ひとつなぎの明日
「……黒いな」
閑古鳥の鳴くような小さな宿の食卓は静寂に包まれている。ゆえに、オズバルドの呟きも容易に拾い上げることができた。
だが誰かが返答を返すこともなく。ただ黙々と食事を口に運んでいく。
目下に気を取られ、彼の眼差しが己に向けられていることを認めるのには、少し時間を要したのだった。ふと視線を感じ、顔を上げたところで彼のどこか憂慮を孕んだ面持ちをこの目に映すこととなる。
「俺の顔に何かついてるのか?」
つい、首を傾げる。
彼は食事は二の次で、宿に着くなり魔法学の書を読み耽るべく部屋に篭ることもしばしばある。此度はキャスティからお小言貰ったのだろう、きちんと朝食の時間に間に合わせてきた。
「違う」
即座に否定される。そういえば、今日は本を片手に携えていないのだなと今更ながらに発見する。珍しい事もあるものだ。
そんなことを考えていると、オズバルドがふと、目下に指先を当ててみせた。
「?」
意図が分からず、頭に疑問符を浮かべているとキャスティがそっと立ち上がり、「ヒカリ君、最近眠れているかしら」と柔らかな笑みと共に尋ねかけてくる。
「……少しは」
答えながら、つい目を背けてしまう。この時点でもうキャスティは察してしまっているだろう。
このところ何日かは、ろくに眠りにつけていない。その上昨日からは食欲も湧かなくなってきてしまった。心配をかけまいと、皆と同じテーブルを囲む際は表に出さないよう、無理矢理に胃に収めている。そのためか、少し気分が悪いのだが顔に出てしまっていただろうか。
「オズバルドはね、あなたの隈が日に日に酷くなっていくものだから、心配しているのよ」
指摘され、自分の見てくれにも気が回せていなかったのかと愕然とする。
「それは……すまない」
「後でちゃんと診せて頂戴。あと、食べられないのなら無理しなくて良いわ」
やはりキャスティには敵わないな、と思う。彼女の面倒見の良さは勿論、薬師として積み上げた経験がそうさせるのだろう、彼女は周囲の変化にめざとい。
「……人間は眠らなければ頭の情報を整理することはおろか、吸収する力も衰える。何より、疲労が残ったままでは本来の力も発揮できないだろう」
澱みない口調で語り出したオズバルドに、先ほどから口を開かないままであったテメノスが驚いたように彼を見つめる。
「出立は明日にする。お前はもう休むと良い」
それだけ告げ、フォークを手に取り肉を切り始めた。照れ隠しのつもりなのだろう、オズバルドは不器用なだけで、心根は優しい人物だ。
胸の辺りがほの温かくなるような覚えがして、ヒカリはそっと綻ぶ。
「お言葉に甘えておきましょう、ヒカリ?」
そんな自分の表情に気が付いたのか、テメノスが悪戯めいた笑みを浮かべ、ヒカリの二の腕を小突く。
皆、優しい。
「ああ……そうさせてもらうとする。ありがとう、三人とも」
そっと立ち上がる。
「ええ。——ではまた後で」
ヒカリが背を向けて程なく、テメノスが溢した何気ない暇乞い。
どこか含みのある口吻であると気付いたものは、誰もいない。
☆
蝋燭の火が揺らめいては直立するさまを、ぼんやりと見つめる。
埃臭く侘しい部屋の窓からは、虫の鳴き声が混じり合ったのが漏れ出てくる。
ヒノエウマでは感じられぬ夜の生命の息吹は、旅を始めたばかりの頃のヒカリにとっては尊いもののように感じられた。その時の感じた心の揺さぶりや鮮烈なる情景は、今もなおくっきりと記憶の中に残り続けている。だが——
目を閉じさえもせず、ヒカリはじっと床に転がっていた。薄い布を下に敷き、それよりも、少し厚地の布団をその上に載せて。
城下町で過ごしていた際は、床に布団なるものを敷いて寝ていた。それがすっかり板についてしまい、ベッドよりも床で眠ることを好むようになった。
寝返りを打つ度木の板が軋む。明かりはあれど、やはり夜は暗く、寂しい。
なのに頭の中でひっきりなしに無意味な言葉の羅列が飛び交い、姦しいときたらありゃしない。
ヒカリは寝間着の胸元を強く握り込んだ。血が滲みそうなほど爪先が食い込む。
そうでもしなければ、自身を取り巻く音、温度、触覚全てが煩わしくなり、本当に気が狂ってしまう。
何物であろうとも、傷つけたくは無い。
誰かや何かを憎むよりも、手を取り合いたい。それがヒカリのたっての願いである。
しかし、夜の帳に飲み込まれてしまえば、その願いは酷く遠くのもので、手繰り寄せようとすれば、崩れ去ってしまう、脆く儚いものに思えてしまう。
オズバルドに言っていたように、不眠によって思考が鈍っているのだろう。一度でも深く眠ることができれば、余計な思索は払拭できるはずだ。
だが、目を閉じてしまえば——
『……ヒカリィ』
「……っ!」
落としかけていた瞼を咄嗟に開く。条件反射で側に掛けてあった刀を手に取りかける。
ウェルグローブ近郊で将軍・ロー相手に刀を振るって以来、陰が這い寄る頻度が増えてきた。
夜、目を閉じると赤い目を怪しげに揺らめかせ、ヒカリの名を呼ぶ。何度も、何度も。『ヒカリィ、なあ、ヒカリィ……』
臓腑を這い回るような気色悪さに、こめかみを冷や汗が伝う。
他者に嫌悪を抱くことが殆どないヒカリであっても、この陰の存在は酷く忌まわしいものであった。暴虐で感情のままに暴れ狂う、さながら躾のなっていない子供のようなこれは、何度拒もうとも這い上がってくる。
また、眠れないのか。
呼吸が浅くなる。心音がやけに速く、うちに響いて喧しい。
夜は明けない。この暗闇からは抜け出せないのか。
怖い、酷く怖い。
「……誰だ」
扉の向こうに人の気配。ヒカリは錘のような身を起こし、気配の主を睨め付ける。
敵意は感じられないが、巧妙に隠せているやもしれぬ。
刀を今度は強く握り、構えを取る。——が、見慣れた白銀を目にした瞬間、戦意は霧散した。
「やはり起きていましたか。ヒカリ」
彼が敷居を跨ぎ、ヒカリとの距離を詰めてゆくうち、蝋燭の灯が彼のかんばせを照らした。
薄い微笑み。見慣れた表情だ。
一体、何の用があるのだろうか……。
ヒカリは困惑し、考える。随分夜は更けている上、テメノスはいわば長眠者(ロングスリーパー)に近く、きちんと眠らないと落ち着かないと話していたのを知っている。
ゆえにわざわざ訪ねてくるということは、よほど大事な用があるのだろうと思い至る。
だが、まずは非礼を詫びねばならない。
「すまない。気配がしたので咄嗟に、」
「構いませんよ……それよりも」
自身の脇をすり抜け、テメノスが目指していた先。それは壁際の小さな棚であった。
あ、と声を上げた時にはもう遅い。
キャスティが直々に調合した安眠草の調合薬。服用すれば大抵の人間は快眠できるという代物だ。彼女には悪いと思いながらも、口にすることは叶わなかった。
「キャスティからもらった安眠薬、服用していませんね」
指摘とともにスッとその目が眇められる。ああ、これは。
テメノスの得意とする審問が始まる手前のそれだ。
「……そ、それは……ええと、すまない」
じっと見つめられ、ヒカリは辟易としてしまう。武器を手に語り合うならまだしも、このように一方的に探られるのは苦手だ。
「謝って欲しいわけではありません。あなたのことです、何か理由があるのでしょう?」
「それは、そうだが」
本当のことを打ち明けるべきか——逡巡して、口籠る。
沈黙が続く。その間、テメノスは特に急かすこともなく壁に背を預けていた。
この陰のことは、己からは誰にも打ち明けたことがない。ク国の要人達は把握しているが、旅の友は当然異国の血族に関することなど知るはずもない。
「その、眠るのが……怖いんだ」
陰が這い寄るから、とは言えない。
伝えようにも、発しようにも、喉の奥で何かがつっかえるようでままならない。
「ふむ。ではやはり、眠れないのではなく"眠らない"のですね」
「……え?」
特に深掘りする質問を重ねることもなく、テメノスはひとりでに頷く。そんな彼にヒカリは戸惑いを覚える。
そんな自身をよそに、彼は背負っていた布袋を床に乗せ、中身を探り出した。
「それは……香か?」
ク国では馴染み深い形状だ。かつては王族や貴族層が独占していたものだが近年は庶民にも普及されつつある。
「やはり、知っていましたか。街の行商人から買い取ったものです。ヒノエウマの出身だそうで事情を話したらまけてくれたんですよ」
淀みなく話しながら、蝋燭の火を先端にあてがった。
すると、たちまち細い煙が天に伸び、充満する。
これは……どこかで嗅いだことのある香りだ。
確か、麝香——鹿の魔物から採取できる僅かな分泌液を乾燥させたものを香木と調合したものだ。
「安らぐな……ク国でも似たものを焚いてもらった覚えがある」
「それは良かったです」
隣に母がいた頃、寝室で街を駆け回り、新たな友と出会った話をするのが日課だった。
その時、母が侍女に頼んで香を焚いてもらっていたのだ。甘く雅で、不思議と心が和らぐ、そんな香りだった。
母のことを思い出す度、この胸に波紋のような痛みが広がる。一度落とされれば、全身に回る。
『許せねえんだろ? お前の母を殺した奴らが』
「……く、」
黙れ、と叫びかけて留まる。テメノスのいる場で取り乱すわけにはいきまいと代わりに呼気を吐き出した。
「何をしているんだ?」
落ち着いてようやく、彼がせっせと布を広げている様が目に入った。
「見ての通り、寝支度をしています」
「……」
なんて事のないように答えられ、呆気に取られてしまう。柔らかそうな枕を置き、それから悠長にローブの留め具を外す。
「床で寝るのはあんまり経験がないんで新鮮ですねぇ」
カナルブラインで何度か耳にした年若い聖火騎士の嘆きに今なら共感できるだろう。
ヒカリには、テメノスの意図が全く読めない。いや、布団を設えた時点で頭では理解ができているが、それを受け入れるのが難しいのだ。
隣の自分の敷布をぽんぽんと叩き、「さあ、ヒカリ。もう就寝の時間はとっくに過ぎてます」自分を招かんとするテメノス。その声色がやけに優しく感じられて、ヒカリは得心する。
彼なりの気遣いだったのか。面には出さないが、かなり心配させてしまっていたのやもしれない。
おずおずと布団に入り、テメノスと向き合う形になる。
思っていたよりも距離が近い。彼の息遣いがこちらにまで伝わってくるほどには。
「教会でも怖い夢を見たとかで、眠れない、もしくは眠らない子供は結構おられましてね。その時はこうやって一緒に寝てあげるんですよ」
「そうなのか」
俺は子供ではないが……という指摘は野暮かと思い胸に留めておく。
確かテメノスは本職以外では子供に紙芝居を聞かせることもしていたと聞く。
物腰柔らかな彼ならきっと皆から好かれていたのだろうと思う。
「でも、私の子守唄は不評でしてねぇ」
「なぜだ?」
「歌詞を間違えるものですから、怒られてしまうんです。子供の記憶力は侮れません。"聖なる炎に感謝と祈りを捧げましょう 清く青い星となれ〜♪"のところが思い出せなくって」
歌詞云々以前にテメノスはあまり歌が上手い部類ではないようだ。音が外れているのがあまり聞いたことがないはずの自分でも分かる。
「ふっ」
意外であり、ついおかしくて吹き出してしまう。
「あ、いやこれは……すまない」
気恥ずかしくなり、頬に熱が集まる。
目前の彼は安堵したように微笑んでいる。その翡翠を彷彿とさせる美しい双眸に、自身が映し出されている。
見惚れてしまいそうになり、視線を逸らした。
「歌が上手くないのは自覚してるんで、構いませんよ。むしろ私の歌なんかで笑ってくれたのならなによりです」
「……ありがとう。其方は優しい」
別のベクトルで胸が騒がしいが、恐怖はかなり和らいだ。
何よりテメノスが自分を気にかけていてくれたことが知れて嬉しく思う。
「いえ、お節介でなければ良いのですが」
とんでもない、ヒカリはかぶりを振る。
「そんなことはないぞ。このように布団を並べて眠るのも久方振りで忘れていたが……誰かが隣にいるというのは安心できるな」
心からの言葉だ。テメノスは少し驚いたように瞳を揺らした。場に再び沈黙が広がる。
橙色の灯火をぼんやりと眺めているうち、テメノスが口火を切った。
「手を、拝借してもよろしいですか」
「……こうか」
布団の中で温まっている自らの手を差し出す。
もう、躊躇うことはしなかった。
「……こうすると怖さも消えて無くなるはずです」そっと、重なる感触があった。テメノスの自分よりも少し大きな手のひらが包み込んでいるのだと気がつくのには、そう時間を要さなかった。
温かい。寧ろ少し熱いくらいだ。ヒカリはそっと目を閉じる。
隣で眠るのも、手と手を通して互いの温度を確かめ合うのもいつぶりだったろうか。
指先が手の腹をなぞる。それは羽で撫でるようであったり、強く引っ掻く手前のようなのを繰り返した。擽ったいのだが、妙な、そう、いわば官能的な……思いかけて、閉じていた目を瞬かせる。
夜ゆえ、感覚が鋭くなっているだけだろう。内心そう言い聞かせる。
「て、テメノス。擽ったいのだが」
咎めたらすぐにその手は引っ込められた。が、すぐに名残惜しくなる。先ほどのような触れ方をしなければ、手は繋いでいたい、と思う。
「その、手は……離さなくていい」
何も言わずに、テメノスは手を差し出す。今度はヒカリから重ねる。熱い、けれど落ち着く。
「ヒカリはもっと甘えることを覚えても良いんですよ」
声が近い、気がする。それに、自分の背中をトントンと一定のリズムで叩かれる。子供にするようではないか……と抗議するよりも強く、眠気の波が押し寄せ、ヒカリはゆるりと船を漕ぎ始める。
「……そう、だろうか」
かつて母にも、こうして隣り合って寝付けてもらったことがあったことを思い出す。
優しい音色の子守唄に、彼女の纏う香水の甘やかな香り、そして……温もり。
「共に旅をしている以上、皆で助け合っていかねば。それに、こんなになるまで誰にも助けを求めないのは頂けません」
テメノスの言葉の半分も、もう上手く咀嚼出来ずに「…ああ」と曖昧な応答を溢す。薄目がちに、仕方ないなという風に微笑む彼が見えた、気がする。
「おやすみなさい、ヒカリ」
彼の優しさに触れて、気付くことができた。
自分は決してひとりなどではなく、友たちがいる。それだけで、どこへだって行ける。血を流さない、友たちが幸福を享受できる国に、きっと変えられる。揺らぎなき理想の灯火を胸に抱いて、ヒカリは穏やかな寝息を立てる。
いつの間にか、眠りを妨げていた陰の声は聞こえなくなっていた。
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