六章
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名前は刀を引き抜く勢いのまま膝をつき、腹を押さえながら地を這うように綾斗のもとへ身を引きずった。
濡れた草に手のひらが滑り、爪が土をえぐる。呼吸が切れ切れに鳴り、胸の奥が焼ける。
それでも止まらない。
「……綾斗……!」
崩れ落ちた綾斗の胸には、赤黒い穴。脈打つはずの場所が、何度見ても空ろで、濁った泡が口端に細かく弾けては消える。
「……お、れ……まだ……死ね……ない……」
焦点の合わない目が夜空を彷徨い、掠れた声が震えた。
「……死にたく、ない……あいつら……に……腹、いっぱい……」
「…っ」
胸が軋む。名前は血で滑る手で綾斗の頬に触れ、震える指を必死に止めた。
どこからか、ぽつりと冷たい雫が落ちる。
夜空を覆う雲から、やがて細かな雨が降り始め、血の匂いを濡らし、谷を静かに洗い流していく。
「死なせないっ!絶対……!だから、今はっ…喋らないで……!」
彼女は刀を抜き直し、震える手で柄を構える。
(落ち着け、落ち着け…!! 落ち着いて、大丈夫、大丈夫だ。 綾斗は、死なない…っ!)
深く息を吸い込み、肺の底まで呼吸を澄ませ――。
「《雫の呼吸・伍ノ型 澄み守り》」
静かな風が、刀身を中心に波紋のように広がる。水面に広がる輪のように透き通った気配が綾斗の胸を覆い、血の流れを抑え込む。刃先が震え、そこから生じる微かな圧が綾斗の体へと注ぎ込まれていく。
「……っ、は……ぁ……」
だが綾斗の身体がびくりと震え、荒い呼吸が逆流した。胸郭が痙攣し、喉から苦悶の声が漏れる。
「ぐ……ッ、ごふっ……ぁ、ぐあ、あ…ッ!」
(――駄目……! 深い……傷が深すぎる……)
澄み守りは応急の祈り。浅い出血を鎮め、痛みを散らすための薄い水衣。
心臓を貫く致命には、あまりにも非力だ。薄膜は止血の代わりに血の逃げ場を失わせ、呼吸を乱し、痛みを凝縮してしまう。
「あ、あぁっ……ごめん……っ、ごめんなさい……! 綾斗……苦しませてっ……私のせいで……!」
ぽつり、ぽつり。
雨粒が名前の肩を濡らし、綾斗の血に混ざって地を叩く。
やがてそれは止めどなく降り注ぎ、涙と血と雨が区別のつかないほどに頬を濡らした。
「……優し、…なぁ…… 名前、ちゃん……」
綾斗の手が、弱々しく彼女の袖を掴んだ。掠れた声は、雨にかき消されそうになりながらも確かに言葉を紡ぐ。
血の泡が言葉を途切れさせる。震える口端が、どうにか笑みに形を結ぶ。
「……ごめ……俺… 名前…ちゃん…困、らせて、ばっ…かで……」
「しゃ、喋らないで……! お願い……!」
「……もう、一、つ……困らせ、て……い、…かな……」
焦点の合わない瞳が、やっと名前を見つけた。
掠れた声が、痛みを噛み砕くように続く。
「……このまま……だと……俺……怖い……こわいんだ……」
短い息が喉で折れ、細い声が滲む。
「……ねぇ…… 名前ちゃん……お願、い……」
ひゅっと息を呑み、名前の手が止まった。喉の奥で何かが崩れ落ちる音がする。首を横に振るだけで、腹の傷が灼けて視界が白む。
「……いや……いやだ……そんなの、できるわけ……」
「……たすけ……て……」
懇願は、うわ言のように掠れて、それでもはっきりと重かった。
「……楽に……して……」
「……俺……もう……痛い、の……嫌……だ……」
震える指が、名前の袖を摘む。爪の先が、かすかに布を引いた。
雨が、強くなる。
夜の朝霧山は静まり返り、ただ雨音と嗚咽だけが響いていた。
名前は唇を噛み切り、血の味で口内が痺れる。目の前の綾斗の震え、逃げ場を失った痛み、潰れた呼吸。
(……助からない。分かってる。分かっているのに――)
「ぁ……あああ……ごめん……ごめんなさい……」
頬を伝う涙が止まらない。指が震え、柄へ伸びかけて、止まる。もう一度、綾斗の顔を見る。泣き笑いの面影。拳を合わせた温度。あの「死なない」という約束が、「一緒に柱になる」という誓いが、胸を抉る。
綾斗は、かすかに頷いた。安堵にも似た、幼い子のような、甘える仕草で。
「……たの……む…… 名前…ちゃん……」
名前の手が、綾斗の震える指を包んだ。
雨に濡れ、血に濡れ、もう温度さえ分からない。
(……助けたい……でも、もう……)
涙で視界が滲み、息が震える。
喉の奥から嗚咽が零れそうになるのを、必死に飲み込んだ。
「……分かっ…た……」
かすれる声で囁く。
「……もう…苦しませない……」
その瞬間、名前の中に――確かに「何か」が流れ込んだ。
型には存在しないはずの型。
だが、血と雨と涙の中で、まるで誰かに導かれるように、彼女の呼吸は形を結んでいく。
《雫の呼吸・捌ノ型》
――《春焦がるる、綾雨(あやめ)》
刃が静かに揺れ、雨粒を抱き込む。
振り下ろされたのは斬撃ではなかった。
まるで滴が零れるように柔らかく、綾斗の胸へと降り注ぐ。
水の膜が覆い、苦悶を鎮める。
痛みをそっと撫でて奪うように――。
そして――綾斗は、夢を見た。
◆
柔らかな朝の光。
土の匂いと、見慣れた家の縁側。
沈丁花の花が咲き誇り、空には燕が飛んでいる。
「兄ちゃんだ!」
「兄ちゃん帰ってきた!」
「おかえりなさい!」
幼い弟妹たちが駆け寄ってくる。
泥だらけの小さな足。弾ける笑顔。
彼らの声が、胸を温かく満たしていく。
綾斗は笑っていた。
もう、血も痛みもなかった。
自分の身体は軽く、誇らしさで胸がいっぱいだった。
両腕を広げ、子どもたちを抱きしめる。
弟妹たちがその胸に飛び込み、涙を滲ませながら笑う。
「すごい剣士になったんだね、兄ちゃん!」
「悪い鬼なんか、みんなやっつけちゃうんだよね!」
「兄ちゃんは、自慢の兄ちゃんだよ!」
綾斗は強く抱きしめ返す。
――決して離さないと、何度も何度も心で繰り返しながら。
◆
雨が優しく降り注ぐ中。
名前の刃は、綾斗を静かに包み、彼の痛みを完全に解き放った。
その顔には、苦悶ではなく――微笑が残っていた。
綾斗の瞳がふと揺れた。
血に濡れた唇が、かすかに震える。
「……ただ……ま……兄、ちゃ……今……帰っ…………」
その声は雨に溶け、途切れて――。
そして、力なく彼の手が落ちた。
名前は震える両手でその頬を支え、崩れ落ちた。
雨音に混じり、少女の慟哭が谷を震わせる。
血と涙と雨が混ざり合い、もう何が頬を濡らしているのかも分からない。
ただ――愛しい仲間の名を呼び、声が掠れるまで泣き叫ぶしかなかった。
***
雨脚はなお強くなる。
朝霧山に響くのは、土を叩く雨音と、名前の荒い息だけだった。
綾斗の体は、もう二度と動かない。
その頬に触れていた手が震え、指先から熱が抜けていくのを、名前はただ呆然と見ていた。
(……綾斗……)
声にならない声が喉で潰れた。
だが――。
重苦しい空気を切り裂くように、ぬらりと蠢く影。
地に転がったはずの巨体が、まだ僅かに動いていた。
「……が……はぁ……」
赤黒い頸は、ほとんど断たれていた。
皮一枚と、わずかに絡まる筋繊維だけで辛うじて繋がっている。
もはや両腕もない。再生もない。
それでも鬼は――足を引きずり、前へ。
(……あいつ……まだ、生きて……!?)
名前の瞳が大きく揺れる。
今すぐ立ち上がって首を断ち切らねば――そう分かっている。
だが、膝は折れたまま動かない。
腹を抉られ、血に濡れた足も腕も力を失っている。
「……ぐぅ……っ……!」
それでも名前は、泥を這った。
血塗れの指先で土を掴み、日輪刀を杖にして、ただ這う。
喉は潰れ、呼吸は荒れ、肺の奥に血が逆流しても止まらない。
鬼は顔を上げた。
その目の先――闇の向こうに灯る、人里の明かり。
「……あれは……人間の…村かァ……」
血に濡れた口端が、歪んで吊り上がった。
嗄れた声が、愉悦と渇望を含んで漏れる。
「ツイてる…ぜ……喰えば……喰いさえ、すれば……!」
名前の胸が凍りついた。
朝霧山の麓――故郷。
追放された村。
今もなお、記憶の中に生きる人々。
(――っ…あいつ……まさか…まさか……っ!!)
雨に煙る稲の穂波、夏は蛍が舞い、冬は白雪に覆われる清らかな里。
川辺には子供たちの笑い声が響き、縁日の夜には灯籠の火が流れる。
母に手を引かれて市に立ち、村人と交わした挨拶。
剣を握る前の幼き日々、どこまでも懐かしい光景が胸裏をよぎる。
そして、あそこには、『彼ら』がいる。
『名前様は、そんなことしない!』
あの悲劇の夜の明けた朝、ただひとり自分を庇い、涙を流してくれた少女・市の姿。
あの時の、市の震える声が蘇る。
震えながら、必死に訴えてくれた。
さらに、かつての婚約者――朝霧颯太郎の両親の顔。
『お前が颯太郎を殺したんだろう!』と罵倒され、嫌悪の視線を浴びた。
だが、それでも。
あの村は、大切な場所だ。
誰一人、喰わせてなるものか。
「……ッ…!」
鬼の足首に、名前の手が伸びた。
爪の剥がれた指先で、血と泥まみれの足を掴む。
滑っても、食い込ませる。
鬼の進行を止めるように――必死に。
「ッテメェ……まだ…生きてやがったのか……!」
鬼は、血に濡れた顔を歪めた。
ただひたすらに、「喰らう」ことだけに執念を燃やし、足を引きずる。
「……どけェェ……ッッ!!」
その足首に絡みつく名前の指。
泥に沈み、血が爪の隙間から溢れる。
それでも離さない。
「ッ……!」
鬼は苛立ちと焦りに駆られ、全体重を乗せて名前を踏み潰した。
ぐしゃりと、骨が軋み、名前の身体が泥に叩きつけられる。
喉から鮮血が迸った。
「ぐっ……がぁッ!!」
視界は赤黒く揺れ、雨粒と血と泥が混ざって流れ落ちる。
それでも――手は離さない。
「邪魔だッ!! 離せェェェ!!!」
鬼の咆哮が山を揺らす。
必死の足掻き。
再生は叶わずとも、喰えば生き延びられる――その一心。
鬼はなお足を振り上げ、名前の背を何度も叩きつけた。
泥が跳ね、肋骨が悲鳴を上げる。
名前の呼吸は途切れ途切れになり、もはやまともに声すら出ない。
(もう、立てない……っ、せめて…っ! 朝まで、絶対に……離さないっ……!!)
震える指先に、全てを込めて。
涙に濡れながらも睨みつけるその瞳は、血で霞んでもなお、揺らがない。
「……っ……行かせ……ない…!!」
鬼の心臓が凍りついた。
その眼差しに、本能が恐怖した。
「――ッ!! 離せェ! 離せ離せ離せェェ!!!」
狂った様な叫びと共に、鬼の足が名前の背に、頭に、振り落とされる。
何度も、何度も、何度も何度も。
涙が、ぼろぼろと零れた。
嗚咽のような声が喉から洩れる。
(……誰か……)
必死にしがみつきながら、心の底から絞り出された祈り。
(……お願い……誰か……助けて……っ)
「……クソがァァァァッ!!!」
焦燥に駆られた鬼が、さらに渾身の力で踏み潰そうとした――
その瞬間。
空気が、裂けた。
雨を弾き飛ばすような熱が、大地を奔る。
「――炎の呼吸・壱ノ型《不知火》!!!」
轟火の如き斬撃が夜を貫き、鬼の頸を断ち切った。
抵抗も叫びも許されず――赤黒い首が、泥に転がり落ちる。
名前の前に、雨を切り裂くように立つ影。
燃え立つ鬣。
濡れても消えぬ、烈火の気配。
――炎柱・煉獄杏寿郎。
「……っ……」
声にならない声が名前の喉から洩れた。
その瞳に、炎のように揺るがぬ背中を映し―― 名前の意識は、闇に沈んだ。
***
雨はなお降り続いていた。
斬り落とされた鬼の首は、泥に沈み、赤黒い泡を幾つか弾ませてから――やがて、灰のように崩れ始める。胴も同じく崩れ、雨に溶けて消えていった。
煉獄杏寿郎は一度だけ周囲を見渡した。
倒れ伏す少年の亡骸、長谷と榊の変わり果てた姿。血と泥、砕けた岩。夜の湿った匂い。
ただ一目で、ここに至るまでの全てを理解する。
「……よくやった」
誰にともなく、低く呟く。肩の力は抜かれず、瞳はまっすぐだが、その声音には確かな敬意が宿っていた。
彼はまず、綾斗の傍らに膝をつき、濡れた前髪をそっと払う。
両のまぶたを指先で閉じ、合掌した。雨脚が少しだけ弱まったように錯覚するほど、丁寧で静かな所作だった。
次いで、ぬかるみに半ば埋もれる名前へ。
少女の血まみれの手は、爪が剥がれ、掌の筋肉は露出し、掴んだ形のまま硬直している。
あの足を、あの悪鬼を、最後まで離さなかった手だ。
煉獄はその手に、自分の手をそっと添えた。
掌は熱い。だがその熱は荒れ狂う炎ではない。薪火が夜の寒さを追い払うような、安らぎの温度だった。
「見事だ」
短く、それだけを言う。
胸から腹にかけて広がる抉れ傷、肩口と腿の深い裂傷、踏み砕かれた背。呼吸は浅く、唇は紫がかっている。常の処置では間に合わない出血だと、瞬時に判断する。
煉獄は己の羽織を外し、名前の体幹に巻き付けるように抱え、圧迫止血をかける。
同時に懐の薬包を裂き、手早く布を詰め、帯で固定する。
そのまま頬に耳を寄せ、口元に手をかざし、呼吸を確かめ――次に、首筋へ二指を這わせて脈を探った。
「……薄い」
一拍、二拍――途切れる。
雨音の合間に、生命の鼓動が見え隠れする。
煉獄は即座に名前の体位を整え、泥の少ない地面へと上体を引き寄せると、両手を胸の中央に重ねた。
肘は真っ直ぐ、肩の真下に手を置き、一定の深さで、一定の速さで――胸郭が沈み、戻る、その律動を寸分違わず刻む。
「……戻ってこい」
呼びかけは短く低い。
圧迫の合間に名前の頭部をそっと後屈させ、顎を上げ、口を密着させて息を吹き込む。
冷え切った肺へ、仄かな熱を送り込むように。二度、丁寧に。
再び圧迫。
雨が肩を叩き、手のひらから伝わる胸骨の感触が、確かに深く沈むたび、少しずつ戻る。
数巡目――。
「……よし。良い子だ」
ほんの僅か、喉の奥で湿った空気が震え、弱い吐息が彼の頬を掠めた。
首筋の指先に、消え入りそうだった鼓動が戻る。間隔は乱れている。だが、確かにある。
煉獄はもう一度だけ呼気を送り、圧迫を数回重ね、呼吸と脈の再開を確認すると、押さえていた腹の圧迫を増し、止血布の位置を微調整した。
炎の呼吸でわずかに体温を高め、雨に奪われた熱を補うように身を寄せる。
耳元で、はっきりと告げる。
「君を決して、死なせない」
命令でも願いでもない。揺るぎない約束の声。
「カァァ! カァァ!」
頭上で鎹鴉が輪を描く。煉獄は仰ぎ見ずに言った。
「伝令だ。ここは朝霧山北東、下弦の参を討伐。確認できる死者は三名……他にもいるやもしれん。負傷者は一名、重篤。俺が蝶屋敷まで運ぶ。道は悪い、担架と人手を増やせ――急げ」
鴉は力強く一声鳴き、雨を切って飛び去る。
煉獄は再び脈を取り、胸と腹の上下動を見極める。
息は浅い。だが律は先ほどより整い、頬に触れる生温い吐息が、確かに命の気配を伝えていた。
「……ひとりで、よくここまでやり遂げた」
彼は片腕で名前を抱え上げ、崩落した岩の陰――雨をわずかに避けられる場所へと移す。
濡れた草を払い、冷えきった少女の身体へ、自身の体温を分けるように抱き寄せる。
「俺は君を、尊敬する」
静かな夜の底に、はっきりと届く声で言葉を重ねる。
「もう安心して良い、君の勝利だ。あとは、俺たちが引き受ける」
遠く、雨音の向こうで人の気配が近づき始めた。
谷を上る足音、木々をかき分ける声。救援の灯が、夜の底にひとつ、ふたつと灯っていく。
それを確認し、煉獄は名前を抱き上げ、濡れた髪を払った。
瞼は閉じられ、唇は青ざめている。だがその脈は――確かに打っていた。
彼女の背を支える腕に力を込める。
「…君の名が知りたい。君が目を覚ましたその時に――教えてほしい」
雨脚を割り、炎の柱は踏み出す。
鬼の灰を背に、仲間の亡骸を胸に刻み、そして――腕に抱いた少女の命を必ず繋ぐと、烈火のように誓いながら。
それが、名前と煉獄杏寿郎の、最初の出会いだった。
終。
濡れた草に手のひらが滑り、爪が土をえぐる。呼吸が切れ切れに鳴り、胸の奥が焼ける。
それでも止まらない。
「……綾斗……!」
崩れ落ちた綾斗の胸には、赤黒い穴。脈打つはずの場所が、何度見ても空ろで、濁った泡が口端に細かく弾けては消える。
「……お、れ……まだ……死ね……ない……」
焦点の合わない目が夜空を彷徨い、掠れた声が震えた。
「……死にたく、ない……あいつら……に……腹、いっぱい……」
「…っ」
胸が軋む。名前は血で滑る手で綾斗の頬に触れ、震える指を必死に止めた。
どこからか、ぽつりと冷たい雫が落ちる。
夜空を覆う雲から、やがて細かな雨が降り始め、血の匂いを濡らし、谷を静かに洗い流していく。
「死なせないっ!絶対……!だから、今はっ…喋らないで……!」
彼女は刀を抜き直し、震える手で柄を構える。
(落ち着け、落ち着け…!! 落ち着いて、大丈夫、大丈夫だ。 綾斗は、死なない…っ!)
深く息を吸い込み、肺の底まで呼吸を澄ませ――。
「《雫の呼吸・伍ノ型 澄み守り》」
静かな風が、刀身を中心に波紋のように広がる。水面に広がる輪のように透き通った気配が綾斗の胸を覆い、血の流れを抑え込む。刃先が震え、そこから生じる微かな圧が綾斗の体へと注ぎ込まれていく。
「……っ、は……ぁ……」
だが綾斗の身体がびくりと震え、荒い呼吸が逆流した。胸郭が痙攣し、喉から苦悶の声が漏れる。
「ぐ……ッ、ごふっ……ぁ、ぐあ、あ…ッ!」
(――駄目……! 深い……傷が深すぎる……)
澄み守りは応急の祈り。浅い出血を鎮め、痛みを散らすための薄い水衣。
心臓を貫く致命には、あまりにも非力だ。薄膜は止血の代わりに血の逃げ場を失わせ、呼吸を乱し、痛みを凝縮してしまう。
「あ、あぁっ……ごめん……っ、ごめんなさい……! 綾斗……苦しませてっ……私のせいで……!」
ぽつり、ぽつり。
雨粒が名前の肩を濡らし、綾斗の血に混ざって地を叩く。
やがてそれは止めどなく降り注ぎ、涙と血と雨が区別のつかないほどに頬を濡らした。
「……優し、…なぁ…… 名前、ちゃん……」
綾斗の手が、弱々しく彼女の袖を掴んだ。掠れた声は、雨にかき消されそうになりながらも確かに言葉を紡ぐ。
血の泡が言葉を途切れさせる。震える口端が、どうにか笑みに形を結ぶ。
「……ごめ……俺… 名前…ちゃん…困、らせて、ばっ…かで……」
「しゃ、喋らないで……! お願い……!」
「……もう、一、つ……困らせ、て……い、…かな……」
焦点の合わない瞳が、やっと名前を見つけた。
掠れた声が、痛みを噛み砕くように続く。
「……このまま……だと……俺……怖い……こわいんだ……」
短い息が喉で折れ、細い声が滲む。
「……ねぇ…… 名前ちゃん……お願、い……」
ひゅっと息を呑み、名前の手が止まった。喉の奥で何かが崩れ落ちる音がする。首を横に振るだけで、腹の傷が灼けて視界が白む。
「……いや……いやだ……そんなの、できるわけ……」
「……たすけ……て……」
懇願は、うわ言のように掠れて、それでもはっきりと重かった。
「……楽に……して……」
「……俺……もう……痛い、の……嫌……だ……」
震える指が、名前の袖を摘む。爪の先が、かすかに布を引いた。
雨が、強くなる。
夜の朝霧山は静まり返り、ただ雨音と嗚咽だけが響いていた。
名前は唇を噛み切り、血の味で口内が痺れる。目の前の綾斗の震え、逃げ場を失った痛み、潰れた呼吸。
(……助からない。分かってる。分かっているのに――)
「ぁ……あああ……ごめん……ごめんなさい……」
頬を伝う涙が止まらない。指が震え、柄へ伸びかけて、止まる。もう一度、綾斗の顔を見る。泣き笑いの面影。拳を合わせた温度。あの「死なない」という約束が、「一緒に柱になる」という誓いが、胸を抉る。
綾斗は、かすかに頷いた。安堵にも似た、幼い子のような、甘える仕草で。
「……たの……む…… 名前…ちゃん……」
名前の手が、綾斗の震える指を包んだ。
雨に濡れ、血に濡れ、もう温度さえ分からない。
(……助けたい……でも、もう……)
涙で視界が滲み、息が震える。
喉の奥から嗚咽が零れそうになるのを、必死に飲み込んだ。
「……分かっ…た……」
かすれる声で囁く。
「……もう…苦しませない……」
その瞬間、名前の中に――確かに「何か」が流れ込んだ。
型には存在しないはずの型。
だが、血と雨と涙の中で、まるで誰かに導かれるように、彼女の呼吸は形を結んでいく。
《雫の呼吸・捌ノ型》
――《春焦がるる、綾雨(あやめ)》
刃が静かに揺れ、雨粒を抱き込む。
振り下ろされたのは斬撃ではなかった。
まるで滴が零れるように柔らかく、綾斗の胸へと降り注ぐ。
水の膜が覆い、苦悶を鎮める。
痛みをそっと撫でて奪うように――。
そして――綾斗は、夢を見た。
◆
柔らかな朝の光。
土の匂いと、見慣れた家の縁側。
沈丁花の花が咲き誇り、空には燕が飛んでいる。
「兄ちゃんだ!」
「兄ちゃん帰ってきた!」
「おかえりなさい!」
幼い弟妹たちが駆け寄ってくる。
泥だらけの小さな足。弾ける笑顔。
彼らの声が、胸を温かく満たしていく。
綾斗は笑っていた。
もう、血も痛みもなかった。
自分の身体は軽く、誇らしさで胸がいっぱいだった。
両腕を広げ、子どもたちを抱きしめる。
弟妹たちがその胸に飛び込み、涙を滲ませながら笑う。
「すごい剣士になったんだね、兄ちゃん!」
「悪い鬼なんか、みんなやっつけちゃうんだよね!」
「兄ちゃんは、自慢の兄ちゃんだよ!」
綾斗は強く抱きしめ返す。
――決して離さないと、何度も何度も心で繰り返しながら。
◆
雨が優しく降り注ぐ中。
名前の刃は、綾斗を静かに包み、彼の痛みを完全に解き放った。
その顔には、苦悶ではなく――微笑が残っていた。
綾斗の瞳がふと揺れた。
血に濡れた唇が、かすかに震える。
「……ただ……ま……兄、ちゃ……今……帰っ…………」
その声は雨に溶け、途切れて――。
そして、力なく彼の手が落ちた。
名前は震える両手でその頬を支え、崩れ落ちた。
雨音に混じり、少女の慟哭が谷を震わせる。
血と涙と雨が混ざり合い、もう何が頬を濡らしているのかも分からない。
ただ――愛しい仲間の名を呼び、声が掠れるまで泣き叫ぶしかなかった。
***
雨脚はなお強くなる。
朝霧山に響くのは、土を叩く雨音と、名前の荒い息だけだった。
綾斗の体は、もう二度と動かない。
その頬に触れていた手が震え、指先から熱が抜けていくのを、名前はただ呆然と見ていた。
(……綾斗……)
声にならない声が喉で潰れた。
だが――。
重苦しい空気を切り裂くように、ぬらりと蠢く影。
地に転がったはずの巨体が、まだ僅かに動いていた。
「……が……はぁ……」
赤黒い頸は、ほとんど断たれていた。
皮一枚と、わずかに絡まる筋繊維だけで辛うじて繋がっている。
もはや両腕もない。再生もない。
それでも鬼は――足を引きずり、前へ。
(……あいつ……まだ、生きて……!?)
名前の瞳が大きく揺れる。
今すぐ立ち上がって首を断ち切らねば――そう分かっている。
だが、膝は折れたまま動かない。
腹を抉られ、血に濡れた足も腕も力を失っている。
「……ぐぅ……っ……!」
それでも名前は、泥を這った。
血塗れの指先で土を掴み、日輪刀を杖にして、ただ這う。
喉は潰れ、呼吸は荒れ、肺の奥に血が逆流しても止まらない。
鬼は顔を上げた。
その目の先――闇の向こうに灯る、人里の明かり。
「……あれは……人間の…村かァ……」
血に濡れた口端が、歪んで吊り上がった。
嗄れた声が、愉悦と渇望を含んで漏れる。
「ツイてる…ぜ……喰えば……喰いさえ、すれば……!」
名前の胸が凍りついた。
朝霧山の麓――故郷。
追放された村。
今もなお、記憶の中に生きる人々。
(――っ…あいつ……まさか…まさか……っ!!)
雨に煙る稲の穂波、夏は蛍が舞い、冬は白雪に覆われる清らかな里。
川辺には子供たちの笑い声が響き、縁日の夜には灯籠の火が流れる。
母に手を引かれて市に立ち、村人と交わした挨拶。
剣を握る前の幼き日々、どこまでも懐かしい光景が胸裏をよぎる。
そして、あそこには、『彼ら』がいる。
『名前様は、そんなことしない!』
あの悲劇の夜の明けた朝、ただひとり自分を庇い、涙を流してくれた少女・市の姿。
あの時の、市の震える声が蘇る。
震えながら、必死に訴えてくれた。
さらに、かつての婚約者――朝霧颯太郎の両親の顔。
『お前が颯太郎を殺したんだろう!』と罵倒され、嫌悪の視線を浴びた。
だが、それでも。
あの村は、大切な場所だ。
誰一人、喰わせてなるものか。
「……ッ…!」
鬼の足首に、名前の手が伸びた。
爪の剥がれた指先で、血と泥まみれの足を掴む。
滑っても、食い込ませる。
鬼の進行を止めるように――必死に。
「ッテメェ……まだ…生きてやがったのか……!」
鬼は、血に濡れた顔を歪めた。
ただひたすらに、「喰らう」ことだけに執念を燃やし、足を引きずる。
「……どけェェ……ッッ!!」
その足首に絡みつく名前の指。
泥に沈み、血が爪の隙間から溢れる。
それでも離さない。
「ッ……!」
鬼は苛立ちと焦りに駆られ、全体重を乗せて名前を踏み潰した。
ぐしゃりと、骨が軋み、名前の身体が泥に叩きつけられる。
喉から鮮血が迸った。
「ぐっ……がぁッ!!」
視界は赤黒く揺れ、雨粒と血と泥が混ざって流れ落ちる。
それでも――手は離さない。
「邪魔だッ!! 離せェェェ!!!」
鬼の咆哮が山を揺らす。
必死の足掻き。
再生は叶わずとも、喰えば生き延びられる――その一心。
鬼はなお足を振り上げ、名前の背を何度も叩きつけた。
泥が跳ね、肋骨が悲鳴を上げる。
名前の呼吸は途切れ途切れになり、もはやまともに声すら出ない。
(もう、立てない……っ、せめて…っ! 朝まで、絶対に……離さないっ……!!)
震える指先に、全てを込めて。
涙に濡れながらも睨みつけるその瞳は、血で霞んでもなお、揺らがない。
「……っ……行かせ……ない…!!」
鬼の心臓が凍りついた。
その眼差しに、本能が恐怖した。
「――ッ!! 離せェ! 離せ離せ離せェェ!!!」
狂った様な叫びと共に、鬼の足が名前の背に、頭に、振り落とされる。
何度も、何度も、何度も何度も。
涙が、ぼろぼろと零れた。
嗚咽のような声が喉から洩れる。
(……誰か……)
必死にしがみつきながら、心の底から絞り出された祈り。
(……お願い……誰か……助けて……っ)
「……クソがァァァァッ!!!」
焦燥に駆られた鬼が、さらに渾身の力で踏み潰そうとした――
その瞬間。
空気が、裂けた。
雨を弾き飛ばすような熱が、大地を奔る。
「――炎の呼吸・壱ノ型《不知火》!!!」
轟火の如き斬撃が夜を貫き、鬼の頸を断ち切った。
抵抗も叫びも許されず――赤黒い首が、泥に転がり落ちる。
名前の前に、雨を切り裂くように立つ影。
燃え立つ鬣。
濡れても消えぬ、烈火の気配。
――炎柱・煉獄杏寿郎。
「……っ……」
声にならない声が名前の喉から洩れた。
その瞳に、炎のように揺るがぬ背中を映し―― 名前の意識は、闇に沈んだ。
***
雨はなお降り続いていた。
斬り落とされた鬼の首は、泥に沈み、赤黒い泡を幾つか弾ませてから――やがて、灰のように崩れ始める。胴も同じく崩れ、雨に溶けて消えていった。
煉獄杏寿郎は一度だけ周囲を見渡した。
倒れ伏す少年の亡骸、長谷と榊の変わり果てた姿。血と泥、砕けた岩。夜の湿った匂い。
ただ一目で、ここに至るまでの全てを理解する。
「……よくやった」
誰にともなく、低く呟く。肩の力は抜かれず、瞳はまっすぐだが、その声音には確かな敬意が宿っていた。
彼はまず、綾斗の傍らに膝をつき、濡れた前髪をそっと払う。
両のまぶたを指先で閉じ、合掌した。雨脚が少しだけ弱まったように錯覚するほど、丁寧で静かな所作だった。
次いで、ぬかるみに半ば埋もれる名前へ。
少女の血まみれの手は、爪が剥がれ、掌の筋肉は露出し、掴んだ形のまま硬直している。
あの足を、あの悪鬼を、最後まで離さなかった手だ。
煉獄はその手に、自分の手をそっと添えた。
掌は熱い。だがその熱は荒れ狂う炎ではない。薪火が夜の寒さを追い払うような、安らぎの温度だった。
「見事だ」
短く、それだけを言う。
胸から腹にかけて広がる抉れ傷、肩口と腿の深い裂傷、踏み砕かれた背。呼吸は浅く、唇は紫がかっている。常の処置では間に合わない出血だと、瞬時に判断する。
煉獄は己の羽織を外し、名前の体幹に巻き付けるように抱え、圧迫止血をかける。
同時に懐の薬包を裂き、手早く布を詰め、帯で固定する。
そのまま頬に耳を寄せ、口元に手をかざし、呼吸を確かめ――次に、首筋へ二指を這わせて脈を探った。
「……薄い」
一拍、二拍――途切れる。
雨音の合間に、生命の鼓動が見え隠れする。
煉獄は即座に名前の体位を整え、泥の少ない地面へと上体を引き寄せると、両手を胸の中央に重ねた。
肘は真っ直ぐ、肩の真下に手を置き、一定の深さで、一定の速さで――胸郭が沈み、戻る、その律動を寸分違わず刻む。
「……戻ってこい」
呼びかけは短く低い。
圧迫の合間に名前の頭部をそっと後屈させ、顎を上げ、口を密着させて息を吹き込む。
冷え切った肺へ、仄かな熱を送り込むように。二度、丁寧に。
再び圧迫。
雨が肩を叩き、手のひらから伝わる胸骨の感触が、確かに深く沈むたび、少しずつ戻る。
数巡目――。
「……よし。良い子だ」
ほんの僅か、喉の奥で湿った空気が震え、弱い吐息が彼の頬を掠めた。
首筋の指先に、消え入りそうだった鼓動が戻る。間隔は乱れている。だが、確かにある。
煉獄はもう一度だけ呼気を送り、圧迫を数回重ね、呼吸と脈の再開を確認すると、押さえていた腹の圧迫を増し、止血布の位置を微調整した。
炎の呼吸でわずかに体温を高め、雨に奪われた熱を補うように身を寄せる。
耳元で、はっきりと告げる。
「君を決して、死なせない」
命令でも願いでもない。揺るぎない約束の声。
「カァァ! カァァ!」
頭上で鎹鴉が輪を描く。煉獄は仰ぎ見ずに言った。
「伝令だ。ここは朝霧山北東、下弦の参を討伐。確認できる死者は三名……他にもいるやもしれん。負傷者は一名、重篤。俺が蝶屋敷まで運ぶ。道は悪い、担架と人手を増やせ――急げ」
鴉は力強く一声鳴き、雨を切って飛び去る。
煉獄は再び脈を取り、胸と腹の上下動を見極める。
息は浅い。だが律は先ほどより整い、頬に触れる生温い吐息が、確かに命の気配を伝えていた。
「……ひとりで、よくここまでやり遂げた」
彼は片腕で名前を抱え上げ、崩落した岩の陰――雨をわずかに避けられる場所へと移す。
濡れた草を払い、冷えきった少女の身体へ、自身の体温を分けるように抱き寄せる。
「俺は君を、尊敬する」
静かな夜の底に、はっきりと届く声で言葉を重ねる。
「もう安心して良い、君の勝利だ。あとは、俺たちが引き受ける」
遠く、雨音の向こうで人の気配が近づき始めた。
谷を上る足音、木々をかき分ける声。救援の灯が、夜の底にひとつ、ふたつと灯っていく。
それを確認し、煉獄は名前を抱き上げ、濡れた髪を払った。
瞼は閉じられ、唇は青ざめている。だがその脈は――確かに打っていた。
彼女の背を支える腕に力を込める。
「…君の名が知りたい。君が目を覚ましたその時に――教えてほしい」
雨脚を割り、炎の柱は踏み出す。
鬼の灰を背に、仲間の亡骸を胸に刻み、そして――腕に抱いた少女の命を必ず繋ぐと、烈火のように誓いながら。
それが、名前と煉獄杏寿郎の、最初の出会いだった。
終。