七章
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――目の前に、懐かしい光景が広がっていた。
梅が咲き誇る美しい庭。陽だまりの下。
そこには、もう二度と会えないはずの人々が揃っていた。
幼い門下生達と新一が竹刀を振り、桐子が小言を言いながら笑う。
颯太郎が「また転んだのか」と呆れた様に言いながらも手を伸ばす。
そして、母と父がその様子を優しい眼差しで見守っている。
穏やかな時間が流れるその輪の中に、綾斗がいた。
屈託なく笑い、皆と肩を並べている。
まるで昔からそこに居たかのように自然に。
「……ッ、綾斗!! みんな…!!」
名前は思わず駆け出す。
――だが、目の前に透明な壁のようなものが立ちはだかり、進めない。
何度手を叩きつけても、爪を立てても、届かない。
「綾斗!!! っ、父上!!母上……!!」
声は震え、喉は裂けそうだった。
「ごめん……ごめんなさい……! 私が……もっと強かったら……! あの夜……皆を守れたはずだった! 颯太郎さんも……父上も母上も……!……みんな、みんな……!」
「全部、私が弱かったから……!」
「ごめんなさい……ごめんなさい……!!」
涙で視界が歪む。
手のひらは血が滲むほど壁を叩きつけていた。
「綾斗まで……綾斗まで死なせて……! 私なんか庇ったせいで……!!」
「貴方には、帰らなきゃならない場所があったのに……っ!!」
叫ぶ声は嗚咽に掠れ、言葉にならなくなる。
膝が折れ、地に崩れ落ちても、必死に謝罪だけを繰り返した。
その時――。
綾斗が、こちらを振り向いた。
皆に囲まれながら、一歩前に出る。
そして――困ったように、少し寂しそうに笑った。
唇が動いた。
何かを、確かに言った。
だが、雨音のようにかき消されて、名前には聞こえない。
いくら耳を澄ませても、どれだけ叫んでも、声は届かない。
「……っ! 分からない……聞こえないよ……!」
伸ばした手は壁に阻まれ、ただ泣き崩れるしかなかった。
綾斗は一度だけ、優しい眼差しを名前に向け――そして背を向け、皆と共に光の中へと消えていく。
「…っっ、待って!!行かないで!! 置いていかないで!! お願いだから……っ!!」
「私を、一人にしないで……っ」
名前の悲痛な絶叫が、虚しく響く。
残されたのは、あの笑みと、聞き取れなかった言葉。
***
――目の端から、ひと筋の涙が流れ落ちた。
それは夢の中で泣いたままの続きのように、枕を濡らして消える。
胸の奥を締め付ける痛みが残っていて、名前は呼吸の仕方すら忘れたかのように荒く浅い息を繰り返した。
重たい瞼を震わせる。
光が差し込む。
淡く揺れる白い天井が、視界の隅にぼやけて広がっていく。
(……ここは……?)
自分がどこにいるのか分からない。
雨の匂いはしない。血の匂いも、泥の感触もない。
代わりに漂うのは薬草の香りと、柔らかすぎる布団の感触――けれどそれが現実なのか、まだ夢の続きなのか、判別できなかった。
(……生きて…る……? 夢……?)
思考が揺らぐ中、ふいに視界の端に濃い影が差した。
「――ッ」
名前の心臓が跳ね上がる。
鼻先が触れるほど近くに、誰かの顔があった。
炎のような色をした髪。
燃え立つようにまっすぐな双眸。
その眼差しは深々と名前を見据え、逃げ場を与えなかった。
喉が強張り、その双眸から目を離せない。
声を出そうとしたが、息が掠れて音にならない。
(……だれ……?)
熱い――だが、不思議な温かさを帯びた視線だった。
焔のように激しいのに、篝火のように心を照らす。
どうしてだろう……涙がまた込み上げてくる。
その顔が、ふっと笑った。
豪快で、眩しくて、陽光のように明るい笑み。
そして――。
「目覚めたか!!おはよう!!」
部屋の空気を震わせるような大音声が轟いた。
あまりの迫力に、名前は肩を跳ね上げ、息を飲んだ。
けれど、叱責でも威圧でもなかった。
朗らかで、力強くて、まるで暗闇を切り裂く朝日そのもの。
「……おは、よ………ござ…い……?」
その有無を言わせぬ迫力に、名前は頭上に『?』をいくつも浮かべながらも思わず返してしまう。
男はそんな彼女にもう一度にこりと笑うと、勢いそのままに立ち上がった。
「胡蝶!! 胡蝶!!!」
病室の外に向かって叫ぶ。
「彼女が目を覚ましたぞ!!! 胡蝶ーーッ!!!」
まるで屋敷中に轟く様な。
鼓膜が震え、胸の奥にまで響く声。
名前は布団の中で小さく身を縮めた。
(……こ、声……っ……!)
すると、すぐに襖がすっと開いた。
そこに立っていたのは、蝶の羽を思わせる羽織を纏った女性。
「……まぁ。目を覚ましたのですね、良かった」
にこやかに微笑む。
だが、そのこめかみにぴしりと青筋が浮かんでいる。
その笑顔は柔らかいのに、背筋に冷たいものが走る。
「……煉獄さん」
「なんだろうか!」
ゆっくりとした口調。にこやかに、しかし凍えるほど穏やかに。
「出てって頂けます?煉獄さんの大きな声で、彼女の傷が開きかねませんので」
「む!?それはいけないな!では俺は失礼する!!」
炎髪の男―― 煉獄杏寿郎は立ち上がると、全く悪びれることなく豪快に胸を張った。
名前は布団の中で目を瞬き、ただ呆然とそのやり取りを見つめていた。
襖に手を掛ける直前、煉獄は振り返り――眩いほどの明るい笑顔と共に、朗々と声を張り上げた。
「また来るとしよう!!」
「君のいち早い回復を願っている!!」
部屋中に響き渡る大声。
布団の中の名前はぽかんとし、蝶の羽織の女、胡蝶しのぶの微笑はますます深くなった。
そして、口元に片手を添え、針のような冷ややかな声色で言う。
「来ないでくださーい」
柔らかく、澄んだ声で。
だがその言葉の重みは氷のように冷たく。
廊下に消えていく煉獄の足音は、それでも実に晴れやかだった。
(……な…なんだったの……?)
名前はただ呆気に取られ、布団の中で硬直するしかなかった。
枕に伝う涙はまだ乾かない。
けれど、その温度だけは確かに――生きている証だった。
静かな余韻の中。
襖が閉まり、煉獄の声が遠ざかると――ようやく部屋に静寂が戻った。
その静けさが、かえって胸を締め付ける。
(……そうだ……!)
あの鬼。
どうなった?倒したのか?
村、村は――。
「――っ!」
名前は布団を払いのけ、がばりと起き上がろうとした。
だが次の瞬間、全身を灼くような激痛が襲い、息が詰まる。
「……っ……あ、うぁっ……!」
腹の傷口が裂けるように悲鳴を上げ、視界が白く瞬く。
肩から腕にかけての包帯は血で滲み、足も重りのように動かない。
布団を掴んだ指先さえ力が入らず、震えるだけだった。
それでも名前は、喉を震わせて声を絞り出す。
「お…鬼は……!? あの鬼は……!!」
掠れた声は、必死さのあまり悲鳴に近い。
どうにか身を起こそうとするが、上半身はわずかに浮いては布団へ崩れ落ちる。
まるで、自分の身体が他人のもののように動かない。
しのぶが静かに歩み寄り、名前の肩へ手を添える。
その力は強くはない。だが、不思議と抗えなかった。
「起き上がろうとしても無理ですよ。あなたは七日間眠り続けていた。その身体は……生きているのが不思議なくらいの状態ですから」
にこやかな口調。けれど言葉の奥にあるのは、紛れもない現実。
「そ、そんなこと……! 村は!? あの鬼は村に……!」
涙混じりの声で名前は食い下がる。
布団を掴む指先は白くなり、震えながらもしのぶに縋ろうと伸びた。
「……お願い……ッ!教えて、ください……ッ!」
しのぶはその手を取った。
壊れてしまいそうなほど細く冷たい指先。
「安心してください」
目を細めて、ゆっくりと頷く。
その声音は柔らかいが、はっきりとした確信を帯びていた。
「…鬼は、もういません。煉獄さんが、確かに首を斬りました」
「……煉、獄……?」
掠れた声で繰り返す。
聞き馴染みのない名。その響きを、名前はかすれた胸の奥に刻む。
しのぶは静かに視線を落とし、淡く微笑んだ。
「ええ。――先ほどまで、ここで随分と大きな声を張り上げていたでしょう?」
「彼が、炎柱。煉獄杏寿郎さんです」
炎柱。
その言葉が胸の奥に沈み込んでいく。
すぐには意味を結ばない。けれど、遠い夢の底で見たような残像が、微かに脳裏を掠めた。
――雨を裂いて現れた、燃え立つような背中。
血と泥に霞んだ視界の中、最後に映ったあの姿。
確かに、炎のように揺るがぬ気配が、鬼の首を斬り落としていた。
(……あれが……)
名を知らぬまま意識を手放した背中。
ただ一瞬、たしかに炎のように輝いていた。
名前は唇を震わせ、かすかな息を吐いた。
それ以上、言葉にはならない。
胸の奥を満たすのは、やはり失った仲間の名であり、決して戻らぬ声だったから。
しのぶは彼女の沈黙を見守るように、ただ静かに手を添えていた。
名前はかすれた息を繰り返しながら、やがてしのぶを見上げた。
唇が震え、やっとの思いで声を搾り出す。
「……ほ…ほかに……誰か……生きて……」
その問いは、祈りにも縋りにも似ていた。
けれど――しのぶは、短く首を横に振った。
「……いません。生存者は、貴女ただ一人です」
その一言で、名前の胸の奥に残っていた細い糸がぷつりと切れた。
名前の唇が震えた。
声を押し殺そうとしても、こらえきれない。
「……綾斗……っ……」
掠れた声でその名を呼ぶと同時に、堰を切ったように涙が溢れた。
胸の奥から突き上げる嗚咽が止められない。
頬を濡らす熱は次々と枕に落ち、布団をじわじわと濡らしていく。
「……あ……ぁ……綾斗……!」
何度も、何度も、名を呼ぶ。
それは呼びかけであり、縋りであり、赦しを乞うような響きだった。
(……なぜ……私だけ……)
(どうして……綾斗じゃなくて……私が……)
胸の奥に渦巻く問いは、言葉にならず、ただ嗚咽に溶けた。
頭の奥を何度も打ちつけるような激しい痛み。
息を吸うたびに腹の奥の傷が軋み、視界は涙で滲んで霞む。
「……綾斗……綾斗……っ……」
爪が布団を掴み、指先は白くなるほど強張っていた。
けれど、力はすぐに抜け、ただ震えるだけ。
吐き出される声は子どものように掠れ、脆く、壊れた。
――その瞬間。
記憶が、鮮烈に甦る。
自らの刃を、綾斗の胸にそっと沈めた感触。
雨に濡れた衣を裂き、肉を抜け、骨に触れる前の柔らかな抵抗。
そのすべてが、掌と指にまだ焼き付いている。
(……私が……っ!)
肺の奥が急に収縮した。
呼吸がうまくできない。
空気が入ってこない。
喉の奥がひゅう、と擦れる音を立てる。
(私が……殺した……!!)
肩が上下し、荒い呼吸が加速する。
胸が焼け、視界が白く揺れた。
涙と一緒に、嗚咽とも悲鳴ともつかない声が零れ続ける。
自分の呼吸の音すら恐ろしく、止めたいのに止まらない。
「……綾斗……っ……ごめんなさい……っ……!」
過呼吸に近い荒い息の合間に、ただその名を必死に呼び続ける。
赦しを乞うように、縋るように。
「……大丈夫」
その時、不意に落ちてきた声。
鈴の音のように静かで、混乱の中でも確かに聞こえる。
「ゆっくり……吸って、吐いて。……そう、焦らないで」
しのぶの手が、そっと名前の胸に添えられた。
押さえつけるのではなく、呼吸のリズムを導くように。
「吸って……吐いて。……はい、そう。上手ですよ」
その声に合わせるようにしても、すぐには呼吸は整わない。
けれど、必死に過呼吸を抑え込もうとする心臓の鼓動に、静かな声は少しずつ染み込んでいった。
泣き疲れた身体が小さく震え、ようやく名前は枯れた声で息を吐いた。
それでも涙は止まらない。
「……綾斗…ごめんなさい……」
しのぶは遮らず、ただ黙って膝をつき、名前の肩へそっと手を添える。
あたたかさも、慰めも与えない。けれど不思議と、その手は冷たさを和らげた。
やがて、落ち着いた声音で言葉を置く。
「……ここは、蝶屋敷。重傷を負った隊士が療養する場所です」
泣きじゃくる名前には、その意味がすぐには届かない。
けれど、しのぶの声は雨音のように静かに耳に沁み込んでいった。
「今は……少しでも、休まなければなりません」
しのぶは薬包を取り出し、針を用意する。
名前の細い腕を取り、淡々と告げた。
「鎮痛剤を打ちます。痛みが和らぎますよ。……眠ってくださいね」
小さな痛みと共に、薬が体内へ流れ込む。
その冷たさは、やがて全身にじんわりと広がり、重たさを増していく。
「………綾斗……ごめんなさい……ごめんなさい………」
最後の力で掠れた声を漏らし、名前の瞳はゆっくりと閉じられていった。
涙を滲ませながら、夢に縋るように眠りへ落ちていく。
しのぶはその姿をしばし見つめ、細く息を吐いた。
静かに立ち上がり、襖へ向かう。
その背後で――「綾斗」という名を呼び続けていた声は、もう聞こえなかった。
襖が閉じ、部屋に静寂が戻る。
薬草の香りと静けさだけが残り、泣き疲れた少女の寝息が淡く重なった。
***
襖が音もなく閉じられる。
静かな廊下。灯明が揺らめき、庭から虫の鳴き声が微かに響いていた。
すぐ傍に、大きな影が立っている。
「……あら、いたんですか」
しのぶが横目で見やりながら言った。声は穏やかだが、驚きはない。
煉獄杏寿郎は腕を組み、微動だにせず佇んでいた。
「気付いていただろう」
「さぁ? いつになくお静かでしたので」
しのぶは口元だけで微笑む。けれどその笑みはどこまでも淡く、目は少しも揺れていない。
わずかな沈黙ののち、しのぶが言葉を継いだ。
「……鷹司綾斗。彼女の同期だったそうですね」
煉獄の眉が僅かに動く。
しのぶは淡々と続ける。
「最終選別を共に突破し、何度も肩を並べて戦った……記録にそうあります」
煉獄はほんのわずかに目を細めた。
脳裏をよぎるのは、数か月前、柱合会議の折に名簿で目にした名。
――綾斗。確かにその名はあった。
(……あの少年か)
雨の夜に倒れていた亡骸と、記録に刻まれた名が重なり、煉獄はわずかに目を伏せた。
「彼を失ったこと。それは、彼女にとって致命的な傷になるでしょう。ましてや――あの子は、自ら刃を振るった」
静かな声。けれど、それは紛れもない現実を突きつけていた。
――鬼殺隊に身を置く者は皆、仲間を失う。
その重さに押し潰され、鬼殺隊を去る者、刀を捨てて隠となる者も少なくはなかった。
心を折られる前に、自ら命を絶つ者すらいる。
それほどまでに「喪失」は、剣士の魂を深く蝕む。
しのぶは続けて、視線を襖に向けたまま言った。
「……それにしても、不思議な子です」
「何がだ?」
「雫の呼吸。ご存じですか?」
「……聞いたことがないな」
「そうでしょうね。極めて珍しい、ほとんど途絶えかけている流派です。守りと回避に特化し、斬撃そのものの威力は乏しい……普通なら鬼と正面から渡り合うのは難しい」
煉獄は黙って耳を傾ける。
「下弦の鬼と相対し、生き残れたこと。それは……奇跡のようなものです」
灯明が揺れ、しのぶの横顔に淡い影を落とす。
その時、煉獄がはっきりと告げた。
「――あの下弦を追い詰めたのは、彼女だ」
しのぶの瞳がわずかに揺れた。
「……どういう意味です?」
煉獄は真っ直ぐな声で続けた。
「俺が到着した時、鬼の首は皮一枚で繋がっていた。両腕も失い、再生の余地もない状態だった。――つまり、あそこまで至らせたのは彼女の剣だ」
しのぶの呼吸が浅くなる。
雫の呼吸に、頸を落とすような力はない。少なくとも、彼女の知る限りは。
「……にわかには信じ難いですね」
静かな声だが、その奥に驚きが滲んでいた。
煉獄は首を振らず、ただ揺るがぬ眼差しを向ける。
「俺は見た。全身を踏み砕かれ、血と泥に沈みながらも、なお鬼の足を掴んで離さぬ姿を。……鬼は恐れていた。あれは、己の首を斬らんとする執念を抱えた者への恐怖だ」
廊下に沈黙が落ちた。
しのぶの細い指が羽織の袖口を握りしめる。
「……あの状態で、そこまで……」
彼女の言葉は、半ば独白のように掠れていた。
煉獄は小さく息を吐き、名前の眠る部屋へと目を向けると力強い声音で言い切った。
「間違いない。あの少女は、己の力で下弦の首を斬り結んだ剣士だ」
虫の声が、止んだ。
しのぶはしばし黙し、目を伏せる。
「……ですが、代償は大きい」
その声音は冷静で、感情を抑え込んでいた。
「心身ともに、限界を超えて戦った。あれほどの傷では、刀を再び握ることすら難しいかもしれません」
しのぶの睫毛がわずかに震えた。
「奇跡は、何度も起こりません」
煉獄はその言葉を遮らなかった。
その横顔は迷いを抱えながらも、決して揺らぐことのない炎のように凛としていた。
「……それでも、あの少女は立ち上がるだろう」
煉獄の声は低く、力強かった。
言葉を吐くその間も、彼の眼差しは一度も部屋の襖から外れない。
視線の先には眠る名前がいる。その存在を確かめるように、見守るように――焔の柱はただそこだけを見据えていた。
しのぶは、その横顔を一瞥した。
豪快さと真っ直ぐさを持つ炎柱が、これほどまでに一人の少女から目を離さない。
そればかりか、その瞳には常には見たことのない"熱"が篭っていた。
その事実が、彼女に小さな理解を与える。
「……なるほど」
静かな吐息と共に、しのぶが微笑んだ。
「煉獄さんが彼女の傍を離れなかった理由が、分かりました」
やわらかに言いつつも、その声音にはどこか含みがある。
煉獄は怪訝そうに眉を上げた。
「……? どういうことだ?」
ただの確信――“彼女は立ち上がる剣士だ”という思いを口にしただけ。
それ以上でも以下でもない、と煉獄は思っている。
けれどしのぶの脳裏には、鮮明に焼き付いている光景があった。
――あの夜。
土砂降りの雨の中、炎柱は両腕に瀕死の少女を抱えて蝶屋敷へ駆け込んできた。
炎の羽織は血に濡れ、少女の顔は土と赤に覆われ、脈も途絶えかけていた。
それでも煉獄杏寿郎は一歩も迷わず、声を張り上げて救護を求め、少女を差し出ししのぶに言った。
『この少女を、どうか助けてほしい』
あの必死さを、しのぶは忘れてはいない。
あれほど強く、誰かひとりを救おうとする炎柱の姿を――。
だからこそ、今もこうして彼は襖の向こうから目を逸らさないのだと、しのぶには分かっていた。
煉獄自身はまだ気づかない。
彼にとっては、ただ「剣士として信じている」という一心のはずだ。
だが、第三者の目には違って映る。
しのぶは小さく目を伏せ、ふっと笑みを深めた。
「……いえ、お気になさらず」
ひらりと踵を返す。
そのまま廊下の先へと歩きながら、誰にも聞こえぬほどの声で呟いた。
「――人の恋路に口を出しては、馬に蹴られてしまうそうですから」
襖の前に残された炎柱は、不思議そうに首を傾げただけだった。
彼はまだ、何も気づいていない。
けれどその眼差しは、夜に灯る炎のように真っ直ぐに――眠る少女の方角へと注がれ続けていた。
梅が咲き誇る美しい庭。陽だまりの下。
そこには、もう二度と会えないはずの人々が揃っていた。
幼い門下生達と新一が竹刀を振り、桐子が小言を言いながら笑う。
颯太郎が「また転んだのか」と呆れた様に言いながらも手を伸ばす。
そして、母と父がその様子を優しい眼差しで見守っている。
穏やかな時間が流れるその輪の中に、綾斗がいた。
屈託なく笑い、皆と肩を並べている。
まるで昔からそこに居たかのように自然に。
「……ッ、綾斗!! みんな…!!」
名前は思わず駆け出す。
――だが、目の前に透明な壁のようなものが立ちはだかり、進めない。
何度手を叩きつけても、爪を立てても、届かない。
「綾斗!!! っ、父上!!母上……!!」
声は震え、喉は裂けそうだった。
「ごめん……ごめんなさい……! 私が……もっと強かったら……! あの夜……皆を守れたはずだった! 颯太郎さんも……父上も母上も……!……みんな、みんな……!」
「全部、私が弱かったから……!」
「ごめんなさい……ごめんなさい……!!」
涙で視界が歪む。
手のひらは血が滲むほど壁を叩きつけていた。
「綾斗まで……綾斗まで死なせて……! 私なんか庇ったせいで……!!」
「貴方には、帰らなきゃならない場所があったのに……っ!!」
叫ぶ声は嗚咽に掠れ、言葉にならなくなる。
膝が折れ、地に崩れ落ちても、必死に謝罪だけを繰り返した。
その時――。
綾斗が、こちらを振り向いた。
皆に囲まれながら、一歩前に出る。
そして――困ったように、少し寂しそうに笑った。
唇が動いた。
何かを、確かに言った。
だが、雨音のようにかき消されて、名前には聞こえない。
いくら耳を澄ませても、どれだけ叫んでも、声は届かない。
「……っ! 分からない……聞こえないよ……!」
伸ばした手は壁に阻まれ、ただ泣き崩れるしかなかった。
綾斗は一度だけ、優しい眼差しを名前に向け――そして背を向け、皆と共に光の中へと消えていく。
「…っっ、待って!!行かないで!! 置いていかないで!! お願いだから……っ!!」
「私を、一人にしないで……っ」
名前の悲痛な絶叫が、虚しく響く。
残されたのは、あの笑みと、聞き取れなかった言葉。
***
――目の端から、ひと筋の涙が流れ落ちた。
それは夢の中で泣いたままの続きのように、枕を濡らして消える。
胸の奥を締め付ける痛みが残っていて、名前は呼吸の仕方すら忘れたかのように荒く浅い息を繰り返した。
重たい瞼を震わせる。
光が差し込む。
淡く揺れる白い天井が、視界の隅にぼやけて広がっていく。
(……ここは……?)
自分がどこにいるのか分からない。
雨の匂いはしない。血の匂いも、泥の感触もない。
代わりに漂うのは薬草の香りと、柔らかすぎる布団の感触――けれどそれが現実なのか、まだ夢の続きなのか、判別できなかった。
(……生きて…る……? 夢……?)
思考が揺らぐ中、ふいに視界の端に濃い影が差した。
「――ッ」
名前の心臓が跳ね上がる。
鼻先が触れるほど近くに、誰かの顔があった。
炎のような色をした髪。
燃え立つようにまっすぐな双眸。
その眼差しは深々と名前を見据え、逃げ場を与えなかった。
喉が強張り、その双眸から目を離せない。
声を出そうとしたが、息が掠れて音にならない。
(……だれ……?)
熱い――だが、不思議な温かさを帯びた視線だった。
焔のように激しいのに、篝火のように心を照らす。
どうしてだろう……涙がまた込み上げてくる。
その顔が、ふっと笑った。
豪快で、眩しくて、陽光のように明るい笑み。
そして――。
「目覚めたか!!おはよう!!」
部屋の空気を震わせるような大音声が轟いた。
あまりの迫力に、名前は肩を跳ね上げ、息を飲んだ。
けれど、叱責でも威圧でもなかった。
朗らかで、力強くて、まるで暗闇を切り裂く朝日そのもの。
「……おは、よ………ござ…い……?」
その有無を言わせぬ迫力に、名前は頭上に『?』をいくつも浮かべながらも思わず返してしまう。
男はそんな彼女にもう一度にこりと笑うと、勢いそのままに立ち上がった。
「胡蝶!! 胡蝶!!!」
病室の外に向かって叫ぶ。
「彼女が目を覚ましたぞ!!! 胡蝶ーーッ!!!」
まるで屋敷中に轟く様な。
鼓膜が震え、胸の奥にまで響く声。
名前は布団の中で小さく身を縮めた。
(……こ、声……っ……!)
すると、すぐに襖がすっと開いた。
そこに立っていたのは、蝶の羽を思わせる羽織を纏った女性。
「……まぁ。目を覚ましたのですね、良かった」
にこやかに微笑む。
だが、そのこめかみにぴしりと青筋が浮かんでいる。
その笑顔は柔らかいのに、背筋に冷たいものが走る。
「……煉獄さん」
「なんだろうか!」
ゆっくりとした口調。にこやかに、しかし凍えるほど穏やかに。
「出てって頂けます?煉獄さんの大きな声で、彼女の傷が開きかねませんので」
「む!?それはいけないな!では俺は失礼する!!」
炎髪の男―― 煉獄杏寿郎は立ち上がると、全く悪びれることなく豪快に胸を張った。
名前は布団の中で目を瞬き、ただ呆然とそのやり取りを見つめていた。
襖に手を掛ける直前、煉獄は振り返り――眩いほどの明るい笑顔と共に、朗々と声を張り上げた。
「また来るとしよう!!」
「君のいち早い回復を願っている!!」
部屋中に響き渡る大声。
布団の中の名前はぽかんとし、蝶の羽織の女、胡蝶しのぶの微笑はますます深くなった。
そして、口元に片手を添え、針のような冷ややかな声色で言う。
「来ないでくださーい」
柔らかく、澄んだ声で。
だがその言葉の重みは氷のように冷たく。
廊下に消えていく煉獄の足音は、それでも実に晴れやかだった。
(……な…なんだったの……?)
名前はただ呆気に取られ、布団の中で硬直するしかなかった。
枕に伝う涙はまだ乾かない。
けれど、その温度だけは確かに――生きている証だった。
静かな余韻の中。
襖が閉まり、煉獄の声が遠ざかると――ようやく部屋に静寂が戻った。
その静けさが、かえって胸を締め付ける。
(……そうだ……!)
あの鬼。
どうなった?倒したのか?
村、村は――。
「――っ!」
名前は布団を払いのけ、がばりと起き上がろうとした。
だが次の瞬間、全身を灼くような激痛が襲い、息が詰まる。
「……っ……あ、うぁっ……!」
腹の傷口が裂けるように悲鳴を上げ、視界が白く瞬く。
肩から腕にかけての包帯は血で滲み、足も重りのように動かない。
布団を掴んだ指先さえ力が入らず、震えるだけだった。
それでも名前は、喉を震わせて声を絞り出す。
「お…鬼は……!? あの鬼は……!!」
掠れた声は、必死さのあまり悲鳴に近い。
どうにか身を起こそうとするが、上半身はわずかに浮いては布団へ崩れ落ちる。
まるで、自分の身体が他人のもののように動かない。
しのぶが静かに歩み寄り、名前の肩へ手を添える。
その力は強くはない。だが、不思議と抗えなかった。
「起き上がろうとしても無理ですよ。あなたは七日間眠り続けていた。その身体は……生きているのが不思議なくらいの状態ですから」
にこやかな口調。けれど言葉の奥にあるのは、紛れもない現実。
「そ、そんなこと……! 村は!? あの鬼は村に……!」
涙混じりの声で名前は食い下がる。
布団を掴む指先は白くなり、震えながらもしのぶに縋ろうと伸びた。
「……お願い……ッ!教えて、ください……ッ!」
しのぶはその手を取った。
壊れてしまいそうなほど細く冷たい指先。
「安心してください」
目を細めて、ゆっくりと頷く。
その声音は柔らかいが、はっきりとした確信を帯びていた。
「…鬼は、もういません。煉獄さんが、確かに首を斬りました」
「……煉、獄……?」
掠れた声で繰り返す。
聞き馴染みのない名。その響きを、名前はかすれた胸の奥に刻む。
しのぶは静かに視線を落とし、淡く微笑んだ。
「ええ。――先ほどまで、ここで随分と大きな声を張り上げていたでしょう?」
「彼が、炎柱。煉獄杏寿郎さんです」
炎柱。
その言葉が胸の奥に沈み込んでいく。
すぐには意味を結ばない。けれど、遠い夢の底で見たような残像が、微かに脳裏を掠めた。
――雨を裂いて現れた、燃え立つような背中。
血と泥に霞んだ視界の中、最後に映ったあの姿。
確かに、炎のように揺るがぬ気配が、鬼の首を斬り落としていた。
(……あれが……)
名を知らぬまま意識を手放した背中。
ただ一瞬、たしかに炎のように輝いていた。
名前は唇を震わせ、かすかな息を吐いた。
それ以上、言葉にはならない。
胸の奥を満たすのは、やはり失った仲間の名であり、決して戻らぬ声だったから。
しのぶは彼女の沈黙を見守るように、ただ静かに手を添えていた。
名前はかすれた息を繰り返しながら、やがてしのぶを見上げた。
唇が震え、やっとの思いで声を搾り出す。
「……ほ…ほかに……誰か……生きて……」
その問いは、祈りにも縋りにも似ていた。
けれど――しのぶは、短く首を横に振った。
「……いません。生存者は、貴女ただ一人です」
その一言で、名前の胸の奥に残っていた細い糸がぷつりと切れた。
名前の唇が震えた。
声を押し殺そうとしても、こらえきれない。
「……綾斗……っ……」
掠れた声でその名を呼ぶと同時に、堰を切ったように涙が溢れた。
胸の奥から突き上げる嗚咽が止められない。
頬を濡らす熱は次々と枕に落ち、布団をじわじわと濡らしていく。
「……あ……ぁ……綾斗……!」
何度も、何度も、名を呼ぶ。
それは呼びかけであり、縋りであり、赦しを乞うような響きだった。
(……なぜ……私だけ……)
(どうして……綾斗じゃなくて……私が……)
胸の奥に渦巻く問いは、言葉にならず、ただ嗚咽に溶けた。
頭の奥を何度も打ちつけるような激しい痛み。
息を吸うたびに腹の奥の傷が軋み、視界は涙で滲んで霞む。
「……綾斗……綾斗……っ……」
爪が布団を掴み、指先は白くなるほど強張っていた。
けれど、力はすぐに抜け、ただ震えるだけ。
吐き出される声は子どものように掠れ、脆く、壊れた。
――その瞬間。
記憶が、鮮烈に甦る。
自らの刃を、綾斗の胸にそっと沈めた感触。
雨に濡れた衣を裂き、肉を抜け、骨に触れる前の柔らかな抵抗。
そのすべてが、掌と指にまだ焼き付いている。
(……私が……っ!)
肺の奥が急に収縮した。
呼吸がうまくできない。
空気が入ってこない。
喉の奥がひゅう、と擦れる音を立てる。
(私が……殺した……!!)
肩が上下し、荒い呼吸が加速する。
胸が焼け、視界が白く揺れた。
涙と一緒に、嗚咽とも悲鳴ともつかない声が零れ続ける。
自分の呼吸の音すら恐ろしく、止めたいのに止まらない。
「……綾斗……っ……ごめんなさい……っ……!」
過呼吸に近い荒い息の合間に、ただその名を必死に呼び続ける。
赦しを乞うように、縋るように。
「……大丈夫」
その時、不意に落ちてきた声。
鈴の音のように静かで、混乱の中でも確かに聞こえる。
「ゆっくり……吸って、吐いて。……そう、焦らないで」
しのぶの手が、そっと名前の胸に添えられた。
押さえつけるのではなく、呼吸のリズムを導くように。
「吸って……吐いて。……はい、そう。上手ですよ」
その声に合わせるようにしても、すぐには呼吸は整わない。
けれど、必死に過呼吸を抑え込もうとする心臓の鼓動に、静かな声は少しずつ染み込んでいった。
泣き疲れた身体が小さく震え、ようやく名前は枯れた声で息を吐いた。
それでも涙は止まらない。
「……綾斗…ごめんなさい……」
しのぶは遮らず、ただ黙って膝をつき、名前の肩へそっと手を添える。
あたたかさも、慰めも与えない。けれど不思議と、その手は冷たさを和らげた。
やがて、落ち着いた声音で言葉を置く。
「……ここは、蝶屋敷。重傷を負った隊士が療養する場所です」
泣きじゃくる名前には、その意味がすぐには届かない。
けれど、しのぶの声は雨音のように静かに耳に沁み込んでいった。
「今は……少しでも、休まなければなりません」
しのぶは薬包を取り出し、針を用意する。
名前の細い腕を取り、淡々と告げた。
「鎮痛剤を打ちます。痛みが和らぎますよ。……眠ってくださいね」
小さな痛みと共に、薬が体内へ流れ込む。
その冷たさは、やがて全身にじんわりと広がり、重たさを増していく。
「………綾斗……ごめんなさい……ごめんなさい………」
最後の力で掠れた声を漏らし、名前の瞳はゆっくりと閉じられていった。
涙を滲ませながら、夢に縋るように眠りへ落ちていく。
しのぶはその姿をしばし見つめ、細く息を吐いた。
静かに立ち上がり、襖へ向かう。
その背後で――「綾斗」という名を呼び続けていた声は、もう聞こえなかった。
襖が閉じ、部屋に静寂が戻る。
薬草の香りと静けさだけが残り、泣き疲れた少女の寝息が淡く重なった。
***
襖が音もなく閉じられる。
静かな廊下。灯明が揺らめき、庭から虫の鳴き声が微かに響いていた。
すぐ傍に、大きな影が立っている。
「……あら、いたんですか」
しのぶが横目で見やりながら言った。声は穏やかだが、驚きはない。
煉獄杏寿郎は腕を組み、微動だにせず佇んでいた。
「気付いていただろう」
「さぁ? いつになくお静かでしたので」
しのぶは口元だけで微笑む。けれどその笑みはどこまでも淡く、目は少しも揺れていない。
わずかな沈黙ののち、しのぶが言葉を継いだ。
「……鷹司綾斗。彼女の同期だったそうですね」
煉獄の眉が僅かに動く。
しのぶは淡々と続ける。
「最終選別を共に突破し、何度も肩を並べて戦った……記録にそうあります」
煉獄はほんのわずかに目を細めた。
脳裏をよぎるのは、数か月前、柱合会議の折に名簿で目にした名。
――綾斗。確かにその名はあった。
(……あの少年か)
雨の夜に倒れていた亡骸と、記録に刻まれた名が重なり、煉獄はわずかに目を伏せた。
「彼を失ったこと。それは、彼女にとって致命的な傷になるでしょう。ましてや――あの子は、自ら刃を振るった」
静かな声。けれど、それは紛れもない現実を突きつけていた。
――鬼殺隊に身を置く者は皆、仲間を失う。
その重さに押し潰され、鬼殺隊を去る者、刀を捨てて隠となる者も少なくはなかった。
心を折られる前に、自ら命を絶つ者すらいる。
それほどまでに「喪失」は、剣士の魂を深く蝕む。
しのぶは続けて、視線を襖に向けたまま言った。
「……それにしても、不思議な子です」
「何がだ?」
「雫の呼吸。ご存じですか?」
「……聞いたことがないな」
「そうでしょうね。極めて珍しい、ほとんど途絶えかけている流派です。守りと回避に特化し、斬撃そのものの威力は乏しい……普通なら鬼と正面から渡り合うのは難しい」
煉獄は黙って耳を傾ける。
「下弦の鬼と相対し、生き残れたこと。それは……奇跡のようなものです」
灯明が揺れ、しのぶの横顔に淡い影を落とす。
その時、煉獄がはっきりと告げた。
「――あの下弦を追い詰めたのは、彼女だ」
しのぶの瞳がわずかに揺れた。
「……どういう意味です?」
煉獄は真っ直ぐな声で続けた。
「俺が到着した時、鬼の首は皮一枚で繋がっていた。両腕も失い、再生の余地もない状態だった。――つまり、あそこまで至らせたのは彼女の剣だ」
しのぶの呼吸が浅くなる。
雫の呼吸に、頸を落とすような力はない。少なくとも、彼女の知る限りは。
「……にわかには信じ難いですね」
静かな声だが、その奥に驚きが滲んでいた。
煉獄は首を振らず、ただ揺るがぬ眼差しを向ける。
「俺は見た。全身を踏み砕かれ、血と泥に沈みながらも、なお鬼の足を掴んで離さぬ姿を。……鬼は恐れていた。あれは、己の首を斬らんとする執念を抱えた者への恐怖だ」
廊下に沈黙が落ちた。
しのぶの細い指が羽織の袖口を握りしめる。
「……あの状態で、そこまで……」
彼女の言葉は、半ば独白のように掠れていた。
煉獄は小さく息を吐き、名前の眠る部屋へと目を向けると力強い声音で言い切った。
「間違いない。あの少女は、己の力で下弦の首を斬り結んだ剣士だ」
虫の声が、止んだ。
しのぶはしばし黙し、目を伏せる。
「……ですが、代償は大きい」
その声音は冷静で、感情を抑え込んでいた。
「心身ともに、限界を超えて戦った。あれほどの傷では、刀を再び握ることすら難しいかもしれません」
しのぶの睫毛がわずかに震えた。
「奇跡は、何度も起こりません」
煉獄はその言葉を遮らなかった。
その横顔は迷いを抱えながらも、決して揺らぐことのない炎のように凛としていた。
「……それでも、あの少女は立ち上がるだろう」
煉獄の声は低く、力強かった。
言葉を吐くその間も、彼の眼差しは一度も部屋の襖から外れない。
視線の先には眠る名前がいる。その存在を確かめるように、見守るように――焔の柱はただそこだけを見据えていた。
しのぶは、その横顔を一瞥した。
豪快さと真っ直ぐさを持つ炎柱が、これほどまでに一人の少女から目を離さない。
そればかりか、その瞳には常には見たことのない"熱"が篭っていた。
その事実が、彼女に小さな理解を与える。
「……なるほど」
静かな吐息と共に、しのぶが微笑んだ。
「煉獄さんが彼女の傍を離れなかった理由が、分かりました」
やわらかに言いつつも、その声音にはどこか含みがある。
煉獄は怪訝そうに眉を上げた。
「……? どういうことだ?」
ただの確信――“彼女は立ち上がる剣士だ”という思いを口にしただけ。
それ以上でも以下でもない、と煉獄は思っている。
けれどしのぶの脳裏には、鮮明に焼き付いている光景があった。
――あの夜。
土砂降りの雨の中、炎柱は両腕に瀕死の少女を抱えて蝶屋敷へ駆け込んできた。
炎の羽織は血に濡れ、少女の顔は土と赤に覆われ、脈も途絶えかけていた。
それでも煉獄杏寿郎は一歩も迷わず、声を張り上げて救護を求め、少女を差し出ししのぶに言った。
『この少女を、どうか助けてほしい』
あの必死さを、しのぶは忘れてはいない。
あれほど強く、誰かひとりを救おうとする炎柱の姿を――。
だからこそ、今もこうして彼は襖の向こうから目を逸らさないのだと、しのぶには分かっていた。
煉獄自身はまだ気づかない。
彼にとっては、ただ「剣士として信じている」という一心のはずだ。
だが、第三者の目には違って映る。
しのぶは小さく目を伏せ、ふっと笑みを深めた。
「……いえ、お気になさらず」
ひらりと踵を返す。
そのまま廊下の先へと歩きながら、誰にも聞こえぬほどの声で呟いた。
「――人の恋路に口を出しては、馬に蹴られてしまうそうですから」
襖の前に残された炎柱は、不思議そうに首を傾げただけだった。
彼はまだ、何も気づいていない。
けれどその眼差しは、夜に灯る炎のように真っ直ぐに――眠る少女の方角へと注がれ続けていた。