七章
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
「……機能回復訓練……?」
松葉杖を手に、庭に出た名前は首をかしげた。
聞き慣れぬ言葉に小さく呟くと、すぐ隣に立つアオイが淡々と答える。
「重症を負った隊士が、再び戦えるようにするための訓練です。体力も、反射も、呼吸も――全部一度落ちてしまっていますから」
きっぱりと言い切るその声音に、名前は思わず目を瞬かせた。
アオイは続ける。
「寝て治るのは傷口だけ。戦場に戻るには、それ以上が必要です」
その視線は冷静で、けれど真剣な優しさを帯びていた。
言い訳や逃げ道を許さない強さと同時に、必ず立ち直れると信じている眼差し。
「……分かりました。お願いします」
名前は頭を下げ、握った松葉杖に力を込めた。
胸の奥に沈む痛みを振り払うように。
アオイは短く頷くと、きよ・すみ・なほへ視線を向けた。
「――それじゃあ、始めましょう」
三人は元気いっぱいに返事をし、名前の両脇に駆け寄る。
庭に差し込む朝の光の中で、名前の機能回復訓練が静かに始まろうとしていた。
***
柔らかな陽射しが差し込む中、名前はゆっくりと腕を伸ばしていた。
「……っ……」
腹の奥が軋む。
裂けた筋肉も折れた肋骨も、まだ完全には癒えていない。
ひと呼吸するたび、胸の奥に鈍痛が広がる。
それでも――腕は震えながらも止まらなかった。
「もう少し、肩を後ろに」
「背筋を伸ばして……はい、そのままです」
きよとすみが左右から支え、なほが後ろで声を掛ける。
幼い手は頼りなくとも、必死さが伝わってくる。
「……はぁっ……はぁ……っ」
名前は息を乱しながらも、重量のある棒を握った両腕を頭上に掲げる。
落とさぬよう、震える腕に力を込める。
胸に響く痛みが「やめろ」と叫ぶたび、歯を食いしばった。
(……あの時の、綾斗に比べたら……こんな痛み……!)
鬼に喰い破られた腹。
貫かれた肩、足、無数の傷。
全てがまだ癒えきらぬ中、それでも彼女は動きを止めなかった。
「……よし、そのまま! あと十数えます!」
アオイの鋭い声が飛ぶ。
「いーち! にー!」
きよ達の声に合わせて、名前の呼吸は乱れ、額から汗が滴る。
だが――その眼差しだけは揺らいでいなかった。
「――十!」
棒が床に落ちる音と同時に、名前は大きく息を吐き、前のめりに崩れ落ちる。
腹の奥が悲鳴を上げ、喉から掠れた声が漏れた。
「……っ……ごほっ……」
すみが慌てて背をさすり、なほが水を差し出す。
それでも名前は弱々しく首を振り、震える腕で自ら体を起こした。
「……まだ……やれます」
その掠れた声に、アオイは僅かに目を細めた。
名前の瞳のその奥に宿る焔を、確かに見た。
「なら……もう一度」
***
日々は静かに、けれど確かに流れていった。
ある朝。
「さぁ、取ってください!」
三人娘がそれぞれ小さな布玉を放る。
名前は椅子に座り、両腕を伸ばして同時に迫るそれらを受け止めようとした。
だが、身体が伸びたことで腹の傷から痺れが走り、掠める指先から布玉はころりと転がり、板間を転がっていく。
「……っ!」
悔しげに眉を寄せ、震える指で布玉を拾い上げる。
次こそは、と奥歯を噛み締めて再び構える。
何度も失敗し、何度も拾い直す。
それでもやがて、掠めていた指がしっかりと全ての球を掴んだ時、きよとすみ、なほが一斉に拍手を送った。
その小さな歓声に、名前の胸の奥がかすかに熱を宿す。
別の日。
庭先に出て、松葉杖に体を預けながら石畳を一歩ずつ踏みしめた。
「いち、に……」
なほが声を数えるたび、名前は足に力を込める。
だが、まだ完全に閉じきらない太腿の傷が鋭い熱を持つ。
煉獄に折られた右足の骨が、軋んで名前に抗議する。
一歩ごとに息が詰まり、肺が焼けるように苦しい。
それでも――後ろで見守る少女達の眼差しに背を押され、彼女は歩みを止めなかった。
汗が顎を伝い、松葉杖に滴り落ちる。
「……あと少し」
声にならぬ声で、自らを叱咤しながら足を前へ押し出す。
またある夕暮れ。
両手に持った水桶が、ずしりと腕を引き下ろす。
肩は悲鳴を上げ、背筋の古傷が痛みを訴える。
「肘を曲げないで! 背筋を伸ばして!」
アオイの鋭い声が飛ぶ。
歯を食いしばり、水桶を胸の高さまで持ち上げる。
腕が震え、掌が軋む。
やがて桶の水が溢れ、庭石にしぶきを散らした。
陽の光を受けた水滴が、宝石のようにきらめき、一瞬だけ痛みを忘れさせる。
「……まだ……」
名前は己に言い聞かせるように呟き、見守るアオイの視線の元、桶を拾った。
そして別の朝。
きよ達が布団を片付ける横で、名前は木刀を握り、上半身だけで型を繰り返していた。
「はぁ……はぁ……」
呼吸を合わせ、木刀を振り下ろす。
折れた肋骨が軋み、喉が焼けるように痛む。
だが、その度に思い出すのは――あの時、綾斗が最後まで立ち続けた姿。
(……綾斗は、もっと痛くても……笑って、立っていた……! 私を、守ってくれた……!!)
その記憶に背を押され、汗に濡れた髪を振り乱しながら振り下ろす。
動作は乱れ、腕も痺れる。
それでも「やめる」という選択肢は一度も浮かばなかった。
***
繰り返す日々。
痛みは癒えきらない。
呼吸は乱れ、脚はまだ松葉杖に縋らなければならない。
けれど、確かに彼女は前へ進んでいた。
寝殿の梁の上では、鎹鴉が黙って翼を畳み、名前の姿を見守り続けていた。
「……もう一度」
そう呟く声は、次第に迷いを減らし、確信を帯びていく。
廊下の隅では、きよ達が息を呑んで見守り、
アオイは厳しい声を飛ばす。
その一つひとつが、名前を再び「剣士」へと戻していく礎となっていた。
***
柔らかな陽が差し込む道場。
畳の上には、松葉杖を横に置き、汗に濡れた名前が木刀を両手で握っていた。
「……すぅ……はぁ……」
呼吸を合わせ、ぎこちないながらも型を繰り返す。
まだ脚は思うようには動かない。
けれど、ようやく「自分の足で立っている」という事実が胸に灯をともしていた。
「よし、そのまま! 無理は禁物ですけど……かなり歩けるようになってきましたね」
アオイの声に柔らかさが混じる。
傍らで見守るきよ、すみ、なほも、汗をぬぐいながら嬉しそうに頷き合っている。
その時だった。
「――やっているな! 感心感心!!」
がらりと戸が開き、相変わらずの大声と豪快な気配と共に、炎柱・煉獄杏寿郎が姿を現した。
「れ…煉獄様!?」
即座に三人娘がばっと立ち上がった。
そして勇敢にも彼の前に立ち塞がると、両手を広げて小さな壁を作り、全身で道を塞ぐ。
「だめです! 煉獄様は名前さんに近付いたらいけません!!」
「立ち入り禁止と、しのぶ様から言いつけられてます!!」
「名前さんは、私達がお守りします!!」
必死の形相で叫ぶ三人に、煉獄は豪快に笑った。
「ハッハッハ! 確かに俺は病室は立ち入り禁止と言われた!」
「「「……!」」」
少女たちの顔に希望が差す――だが、次の言葉に絶望する。
「しかし! 道場は禁止とは言われていない!!」
「なっ……!!」
「ず、ずるいです!!!」
「そんな屁理屈、通じません!!」
「だめー!」と叫びながら三人娘は煉獄の隊服を懸命に引っ張るが、煉獄はものともせずずんずんと名前の元に行こうとする。
と、その瞬間。
梁の上から黒い影が飛び出した。
「名前様二仇ナス輩!柱ト言エド許サヌ! 我ガ嘴、名前様ノ盾トナラン!!」
名前の鎹鴉が猛スピードで舞い降り、嘴を槍のように尖らせて煉獄の顔面めがけて突撃する。
対し、煉獄は半歩だけ軽やかに身を引いた。
直後――。
「ガフッ!!」
狙いを外した鎹鴉は勢いのまま床に激突。畳に嘴を突き立ててばたばたと羽を広げ、痛みに悶絶し…気絶した。
「「「……」」」
三人娘は思わず動きを止め、呆気に取られて鴉を見下ろした。
煉獄は倒れた鎹鴉に一瞥もくれず、ただ真っ直ぐに名前だけを瞳に映し、更に歩を進める。
そこに、我に返ったアオイが間に飛び出した。
「や、やめてください! 彼女、漸く歩けるようになったんです! またあんな無茶をされるつもりなら――絶対に許しません!!」
自身の前、必死に手を広げるアオイに名前はそっと口を開いた。
「――皆、ありがとうございます。でも……大丈夫です」
名前の声はか細いが、確かな響きを持っていた。
その言葉に、アオイもきよ達も一斉に振り返る。
畳の中央、木刀を下ろした名前が立っていた。
額には玉の汗、呼吸はまだ乱れている。
だが、その眼差しは真っ直ぐに煉獄を捉えていた。
「…… な、名前さん……」
アオイが息を呑む。
三人娘も不安げに彼女を見つめたが、名前は小さく首を振った。
ゆっくりと歩を進める。
松葉杖なしでは危うい足取り。
それでも、ふらつきながら彼女は煉獄の前に立った。
そして――木刀を脇に置き、膝を折り、深々と頭を下げる。
「炎柱様。先日は……大変な失礼を。申し訳ありませんでした」
道場に静寂が落ちる。
「蟲柱様より……伺いました」
名前の声は震えていたが、確かな言葉だった。
「……あの鬼の首を斬ってくださったこと……」
「命を救ってくださったこと……」
「そして――私を止めてくださったこと」
ひとつひとつ噛み締めるように告げる。
涙で滲む声を必死に抑えながら、言葉を結んだ。
「……心から、感謝申し上げます」
畳に額が触れるほどの深い礼。
その姿に、きよ・すみ・なほの小さな唇が震え、アオイも目を伏せた。
煉獄は、微動だにせず名前を見下ろしていた。
その瞳に宿るのは――ただ真っ直ぐな光。
煉獄は、深く頭を下げたままの名前の前に膝をつき、同じ目線に降りた。
「……顔を上げてくれ」
その声に導かれ、名前はゆっくりと瞳を上げる。
真正面から射抜くような炎の眼差しが、迷いなく彼女を見据えていた。
「鬼の首は、最後、俺が斬った。……だが、奴をあれ程までに追い詰め、あの場に留めたのは、間違いなく君だ」
煉獄の声は、力強く、それでいて澄み切っていた。
「瀕死の身体でありながら、なお鬼の足を掴み、決して放さなかった。その一瞬があったからこそ、俺は斬れた。――あれは、君が繋いだ勝利だ」
名前の喉がかすかに震える。
唇を結び、声にならない息を漏らす。
綾斗の最期が胸を抉り、否定の言葉が喉まで込み上げるが――炎の瞳はそれすらも遮るように彼女を射抜いていた。
「……失ったものへの心の痛みは、計り知れないだろう。だが――君の心には、確かに炎が宿っている。その炎は、俺が知るどんなものより美しい」
煉獄の声音は、揺るぎなかった。
それは慰めではない。
ただ、彼が抱く想いをまっすぐに告げているだけ。
名前の胸に、熱と痛みが同時に広がる。
肩が震え、瞳にじわじわと涙が溜まる。
それでも、彼女は必死に視線を逸らさず、煉獄の眼差しを受け止め続けた。
煉獄は膝をついたまま、真っ直ぐに名前を見据えていた。
「俺は、あの時から決めていた」
その眼差しに迷いはなく、言葉を選ぶよりも先に、燃えるような力強い声音が迸る。
名前が小さく瞬きをした。
「俺の継子になると良い!! 君を立派な剣士にしてあげよう!!」
道場の空気が一瞬で張り詰めた。
きよ・すみ・なほは揃って「えっ!?」と小さく声を上げ、アオイは頭痛がしたようにこめかみを指で押さえる。
名前自身も、一拍遅れて意味を飲み込み、固まったように彼を見返した。
そして、口を開いた。
「え………嫌です」
あまりに即答だった。
ガーン!!と、煉獄の脳天に衝撃が走った。
気の所為だろうか、以前にも同じ衝撃に襲われた気がする。
煉獄は暫く思考停止していたが、やがてハッ!と我に返ると名前に詰め寄る。
「何故だ!!」
「何故、って……足、折られたからです」
「あれは君を止めるためだった!!」
「もう片方も折ろうとされていました」
「それは断じて違う!!!」
もう片方は折る気はなかった、本当だ!と懸命に名前に訴える煉獄を、冷ややかな目で見つめる三人娘とアオイ。
「当然ですね。普通は足を折ろうなんて、思いつきもしません」
きよ・すみ・なほも揃ってコクコクと頷く。
「名前さん、すっごく痛そうでした!」
「可哀想でした!」
「煉獄様、酷いです!!」
女性陣からの一斉攻撃に畳の上でたじろぐ炎柱。
そこに気絶から復活した鎹鴉も加勢に加わる。
「最低! 女ノ敵! 暴力男!!」
「む、むぅ……!」
いつの間にか名前を囲い、守るように布陣が形成されている。
そして、アオイのトドメの一言。
「今後彼女とお話されたいのであれば、まずは女性に対する力加減を覚えてからになさってください」
それを最後に、ピシャッ!と道場の扉が閉められ気付けば煉獄は締め出されていた。
松葉杖を手に、庭に出た名前は首をかしげた。
聞き慣れぬ言葉に小さく呟くと、すぐ隣に立つアオイが淡々と答える。
「重症を負った隊士が、再び戦えるようにするための訓練です。体力も、反射も、呼吸も――全部一度落ちてしまっていますから」
きっぱりと言い切るその声音に、名前は思わず目を瞬かせた。
アオイは続ける。
「寝て治るのは傷口だけ。戦場に戻るには、それ以上が必要です」
その視線は冷静で、けれど真剣な優しさを帯びていた。
言い訳や逃げ道を許さない強さと同時に、必ず立ち直れると信じている眼差し。
「……分かりました。お願いします」
名前は頭を下げ、握った松葉杖に力を込めた。
胸の奥に沈む痛みを振り払うように。
アオイは短く頷くと、きよ・すみ・なほへ視線を向けた。
「――それじゃあ、始めましょう」
三人は元気いっぱいに返事をし、名前の両脇に駆け寄る。
庭に差し込む朝の光の中で、名前の機能回復訓練が静かに始まろうとしていた。
***
柔らかな陽射しが差し込む中、名前はゆっくりと腕を伸ばしていた。
「……っ……」
腹の奥が軋む。
裂けた筋肉も折れた肋骨も、まだ完全には癒えていない。
ひと呼吸するたび、胸の奥に鈍痛が広がる。
それでも――腕は震えながらも止まらなかった。
「もう少し、肩を後ろに」
「背筋を伸ばして……はい、そのままです」
きよとすみが左右から支え、なほが後ろで声を掛ける。
幼い手は頼りなくとも、必死さが伝わってくる。
「……はぁっ……はぁ……っ」
名前は息を乱しながらも、重量のある棒を握った両腕を頭上に掲げる。
落とさぬよう、震える腕に力を込める。
胸に響く痛みが「やめろ」と叫ぶたび、歯を食いしばった。
(……あの時の、綾斗に比べたら……こんな痛み……!)
鬼に喰い破られた腹。
貫かれた肩、足、無数の傷。
全てがまだ癒えきらぬ中、それでも彼女は動きを止めなかった。
「……よし、そのまま! あと十数えます!」
アオイの鋭い声が飛ぶ。
「いーち! にー!」
きよ達の声に合わせて、名前の呼吸は乱れ、額から汗が滴る。
だが――その眼差しだけは揺らいでいなかった。
「――十!」
棒が床に落ちる音と同時に、名前は大きく息を吐き、前のめりに崩れ落ちる。
腹の奥が悲鳴を上げ、喉から掠れた声が漏れた。
「……っ……ごほっ……」
すみが慌てて背をさすり、なほが水を差し出す。
それでも名前は弱々しく首を振り、震える腕で自ら体を起こした。
「……まだ……やれます」
その掠れた声に、アオイは僅かに目を細めた。
名前の瞳のその奥に宿る焔を、確かに見た。
「なら……もう一度」
***
日々は静かに、けれど確かに流れていった。
ある朝。
「さぁ、取ってください!」
三人娘がそれぞれ小さな布玉を放る。
名前は椅子に座り、両腕を伸ばして同時に迫るそれらを受け止めようとした。
だが、身体が伸びたことで腹の傷から痺れが走り、掠める指先から布玉はころりと転がり、板間を転がっていく。
「……っ!」
悔しげに眉を寄せ、震える指で布玉を拾い上げる。
次こそは、と奥歯を噛み締めて再び構える。
何度も失敗し、何度も拾い直す。
それでもやがて、掠めていた指がしっかりと全ての球を掴んだ時、きよとすみ、なほが一斉に拍手を送った。
その小さな歓声に、名前の胸の奥がかすかに熱を宿す。
別の日。
庭先に出て、松葉杖に体を預けながら石畳を一歩ずつ踏みしめた。
「いち、に……」
なほが声を数えるたび、名前は足に力を込める。
だが、まだ完全に閉じきらない太腿の傷が鋭い熱を持つ。
煉獄に折られた右足の骨が、軋んで名前に抗議する。
一歩ごとに息が詰まり、肺が焼けるように苦しい。
それでも――後ろで見守る少女達の眼差しに背を押され、彼女は歩みを止めなかった。
汗が顎を伝い、松葉杖に滴り落ちる。
「……あと少し」
声にならぬ声で、自らを叱咤しながら足を前へ押し出す。
またある夕暮れ。
両手に持った水桶が、ずしりと腕を引き下ろす。
肩は悲鳴を上げ、背筋の古傷が痛みを訴える。
「肘を曲げないで! 背筋を伸ばして!」
アオイの鋭い声が飛ぶ。
歯を食いしばり、水桶を胸の高さまで持ち上げる。
腕が震え、掌が軋む。
やがて桶の水が溢れ、庭石にしぶきを散らした。
陽の光を受けた水滴が、宝石のようにきらめき、一瞬だけ痛みを忘れさせる。
「……まだ……」
名前は己に言い聞かせるように呟き、見守るアオイの視線の元、桶を拾った。
そして別の朝。
きよ達が布団を片付ける横で、名前は木刀を握り、上半身だけで型を繰り返していた。
「はぁ……はぁ……」
呼吸を合わせ、木刀を振り下ろす。
折れた肋骨が軋み、喉が焼けるように痛む。
だが、その度に思い出すのは――あの時、綾斗が最後まで立ち続けた姿。
(……綾斗は、もっと痛くても……笑って、立っていた……! 私を、守ってくれた……!!)
その記憶に背を押され、汗に濡れた髪を振り乱しながら振り下ろす。
動作は乱れ、腕も痺れる。
それでも「やめる」という選択肢は一度も浮かばなかった。
***
繰り返す日々。
痛みは癒えきらない。
呼吸は乱れ、脚はまだ松葉杖に縋らなければならない。
けれど、確かに彼女は前へ進んでいた。
寝殿の梁の上では、鎹鴉が黙って翼を畳み、名前の姿を見守り続けていた。
「……もう一度」
そう呟く声は、次第に迷いを減らし、確信を帯びていく。
廊下の隅では、きよ達が息を呑んで見守り、
アオイは厳しい声を飛ばす。
その一つひとつが、名前を再び「剣士」へと戻していく礎となっていた。
***
柔らかな陽が差し込む道場。
畳の上には、松葉杖を横に置き、汗に濡れた名前が木刀を両手で握っていた。
「……すぅ……はぁ……」
呼吸を合わせ、ぎこちないながらも型を繰り返す。
まだ脚は思うようには動かない。
けれど、ようやく「自分の足で立っている」という事実が胸に灯をともしていた。
「よし、そのまま! 無理は禁物ですけど……かなり歩けるようになってきましたね」
アオイの声に柔らかさが混じる。
傍らで見守るきよ、すみ、なほも、汗をぬぐいながら嬉しそうに頷き合っている。
その時だった。
「――やっているな! 感心感心!!」
がらりと戸が開き、相変わらずの大声と豪快な気配と共に、炎柱・煉獄杏寿郎が姿を現した。
「れ…煉獄様!?」
即座に三人娘がばっと立ち上がった。
そして勇敢にも彼の前に立ち塞がると、両手を広げて小さな壁を作り、全身で道を塞ぐ。
「だめです! 煉獄様は名前さんに近付いたらいけません!!」
「立ち入り禁止と、しのぶ様から言いつけられてます!!」
「名前さんは、私達がお守りします!!」
必死の形相で叫ぶ三人に、煉獄は豪快に笑った。
「ハッハッハ! 確かに俺は病室は立ち入り禁止と言われた!」
「「「……!」」」
少女たちの顔に希望が差す――だが、次の言葉に絶望する。
「しかし! 道場は禁止とは言われていない!!」
「なっ……!!」
「ず、ずるいです!!!」
「そんな屁理屈、通じません!!」
「だめー!」と叫びながら三人娘は煉獄の隊服を懸命に引っ張るが、煉獄はものともせずずんずんと名前の元に行こうとする。
と、その瞬間。
梁の上から黒い影が飛び出した。
「名前様二仇ナス輩!柱ト言エド許サヌ! 我ガ嘴、名前様ノ盾トナラン!!」
名前の鎹鴉が猛スピードで舞い降り、嘴を槍のように尖らせて煉獄の顔面めがけて突撃する。
対し、煉獄は半歩だけ軽やかに身を引いた。
直後――。
「ガフッ!!」
狙いを外した鎹鴉は勢いのまま床に激突。畳に嘴を突き立ててばたばたと羽を広げ、痛みに悶絶し…気絶した。
「「「……」」」
三人娘は思わず動きを止め、呆気に取られて鴉を見下ろした。
煉獄は倒れた鎹鴉に一瞥もくれず、ただ真っ直ぐに名前だけを瞳に映し、更に歩を進める。
そこに、我に返ったアオイが間に飛び出した。
「や、やめてください! 彼女、漸く歩けるようになったんです! またあんな無茶をされるつもりなら――絶対に許しません!!」
自身の前、必死に手を広げるアオイに名前はそっと口を開いた。
「――皆、ありがとうございます。でも……大丈夫です」
名前の声はか細いが、確かな響きを持っていた。
その言葉に、アオイもきよ達も一斉に振り返る。
畳の中央、木刀を下ろした名前が立っていた。
額には玉の汗、呼吸はまだ乱れている。
だが、その眼差しは真っ直ぐに煉獄を捉えていた。
「…… な、名前さん……」
アオイが息を呑む。
三人娘も不安げに彼女を見つめたが、名前は小さく首を振った。
ゆっくりと歩を進める。
松葉杖なしでは危うい足取り。
それでも、ふらつきながら彼女は煉獄の前に立った。
そして――木刀を脇に置き、膝を折り、深々と頭を下げる。
「炎柱様。先日は……大変な失礼を。申し訳ありませんでした」
道場に静寂が落ちる。
「蟲柱様より……伺いました」
名前の声は震えていたが、確かな言葉だった。
「……あの鬼の首を斬ってくださったこと……」
「命を救ってくださったこと……」
「そして――私を止めてくださったこと」
ひとつひとつ噛み締めるように告げる。
涙で滲む声を必死に抑えながら、言葉を結んだ。
「……心から、感謝申し上げます」
畳に額が触れるほどの深い礼。
その姿に、きよ・すみ・なほの小さな唇が震え、アオイも目を伏せた。
煉獄は、微動だにせず名前を見下ろしていた。
その瞳に宿るのは――ただ真っ直ぐな光。
煉獄は、深く頭を下げたままの名前の前に膝をつき、同じ目線に降りた。
「……顔を上げてくれ」
その声に導かれ、名前はゆっくりと瞳を上げる。
真正面から射抜くような炎の眼差しが、迷いなく彼女を見据えていた。
「鬼の首は、最後、俺が斬った。……だが、奴をあれ程までに追い詰め、あの場に留めたのは、間違いなく君だ」
煉獄の声は、力強く、それでいて澄み切っていた。
「瀕死の身体でありながら、なお鬼の足を掴み、決して放さなかった。その一瞬があったからこそ、俺は斬れた。――あれは、君が繋いだ勝利だ」
名前の喉がかすかに震える。
唇を結び、声にならない息を漏らす。
綾斗の最期が胸を抉り、否定の言葉が喉まで込み上げるが――炎の瞳はそれすらも遮るように彼女を射抜いていた。
「……失ったものへの心の痛みは、計り知れないだろう。だが――君の心には、確かに炎が宿っている。その炎は、俺が知るどんなものより美しい」
煉獄の声音は、揺るぎなかった。
それは慰めではない。
ただ、彼が抱く想いをまっすぐに告げているだけ。
名前の胸に、熱と痛みが同時に広がる。
肩が震え、瞳にじわじわと涙が溜まる。
それでも、彼女は必死に視線を逸らさず、煉獄の眼差しを受け止め続けた。
煉獄は膝をついたまま、真っ直ぐに名前を見据えていた。
「俺は、あの時から決めていた」
その眼差しに迷いはなく、言葉を選ぶよりも先に、燃えるような力強い声音が迸る。
名前が小さく瞬きをした。
「俺の継子になると良い!! 君を立派な剣士にしてあげよう!!」
道場の空気が一瞬で張り詰めた。
きよ・すみ・なほは揃って「えっ!?」と小さく声を上げ、アオイは頭痛がしたようにこめかみを指で押さえる。
名前自身も、一拍遅れて意味を飲み込み、固まったように彼を見返した。
そして、口を開いた。
「え………嫌です」
あまりに即答だった。
ガーン!!と、煉獄の脳天に衝撃が走った。
気の所為だろうか、以前にも同じ衝撃に襲われた気がする。
煉獄は暫く思考停止していたが、やがてハッ!と我に返ると名前に詰め寄る。
「何故だ!!」
「何故、って……足、折られたからです」
「あれは君を止めるためだった!!」
「もう片方も折ろうとされていました」
「それは断じて違う!!!」
もう片方は折る気はなかった、本当だ!と懸命に名前に訴える煉獄を、冷ややかな目で見つめる三人娘とアオイ。
「当然ですね。普通は足を折ろうなんて、思いつきもしません」
きよ・すみ・なほも揃ってコクコクと頷く。
「名前さん、すっごく痛そうでした!」
「可哀想でした!」
「煉獄様、酷いです!!」
女性陣からの一斉攻撃に畳の上でたじろぐ炎柱。
そこに気絶から復活した鎹鴉も加勢に加わる。
「最低! 女ノ敵! 暴力男!!」
「む、むぅ……!」
いつの間にか名前を囲い、守るように布陣が形成されている。
そして、アオイのトドメの一言。
「今後彼女とお話されたいのであれば、まずは女性に対する力加減を覚えてからになさってください」
それを最後に、ピシャッ!と道場の扉が閉められ気付けば煉獄は締め出されていた。