七章
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
それから、何日経っただろうか。
名前は、毎晩同じ夢を見た。
――山を覆っていた赤黒い嵐。
血と鉄の匂い。裂けた木々の呻き。
そして、月光の下で崩れ落ちる鬼の巨体。
自分達は勝った。下弦を討ったのだと――そう思った刹那。
「……ほんとに……倒しちゃったの……!?」
涙と泥に塗れながら笑う綾斗の顔。
「俺、柱になっちゃったりして……!」と、鼻水まみれで夢を語った顔。
拳を合わせ、「死なない」と笑い合った、あの瞬間。
……その次に。
背後の闇が揺れ、赤黒い閃光が走った。
「――ッ! 名前ちゃん!!!」
綾斗の絶叫。
自分を突き飛ばした温もり。
次の瞬間――胸を貫いた赤い筋繊維の槍。
「がっ……は……ッ!!」
飛び散る鮮血。
痙攣する身体。
串刺しにされたまま持ち上げられた綾斗の顔。
そして――あざ笑う鬼の目。
その光景が。
眠りに落ちたはずの夜に。
目を閉じてもなお、闇の底から蘇る。
「……あっ……あぁ……っ!!」
寝台の上で、名前は息を荒くしながら目を見開き掠れ声を漏らす。
胸が灼ける。喉がひゅうひゅうと音を立てる。
布団の上で爪が痙攣するほど強張り、視界に焼き付いた残像が消えない。
(――綾斗……!)
声にならない叫び。
何度も、何度も、同じ瞬間に引き戻される。
庇われた自分。
動けなかった足。
刺し貫かれた綾斗。
笑った鬼。
それらが、延々と繰り返し、彼女を責め続けた。
「……ぅっ!ごほ……げぇ……ッ」
込み上げるものに耐えきれず、名前は身体を折り曲げた。
胃の奥から逆流する酸が喉を焼き、吐瀉が口端から零れる。
布団に身を沈めながら、必死に喉を押さえるも、咳き込みと共に嘔吐が繰り返された。
胸は焼け付き、呼吸は乱れ、涙と唾液と吐瀉で頬がぐしゃぐしゃに濡れる。
「……なんで……なんで、あの時……!」
掠れた声で、かすかに震える。
嗚咽と共に、怒りの矛先が自分自身へと向かっていく。
「動けなかった……足が……ッ!」
己の両脚に爪を立てる。
震えながらも、その足を無理やり寝台の柵に叩きつけた。
「ッッ……ぁあああッ!」
鈍い音が響き、鈍痛が骨を震わせる。
だが、その痛みすら足りない。
彼女はなおも、痣と血で染まった足を壁に、柵に、何度もぶつけた。
「なんでッ! っ、あの時! なんで……なんで動かなかった……ッ! なんで…ッッ!!」
絶叫は掠れて喉を潰す。
だが叩きつけるたびに、胸の奥に焼き付いた光景はますます鮮烈に蘇る。
庇った綾斗の笑み。
突き刺さる赤黒い槍。
血を吹き出しながらも、自分の名を叫んだ声。
「綾斗…………!!!」
涙と嗚咽に押し潰され、名前はなおも足を叩きつけ続けた。
身体は悲鳴を上げ、包帯が裂け、血が滲む。
それでも止められなかった。
まるで自分を罰することでしか、生きている意味を見つけられないかのように。
――その時。
「御止メ下サイ名前様ッ!!」
激しい羽音と共に、寝台の上へ黒い影が舞い降りた。
名前の鎹鴉だ。
「マダ傷モ癒エ切ッテオリマセン!!ドウカ御止メ下サイ!!!」
必死の声に、名前は振り返る。涙で曇った視界に、黒い羽根が大きく広がった。
「我、貴女ノ剣ヲ知ッテオリマス!貴女ハ誇リ高キ剣士!何モ恥ジ入ル事ハ無イノデス!! 然レド今、其ノ御身ヲ砕クハ剣士ノ業ニアラズ!!」
まるで叱るように鳴き声を響かせながら、名前の前へと翼を広げ、必死にその動きを遮ろうとする。
「やめてっ!! どいて……っ!!」
「断固拒否致シマス!!名前様ガ御身ヲ滅スルヲ、我、黙シテ看過スル訳ニハ参リマセン!!」
その瞬間、ばたばたと廊下を駆ける足音が近づき――。
「――ッ! 名前さん!!」
暴れる名前の部屋に、慌ただしい足音が駆け込んだ。
蝶屋敷で看護を行うきよ、すみ、なほの三人が、悲鳴を聞いて駆けつけたのだ。
寝台の上で名前は両足を狂ったように柵へ叩きつけていた。
血が飛び散り、包帯が裂け、木の軋む音が夜を切り裂く。
「だめです! やめてくださいっ!!」
「足が……足が壊れちゃいます!!」
「お願いです、落ち着いて……っ!」
少女たちは必死に腕や足にしがみつく。
だが、重症とはいえ鬼殺隊士の力は、幼い体には重すぎた。
振り払うたびに彼女たちは転がされ、それでも涙を浮かべて立ち上がり、再び飛びついた。
「……綾斗ッ!! 待って!行かないで!! 綾斗!……綾斗……ッ!!!」
幻覚を見ているのか、少女達を突き飛ばし、名前は空に手を伸ばす。
叫びは嗚咽に濁り、掠れた声で何度も同じ名を繰り返す。
名前の爪が布団を裂き、膝が血で赤黒く染まる。
「何事ですか!?」
襖を勢いよく開け、やはり看護師の一人、アオイが駆け込んできた。
盆を手に、そこには注射器と鎮静剤が揺れていた。
「下がって! 鎮静剤を打ちます!」
三人の少女は必死に頷き、腕を押さえようと再びしがみつく。
しかし名前はなお暴れ、薬を打ち込む隙などなかった。
アオイは歯を食いしばり、針を構え直す。
(このままでは、傷も開き死んでしまう……!)
その瞬間。
襖の向こうに影が差した。
気配と共に、熱を帯びた空気が流れ込む。
現れたのは――焔色の髪を束ねた男。
煉獄杏寿郎だった。
彼は驚く四人に構わず寝台へ歩み寄る。
暴れる名前の身体へ片膝を乗せ、両の腕を右手でがっしりと押さえ込む。
「……っ!!!」
それだけで、名前の全身の力が封じられた。
まるで荒れ狂う炎が一瞬で鎮火したかのように。
三人の少女は目を丸くし、アオイは針を構えたまま呆然と息を呑んだ。
いつもお喋りな鎹鴉ですら、嘴を噤んだ。
煉獄は視線を名前から逸らさず、しかし声は落ち着いていた。
「……大丈夫だ。俺が抑えている」
その声音は熱く、それでいて不思議な安心を帯びていた。
***
「綾斗……っ! ごめん、綾斗……! 私が、あの時…!! あ、ぁぁ……うぁああ……ッ!!」
名前の目前、幻の綾斗が血に塗れたまま立っている。
その視線に追い詰められ、名前は涙で顔をくしゃくしゃにしながら絶叫する。
しかし、現実に彼女の前にいるのは煉獄杏寿郎だった。
煉獄は、焦点の合わぬ瞳で泣きじゃくる彼女をじっと見つめ、鎮静剤を打とうとするアオイを制すると彼女の吐瀉物が手を汚すのも厭わず涙と口元を拭ってやる。
「……落ち着きなさい。もう大丈夫だ」
低く、しかしはっきりとした声で言葉を投げる。
乱れる息に合わせて、背を押さえ、呼吸を導こうとする。
「君はよく戦った。……誰も、君を責めはしない」
だが名前の耳には届かない。
涙に濁った瞳は虚空を彷徨い、目の前にいない綾斗を追っている。
「……綾斗……! 置いていかないで……! お願い…っ!」
掠れた声で何度も同じ名を繰り返す。
その叫びに煉獄は歯を食いしばり、さらに強く身体を押さえた。
「聞け! 君は生きている! 君は――託されたのではないのか!!」
煉獄の声は夜を震わせるほど強く、それでいて一切の迷いを含まなかった。
しかし、その言葉すら名前の心には届かない。
「……違う……! 私じゃない…っ! 綾斗が、生きていなければ、いけなかった……っ!! 私が、役立たずだったから……! 足が…っ、あの時、足が、動かなかったから……っ!!」
うわ言のように、嗚咽と共に吐き出された叫び。
彼女の視線は現実を見ていない。
ただ幻の綾斗に縋りながら、己の足を罰するように震える声で呟き続ける。
「こんな…足……っ! こんな足、なくて……いい……ッ!!」
名前はなおも足を柵へ打ちつけようと暴れた。
きよ・すみ・なほが必死に手を伸ばすが、届かない。
鎹鴉が瞳に涙をためながら己の羽で精一杯その足を押さえようとも、あまりに非力で。
アオイの手も震え、針を構えたまま動けずにいた。
その刹那――。
「……そうか」
煉獄の双眸がぎらりと光を宿した。
名前の腕を押さえる力を更に強め、もう片方の手で彼女の右脚をがっちりと掴む。
「ならば――折ろう!」
え、と思う暇もなかった。
理解するより早く、煉獄の手に膂力が込められ、躊躇なくその関節へと全体重をかけた。
ぐぎり、と鈍い骨の軋む音。
「――――ッッッッ!!!」
目を剥いた名前の絶叫が、蝶屋敷の一室を震わせた。
背中が弓なりに反り、布団が乱れ、飛び散った血が白い布を赤黒く染める。
「「「きゃあああああっ!!!」」」
「名前様ァァーーッ!!」
三人娘と鎹鴉が、同時に悲鳴を上げた。
小さな体が震え、身を寄せ合いながらへなへなと床にへたり込む。
「れ…煉獄様!? 何を――!」
アオイもまた、鎮静剤を握った手を震わせ、蒼白な顔で叫んだ。
だが煉獄は誰の声も聞かなかった。
鎹鴉がバサバサと煉獄を咎めるように羽音を響かせ、煉獄を名前から引き離さんと叫ぶが、煉獄は動じない。
片膝で激痛に悶絶する名前の身体を押さえ、今度は彼女の左脚に手を添え、揺るがぬ声音で言い放つ。
「…これでもまだ“罰が足りぬ”と言うなら――こちらも折ってやろう」
煉獄の声は低く、刃のように鋭かった。
しかしそこに込められていたのは、決して名前を突き放す冷酷さではない。
絶望と狂乱の淵から彼女を現実へ引き戻そうとする、烈火のような決意だった。
「……っ……!」
名前の目に、涙の幕を透かして煉獄の姿が映る。
幻ではない。
血に濡れ、嗚咽で掠れた声を上げる自分を、真正面から押さえ込む現実の男。
「……私……なんか……」
掠れた声で、なおも呟こうとした瞬間――。
煉獄の声音がそれを遮った。
「黙れ」
短く、揺るぎなく。
その一言は、泣き叫ぶ少女の全てを断ち切るには充分だった。
「どれだけ己を罰しても、喪われた者は戻らない。痛みに逃げようと、何も救われはしない」
「……っ……」
「君の命は、託されたものだ。君を生かした者は…君に生きろと言わなかったか」
名前の全身から、力が抜けていく。
柵にぶつけようと振り上げていた脚は、今はただ煉獄に支えられているだけだった。
喉から搾り出された声は、もはや抵抗ではなかった。
「……っ……う…うぁああ……っ……」
途切れ途切れの嗚咽が、夜に溶ける。
頬を濡らす涙は止まらず、しかし錯乱の色は薄れていく。
煉獄は、脱力した名前の身体を抱き締めると、その耳元へと言葉を吹き込むように短く告げた。
「……君は、立派だった。これ以上、自分を責めるな」
その声音は、烈火のように強く――薪火のように温かかった。
アオイは震える手でようやく針を下ろし、きよ・すみ・なほも互いに顔を見合わせながら、小さく肩を落とす。
そして――激痛と嗚咽に揺れる名前は、とうとう限界に達し、煉獄の腕の中で鎹鴉に寄り添われ、意識を手放した。
***
翌朝――。
夜の騒乱をなかったことにするかのように、蝶屋敷の庭には静けさが広がっていた。
草木はきらきらと朝露を纏い、障子越しの光は柔らかく部屋を照らしている。
名前は、鈍い痛みに目を覚ました。
脚から伝わる熱と重み。胸の奥に残る息苦しさ。
まだ夢の続きに囚われているようで、現実に戻ることを身体が拒んでいた。
「……気がつきましたね」
澄んだ声に振り向くと、そこには椅子に腰掛けた胡蝶しのぶがいた。
白衣の袖をきちんと整え、膝の上には包帯と薬壺。
穏やかな笑みを浮かべてはいるが、その眼差しは真剣で、微かな疲労を滲ませている。
「動かないでくださいね。……少し診ますから」
布団をめくる指先は丁寧で、扱う手は驚くほど優しかった。
しのぶは膝を折り、名前の脚を持ち上げると、腫れあがった部分を慎重に押さえた。
名前が呻き声を上げ、その顔が苦痛に歪むのを確認し、彼女は小さく頷いた。
「……やはり。さすがは煉獄さん」
ぽつりと漏れたその言葉に、名前は瞬きをした。
「貴女の脚――傷の癒える時期と重なるように、実に綺麗に折れています」
驚きに目を見開く名前をよそに、しのぶは包帯を巻き直しながら柔らかな声で続けた。
「もちろん荒療治ですけれど……結果として、貴女を守る形になりました」
薬を塗り込む指先は冷たく心地よく、痛みを和らげてくれる。
その一方で、語られる言葉は優しさよりも現実を伝える冷静さを含んでいた。
「鎮静剤で眠らせるよりも、無理に押さえて傷を広げるよりも……ずっと合理的でした。――煉獄さんらしい判断ですね」
そう言って、しのぶはふっと微笑む。
からかうようでも、皮肉でもない。
「まぁ、煉獄さんにも貴女にも、色々と言いたいことは無い訳ではありませんが」と一言ちくりと添えて。
「……どうして……」
名前の喉が、かすかに震えた。
しのぶはその問いを否定も肯定もせず、ただ淡々と新しい包帯を締める。
白布が音を立てて結ばれるたび、名前の胸は重くなる。
「さぁ? 何を考えているのか……読めない方ですから」
今度はやわらかい声音。
結び目を整え終えると、しのぶは膝を払って立ち上がり、柔らかく微笑んだ。
「――大丈夫。心配しなくても、いずれ元通り動きます」
「貴女はまた……闘えますよ」
その声はまるで朝の光のように、静かで柔らかく部屋に溶けていく。
名前は唇を噛みしめ、ただ俯くことしかできなかった。
昨夜の激痛と共に、煉獄の顔が脳裏に浮かんだ。
現実なのか、幻なのか。
血に塗れ、泣き叫んだ自分を押さえ込んだ、その熱い眼差し――。
胸の奥に残るのは、痛みと、答えの出ない問い。
しのぶは手元の薬壺を蓋で閉じると、椅子の背に白衣をかけ直し、立ち上がった。
朝の光が障子越しに彼女の横顔を淡く照らす。
「では、私はこれで失礼しますね。しばらくは安静に」
くるりと踵を返したその時――。
「……あの」
かすれた声がしのぶの背を呼び止めた。
名前は俯いたまま、言おうかどうしようか迷い、そして漸く口を開いた。
「………できれば……あの方には、会いたくありません」
吐き出すような声。
それは恐怖とも違う。
自分を止めてくれたことへの感謝が心の底にありながら――その手段があまりに荒唐で、思い出すたびに痛みが蘇る。
そして、何よりあの瞳。
夜の闇を裂くように真っ直ぐで、決して逸らさない強さを宿していた。
なのに、不思議なほどに温かさがあった。
冷たい責めでもなく、突き放す怒りでもなく――「お前を見ている」という、揺るぎない確信の光。
あの瞳に見つめられると、どんな言葉も言い訳にできない気がした。
自分の弱さも、過ちも、逃げ場も――全てを照らし出される。
布団の端を握り締める名前をしのぶは振り返り、困ったように目を細めた。
「……それは、難しいかもしれませんね」
「……え……ど…どうして…」
「煉獄さんは、決められているみたいですから」
「――貴女を継子にすると」
淡々と告げられた一言に、名前の瞳が大きく揺れた。
布団の上で固く結ばれた指先が震える。
「継子」――その意味を理解するよりも早く、襖の外から力強い足音が近づいてくる。
ごうっと焔の気配を伴い、障子の向こうに影が差す。
次の瞬間、引き戸が勢いよく開かれた。
「おおっ! 目覚めていたか!!」
陽光のように明るい声が部屋を満たす。
炎柱――煉獄杏寿郎が、堂々と立っていた。
名前は、毎晩同じ夢を見た。
――山を覆っていた赤黒い嵐。
血と鉄の匂い。裂けた木々の呻き。
そして、月光の下で崩れ落ちる鬼の巨体。
自分達は勝った。下弦を討ったのだと――そう思った刹那。
「……ほんとに……倒しちゃったの……!?」
涙と泥に塗れながら笑う綾斗の顔。
「俺、柱になっちゃったりして……!」と、鼻水まみれで夢を語った顔。
拳を合わせ、「死なない」と笑い合った、あの瞬間。
……その次に。
背後の闇が揺れ、赤黒い閃光が走った。
「――ッ! 名前ちゃん!!!」
綾斗の絶叫。
自分を突き飛ばした温もり。
次の瞬間――胸を貫いた赤い筋繊維の槍。
「がっ……は……ッ!!」
飛び散る鮮血。
痙攣する身体。
串刺しにされたまま持ち上げられた綾斗の顔。
そして――あざ笑う鬼の目。
その光景が。
眠りに落ちたはずの夜に。
目を閉じてもなお、闇の底から蘇る。
「……あっ……あぁ……っ!!」
寝台の上で、名前は息を荒くしながら目を見開き掠れ声を漏らす。
胸が灼ける。喉がひゅうひゅうと音を立てる。
布団の上で爪が痙攣するほど強張り、視界に焼き付いた残像が消えない。
(――綾斗……!)
声にならない叫び。
何度も、何度も、同じ瞬間に引き戻される。
庇われた自分。
動けなかった足。
刺し貫かれた綾斗。
笑った鬼。
それらが、延々と繰り返し、彼女を責め続けた。
「……ぅっ!ごほ……げぇ……ッ」
込み上げるものに耐えきれず、名前は身体を折り曲げた。
胃の奥から逆流する酸が喉を焼き、吐瀉が口端から零れる。
布団に身を沈めながら、必死に喉を押さえるも、咳き込みと共に嘔吐が繰り返された。
胸は焼け付き、呼吸は乱れ、涙と唾液と吐瀉で頬がぐしゃぐしゃに濡れる。
「……なんで……なんで、あの時……!」
掠れた声で、かすかに震える。
嗚咽と共に、怒りの矛先が自分自身へと向かっていく。
「動けなかった……足が……ッ!」
己の両脚に爪を立てる。
震えながらも、その足を無理やり寝台の柵に叩きつけた。
「ッッ……ぁあああッ!」
鈍い音が響き、鈍痛が骨を震わせる。
だが、その痛みすら足りない。
彼女はなおも、痣と血で染まった足を壁に、柵に、何度もぶつけた。
「なんでッ! っ、あの時! なんで……なんで動かなかった……ッ! なんで…ッッ!!」
絶叫は掠れて喉を潰す。
だが叩きつけるたびに、胸の奥に焼き付いた光景はますます鮮烈に蘇る。
庇った綾斗の笑み。
突き刺さる赤黒い槍。
血を吹き出しながらも、自分の名を叫んだ声。
「綾斗…………!!!」
涙と嗚咽に押し潰され、名前はなおも足を叩きつけ続けた。
身体は悲鳴を上げ、包帯が裂け、血が滲む。
それでも止められなかった。
まるで自分を罰することでしか、生きている意味を見つけられないかのように。
――その時。
「御止メ下サイ名前様ッ!!」
激しい羽音と共に、寝台の上へ黒い影が舞い降りた。
名前の鎹鴉だ。
「マダ傷モ癒エ切ッテオリマセン!!ドウカ御止メ下サイ!!!」
必死の声に、名前は振り返る。涙で曇った視界に、黒い羽根が大きく広がった。
「我、貴女ノ剣ヲ知ッテオリマス!貴女ハ誇リ高キ剣士!何モ恥ジ入ル事ハ無イノデス!! 然レド今、其ノ御身ヲ砕クハ剣士ノ業ニアラズ!!」
まるで叱るように鳴き声を響かせながら、名前の前へと翼を広げ、必死にその動きを遮ろうとする。
「やめてっ!! どいて……っ!!」
「断固拒否致シマス!!名前様ガ御身ヲ滅スルヲ、我、黙シテ看過スル訳ニハ参リマセン!!」
その瞬間、ばたばたと廊下を駆ける足音が近づき――。
「――ッ! 名前さん!!」
暴れる名前の部屋に、慌ただしい足音が駆け込んだ。
蝶屋敷で看護を行うきよ、すみ、なほの三人が、悲鳴を聞いて駆けつけたのだ。
寝台の上で名前は両足を狂ったように柵へ叩きつけていた。
血が飛び散り、包帯が裂け、木の軋む音が夜を切り裂く。
「だめです! やめてくださいっ!!」
「足が……足が壊れちゃいます!!」
「お願いです、落ち着いて……っ!」
少女たちは必死に腕や足にしがみつく。
だが、重症とはいえ鬼殺隊士の力は、幼い体には重すぎた。
振り払うたびに彼女たちは転がされ、それでも涙を浮かべて立ち上がり、再び飛びついた。
「……綾斗ッ!! 待って!行かないで!! 綾斗!……綾斗……ッ!!!」
幻覚を見ているのか、少女達を突き飛ばし、名前は空に手を伸ばす。
叫びは嗚咽に濁り、掠れた声で何度も同じ名を繰り返す。
名前の爪が布団を裂き、膝が血で赤黒く染まる。
「何事ですか!?」
襖を勢いよく開け、やはり看護師の一人、アオイが駆け込んできた。
盆を手に、そこには注射器と鎮静剤が揺れていた。
「下がって! 鎮静剤を打ちます!」
三人の少女は必死に頷き、腕を押さえようと再びしがみつく。
しかし名前はなお暴れ、薬を打ち込む隙などなかった。
アオイは歯を食いしばり、針を構え直す。
(このままでは、傷も開き死んでしまう……!)
その瞬間。
襖の向こうに影が差した。
気配と共に、熱を帯びた空気が流れ込む。
現れたのは――焔色の髪を束ねた男。
煉獄杏寿郎だった。
彼は驚く四人に構わず寝台へ歩み寄る。
暴れる名前の身体へ片膝を乗せ、両の腕を右手でがっしりと押さえ込む。
「……っ!!!」
それだけで、名前の全身の力が封じられた。
まるで荒れ狂う炎が一瞬で鎮火したかのように。
三人の少女は目を丸くし、アオイは針を構えたまま呆然と息を呑んだ。
いつもお喋りな鎹鴉ですら、嘴を噤んだ。
煉獄は視線を名前から逸らさず、しかし声は落ち着いていた。
「……大丈夫だ。俺が抑えている」
その声音は熱く、それでいて不思議な安心を帯びていた。
***
「綾斗……っ! ごめん、綾斗……! 私が、あの時…!! あ、ぁぁ……うぁああ……ッ!!」
名前の目前、幻の綾斗が血に塗れたまま立っている。
その視線に追い詰められ、名前は涙で顔をくしゃくしゃにしながら絶叫する。
しかし、現実に彼女の前にいるのは煉獄杏寿郎だった。
煉獄は、焦点の合わぬ瞳で泣きじゃくる彼女をじっと見つめ、鎮静剤を打とうとするアオイを制すると彼女の吐瀉物が手を汚すのも厭わず涙と口元を拭ってやる。
「……落ち着きなさい。もう大丈夫だ」
低く、しかしはっきりとした声で言葉を投げる。
乱れる息に合わせて、背を押さえ、呼吸を導こうとする。
「君はよく戦った。……誰も、君を責めはしない」
だが名前の耳には届かない。
涙に濁った瞳は虚空を彷徨い、目の前にいない綾斗を追っている。
「……綾斗……! 置いていかないで……! お願い…っ!」
掠れた声で何度も同じ名を繰り返す。
その叫びに煉獄は歯を食いしばり、さらに強く身体を押さえた。
「聞け! 君は生きている! 君は――託されたのではないのか!!」
煉獄の声は夜を震わせるほど強く、それでいて一切の迷いを含まなかった。
しかし、その言葉すら名前の心には届かない。
「……違う……! 私じゃない…っ! 綾斗が、生きていなければ、いけなかった……っ!! 私が、役立たずだったから……! 足が…っ、あの時、足が、動かなかったから……っ!!」
うわ言のように、嗚咽と共に吐き出された叫び。
彼女の視線は現実を見ていない。
ただ幻の綾斗に縋りながら、己の足を罰するように震える声で呟き続ける。
「こんな…足……っ! こんな足、なくて……いい……ッ!!」
名前はなおも足を柵へ打ちつけようと暴れた。
きよ・すみ・なほが必死に手を伸ばすが、届かない。
鎹鴉が瞳に涙をためながら己の羽で精一杯その足を押さえようとも、あまりに非力で。
アオイの手も震え、針を構えたまま動けずにいた。
その刹那――。
「……そうか」
煉獄の双眸がぎらりと光を宿した。
名前の腕を押さえる力を更に強め、もう片方の手で彼女の右脚をがっちりと掴む。
「ならば――折ろう!」
え、と思う暇もなかった。
理解するより早く、煉獄の手に膂力が込められ、躊躇なくその関節へと全体重をかけた。
ぐぎり、と鈍い骨の軋む音。
「――――ッッッッ!!!」
目を剥いた名前の絶叫が、蝶屋敷の一室を震わせた。
背中が弓なりに反り、布団が乱れ、飛び散った血が白い布を赤黒く染める。
「「「きゃあああああっ!!!」」」
「名前様ァァーーッ!!」
三人娘と鎹鴉が、同時に悲鳴を上げた。
小さな体が震え、身を寄せ合いながらへなへなと床にへたり込む。
「れ…煉獄様!? 何を――!」
アオイもまた、鎮静剤を握った手を震わせ、蒼白な顔で叫んだ。
だが煉獄は誰の声も聞かなかった。
鎹鴉がバサバサと煉獄を咎めるように羽音を響かせ、煉獄を名前から引き離さんと叫ぶが、煉獄は動じない。
片膝で激痛に悶絶する名前の身体を押さえ、今度は彼女の左脚に手を添え、揺るがぬ声音で言い放つ。
「…これでもまだ“罰が足りぬ”と言うなら――こちらも折ってやろう」
煉獄の声は低く、刃のように鋭かった。
しかしそこに込められていたのは、決して名前を突き放す冷酷さではない。
絶望と狂乱の淵から彼女を現実へ引き戻そうとする、烈火のような決意だった。
「……っ……!」
名前の目に、涙の幕を透かして煉獄の姿が映る。
幻ではない。
血に濡れ、嗚咽で掠れた声を上げる自分を、真正面から押さえ込む現実の男。
「……私……なんか……」
掠れた声で、なおも呟こうとした瞬間――。
煉獄の声音がそれを遮った。
「黙れ」
短く、揺るぎなく。
その一言は、泣き叫ぶ少女の全てを断ち切るには充分だった。
「どれだけ己を罰しても、喪われた者は戻らない。痛みに逃げようと、何も救われはしない」
「……っ……」
「君の命は、託されたものだ。君を生かした者は…君に生きろと言わなかったか」
名前の全身から、力が抜けていく。
柵にぶつけようと振り上げていた脚は、今はただ煉獄に支えられているだけだった。
喉から搾り出された声は、もはや抵抗ではなかった。
「……っ……う…うぁああ……っ……」
途切れ途切れの嗚咽が、夜に溶ける。
頬を濡らす涙は止まらず、しかし錯乱の色は薄れていく。
煉獄は、脱力した名前の身体を抱き締めると、その耳元へと言葉を吹き込むように短く告げた。
「……君は、立派だった。これ以上、自分を責めるな」
その声音は、烈火のように強く――薪火のように温かかった。
アオイは震える手でようやく針を下ろし、きよ・すみ・なほも互いに顔を見合わせながら、小さく肩を落とす。
そして――激痛と嗚咽に揺れる名前は、とうとう限界に達し、煉獄の腕の中で鎹鴉に寄り添われ、意識を手放した。
***
翌朝――。
夜の騒乱をなかったことにするかのように、蝶屋敷の庭には静けさが広がっていた。
草木はきらきらと朝露を纏い、障子越しの光は柔らかく部屋を照らしている。
名前は、鈍い痛みに目を覚ました。
脚から伝わる熱と重み。胸の奥に残る息苦しさ。
まだ夢の続きに囚われているようで、現実に戻ることを身体が拒んでいた。
「……気がつきましたね」
澄んだ声に振り向くと、そこには椅子に腰掛けた胡蝶しのぶがいた。
白衣の袖をきちんと整え、膝の上には包帯と薬壺。
穏やかな笑みを浮かべてはいるが、その眼差しは真剣で、微かな疲労を滲ませている。
「動かないでくださいね。……少し診ますから」
布団をめくる指先は丁寧で、扱う手は驚くほど優しかった。
しのぶは膝を折り、名前の脚を持ち上げると、腫れあがった部分を慎重に押さえた。
名前が呻き声を上げ、その顔が苦痛に歪むのを確認し、彼女は小さく頷いた。
「……やはり。さすがは煉獄さん」
ぽつりと漏れたその言葉に、名前は瞬きをした。
「貴女の脚――傷の癒える時期と重なるように、実に綺麗に折れています」
驚きに目を見開く名前をよそに、しのぶは包帯を巻き直しながら柔らかな声で続けた。
「もちろん荒療治ですけれど……結果として、貴女を守る形になりました」
薬を塗り込む指先は冷たく心地よく、痛みを和らげてくれる。
その一方で、語られる言葉は優しさよりも現実を伝える冷静さを含んでいた。
「鎮静剤で眠らせるよりも、無理に押さえて傷を広げるよりも……ずっと合理的でした。――煉獄さんらしい判断ですね」
そう言って、しのぶはふっと微笑む。
からかうようでも、皮肉でもない。
「まぁ、煉獄さんにも貴女にも、色々と言いたいことは無い訳ではありませんが」と一言ちくりと添えて。
「……どうして……」
名前の喉が、かすかに震えた。
しのぶはその問いを否定も肯定もせず、ただ淡々と新しい包帯を締める。
白布が音を立てて結ばれるたび、名前の胸は重くなる。
「さぁ? 何を考えているのか……読めない方ですから」
今度はやわらかい声音。
結び目を整え終えると、しのぶは膝を払って立ち上がり、柔らかく微笑んだ。
「――大丈夫。心配しなくても、いずれ元通り動きます」
「貴女はまた……闘えますよ」
その声はまるで朝の光のように、静かで柔らかく部屋に溶けていく。
名前は唇を噛みしめ、ただ俯くことしかできなかった。
昨夜の激痛と共に、煉獄の顔が脳裏に浮かんだ。
現実なのか、幻なのか。
血に塗れ、泣き叫んだ自分を押さえ込んだ、その熱い眼差し――。
胸の奥に残るのは、痛みと、答えの出ない問い。
しのぶは手元の薬壺を蓋で閉じると、椅子の背に白衣をかけ直し、立ち上がった。
朝の光が障子越しに彼女の横顔を淡く照らす。
「では、私はこれで失礼しますね。しばらくは安静に」
くるりと踵を返したその時――。
「……あの」
かすれた声がしのぶの背を呼び止めた。
名前は俯いたまま、言おうかどうしようか迷い、そして漸く口を開いた。
「………できれば……あの方には、会いたくありません」
吐き出すような声。
それは恐怖とも違う。
自分を止めてくれたことへの感謝が心の底にありながら――その手段があまりに荒唐で、思い出すたびに痛みが蘇る。
そして、何よりあの瞳。
夜の闇を裂くように真っ直ぐで、決して逸らさない強さを宿していた。
なのに、不思議なほどに温かさがあった。
冷たい責めでもなく、突き放す怒りでもなく――「お前を見ている」という、揺るぎない確信の光。
あの瞳に見つめられると、どんな言葉も言い訳にできない気がした。
自分の弱さも、過ちも、逃げ場も――全てを照らし出される。
布団の端を握り締める名前をしのぶは振り返り、困ったように目を細めた。
「……それは、難しいかもしれませんね」
「……え……ど…どうして…」
「煉獄さんは、決められているみたいですから」
「――貴女を継子にすると」
淡々と告げられた一言に、名前の瞳が大きく揺れた。
布団の上で固く結ばれた指先が震える。
「継子」――その意味を理解するよりも早く、襖の外から力強い足音が近づいてくる。
ごうっと焔の気配を伴い、障子の向こうに影が差す。
次の瞬間、引き戸が勢いよく開かれた。
「おおっ! 目覚めていたか!!」
陽光のように明るい声が部屋を満たす。
炎柱――煉獄杏寿郎が、堂々と立っていた。