ひとつなぎの明日

「シケた面してんね、テメノス」

いつの間にか机上に腰掛けていたらしい、こちらを覗き込むソローネに驚かされ、つい本を反射的に閉じてしまう。
しおりも挟んでいないので内心がっかりする。
彼女が持参して来たカンテラが揺れる。机に座るなど行儀の悪い……と注意する気も湧かず、代わりに溜息をこぼした。
そんなテメノスに、ソローネは胡乱げなまなざしを向ける。

「何読んでたのさ。見られちゃまずいもの?」
「いえ、ナ・ナシの里について少し調べ物をしていただけです」

とは言っても、手に取れる書物はほとんどない上に目ぼしい収穫も得られていない。
ナ・ナシの里に辿り着き、調査を進めること自体が至難の業である事が大きな理由だろう。何せ、あの地の周辺は非常に強力な魔物が跋扈している。並大抵の人間では踏破は困難を極める。
その上、情報源である獣人とどこまで意思の疎通ができるのかも分からない。

古代遺跡の残骸が眠るあの地は、私学を嗜むものであれば一度は訪れたいと願うだろう。しかし、現実を思い知り諦めてしまう。そうして歳月ばかりが過ぎていくのだ。
だからと言って、テメノスが同じように踵を返すかと問われれば、答えは否。

「……ふうん」

数ページをパラパラとめくって見せれば、ソローネは興味が薄れたのか机から飛び降りる。

「珈琲でも淹れようか。蜂蜜酒なんかもあるけど」

後者は冗談だろう。酒など飲めば文字が追えなくなる。

「珈琲でお願いします」

ゆえにそう返したのだが、ソローネは肩をすくめてつまんないの、とごちった。
こちらが反駁するよりも素早く、部屋を後にしてしまう。
オアーズラッシュの一角、小さな宿屋。
オズバルドはハーヴェイとの激戦・決着の末、娘の様子を見に一人コニングクリークへと向かった。

恐らく明日には帰ってくるだろう。ハーヴェイが第七の根源と謳った暗黒の力を手にするにあたり、手引きした人物がいるだろう——そう考えたオズバルドは仲間の付き添いがてら、手がかりを掴みたいと話していた。

街を後にする際のオズバルドの表情は、心なしか前よりも覇気があり、清々しいものだった。
目的を達成できたのもそうだが、それと同等の価値ある何かを、彼は得られたのかもしれない。

「はいよ、熱いから気をつけて」

物思いに耽っているうち、マグのギリギリの量まで淹れられた珈琲が置かれる。香ばしい香りが鼻腔をくすぐった。

「どうも」

またしてもソローネは机に腰を据え、珈琲を一気に煽ってしまう。
テメノスも一口舐めるが、かなり熱い。これを流し込めるなど喉が焼けてしまうのではなかろうか。

「……この苦味、眠気飛ばしには丁度良いね」

ああ、効くと眉根を寄せた。ソローネはこう見えても木苺といったフルーツや甘味を好む。珈琲はそこまで得意ではないらしい。

「テメノス、豆切れたから買ってくんない? 明日」
「はあ」

ソローネはこの通り、軽いノリでテメノスを使おうとする。別に悪いとは言わない、寧ろ今までに気軽に接してくる人間の方が少なかった。彼女は貴重だろうと思う。

だが気分が乗らないというのが現状だ。返答しあぐねているテメノスの肩を突き、「たまには外出なよ。息抜きになるじゃん」そんなことを言ってくる。

確かにオズバルドが街を後にして二日は部屋に篭りっぱなしだ。
机に向かい続けていたためか、肩やら腰も痛む。だが、何もしないというのも耐え難い。
自らの正義を貫かんとした為に、その命を散らした彼の顔が脳裏をよぎる。

借りを返す——報いなければ。湧き上がる焦慮が己を責め立てる。

「……あんたさ、ほんと酷い顔してるね。一度自分の顔を鏡で見てみたら?」

ため息混じりに遠慮のない口撃を喰らわせるソローネに、テメノスは気色ばんだ。

「自分の顔くらい、毎朝嫌というほど見てますよ。それがなんだというのです」

だからつい、棘の含ませた言葉を返してしまう。
ソローネはなにも言わず、飲み干していないマグをテメノスからひったくった。(とはいうが、実際はいつの間にか手元から無くなっていた)

互いに遠慮がないとはいえ、機嫌を損ねて当然だろう。自分の余裕の無さに嫌気が差す。彼女なりに気にかけてくれていたことは、分かっているというのに。

再び書物に目を通すが、頭に入って来やしない。今日はもう、眠った方が良いのかもしれない——と横になってみるものの、落ち着かない。仕方なしに億劫になっていたミントからの手紙の返事をしたためるなどしたが、納得のいく文言は思い浮かばなかった。

それよりも東大陸の仲間達に向けた手紙の方が捗った。キャスティは記憶の手がかりを求めて人なき村へ、ヒカリはストームヘイルに城を構えたかつての友を訪ねるとのことだが、経過は順調だろうか。特にヒカリは、気にかけていないとすぐ無理をしそうで、心配だ。力の抜き方を覚えねば、彼が国王に就いた際には過労で臥せてしまうのではなかろうか。

「……眩しいな」

気付いたら寝入っていたらしい、窓辺から差し込む光で目が覚めた。
背中が暖かい、と思えば厚地の毛皮ブランケットが掛けられていた。
首を寝違えなくて良かったと安堵しつつ、椅子から立ち上がろうとした時、部屋の扉が勢いよく開かれた。

視界に飛び込んだのはピクピクと動くとんがった耳とフサフサの尻尾。他に間違えようがない、オーシュットだ。

「めいたんてー、やっと起きたね!」

自分を見上げるオーシュットは快活そのもので、少し明るい気持ちになれる。
こう見えても彼女は歴とした成人女性だ。今だに幼い子供と間違えそうになることは、全くないと言えば嘘になるが。

「……おはようございます、オーシュット。もうお昼ですか?」
「うん! ほら、太陽が一番高いとこにあるよ〜」

机に飛び乗り、オーシュットは勢いよく窓を全開にしてしまう。陽射しの眩しさもそうだが、外の熱気が直に入り込んでくる。
この時期、ワイルドランドの日中は凶器的な暑さで旅人の体力を奪いにやってくる。
この時点で外に出るのが億劫になりつつあるが、部屋に篭っていたいとも思わない。
とりあえずやんわりと彼女に卓から降りるよう頼み、窓も施錠した。

「このブランケットはオーシュットが被せてくれたのですか?」

見たところ魔物の毛皮で拵えたものだろう。オーシュットは買った獣の食べられない部分は行く先々の職人に頼んで衣類などに変えてもらうか、自分で編んだりしている。

「そうだよー今はあっちいけど夜は寝冷えするからねぇ」
「やはりそうでしたか。ありがとうございました」

返そうとするも、気に入ったんならあげるよーと屈託のない笑みを向けられた。
見た目は不恰好だとしても、彼女の心優しさが詰まっている。ありがたく頂戴することにした。



それからお腹が空いたというオーシュットの要望もあり、二人(それとマヒナ)で買い出しに赴くこととなった。

頼まれていた珈琲豆も買った。生で齧ってしまったオーシュットは苦味に眉根を顰め、マヒナがそれを見て何か鳴いていたがテメノスには理解が出来ない。マヒナは時たまにオーシュットを叱っているような様子が見られるが、それでも最後には彼女の肩に止まって擦り寄っていたりする。傍目でも、両者の仲は良好で保たれていることがよく分かる。

「めいたんてー、これ食べてみなよ」

彼女に手を引かれるままに小さな食堂の敷居を跨いだのだが、どうも魔物肉を中心に取り扱っているらしい。

「おっ、お客さん分かってるねぇ! こいつは一度食べたら病みつきになるよ」

気前の良さそうな店主曰く、デザートワームの臓器を取り出して辛い調味料で味付けし煮込んだものであるとのこと。

ビーフシチューのような見てくれだが、この匂い、肉の生臭さが残っているのだろうか。随分と刺激的である。

「い、いえ……私はちょっと」

これならオーシュットが"かこう"してくれた魔物の肉やアグネアやキャスティの手料理の方が見栄えが良いし美味しそうだ。(実際、とても美味しい)
立ち上がる湯気が禍々しいものに見える。否、間違いなく黒ずんでいる。

「えー! 少しでも良いから食べてみてよ。元気出るよ?」
テメノスの貼り付けた笑みが引き攣る。スプーンに乗せられた肉塊が揺れた。「あーん」


「——ん、なにこれ……美味しいかも」

艶っぽい唇にソースが付着するが、すぐに舐め取られた。
突然の救世主、ソローネのお出ましである。
出かける前、宿の部屋には見当たらなかった。 一体何処に行っていたのか。

「甘辛いのならいけるんだよね、私。いいね、好きだよこれ」
「おっ、むんむんは分かってるなあ」

意気投合する二人に、内心安堵する。
毒入りワイン当てに飛び入り参加する度胸があるのがソローネという女だ、灼熱モツ煮込み程度なんてことはないのだろう。

「ね、先生も食べてみない? 結構イケるよ、これ」
「……遠慮する」

見るからに無愛想な偉丈夫が店の入り口脇に佇んでいるのを認めるなり、テメノスは思わず椅子から立ち上がった。

「とっつあん! おかえり〜」

躊躇なく突進するオーシュットを難なく受け止めてみせた。尻尾がさりげなく揺れているのが愛らしいなと思いつつ、テメノスも彼の元に歩み寄る。

「帰っていたのですね」

無事で良かった。旅をしたての頃は手こずった周辺の魔物も今や軽いものだが、それでも何があるかは分からない。
それは東大陸を攻略中の仲間達にも言えることだ。

「……先程到着したばかりだ。野営をしたため少し遅れたが」
「そうそう、先生ってば私がプロデュースした格好、街から離れたらすぐ着替えちゃって。あー、勿体無かったな」

オズバルドの腕に巻き付くソローネ。今の彼はいわば両手に花といった状態だ。……最も、揶揄ったところで彼は意に介さないだろう。心に留めておくに限る。

「むんむんは夜中にとっつあんを迎えに行ったんだよね〜」
「……」

部屋に居なかったのはその為だったようだ。恐らくオーシュットには出掛ける旨を伝えていたのだろう。あのやり取りの後なので致し方ないにしても、黙って行ってしまわれるのはとテメノスは内心複雑であった。

「待つより会いに行く方が性に合ってるの、私」
そう言って頬を僅かに染める。少女めいたそれになんて顔をしているのやら……と溜息をこぼす代わりに「さいですか……」と投げやりに返した。


結局モツ煮込みはオーシュットとマヒナ、ソローネと半ば無理矢理"あーん"されたオズバルドが平らげた。
テメノスは騒いで申し訳なかったと店主に謝辞を述べ、少し多めにお代を渡しお釣りは無しにしてもらったのだった。

「速達です! テメノス・ミストラルさんはいらっしゃいますかー!?」

店を後にすると、馬車を引いた壮年の男が自分の名を呼び回っている。流石に驚いて、テメノスはまっすぐ彼の元に駆け寄った。

「テメノスは私ですが」

一見、商人の証である羽帽子を被ったごく普通の青年だが……どこかで見たような気がしなくもない。

「おお、良かった! パルテティオさんからお手紙を預かっております!」

急いできたのか、青年の息が荒い。労い、封筒を受け取る。
パルテティオに知り合い、となると彼と共に百貨店を立ち上げた商人か、その伝手か何かか。

「ええ! 至急届けて欲しいとのことで……僕もちょうど、この先のクラヴェルで取引の予定がありましたので」

至急、その言葉にテメノスは胸騒ぎを覚えた。
このままクラックレッジに向かい一泊する予定だという青年を見送ったのち、近くの軒下で封を解く。
テメノスは一度集中してしまうと、周りが見えなくなる。それこそオーシュットが中身を覗こうと視界の端で跳ねたりローブの裾を引っ張るのにも構わない。

最後の一節を読み終えたその時、テメノスから便箋が二枚、すり抜けた。

「わっ」

空を舞うそれを、オーシュットが咄嗟に掴み取る。
自分の手のひらを見やると、酷く震えていた。
それだけではない、自分が今、きちんと地に足を付けて立っていられるかの感覚すらもあやふやで、「テメノス!」ソローネに支えられてやっと、少し現実を取り戻す。

「……ヒカリが」

その先を言葉にしようとして、出来なかった。
代わりに手紙に目を通したオズバルドが静かに口を開く。

「——ストームヘイルで、ヒカリが橋から転落した。キャスティがもうすぐやってくるだろうが、危篤な状態である、と」

告げられた内容に、女性二人も言葉を失う。
一体どのような過程で斯様な事態に至ったのか、手紙には何も書かれていない。

だが何であれ、ヒカリが今生と死の間際を彷徨っている。その事実だけでテメノスはもう正気を保てなかった。

「記された日時は今から二日ほど前。俺の記憶では彼らがストームヘイルに到着した際、キャスティは確か、人なき村に滞在していたはずだったな」

ストームヘイルで各々の目的を果たしたテメノスとオーシュットは、オズバルドとソローネと共にクラックレッジを目指すために東大陸を離れた。
当初はヒカリ達と合流する予定であった。が、テメノスは友人を失い、託された真実への道を切り拓くべく、早急に落日の遺跡に向おうとその一心だった。オーシュットに関しては彼女の直感のままに向かったわけだが、結果的に地の底に眠るテラを迎えることができた。オズバルドは言わずもがな、クラヴェルで目的を果たした。

「……俺たちに出来ることはただ、待つだけだ」
大きな手が、テメノスの肩を突いた。
「信じろ。ヒカリやキャスティ達を」
「……オズバルド」

その眼差しは真っ直ぐ射抜くようで、テメノスは見つめ返すことができなかった。

「めいたんてー……宿に、戻ろ?」

最後に覚えているのは、自分の腕を掴むオーシュットの言葉だった。
後の記憶は、曖昧かつ断片的だ。気がつけば、部屋の硬い床に頽れている自分が居た。

……ヒカリ。
貴方も、私の前からいなくなってしまうのですか。

胸中で繰り返される悲痛な問いかけに、答える者など居るはずもない。
斜陽の鋭い光が薄暗くなった部屋に差し込み、向かいのテメノスを照らす。
眩く煩わしい。が、それだけで動く気にもなれない。只々、無気力だった。

「……テメノス」
コンコン、とノックが二回。
「テメノス?」

間を置いてまた二回。
「……テメノス。いるんでしょ?」
「……はい」

返事をするのがやっとだ。ソローネが扉の向こうで呼気を吐き出すのが分かる。
「ここで要件だけ伝えておくよ」
沈黙は肯定と捉えられたのだろう。再びソローネが口火を切る。

「さっきキャスティからの手紙が来た。……一日遅れでね。ストームヘイルに向かうとは書いてあったけどそこまでさ。ただ、次の合流場所は決まったよ」

人なき村からストームヘイルはそれなりの距離がある。
現地に薬師はいるだろう。が、テメノスはあの街の高い位置にある橋を一度目にしている。
不意に落とされたとして、命など保てるだろうか。魔物に襲われたっておかしくない。

引き上げられた時には食われた途中なのではないのか——考えれば考えるほど、絶望的だ。
テメノスの心理とは裏腹に、ソローネは淀みない口調で言葉を続けた。

「ティンバーレイン。此処からは少し離れているけど、三日もかければ馬車がなくとも辿り着けるだろうね。明日、出発しようって先生が言ってるけど……いける?」
「……ええ」

テメノスの返答を聞き届けたソローネは、気配ごと煙のように消し去っていってしまった。
彼女はこういった時決まって慰めや励ましの言葉を与えることはしてこない。ただ、そおっとする。有り難いといえば、そうかもしれない。
自分の膝を抱き、テメノスは考える。考えて、考え尽くす。

この手にすり抜けた物がいくつあろうとも、前に進まなくてはならない。
真実の為に。大切な友人のために。
それが"仕事"であり、使命なのだから。
けれど立ち止まって、分からなくなる。自分は本当に正しい道を歩んでいるのかと。

真っ直ぐ敷かれた真実への白線に辿り着く頃には、自分はたった独りで、悠久の孤独に取り残されるのでは無いか。

「めいたんてー、だめだよ」

いつの間にか部屋を訪れていたオーシュットの制止で我に返る。
途端、指先に鈍い痛みが走る。目下を見やれば、血が滲んでいた。無意識下に齧っていたらしい。

「すみません……」

このくらいならばいつでも治せるだろう。そうと分かれば、後はどうでもよくなった。

「痛そう……めいたんてい、つらい?」

だが、オーシュットが自分よりも悲痛な表情をしてみせるので、それが居た堪れずすぐに回復魔法を使った。

「今、本当に辛いのはヒカリでしょう」

彼の顔を思い浮かべて、また指先に力がこもる。
最後に話したのはいつだったか。共に焚火を囲んで、食事をした時だったろうか。

それとも、魔物相手に傷を負った彼に向け、回復魔法を唱えた時だったろうか。
ヒカリの、勇ましい横顔も、その背中も。少し困ったような微笑みも、ふと見せるふわりと綻ぶ顔も、何もかももう見られないとしたら。

——あの温もりが、失われてしまうのなら。


「めいたんてー……っ」
側で寄り添っていたオーシュットが泣いているのだと知覚するのに、少しの時間を要した。
テメノスは突然の事で、何か言葉をかけようにも良いものを探り当てるのは困難を極めた。

「めいたんてー、海を渡る前からずっと悲しいにおいがしてたのに、今はもっと強まってる」
「……」

悲しいにおい、か。強い感情は、とうの昔にしまい込んで、年月と共に風化してしまったものだと、そう思ってきた。
クリックの死体をこの目で見た時、テメノスは芽生え出した深い悲しみと、そこから派生する憤りを一度は押し殺すことができた。
彼の繋いでくれた真実を見出すには、それが必要であったから。

だがそれも一度きりで、すぐになりを潜めていたはずの感情は堰を切って溢れ出した。
その奔流は、テメノスを蝕み続けた。誰かと笑っている時も、胸底では仄暗い何かが揺蕩っている。

手紙越しにヒカリに関する報せを受け取った時、それは濃度を増した。当たり前のように動かせていた肢体も、機能を失ったかのようにままならなくなった。

そんなテメノスの肩を支え、オーシュットは屋根上に行くよう促した。
意図が読めなかったが、抗うような力も無く、ただ支えられ、誘われるがままに梯子を登った。
旅中でも感じたことだが、彼女の膂力はその身体以上だ。最後の一段まできたところで、オーシュットはテメノスの腕を掴み、思い切り引き上げた。

屋根上にはマラマフクロウのマヒナの姿があった。羽を折りたたみ、鳴くこともなく、大人しい。どこか澄ました印象も受ける。
オーシュットは適当な所で腰を下ろした。小さく千切った干し肉をマヒナに食わせてやり、その柔い体を撫でた。

「めいたんてーもお腹空いてるでしょ。どうぞ」

そう言って手渡された干し肉は、オーシュットが齧っているものよりも少し大きい。
テメノスはゆっくりと咀嚼しながら、屋根から見下ろせる街の景色をぼうっと眺めた。
もう直ぐ日が落ちる。その為か、銀鉱山で働く者達が荷台に鉱石を蓄え、一点に集まり何やらおとがいを叩いている。その周囲には、忙しなく動き回る人、人。

「美味しい?」

目が回りそうだ、と感じたその時にオーシュットが遮った。
無心で齧っていた干し肉はもう残り僅かだ。

「……ええ」
「そう、よかった」

少しお腹が膨れた為か、滅裂とした思考が形を取り戻す。

明日、ティンバーレインを目指すと、ソローネはそう言っていた。
この体たらくで、彼らに負担を強いてしまわないだろうか。
いっそ、留まるべきか。

空でも飛べたら、ストームヘイルまで向かうことが出来るのに——
思いかけて、かぶりを振る。
益体もない。なぜそんなことを思うのだろう。
オーシュットの辿々しくもどこか優しい音色の歌に暫く耳を傾けていたが、そのうち飽きたのか、静まった。

やがて夕闇が辺りを包むと共に、マヒナの瞳が淡い光を湛える。
澄んだ丸い目に自身を映した無垢なる少女は、テメノスの顔を覗き込んで、問いかける。「ねえ、めいたんてーは、ひかりんが大切?」

テメノスは勿論と首肯する。
旅の仲間であり、友人でもある。当然だ。

「へへ、そうだよね。私もひかりんもみんなも大事な友達で、大好きなんだ」

好意を真正面から伝えられない人間など数え切れないほどいる。そんな中で、オーシュットは真っ直ぐに言い切ってしまうのだから、素直に感心する。

「……あなたは、凄いですね。そうやって言ってしまえるのが」

賞賛を口にすれば、案の定、オーシュットは不思議そうにその目を瞬かせる。

「どういうことー? 当たり前のことを言ってるだけだよ?」
「それが、すごいんです」

私には出来ないことですから、とは言わない。
彼女も特に深掘りする気がないのか、「ふーん、そういうものなんだね」やんわりと、それ以上尋ねてくることはなかった。

すっかり暗くなったのでカンテラの灯を灯し、互いの間に据えた。
夜風も依然として乾いているが、涼やかに感じられる。

「わたし、思ったんだけどさ。言葉だけじゃ、なんか足りない時ってあるよね」

持ってきていた自作の毛布を下に敷いて、オーシュットは四肢を広げていた。
そんな彼女の腹の上に、遠慮なしにマヒナが乗っかり、顔を傾ける特有の仕草を見せた。
その様を何となしにまじまじと見つめつつも、彼女の語りを反芻した。

言葉だけでは足りない、それはつまり、それだけ思いが強いということだ。

「そういうときはね、すっごく美味しい干し肉作ってあげることにしてるんだ〜気持ちをたくさん込めるの」

なれば、行動で示せば良い。人間も獣人も、考えつくところは同じのようだ。

「干し肉を選ぶのは相変わらずなんですね」

オーシュットらしいなと、自然と綻んでいた。純朴な彼女と話していると、心が洗われるようである。

それに、直向きな気持ちのこもった彼女からの贈り物ならば、受け取る側も純粋に嬉しく思うことだろう。

「ひかりんはきっと今も、いっぱい頑張ってる。 だから良い肉あげようと思う!」
「……いいと、思いますよ」

ヒカリが、生きていてくれたのならば。
暗澹とした思いが再び頭を擡げるので、テメノスは目の前の空景色をじっと見据えることで意識を逸らす。

マヒナが突如羽ばたいたので、翼が頬を掠めた。驚いて横を見やると、オーシュットが体を起こしていた。

「ねぇ、めいたんてーは?」
「え?」

ついさっきの反動か、カンテラが揺れている。幸い、少し傾いただけにとどまった。
何か鳴いているマヒナにも構わず、オーシュットはテメノスを見ている。そのまなざしは、やじりのように鋭い。

「めいたんてーは、ひかりんに何してあげたいの?」
「私は……」

考えもしてこなかったことだ。何よりも彼の無事を祈っているから、その先のことなどは、何も。
ヒカリにしてあげられること。考えて、ふと思い起こされるのはいつかの夜の情景であった。



「——手を、繋ぎたいです」

言葉にして、テメノスは愕然とし、当惑した。
それは、彼にしてあげたいことではなく、自分の願望ではないのか。
深い夜の中。一度だけ、彼の手を握り隣で眠ったことがある。

お節介心、といえばそうなのだろう。日に日に目の下の隈を濃くして、それでも微笑みを崩さない彼に痺れを切らしていたというのもある。
何かに怯えているようで弱々しく、それでも健気に微笑む彼に、胸の奥がちりちりと疼く覚えがした。

だから、少し強引でも構わないと隣で眠ることにした。寝かしつけることは子供相手にしかしたことがないから、苦手な子守唄を披露した。

彼は破顔して、喜色を滲ませていた。すっかり自分に気を許しているのだと分かって、嬉しく思うはずが、どうしてかやきもきさせられた。

テメノス以外の人間にも、こんな風にあどけなく
彼は笑うのだろうか。そんな考えが頭を過ったのだ。
あっさりとその手を差し出したヒカリの手は思ったよりも小さかった。
ちょっとした悪戯心で、指先で皺をなぞるなんてことをしていたら、彼は擽ったそうに、しかしどこか困ったような反応を見せた。
色めく表情を目の当たりにした時、己は何を感じた?




「——ああ……くそ」
呻吟を漏らす。悪態だって吐きたくもなる。
こんな、こんなところで知りたくなんかなかった。

「だいじょーぶ?」

オーシュットが丸まってしまった背中を優しく摩る。テメノスの胸中は、もう、ぐちゃぐちゃだ。

一度認めてしまったものを跳ね除けることはもうできない。できないから、どうしようもない。これは、罪だ。

「オーシュット……私は、愚かです」
「おろか? よくわかんないけど、私はいいと思うよ、手を繋ぐと安心できて、あったかい気持ちになれるもん」

オーシュットはそうやって、簡単にテメノスを肯定してしまう。さながら自分は甘やかされている子供のようだ。身を委ねてしまいたくなる、けれど。

「でも、それだけでは足りないと思うんです。私には言葉も必要ですから」

伝えられるだろうか。否、どうあっても伝えよう。
ヒカリに会えた、その時に。だから、今は前へ進む。それもまた、信ずるということだから。
彼が友を信じ、邁進するように、自分もそうしたい。

「おー、そっか。がんばれ! めいたんてー」

オーシュットは匂いで感情が読み取れる。もしかしたら、諸々分かってしまってるのやもしれない。でも、彼女にならば構わない。

——また借りが出来てしまいましたね、オーシュット。

テメノスは立ち上がった。前へ歩んでゆくのは、他でもない、自分自身だ。
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