七章
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戸が閉められると、ようやく静寂が訪れた。
ついさっきまで豪快な声が響き渡っていた道場には、張り詰めていた気配がふっと抜け、柔らかな光と畳の匂いだけが残った。
「……っ、ふぅ……!」
きよが小さな胸を上下させながら、くるりと名前に振り返る。
瞳を真剣に輝かせ、声を張った。
「名前さん!大丈夫ですよ! 煉獄様に今後、好き勝手はさせませんから!」
すみも慌てて前に出て、拳を握る。
「そうです! 何度来られたって、私たちが全力で追い返します!」
なほも大きく頷き、ぎゅっと腕を広げる。
「名前さんは、安心して鍛錬をしてください!」
三人の声が揃い、道場の空気が少し和らぐ。
幼い体を精一杯張って守ろうと、きゃいきゃいと名前を囲んでくるのに、名前は胸が温かくなるのを感じ、微かに微笑む。
その横で、鎹鴉が梁の上からじっと彼女を見下ろしていた。
まるで「当然デス」とでも言うように得意気に羽を膨らます。
しかし、アオイが一歩前に出ると、場の空気が引き締まる。
腕を組み、きりりとした瞳で名前を見つめる。
「――でも」
その一言で三人娘はぴたりと声を飲み込み、振り返った。
「継子に誘われることは、本来なら名誉なことです」
静かな声。だが、その言葉は畳を打つ竹刀のように鋭かった。
「柱に認められ、直々に鍛えられる機会なんて……滅多にありません。誰もが羨むものです。……普通なら、断るなんて考えられない」
きよ・すみ・なほは困惑したように互いを見やる。
それでも、アオイの声に揺るぎない真実があることは分かった。
アオイは名前に視線を戻し、淡々と問いかける。
「……本当に、断ってしまっていいんですか?」
道場に、再び静寂が落ちる。
三人娘は不安そうに名前の顔を覗き込んだが、名前はただ木刀を握りしめ、瞳を伏せていた。
その沈黙は、長い一瞬のように感じられた。
障子越しの光が揺れ、畳に差す影が静かに伸びていく。
梁の上の鎹鴉もまた羽音ひとつ立てず、ただじっと名前を見守っていた。
やがて―― 名前は木刀を握る手に力を込め、静かに口を開いた。
「……いいんです」
静かに、けれどはっきりとした声だった。
伏せた睫毛の影が頬に落ち、握った手は僅かに震えているのが分かる。
「私は……一人で闘うと、決めたので」
その言葉を最後に、名前はふっと息を吸い込むと、何もなかったかのように木刀を構え直した。
再び畳を踏みしめ、ゆるやかに、しかし揺るぎなく型を繰り返す。
「……」
きよ・すみ・なほは、思わず互いの手を握り合った。
胸の奥から込み上げてきた言葉はあった。励ましも、慰めも、ただ「一緒にいます」と伝えたかった。
だが―― 名前の背に浮かぶ影は、あまりにも大きく、厚い壁のようで。
結局、三人の口は固く閉ざされ、声は喉の奥で消えてしまった。
「……」
アオイもまた、何か言おうと唇を開いたが、すぐに閉ざした。
彼女の横顔には、いつもの厳しさとは違う、複雑な色が浮かんでいた。
道場には、名前が木刀を振るたびに鳴る風切り音だけが響き、張り詰めた沈黙を深くしていった。
***
煉獄杏寿郎は、めげなかった。
名前が「継子にはならない」と断ったにもかかわらず、いや、むしろそれを聞いたからこそなのか、翌日から彼は当然のように名前の訓練場に姿を現した。
「腰の切りが甘い! もっと下半身から力を伝えろ!」
「息を吸い込む時は胸ではなく腹だ! そうすれば痛みも和らぐ!」
「全集中の呼吸が途切れているぞ!!」
まるで違和感なく隣に立ち、勝手に稽古をつけはじめる炎柱。
名前は困惑のあまり木刀を握ったまま固まり、唇を震わせて「……えっと……」と曖昧に声を漏らすしかなかった。
「こらー!!!」
「また勝手に指導してます!!」
「お帰りください!! 」
次の瞬間、きよ・すみ・なほがほうきや雑巾を手に突撃。必死に煉獄の背を押し、時には髪を掴む勢いで「名前さん逃げてー!」と叫びながら追い出していく。
「懲リヌ男メ! コウシテヤル!!」
空から飛び降りた名前の鎹鴉も羽をばさりと広げ、嘴を槍のように尖らせて煉獄の肩や背を突っつきまくる。
煉獄はわははと楽しげに笑いつつも、結局は三人と一羽の力業に押し出され、道場の戸口で「また来る!」と朗々と声を残して去っていくのだった。
時折、アオイが加勢することもあった。
腕を組み、厳しい目で睨みつけながら「もう来ないでください!」と一喝されても、煉獄はやはり豪快に笑うだけ。
……そして、数日後にはまた平然と現れる。
ある時などは、両手に包みを抱えてやって来た。
「千寿郎が作ったのだ! さつま芋の煮物と芋菓子だ!! 存分に食べてくれ!!」
「……はぁ…」
差し出された芋料理を前に、名前はぽかんと瞬きを繰り返した。
(……千寿郎……? 誰……?)
脳内に疑問符を抱えながらも、結局皿を受け取るしかなく、傍らではきよ達が「わぁー!ありがとうございます!」と笑顔で受け取り、きらきらと瞳を輝かせていた。
もちろん、柱である煉獄が毎日通って来るわけではない。
だが、名前には「時間さえ空けば必ず現れる」ように思えてならなかった。
今日も稽古場の戸ががらりと開き、豪快な声が飛び込んでくる。
「おはよう!!」
「今日は素振り千回からだ!!」
そしてその度に、ほうきを構えた少女達と怒り狂う一羽と、時折アオイの怒声に追われて帰っていく炎柱。
――そんな奇妙な日々が、いつの間にか名前の療養に寄り添う日常になっていた。
***
ある満月の晩。
夜はすでに更け、蝶屋敷の庭は月光に白く照らされていた。
屋根の上に腰を下ろし、名前は静かに目を閉じる。
全身に巡らせる呼吸。
腹の奥に空気を溜め、吐き出し、再び吸い込む。
途切れぬ呼吸を繋ぎ続けるその訓練は、怪我で動けぬ間にも絶やさず続けてきたものだった。
夜風が頬を撫でる。
その流れに合わせるように、吐息が白く揺れる。
「……こんばんは」
名前がそっと口を開く。
背後に漂う熱のような気配に、迷うことなく向けられた挨拶だった。
「気付いていたか! こんばんは!!」
振り返れば、炎柱・煉獄杏寿郎がすでに屋根に上がり、月光を背に仁王立ちしていた。
名前は薄く目を開き、淡々と答える。
「……これだけお会いしていたら。炎柱様の気配くらい、覚えます」
「そうか!! それは喜ばしい!!」
満面の笑みで笑い飛ばす煉獄に、名前は静かに吐息を整える。
月光に照らされる炎のような髪、その眩しさを正面から見るのは少し眩暈がするほどだった。
「……随分と回復したようだな」
「……はい。まだ完全ではありませんが」
「うむ! だが君の呼吸は澄んでいる。苦痛に耐えながらも積み重ねてきた証だ!」
名前はその言葉に眉を僅かに揺らす。
どう反応すればいいのか分からなかった。
「……ただの、習慣です」
「習慣こそ強さに繋がるものだ!!」
煉獄の声が夜空に響く。
名前は小さく目を伏せ、ふっと息を漏らした。
月光と炎。
夜風と呼吸。
屋根の上、二人の間には言葉にならない空気が漂っていた。
やがて、名前がゆっくりと瞳を開ける。
その横顔はどこか硬く、吐息は微かに震えていた。
「……炎柱様」
掠れるように呼びかけた声。
いつの間にか隣に腰掛けていた煉獄の笑みがわずかに緩み、真剣な眼差しが名前に向けられる。
名前は一拍置き、息を整えるように胸を上下させた。
そして、月を仰ぐように顔を上げ――静かに告げた。
「もう……私などに、柱の貴重なお時間を割かれるのは……おやめください」
それは拒絶というより、自らを遠ざけようとする決別の声。
炎に背を向け、月明かりの中で一人歩もうとする意志が滲んでいた。
煉獄の瞳が、大きく揺らいだ。
夜風がその間を吹き抜け、屋根の上の静寂をさらに深くする。
名前は夜風に長い吐息を混ぜ、視線を月へ向けたまま言葉を継いだ。
「……私は、雫の呼吸しか扱えません。攻撃の力が決定的に欠けた、守りの呼吸です。炎の呼吸の継子など、身に余ることです」
「柱のお時間をいただく価値は、私にはない……。ただの無駄になります」
声は低く、しかしはっきりと響いた。
決して卑下ではない。己を正しく測り、距離を置こうとする冷静な拒絶だった。
煉獄は、黙ってその横顔を見つめていた。
燃えるような瞳の奥に、揺らぎも怒りもない。
ただ、彼女の言葉を真正面から受け止める静けさがあった。
そして、短く息を吐き――力強く言い切った。
「俺の時間の使い方は、俺が決める」
その声は深く地に根を下ろした確信の声。
否定も押し付けもなく、ただ己の意志を真っ直ぐに示すのみだった。
名前の指が、無意識に膝の上で小さく震える。
月明かりの下、その炎の眼差しから逃れることはできなかった。
名前はそれでも、言葉を紡ぐ。
「……昔、炎の呼吸の育手を訪ねたことがありました」
ぽつり、と過去を零す声。
「その方は……私の剣には、沈んだ火が宿っていると、仰いました。その火は、輝く炎ではない。やがて私自身をも焼き尽くす火なのだと」
言葉を継ぐたびに、胸の奥に冷たい痛みが広がる。
「だから、炎の呼吸とは相容れない、と……教えはいただけませんでした」
「君の炎は、美しい」
名前の言葉の直後、煉獄は言い切った。
夜気を震わせるその声音は、低く、だが揺るぎなく澄んでいた。
名前は煉獄を見る。
否定ではない。慰めでもない。
ただ真っ直ぐに告げられる断言。
「それは、その育手の意見だろう」
「俺は違う」
煉獄は視線を逸らさず、強く続けた。
炎のような眼差しが、迷いなく名前を射抜く。
「確かに君の炎は、派手に燃え盛る炎ではない。誰かを鼓舞するほど眩くもない。……だが、決して消えぬ火だ」
「苦痛に耐え、涙を流してもなお燃え続ける。消えようとする命を最後まで抱き締めるような、優しさと執念を宿している――それは、決して俺には持ち得ぬ炎だ」
名前の胸に、熱い何かが広がる。
息を呑む音が、夜の静けさに溶けた。
「事実君は、仲間を喪い、痛みを抱え、それでもこうして立ち上がった」
「その炎は、尊く、愛おしいものだ」
「俺はその炎の煌めきに――どうしようもなく、心を奪われている」
名前の胸が、どくりと高鳴った。
自分でも理由は分からない。
だが、煉獄の真っ直ぐな眼差しと、迷いのない声に触れた瞬間――胸の奥で炎のようなものが揺れ、頬に熱が走るのを感じた。
「……っ」
咄嗟に俯き、影で赤らんだ頬を隠す。
しかし煉獄はそんな彼女の変化に気付かぬまま、さらに力強く声を重ねた。
「何より君には才能がある!」
その声音は夜空を裂くほどの熱。
名前の心臓が跳ね、呼吸が乱れる。
「俺が鍛えてあげよう! そうすれば――柱も夢ではない!!」
「……柱……」
思わず零れた声は、月明かりに揺れるほど小さかった。
だがその響きには、深い痛みが宿っていた。
「……それは……綾斗の、夢でした」
震える唇で告げられた名。
名前の脳裏に、「一緒に柱になろう!」と笑った少年の顔が蘇る。
煉獄は一瞬だけ瞳を細め――そして静かに、しかし確かに微笑んだ。
「……ならば、その夢を繋ぐのは――託された君の責務だな」
その声は押し付けではなく、灯を渡すような優しさを含んでいた。
夜風が二人の間を吹き抜け、白い吐息を運ぶ。
名前の胸に、またも熱い波が押し寄せる。
綾斗の夢を背負う――その言葉の重みが、静かに、けれど確実に彼女の心を揺らしていた。
名前は唇を噛みしめたまま、言葉を返せなかった。
否定も肯定もできず、ただ月明かりの下で俯くしかなかった。
その沈黙を、煉獄は咎めなかった。
彼はただ、ゆっくりと息を吐き、少しだけ声を和らげる。
「……もう休みなさい」
唐突に落ちたその言葉に、名前は小さく目を瞬いた。
「休養も、大事な鍛錬の一つだ」
煉獄の声音は、力強いままなのに、不思議と優しく響いた。
夜風に溶けるその一言は、叱咤でも命令でもなく、ただ彼女の身を案じる心からの響きだった。
名前は胸に広がる熱を抱えたまま、静かに頷いた。
「……はい」
煉獄は「全集中の呼吸を忘れない様に!」とだけ言い残し、屋根の上で立ち上がる。
月光を背にしたその姿は、夜空を焦がす炎のように大きく、揺るぎなかった。
そして彼が去った後も―― 名前の耳には、あの優しい声が余韻のように残り続けていた。
ついさっきまで豪快な声が響き渡っていた道場には、張り詰めていた気配がふっと抜け、柔らかな光と畳の匂いだけが残った。
「……っ、ふぅ……!」
きよが小さな胸を上下させながら、くるりと名前に振り返る。
瞳を真剣に輝かせ、声を張った。
「名前さん!大丈夫ですよ! 煉獄様に今後、好き勝手はさせませんから!」
すみも慌てて前に出て、拳を握る。
「そうです! 何度来られたって、私たちが全力で追い返します!」
なほも大きく頷き、ぎゅっと腕を広げる。
「名前さんは、安心して鍛錬をしてください!」
三人の声が揃い、道場の空気が少し和らぐ。
幼い体を精一杯張って守ろうと、きゃいきゃいと名前を囲んでくるのに、名前は胸が温かくなるのを感じ、微かに微笑む。
その横で、鎹鴉が梁の上からじっと彼女を見下ろしていた。
まるで「当然デス」とでも言うように得意気に羽を膨らます。
しかし、アオイが一歩前に出ると、場の空気が引き締まる。
腕を組み、きりりとした瞳で名前を見つめる。
「――でも」
その一言で三人娘はぴたりと声を飲み込み、振り返った。
「継子に誘われることは、本来なら名誉なことです」
静かな声。だが、その言葉は畳を打つ竹刀のように鋭かった。
「柱に認められ、直々に鍛えられる機会なんて……滅多にありません。誰もが羨むものです。……普通なら、断るなんて考えられない」
きよ・すみ・なほは困惑したように互いを見やる。
それでも、アオイの声に揺るぎない真実があることは分かった。
アオイは名前に視線を戻し、淡々と問いかける。
「……本当に、断ってしまっていいんですか?」
道場に、再び静寂が落ちる。
三人娘は不安そうに名前の顔を覗き込んだが、名前はただ木刀を握りしめ、瞳を伏せていた。
その沈黙は、長い一瞬のように感じられた。
障子越しの光が揺れ、畳に差す影が静かに伸びていく。
梁の上の鎹鴉もまた羽音ひとつ立てず、ただじっと名前を見守っていた。
やがて―― 名前は木刀を握る手に力を込め、静かに口を開いた。
「……いいんです」
静かに、けれどはっきりとした声だった。
伏せた睫毛の影が頬に落ち、握った手は僅かに震えているのが分かる。
「私は……一人で闘うと、決めたので」
その言葉を最後に、名前はふっと息を吸い込むと、何もなかったかのように木刀を構え直した。
再び畳を踏みしめ、ゆるやかに、しかし揺るぎなく型を繰り返す。
「……」
きよ・すみ・なほは、思わず互いの手を握り合った。
胸の奥から込み上げてきた言葉はあった。励ましも、慰めも、ただ「一緒にいます」と伝えたかった。
だが―― 名前の背に浮かぶ影は、あまりにも大きく、厚い壁のようで。
結局、三人の口は固く閉ざされ、声は喉の奥で消えてしまった。
「……」
アオイもまた、何か言おうと唇を開いたが、すぐに閉ざした。
彼女の横顔には、いつもの厳しさとは違う、複雑な色が浮かんでいた。
道場には、名前が木刀を振るたびに鳴る風切り音だけが響き、張り詰めた沈黙を深くしていった。
***
煉獄杏寿郎は、めげなかった。
名前が「継子にはならない」と断ったにもかかわらず、いや、むしろそれを聞いたからこそなのか、翌日から彼は当然のように名前の訓練場に姿を現した。
「腰の切りが甘い! もっと下半身から力を伝えろ!」
「息を吸い込む時は胸ではなく腹だ! そうすれば痛みも和らぐ!」
「全集中の呼吸が途切れているぞ!!」
まるで違和感なく隣に立ち、勝手に稽古をつけはじめる炎柱。
名前は困惑のあまり木刀を握ったまま固まり、唇を震わせて「……えっと……」と曖昧に声を漏らすしかなかった。
「こらー!!!」
「また勝手に指導してます!!」
「お帰りください!! 」
次の瞬間、きよ・すみ・なほがほうきや雑巾を手に突撃。必死に煉獄の背を押し、時には髪を掴む勢いで「名前さん逃げてー!」と叫びながら追い出していく。
「懲リヌ男メ! コウシテヤル!!」
空から飛び降りた名前の鎹鴉も羽をばさりと広げ、嘴を槍のように尖らせて煉獄の肩や背を突っつきまくる。
煉獄はわははと楽しげに笑いつつも、結局は三人と一羽の力業に押し出され、道場の戸口で「また来る!」と朗々と声を残して去っていくのだった。
時折、アオイが加勢することもあった。
腕を組み、厳しい目で睨みつけながら「もう来ないでください!」と一喝されても、煉獄はやはり豪快に笑うだけ。
……そして、数日後にはまた平然と現れる。
ある時などは、両手に包みを抱えてやって来た。
「千寿郎が作ったのだ! さつま芋の煮物と芋菓子だ!! 存分に食べてくれ!!」
「……はぁ…」
差し出された芋料理を前に、名前はぽかんと瞬きを繰り返した。
(……千寿郎……? 誰……?)
脳内に疑問符を抱えながらも、結局皿を受け取るしかなく、傍らではきよ達が「わぁー!ありがとうございます!」と笑顔で受け取り、きらきらと瞳を輝かせていた。
もちろん、柱である煉獄が毎日通って来るわけではない。
だが、名前には「時間さえ空けば必ず現れる」ように思えてならなかった。
今日も稽古場の戸ががらりと開き、豪快な声が飛び込んでくる。
「おはよう!!」
「今日は素振り千回からだ!!」
そしてその度に、ほうきを構えた少女達と怒り狂う一羽と、時折アオイの怒声に追われて帰っていく炎柱。
――そんな奇妙な日々が、いつの間にか名前の療養に寄り添う日常になっていた。
***
ある満月の晩。
夜はすでに更け、蝶屋敷の庭は月光に白く照らされていた。
屋根の上に腰を下ろし、名前は静かに目を閉じる。
全身に巡らせる呼吸。
腹の奥に空気を溜め、吐き出し、再び吸い込む。
途切れぬ呼吸を繋ぎ続けるその訓練は、怪我で動けぬ間にも絶やさず続けてきたものだった。
夜風が頬を撫でる。
その流れに合わせるように、吐息が白く揺れる。
「……こんばんは」
名前がそっと口を開く。
背後に漂う熱のような気配に、迷うことなく向けられた挨拶だった。
「気付いていたか! こんばんは!!」
振り返れば、炎柱・煉獄杏寿郎がすでに屋根に上がり、月光を背に仁王立ちしていた。
名前は薄く目を開き、淡々と答える。
「……これだけお会いしていたら。炎柱様の気配くらい、覚えます」
「そうか!! それは喜ばしい!!」
満面の笑みで笑い飛ばす煉獄に、名前は静かに吐息を整える。
月光に照らされる炎のような髪、その眩しさを正面から見るのは少し眩暈がするほどだった。
「……随分と回復したようだな」
「……はい。まだ完全ではありませんが」
「うむ! だが君の呼吸は澄んでいる。苦痛に耐えながらも積み重ねてきた証だ!」
名前はその言葉に眉を僅かに揺らす。
どう反応すればいいのか分からなかった。
「……ただの、習慣です」
「習慣こそ強さに繋がるものだ!!」
煉獄の声が夜空に響く。
名前は小さく目を伏せ、ふっと息を漏らした。
月光と炎。
夜風と呼吸。
屋根の上、二人の間には言葉にならない空気が漂っていた。
やがて、名前がゆっくりと瞳を開ける。
その横顔はどこか硬く、吐息は微かに震えていた。
「……炎柱様」
掠れるように呼びかけた声。
いつの間にか隣に腰掛けていた煉獄の笑みがわずかに緩み、真剣な眼差しが名前に向けられる。
名前は一拍置き、息を整えるように胸を上下させた。
そして、月を仰ぐように顔を上げ――静かに告げた。
「もう……私などに、柱の貴重なお時間を割かれるのは……おやめください」
それは拒絶というより、自らを遠ざけようとする決別の声。
炎に背を向け、月明かりの中で一人歩もうとする意志が滲んでいた。
煉獄の瞳が、大きく揺らいだ。
夜風がその間を吹き抜け、屋根の上の静寂をさらに深くする。
名前は夜風に長い吐息を混ぜ、視線を月へ向けたまま言葉を継いだ。
「……私は、雫の呼吸しか扱えません。攻撃の力が決定的に欠けた、守りの呼吸です。炎の呼吸の継子など、身に余ることです」
「柱のお時間をいただく価値は、私にはない……。ただの無駄になります」
声は低く、しかしはっきりと響いた。
決して卑下ではない。己を正しく測り、距離を置こうとする冷静な拒絶だった。
煉獄は、黙ってその横顔を見つめていた。
燃えるような瞳の奥に、揺らぎも怒りもない。
ただ、彼女の言葉を真正面から受け止める静けさがあった。
そして、短く息を吐き――力強く言い切った。
「俺の時間の使い方は、俺が決める」
その声は深く地に根を下ろした確信の声。
否定も押し付けもなく、ただ己の意志を真っ直ぐに示すのみだった。
名前の指が、無意識に膝の上で小さく震える。
月明かりの下、その炎の眼差しから逃れることはできなかった。
名前はそれでも、言葉を紡ぐ。
「……昔、炎の呼吸の育手を訪ねたことがありました」
ぽつり、と過去を零す声。
「その方は……私の剣には、沈んだ火が宿っていると、仰いました。その火は、輝く炎ではない。やがて私自身をも焼き尽くす火なのだと」
言葉を継ぐたびに、胸の奥に冷たい痛みが広がる。
「だから、炎の呼吸とは相容れない、と……教えはいただけませんでした」
「君の炎は、美しい」
名前の言葉の直後、煉獄は言い切った。
夜気を震わせるその声音は、低く、だが揺るぎなく澄んでいた。
名前は煉獄を見る。
否定ではない。慰めでもない。
ただ真っ直ぐに告げられる断言。
「それは、その育手の意見だろう」
「俺は違う」
煉獄は視線を逸らさず、強く続けた。
炎のような眼差しが、迷いなく名前を射抜く。
「確かに君の炎は、派手に燃え盛る炎ではない。誰かを鼓舞するほど眩くもない。……だが、決して消えぬ火だ」
「苦痛に耐え、涙を流してもなお燃え続ける。消えようとする命を最後まで抱き締めるような、優しさと執念を宿している――それは、決して俺には持ち得ぬ炎だ」
名前の胸に、熱い何かが広がる。
息を呑む音が、夜の静けさに溶けた。
「事実君は、仲間を喪い、痛みを抱え、それでもこうして立ち上がった」
「その炎は、尊く、愛おしいものだ」
「俺はその炎の煌めきに――どうしようもなく、心を奪われている」
名前の胸が、どくりと高鳴った。
自分でも理由は分からない。
だが、煉獄の真っ直ぐな眼差しと、迷いのない声に触れた瞬間――胸の奥で炎のようなものが揺れ、頬に熱が走るのを感じた。
「……っ」
咄嗟に俯き、影で赤らんだ頬を隠す。
しかし煉獄はそんな彼女の変化に気付かぬまま、さらに力強く声を重ねた。
「何より君には才能がある!」
その声音は夜空を裂くほどの熱。
名前の心臓が跳ね、呼吸が乱れる。
「俺が鍛えてあげよう! そうすれば――柱も夢ではない!!」
「……柱……」
思わず零れた声は、月明かりに揺れるほど小さかった。
だがその響きには、深い痛みが宿っていた。
「……それは……綾斗の、夢でした」
震える唇で告げられた名。
名前の脳裏に、「一緒に柱になろう!」と笑った少年の顔が蘇る。
煉獄は一瞬だけ瞳を細め――そして静かに、しかし確かに微笑んだ。
「……ならば、その夢を繋ぐのは――託された君の責務だな」
その声は押し付けではなく、灯を渡すような優しさを含んでいた。
夜風が二人の間を吹き抜け、白い吐息を運ぶ。
名前の胸に、またも熱い波が押し寄せる。
綾斗の夢を背負う――その言葉の重みが、静かに、けれど確実に彼女の心を揺らしていた。
名前は唇を噛みしめたまま、言葉を返せなかった。
否定も肯定もできず、ただ月明かりの下で俯くしかなかった。
その沈黙を、煉獄は咎めなかった。
彼はただ、ゆっくりと息を吐き、少しだけ声を和らげる。
「……もう休みなさい」
唐突に落ちたその言葉に、名前は小さく目を瞬いた。
「休養も、大事な鍛錬の一つだ」
煉獄の声音は、力強いままなのに、不思議と優しく響いた。
夜風に溶けるその一言は、叱咤でも命令でもなく、ただ彼女の身を案じる心からの響きだった。
名前は胸に広がる熱を抱えたまま、静かに頷いた。
「……はい」
煉獄は「全集中の呼吸を忘れない様に!」とだけ言い残し、屋根の上で立ち上がる。
月光を背にしたその姿は、夜空を焦がす炎のように大きく、揺るぎなかった。
そして彼が去った後も―― 名前の耳には、あの優しい声が余韻のように残り続けていた。