六章
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鬼の眼が妖しく光った。
その圧は山全体を震わせるほど重く、夜の冷気がさらに鋭くなる。
「面白ぇ……さっきよりも獣の目をしてやがるな、小娘」
低く笑いながら、鬼は爪をカチカチと鳴らした。
その声音には、戦いを純粋に愉しむ狂気が滲んでいる。
その足取りは重戦車のように揺るぎなく、一歩踏み出すごとに地面が軋んだ。
名前は血に濡れた刀を握り直し、全集中の呼吸を巡らせる。
その動きは、以前の彼女とは明らかに違っていた。
肺の奥から全身に巡らせた呼吸は、身体の隅々まで冴え渡らせ、刃筋は音すら置き去りにする。
(今なら……! 今の私なら……!!)
「名前ちゃん!! 合わせよう!」
綾斗の叫びが背に飛んだ。
その声と同時に、名前は地を蹴った。
剣閃が夜闇を裂き、鬼の腕の薙ぎを《壱ノ型 たゆたう面影》で流す。
直後、綾斗が側面から踏み込み、低い唸り声と共に水の斬撃を重ねた。
「どりゃぁあッ!!」
鬼の巨腕を辛うじてそらし、名前が回り込む。
そこへ綾斗が《水面斬り》を叩き込み、筋肉の装甲を切り裂いた。
「……っしゃ……!」
浅い傷でも綾斗の顔に笑みが浮かぶ。
だが鬼は、血飛沫を浴びながらも愉快そうに嗤った。
「ははっ……いいねぇ! 息が合ってるじゃねぇか! だがァ……遅ぇ!!」
膨れ上がる筋肉。
鬼の腕が唸りを上げて振るわれた。
「くっ……!」
名前が《弐ノ型 垂香》で気配をずらし、幻影で攻撃を逸らす。
だがその背後に回った鬼の蹴りを、綾斗が咄嗟に刀で受けた。
「ぐっ……うおおッ!!」
骨が軋み、腕に激痛が走る。
それでも綾斗は歯を食いしばり、踏みとどまった。
「綾斗!」
「まだ大丈夫だ! 行け、名前ちゃん!!」
その声に背を押され、名前はさらに踏み込む。
全集中の呼吸が肺を焼くように熱い。
だがその熱を刃に込め、《漆ノ型 水輪の残響》――連続した回避と攻撃を織り交ぜ、鬼の周囲を巡る。
「速ぇ……!」
綾斗が息を呑む。
さっきまで視認できなかった動きが、今は確かに鬼の巨体を翻弄していた。
だが鬼はさらに嗤う。
「いいぞ……いいぞ!! ようやく血が滾ってきやがった!! だが、それでも……!」
「俺を、超えられねぇッ!!」
両腕を振るう速度が増す。
刃で受け流した衝撃だけで名前の腕が痺れ、綾斗は息を荒げながらそれを補うように斬り込む。
「名前ちゃんの頑張りを……無駄にさせるかよッ!!」
綾斗の刃が鬼の腿を裂いた。
「ちっ……!」
鬼が僅かに動きを鈍らせる。
その一瞬を名前が突いた。
「あああああッ!!」
怒涛の連撃。
常中によって限界を超えた名前の剣は、水滴が弾けるように夜気を散らし、次々と傷を刻む。
綾斗もその後を追い、必死で刃を重ねた。
だが――。
「……まだ足りねぇなァ!!」
鬼の肉体は瞬く間に膨れ上がり、裂けた傷口を筋繊維が縫い合わせる。
反撃の拳は、二人の連携すら打ち砕くほどの速度で迫った。
「くそっ……再生が速すぎる……!」
これが、十二鬼月。
下弦の参。
綾斗の視界が揺れ、刃が間に合わない。
名前もまた歯を食いしばる。
――全集中の呼吸で、ここまで速く、ここまで強くなったはずなのに。
それでも、なお下弦の力はその何歩も上を行く。
「ハハハハ!! いいぞォ!! まだ折れねぇのか! もっとだ! もっと足掻け! 俺をもっと楽しませろォ!!」
夜を震わせる好戦の咆哮。
「……遊びじゃない……!」
名前が息を荒げながら返す。
「遊びじゃねぇだと? 違うな。全部遊びさ! 命を奪い合う遊びほど、楽しいものはねぇ!!」
咆哮と共に、鬼の拳が大地を砕き、石礫が宙を舞った。
名前と綾斗は、血に濡れ、息を切らしながらもなお刃を構え直した。
この悪鬼を、討つために。
***
谷を吹き抜けていた風が、不意にぴたりと止んだ。
木々のざわめきも、虫の声も、すべてが押し黙る。
まるで世界そのものが、この先に訪れる殺戮を予感し、息を潜めているかのようだった。
「……そろそろ見せてやるかァ」
喉の奥で鳴る嗤い声が、山全体を震わせる。
鬼の皮膚がぶくぶくと膨張し、内側から筋繊維が膨れ上がった。血管が浮かび、皮膚を押し破る勢いで蠢く。
「俺が本気を出した時の“遊び”をよォ……!!」
全身が裂けるように開き、赤黒い筋が外気へと噴き出した。
それは束になり、槍の群れのように一斉に射出される。
「血鬼術――《裂肉咆穿(れつにくほうせん)》ッ!!」
「「!!!」」
ズガガガガァァンッッ!!!
大地が爆ぜた。
無数の筋繊維が地を穿ち、岩を砕き、木々を根こそぎ吹き飛ばす。
周囲は瞬く間に血色の嵐と化し、谷は揺さぶられ、砕けた石が雨のように降り注いだ。
「これだ……これであの女の腹をぶち破ったんだよォォ!!」
鬼の咆哮が轟く。
両腕を広げ、筋繊維を振り回す姿はまるで巨大な獣が血の鞭を振るっているようだった。
「臓腑をぶちまけて、地をのたうち回る様ぁ……最高だったぜぇぇぇええええ!!!」
その言葉に、名前の胸が灼けた。
脳裏に閃くのは――血に濡れた月夜、苦悶に耐えていた静水の姿。
(……静水様……! あれは……この術が……!)
肺が震え、喉が張り裂けるような怒気が迸る。
たまらず名前は血に濡れた刃を真っ直ぐに鬼へ向け、咆哮した。
「お前が食ったその人は、私の師だ!!」
「……っ、なに……?」
鬼の嗤いが止まる。
瞳に、一瞬だけ驚愕の色が宿った。
「静水様は生きている! 生きて、お前を朝日の下に引きずり出した! その時点で、お前は負けたんだ!!」
「お前が今、生きていられるのは、お前が静水様から逃げたからだ!! お前は、静水様に生かされたんだ!!」
さらに一歩、名前は踏み込む。
鬼の額にピキピキと血管が浮き立つ。
喉から沸き立つ血が口から滴るのも構わず、力の限り声を張り上げた。
「でもそれも、今日までだ……!」
「今日、この場で!!お前の首を斬り落とす!!」
「!!」
「静水様が繋いだ、この剣で!!」
鬼の顔が怒りで歪む。
唇を裂けるほどに開き、喉から獣じみた唸り声を吐き出した。
「……そうかァ……あの女……生きていやがったのかァ……!!」
大地を震わすほどの咆哮。
全身の筋繊維が一斉に逆立ち、赤黒い嵐が山を覆い尽くした。
「感謝するぜ小娘ェェ!! あの女の残りカスを、わざわざ持ってきてくれてなァッ!! まとめて全部喰い尽くしてやるッッ!!」
「お前の次はあの女だァッ!!必ず探し出して今度こそ全身喰ってやるよォォオッ!!!」
夜気は鉄と血の匂いで満ち、地獄の咆哮に包まれる。
名前は唇を噛み切るほどに食いしばり、呼吸を巡らせる。
その瞳は、烈火のように燃えていた。
(静水様……必ず……貴女の意志を……!)
隣で綾斗も片腕で刀を構え、荒い息を吐きながら頷いた。
「……付き合うよ、名前ちゃん……!」
鬼の影が再び跳ね上がる。
《裂肉咆穿》の嵐と、名前と綾斗の渾身の呼吸が正面から激突した――。
***
そこは地獄と化していた。
血鬼術《裂肉咆穿》――。
無数の筋繊維が大地を穿ち、岩を砕き、木々を薙ぎ倒す。
それは赤黒い暴風となり、逃げ場など一片も残さぬ。
「ぐあぁっ!!」
綾斗の脇腹を裂く槍のような筋肉。血が舞い、足がふらつく。
名前は即座に前へ飛び込み、鬼の追撃を《陸ノ型 隔水の楯》で受け止めた。
だが、押し寄せる衝撃は尋常ではない。
刃を伝って全身が震え、肋骨が軋む。
取りこぼした筋繊維の槍が肩口を貫いて肉を裂き、名前の隊服は瞬く間に紅に染まった。
「……っ!」
痛みで視界が霞んでも、刃は下ろさない。
(倒す!倒す!絶対に!!)
再び襲い掛かる血の嵐。
名前は身を捻って防ぐが、太腿を抉られ、膝が一瞬沈む。
それでも踏みとどまり、鬼の槍のような突きを斬り払い、綾斗の前に立ち続けた。
「名前ちゃん!! 死ぬぞ! 下がれ!!」
綾斗が叫ぶ。
「嫌だっ!! 私はこいつから、一歩も逃げたくない!!」
声は掠れていた。
それでも瞳は炎のように揺るがず、鬼を睨み据えている。
鬼は嗤った。
「ヒャハハハッ!!……いいねぇ! もっともっと足掻いてみせろ! 弟子の臓腑も同じ味がするのか試してやるよォ!!」
両腕を広げ、さらに筋繊維を伸ばす。
十も二十も槍が一斉に放たれ、名前と綾斗を串刺しにしようと迫る。
――その瞬間。
名前は、自ら鬼の前に躍り出た。
驚愕する綾斗の目前、全身を盾にして筋繊維を浴びた。
「――っっ!!!」
「名前ちゃん!!!」
肩、脇腹、脚。
無数の赤槍が名前の肉を貫き、鮮血が噴き出す。
綾斗の絶叫が鼓膜を刺す。
それでも、彼女は踏み込んで止まらない。
分かっていたのだ。
この鬼の頸は、自分では斬れない。
雫の呼吸では。
悔しい。
でも、静水はどんなにか悔しく、無念だっただろう。
命を削り、守りに徹してなお、首を斬れなかった。
その腹を喰い破られ、朝日の訪れを前に逃し、無念を抱えたまま、生きねばならなかった。
あの方が背負った痛みと恥辱は――自分の比ではない。
(……それでも、静水様は生き抜いた! 繋いだ!!)
だからこそ、ここで倒れるわけにはいかない。
己が斬れぬなら――斬れる者に託すのだ。
静水が自分へ繋いだように。
名前は、己を突き刺す肉槍を力の限り掴んだ。
爪が剥がれる。
激痛に脳が痺れる。
それでも、離さない。
血に濡れた唇を強く噛み、そして開く。
背後にいる綾斗へ――命を懸けて道を拓くために。
血泡を吐きながら、名前が叫ぶ。
「綾斗ーーーッッ!!!」
綾斗の心臓が爆ぜるように高鳴った。
(……こいつを斬るには……これしかない……!)
頭に浮かぶのは、一度も成功したことのない型。
水の呼吸、最後にして最強の技。
修行中は何度も失敗し、気絶しかけ、刀を振り抜けた試しすらなかった。
いつも途中でブレて、止まって、弾かれた。
だが――今は迷わなかった。
『回せ。練れ。止めるな』
師の声が、骨の内側で響く錯覚。
折れた左腕も、無理矢理柄を握らせる。
綾斗は右足で地を噛み、左足へ、また右へと、わずかな円を踏んでいく。
歩幅は小さく、しかし確かな円環。
一歩ごとに腕の内旋外旋を連動させ、刃の軌道を少しずつ大きく――“回転”を育てる。
「……っ、は……!」
一周目、腕で回す。
二周目、肩が回る。
三周目、背骨がしなる。
四周、五周、六周――足裏から頭頂まで、回転が一本の柱になって貫いていく。
「……行ける……絶対に、決める……!!」
皮膚が裂ける。柄に食い込む掌の肉が薄く剥け、血が滲む。
それでも握りは緩めない。
刃の唸りが変わる――空気が巻き取られ、周囲の砂利が微かに踊った。
名前が血に濡れた背で振り返る。
綾斗と目が合う。
言葉は要らなかった。
綾斗は肺の奥まで空気を満たし、全身の血流を螺旋に叩き込む。
骨が軋む。筋肉が裂ける。
それでも止まらない。
「――《全集中》」
「《水の呼吸・拾ノ型――生生流転》ッ!!!」
爆ぜたのは、音か、空気か。
渦だ。
刃が描く螺旋は、もう腕力の延長ではない。
全身が一本の巨大な水車になって、鬼の懐を呑み込む。
「な……っ!?」
鬼の筋繊維が槍の束となって突き出る。
だが渦が“ほどく”。
尖りは渦の外縁で軌道を奪われ、捻じ切られ、弾かれていく。
装甲のような筋肉が締まり、硬さで受け止めようとした瞬間――回転がそれを“削る”。
(止まるな!)
(俺の身体なんて、引き千切れて構わない!!)
(二度と立てなくなったって良い!!)
一撃、二撃、三撃。
螺旋は回るたびに深くなり、刃筋が首筋に食い込んでいく。
鬼の肉が悲鳴のように鳴り、赤黒い飛沫が花火のように散った。
(捻れ!回れ!!止まるな!!止まるな!!)
(名前ちゃんのために!!)
踏み替えず、回転だけで前へ進む。
足裏が土をなぞり、腰が滑り、肩が落ち、肘が締まって、手首が最後に“遅れて”追いつく。
わずかな遅速差が、もう一枚、さらに一枚と肉を“剥がす”。
「馬鹿がァァァ!! そんな技で俺が――」
(好きな女の子の、ために!!)
「う、ぉ ぉぉ おおおおおおーーッッ!!」
鬼の嘲りが、渦の轟きに呑まれて途切れた。
刹那、首筋の奥――骨へ、届く手応え。
ゴリ――ッ。
螺旋が骨を穿ち、走り抜ける。
闇が一瞬、白く弾けた。
赤黒い血柱が、夜空を裂いて噴き上がる。
綾斗の回転は、そこでようやくほどけ、力なく大地に倒れ込む。
(……届いた――!)
握りしめた柄から、震えが遅れて伝わる。
割れた掌が、熱い。
息は焼け、視界は点滅する。
それでも――鬼の頸に刻まれた深い螺旋の溝が、確かにそこにあった。
その圧は山全体を震わせるほど重く、夜の冷気がさらに鋭くなる。
「面白ぇ……さっきよりも獣の目をしてやがるな、小娘」
低く笑いながら、鬼は爪をカチカチと鳴らした。
その声音には、戦いを純粋に愉しむ狂気が滲んでいる。
その足取りは重戦車のように揺るぎなく、一歩踏み出すごとに地面が軋んだ。
名前は血に濡れた刀を握り直し、全集中の呼吸を巡らせる。
その動きは、以前の彼女とは明らかに違っていた。
肺の奥から全身に巡らせた呼吸は、身体の隅々まで冴え渡らせ、刃筋は音すら置き去りにする。
(今なら……! 今の私なら……!!)
「名前ちゃん!! 合わせよう!」
綾斗の叫びが背に飛んだ。
その声と同時に、名前は地を蹴った。
剣閃が夜闇を裂き、鬼の腕の薙ぎを《壱ノ型 たゆたう面影》で流す。
直後、綾斗が側面から踏み込み、低い唸り声と共に水の斬撃を重ねた。
「どりゃぁあッ!!」
鬼の巨腕を辛うじてそらし、名前が回り込む。
そこへ綾斗が《水面斬り》を叩き込み、筋肉の装甲を切り裂いた。
「……っしゃ……!」
浅い傷でも綾斗の顔に笑みが浮かぶ。
だが鬼は、血飛沫を浴びながらも愉快そうに嗤った。
「ははっ……いいねぇ! 息が合ってるじゃねぇか! だがァ……遅ぇ!!」
膨れ上がる筋肉。
鬼の腕が唸りを上げて振るわれた。
「くっ……!」
名前が《弐ノ型 垂香》で気配をずらし、幻影で攻撃を逸らす。
だがその背後に回った鬼の蹴りを、綾斗が咄嗟に刀で受けた。
「ぐっ……うおおッ!!」
骨が軋み、腕に激痛が走る。
それでも綾斗は歯を食いしばり、踏みとどまった。
「綾斗!」
「まだ大丈夫だ! 行け、名前ちゃん!!」
その声に背を押され、名前はさらに踏み込む。
全集中の呼吸が肺を焼くように熱い。
だがその熱を刃に込め、《漆ノ型 水輪の残響》――連続した回避と攻撃を織り交ぜ、鬼の周囲を巡る。
「速ぇ……!」
綾斗が息を呑む。
さっきまで視認できなかった動きが、今は確かに鬼の巨体を翻弄していた。
だが鬼はさらに嗤う。
「いいぞ……いいぞ!! ようやく血が滾ってきやがった!! だが、それでも……!」
「俺を、超えられねぇッ!!」
両腕を振るう速度が増す。
刃で受け流した衝撃だけで名前の腕が痺れ、綾斗は息を荒げながらそれを補うように斬り込む。
「名前ちゃんの頑張りを……無駄にさせるかよッ!!」
綾斗の刃が鬼の腿を裂いた。
「ちっ……!」
鬼が僅かに動きを鈍らせる。
その一瞬を名前が突いた。
「あああああッ!!」
怒涛の連撃。
常中によって限界を超えた名前の剣は、水滴が弾けるように夜気を散らし、次々と傷を刻む。
綾斗もその後を追い、必死で刃を重ねた。
だが――。
「……まだ足りねぇなァ!!」
鬼の肉体は瞬く間に膨れ上がり、裂けた傷口を筋繊維が縫い合わせる。
反撃の拳は、二人の連携すら打ち砕くほどの速度で迫った。
「くそっ……再生が速すぎる……!」
これが、十二鬼月。
下弦の参。
綾斗の視界が揺れ、刃が間に合わない。
名前もまた歯を食いしばる。
――全集中の呼吸で、ここまで速く、ここまで強くなったはずなのに。
それでも、なお下弦の力はその何歩も上を行く。
「ハハハハ!! いいぞォ!! まだ折れねぇのか! もっとだ! もっと足掻け! 俺をもっと楽しませろォ!!」
夜を震わせる好戦の咆哮。
「……遊びじゃない……!」
名前が息を荒げながら返す。
「遊びじゃねぇだと? 違うな。全部遊びさ! 命を奪い合う遊びほど、楽しいものはねぇ!!」
咆哮と共に、鬼の拳が大地を砕き、石礫が宙を舞った。
名前と綾斗は、血に濡れ、息を切らしながらもなお刃を構え直した。
この悪鬼を、討つために。
***
谷を吹き抜けていた風が、不意にぴたりと止んだ。
木々のざわめきも、虫の声も、すべてが押し黙る。
まるで世界そのものが、この先に訪れる殺戮を予感し、息を潜めているかのようだった。
「……そろそろ見せてやるかァ」
喉の奥で鳴る嗤い声が、山全体を震わせる。
鬼の皮膚がぶくぶくと膨張し、内側から筋繊維が膨れ上がった。血管が浮かび、皮膚を押し破る勢いで蠢く。
「俺が本気を出した時の“遊び”をよォ……!!」
全身が裂けるように開き、赤黒い筋が外気へと噴き出した。
それは束になり、槍の群れのように一斉に射出される。
「血鬼術――《裂肉咆穿(れつにくほうせん)》ッ!!」
「「!!!」」
ズガガガガァァンッッ!!!
大地が爆ぜた。
無数の筋繊維が地を穿ち、岩を砕き、木々を根こそぎ吹き飛ばす。
周囲は瞬く間に血色の嵐と化し、谷は揺さぶられ、砕けた石が雨のように降り注いだ。
「これだ……これであの女の腹をぶち破ったんだよォォ!!」
鬼の咆哮が轟く。
両腕を広げ、筋繊維を振り回す姿はまるで巨大な獣が血の鞭を振るっているようだった。
「臓腑をぶちまけて、地をのたうち回る様ぁ……最高だったぜぇぇぇええええ!!!」
その言葉に、名前の胸が灼けた。
脳裏に閃くのは――血に濡れた月夜、苦悶に耐えていた静水の姿。
(……静水様……! あれは……この術が……!)
肺が震え、喉が張り裂けるような怒気が迸る。
たまらず名前は血に濡れた刃を真っ直ぐに鬼へ向け、咆哮した。
「お前が食ったその人は、私の師だ!!」
「……っ、なに……?」
鬼の嗤いが止まる。
瞳に、一瞬だけ驚愕の色が宿った。
「静水様は生きている! 生きて、お前を朝日の下に引きずり出した! その時点で、お前は負けたんだ!!」
「お前が今、生きていられるのは、お前が静水様から逃げたからだ!! お前は、静水様に生かされたんだ!!」
さらに一歩、名前は踏み込む。
鬼の額にピキピキと血管が浮き立つ。
喉から沸き立つ血が口から滴るのも構わず、力の限り声を張り上げた。
「でもそれも、今日までだ……!」
「今日、この場で!!お前の首を斬り落とす!!」
「!!」
「静水様が繋いだ、この剣で!!」
鬼の顔が怒りで歪む。
唇を裂けるほどに開き、喉から獣じみた唸り声を吐き出した。
「……そうかァ……あの女……生きていやがったのかァ……!!」
大地を震わすほどの咆哮。
全身の筋繊維が一斉に逆立ち、赤黒い嵐が山を覆い尽くした。
「感謝するぜ小娘ェェ!! あの女の残りカスを、わざわざ持ってきてくれてなァッ!! まとめて全部喰い尽くしてやるッッ!!」
「お前の次はあの女だァッ!!必ず探し出して今度こそ全身喰ってやるよォォオッ!!!」
夜気は鉄と血の匂いで満ち、地獄の咆哮に包まれる。
名前は唇を噛み切るほどに食いしばり、呼吸を巡らせる。
その瞳は、烈火のように燃えていた。
(静水様……必ず……貴女の意志を……!)
隣で綾斗も片腕で刀を構え、荒い息を吐きながら頷いた。
「……付き合うよ、名前ちゃん……!」
鬼の影が再び跳ね上がる。
《裂肉咆穿》の嵐と、名前と綾斗の渾身の呼吸が正面から激突した――。
***
そこは地獄と化していた。
血鬼術《裂肉咆穿》――。
無数の筋繊維が大地を穿ち、岩を砕き、木々を薙ぎ倒す。
それは赤黒い暴風となり、逃げ場など一片も残さぬ。
「ぐあぁっ!!」
綾斗の脇腹を裂く槍のような筋肉。血が舞い、足がふらつく。
名前は即座に前へ飛び込み、鬼の追撃を《陸ノ型 隔水の楯》で受け止めた。
だが、押し寄せる衝撃は尋常ではない。
刃を伝って全身が震え、肋骨が軋む。
取りこぼした筋繊維の槍が肩口を貫いて肉を裂き、名前の隊服は瞬く間に紅に染まった。
「……っ!」
痛みで視界が霞んでも、刃は下ろさない。
(倒す!倒す!絶対に!!)
再び襲い掛かる血の嵐。
名前は身を捻って防ぐが、太腿を抉られ、膝が一瞬沈む。
それでも踏みとどまり、鬼の槍のような突きを斬り払い、綾斗の前に立ち続けた。
「名前ちゃん!! 死ぬぞ! 下がれ!!」
綾斗が叫ぶ。
「嫌だっ!! 私はこいつから、一歩も逃げたくない!!」
声は掠れていた。
それでも瞳は炎のように揺るがず、鬼を睨み据えている。
鬼は嗤った。
「ヒャハハハッ!!……いいねぇ! もっともっと足掻いてみせろ! 弟子の臓腑も同じ味がするのか試してやるよォ!!」
両腕を広げ、さらに筋繊維を伸ばす。
十も二十も槍が一斉に放たれ、名前と綾斗を串刺しにしようと迫る。
――その瞬間。
名前は、自ら鬼の前に躍り出た。
驚愕する綾斗の目前、全身を盾にして筋繊維を浴びた。
「――っっ!!!」
「名前ちゃん!!!」
肩、脇腹、脚。
無数の赤槍が名前の肉を貫き、鮮血が噴き出す。
綾斗の絶叫が鼓膜を刺す。
それでも、彼女は踏み込んで止まらない。
分かっていたのだ。
この鬼の頸は、自分では斬れない。
雫の呼吸では。
悔しい。
でも、静水はどんなにか悔しく、無念だっただろう。
命を削り、守りに徹してなお、首を斬れなかった。
その腹を喰い破られ、朝日の訪れを前に逃し、無念を抱えたまま、生きねばならなかった。
あの方が背負った痛みと恥辱は――自分の比ではない。
(……それでも、静水様は生き抜いた! 繋いだ!!)
だからこそ、ここで倒れるわけにはいかない。
己が斬れぬなら――斬れる者に託すのだ。
静水が自分へ繋いだように。
名前は、己を突き刺す肉槍を力の限り掴んだ。
爪が剥がれる。
激痛に脳が痺れる。
それでも、離さない。
血に濡れた唇を強く噛み、そして開く。
背後にいる綾斗へ――命を懸けて道を拓くために。
血泡を吐きながら、名前が叫ぶ。
「綾斗ーーーッッ!!!」
綾斗の心臓が爆ぜるように高鳴った。
(……こいつを斬るには……これしかない……!)
頭に浮かぶのは、一度も成功したことのない型。
水の呼吸、最後にして最強の技。
修行中は何度も失敗し、気絶しかけ、刀を振り抜けた試しすらなかった。
いつも途中でブレて、止まって、弾かれた。
だが――今は迷わなかった。
『回せ。練れ。止めるな』
師の声が、骨の内側で響く錯覚。
折れた左腕も、無理矢理柄を握らせる。
綾斗は右足で地を噛み、左足へ、また右へと、わずかな円を踏んでいく。
歩幅は小さく、しかし確かな円環。
一歩ごとに腕の内旋外旋を連動させ、刃の軌道を少しずつ大きく――“回転”を育てる。
「……っ、は……!」
一周目、腕で回す。
二周目、肩が回る。
三周目、背骨がしなる。
四周、五周、六周――足裏から頭頂まで、回転が一本の柱になって貫いていく。
「……行ける……絶対に、決める……!!」
皮膚が裂ける。柄に食い込む掌の肉が薄く剥け、血が滲む。
それでも握りは緩めない。
刃の唸りが変わる――空気が巻き取られ、周囲の砂利が微かに踊った。
名前が血に濡れた背で振り返る。
綾斗と目が合う。
言葉は要らなかった。
綾斗は肺の奥まで空気を満たし、全身の血流を螺旋に叩き込む。
骨が軋む。筋肉が裂ける。
それでも止まらない。
「――《全集中》」
「《水の呼吸・拾ノ型――生生流転》ッ!!!」
爆ぜたのは、音か、空気か。
渦だ。
刃が描く螺旋は、もう腕力の延長ではない。
全身が一本の巨大な水車になって、鬼の懐を呑み込む。
「な……っ!?」
鬼の筋繊維が槍の束となって突き出る。
だが渦が“ほどく”。
尖りは渦の外縁で軌道を奪われ、捻じ切られ、弾かれていく。
装甲のような筋肉が締まり、硬さで受け止めようとした瞬間――回転がそれを“削る”。
(止まるな!)
(俺の身体なんて、引き千切れて構わない!!)
(二度と立てなくなったって良い!!)
一撃、二撃、三撃。
螺旋は回るたびに深くなり、刃筋が首筋に食い込んでいく。
鬼の肉が悲鳴のように鳴り、赤黒い飛沫が花火のように散った。
(捻れ!回れ!!止まるな!!止まるな!!)
(名前ちゃんのために!!)
踏み替えず、回転だけで前へ進む。
足裏が土をなぞり、腰が滑り、肩が落ち、肘が締まって、手首が最後に“遅れて”追いつく。
わずかな遅速差が、もう一枚、さらに一枚と肉を“剥がす”。
「馬鹿がァァァ!! そんな技で俺が――」
(好きな女の子の、ために!!)
「う、ぉ ぉぉ おおおおおおーーッッ!!」
鬼の嘲りが、渦の轟きに呑まれて途切れた。
刹那、首筋の奥――骨へ、届く手応え。
ゴリ――ッ。
螺旋が骨を穿ち、走り抜ける。
闇が一瞬、白く弾けた。
赤黒い血柱が、夜空を裂いて噴き上がる。
綾斗の回転は、そこでようやくほどけ、力なく大地に倒れ込む。
(……届いた――!)
握りしめた柄から、震えが遅れて伝わる。
割れた掌が、熱い。
息は焼け、視界は点滅する。
それでも――鬼の頸に刻まれた深い螺旋の溝が、確かにそこにあった。