一章
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生まれて初めて握るはずのその刀の柄は、酷く名前の手に馴染んだ。
「あ〜…姉上…いっけないんだぁ…父上、言ってたよねぇ…?女は剣を抜くな、ってさぁ…」
血に濡れた小さな足が、畳を裂いて跳ねる。
彼はまるで、鬼ごっこを楽しむ子どものように、天井を駆け、壁を蹴り、名前を嘲るように翻る。
指先が鉤爪のように湾曲し、真っ直ぐに名前の喉を狙ってくる。
「お仕置きだよおおお!!」
だが次の瞬間、名前の姿がふっと掻き消えた。
静かな足運び。
闇の中、気配すら殺して踏み込む――まるで一滴の雫が水面に触れるように。
「……ッ!?」
胸部に一閃。
斜めに深く走る切断線。
「がっ……ぁ、は……!」
再生しかけるその体に、間髪入れず名前がもう一歩詰める。
無駄な動作は一つもない。
まるで祈りを捧げる様な、美しい所作。
息を吸う間すら与えず、刀を捻って裏へと返すと、刃が『それ』の膝裏を裂き、切断した。
「ッっくぅぅぅッ!」
『それ』が崩れ落ちる。だが、その体はすぐに癒えようと蠢いていた。
名前は静かに間合いを見極めていた。
脇を締め、両足を揃え、重心をぶらさずに構える。
一歩。また一歩。
刃は風すら斬った。
名前の動きは、水面に一切の波紋を立てぬ小舟の如く。
――しかし、その一閃には鬼の再生を追い越す速度があった。
一太刀。
二太刀。
三太刀。
『それ』の右腕が吹き飛ぶ。
「ぁ、あっ……! っ、く、そぉおッ!!」
暴れる『それ』の左腕を、名前は軽くいなした。
受け流す。逸らす。
無理に止めない。だが、殺す。
再び『それ』が、再生させた爪で襲いかかる。
その両腕を名前は刃先で交差し、弾く。
空いた胸元へ、縦一文字の斬撃。
「が……ッ! ぁぁあああ!!」
名前の身体が『それ』の返り血に染まる。
息すら整えず、ただ刀を握りしめる。
全ての想いは剣に込められていた。
それは怒りでも、悲しみでもない。
――覚悟だった。
幾度、『それ』が身体を再生しても、名前の剣は瞬時に斬り裂く。
やがて、『それ』の動きに焦りが見え始めた。
「ね…ねぇ姉上っ…あは、はは…もう、はぁっ、もうやめよ…っ?ねぇ、姉上っ…ねぇってば!!」
「…」
乾いた笑みに、媚び諂う粘つく言葉。
無視して、名前は更に踏み込む。
頭を叩き潰しても、心臓を突いても、こいつは死ななかった。蘇る。
「姉上っ…やめてっやめてよッ!痛いよぉっ!!僕、違うんだよっ、僕がやったんじゃないんだっ…!」
本能で分かる。
こいつは首を庇っている。
こいつの急所は首だ。
首をはねれば、こいつは死ぬ。
首をはねる。首を斬る。
絶対に斬る。殺す。
「あ…姉上…」
まずい。このままでは殺される。
殺される?誰が?誰に?
姉上が、僕を?
どうして?
僕は、こんなに強くなったのに。
どこも辛くないんだよ?喜んでくれないの?
ひどいよ。
姉上は、いつもそうだ。
なんだよ、父上の剣を勝手に使って、その上いきなり強くなって。
僕にないものを全て持っている。
ずるい…ずるいよ。
姉上は、ずるい。
大嫌いだ。
「--ッ ガアアァァァアアッ!!」
地が揺れる程の咆哮と共に名前に向かって突進。上腕の筋肉は膨張し、血管は裂けんばかりに浮き出ていた。
数寸の所に迫る、名前の首筋。
名前は、微動だにしない。
「(やったッッ!!)」
--しかし。
「……、え?」
何が起きたのか、分からなかった。
名前の身体が、一歩だけ前へ。
ただそれだけ。
その後はもはや、神域。
最初に落ちたのは、右腕。
次に左腕が、肩から滑り落ちる。
胴が、斜めに裂け、ズルリと下半身が崩れ落ちた。
痛みよりも早く、恐怖が脳を支配した。
「な、ん、で……?」
その顔に浮かんだのは――理解できぬという、幼い混乱。
名前の、瞳は、ただ静かだった。
哀しみも怒りも、既にそこにはなかった。
ただ、運命を斬る覚悟だけがあった。
刃の軌跡は無駄なく、ただ美しかった。
『それ』の身体が崩れ落ち、地に伏す音が、夜の静寂に吸い込まれていった。
⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎
ズル……ズル……と、肉の千切れた音を引きずりながら、『それ』はなおも這おうとしていた。
腕は斬られ、胴も裂かれ、もはや再生すら追いつかぬ。
それでも、命の火を繋ごうと、血まみれの顎を動かす。
名前は、無言で見下ろしていた。
鞘を捨てた真剣の刃をゆっくりと振り上げ、胸元に構える。
静かな気配だった。
「(終わらせる)」
それが、ただ一人生き残った自分の使命。
この生き物が、これ以上この世で息を吸うことを赦してはいけない。
名前の足が一歩、近づく。
その時だった。
「死にたくない…」
名前の足が、止まった。
掠れた、声。
媚びも打算もない、幼い声。
雷が怖いと、一緒の布団に潜り込んできた、あの声。
握った柄が、震える。
「お願い、殺さないで…姉上」
指が、力を失っていく。
瞳が揺れる。
強くあろうとした心に、細く深い裂け目が入る。
「…陽太……」
その瞬間だった。
ぎらりと光る眼光。
残っていた体力のすべてを使って跳ね起きた。
「今度は絶対、姉上を食べてあげる」
名前は咄嗟に剣を構えるが、動きは速かった。
目の前に残したのは血の飛沫と、無邪気な笑い声だけ。
まだ濡れた刃先から、畳に一滴、血が落ちる。
名前はその場に膝をつき、刃を手放す。
ふと、温かな何かが名前の頬に触れた。
そっと顔を上げると--
夜が、明けていた。
黒く染まっていた空が、ほんのりと朱に溶け始めている。
山の稜線の向こうから、柔らかな光が、滲むように零れていた。
静かで、残酷なほどに美しい朝だった。
焼けるような朱色の陽が、空を染め、まるでこの地に流れたすべての血を、包み隠そうとしているかのようだった。
その光に照らされた名前の顔には、涙の跡が残っていた。
声は出ない。
でも、喉の奥が痛むほど、嗚咽が心を叩いていた。
名前は、ゆっくりと立ち上がる。
冷たくなった床、まだ乾ききらない血の中を踏みしめて。
それでも、背筋を伸ばして。
この手で、必ず弟の首を斬る。
それが、今を生き残ってしまった自分の、たった一つの祈り。
朝日は、屋敷の奥の暗がりまで差し込み始めていた。
まるで――彼女の影を背に、静かに背中を押すかのように。
「あ〜…姉上…いっけないんだぁ…父上、言ってたよねぇ…?女は剣を抜くな、ってさぁ…」
血に濡れた小さな足が、畳を裂いて跳ねる。
彼はまるで、鬼ごっこを楽しむ子どものように、天井を駆け、壁を蹴り、名前を嘲るように翻る。
指先が鉤爪のように湾曲し、真っ直ぐに名前の喉を狙ってくる。
「お仕置きだよおおお!!」
だが次の瞬間、名前の姿がふっと掻き消えた。
静かな足運び。
闇の中、気配すら殺して踏み込む――まるで一滴の雫が水面に触れるように。
「……ッ!?」
胸部に一閃。
斜めに深く走る切断線。
「がっ……ぁ、は……!」
再生しかけるその体に、間髪入れず名前がもう一歩詰める。
無駄な動作は一つもない。
まるで祈りを捧げる様な、美しい所作。
息を吸う間すら与えず、刀を捻って裏へと返すと、刃が『それ』の膝裏を裂き、切断した。
「ッっくぅぅぅッ!」
『それ』が崩れ落ちる。だが、その体はすぐに癒えようと蠢いていた。
名前は静かに間合いを見極めていた。
脇を締め、両足を揃え、重心をぶらさずに構える。
一歩。また一歩。
刃は風すら斬った。
名前の動きは、水面に一切の波紋を立てぬ小舟の如く。
――しかし、その一閃には鬼の再生を追い越す速度があった。
一太刀。
二太刀。
三太刀。
『それ』の右腕が吹き飛ぶ。
「ぁ、あっ……! っ、く、そぉおッ!!」
暴れる『それ』の左腕を、名前は軽くいなした。
受け流す。逸らす。
無理に止めない。だが、殺す。
再び『それ』が、再生させた爪で襲いかかる。
その両腕を名前は刃先で交差し、弾く。
空いた胸元へ、縦一文字の斬撃。
「が……ッ! ぁぁあああ!!」
名前の身体が『それ』の返り血に染まる。
息すら整えず、ただ刀を握りしめる。
全ての想いは剣に込められていた。
それは怒りでも、悲しみでもない。
――覚悟だった。
幾度、『それ』が身体を再生しても、名前の剣は瞬時に斬り裂く。
やがて、『それ』の動きに焦りが見え始めた。
「ね…ねぇ姉上っ…あは、はは…もう、はぁっ、もうやめよ…っ?ねぇ、姉上っ…ねぇってば!!」
「…」
乾いた笑みに、媚び諂う粘つく言葉。
無視して、名前は更に踏み込む。
頭を叩き潰しても、心臓を突いても、こいつは死ななかった。蘇る。
「姉上っ…やめてっやめてよッ!痛いよぉっ!!僕、違うんだよっ、僕がやったんじゃないんだっ…!」
本能で分かる。
こいつは首を庇っている。
こいつの急所は首だ。
首をはねれば、こいつは死ぬ。
首をはねる。首を斬る。
絶対に斬る。殺す。
「あ…姉上…」
まずい。このままでは殺される。
殺される?誰が?誰に?
姉上が、僕を?
どうして?
僕は、こんなに強くなったのに。
どこも辛くないんだよ?喜んでくれないの?
ひどいよ。
姉上は、いつもそうだ。
なんだよ、父上の剣を勝手に使って、その上いきなり強くなって。
僕にないものを全て持っている。
ずるい…ずるいよ。
姉上は、ずるい。
大嫌いだ。
「--ッ ガアアァァァアアッ!!」
地が揺れる程の咆哮と共に名前に向かって突進。上腕の筋肉は膨張し、血管は裂けんばかりに浮き出ていた。
数寸の所に迫る、名前の首筋。
名前は、微動だにしない。
「(やったッッ!!)」
--しかし。
「……、え?」
何が起きたのか、分からなかった。
名前の身体が、一歩だけ前へ。
ただそれだけ。
その後はもはや、神域。
最初に落ちたのは、右腕。
次に左腕が、肩から滑り落ちる。
胴が、斜めに裂け、ズルリと下半身が崩れ落ちた。
痛みよりも早く、恐怖が脳を支配した。
「な、ん、で……?」
その顔に浮かんだのは――理解できぬという、幼い混乱。
名前の、瞳は、ただ静かだった。
哀しみも怒りも、既にそこにはなかった。
ただ、運命を斬る覚悟だけがあった。
刃の軌跡は無駄なく、ただ美しかった。
『それ』の身体が崩れ落ち、地に伏す音が、夜の静寂に吸い込まれていった。
⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎
ズル……ズル……と、肉の千切れた音を引きずりながら、『それ』はなおも這おうとしていた。
腕は斬られ、胴も裂かれ、もはや再生すら追いつかぬ。
それでも、命の火を繋ごうと、血まみれの顎を動かす。
名前は、無言で見下ろしていた。
鞘を捨てた真剣の刃をゆっくりと振り上げ、胸元に構える。
静かな気配だった。
「(終わらせる)」
それが、ただ一人生き残った自分の使命。
この生き物が、これ以上この世で息を吸うことを赦してはいけない。
名前の足が一歩、近づく。
その時だった。
「死にたくない…」
名前の足が、止まった。
掠れた、声。
媚びも打算もない、幼い声。
雷が怖いと、一緒の布団に潜り込んできた、あの声。
握った柄が、震える。
「お願い、殺さないで…姉上」
指が、力を失っていく。
瞳が揺れる。
強くあろうとした心に、細く深い裂け目が入る。
「…陽太……」
その瞬間だった。
ぎらりと光る眼光。
残っていた体力のすべてを使って跳ね起きた。
「今度は絶対、姉上を食べてあげる」
名前は咄嗟に剣を構えるが、動きは速かった。
目の前に残したのは血の飛沫と、無邪気な笑い声だけ。
まだ濡れた刃先から、畳に一滴、血が落ちる。
名前はその場に膝をつき、刃を手放す。
ふと、温かな何かが名前の頬に触れた。
そっと顔を上げると--
夜が、明けていた。
黒く染まっていた空が、ほんのりと朱に溶け始めている。
山の稜線の向こうから、柔らかな光が、滲むように零れていた。
静かで、残酷なほどに美しい朝だった。
焼けるような朱色の陽が、空を染め、まるでこの地に流れたすべての血を、包み隠そうとしているかのようだった。
その光に照らされた名前の顔には、涙の跡が残っていた。
声は出ない。
でも、喉の奥が痛むほど、嗚咽が心を叩いていた。
名前は、ゆっくりと立ち上がる。
冷たくなった床、まだ乾ききらない血の中を踏みしめて。
それでも、背筋を伸ばして。
この手で、必ず弟の首を斬る。
それが、今を生き残ってしまった自分の、たった一つの祈り。
朝日は、屋敷の奥の暗がりまで差し込み始めていた。
まるで――彼女の影を背に、静かに背中を押すかのように。