一章
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その朝。
玖波家の屋敷に漂う、血と鉄の匂いは、風に乗って村の端まで届いていた。
最初に異変に気づいたのは、水汲みに向かっていた村の娘だった。
「……え? なに、これ……」
門の前に立ちすくんだ彼女の目に映ったのは、扉の隙間から垂れる、黒く乾いた“何か”だった。
恐る恐る近づくと、それは人の血だった。
悲鳴をあげて駆け出す。
「た、たいへん!玖波様のお屋敷が……!」
やがて、村の男たちが戸を開け、ひとり、またひとりと屋敷の中へ踏み込んでいく。
「うっ……これは……っ!」
「こっちだ!人が……ひ、人が殺されてる……!」
誰かが吐き、誰かが膝をつき、誰かが泣き出した。
その全員が、言葉を失った。
綺麗に整っていたはずの玖波の屋敷は、まるで屠殺場のようだった。
血の匂い。裂けた内臓。引きちぎられた手足。
あまりの惨状に、叫び声が止まらない。
「なにが……なにがあったってんだよ、これは……!」
「熊か!?盗賊か…!?」
「盗賊が金目のもんもとらずにこんな殺し方するかよ!」
誰かが口にしたその言葉で、空気が変わった。
「でも……じゃあ、なぜあの娘が生きてる……?」
屋敷の中心、崩れ落ちた柱の傍に、血塗れの名前が座り込んでいた。
その手には、血の滴る真剣。
村人たちは誰一人として声をかけられなかった。
ただ、名前の周囲に立ち尽くし、震えた。
「……名前様……なんで……」
「ひ、一人生き残ってるなんて、おかしくねぇか……?」
「あの子が……まさか、全部……?」
そんな疑いの声が、ぽつりぽつりと生まれていく。
恐怖はやがて、理性を凌駕する。
「落ち着け!名前様は剣の才があった!熊と戦って生き延びたのかもしれねぇ!」
「でも……でもよ!門下生も女中も、全員殺されて……あの子だけが生きてるなんて、そんな偶然……!」
「それに……なぜ熊は、あの娘を喰わなかった……?」
疑念は恐怖となり、村人たちの目が徐々に冷たくなっていく。
名前は、ただ静かに俯いていた。
何も言わず、何も否定せず。
そうするしかなかった。
誰かが叫ぶ。
「村長を呼べ!検視を!これは……ただの事件じゃねえぞ!」
混乱の只中で、騒ぎはさらに広がっていった。
まもなく、玖波の名は“惨劇”と共に村中を駆け巡る。
⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎
瓦葺きの公会堂には、村の要職者たちが顔を揃えていた。
場の空気は張り詰め、誰一人として軽口を叩く者はいなかった。
その中央に、うなだれるように座らされた少女がひとり。
玖波名前。血の滲んだ着物のまま、白くなった顔に表情はない。
その周囲を、取り囲むように座す村長、医師、庄屋、門下生の遺族、そして玖波家の分家筋たち。
「……一体、何があったのか。名前、お前の口から説明してくれ」
低く、しかし強い声で村長が促す。
名前は、唇を震わせるでもなく、ただ静かに頭を下げる。
「申し訳……御座いません」
それだけを、ぽつりと落とすように言った。
「謝罪など聞いておらん。真実を問うておるのだ!」
門下生・加古新一の父親が怒声を上げる。
「私の息子は……新一は、あの屋敷で何年も剣を学び、名前様を尊敬しておった!それを……それを、何故だ!」
「……申し訳……御座いません」
また、それだけ。
「ふざけるなッ!!」
立ち上がって机を叩いたのは、かつて颯太郎と稽古を共にしていた若い門下生の兄だった。
「弟は胸を裂かれて死んでいた!顔も分からぬほどに!お前がやったのか!?そうなのかッ!!」
名前は震えなかった。
顔を上げることもせず、ただ両手を膝の上に置き、黙して座っていた。
「……なぜ、陽太様がいらっしゃらないのです」
綺羅子の親族である中年の女が言った。
「一番弱かったあのお子が、なぜいないの?なぜあなたが生きていて、あの子がいないのですか?」
「……申し訳御座いません」
「もういい!!」
一際鋭い声が響いた。
その声の主に、誰もが息を飲む。
朝霧颯太郎の母だった。
喪服にも似た黒の羽織をまとい、厳しい面持ちで立ち上がった彼女は、無言のまま名前の前に進み出た。
そして、迷いなくその頬を平手で打った。
乾いた音が、集会場を満たす。
名前は抗わなかった。顔をそむけることもせず、叩かれたまま、静かにその痛みを受け入れた。
颯太郎の母が、名前の胸倉を掴む。
「あんたがッあんたがやったんでしょう!?」
泣き叫ぶ声が空気を裂いた。
「どうして颯太郎があんなっ… あんな惨い死に方をしなければならなかったのよ!!?」
絶叫と共に、名前の頬が何度も打たれる。
「女が真剣なんて抜くからよ……っ!」
バチン、と乾いた音が響く。
「ずっと可笑しいと思ってた…女のくせに剣なんて…っ あの家は、可笑しかった!」
また一発。
涙を流しながら、狂ったように母は名前の頬を叩き続けた。
「私は最初から反対だったッ!あんたみたいな化け物とッ…」
「颯太郎がっ、婚姻だなんてッ……!!」
それまで何の反応も示さなかった名前が、顔を上げる。
「…婚、姻……?」
「あんたは化け物だッ!よくもそんな澄ました顔をしてっ……返せぇッッ!颯太郎を返せえぇぇッッ!!!」
「おいもう止めないか!!」
「イヤァァアア!離してッ!離してぇっ!!」
名前の余りに小さな声は、彼女には届かなかった。
錯乱した彼女を夫が羽交い締めにすると、彼女はその場に崩れ落ち、嗚咽を漏らした。
最愛の息子の名を叫びながら。
名前の頬は赤く腫れ、唇の端から一筋の血が滲んでいた。
知らされていなかった、朝霧颯太郎との婚姻。
名前の脳裏に浮かぶ、彼の温かな手、穏やかな声、優しい視線。
視界がぐにゃりと歪む前、名前は再び額を床に擦り付けた。
泣くな。
私に、あの人を想って流す涙など、赦されない。
「申し、訳っ、…申し訳御座いませんでした…っ!申し訳御座いませんでしたっ…!」
何度目かの謝罪の言葉。
しかし、それに同情する者はいない。
それどころか、名前に向けられる視線はいつしか疑惑から畏怖と嫌悪へと変化していく。
名前の剣を見た者は、皆が口を揃えて言った。
『名前様は、剣の神に愛されている』と。
その太刀筋は、一切の乱れもなく。
構えは凛と張り詰め、踏み込みは水面を打つ雫のように静かにして鋭く、
何よりも--速かった。
『名前様の剣は、もはや“人”のものではない」 』
そんな声さえ、幾度かささやかれた。
誰よりも強く、誰よりも清廉なはずだった。
だからこそ。
「やっぱり、あの子は普通じゃなかったんだよ……」
「どこか人間離れしていたんだ……」
「あの目を見たことがあるか?稽古中の、ありゃまるで…」
--鬼だ。
恐怖は、記憶を都合よく塗り替える。
かつて「剣の申し子だ」と称えた者たちは、今や声を潜めてこう言う。
「剣が……あの娘の心を壊したんだ」
「人を殺すことに躊躇がなかったのかもしれん」
「女の身で、真剣など振るうから……」
「鬼だ、あの娘は鬼になったんだ」
畏敬と畏怖は、裏表だった。
名前の剣の才は、いつの間にか“異質”と呼ばれ、そして今、疑惑と恐怖の芯にある。
人々には理解出来ない惨劇を名前に重ね、裁こうとしていた。
「…ち、違います!!」
薄汚れた衣の裾を握りながら、前に出たのは幼い少女。
女中見習いとして玖波に務めていた少女、市だった。
「名前様が、そんな事なさるはずがありません!名前様はいつもお優しくてっ…こんなの、何かの間違いです!」
涙がぽろぽろと零れ落ちる。
小さな声で訴えながら、彼女は必死に言葉を繋ぐ。
「門下生の皆様にも慕われていて……剣の稽古の時も、お怪我をされたらいけないと……あんなに……!」
誰かが呻くように言う。
「市……お前、買い出しに出ていて命拾いしただけじゃねえか……」
「な、何が分かる。何も見た訳じゃねぇんだろ?」
だが、市はそれでも、名前を見て叫んだ。
「違いますっ!名前様は……人を斬るなんて……そんな…!!名前様は鬼なんかじゃないっ!!」
その瞬間、場の空気が凍った。
颯太郎の母が、ギリッと奥歯を噛み、怒声を飛ばす。
「黙れッ!!」
市の身体がびくりと跳ねた。
「女中風情が、この場で口を挟むな!!」
場内が静まり返る。
市は一瞬、何かを言おうと口を開きかけたが、
その目に浮かんだのは、怒りと疑念に染まった村人たちの視線だった。
声が、出なかった。
震える唇を閉じ、うつむいた。
「……ぁ、……」
その一言を残し、市は小さく身を引いた。
名前の方を振り返ることもできなかった。
名前は、そんな市の姿を微かに顔を上げて、見ていた。
その目には、痛みも、怒りもなかった。
ただ、『何も言わなくて良い』とでも語るような、優しく、哀しい光だけがあった。
再びその場が怒声に包まれた時。
「………もういい」
異様な空気を破ったのは、村長の静かな一声だった。
村長の気迫に押された村人達は押し黙る。
村長が、未だ頭を上げようとしない名前に問う。
「名前。昨晩、玖波の屋敷でお前だけが生き残ったのは事実だ。真剣を抜き、数多の死体の中にお前はいた。理由を聞かせてくれ。何があったのか、お前の口から」
名前が、ゆっくりと頭を上げ、村長を見据える。
瞳は赤く潤んでいるが、しかしどこか遠くを見つめていた。
「………申し訳御座いません」
一言。
ただそれだけ。
誰かが息を呑み、誰かが拳を握った。
「それでは、誰も納得しない!」
「息子を返してくれ!」
「幼い弟まで手にかけて…貴様それでも人間かっっ!!」
「この気狂いッ!鬼畜ッ!」
再び怒号が飛び交い、泣き崩れる者もいた。
しかし、名前はそのすべてを受け止めて、ただ頭を下げ続けた。
自らの罪かのように。
村長が再び、静かに言った。
「名前。私はお前が犯人とは思ってはおらぬ。あれは…人の仕業ではない」
胴体は真っ二つに裂かれ、腸を引きちぎられ、四肢を引き抜かれ。
いくら名前が剣に長けていようと、人の力で、一振の剣でたった一晩でできることではなかった。
「しかし、現場には熊の毛も狼の毛も一本足りとも落ちてはいなかった…。そして、肝心のお前が何も語らぬのであれば…お前を、村に置いておくことは出来ぬ」
名前は頭を下げたまま、小さく頷いた。
拒まなかった。
訴えなかった。
ただ、それを当然の報いと受け止めた。
村長は深く目を閉じ、言葉を絞るように発した。
「玖波名前。お前を、この村より追放する。二度と、この地に足を踏み入れてはならぬ」
沈黙が落ちた。
それは誰の胸にも重く、冷たく、
まるで死を言い渡されたかのようだった。
「そして、終生玖波の名を語ることも許さぬ」
「出ていけ」
名前は、静かに立ち上がり一礼だけをして出て行った。
その背に誰も声をかける者はおらず、憎悪と恐怖の眼差しだけを向けていた。