一章
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夕暮れの色が、山の端に沈みかけていた。
名前は、村の外れにある古井戸の脇で、静かに一口の水を口に含んだ。
村では誰もが彼女を遠巻きに見ていた。
誰も名を尋ねず、声を掛けず、ただ「帯刀した女旅人」として、恐れと疑念の目を向けていた。
名前は、何も言わなかった。
何も求めなかった。
ただ--陽太の手がかりを、ここにも見つけられなかったことを、また一つ胸の奥に沈めた。
(……また、違った……)
腰の刀に手を添え、山へ向かって歩き出す。
今夜は、森の外れで眠るつもりだった。
--そのときだった。
遠く、村の奥から、
ひときわ甲高い、引き裂かれるような悲鳴が上がった。
それは、人の喉が潰される寸前のような、
空気ごと千切られるような、“本物の叫び”だった。
名前は、迷わなかった。
振り返る。
足を返す。
全身の痛みも、疲労も、何も考えず--
駆ける。
村の中央へ近づくたびに、空気が血に染まっていた。
腐臭。焦げたような肉の臭い。
そして、家々の奥から、かすかな泣き声と--ずるりずるりと何かを引きずる音。
飛び込んだ視界に、それはいた。
闇の中で、背を丸め、異様に長い腕で、血まみれの人影を引きずりながら笑っている。
「やっぱ喰うならガキに限るよなぁ…肉が柔くて骨まで柔けぇ」
名前の目が、大きく開く。
異形は、こちらに気づいても動じなかった。
「ん、誰だ……?ああ……旅の剣士ってやつか」
興味なさげに呟くと、異形は顎をぬるりと鳴らしながら立ち上がる。
「邪魔すんなよ。今一番美味ェ所を喰ってんだからよぉ……」
名前は無言で、一歩、踏み込んだ。
異形が手を伸ばす。
名前は刃を抜き、斬った。
ザン、と音がして、異形の前腕が飛ぶ。
刃が骨を断ち、床に肉が転がった。
だが、異形はまったく動揺しない。
「あーあ。俺の腕、どこ行った?」
その声と同時に、切断された断面が、音もなく再生を始めた。
肉が巻き、骨が伸び、やがて、まるで何もなかったかのように、完全に戻っていく。
名前の足が、半歩だけ止まる。
「(……これ、は)」
ざわりと、名前の背が粟立った。
この存在は--人ではない。
けれど、一人だけ思い当たる存在がいる。
--陽太。
あの夜。
何度斬っても倒れなかった、
あの弟の、あの姿と、まるで同じ。
名前は、唇を震わせて問いかける。
「……お前……」
声が掠れる。
「……お前は……陽太と、同じ……何なんだ……?」
異形は眉をひそめるでもなく、片手を肩に乗せ、にやりと笑った。
「陽太ァ?よう分からんが、知り合いか?」
名前は、さらに叫ぶように問い詰めた。
「なぜ……何故、人を襲う!?何故、喰う!?何でッ、何のために……!!」
その問いは、怒りではなかった。
必死だった。
陽太がああなった理由、人を喰わなければならなかった理由…
“同じ存在”を前にして、どうしても知りたかった。
だが。
異形は、愉快そうに息を吐き出した。
「ははっ……なーに本気になってんだよ、お前」
その目は、からかうでもなく、蔑むでもなく--
完全に“理解するつもりがない目”だった。
「そんなの、決まってんだろ」
にやり、と笑う。
「美味ェからさ。腹が減る。喰えばうまい。そんだけで充分だろ?」
名前の呼吸が止まりかけた。
あまりにも、空虚だった。
あまりにも、冷たかった。
この存在には、
理由も、後悔も、苦悩も、なかった。
陽太とは、確かに“同じ”だった。
だが、最も遠いものにも感じられた。
異形は、血のついた手で唇をぬぐい、村の奥へとゆっくり視線を滑らせた。
「……まァだ誰か隠れてんな。このガキ、喰う前に泣き出してさ……歯応えなかったんだよ」
口元がにやける。
「もう少し脂の乗った奴を…今度はじっくり味わってやるか」
名前の指が、剣の柄に喰い込むほど力を込めた。
陽太と同じ再生。
陽太と同じ目。
そして、失われた人の心。
声が、喉の奥から押し上げられる。
「…させるものか」
音が、空気を裂いた。
名前は、剣を振るった。
刃が、異形の脚を斬り裂く。
筋肉が割れ、骨が露出する。
だが、肉が即座に巻き上がり、再び形を取り戻す。
異形が楽しそうに笑った。
「お〜お〜……やるねぇ。いいよ、そういう“諦めの悪い奴”、好きだぜ」
再生しながら跳びかかってくる。
名前は一歩引いて躱し、逆手に持ち直した剣で、手首ごと斬り払う。
手が飛び、血が弧を描く。
しかし。
「もったいねぇな。そんなにがむしゃらにやったら……先に刃が砕けちまうぜ?」
名前は、口を開かない。
この生き物と言葉を交わすのはもはや無意味と理解していた。
ただ、その目に宿っていたのは--
殺意。
--陽太を、逃した。
あの夜、己の甘さ故に、罪を犯した弟を取り逃した。
だから今度は、何があっても、逃がさない。
それが人の形をしていようと、
血を流していようと、
哀れな声をあげようと、
関係ない。
この異形は、もう人ではない。
斬らねばならない、ただそれだけ。
「逃がさない--絶対に」
異形が爪を振るう。
名前は腕で受け、刃で反撃し、返す刀で腹を裂く。
だが、再び肉が盛り上がり、塞がっていく。
「(斬っても……まだ足りない)」
剣が鈍り、呼吸が荒れる。
それでも、足を止めない。
斬る。
斬る。
斬る。
呼吸は整っていない。
技でもない。
ただ、執念だけで振るわれる一太刀一太刀。
「ッち…!いい加減、しつこいんだ、 よッ!!」
異形の爪が、空を裂いた。
名前の肩が裂け、血が飛ぶ。
だが、それでも名前の足は止まらなかった。
目はまっすぐに異形を捉え、剣は技も型もない、ただ“命を削る”一太刀として振るわれていた。
異形の腹が裂ける。
脚が折れる。
喉が斬られ、目が潰れても。
名前の剣は止まらない。
その目は、“絶対に殺す”という執念で燃えていた。
「……っ、は……はは……!」
異形が、笑いながら後退る。
だがその笑みには、焦りが滲んでいた。
「お前…お前こそ、なんなんだよ…ただの人間のくせに……なんで、そんな目で俺を見るんだよ……」
名前は、何も言わない。
ただ一歩ずつ、血まみれの体で歩を進めてくる。
異形が、ついに--一歩、退いた。
「……クソッ、もういい……ッ!」
異形が背を向け、跳び上がった。
そして、村の家々へと一直線に駆け出す。
「どうせ終わりなら、せめて一人だけでも喰ってやるッ!!誰かッ、誰でもいい……ッ!!」
逃げる気だ。
再生を続けながら、最後に一人を喰らって逃げきろうとしている。
名前の目が、鋭く光る。
「(どこまで……)」
どこまで、この生き物は身勝手なのか。
何の罪もない村人を蹂躙し、食い荒らし、最後には道連れだと?
「(…許さない)」
彼女の手が、鞘ごと剣を掴んだ。
数歩先、逃げかけた異形の背中。
その手が、戸の隙間から怯える子どもに伸びかけた、その瞬間。
シュン――!!
風を裂く音。
鞘ごと飛んだ剣が、異形の背中に深々と突き刺さった。
ガグッ!!
異形の身体が、のけ反る。
手が止まり、戸板に額をぶつけて倒れ込む。
「ぎゃあッ!っが……ッ!!」
振り返るより早く、名前の姿が跳び込んできた。
剣の柄を掴んだその手で、さらに押し込む。
骨を砕き、肉を裂き、深く、深く。
そして、名前は、何も言わなかった。
叫びも、咆哮も、息遣いすらもない。
ただ、無言のまま剣を引き抜き、斬りつける。
異形が悲鳴を上げる。
「っぐ……やめ、やめろッ!!俺は、まだ…ッ!」
返事はなかった。
名前は剣を振るう。
肩を、腕を、喉を、腹を、脚を。
同じところを、何度も、何度も。
傷が再生しようとするたびに、
その肉の芽吹きを追いかけるように、刃が走る。
やがて、剣が音を立てて折れた。
それでも名前は止まらなかった。
柄だけを握りしめ、異形の顔を叩きつけた。
頬骨が砕け、歯が飛ぶ。
折れた柄が手から落ちると、
次は拳を握り、殴った。
右を、左を、
打ち続ける。
打ち続ける。
皮膚が裂け、血が滲み、拳の骨が悲鳴を上げても。
名前は止まらない。
異形が地面を這って逃げようとしたその頭を掴み、背を、後頭部を、地面に何度も打ちつけた。
拳が砕け、指が折れ、
手が動かなくなると。
名前は、地に転がっていた石を拾い上げた。
ゴンッ!
異形の頭に、石がめり込む。
口から血が吹き出す。
ゴンッ! ゴンッ!
再生するよりも速く、
名前の攻撃は繰り返される。
陽が昇り始めた。
異形の皮膚が、じりじりと焼けていく。
「やめ…て……お願、い………やめ……」
幼子の様な声色の言葉に、返事はなかった。
名前の目には、もう“命”が宿っていなかった。
ただ、“誓い”だけが残っていた。
「逃がさない」――その一点だけで生きている者の目だった。
名前の皮膚が焦げ、肉が崩れ、
骨が砕け、ようやく悲鳴が消える。
そして--
炭が、地に崩れ落ちた。
名前は、手の中の石を持ったまま、その場に座り込むように、力を失った。
誰も近づかなかった。
村人たちは、ただ戸の隙間からその姿を見ていた。
異形を倒した英雄ではなく、それを殺すために『化け物』のように変わってしまった少女の姿を。
⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎
異形が崩れ落ちたあと、風が吹いた。
夜が明けきって、太陽の輪郭が、山の端から姿を見せていた。
その光が、惨状と化した村をゆっくりと――何事もなかったように照らしていた。
あれほど騒がしかった村の空気からは、悲鳴も、怒号も、すでに消えていた。
あったのは、沈黙。
血のにおい。
焼けた肉の残り香。
折れた剣が、カランと音を立てる。
それらが、静寂の中に沈んでいった。
名前は、崩れた異形の残骸の前に座り込んでいた。
風に髪が揺れても、陽が肩を照らしても、彼女の姿は、まるで止まっている様だった。
誰もいなかった。
誰も近づかなかった。
折れた剣。
砕けた拳。
血まみれの手の中には、まだ石が残っていた。
手を開こうとすれば、皮膚が裂け、血が滲む。
けれど、名前はその手を開かない。
まるで、何かを――
今なお握り続けていなければ、壊れてしまいそうで。
どこかの屋根で、鳥がひとつだけ鳴いた。
それは、朝の訪れを告げる音でもあり、“戦いが終わった”という残酷な実感を突きつける音でもあった。
名前は、そのまま、何分もの間、動かなかった。
やがて――風が、異形の灰をさらっていった。
誰かの命も、悲鳴も、執念も、
まるで最初から“無かったかの様に”。
その静けさは、
どんな叫び声よりも冷たく、
どんな勝利よりも重く、
どんな喪失よりも静かだった。
そこに――ようやく、一つの戸がきしんだ音を立てた。
村人のひとりが、そっと顔を出す。
続いて、別の家の戸がわずかに開き、老いた男が、杖を手に恐る恐る広場を覗く。
だが、誰も声をかけなかった。
彼らの視線は、異形の消えた場所ではなく、
その前に血まみれで立ち尽くす――名前の方に向いていた。
腕の筋は裂け、目は濁り、剣は折れ、手は石を握ったまま。
まるで、“何かを喰らい尽くした獣”のように、そこにいた。
その姿に、何人かが無言で後ずさった。
誰かが、かすかに呟く。
「……化け物を……殺したんだよな……あれ……」
「……でも……あれも、人間じゃない……」
その声が、少しずつ空気を濁らせていく。
戸口に立ったままの者。
視線を逸らし、うつむく者。
声を失ったまま立ち尽くす者。
そして――
その中に、ひとりの母親の姿があった。
髪を振り乱し、血の跡が残る家から這い出るように出てきたその女は、まだ小さな手を抱えながら、地面に崩れ落ちた。
「……うそ……でしょ……?」
「こんな……こんなはずじゃなかったのに……
なんで……っ、なんで……あの子が……!」
彼女は、泣き叫んだ。
誰も近づけなかった。
誰も慰められなかった。
その慟哭が、広場のすべての音を呑み込んだ。
名前は、その声を聞いていた。
でも、振り返らなかった。
彼女の視線は、まだ“異形がいた場所”に留まったままだった。
その時、誰かが震える声で吐き捨てた。
「……お前のせいだ……」
「お前が……来たから……!」
そして、石が投げられた。
名前の袂を掠める。
「出ていけ!」
「来るな!」
「お前があの化け物を連れて来たんだろう!」
「人かどうかも分からねぇ……お前みてぇな奴!」
それをきっかけに、幾つかの罵声が続いた。
だが、口をつぐんだまま目を逸らす者もいた。
けれど――その中で、ただひとり、そろそろと歩みを進める小さな影があった。
年端もいかぬ男の子だった。
震える手を前に出しながら、血まみれのまま動かぬ名前に、ゆっくりと近づこうとしていた。
目は恐怖に潤んでいた。
でも、それでも――その子の唇は、小さく「ありがとう」と動こうとしていた。
(あの人が……守ってくれたんだ)
名前の背は大きくもなく、優しげでもなかった。
けれど、異形が消えたあとも、誰よりも痛そうに、静かにそこにいた。
もう数歩で、その声が届く。
――というところで、
「ダメッ!!」
鋭い声が響いた。
その少年の手が、母親の手に強く引き戻される。
「近づいちゃダメッ!! あんな人――あの人に関わったら、きっと何か悪い事が起きる…ッ!!」
母親は、怯えに顔を歪め、必死に子を抱きしめるようにして背を向けた。
少年は、振り返りながら、
ただ目を大きく見開いて名前を見つめていた。
その目に宿ったものが、恐怖なのか、悔しさなのか、彼自身も分からなかった。
名前は、振り返らなかった。
そして、顔を上げた。
空が、ほんの少しだけ、赤く滲んでいた。
戦いも、怒りも、命のやりとりも、
朝の空には一切映っていない。
ただそこに、
“誰にも届かない静寂”だけがあった。
石が一つ転がり、足元の血が乾き、名前はやがて――立ち上がった。
折れた剣を支えに、そして鞘に納める。
振り返らず、名も告げず。
感謝も拒絶もすべてを背に受けて。
少年の手は、母の腕の中で震えていた。
そして、名前の背は、ゆっくりと朝靄に溶けて、見えなくなった。
名前は、村の外れにある古井戸の脇で、静かに一口の水を口に含んだ。
村では誰もが彼女を遠巻きに見ていた。
誰も名を尋ねず、声を掛けず、ただ「帯刀した女旅人」として、恐れと疑念の目を向けていた。
名前は、何も言わなかった。
何も求めなかった。
ただ--陽太の手がかりを、ここにも見つけられなかったことを、また一つ胸の奥に沈めた。
(……また、違った……)
腰の刀に手を添え、山へ向かって歩き出す。
今夜は、森の外れで眠るつもりだった。
--そのときだった。
遠く、村の奥から、
ひときわ甲高い、引き裂かれるような悲鳴が上がった。
それは、人の喉が潰される寸前のような、
空気ごと千切られるような、“本物の叫び”だった。
名前は、迷わなかった。
振り返る。
足を返す。
全身の痛みも、疲労も、何も考えず--
駆ける。
村の中央へ近づくたびに、空気が血に染まっていた。
腐臭。焦げたような肉の臭い。
そして、家々の奥から、かすかな泣き声と--ずるりずるりと何かを引きずる音。
飛び込んだ視界に、それはいた。
闇の中で、背を丸め、異様に長い腕で、血まみれの人影を引きずりながら笑っている。
「やっぱ喰うならガキに限るよなぁ…肉が柔くて骨まで柔けぇ」
名前の目が、大きく開く。
異形は、こちらに気づいても動じなかった。
「ん、誰だ……?ああ……旅の剣士ってやつか」
興味なさげに呟くと、異形は顎をぬるりと鳴らしながら立ち上がる。
「邪魔すんなよ。今一番美味ェ所を喰ってんだからよぉ……」
名前は無言で、一歩、踏み込んだ。
異形が手を伸ばす。
名前は刃を抜き、斬った。
ザン、と音がして、異形の前腕が飛ぶ。
刃が骨を断ち、床に肉が転がった。
だが、異形はまったく動揺しない。
「あーあ。俺の腕、どこ行った?」
その声と同時に、切断された断面が、音もなく再生を始めた。
肉が巻き、骨が伸び、やがて、まるで何もなかったかのように、完全に戻っていく。
名前の足が、半歩だけ止まる。
「(……これ、は)」
ざわりと、名前の背が粟立った。
この存在は--人ではない。
けれど、一人だけ思い当たる存在がいる。
--陽太。
あの夜。
何度斬っても倒れなかった、
あの弟の、あの姿と、まるで同じ。
名前は、唇を震わせて問いかける。
「……お前……」
声が掠れる。
「……お前は……陽太と、同じ……何なんだ……?」
異形は眉をひそめるでもなく、片手を肩に乗せ、にやりと笑った。
「陽太ァ?よう分からんが、知り合いか?」
名前は、さらに叫ぶように問い詰めた。
「なぜ……何故、人を襲う!?何故、喰う!?何でッ、何のために……!!」
その問いは、怒りではなかった。
必死だった。
陽太がああなった理由、人を喰わなければならなかった理由…
“同じ存在”を前にして、どうしても知りたかった。
だが。
異形は、愉快そうに息を吐き出した。
「ははっ……なーに本気になってんだよ、お前」
その目は、からかうでもなく、蔑むでもなく--
完全に“理解するつもりがない目”だった。
「そんなの、決まってんだろ」
にやり、と笑う。
「美味ェからさ。腹が減る。喰えばうまい。そんだけで充分だろ?」
名前の呼吸が止まりかけた。
あまりにも、空虚だった。
あまりにも、冷たかった。
この存在には、
理由も、後悔も、苦悩も、なかった。
陽太とは、確かに“同じ”だった。
だが、最も遠いものにも感じられた。
異形は、血のついた手で唇をぬぐい、村の奥へとゆっくり視線を滑らせた。
「……まァだ誰か隠れてんな。このガキ、喰う前に泣き出してさ……歯応えなかったんだよ」
口元がにやける。
「もう少し脂の乗った奴を…今度はじっくり味わってやるか」
名前の指が、剣の柄に喰い込むほど力を込めた。
陽太と同じ再生。
陽太と同じ目。
そして、失われた人の心。
声が、喉の奥から押し上げられる。
「…させるものか」
音が、空気を裂いた。
名前は、剣を振るった。
刃が、異形の脚を斬り裂く。
筋肉が割れ、骨が露出する。
だが、肉が即座に巻き上がり、再び形を取り戻す。
異形が楽しそうに笑った。
「お〜お〜……やるねぇ。いいよ、そういう“諦めの悪い奴”、好きだぜ」
再生しながら跳びかかってくる。
名前は一歩引いて躱し、逆手に持ち直した剣で、手首ごと斬り払う。
手が飛び、血が弧を描く。
しかし。
「もったいねぇな。そんなにがむしゃらにやったら……先に刃が砕けちまうぜ?」
名前は、口を開かない。
この生き物と言葉を交わすのはもはや無意味と理解していた。
ただ、その目に宿っていたのは--
殺意。
--陽太を、逃した。
あの夜、己の甘さ故に、罪を犯した弟を取り逃した。
だから今度は、何があっても、逃がさない。
それが人の形をしていようと、
血を流していようと、
哀れな声をあげようと、
関係ない。
この異形は、もう人ではない。
斬らねばならない、ただそれだけ。
「逃がさない--絶対に」
異形が爪を振るう。
名前は腕で受け、刃で反撃し、返す刀で腹を裂く。
だが、再び肉が盛り上がり、塞がっていく。
「(斬っても……まだ足りない)」
剣が鈍り、呼吸が荒れる。
それでも、足を止めない。
斬る。
斬る。
斬る。
呼吸は整っていない。
技でもない。
ただ、執念だけで振るわれる一太刀一太刀。
「ッち…!いい加減、しつこいんだ、 よッ!!」
異形の爪が、空を裂いた。
名前の肩が裂け、血が飛ぶ。
だが、それでも名前の足は止まらなかった。
目はまっすぐに異形を捉え、剣は技も型もない、ただ“命を削る”一太刀として振るわれていた。
異形の腹が裂ける。
脚が折れる。
喉が斬られ、目が潰れても。
名前の剣は止まらない。
その目は、“絶対に殺す”という執念で燃えていた。
「……っ、は……はは……!」
異形が、笑いながら後退る。
だがその笑みには、焦りが滲んでいた。
「お前…お前こそ、なんなんだよ…ただの人間のくせに……なんで、そんな目で俺を見るんだよ……」
名前は、何も言わない。
ただ一歩ずつ、血まみれの体で歩を進めてくる。
異形が、ついに--一歩、退いた。
「……クソッ、もういい……ッ!」
異形が背を向け、跳び上がった。
そして、村の家々へと一直線に駆け出す。
「どうせ終わりなら、せめて一人だけでも喰ってやるッ!!誰かッ、誰でもいい……ッ!!」
逃げる気だ。
再生を続けながら、最後に一人を喰らって逃げきろうとしている。
名前の目が、鋭く光る。
「(どこまで……)」
どこまで、この生き物は身勝手なのか。
何の罪もない村人を蹂躙し、食い荒らし、最後には道連れだと?
「(…許さない)」
彼女の手が、鞘ごと剣を掴んだ。
数歩先、逃げかけた異形の背中。
その手が、戸の隙間から怯える子どもに伸びかけた、その瞬間。
シュン――!!
風を裂く音。
鞘ごと飛んだ剣が、異形の背中に深々と突き刺さった。
ガグッ!!
異形の身体が、のけ反る。
手が止まり、戸板に額をぶつけて倒れ込む。
「ぎゃあッ!っが……ッ!!」
振り返るより早く、名前の姿が跳び込んできた。
剣の柄を掴んだその手で、さらに押し込む。
骨を砕き、肉を裂き、深く、深く。
そして、名前は、何も言わなかった。
叫びも、咆哮も、息遣いすらもない。
ただ、無言のまま剣を引き抜き、斬りつける。
異形が悲鳴を上げる。
「っぐ……やめ、やめろッ!!俺は、まだ…ッ!」
返事はなかった。
名前は剣を振るう。
肩を、腕を、喉を、腹を、脚を。
同じところを、何度も、何度も。
傷が再生しようとするたびに、
その肉の芽吹きを追いかけるように、刃が走る。
やがて、剣が音を立てて折れた。
それでも名前は止まらなかった。
柄だけを握りしめ、異形の顔を叩きつけた。
頬骨が砕け、歯が飛ぶ。
折れた柄が手から落ちると、
次は拳を握り、殴った。
右を、左を、
打ち続ける。
打ち続ける。
皮膚が裂け、血が滲み、拳の骨が悲鳴を上げても。
名前は止まらない。
異形が地面を這って逃げようとしたその頭を掴み、背を、後頭部を、地面に何度も打ちつけた。
拳が砕け、指が折れ、
手が動かなくなると。
名前は、地に転がっていた石を拾い上げた。
ゴンッ!
異形の頭に、石がめり込む。
口から血が吹き出す。
ゴンッ! ゴンッ!
再生するよりも速く、
名前の攻撃は繰り返される。
陽が昇り始めた。
異形の皮膚が、じりじりと焼けていく。
「やめ…て……お願、い………やめ……」
幼子の様な声色の言葉に、返事はなかった。
名前の目には、もう“命”が宿っていなかった。
ただ、“誓い”だけが残っていた。
「逃がさない」――その一点だけで生きている者の目だった。
名前の皮膚が焦げ、肉が崩れ、
骨が砕け、ようやく悲鳴が消える。
そして--
炭が、地に崩れ落ちた。
名前は、手の中の石を持ったまま、その場に座り込むように、力を失った。
誰も近づかなかった。
村人たちは、ただ戸の隙間からその姿を見ていた。
異形を倒した英雄ではなく、それを殺すために『化け物』のように変わってしまった少女の姿を。
⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎
異形が崩れ落ちたあと、風が吹いた。
夜が明けきって、太陽の輪郭が、山の端から姿を見せていた。
その光が、惨状と化した村をゆっくりと――何事もなかったように照らしていた。
あれほど騒がしかった村の空気からは、悲鳴も、怒号も、すでに消えていた。
あったのは、沈黙。
血のにおい。
焼けた肉の残り香。
折れた剣が、カランと音を立てる。
それらが、静寂の中に沈んでいった。
名前は、崩れた異形の残骸の前に座り込んでいた。
風に髪が揺れても、陽が肩を照らしても、彼女の姿は、まるで止まっている様だった。
誰もいなかった。
誰も近づかなかった。
折れた剣。
砕けた拳。
血まみれの手の中には、まだ石が残っていた。
手を開こうとすれば、皮膚が裂け、血が滲む。
けれど、名前はその手を開かない。
まるで、何かを――
今なお握り続けていなければ、壊れてしまいそうで。
どこかの屋根で、鳥がひとつだけ鳴いた。
それは、朝の訪れを告げる音でもあり、“戦いが終わった”という残酷な実感を突きつける音でもあった。
名前は、そのまま、何分もの間、動かなかった。
やがて――風が、異形の灰をさらっていった。
誰かの命も、悲鳴も、執念も、
まるで最初から“無かったかの様に”。
その静けさは、
どんな叫び声よりも冷たく、
どんな勝利よりも重く、
どんな喪失よりも静かだった。
そこに――ようやく、一つの戸がきしんだ音を立てた。
村人のひとりが、そっと顔を出す。
続いて、別の家の戸がわずかに開き、老いた男が、杖を手に恐る恐る広場を覗く。
だが、誰も声をかけなかった。
彼らの視線は、異形の消えた場所ではなく、
その前に血まみれで立ち尽くす――名前の方に向いていた。
腕の筋は裂け、目は濁り、剣は折れ、手は石を握ったまま。
まるで、“何かを喰らい尽くした獣”のように、そこにいた。
その姿に、何人かが無言で後ずさった。
誰かが、かすかに呟く。
「……化け物を……殺したんだよな……あれ……」
「……でも……あれも、人間じゃない……」
その声が、少しずつ空気を濁らせていく。
戸口に立ったままの者。
視線を逸らし、うつむく者。
声を失ったまま立ち尽くす者。
そして――
その中に、ひとりの母親の姿があった。
髪を振り乱し、血の跡が残る家から這い出るように出てきたその女は、まだ小さな手を抱えながら、地面に崩れ落ちた。
「……うそ……でしょ……?」
「こんな……こんなはずじゃなかったのに……
なんで……っ、なんで……あの子が……!」
彼女は、泣き叫んだ。
誰も近づけなかった。
誰も慰められなかった。
その慟哭が、広場のすべての音を呑み込んだ。
名前は、その声を聞いていた。
でも、振り返らなかった。
彼女の視線は、まだ“異形がいた場所”に留まったままだった。
その時、誰かが震える声で吐き捨てた。
「……お前のせいだ……」
「お前が……来たから……!」
そして、石が投げられた。
名前の袂を掠める。
「出ていけ!」
「来るな!」
「お前があの化け物を連れて来たんだろう!」
「人かどうかも分からねぇ……お前みてぇな奴!」
それをきっかけに、幾つかの罵声が続いた。
だが、口をつぐんだまま目を逸らす者もいた。
けれど――その中で、ただひとり、そろそろと歩みを進める小さな影があった。
年端もいかぬ男の子だった。
震える手を前に出しながら、血まみれのまま動かぬ名前に、ゆっくりと近づこうとしていた。
目は恐怖に潤んでいた。
でも、それでも――その子の唇は、小さく「ありがとう」と動こうとしていた。
(あの人が……守ってくれたんだ)
名前の背は大きくもなく、優しげでもなかった。
けれど、異形が消えたあとも、誰よりも痛そうに、静かにそこにいた。
もう数歩で、その声が届く。
――というところで、
「ダメッ!!」
鋭い声が響いた。
その少年の手が、母親の手に強く引き戻される。
「近づいちゃダメッ!! あんな人――あの人に関わったら、きっと何か悪い事が起きる…ッ!!」
母親は、怯えに顔を歪め、必死に子を抱きしめるようにして背を向けた。
少年は、振り返りながら、
ただ目を大きく見開いて名前を見つめていた。
その目に宿ったものが、恐怖なのか、悔しさなのか、彼自身も分からなかった。
名前は、振り返らなかった。
そして、顔を上げた。
空が、ほんの少しだけ、赤く滲んでいた。
戦いも、怒りも、命のやりとりも、
朝の空には一切映っていない。
ただそこに、
“誰にも届かない静寂”だけがあった。
石が一つ転がり、足元の血が乾き、名前はやがて――立ち上がった。
折れた剣を支えに、そして鞘に納める。
振り返らず、名も告げず。
感謝も拒絶もすべてを背に受けて。
少年の手は、母の腕の中で震えていた。
そして、名前の背は、ゆっくりと朝靄に溶けて、見えなくなった。