六章
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山を覆っていた赤黒い嵐が、嘘のように消えていた。
千切れ飛んだ岩片が地に転がり、折れた木々が呻くように軋む。
血の匂いと鉄錆の味が、湿った夜気に濃く漂っていた。
月光が雲間から差し込み、静まり返った谷を照らす。
そこに、ひときわ大きな影が膝を折って崩れ落ちる。
鬼の巨体だった。
「……っ!」
膝が大地に叩きつけられ、重苦しい地響きが響く。
赤黒い血が噴水のように迸り、谷の地面を瞬く間に染めていく。
その首筋には、螺旋状に深く抉られた傷。――生生流転が穿った、致命の螺旋。
「はぁっ……! はぁっ……! ……はぁっ……!」
名前は荒い息を吐き、日輪刀を支えに崩れるように座り込んだ。
全身は血に濡れ、肩も脚も震えている。
だが――今、確かに下弦の鬼は膝を折っている。
「……っは、はぁ……お、俺達……」
綾斗も倒れ込んだまま、天を仰いでいた。
呆然と月を見上げ、虚ろな目で震える唇を動かす。
「……ほんとに……下弦を……十二鬼月を……倒しちゃったの……!?」
その実感が胸に押し寄せた瞬間、彼の顔がくしゃりと歪む。
「うわああああああああーーーーんッ!!!」
「!?」
突如、谷に響き渡る大泣き。
びくっと名前の肩が震える。
「俺……! 死んだと……何回も死んだと思ったよーーー!!!」
「腕も脚も千切れるかと……うわぁぁぁん!! いやもう千切れた!! 身体中痛いもん!! 痛くないとこないもん!!」
涙と血と泥でぐちゃぐちゃになった顔で、子供のように泣き喚く。
名前は思わず目を丸くし、あたふたとその様子に戸惑った。
「……いや、待てよ……」
突然、綾斗の表情に“ひらめき”の稲光が走る。
涙と鼻水をぐしぐし拭いながら、にやぁっと笑った。
「お給金……上がるんじゃない!? いやいや、まさか……昇格!? ……もしかして俺、柱になっちゃったり……!? ひひ……うへへへ……!」
泣き笑いで表情が迷子になったその顔に、名前は思わず吹き出しそうになった。
喉の奥で息が荒く震えながらも、口元に微かな笑みが浮かぶ。
「……綾斗」
名を呼び、血に濡れた拳をゆっくりと突き出す。
「え……? あ……」
一瞬きょとんとした綾斗は、次の瞬間くしゃりと笑い返した。
「……はは……いいね、それ……!」
震える腕を持ち上げ、拳を固める。
名前の拳と綾斗の拳が、鈍い音を立ててぶつかる。
「私達は」
「俺達は」
夜気に、ふたつの声が重なった。
「「――死なない」」
血と涙と笑顔のまま。
その瞬間だけ、二人は痛みも疲労も忘れ、確かに勝者の顔をしていた。
……その刹那。
背後の闇が、ゆらりと揺れた。
綾斗の目が見開かれる。
「――ッ! 名前ちゃん!!!」
絶叫と同時、彼は咄嗟に名前を突き飛ばした。
直後、赤黒い閃光。
名前の瞳が、見開かれる。
彼女の目の前、赤い筋繊維の槍が、綾斗の胸を貫いた。
「がっ……は……ッ!!」
鮮血が飛び散り、綾斗の身体が痙攣する。
その体を串刺しにしたまま、ぎしりと持ち上がる。
そして――鬼が、口角を吊り上げ、笑った。
「……ククッ……最高だったぜ、小僧……」
低い声に、ぞっとするような愉悦が滲む。
「さっきの一撃……あれは本当に、俺の首を斬り落とすかもしれなかった……」
綾斗の胸を貫いたまま、顔を近づけて囁く。
「だがなァ……惜しかったなぁ……お前らが、あんまり必死だからよォ……可哀想になっちまってなぁ……」
「わざと、斬らせてやったんだよ」
鬼の声が耳障りなほど甘ったるく響く。
首筋に走った深い螺旋の傷――骨にまで届いたはずの斬撃。
だが鬼は、頸の内部に張り巡らせていた細かい筋繊維を、瞬間的に束ねて“内側から補強”していたのだ。
まるで縄のように絡み合った繊維が、断ち切られる寸前の頸骨を縫い止めていた。
「ほら、見ろ……まだ喋れるし、まだ笑える」
鬼は自らの首を指で押さえ、血がだらだらと零れるのを愉快そうに見せつける。
「ギリギリで生き残るこの感覚……たまんねぇよなァ」
血を吐く綾斗を見下ろし、鬼は嗤った。
「哀しいなぁ、寂しいなぁ……せっかく良い玩具見つけたってのによォ……もう、お別れか」
次の瞬間、鬼の笑いが谷に木霊した。
「ヒャァァァハハハハハッッ!!!」
血に濡れた綾斗を串刺しにしたまま、鬼は地を踏み鳴らした。
山が震える。
名前は――絶叫した。
「ああああああああああああああッッッ!!!!」
名前の視界が赤く染まる。
涙か、血か、もう分からない。
ただ胸の奥を焼くのは、どうしようもない激情。
咆哮と共に踏み込んだ。
呼吸の型も、理性も飛んでいた。
ただ“斬り裂く”という衝動だけが、彼女の身体を動かしていた。
次の瞬間。
鬼の《裂肉咆穿》が再び撒き散らされた。
迫り来る筋繊維の奔流に、名前の刃が閃き、奔る血肉の嵐を細断して霧散させる。
さらに振り返した一閃は、鬼の両腕を狙って振り下ろされた。
刃は肩口に深々と食い込み、硬質な肉と骨を断ち切る。
赤黒い巨腕は力を失い、ずるりと地へ崩れ落ちた。
切断面から溢れ出した血潮が噴き上がり、周囲の木々や岩を赤く染めていく。
「……ッ!?」
鬼の顔から余裕が消える。
だがすぐに、嗤った。
「フン……!無駄なことを…っ、どうせすぐに生え……」
言葉の途中で、鬼の表情が固まった。
腕の断面――。
そこから盛り上がるはずの筋肉が、膨れない。
いつものように肉が寄り合い、骨を覆い、血管が織り成す再生の奔流が……動かない。
「な、んだ……これは……」
断面から立ち上るのは、焼け焦げる匂い。
まるで鉄板に肉を押し付けたような音が微かに鳴り、黒煙が立ち上る。
「が、あぁッ!? 熱……!? な…何だこれはァァ!?」
鬼の喉が、初めて悲鳴を漏らした。
焼けただれる痛みに、巨体がよろめく。
名前は、血に濡れた頬を震わせながら、その光景を見た。
次の瞬間にはもう、思考など介在していなかった。
喉から迸る叫びと共に、刃は振り下ろされていた。
「うあああああああッッッ!!!!」
怒りも絶望もすべてを吐き捨てるように――ただ、頸を断つために。
ガギィィンッ!!
刃が頸に食い込むも、すぐに弾かれた。
鉄壁のような筋肉が刃を押し返し、火花が散る。
「――は、ハハッ……やっぱりなァ……!」
鬼は血を垂らしながら、なお口端を吊り上げた。
「馬鹿が!!お前じゃ俺の頸は斬れ、――」
その言葉は、続かなかった。
ギリギリ……ギリ……ッ。
名前の掌の肉が、削げる。
柄を握る指の皮膚が裂け、赤が滴る。
それでも握りを緩めない。
(斬る……!!)
瞬間――。
刃が、紅に染まった。
水底を思わせる、薄群青色から、まるで真紅の炎が刀身を這い、熱を帯びて震えている様に。
「……ッ!? な……!?」
鬼の目が大きく見開かれる。
(こいつの刃……こんな色じゃ……なかった……ッ!)
紅に染まった刀身が、押し返す筋肉を焼き裂いていく。
ジュウッ……と肉の焦げる音。
黒煙が頸から立ち上がり、焼けた臭気が夜を満たした。
「ぎゃああああああああッッ!!?」
鬼が絶叫する。
両腕を失った時以上の苦悶。
その頸が――今、確かに裂け始めていた。
鬼の瞳が血走った。
紅に焼ける刀身が頸を灼き斬っていく、その焦燥に突き動かされるように――鬼は咆哮し、首筋から幾重もの筋繊維を噴き出させた。
「お前なんぞに……! 斬られてたまるかァァァッ!!」
筋繊維は縄のように絡み合い、頸の肉を無理矢理に押し広げる。
ぐにゃりと不気味に伸びた首が、蛇のように名前へと迫った。
「――っ!!」
次の瞬間。
鬼の顎が名前の腹に食らいついた。
「ぎっ……ぁああぁぁッ!!!」
腹を抉る激痛が全身を灼き尽くす。血が噴き出し、背筋が折れるほど反り上がる。
それでも―― 名前の手は、決して剣を離さなかった。
「や…やめろォォオ!! 離せ!離せェェェェェッッ!!!」
鬼が咆哮し、食い破られた腹から熱と血が滲み出す。
名前の口端からも赤が溢れた。肺を突き破るような苦痛に、視界は白く点滅する。
(……離さない……絶対に……!)
(斬る……斬る、斬れ!!)
(斬れ!!!)
名前の瞳が燃える。
指の皮が剥がれ、血と汗で柄は滑る。
それでも――握りは強くなる。
脳裏に閃くのは、静水の面影。
――『名前』
剣を教えてくれたときの厳しい声、よく出来たと褒めてくれた、優しい眼差し。
喪った家族を想い、声を殺して泣いていた名前の頭を何も言わずそっと撫でてくれた、あの温かな手――すべてが胸を貫いた。
そして、今もなお背に残る熱。
――『名前ちゃん』
一緒に戦った。日々を過ごし、励ましあった。
自分に背を預け、何度も立ち上がり、あの瞬間まで「死なない」と拳を合わせて笑った綾斗の姿。
それを、この鬼は、嗤いながら踏みにじり、奪った。
(許すものか……ッ、この悪鬼を!!!)
刃はさらに深く、赫く、鬼の頸を削り裂いていく。
焼ける匂いが谷を満たし、赤黒い煙が立ち上る。
「ぎィィィ……やめろォォォ!!! 俺を…俺を誰だと思ってやがるッ!! 十二鬼月!!俺は……下弦の参だぞォォォッッ!!」
その瞬間だった。
鬼の脳裏に――見たこともないはずの光景が、突如として流れ込んだ。
夜。
血と炎に包まれた屋敷。
次々と屍が積み重なる。
鬼の群れが嗤いながら人を裂いていく。
その前に――一人の剣士が立ちはだかっていた。
背に抱えた者を守るように、必死に刃を振るい続ける。
頬は血に濡れ、衣は破れ、満身創痍。
それでも、その眼差しは穏やかで、優しかった。
――斬る、庇う、立つ。
鬼が迫るたびに、剣閃が閃き、仲間を守り続ける。
しかしやがて仲間は倒れ、残ったのは彼ひとり。
背に庇うのは、まだ幼い影。
剣士は血に濡れた刃を握りしめ、震えることなく前を見据えた。
次の瞬間、空気が震え――世界そのものがひとつの光で満たされた。
その一撃に、わずかに後退する。
それは――鬼の王。
鬼の背筋に冷たいものが走った。
(……これは……ッ! 誰の記憶だ!? まさか……これは……『あのお方』の記憶……!?)
喉が勝手に震えた。
理由も分からないまま、膝の奥が痙攣する。
剣士は、最後まで守り抜いた。
立ったまま――命を落としていた。
しかし、彼の剣戟は確かにその細胞に、『恐怖』を刻み込んだ。
(やめろ……! やめろォ!! こいつの剣……あの男と同じだ……!!)
「――ッ嫌だああああああああッッ!! 早く死ねェッ!!! 死ねェェェェェェエエエッッ!!!」
恐怖に支配され錯乱した鬼が、狂った様に頭を振りながら名前の腹を渾身の力で抉り噛む。
「おおおおおおおおおおおおッッッ!!!!」
名前の絶叫が夜を震わせる。
それは痛みと怒りと意地をすべて叩きつけた、魂の咆哮。
頸の肉が裂け、骨が焼け、最後の抵抗が砕け散る。
刀身が閃き、燃えるような紅が夜空を染め上げた。
――そして。
鬼の頸が、落ちた。
闇に染まる谷底に、重々しく転がり落ちる音が響いた。
赤黒い血が噴き上がり、静寂が訪れる。
名前はなお、腹を抉られたまま鬼の顎を押し返し、刀を振り抜いていた。
血に濡れた瞳は、涙と炎を宿し――燃えるように揺らいでいた。
千切れ飛んだ岩片が地に転がり、折れた木々が呻くように軋む。
血の匂いと鉄錆の味が、湿った夜気に濃く漂っていた。
月光が雲間から差し込み、静まり返った谷を照らす。
そこに、ひときわ大きな影が膝を折って崩れ落ちる。
鬼の巨体だった。
「……っ!」
膝が大地に叩きつけられ、重苦しい地響きが響く。
赤黒い血が噴水のように迸り、谷の地面を瞬く間に染めていく。
その首筋には、螺旋状に深く抉られた傷。――生生流転が穿った、致命の螺旋。
「はぁっ……! はぁっ……! ……はぁっ……!」
名前は荒い息を吐き、日輪刀を支えに崩れるように座り込んだ。
全身は血に濡れ、肩も脚も震えている。
だが――今、確かに下弦の鬼は膝を折っている。
「……っは、はぁ……お、俺達……」
綾斗も倒れ込んだまま、天を仰いでいた。
呆然と月を見上げ、虚ろな目で震える唇を動かす。
「……ほんとに……下弦を……十二鬼月を……倒しちゃったの……!?」
その実感が胸に押し寄せた瞬間、彼の顔がくしゃりと歪む。
「うわああああああああーーーーんッ!!!」
「!?」
突如、谷に響き渡る大泣き。
びくっと名前の肩が震える。
「俺……! 死んだと……何回も死んだと思ったよーーー!!!」
「腕も脚も千切れるかと……うわぁぁぁん!! いやもう千切れた!! 身体中痛いもん!! 痛くないとこないもん!!」
涙と血と泥でぐちゃぐちゃになった顔で、子供のように泣き喚く。
名前は思わず目を丸くし、あたふたとその様子に戸惑った。
「……いや、待てよ……」
突然、綾斗の表情に“ひらめき”の稲光が走る。
涙と鼻水をぐしぐし拭いながら、にやぁっと笑った。
「お給金……上がるんじゃない!? いやいや、まさか……昇格!? ……もしかして俺、柱になっちゃったり……!? ひひ……うへへへ……!」
泣き笑いで表情が迷子になったその顔に、名前は思わず吹き出しそうになった。
喉の奥で息が荒く震えながらも、口元に微かな笑みが浮かぶ。
「……綾斗」
名を呼び、血に濡れた拳をゆっくりと突き出す。
「え……? あ……」
一瞬きょとんとした綾斗は、次の瞬間くしゃりと笑い返した。
「……はは……いいね、それ……!」
震える腕を持ち上げ、拳を固める。
名前の拳と綾斗の拳が、鈍い音を立ててぶつかる。
「私達は」
「俺達は」
夜気に、ふたつの声が重なった。
「「――死なない」」
血と涙と笑顔のまま。
その瞬間だけ、二人は痛みも疲労も忘れ、確かに勝者の顔をしていた。
……その刹那。
背後の闇が、ゆらりと揺れた。
綾斗の目が見開かれる。
「――ッ! 名前ちゃん!!!」
絶叫と同時、彼は咄嗟に名前を突き飛ばした。
直後、赤黒い閃光。
名前の瞳が、見開かれる。
彼女の目の前、赤い筋繊維の槍が、綾斗の胸を貫いた。
「がっ……は……ッ!!」
鮮血が飛び散り、綾斗の身体が痙攣する。
その体を串刺しにしたまま、ぎしりと持ち上がる。
そして――鬼が、口角を吊り上げ、笑った。
「……ククッ……最高だったぜ、小僧……」
低い声に、ぞっとするような愉悦が滲む。
「さっきの一撃……あれは本当に、俺の首を斬り落とすかもしれなかった……」
綾斗の胸を貫いたまま、顔を近づけて囁く。
「だがなァ……惜しかったなぁ……お前らが、あんまり必死だからよォ……可哀想になっちまってなぁ……」
「わざと、斬らせてやったんだよ」
鬼の声が耳障りなほど甘ったるく響く。
首筋に走った深い螺旋の傷――骨にまで届いたはずの斬撃。
だが鬼は、頸の内部に張り巡らせていた細かい筋繊維を、瞬間的に束ねて“内側から補強”していたのだ。
まるで縄のように絡み合った繊維が、断ち切られる寸前の頸骨を縫い止めていた。
「ほら、見ろ……まだ喋れるし、まだ笑える」
鬼は自らの首を指で押さえ、血がだらだらと零れるのを愉快そうに見せつける。
「ギリギリで生き残るこの感覚……たまんねぇよなァ」
血を吐く綾斗を見下ろし、鬼は嗤った。
「哀しいなぁ、寂しいなぁ……せっかく良い玩具見つけたってのによォ……もう、お別れか」
次の瞬間、鬼の笑いが谷に木霊した。
「ヒャァァァハハハハハッッ!!!」
血に濡れた綾斗を串刺しにしたまま、鬼は地を踏み鳴らした。
山が震える。
名前は――絶叫した。
「ああああああああああああああッッッ!!!!」
名前の視界が赤く染まる。
涙か、血か、もう分からない。
ただ胸の奥を焼くのは、どうしようもない激情。
咆哮と共に踏み込んだ。
呼吸の型も、理性も飛んでいた。
ただ“斬り裂く”という衝動だけが、彼女の身体を動かしていた。
次の瞬間。
鬼の《裂肉咆穿》が再び撒き散らされた。
迫り来る筋繊維の奔流に、名前の刃が閃き、奔る血肉の嵐を細断して霧散させる。
さらに振り返した一閃は、鬼の両腕を狙って振り下ろされた。
刃は肩口に深々と食い込み、硬質な肉と骨を断ち切る。
赤黒い巨腕は力を失い、ずるりと地へ崩れ落ちた。
切断面から溢れ出した血潮が噴き上がり、周囲の木々や岩を赤く染めていく。
「……ッ!?」
鬼の顔から余裕が消える。
だがすぐに、嗤った。
「フン……!無駄なことを…っ、どうせすぐに生え……」
言葉の途中で、鬼の表情が固まった。
腕の断面――。
そこから盛り上がるはずの筋肉が、膨れない。
いつものように肉が寄り合い、骨を覆い、血管が織り成す再生の奔流が……動かない。
「な、んだ……これは……」
断面から立ち上るのは、焼け焦げる匂い。
まるで鉄板に肉を押し付けたような音が微かに鳴り、黒煙が立ち上る。
「が、あぁッ!? 熱……!? な…何だこれはァァ!?」
鬼の喉が、初めて悲鳴を漏らした。
焼けただれる痛みに、巨体がよろめく。
名前は、血に濡れた頬を震わせながら、その光景を見た。
次の瞬間にはもう、思考など介在していなかった。
喉から迸る叫びと共に、刃は振り下ろされていた。
「うあああああああッッッ!!!!」
怒りも絶望もすべてを吐き捨てるように――ただ、頸を断つために。
ガギィィンッ!!
刃が頸に食い込むも、すぐに弾かれた。
鉄壁のような筋肉が刃を押し返し、火花が散る。
「――は、ハハッ……やっぱりなァ……!」
鬼は血を垂らしながら、なお口端を吊り上げた。
「馬鹿が!!お前じゃ俺の頸は斬れ、――」
その言葉は、続かなかった。
ギリギリ……ギリ……ッ。
名前の掌の肉が、削げる。
柄を握る指の皮膚が裂け、赤が滴る。
それでも握りを緩めない。
(斬る……!!)
瞬間――。
刃が、紅に染まった。
水底を思わせる、薄群青色から、まるで真紅の炎が刀身を這い、熱を帯びて震えている様に。
「……ッ!? な……!?」
鬼の目が大きく見開かれる。
(こいつの刃……こんな色じゃ……なかった……ッ!)
紅に染まった刀身が、押し返す筋肉を焼き裂いていく。
ジュウッ……と肉の焦げる音。
黒煙が頸から立ち上がり、焼けた臭気が夜を満たした。
「ぎゃああああああああッッ!!?」
鬼が絶叫する。
両腕を失った時以上の苦悶。
その頸が――今、確かに裂け始めていた。
鬼の瞳が血走った。
紅に焼ける刀身が頸を灼き斬っていく、その焦燥に突き動かされるように――鬼は咆哮し、首筋から幾重もの筋繊維を噴き出させた。
「お前なんぞに……! 斬られてたまるかァァァッ!!」
筋繊維は縄のように絡み合い、頸の肉を無理矢理に押し広げる。
ぐにゃりと不気味に伸びた首が、蛇のように名前へと迫った。
「――っ!!」
次の瞬間。
鬼の顎が名前の腹に食らいついた。
「ぎっ……ぁああぁぁッ!!!」
腹を抉る激痛が全身を灼き尽くす。血が噴き出し、背筋が折れるほど反り上がる。
それでも―― 名前の手は、決して剣を離さなかった。
「や…やめろォォオ!! 離せ!離せェェェェェッッ!!!」
鬼が咆哮し、食い破られた腹から熱と血が滲み出す。
名前の口端からも赤が溢れた。肺を突き破るような苦痛に、視界は白く点滅する。
(……離さない……絶対に……!)
(斬る……斬る、斬れ!!)
(斬れ!!!)
名前の瞳が燃える。
指の皮が剥がれ、血と汗で柄は滑る。
それでも――握りは強くなる。
脳裏に閃くのは、静水の面影。
――『名前』
剣を教えてくれたときの厳しい声、よく出来たと褒めてくれた、優しい眼差し。
喪った家族を想い、声を殺して泣いていた名前の頭を何も言わずそっと撫でてくれた、あの温かな手――すべてが胸を貫いた。
そして、今もなお背に残る熱。
――『名前ちゃん』
一緒に戦った。日々を過ごし、励ましあった。
自分に背を預け、何度も立ち上がり、あの瞬間まで「死なない」と拳を合わせて笑った綾斗の姿。
それを、この鬼は、嗤いながら踏みにじり、奪った。
(許すものか……ッ、この悪鬼を!!!)
刃はさらに深く、赫く、鬼の頸を削り裂いていく。
焼ける匂いが谷を満たし、赤黒い煙が立ち上る。
「ぎィィィ……やめろォォォ!!! 俺を…俺を誰だと思ってやがるッ!! 十二鬼月!!俺は……下弦の参だぞォォォッッ!!」
その瞬間だった。
鬼の脳裏に――見たこともないはずの光景が、突如として流れ込んだ。
夜。
血と炎に包まれた屋敷。
次々と屍が積み重なる。
鬼の群れが嗤いながら人を裂いていく。
その前に――一人の剣士が立ちはだかっていた。
背に抱えた者を守るように、必死に刃を振るい続ける。
頬は血に濡れ、衣は破れ、満身創痍。
それでも、その眼差しは穏やかで、優しかった。
――斬る、庇う、立つ。
鬼が迫るたびに、剣閃が閃き、仲間を守り続ける。
しかしやがて仲間は倒れ、残ったのは彼ひとり。
背に庇うのは、まだ幼い影。
剣士は血に濡れた刃を握りしめ、震えることなく前を見据えた。
次の瞬間、空気が震え――世界そのものがひとつの光で満たされた。
その一撃に、わずかに後退する。
それは――鬼の王。
鬼の背筋に冷たいものが走った。
(……これは……ッ! 誰の記憶だ!? まさか……これは……『あのお方』の記憶……!?)
喉が勝手に震えた。
理由も分からないまま、膝の奥が痙攣する。
剣士は、最後まで守り抜いた。
立ったまま――命を落としていた。
しかし、彼の剣戟は確かにその細胞に、『恐怖』を刻み込んだ。
(やめろ……! やめろォ!! こいつの剣……あの男と同じだ……!!)
「――ッ嫌だああああああああッッ!! 早く死ねェッ!!! 死ねェェェェェェエエエッッ!!!」
恐怖に支配され錯乱した鬼が、狂った様に頭を振りながら名前の腹を渾身の力で抉り噛む。
「おおおおおおおおおおおおッッッ!!!!」
名前の絶叫が夜を震わせる。
それは痛みと怒りと意地をすべて叩きつけた、魂の咆哮。
頸の肉が裂け、骨が焼け、最後の抵抗が砕け散る。
刀身が閃き、燃えるような紅が夜空を染め上げた。
――そして。
鬼の頸が、落ちた。
闇に染まる谷底に、重々しく転がり落ちる音が響いた。
赤黒い血が噴き上がり、静寂が訪れる。
名前はなお、腹を抉られたまま鬼の顎を押し返し、刀を振り抜いていた。
血に濡れた瞳は、涙と炎を宿し――燃えるように揺らいでいた。