七章
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「おおっ! 目覚めていたか!!」
陽光のように明るい声が部屋を満たす。
堂々と立つその姿に、障子越しの光までもが揺れ動くようだった。
「あら……また来たんですか」
しのぶは、すっと振り返り、にこりと笑った。
けれどその口元には、僅かに棘を含んだ色が漂う。
「随分とお暇なんですね」
煉獄は一瞬きょとんと目を瞬かせ――次いで、まるで褒められたかのように豪快に笑った。
「ハッハッハ! 人聞きが悪いな、胡蝶! 俺は暇ではない!」
大きな瞳をぎゅるんと名前に向けると、名前がびくりと肩を震わせるのも構わず声を張り上げる。
「彼女を迎えに来たのだ!! 俺の屋敷に連れ帰り、直々に鍛えるためにな!!」
その言葉に、名前の顔色がサァーッと青くなり、蒼白な顔色でぶんぶんと首を振る。
声にはせずとも、その仕草は雄弁だった。
「……」
しのぶはその反応を見逃さなかった。
即座に煉獄の前に立ち塞がり、にこりと笑みを浮かべながらも、声音だけは鋭く切り捨てる。
「――却下です。どこかのどなたかのお陰で彼女、歩けませんから」
「問題ない! 俺が運ぶ!!」
「まぁ……それで運んで、どうなさるんです?」
「まずは食事だ!! 千寿郎が腕を振るい待ってくれている!!」
「食事……彼女、食道も一部裂けているんですよ?」
「む!? ならば医者を呼ぼう!!」
「彼女ほどの重症患者を診られる医者が、そうそういると思います?」
「む、むぅ…!!」
小柄なしのぶを前に、何故か大柄な煉獄が段々小さくなっているように見える。
だが炎柱はなおも口を開き、食い下がろうと息を吸った――。
「ならば、「煉獄さん」」
その瞬間、しのぶの瞳がすっと細められる。
にこやかな微笑みはそのままに、声だけがひやりとした温度を帯びた。
「しつこい男性は――嫌われますよ?」
「!!」
ガーン!!と衝撃が走った。
煉獄は豪快な笑顔を保ったまま、しかし胸を真正面から撃ち抜かれたかのように固まった。
何かを言おうと口を動かすも、言葉にならない。
「……出ていってください」
にっこりと告げられたしのぶの笑みは、春の花のように柔らかく――だが決して逆らえぬ強さを秘めていた。
ガーン、ガーン…と余韻がまだ色濃く残り、廊下に立ち尽くす炎柱の背は、ほんの少しだけ小さく見えた。
そしてその光景を―― 名前の枕元に止まる鎹鴉が、じいっと睨みつけていた。
昨夜の騒乱で名前を苦しめた張本人と認定したのか、翼をわずかに広げ、いつでも突撃できるかのような姿勢で。
「…我ガ翼、名前様ニ仇ナス者ヲ許サズ…!」と言わんばかりにギラついた瞳は、完全に煉獄を“警戒対象”とみなしていた。
***
廊下に残された煉獄の足音が遠ざかり、襖が静かに閉まると――。
部屋にはようやく静寂が戻った。
「……ふぅ。全く……」
しのぶは胸の前で指を軽く組み、ため息をひとつ。
その微笑みは変わらないが、吐息にはかすかな疲れが混じっていた。
布団の中で肩を縮めていた名前は、しばらく迷ってから、小さな声を絞り出した。
「……あの……ありがとうございます……」
蚊の鳴くような声。
けれど確かにしのぶの耳に届いた。
「ふふ……お気になさらず」
振り返ったしのぶは、やわらかな微笑を浮かべる。
そして一拍置いて、少し声を落とした。
「煉獄さんは……悪い人ではないんですよ。ただ、とても真っ直ぐで、少し加減を知らないだけで」
その言葉に、名前の胸の奥に昨夜の記憶がよみがえる。
叫び、泣き、暴れて――そして、あの強い腕に押さえつけられたこと。
「……ごめんなさい」
ぽつりと零れた声は、布団に吸い込まれるほど小さかった。
涙のにじむ視界で、名前は唇を噛みしめる。
「昨夜……ご迷惑を……たくさん、かけて……」
しのぶはその言葉を遮らず、ただ静かに頷いた。
そして、まるで子どもをあやすような落ち着いた声で囁く。
「ええ。けれど……生きている限り、迷惑なんてお互い様ですよ」
しのぶは微笑を崩さぬまま、柔らかく続ける。
「それに――謝罪なら、まずはあの子たちに」
視線を襖へ向けると、障子の影が小さく揺れた。
名前がそちらに目をやった瞬間、そっと襖がわずかに開く。
そこから顔を覗かせたのは、きよ、すみ、なほの三人。
そして少し後ろで控えるように立つアオイだった。
皆、まだ幼い顔を不安に曇らせ、心配そうに名前を見つめている。
声を掛ける勇気はないのか、ただじっと、布団に伏した彼女の様子を伺っていた。
その光景に、名前の胸が締め付けられる。
彼女の頬を伝っていた涙が、再び熱を増してこぼれ落ちた。
名前はどうにか身体を起こそうとした。
けれど力は入らず、震える声だけが布団の中から零れ落ちる。
「……ごめんなさい……。私、皆さんに……ご迷惑を……」
言葉は途切れ途切れで、涙に濡れて掠れていた。
その瞬間――目に入った。
きよの頬に走る赤い擦過傷。
すみの腕には青黒い痣。
なほの手の甲には包帯が巻かれている。
昨夜、錯乱した自分が突き飛ばし、振り払った時についた傷。
その事実が胸を抉る。
「……っ」
喉が焼けるように熱くなり、謝罪の言葉が途切れた。
すると、きよが小さく首を振りながら一歩進み出る。
その後ろで、すみもなほも、そろって懸命に頷いた。
「気にしないでください……!」
「私たちなんかより……」
「鬼狩りの方たちは、いつも命を懸けて……闘っているんです」
幼い声は、か細いのに真っ直ぐだった。
顔や腕に傷を負っていても、三人の眼差しには責める色など一つもなく、ただ彼女を思いやる気持ちだけが映っていた。
「大事なお友達を失って……どれほど辛いか……」
きよの声は震え、言いながらも涙がにじむ。
それでも、彼女は名前に向かって微笑もうとした。
「だから……謝らないでください」
名前の喉がひゅっと詰まり、返す言葉はもう声にならなかった。
熱い涙が頬を伝い、布団を濡らしていく。
そんな彼女の横で、アオイがすっと前に出る。
腕を組み、真っ直ぐな瞳で名前を見下ろした。
「……悪いと思われているなら」
その声音は柔らかさを隠さず、それでいて芯の通った強さを帯びていた。
「自分を傷つけるなんて、二度としないでください」
名前は、震える指先で布団を握り締める。
「私たちは、あなたがまた傷を増やすところを、見たくありません」
叱咤の言葉。けれどその奥には、恐怖と同じくらい深い優しさがあった。
アオイの瞳は揺れながらも、必死に訴えていた。
「……あなたが生きていることが、一番大事なんです」
名前の胸に、再び堰を切ったように涙が溢れた。
謝罪の言葉は嗚咽に溶け、ただ頭を下げることでしか返せなかった。
身を震わせる彼女に鎹鴉が頭を寄せると、名前はそれをそっと抱きしめる。
しのぶは、そんな彼女達を柔らかな眼差しで見つめていた。
***
蝶屋敷での療養の日々は、静かで、けれど厳しかった。
起き上がることも困難な身体に、まずは呼吸を整える訓練。
薬湯の苦みに顔をしかめ、包帯を替えられるたびに痛みに歯を食いしばる。
動かせぬ脚を前に、苛立ちと焦燥が胸を満たす日も多かった。
それでも――彼女は生きていた。
きよ、すみ、なほの幼い手が、時に不器用ながらも支えてくれる。
アオイの叱咤は厳しいが、その言葉の裏に確かな優しさがあることも、少しずつ分かるようになった。
しのぶはあれから、名前の元を訪ねることはなかった。
後から名前は知った。
あの穏やかな笑みの裏で、胡蝶しのぶが――「蟲柱」と呼ばれる地位にあることを。
蝶屋敷を預かり、多くの隊士を抱えながら、同時に柱として任務をこなす彼女の日々は目まぐるしい。
夜明け前に出立し、深夜に戻ることも珍しくない。
その忙しさを思えば、名前の部屋を訪れる時間などあるはずもなかった。
ただ薬湯や、時折手紙が机に残されているだけ。
彼女の不在は、屋敷の静けさに紛れて自然と日常の一部になっていった。
静かな病室。
障子越しの光はすっかり柔らかさを増し、風に揺れる庭木の影が床に淡く落ちていた。
鎹鴉が傍らで眠る中、名前は枕に頭を預け、ぼんやりと窓の外に目を向けていた。
(……綾斗……新一……桐子……颯太郎さん……父上……母上……)
胸の奥に、次々と名前が浮かんでは沈む。
夢に出てきた笑顔も、最期の叫びも、もう現実には戻らない。
息を吸うたび、肺の奥が痛む。
その痛みが、彼女がまだ生きている証だった。
(……私は……何のために剣を握る……?)
視線が自然と枕元へ向く。
そこには手入れされ、静かに置かれた日輪刀があった。
己の父が遺した形見であり、血と涙で濡れたまま、なお彼女の傍に戻ってきた刃。
名前は震える手を伸ばし、その柄を握りしめる。
冷たい鉄が掌に馴染み、胸の奥で燻る炎を呼び起こす。
(……陽太……)
かつての無邪気な笑顔。
同時に、あの夜浮かべた邪悪な笑顔も蘇る。
鬼となり、愛する家族を喰い殺した、自分の手で討たねばならない存在。
それが、自分が生きて剣を握る唯一の理由。
そして。
(……――鬼舞辻無惨)
全ての元凶。
男か女か、姿も分からない。
しかし、無惨を討たなければ、また同じ悲劇が繰り返される。
綾斗の死も、家族の凄惨な最期も、何の意味もなくなってしまう。
名前の指先に、力が籠もる。
包帯で覆われた掌が軋み、柄を握る拳は白くなるほど固く締め付けられた。
「………戦わなければ」
掠れた声が、静かな病室に溶けていく。
痛みも涙も消えはしない。
それでも、心に宿る決意だけは揺らがなかった。
窓の外では、一陣の風が草木を揺らす。
陽光を受けてきらめく朝露が、まるで亡き者たちの声なき応援のように煌めいていた。
陽光のように明るい声が部屋を満たす。
堂々と立つその姿に、障子越しの光までもが揺れ動くようだった。
「あら……また来たんですか」
しのぶは、すっと振り返り、にこりと笑った。
けれどその口元には、僅かに棘を含んだ色が漂う。
「随分とお暇なんですね」
煉獄は一瞬きょとんと目を瞬かせ――次いで、まるで褒められたかのように豪快に笑った。
「ハッハッハ! 人聞きが悪いな、胡蝶! 俺は暇ではない!」
大きな瞳をぎゅるんと名前に向けると、名前がびくりと肩を震わせるのも構わず声を張り上げる。
「彼女を迎えに来たのだ!! 俺の屋敷に連れ帰り、直々に鍛えるためにな!!」
その言葉に、名前の顔色がサァーッと青くなり、蒼白な顔色でぶんぶんと首を振る。
声にはせずとも、その仕草は雄弁だった。
「……」
しのぶはその反応を見逃さなかった。
即座に煉獄の前に立ち塞がり、にこりと笑みを浮かべながらも、声音だけは鋭く切り捨てる。
「――却下です。どこかのどなたかのお陰で彼女、歩けませんから」
「問題ない! 俺が運ぶ!!」
「まぁ……それで運んで、どうなさるんです?」
「まずは食事だ!! 千寿郎が腕を振るい待ってくれている!!」
「食事……彼女、食道も一部裂けているんですよ?」
「む!? ならば医者を呼ぼう!!」
「彼女ほどの重症患者を診られる医者が、そうそういると思います?」
「む、むぅ…!!」
小柄なしのぶを前に、何故か大柄な煉獄が段々小さくなっているように見える。
だが炎柱はなおも口を開き、食い下がろうと息を吸った――。
「ならば、「煉獄さん」」
その瞬間、しのぶの瞳がすっと細められる。
にこやかな微笑みはそのままに、声だけがひやりとした温度を帯びた。
「しつこい男性は――嫌われますよ?」
「!!」
ガーン!!と衝撃が走った。
煉獄は豪快な笑顔を保ったまま、しかし胸を真正面から撃ち抜かれたかのように固まった。
何かを言おうと口を動かすも、言葉にならない。
「……出ていってください」
にっこりと告げられたしのぶの笑みは、春の花のように柔らかく――だが決して逆らえぬ強さを秘めていた。
ガーン、ガーン…と余韻がまだ色濃く残り、廊下に立ち尽くす炎柱の背は、ほんの少しだけ小さく見えた。
そしてその光景を―― 名前の枕元に止まる鎹鴉が、じいっと睨みつけていた。
昨夜の騒乱で名前を苦しめた張本人と認定したのか、翼をわずかに広げ、いつでも突撃できるかのような姿勢で。
「…我ガ翼、名前様ニ仇ナス者ヲ許サズ…!」と言わんばかりにギラついた瞳は、完全に煉獄を“警戒対象”とみなしていた。
***
廊下に残された煉獄の足音が遠ざかり、襖が静かに閉まると――。
部屋にはようやく静寂が戻った。
「……ふぅ。全く……」
しのぶは胸の前で指を軽く組み、ため息をひとつ。
その微笑みは変わらないが、吐息にはかすかな疲れが混じっていた。
布団の中で肩を縮めていた名前は、しばらく迷ってから、小さな声を絞り出した。
「……あの……ありがとうございます……」
蚊の鳴くような声。
けれど確かにしのぶの耳に届いた。
「ふふ……お気になさらず」
振り返ったしのぶは、やわらかな微笑を浮かべる。
そして一拍置いて、少し声を落とした。
「煉獄さんは……悪い人ではないんですよ。ただ、とても真っ直ぐで、少し加減を知らないだけで」
その言葉に、名前の胸の奥に昨夜の記憶がよみがえる。
叫び、泣き、暴れて――そして、あの強い腕に押さえつけられたこと。
「……ごめんなさい」
ぽつりと零れた声は、布団に吸い込まれるほど小さかった。
涙のにじむ視界で、名前は唇を噛みしめる。
「昨夜……ご迷惑を……たくさん、かけて……」
しのぶはその言葉を遮らず、ただ静かに頷いた。
そして、まるで子どもをあやすような落ち着いた声で囁く。
「ええ。けれど……生きている限り、迷惑なんてお互い様ですよ」
しのぶは微笑を崩さぬまま、柔らかく続ける。
「それに――謝罪なら、まずはあの子たちに」
視線を襖へ向けると、障子の影が小さく揺れた。
名前がそちらに目をやった瞬間、そっと襖がわずかに開く。
そこから顔を覗かせたのは、きよ、すみ、なほの三人。
そして少し後ろで控えるように立つアオイだった。
皆、まだ幼い顔を不安に曇らせ、心配そうに名前を見つめている。
声を掛ける勇気はないのか、ただじっと、布団に伏した彼女の様子を伺っていた。
その光景に、名前の胸が締め付けられる。
彼女の頬を伝っていた涙が、再び熱を増してこぼれ落ちた。
名前はどうにか身体を起こそうとした。
けれど力は入らず、震える声だけが布団の中から零れ落ちる。
「……ごめんなさい……。私、皆さんに……ご迷惑を……」
言葉は途切れ途切れで、涙に濡れて掠れていた。
その瞬間――目に入った。
きよの頬に走る赤い擦過傷。
すみの腕には青黒い痣。
なほの手の甲には包帯が巻かれている。
昨夜、錯乱した自分が突き飛ばし、振り払った時についた傷。
その事実が胸を抉る。
「……っ」
喉が焼けるように熱くなり、謝罪の言葉が途切れた。
すると、きよが小さく首を振りながら一歩進み出る。
その後ろで、すみもなほも、そろって懸命に頷いた。
「気にしないでください……!」
「私たちなんかより……」
「鬼狩りの方たちは、いつも命を懸けて……闘っているんです」
幼い声は、か細いのに真っ直ぐだった。
顔や腕に傷を負っていても、三人の眼差しには責める色など一つもなく、ただ彼女を思いやる気持ちだけが映っていた。
「大事なお友達を失って……どれほど辛いか……」
きよの声は震え、言いながらも涙がにじむ。
それでも、彼女は名前に向かって微笑もうとした。
「だから……謝らないでください」
名前の喉がひゅっと詰まり、返す言葉はもう声にならなかった。
熱い涙が頬を伝い、布団を濡らしていく。
そんな彼女の横で、アオイがすっと前に出る。
腕を組み、真っ直ぐな瞳で名前を見下ろした。
「……悪いと思われているなら」
その声音は柔らかさを隠さず、それでいて芯の通った強さを帯びていた。
「自分を傷つけるなんて、二度としないでください」
名前は、震える指先で布団を握り締める。
「私たちは、あなたがまた傷を増やすところを、見たくありません」
叱咤の言葉。けれどその奥には、恐怖と同じくらい深い優しさがあった。
アオイの瞳は揺れながらも、必死に訴えていた。
「……あなたが生きていることが、一番大事なんです」
名前の胸に、再び堰を切ったように涙が溢れた。
謝罪の言葉は嗚咽に溶け、ただ頭を下げることでしか返せなかった。
身を震わせる彼女に鎹鴉が頭を寄せると、名前はそれをそっと抱きしめる。
しのぶは、そんな彼女達を柔らかな眼差しで見つめていた。
***
蝶屋敷での療養の日々は、静かで、けれど厳しかった。
起き上がることも困難な身体に、まずは呼吸を整える訓練。
薬湯の苦みに顔をしかめ、包帯を替えられるたびに痛みに歯を食いしばる。
動かせぬ脚を前に、苛立ちと焦燥が胸を満たす日も多かった。
それでも――彼女は生きていた。
きよ、すみ、なほの幼い手が、時に不器用ながらも支えてくれる。
アオイの叱咤は厳しいが、その言葉の裏に確かな優しさがあることも、少しずつ分かるようになった。
しのぶはあれから、名前の元を訪ねることはなかった。
後から名前は知った。
あの穏やかな笑みの裏で、胡蝶しのぶが――「蟲柱」と呼ばれる地位にあることを。
蝶屋敷を預かり、多くの隊士を抱えながら、同時に柱として任務をこなす彼女の日々は目まぐるしい。
夜明け前に出立し、深夜に戻ることも珍しくない。
その忙しさを思えば、名前の部屋を訪れる時間などあるはずもなかった。
ただ薬湯や、時折手紙が机に残されているだけ。
彼女の不在は、屋敷の静けさに紛れて自然と日常の一部になっていった。
静かな病室。
障子越しの光はすっかり柔らかさを増し、風に揺れる庭木の影が床に淡く落ちていた。
鎹鴉が傍らで眠る中、名前は枕に頭を預け、ぼんやりと窓の外に目を向けていた。
(……綾斗……新一……桐子……颯太郎さん……父上……母上……)
胸の奥に、次々と名前が浮かんでは沈む。
夢に出てきた笑顔も、最期の叫びも、もう現実には戻らない。
息を吸うたび、肺の奥が痛む。
その痛みが、彼女がまだ生きている証だった。
(……私は……何のために剣を握る……?)
視線が自然と枕元へ向く。
そこには手入れされ、静かに置かれた日輪刀があった。
己の父が遺した形見であり、血と涙で濡れたまま、なお彼女の傍に戻ってきた刃。
名前は震える手を伸ばし、その柄を握りしめる。
冷たい鉄が掌に馴染み、胸の奥で燻る炎を呼び起こす。
(……陽太……)
かつての無邪気な笑顔。
同時に、あの夜浮かべた邪悪な笑顔も蘇る。
鬼となり、愛する家族を喰い殺した、自分の手で討たねばならない存在。
それが、自分が生きて剣を握る唯一の理由。
そして。
(……――鬼舞辻無惨)
全ての元凶。
男か女か、姿も分からない。
しかし、無惨を討たなければ、また同じ悲劇が繰り返される。
綾斗の死も、家族の凄惨な最期も、何の意味もなくなってしまう。
名前の指先に、力が籠もる。
包帯で覆われた掌が軋み、柄を握る拳は白くなるほど固く締め付けられた。
「………戦わなければ」
掠れた声が、静かな病室に溶けていく。
痛みも涙も消えはしない。
それでも、心に宿る決意だけは揺らがなかった。
窓の外では、一陣の風が草木を揺らす。
陽光を受けてきらめく朝露が、まるで亡き者たちの声なき応援のように煌めいていた。