一章
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村の門はもう閉ざされていた。
冷たい夕風に晒され、名前の頬を撫でていく。
暫くぼんやりと夕暮れに染まる山を見つめた後、ゆっくりと歩き出した名前だが、ふと足を止めた。
門の脇――そこに、見覚えのあるものがあった。
一本の剣。
鞘に泥がつき、柄はほつれ、刃には薄く血が乾いている。
それは、昨夜--弟の陽太と戦った、父の形見の剣だった。
「……!」
剣は、追放を言い渡された時に取り上げられていた。
名前の手から無造作に引き離され、床に落ちた刃を、誰も拾おうとはしなかった。
まるで穢れたもののように。
まるで、名前自身を拒絶するように。
だから、この場所にあるはずがなかった。
名前はゆっくりと近づき、膝をついた。
指先が、柄に触れる。
懐かしい重みが、掌に戻ってきた。
その時、気づいた。
剣の下に、小さな包みがある。
干した薬草と、ほんのわずかな食料。
何の印も、言葉も、書き置きもない。
しかし、その全てに添えられた、不器用で、懸命な気配。
「(この結び目は……)」
思い浮かぶのは、一人しかいなかった。
桐子と共に、いつも名前の後ろを嬉しそうに付いて回っていた。
縁日で買ってあげた風車を、いつまでも幸せそうに吹いて回していた。
そして。
『名前様は、鬼なんかじゃないっ…!』
名前は、剣と共に、包みを大事に抱きしめた。
言葉にならない想いが、胸に広がっていく。
悔しさ、哀しさ、怒り、それから--微かな、温もり。
名前は静かに立ち上がり、剣を腰に差した。
深く息を吸って、一つだけ、息を吐く。
それはまるで、何かを燃やして、その灰を腹の底に沈める様な仕草だった。
村の門を、振り返ることはない。
一歩を踏み出した。
二歩、三歩。
最初不安定だったその歩みは、進む毎にやがて確かなものへと変わっていく。
背中に届く声は一つもない。
けれどその足取りが全てを語っていた。
--彼女の目指す先が、唯一つしか無いことを。
その後ろ姿を、風だけが見送っていた。
⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎
夜が明けては暮れ、季節は微かに移ろい始めていた。
名前は、一つの場所に留まることをやめた。ひたすら歩いた。
山を越え、川を渡り、小さな集落や宿場町を巡る。
人目を避け、物陰に身を潜めながら、ただ一つの目的だけを胸に歩き続けていた。
--陽太を探さねば。
それが唯一、自分に残された意味だった。
道なき山中を進むときは、足を裂きながら藪を踏み分けた。
荒れた街道では、野犬に追われながら走ったこともある。
野宿を重ね、夜露に濡れながら、焚き火すら避けて眠った。
その眼差しは決して彷徨っていなかった。
いや、彷徨っていたのかもしれないが、彼女自身はそれを許さなかった。
夜に徘徊する少年の姿を見たという噂。
誰かが不審死したという話。
“死んだはずの人間が歩いていた”という小さな奇譚。
それらを聞けば、すぐに背を向け、足を向けた。
例え、道が崩れていようと、何日かかろうと。
だが、どれほど追っても、陽太は見つからなかった。
どこかでまた人を喰ったのか。
どこかで誰かの命を奪ったのか。
そのたびに、名前の胸は切り裂かれるようだった。
剣は、常に腰にあった。
かつて父が振るい、陽太に牙を向け、血に濡れた剣。
その重みだけが、彼女の背を支えていた。
ある時は、山間の祠でひと晩を明かした。
またある夜は、川沿いの石の上で、身体を丸めて眠った。
夢を見た。
あの夜の光景が、何度も何度も繰り返された。
陽太の瞳、血塗れの手、自分の叫び--
そして、何もできなかった現実へと、いつも目を覚ます。
だが、それでも立ち上がる。
痛む足を引きずってでも、次の町へ向かう。
食事を抜いても、水を求めて森を彷徨っても。
名前は諦めなかった。
いや、諦めるという言葉を、心に刻む隙さえ与えなかった。
陽太を探しているのではない。
--その首を斬るために、追っているのだ。
その信念だけが、名前を生かしていた。
⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎
日が傾き始めていた。
風は冷たく、空気には枯れ草と山の土の匂いが混ざっている。
名前は、一つの村の入り口に立っていた。
名も知らぬ、小さな谷間の集落。
陽太を追い、幾つ目かも分からない村のひとつだった。
袴の裾はほつれ、足元には泥。
道中で転びながらも歩き続けてきた証が、衣服のあちこちに刻まれている。
それでも、名前は村へ足を踏み入れた。
目的はひとつ--陽太の痕跡を探すこと。
(……また、違うかもしれない)
そう思いながらも、次を探さずにはいられなかった。
彼女がまず向かったのは、井戸。
ひと口の水を求めて腰をかがめた、そのとき--
「……何してるんだ」
振り返れば、村の青年が一人。
鍬を担いだまま、眉をひそめてこちらを見ていた。
名前は答えなかった。
ただ、静かに立ち上がって頭を下げる。
次の瞬間には、もう彼は離れていっていた。
だが、それで終わりではなかった。
--知らぬ顔の旅人。
--女で、腰に刃を帯びている。
--目つきが鋭く、何を考えているか分からない。
それだけで、村にはさざ波のような不穏が広がった。
昼過ぎには、子どもたちが遠巻きに見ていた。
夕方には、老婆たちが噂話を始めていた。
「どこかの罪人じゃあるまいね」
「刀持ってる女なんて、ろくなもんじゃないよ」
名前は、静かに俯いたまま、水だけをもらっていた。
やがて、村の長が現れる。
「……あのな、ここいらには泊まるところもないし、話すこともない。悪いが、夜になる前に村を出てくれんか」
名前は、ほんのわずかに頭を下げる。
それ以上、何も言わなかった。
(……陽太は、ここにもいない)
どこにもいない。
誰も知らない。
問いかければ、目を逸らされる。
名前は、再び黙って歩き出した。
山道に向かい、木陰に姿を沈めようとしたその時--
空が、かすかに濁った。
遠くで、何かの声が聞こえた。
夜が、近づいていた。
この夜、彼女はまだ知らない。
“陽太と同じ存在”が、この世に他にもいるのだということを--。
冷たい夕風に晒され、名前の頬を撫でていく。
暫くぼんやりと夕暮れに染まる山を見つめた後、ゆっくりと歩き出した名前だが、ふと足を止めた。
門の脇――そこに、見覚えのあるものがあった。
一本の剣。
鞘に泥がつき、柄はほつれ、刃には薄く血が乾いている。
それは、昨夜--弟の陽太と戦った、父の形見の剣だった。
「……!」
剣は、追放を言い渡された時に取り上げられていた。
名前の手から無造作に引き離され、床に落ちた刃を、誰も拾おうとはしなかった。
まるで穢れたもののように。
まるで、名前自身を拒絶するように。
だから、この場所にあるはずがなかった。
名前はゆっくりと近づき、膝をついた。
指先が、柄に触れる。
懐かしい重みが、掌に戻ってきた。
その時、気づいた。
剣の下に、小さな包みがある。
干した薬草と、ほんのわずかな食料。
何の印も、言葉も、書き置きもない。
しかし、その全てに添えられた、不器用で、懸命な気配。
「(この結び目は……)」
思い浮かぶのは、一人しかいなかった。
桐子と共に、いつも名前の後ろを嬉しそうに付いて回っていた。
縁日で買ってあげた風車を、いつまでも幸せそうに吹いて回していた。
そして。
『名前様は、鬼なんかじゃないっ…!』
名前は、剣と共に、包みを大事に抱きしめた。
言葉にならない想いが、胸に広がっていく。
悔しさ、哀しさ、怒り、それから--微かな、温もり。
名前は静かに立ち上がり、剣を腰に差した。
深く息を吸って、一つだけ、息を吐く。
それはまるで、何かを燃やして、その灰を腹の底に沈める様な仕草だった。
村の門を、振り返ることはない。
一歩を踏み出した。
二歩、三歩。
最初不安定だったその歩みは、進む毎にやがて確かなものへと変わっていく。
背中に届く声は一つもない。
けれどその足取りが全てを語っていた。
--彼女の目指す先が、唯一つしか無いことを。
その後ろ姿を、風だけが見送っていた。
⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎
夜が明けては暮れ、季節は微かに移ろい始めていた。
名前は、一つの場所に留まることをやめた。ひたすら歩いた。
山を越え、川を渡り、小さな集落や宿場町を巡る。
人目を避け、物陰に身を潜めながら、ただ一つの目的だけを胸に歩き続けていた。
--陽太を探さねば。
それが唯一、自分に残された意味だった。
道なき山中を進むときは、足を裂きながら藪を踏み分けた。
荒れた街道では、野犬に追われながら走ったこともある。
野宿を重ね、夜露に濡れながら、焚き火すら避けて眠った。
その眼差しは決して彷徨っていなかった。
いや、彷徨っていたのかもしれないが、彼女自身はそれを許さなかった。
夜に徘徊する少年の姿を見たという噂。
誰かが不審死したという話。
“死んだはずの人間が歩いていた”という小さな奇譚。
それらを聞けば、すぐに背を向け、足を向けた。
例え、道が崩れていようと、何日かかろうと。
だが、どれほど追っても、陽太は見つからなかった。
どこかでまた人を喰ったのか。
どこかで誰かの命を奪ったのか。
そのたびに、名前の胸は切り裂かれるようだった。
剣は、常に腰にあった。
かつて父が振るい、陽太に牙を向け、血に濡れた剣。
その重みだけが、彼女の背を支えていた。
ある時は、山間の祠でひと晩を明かした。
またある夜は、川沿いの石の上で、身体を丸めて眠った。
夢を見た。
あの夜の光景が、何度も何度も繰り返された。
陽太の瞳、血塗れの手、自分の叫び--
そして、何もできなかった現実へと、いつも目を覚ます。
だが、それでも立ち上がる。
痛む足を引きずってでも、次の町へ向かう。
食事を抜いても、水を求めて森を彷徨っても。
名前は諦めなかった。
いや、諦めるという言葉を、心に刻む隙さえ与えなかった。
陽太を探しているのではない。
--その首を斬るために、追っているのだ。
その信念だけが、名前を生かしていた。
⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎
日が傾き始めていた。
風は冷たく、空気には枯れ草と山の土の匂いが混ざっている。
名前は、一つの村の入り口に立っていた。
名も知らぬ、小さな谷間の集落。
陽太を追い、幾つ目かも分からない村のひとつだった。
袴の裾はほつれ、足元には泥。
道中で転びながらも歩き続けてきた証が、衣服のあちこちに刻まれている。
それでも、名前は村へ足を踏み入れた。
目的はひとつ--陽太の痕跡を探すこと。
(……また、違うかもしれない)
そう思いながらも、次を探さずにはいられなかった。
彼女がまず向かったのは、井戸。
ひと口の水を求めて腰をかがめた、そのとき--
「……何してるんだ」
振り返れば、村の青年が一人。
鍬を担いだまま、眉をひそめてこちらを見ていた。
名前は答えなかった。
ただ、静かに立ち上がって頭を下げる。
次の瞬間には、もう彼は離れていっていた。
だが、それで終わりではなかった。
--知らぬ顔の旅人。
--女で、腰に刃を帯びている。
--目つきが鋭く、何を考えているか分からない。
それだけで、村にはさざ波のような不穏が広がった。
昼過ぎには、子どもたちが遠巻きに見ていた。
夕方には、老婆たちが噂話を始めていた。
「どこかの罪人じゃあるまいね」
「刀持ってる女なんて、ろくなもんじゃないよ」
名前は、静かに俯いたまま、水だけをもらっていた。
やがて、村の長が現れる。
「……あのな、ここいらには泊まるところもないし、話すこともない。悪いが、夜になる前に村を出てくれんか」
名前は、ほんのわずかに頭を下げる。
それ以上、何も言わなかった。
(……陽太は、ここにもいない)
どこにもいない。
誰も知らない。
問いかければ、目を逸らされる。
名前は、再び黙って歩き出した。
山道に向かい、木陰に姿を沈めようとしたその時--
空が、かすかに濁った。
遠くで、何かの声が聞こえた。
夜が、近づいていた。
この夜、彼女はまだ知らない。
“陽太と同じ存在”が、この世に他にもいるのだということを--。