七章
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蝶屋敷に来て、幾度目の朝を迎えただろうか。
名前は庭に立ち、日輪刀を両手に静かに構えていた。
澄んだ朝の空気の中、竹林の葉がさらさらと揺れる。
呼吸を深く整え、一太刀ごとに胸の奥で決意を刻み込むように、雫の呼吸を繰り返す。
「……壱ノ型《たゆたう面影》」
空気を裂くのではなく、溶かすような滑らかな太刀筋。
振り下ろされた刃は、水面に落ちる雫のように、ただ静かに響くだけ。
(……もっと。まだ足りない)
夢で見た綾斗の笑顔と声が、何度も胸をよぎる。
そのたびに、名前の踏み込みは深く、剣筋はより澄んでいった。
腹、肩、腕、足。
傷痕は色濃く残る。
でも、もう何処にも痛みはなかった。
ここしばらく――。
あの満月の夜から。
あれほど賑やかに押しかけていた煉獄杏寿郎が、ぱたりと顔を見せなくなっていた。
数日現れなくなることはあった。
しかし今やその日数は二週間にも及ぶ。
これ程の長い期間は、初めてのことだった。
静かな庭は、名前にとって鍛錬に集中できる場であると同時に、どこか物足りなさの様な、寂しさ、の様な。不思議な気持ちも残していた。
名前の刀が、すう……と静かに鞘へと戻された。
白い吐息が揺らぎ、竹林の葉の音と溶け合う。
「精が出ますね」
背後から響いた穏やかな声に、名前は振り返った。
そこには、白い羽織を纏った胡蝶しのぶが立っていた。
柔らかな笑みを浮かべつつも、その瞳は名前の動きをしっかりと見届けていた。
「もう……大丈夫そうですね」
しのぶは細い指を口元に添えながら、静かに告げる。
その声音には、医師としての確信と、姉のような優しさが入り混じっていた。
名前は一歩進み、深く頭を下げる。
「……蟲柱様。この度は、長きに渡る療養、お世話になりました。傷の手当も、日々の訓練の場も――皆様のおかげで、ここまで戻ることができました。心より感謝申し上げます」
しのぶの目が、ふっと柔らかさを増す。
「礼には及びませんよ。私は、ただ自分の役目を果たしただけです」
静かに告げる声には、澄んだ水面のような落ち着きがあった。
だが、その眼差しは名前をまっすぐに捉えて離さない。
「それに、正直に言うと……あの夜、貴女がここにやって来た時は、ここまで回復するとは思っていませんでした」
わずかに瞳を細める。そこにあるのは驚きではなく、静かな称賛だった。
「けれど――煉獄さんの目に、狂いはなかったのですね」
しのぶの唇に、かすかな笑みが浮かんだ。
まるで、名前の中に灯った炎を確かに見届けたと告げるように。
名前は小さく息を吸い、口を開きかけて――すぐに閉じた。
指先が袂を探るように動き、軽く握られる。
庭を渡る風が竹の葉を鳴らす間、彼女はわずかに目を伏せたまま黙していた。
けれど、やがて顔を上げる。
瞳にはまだ迷いの影を残しつつも、そこに揺るぎない強さを宿して。
「……蟲柱様。炎柱様は、今どちらにおられるのでしょうか」
澄んだ声音が庭に溶け、竹林の葉音に重なっていった。
しのぶは小さく瞬きをし、何かを答えようと口を開きかけ――その時だった。
バサリ、と鋭い羽音が庭を揺らす。
黒い影が竹林の上から舞い降り、名前の前に真っ直ぐ降り立つ。
煤けた羽根、深い琥珀の瞳。
見間違えるはずがない。
それは、かつて綾斗の肩にいつも寄り添っていた鎹鴉だった。
「……っ」
息を呑む名前の目の前で、鴉は嘴をひらき、ひらりと一通の手紙を落とす。
それは静かな音を立てて、名前の足元に落ちた。
次の瞬間、鴉は何も告げず、翼を広げて再び空へと飛び立っていく。
羽音だけが残り、やがて竹林のざわめきに溶けていった。
残されたのは、名前と――白い封だけ。
しのぶは口を閉ざしたまま、ただその光景を静かに見守っていた。
震える指先を伸ばし、名前は拾い上げる。
名前は白封を見つめたまま、しばし動けなかった。
胸の奥に残るざわめきが、指先まで震えさせている。
(……誰が……)
恐る恐る、封の端に目を落とす。
筆で書かれた、流れるような小さな文字がそこにあった。
――『静水』。
「……!」
息が、詰まる。
心臓を握られたように胸が強く脈打ち、視界が一瞬にじんだ。
(静水様……!)
名前の肩が小さく震える。封を抱くように胸に寄せ、どうしていいか分からず目を伏せた。
その横で、しのぶは静かに口を開く。
「……読んでみては、いかがですか?」
柔らかな声だった。促すでも急かすでもなく、ただ背を押すように。
名前は震える指で封を撫で、深く息を吸い込んだ。
封を裂き、慎重に広げた紙には、流れるような筆致で言葉が並んでいた。
墨の香りがふわりと鼻をかすめ、静水の気配がすぐ傍に在るように思えた。
そこにはまず――。
名前が生きていることへの喜びが記されていた。
あの夜、自分に消えぬ傷を負わせた下弦に挑み、戦い、極限まで追い詰めたことへの感謝と賞賛。
そして、綾斗を喪ったことへの深い哀悼と、名前の痛みに寄り添う言葉が綴られていた。
名前の胸が痛みで締め付けられる。
指先が震えそうになるのを必死に堪え、続く文字を追った。
――
「炎柱・煉獄杏寿郎殿の継子に誘われたそうですね。
それは、何よりの誉れです。
あなたの剣と心が、柱に認められたということ。
雫の呼吸に生きる者として、これほど誇らしいことはありません。
現炎柱殿は、真っ直ぐで、誰よりも温かな人柄だと聞いています。
きっと、あなたを孤独にはしないでしょう。
あなたの足元を照らす炎となり、背を押してくださるはずです。
今は、仲間を喪った痛みから、再び誰かを心に迎えることを恐れているかもしれません。
けれど、人は一人では生きられません。孤独に逃げてはいけません。
孤独は心を腐らせ、やがて人を闇へと誘うでしょう。
どうか、自らを卑下しないで。
あなたは、選ばれた剣士です。
その剣を誇りとしてください。
私は、あなたを誇りに思います。
いつでも、どこにいても。
静水」
――
読み進めるごとに、胸の奥が熱く、同時に切なくなる。
静水の声がすぐ傍で響いているようで、名前の瞳からぽろぽろと涙が零れては、静水の手紙を濡らしていく。
布越しに伝わる紙の温もりが、名前の胸の奥に滲んでいた孤独を、そっと押し流していく。
「……静水様……っ」
掠れた声が零れ、瞳にまた涙が滲む。
震える肩を抱くように手紙を胸に押し当てたまま、名前はしばし動けなかった。
その様子に、しのぶは静かに目を細める。
そして、ふっと声を落とした。
「――あの鴉を飛ばしたのは……煉獄さんですよ」
名前が、はっと顔を上げる。
涙に濡れた瞳が揺れ、しのぶを見つめる。
しのぶは名前の視線を受け止め、ふわりと微笑んだ。
その微笑みの奥には、どこか慈しむような色が宿っていた。
「……煉獄さんから、伝言を預かっています」
名前の喉がきゅっと詰まり、自然と息を呑む。
しのぶはゆるやかに続けた。
「――『回復して本当に良かった。何より嬉しく思う』と」
短く区切りながらも、その声は力強く、まるで煉獄杏寿郎その人の声が庭に響いているかのようだった。
「それから……『継子になることは強制ではない。選ぶのはあくまで君自身だ』とも」
名前の拳が膝の上で小さく震える。
しのぶは一拍置き、静かに瞼を伏せる。
「そして最後に、『君の武運と息災を、心から祈っている』と」
風が竹林を渡り、葉音がさらさらと流れていった。
その静けさの中で、しのぶは小さく吐息をこぼし、ほんの少しだけ目を細めた。
「……煉獄さん、ああ見えて不器用な方ですから。『継子にしたい』というのも本心でしょう。でも……本当は心配で、何度も顔を出していたのでしょうね」
名前の胸に、熱いものが溢れてくる。
思い出す――何度追い出されても、幾度も押しかけ、賑やかに励まし、菓子を持ってきて、時に無理やり外へ連れ出してくれた日々を。
その全てが「心配」の裏返しだったと知り、胸が締め付けられる。
その胸の正中には、未だに消えない痕が残っていた。
下弦との戦いの折、心臓が止まりかけた自分を、必死に呼び戻してくれた煉獄の掌の痕。
他のどんな傷跡も月日と共に薄らいでいったのに――この痕だけは、不思議と今もくっきりと刻まれたままだった。
それは痛みではなく、確かな温もりとしてそこに在る。
まるで「生きろ」と託された炎が、皮膚を越えて心にまで焼き付いているように。
しのぶは名前の様子を見つめながら、静かに微笑んだ。
胸の奥が熱く、締め付けられるようで、息が思うように入らない。
けれどその苦しさは、痛みではなく、前へ進めと背を押すものだった。
やがて名前は顔を上げる。
涙はまだ頬を伝っていたが、その瞳には迷いを振り切った光が宿っていた。
「……いまから、でも……遅くは、ないでしょうか」
震える声が、庭に落ちる。
しのぶが小さく瞬きし、そっと首を傾ける。
「……炎柱様に、幾度も失礼を重ねました。追い返すような真似まで……」
言葉を絞り出すたび、胸が痛む。
名前は目をぎゅっと閉じ、涙に濡れた頬を拭うこともできずに続けた。
「それでも……私で務まるならば……」
「炎柱様の、継子に……なれるでしょうか……っ」
掠れた声が、嗚咽に飲まれそうになる。
拳を握りしめるその姿は、必死に震えを抑えながらも、確かに決意を帯びていた。
しのぶは、その言葉を聞き届けると、静かに頷いた。
そして、ふっと唇にいたずらめいた微笑を浮かべ、庭の奥へと視線を向ける。
「……だ、そうですよ。――良かったですね、煉獄さん」
名前が、顔を上げる。
竹林を渡る風が一瞬止んだかのように感じられた。
そして――。
足音はなかった。ただ、庭の端に差す光の中に、ひときわ大きな影がゆっくりと現れる。
燃えるような赤と金の羽織、真っ直ぐな背。
「……っ!」
名前の胸が大きく跳ね上がる。
もう二度とは訪れることはないのだと思い込んでいた存在――炎柱・煉獄杏寿郎。
声を失ったまま、思わずしのぶを振り返る。
しのぶは驚いた様子も見せず、ただいつもの調子で小さく微笑んだ。
「長期任務だったみたいですね」
急ぎの任務だったため、名前に伝える時間もなかったのだろうと、あまりにさらりとした言葉に、名前は息を呑んだまま瞬きを繰り返す。
信じられない、という思いと、胸の奥からせり上がる熱とが混じり合い、喉の奥が震えた。
煉獄は、静かに彼女を見つめていた。
名前の唇がわずかに開き、声にならぬ吐息が漏れた。
「……あ、あの……っ」
必死に言葉を探すその姿を、煉獄は一歩進んで大きな影を落とし、躊躇なく伸ばした掌で名前の頭をそっと撫でた。
ごつごつとした掌は、しかし驚くほど温かく、優しく。
火照るような体温が、髪を通じて心の奥にまで沁み込んでいく。
「――よくここまで、頑張った」
低く力強い声が、まっすぐに降り注ぐ。
「君はやはり、すごい剣士だ」
その言葉は、決してお世辞ではなかった。
名前が背負った傷も、流した血も、苦しみも。
そして、歯を食いしばり機能回復訓練に耐えた、ここに至るまでの道程も――煉獄はすべて見てきたからこそ、確信を込めて断言していた。
名前の胸が熱く締め付けられる。
込み上げる涙が視界を滲ませそうになるのを、必死に堪えて、まっすぐに煉獄を見上げた。
「……炎柱…様……」
震える声を押し出すように、名前は両手を固く握りしめる。
そして、揺るぎない眼差しで告げた。
「私……あなたの、継子になりたいです」
その声音は涙に震えながらも、決して揺らぐことのない決意に満ちていた。
煉獄は、少し驚いたように瞳を瞬かせた。
しかしやがて、応える代わりにわずかに顎を引き、穏やかな眼差しで頷いた。
「――うむ」
煉獄は、ほんの刹那だけ瞳を細め、静かな低さで口を開いた。
「……その前に、ひとつだけ」
それは了承の前に置かれる、揺るがぬ柱の声だった。
名前は胸の奥がかすかに震え、自然と背筋を正す。
「君の名を、教えてほしい」
名前の瞳に戸惑いが走る。
「……炎柱様は、すでにご存じのはずで… 蝶屋敷で、皆が何度も私を呼んで――」
煉獄は、きっぱりと首を横に振った。
その仕草はあくまで穏やかだが、そこに込められた揺るがぬ意志はひしひしと伝わってくる。
「聞いてはいる。だが、それでは“人づて”だ」
燃えるような眼差しが、やさしくも揺るがない強さで射抜く。
「名は誇りであり、剣の柄だ。君自身の声で握ってこそ、俺の心に確かに伝わる」
「君の唇で縁取り、君の声で紡いだ君の名を、教えてほしい」
その言葉に、庭の風がふと凪いだように思えた。
短い沈黙ののち、名前は深く息を吸い込み、静かに告げる。
「――姓はありません。……名を、『名前』と申します」
煉獄はその音を確かめるように、低く反芻した。
「……名前」
音のひとつひとつを確かめるように味わい、やがて穏やかな微笑みが灯る。
「良い名だ」
名前の胸が大きく脈打ち、熱いものがこみ上げてくる。
言葉にならない思いが喉を塞ぎ、ただ頷くことで必死に応えた。
その様子を見届けたしのぶが、そっと名前へと口を開く。まつげの影が柔らかく揺れる。
「……お元気で、名前さん」
「っ――む、蟲柱様! い、今まで本当に……」
言い切る前に、しのぶは人差し指を小さく振って笑んだ。
「お気になさらず。……頑張ってくださいね。煉獄さんの修行、厳しいみたいですから」
それだけ残して、音も匂いも乱さずに身を返す。白い羽織の裾が竹の影に溶け、足音はすぐ葉擦れに紛れた。
残された静けさの中、煉獄は耳もとに控えめに結わえていた赤い細紐へ指先を添え、ひと息でほどく。
結び跡がほどけ、後髪がふわりと揺れた。
髪を束ねるためだけに用いる、実直な一本。
それは装飾のためではなく、ただ彼の日々を支える確かな道具だった。
「手を」
促す声に、名前は一瞬ためらい、それでもおずおずと片手を差し出す。
煉獄は傷痕残る、その細い手首に赤い組紐をくるりと巻き、結び目を小さく整えた。
解こうと思えばすぐに解ける、けれど動いてもほどけない、絶妙な加減で。
手首に残る結び目は、炎のように鮮やかに映えた。
煉獄は、赤い組紐を名前の手首に巻き終えると、その結び目に力強く掌を添えた。
炎のような瞳が、真っ直ぐに名前を射抜く。
「――今より、君は俺の継子だ」
「これはその証」
熱の宿った声だった。
煉獄は真っ直ぐに名前を見つめたまま、言葉を紡ぐ。
「だが、それだけではない。君が迷う時、折れそうな時……必ず俺が導くという、誓いの印でもある」
言葉は更に熱を帯び、胸の奥底にまで響いてくる。
「これから先、どんな闇に呑まれようとも…君を決して独りにはしないと、約束しよう」
名前は息を呑んだ。
手首に巻かれた赤が、ただの組紐ではなく、炎柱の約束そのものとして熱を伝えてくる。
それは皮膚を越えて、心臓の奥にまで焼き付くようだった。
煉獄は、そのまま名前の手を大きな掌で包み込んだ。
手首に巻かれた赤い組紐が、二人を繋ぐ確かな絆のように光る。
「――共に闘おう」
力強く、それでいて澄んだ声が、庭に満ちていく。
「鬼のいない、平和な世を築くために」
言葉は炎のように真っ直ぐで、迷いも陰りもなかった。
その温もりと力強さが、名前の胸を突き上げる。
瞳にまた涙が滲む。けれど彼女は唇を強く結び、必死にこらえた。
涙は流さない。ただその代わりに、揺るぎない声で応える。
「……はい」
短い返事だった。
けれどそれは、涙よりも雄弁に、彼女の決意と誇りを語っていた。
竹林を渡る風が、さらさらと葉を鳴らす。
赤い組紐が小さく揺れ、まるで新たな道の始まりを祝福するように煌めいていた。
終。
名前は庭に立ち、日輪刀を両手に静かに構えていた。
澄んだ朝の空気の中、竹林の葉がさらさらと揺れる。
呼吸を深く整え、一太刀ごとに胸の奥で決意を刻み込むように、雫の呼吸を繰り返す。
「……壱ノ型《たゆたう面影》」
空気を裂くのではなく、溶かすような滑らかな太刀筋。
振り下ろされた刃は、水面に落ちる雫のように、ただ静かに響くだけ。
(……もっと。まだ足りない)
夢で見た綾斗の笑顔と声が、何度も胸をよぎる。
そのたびに、名前の踏み込みは深く、剣筋はより澄んでいった。
腹、肩、腕、足。
傷痕は色濃く残る。
でも、もう何処にも痛みはなかった。
ここしばらく――。
あの満月の夜から。
あれほど賑やかに押しかけていた煉獄杏寿郎が、ぱたりと顔を見せなくなっていた。
数日現れなくなることはあった。
しかし今やその日数は二週間にも及ぶ。
これ程の長い期間は、初めてのことだった。
静かな庭は、名前にとって鍛錬に集中できる場であると同時に、どこか物足りなさの様な、寂しさ、の様な。不思議な気持ちも残していた。
名前の刀が、すう……と静かに鞘へと戻された。
白い吐息が揺らぎ、竹林の葉の音と溶け合う。
「精が出ますね」
背後から響いた穏やかな声に、名前は振り返った。
そこには、白い羽織を纏った胡蝶しのぶが立っていた。
柔らかな笑みを浮かべつつも、その瞳は名前の動きをしっかりと見届けていた。
「もう……大丈夫そうですね」
しのぶは細い指を口元に添えながら、静かに告げる。
その声音には、医師としての確信と、姉のような優しさが入り混じっていた。
名前は一歩進み、深く頭を下げる。
「……蟲柱様。この度は、長きに渡る療養、お世話になりました。傷の手当も、日々の訓練の場も――皆様のおかげで、ここまで戻ることができました。心より感謝申し上げます」
しのぶの目が、ふっと柔らかさを増す。
「礼には及びませんよ。私は、ただ自分の役目を果たしただけです」
静かに告げる声には、澄んだ水面のような落ち着きがあった。
だが、その眼差しは名前をまっすぐに捉えて離さない。
「それに、正直に言うと……あの夜、貴女がここにやって来た時は、ここまで回復するとは思っていませんでした」
わずかに瞳を細める。そこにあるのは驚きではなく、静かな称賛だった。
「けれど――煉獄さんの目に、狂いはなかったのですね」
しのぶの唇に、かすかな笑みが浮かんだ。
まるで、名前の中に灯った炎を確かに見届けたと告げるように。
名前は小さく息を吸い、口を開きかけて――すぐに閉じた。
指先が袂を探るように動き、軽く握られる。
庭を渡る風が竹の葉を鳴らす間、彼女はわずかに目を伏せたまま黙していた。
けれど、やがて顔を上げる。
瞳にはまだ迷いの影を残しつつも、そこに揺るぎない強さを宿して。
「……蟲柱様。炎柱様は、今どちらにおられるのでしょうか」
澄んだ声音が庭に溶け、竹林の葉音に重なっていった。
しのぶは小さく瞬きをし、何かを答えようと口を開きかけ――その時だった。
バサリ、と鋭い羽音が庭を揺らす。
黒い影が竹林の上から舞い降り、名前の前に真っ直ぐ降り立つ。
煤けた羽根、深い琥珀の瞳。
見間違えるはずがない。
それは、かつて綾斗の肩にいつも寄り添っていた鎹鴉だった。
「……っ」
息を呑む名前の目の前で、鴉は嘴をひらき、ひらりと一通の手紙を落とす。
それは静かな音を立てて、名前の足元に落ちた。
次の瞬間、鴉は何も告げず、翼を広げて再び空へと飛び立っていく。
羽音だけが残り、やがて竹林のざわめきに溶けていった。
残されたのは、名前と――白い封だけ。
しのぶは口を閉ざしたまま、ただその光景を静かに見守っていた。
震える指先を伸ばし、名前は拾い上げる。
名前は白封を見つめたまま、しばし動けなかった。
胸の奥に残るざわめきが、指先まで震えさせている。
(……誰が……)
恐る恐る、封の端に目を落とす。
筆で書かれた、流れるような小さな文字がそこにあった。
――『静水』。
「……!」
息が、詰まる。
心臓を握られたように胸が強く脈打ち、視界が一瞬にじんだ。
(静水様……!)
名前の肩が小さく震える。封を抱くように胸に寄せ、どうしていいか分からず目を伏せた。
その横で、しのぶは静かに口を開く。
「……読んでみては、いかがですか?」
柔らかな声だった。促すでも急かすでもなく、ただ背を押すように。
名前は震える指で封を撫で、深く息を吸い込んだ。
封を裂き、慎重に広げた紙には、流れるような筆致で言葉が並んでいた。
墨の香りがふわりと鼻をかすめ、静水の気配がすぐ傍に在るように思えた。
そこにはまず――。
名前が生きていることへの喜びが記されていた。
あの夜、自分に消えぬ傷を負わせた下弦に挑み、戦い、極限まで追い詰めたことへの感謝と賞賛。
そして、綾斗を喪ったことへの深い哀悼と、名前の痛みに寄り添う言葉が綴られていた。
名前の胸が痛みで締め付けられる。
指先が震えそうになるのを必死に堪え、続く文字を追った。
――
「炎柱・煉獄杏寿郎殿の継子に誘われたそうですね。
それは、何よりの誉れです。
あなたの剣と心が、柱に認められたということ。
雫の呼吸に生きる者として、これほど誇らしいことはありません。
現炎柱殿は、真っ直ぐで、誰よりも温かな人柄だと聞いています。
きっと、あなたを孤独にはしないでしょう。
あなたの足元を照らす炎となり、背を押してくださるはずです。
今は、仲間を喪った痛みから、再び誰かを心に迎えることを恐れているかもしれません。
けれど、人は一人では生きられません。孤独に逃げてはいけません。
孤独は心を腐らせ、やがて人を闇へと誘うでしょう。
どうか、自らを卑下しないで。
あなたは、選ばれた剣士です。
その剣を誇りとしてください。
私は、あなたを誇りに思います。
いつでも、どこにいても。
静水」
――
読み進めるごとに、胸の奥が熱く、同時に切なくなる。
静水の声がすぐ傍で響いているようで、名前の瞳からぽろぽろと涙が零れては、静水の手紙を濡らしていく。
布越しに伝わる紙の温もりが、名前の胸の奥に滲んでいた孤独を、そっと押し流していく。
「……静水様……っ」
掠れた声が零れ、瞳にまた涙が滲む。
震える肩を抱くように手紙を胸に押し当てたまま、名前はしばし動けなかった。
その様子に、しのぶは静かに目を細める。
そして、ふっと声を落とした。
「――あの鴉を飛ばしたのは……煉獄さんですよ」
名前が、はっと顔を上げる。
涙に濡れた瞳が揺れ、しのぶを見つめる。
しのぶは名前の視線を受け止め、ふわりと微笑んだ。
その微笑みの奥には、どこか慈しむような色が宿っていた。
「……煉獄さんから、伝言を預かっています」
名前の喉がきゅっと詰まり、自然と息を呑む。
しのぶはゆるやかに続けた。
「――『回復して本当に良かった。何より嬉しく思う』と」
短く区切りながらも、その声は力強く、まるで煉獄杏寿郎その人の声が庭に響いているかのようだった。
「それから……『継子になることは強制ではない。選ぶのはあくまで君自身だ』とも」
名前の拳が膝の上で小さく震える。
しのぶは一拍置き、静かに瞼を伏せる。
「そして最後に、『君の武運と息災を、心から祈っている』と」
風が竹林を渡り、葉音がさらさらと流れていった。
その静けさの中で、しのぶは小さく吐息をこぼし、ほんの少しだけ目を細めた。
「……煉獄さん、ああ見えて不器用な方ですから。『継子にしたい』というのも本心でしょう。でも……本当は心配で、何度も顔を出していたのでしょうね」
名前の胸に、熱いものが溢れてくる。
思い出す――何度追い出されても、幾度も押しかけ、賑やかに励まし、菓子を持ってきて、時に無理やり外へ連れ出してくれた日々を。
その全てが「心配」の裏返しだったと知り、胸が締め付けられる。
その胸の正中には、未だに消えない痕が残っていた。
下弦との戦いの折、心臓が止まりかけた自分を、必死に呼び戻してくれた煉獄の掌の痕。
他のどんな傷跡も月日と共に薄らいでいったのに――この痕だけは、不思議と今もくっきりと刻まれたままだった。
それは痛みではなく、確かな温もりとしてそこに在る。
まるで「生きろ」と託された炎が、皮膚を越えて心にまで焼き付いているように。
しのぶは名前の様子を見つめながら、静かに微笑んだ。
胸の奥が熱く、締め付けられるようで、息が思うように入らない。
けれどその苦しさは、痛みではなく、前へ進めと背を押すものだった。
やがて名前は顔を上げる。
涙はまだ頬を伝っていたが、その瞳には迷いを振り切った光が宿っていた。
「……いまから、でも……遅くは、ないでしょうか」
震える声が、庭に落ちる。
しのぶが小さく瞬きし、そっと首を傾ける。
「……炎柱様に、幾度も失礼を重ねました。追い返すような真似まで……」
言葉を絞り出すたび、胸が痛む。
名前は目をぎゅっと閉じ、涙に濡れた頬を拭うこともできずに続けた。
「それでも……私で務まるならば……」
「炎柱様の、継子に……なれるでしょうか……っ」
掠れた声が、嗚咽に飲まれそうになる。
拳を握りしめるその姿は、必死に震えを抑えながらも、確かに決意を帯びていた。
しのぶは、その言葉を聞き届けると、静かに頷いた。
そして、ふっと唇にいたずらめいた微笑を浮かべ、庭の奥へと視線を向ける。
「……だ、そうですよ。――良かったですね、煉獄さん」
名前が、顔を上げる。
竹林を渡る風が一瞬止んだかのように感じられた。
そして――。
足音はなかった。ただ、庭の端に差す光の中に、ひときわ大きな影がゆっくりと現れる。
燃えるような赤と金の羽織、真っ直ぐな背。
「……っ!」
名前の胸が大きく跳ね上がる。
もう二度とは訪れることはないのだと思い込んでいた存在――炎柱・煉獄杏寿郎。
声を失ったまま、思わずしのぶを振り返る。
しのぶは驚いた様子も見せず、ただいつもの調子で小さく微笑んだ。
「長期任務だったみたいですね」
急ぎの任務だったため、名前に伝える時間もなかったのだろうと、あまりにさらりとした言葉に、名前は息を呑んだまま瞬きを繰り返す。
信じられない、という思いと、胸の奥からせり上がる熱とが混じり合い、喉の奥が震えた。
煉獄は、静かに彼女を見つめていた。
名前の唇がわずかに開き、声にならぬ吐息が漏れた。
「……あ、あの……っ」
必死に言葉を探すその姿を、煉獄は一歩進んで大きな影を落とし、躊躇なく伸ばした掌で名前の頭をそっと撫でた。
ごつごつとした掌は、しかし驚くほど温かく、優しく。
火照るような体温が、髪を通じて心の奥にまで沁み込んでいく。
「――よくここまで、頑張った」
低く力強い声が、まっすぐに降り注ぐ。
「君はやはり、すごい剣士だ」
その言葉は、決してお世辞ではなかった。
名前が背負った傷も、流した血も、苦しみも。
そして、歯を食いしばり機能回復訓練に耐えた、ここに至るまでの道程も――煉獄はすべて見てきたからこそ、確信を込めて断言していた。
名前の胸が熱く締め付けられる。
込み上げる涙が視界を滲ませそうになるのを、必死に堪えて、まっすぐに煉獄を見上げた。
「……炎柱…様……」
震える声を押し出すように、名前は両手を固く握りしめる。
そして、揺るぎない眼差しで告げた。
「私……あなたの、継子になりたいです」
その声音は涙に震えながらも、決して揺らぐことのない決意に満ちていた。
煉獄は、少し驚いたように瞳を瞬かせた。
しかしやがて、応える代わりにわずかに顎を引き、穏やかな眼差しで頷いた。
「――うむ」
煉獄は、ほんの刹那だけ瞳を細め、静かな低さで口を開いた。
「……その前に、ひとつだけ」
それは了承の前に置かれる、揺るがぬ柱の声だった。
名前は胸の奥がかすかに震え、自然と背筋を正す。
「君の名を、教えてほしい」
名前の瞳に戸惑いが走る。
「……炎柱様は、すでにご存じのはずで… 蝶屋敷で、皆が何度も私を呼んで――」
煉獄は、きっぱりと首を横に振った。
その仕草はあくまで穏やかだが、そこに込められた揺るがぬ意志はひしひしと伝わってくる。
「聞いてはいる。だが、それでは“人づて”だ」
燃えるような眼差しが、やさしくも揺るがない強さで射抜く。
「名は誇りであり、剣の柄だ。君自身の声で握ってこそ、俺の心に確かに伝わる」
「君の唇で縁取り、君の声で紡いだ君の名を、教えてほしい」
その言葉に、庭の風がふと凪いだように思えた。
短い沈黙ののち、名前は深く息を吸い込み、静かに告げる。
「――姓はありません。……名を、『名前』と申します」
煉獄はその音を確かめるように、低く反芻した。
「……名前」
音のひとつひとつを確かめるように味わい、やがて穏やかな微笑みが灯る。
「良い名だ」
名前の胸が大きく脈打ち、熱いものがこみ上げてくる。
言葉にならない思いが喉を塞ぎ、ただ頷くことで必死に応えた。
その様子を見届けたしのぶが、そっと名前へと口を開く。まつげの影が柔らかく揺れる。
「……お元気で、名前さん」
「っ――む、蟲柱様! い、今まで本当に……」
言い切る前に、しのぶは人差し指を小さく振って笑んだ。
「お気になさらず。……頑張ってくださいね。煉獄さんの修行、厳しいみたいですから」
それだけ残して、音も匂いも乱さずに身を返す。白い羽織の裾が竹の影に溶け、足音はすぐ葉擦れに紛れた。
残された静けさの中、煉獄は耳もとに控えめに結わえていた赤い細紐へ指先を添え、ひと息でほどく。
結び跡がほどけ、後髪がふわりと揺れた。
髪を束ねるためだけに用いる、実直な一本。
それは装飾のためではなく、ただ彼の日々を支える確かな道具だった。
「手を」
促す声に、名前は一瞬ためらい、それでもおずおずと片手を差し出す。
煉獄は傷痕残る、その細い手首に赤い組紐をくるりと巻き、結び目を小さく整えた。
解こうと思えばすぐに解ける、けれど動いてもほどけない、絶妙な加減で。
手首に残る結び目は、炎のように鮮やかに映えた。
煉獄は、赤い組紐を名前の手首に巻き終えると、その結び目に力強く掌を添えた。
炎のような瞳が、真っ直ぐに名前を射抜く。
「――今より、君は俺の継子だ」
「これはその証」
熱の宿った声だった。
煉獄は真っ直ぐに名前を見つめたまま、言葉を紡ぐ。
「だが、それだけではない。君が迷う時、折れそうな時……必ず俺が導くという、誓いの印でもある」
言葉は更に熱を帯び、胸の奥底にまで響いてくる。
「これから先、どんな闇に呑まれようとも…君を決して独りにはしないと、約束しよう」
名前は息を呑んだ。
手首に巻かれた赤が、ただの組紐ではなく、炎柱の約束そのものとして熱を伝えてくる。
それは皮膚を越えて、心臓の奥にまで焼き付くようだった。
煉獄は、そのまま名前の手を大きな掌で包み込んだ。
手首に巻かれた赤い組紐が、二人を繋ぐ確かな絆のように光る。
「――共に闘おう」
力強く、それでいて澄んだ声が、庭に満ちていく。
「鬼のいない、平和な世を築くために」
言葉は炎のように真っ直ぐで、迷いも陰りもなかった。
その温もりと力強さが、名前の胸を突き上げる。
瞳にまた涙が滲む。けれど彼女は唇を強く結び、必死にこらえた。
涙は流さない。ただその代わりに、揺るぎない声で応える。
「……はい」
短い返事だった。
けれどそれは、涙よりも雄弁に、彼女の決意と誇りを語っていた。
竹林を渡る風が、さらさらと葉を鳴らす。
赤い組紐が小さく揺れ、まるで新たな道の始まりを祝福するように煌めいていた。
終。
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