにやってきた。
水を少しと、彼女が調合した粉薬を飲み干す。漠然とした頭が、次第に冴えてくる。
視線を下に移せば、腹部に何重も巻かれた包帯が目に入った。「……俺は」
二の句を紡ごうとして、解ける。ライ・メイが放った青白い電撃を最後に、記憶が朧げだ。
「ヒカリ。お前はあの橋から落ちたんだ。俺たちがすぐに駆けつけたんだが……」
「……すぐに、街の神官さんや薬師さんを探して回ったの。傷口を塞ぐことはできたけど……出血が」
当時を思い出したのか、アグネアは怯えを孕んだ表情で自らの腕を抱く。顔色が悪い事に気がついたヒカリは彼女の肩にそっと触れた。「よい、アグネア。俺は、危篤な状態だったのだろう」
か細く自身の名を呼び、彼女は頷いた。それだけで、十分だった。
「俺を治療してくれた者たちに後で礼を言いたい。そして……キャスティも、駆けつけてくれたのだな」
ヒカリはキャスティを仰ぎ見た。
メイ城を訪ねた頃には、彼女は名もなき村に滞在していたはずだ。
ブロンドの横髪を揺らし、キャスティは神妙なる面持ちで諾なった。
「ええ。……正直に言うわ。普通、あの高さから転落なんてしたら複雑骨折どころか内臓が破裂していてもおかしくはなかった。あなたのその目覚ましいほどの回復力がなければ今はなかったと断言できるわ——」
滔々と入り込んでくる言葉に、ヒカリは目を細める。そうして、曖昧だった記憶の破片が組み合わさって、形を成すのを覚えた。
自分は確かに、事切れる寸前にまで来ていた。母の追想、そして、青い炎を纏い陰と戦ったあの夢は、生死を彷徨っていた裏付けとなる。
「うむ……だが、キャスティの力添えあってこそだ。ありがとう」
礼を告げて程なく。新たな足音が、また一定のリズムで響く。
視線をあたりに移せば、ここが冷たく、殺風景な牢屋であることが分かる。ヒカリ達はそこで過ごすことを強いられているようだった。
足音が止まる。長く編み込んだ後ろ髪を退かし、鋭い眼差しを向けるその女は、ヒカリの盟友その人であった。
「……あの橋から落ちて死なぬとは、さすが、ク家の血だな」
蔑みを含んだ科白と共に、ライ・メイは明白な敵意をヒカリに差し出す。
だが、自身が同じものを返すことはない。彼女は友である、それは不変であるがゆえに。
「テメェは……ッ!」
そんなヒカリに反して、パルテティオらは彼女に向けて怒りを露わにした。「よくも、よくもヒカリくんを……っ!」涙目ながらに、ヒカリを庇うように前に踏み出すアグネア。
「事情はすでに聞き取ったわ。あなたのやり方は横暴を越えて……愚かだわ」据わった目で斧を構えようと手をかけるキャスティ。
三人を一瞥し、彼女はこれみよがしに溜息を溢した。
「あなた方はいい加減その者から離れてはくれないか。同じ罪人にされたくなければな」
「んなことすっかよ! ヒカリは俺たちの仲間だぞ」
反駁するパルテティオから視線を外したライ・メイに、ヒカリは包帯の巻き付いた自らの手を彼女に差し伸べる。あの橋上でそうしたことを、再び。
「ライ・メイ。再び俺たちと戦ってはくれぬだろうか。ク国の未来のために」
「断る。ムゲン様の命により、貴様はメイ家が直々に処刑する事に決まった」
その宣告に、ヒカリは微塵も動じることはなかった。ただ、まっすぐにライ・メイを見据える。
彼女はヒカリの眼差しを受け取り、その眉宇を曇らせた。
一切の迷いもない口吻に思えて、彼女はやはり、何か葛藤している。
「な、なんだと……!?」
パルテティオ達は俄かに動揺を示す。ヒカリは彼らに向け、大丈夫だ、と横目に一言告げれば、すぐに静かになる。信頼がここにあるからこその、応酬であった。
「その目……なぜだ? なぜお前はここまで来ても諦めぬのだ」
確かに震えを伴わせながら、彼女は柵を掴み、揺すり上げた。
「諦める理由などない。俺は、そなたを信じている」
友と結び合った絆が、自分を形作っている。そしてそれは、そうやすやすと千切れはしない。
「……っ」
ライ・メイは、逃げるようにその場を後にした。
翌朝、家臣のクンゾがヒカリ達の元を訪ねてきた。
彼はまず、地下牢室の施錠を解いた。周囲の動揺をそのままに、彼はひとりでに語り出した。それは、ヒカリが見た八年前の、あの母の夢の続きのように思えた。
ライ・メイの兄に関する真相、そこから見えてくる我が国の陰りの部分。
その名を背負ったヒカリがすべきことはもう、一つしかない。
彼女と真面から語らうべく、ヒカリは傷を負った体に鞭を打ち城の頂上まで漕ぎ着けた。
そこでの戦いは熾烈を極めた。自分一人だけでは、彼女に太刀打ちはできなかったろう。仲間の助力があってこその勝利だった。
ライ・メイの慟哭が雪空に響もした。ヒカリ達は彼女を背に、その場を後にした。去り際、クンゾとすれ違ったが、ただ視線を交わすだけで言葉は無かった。
ストームヘイル。延々と雪が積もりゆく閑静な街。どこか物寂しい街中で、変革が生まれた。それは知り得る者が多いこともあれば、内側で隠し仰られてしまうものもあった。
前者は氷の守護者グラチェスだったろう。しかしそれも、数日もすれば案外騒ぎ立てるものは殆どいなくなっていた。
一晩休み、街の薬師に礼をして回った一行は、次の目的地を目指す事にした。
リーフランドのティンバーレインという城下町だ。ここからはかなり離れているが、パルテティオの伝手で駿馬が借りられそうだった。上手くいけば数日で他の仲間と合流できそうである。
街の端までやってくると、建物が薄い黒のシルエットとなり、幻想のように揺らめていて映る。
あえかな光景に複雑な思いでいると、後ろから肩を突かれた。パルテティオだ。アグネアと、キャスティもいる。少し買い物に行くと話していたが、物思いに耽っているうちに、とっくに済ませてきたらしかった。
ほらよ、と頬に押し当てられたのは便箋であった。
「……テメノスから俺たち宛に。お前の名前が最初にあるから、先に読んでくれよ」
恋しい人の名は、簡単に胸を高鳴らせる。おずおずと折り畳まれた手紙を開いて、噛み締めるように字面に目を通す。少し丸みの帯びた筆跡は、確かに彼のものだった。
そこには滞在していたオアーズラッシュを出立し、ティンバーレインを目指す旨が綴られていた。彼の地で、八人皆で落ち合いたいと。
——"信じて待っています。再びまみえるその時まで"。
銀世界よりも愛しい白を思い浮かべる。その言葉だけで、ヒカリはどこまでもゆける。
あの翡翠色が、どうか自分を映し込んでくれますように。密やかな願いは、いつまで胸の中に隠しておけるだろうか。
何処からともなく吹き付ける風が背中を押す。黒髪に粉雪が付着するのを軽く払いのけ、ヒカリは仲間の方を振り返った。
「さあ、行こうか。皆よ。我が友たちよ」