六章
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夕闇が迫り、林の中は淡い藍色に沈み始めていた。
木々の梢が風に揺れ、かすかに鳥の羽ばたく音が遠ざかる。
「……っは、はぁ、はぁ……!」
綾斗は息を切らしながらも、必死に名前の背を追っていた。
彼女の足取りは迷いなく、薄暗い道を駆ける姿は水面を滑るように静かだ。
しばらく、二人の間には綾斗の荒い呼吸だけが響いていた。
綾斗は迷ったように何度か口を開きかけ――ようやく言葉を搾り出す。
「……そういえばさ」
夜風に混じる声は震えていた。
「名前ちゃんって……どうして鬼殺隊に入ったの?」
名前は一瞬だけ横を向いた。
だが表情は読み取れず、すぐにまた前を向いて走り続ける。
綾斗は慌てて言い足した。
「い、いや! 無理に答えなくてもいいんだ。ただ……今まで聞いたことなかったし。
名前ちゃんって、どっか“いいとこのお嬢様”って感じするし……」
言葉は夜気に紛れ、足音にかき消されそうになる。
それでも名前は、数呼吸の沈黙の後、短く吐き出した。
「……弟を、鬼にされた」
その一言に、綾斗の肺がきゅっと縮む。
足を止めそうになり、慌てて踏みとどまった。
「……っ」
名前の横顔は月明かりに照らされ、影が頬を淡く縁取っていた。
その唇が、静かに言葉を紡ぐ。
「殺せなかった」
感情の色はほとんど見えず、ただ冷えた決意だけが滲んでいる。
「だから……次は必ず…私が、殺す」
言葉は刃のように鋭く、短く。
けれどその奥に潜む痛みを、綾斗は確かに感じ取ってしまった。
喉が詰まる。
胸の奥が焼けるように熱い。
(……弟を……自分で……殺すために……)
自分には想像もできない重さ。
その孤独の深さが、息苦しいほど迫ってきた。
堪え切れず、綾斗は口走った。
「……で、でもさ。もしかしたら、もう誰かが……他の隊士が斬ってるってことは……」
その時だった。
名前の目が、月明かりに鋭く光った。
「――それは、ない」
きっぱりと言い切る声に、綾斗は思わずまた足を止めそうになった。
「私には……分かる」
「わ……分かるって……?」
名前は少しだけ目を伏せ、言葉を探すように唇を動かす。
そして、ぽつりと落とした。
「……私が、あの子の姉だから」
綾斗は言葉を失った。
月明かりに照らされた横顔は静かで、悲しくて、それでも強かった。
「生きてる。まだ……鬼として、人を喰って、力をつけている。だから、私が……この手で終わらせる」
胸の奥から震えるように滲み出たその決意は、疑いの余地がなかった。
夜気が張り詰める。
風に揺れる枝の音さえ遠のいたように感じられた。
「……ごめん」
やっとのことで、それだけを吐き出す。
名前は首を横に振った。
「謝ることじゃない」
それだけ言い残し、また前だけを見据えて走り続ける。
夜の気配が濃くなり、木々の間から覗く空には一番星が瞬いていた。
その冷たい光が、名前の背を細く照らし出す。
綾斗は拳を握り締める。
足は軋み、呼吸は荒い。けれど、その背を見失うまいと必死に駆け続けた。
(……絶対に、俺が守る。もう、一人になんかさせない)
走りながら胸の奥で、強く、強く誓った。
やがて遠くに町の灯りがぼんやりと揺れ始める。
任務の地は、もうすぐそこだった。
***
山間の夜は冷たかった。
谷を吹き抜ける風が、竹林や松の枝をざわりと鳴らし、空には細い月がかかっている。
遠くで鳥の声が一度だけ響き、その後は不自然なほどの静寂が広がっていた。
先に駆けていた名前が足を止める。
鼻を掠めるのは、鉄のような生臭い匂い。乾ききらぬ血の匂いだった。
「……っ」
綾斗は息を呑んだ。
谷を見下ろす岩場の前に、二つの影が立っていた。
どちらも隊服を纏い、腰には日輪刀。だがその佇まいは、名前や綾斗とは比べ物にならないほど余裕に満ちている。
「やっと来やがったか」
声をかけてきたのは背の高い男。
黒髪を後ろで無造作に束ね、水色の鍔が月明かりを反射していた。
水の呼吸を使う隊士――長谷。
その隣に立つのは、鋭い目つきに乱れた髪を持つ若い男。
肩を揺らして笑いながら、刀の柄を指で小突いている。
雷の呼吸を使う隊士――榊。
「お前らか、新しく回されたっていう増援は」
長谷が冷ややかに言い放つ。
名前と綾斗は揃って立ち止まり、深く一礼した。
「階級は?」
長谷の問に、綾斗が慌てて答えた。
「み、癸です!」
次の瞬間、榊が盛大に吹き出した。
「ははっ! 癸だってよ。最下っ端じゃねぇか」
「なっ」
「………」
「こんな任務に回すとか、本部も正気かよ? 死傷者が出てんのに、ガキの散歩を増やしてどうするんだ」
「……癸が二人。足手まとい以外の何者でもない」
長谷が吐き捨てるように言った。
綾斗の拳が強く握り締められる。
だが名前は表情ひとつ動かさない。
静かに、ただ夜風を受けて佇んでいた。
榊は一歩近づき、綾斗と名前を上から下まで見下ろす。
「……で? 何の呼吸を使えるんだよ、お前ら」
「……鷹司綾斗。水の呼吸、です」
綾斗は息を整え、簡潔に頭を下げる。
(……嫌な奴ら)
内心で舌打ちしたくなりながらも、言葉には出さない。
「名前。雫の呼吸です」
名前もまた、簡潔に名乗った。
その瞬間、榊が鼻で笑った。
「……雫ぅ?」
「聞いたこともねぇな」
長谷も目を細める。
榊が口端を吊り上げ、わざとらしく吐き捨てる。
「名前からして水の呼吸の下位互換だろう。ちょろちょろと垂れる雫じゃ、鬼の首は斬れまい」
二人の嘲りが、谷風よりも冷たく響いた。
名前は表情を変えず、無言。
だが隣で綾斗の拳が震え、爪が手のひらに食い込んでいた。
長谷と榊の嘲笑は続く。
「所詮は枝分かれの末路だろう。本流に成れず、誰にも受け継がれず、ひっそり消えていく類の“欠けた呼吸”だ」
「はっ! そんなんで鬼に挑むとか、哀れだな」
榊が嘲るように吐き捨てる。
「お嬢さんの遊び場じゃねぇんだよ、ここは」
二人の声が夜風に混じり、耳障りに響いた。
その瞬間、綾斗の中で何かが切れた。
「……黙れよ」
低く震える声が、夜気に混じって落ちた。
「……あ?」
榊が眉を吊り上げる。
綾斗はもう堪え切れなかった。
夜風で髪が揺れるのも構わず、一歩前へ踏み出す。
「名前ちゃんを……馬鹿にすんな!!」
声は張り裂けるほど大きかった。
喉が焼けても、吐き出さずにはいられなかった。
「名前ちゃんの雫の呼吸は、すごいんだ!!何度助けてもらったか……! 俺は見たんだ! 名前ちゃんが……命を懸けて鬼の首を斬ったのを!」
「…………」
「俺は知ってるんだ! あんたらみたいに偉そうに笑ってる奴らより、よっぽど強くて……よっぽど覚悟を持ってるってこと!!」
月明かりの下で、綾斗の肩は大きく上下していた。
顔は紅潮し、拳は震えている。
それでも瞳だけは真っ直ぐに燃えていた。
「……ガキが」
榊の顔がすっと曇った。
次の瞬間、雷のような速さで拳が綾斗の頬を打った。
「がはっ!」
綾斗の身体が横へ吹き飛び、土に倒れる。
口の端から血が滲むのを拭う暇もなく、綾斗は唇を噛んで睨み返した。
「おい、榊」
長谷が眉をひそめる。
「遊ぶな。任務中だ」
「ちっ、悪い悪い。つい腹が立ってよ」
榊は肩をすくめた。
――その時。
風が、止んだ。
カチリ。
刃鳴りのような微かな音と共に、空気が一変する。
次に榊が気づいた時には、首筋に冷たい刃が触れていた。
「……なっ……!?」
榊の目が見開かれる。
ほんの瞬きの間に、名前が抜刀していた。
「……っ、いつ……!?」
長谷が息を呑む。
二人を包むのは、凍りつくような圧。
夜気ごと張り詰めるような、冷ややかな殺気。
喉が勝手に縮み、背筋を氷柱で突かれたような錯覚に襲われる。
「た、隊律違反だぞ……!」
榊の声が上ずる。
名前は微動だにせず、首筋へ添えた刃を揺らすこともなく、静かに言い放った。
「隊士同士でやり合うのが……隊律違反」
その声音は淡々としているのに、逃げ場を与えぬ冷気を孕んでいた。
「わ、分かってんなら……!」
「私が一方的に貴方を斬るのは――違反じゃない」
怯えを孕んだ榊の言葉をねじ伏せる、夜の静寂を震わせるほど、冷ややかな一言。
「今貴方が、綾斗を殴った様に」
榊の喉がひくりと鳴る。
額に冷や汗が伝い、背中が粟立つ。
長谷もまた目を細めるが、額にはじっとりと汗が滲んでいた。
(……っな、なんだ、この女……! ただの新人じゃない……!)
二人の嘲笑はすでに霧散し、代わりに飲み込まれたのは確かな恐怖だった。
名前は刃を一寸も動かさず、ただ榊の首筋に冷たく当て続けている。
その横で土に倒れていた綾斗は、頬の痛みも忘れてぽかんと名前を見上げていた。
(んな無茶苦茶な……!)
(……でも……かっこ良すぎるよ、名前様……!)
自分を庇うために、一切の躊躇なく刃を振るうその姿に、胸が熱くなるのを止められなかった。
――その時。
山中に、甲高い叫びが木霊した。
「ぎゃあああああっ!!!」
血を引き裂くような悲鳴。
続いて、木々を揺らすような鬼の咆哮が轟いた。
「っ……!」
三人が同時に振り向く。
谷の奥、闇の向こうで確かに人が襲われている。
名前は刃を静かに引き、音もなく鞘へ納めた。
その動きに迷いはない。
そして、言葉ひとつなく駆け出した。
「お、おい待っ――!」
榊が呼び止めるよりも早く、名前の姿は闇に溶けていく。
彼女の背中からは、冷たい殺気は消え、ただ一心に任務へ向かう烈々たる気迫だけが放たれていた。
「……っち!」
榊が舌打ちする。
「任務だ。追うぞ」
長谷が短く言い、刀を抜く。
綾斗はぐっと拳を握りしめ、息を荒くしながらその背を追った。
「……待ってよ、名前ちゃん……!」
竹林を抜ける夜風が、四人の足音をかき消すようにざわめいた。
いざこざなど吹き飛ばす、戦場の気配が、確かに迫っていた。
***
谷あいを抜けた瞬間、四人の足が止まった。
斜面に広がるのは、血の匂いに満ちた地獄だった。
裂けた木々、粉砕された岩、踏み荒らされた大地。
そして無惨に引き裂かれ、力尽きた隊士たちの亡骸が幾つも転がっている。
風が谷を渡るたびに、血と鉄の生臭さが鼻を刺した。
その中心に――ひとつの影が、立っていた。
筋肉が異様に膨張し、皮膚の下で生き物のように蠢いている。
肩も腕も、人の形を留めながらも不自然に肥大し、張り裂けんばかりに盛り上がっていた。
首を僅かに傾げ、笑みとも嘲りともつかぬ歪んだ口元が、月光に照らし出される。
そして――左眼。
そこには、くっきりと刻まれていた。
『下参』
長谷の口から、無意識に声が漏れた。
「……あ、ぁ……嘘、だろ……」
榊も血の気が引き、額に冷や汗を浮かべる。
「……下……弦……!? なんで、こんな所に……!」
名前と綾斗は、一瞬言葉の意味を掴めずに顔を見合わせた。
綾斗が震える声で呟く。
「か、下弦……?」
「……十二鬼月」
長谷が噛み殺すように吐き捨てる。
名前が眉を僅かに寄せた。
聞き覚えのない名だった。
榊は声を荒げ、怒鳴るように二人へ振り返った。
「おい逃げるぞ!! 十二鬼月だ!! 俺達が適う様な相手じゃねぇ!!」
「な…何なんですかさっきから……!?」
綾斗が混乱の色を浮かべる。
長谷が早口で叩きつけるように言った。
「鬼舞辻無惨直属の精鋭……鬼の中の鬼だ! 上弦六体、下弦六体、合わせて十二。数百年の鬼狩りの歴史で、何百、何千もの隊士が奴らに殺されてきた……!」
その声は谷を震わせるほど切迫していた。
「殺されるぞ!! いいか、逃げるんだ!!」
だが――その叫びを嘲笑うように、鬼が一歩踏み込んだ。
ドンッ、と大地が鳴動する。
乾いた土が爆ぜ、足元に小さな地割れが走った。
「……逃がすと思うか」
低い声が響く。
それだけで背骨に冷たいものが走り、空気が一気に重くなる。
鬼の唇が吊り上がり、牙の間から舌が覗いた。
「ここにいる者は皆……肉片ひとつ残さず、喰い尽くしてやる」
夜風がざわりと揺れる。
長谷と榊の背に冷や汗が滲み、綾斗は思わず一歩後ずさった。
だが―― 名前だけは、一歩も引かずにその眼を見据えていた。
木々の梢が風に揺れ、かすかに鳥の羽ばたく音が遠ざかる。
「……っは、はぁ、はぁ……!」
綾斗は息を切らしながらも、必死に名前の背を追っていた。
彼女の足取りは迷いなく、薄暗い道を駆ける姿は水面を滑るように静かだ。
しばらく、二人の間には綾斗の荒い呼吸だけが響いていた。
綾斗は迷ったように何度か口を開きかけ――ようやく言葉を搾り出す。
「……そういえばさ」
夜風に混じる声は震えていた。
「名前ちゃんって……どうして鬼殺隊に入ったの?」
名前は一瞬だけ横を向いた。
だが表情は読み取れず、すぐにまた前を向いて走り続ける。
綾斗は慌てて言い足した。
「い、いや! 無理に答えなくてもいいんだ。ただ……今まで聞いたことなかったし。
名前ちゃんって、どっか“いいとこのお嬢様”って感じするし……」
言葉は夜気に紛れ、足音にかき消されそうになる。
それでも名前は、数呼吸の沈黙の後、短く吐き出した。
「……弟を、鬼にされた」
その一言に、綾斗の肺がきゅっと縮む。
足を止めそうになり、慌てて踏みとどまった。
「……っ」
名前の横顔は月明かりに照らされ、影が頬を淡く縁取っていた。
その唇が、静かに言葉を紡ぐ。
「殺せなかった」
感情の色はほとんど見えず、ただ冷えた決意だけが滲んでいる。
「だから……次は必ず…私が、殺す」
言葉は刃のように鋭く、短く。
けれどその奥に潜む痛みを、綾斗は確かに感じ取ってしまった。
喉が詰まる。
胸の奥が焼けるように熱い。
(……弟を……自分で……殺すために……)
自分には想像もできない重さ。
その孤独の深さが、息苦しいほど迫ってきた。
堪え切れず、綾斗は口走った。
「……で、でもさ。もしかしたら、もう誰かが……他の隊士が斬ってるってことは……」
その時だった。
名前の目が、月明かりに鋭く光った。
「――それは、ない」
きっぱりと言い切る声に、綾斗は思わずまた足を止めそうになった。
「私には……分かる」
「わ……分かるって……?」
名前は少しだけ目を伏せ、言葉を探すように唇を動かす。
そして、ぽつりと落とした。
「……私が、あの子の姉だから」
綾斗は言葉を失った。
月明かりに照らされた横顔は静かで、悲しくて、それでも強かった。
「生きてる。まだ……鬼として、人を喰って、力をつけている。だから、私が……この手で終わらせる」
胸の奥から震えるように滲み出たその決意は、疑いの余地がなかった。
夜気が張り詰める。
風に揺れる枝の音さえ遠のいたように感じられた。
「……ごめん」
やっとのことで、それだけを吐き出す。
名前は首を横に振った。
「謝ることじゃない」
それだけ言い残し、また前だけを見据えて走り続ける。
夜の気配が濃くなり、木々の間から覗く空には一番星が瞬いていた。
その冷たい光が、名前の背を細く照らし出す。
綾斗は拳を握り締める。
足は軋み、呼吸は荒い。けれど、その背を見失うまいと必死に駆け続けた。
(……絶対に、俺が守る。もう、一人になんかさせない)
走りながら胸の奥で、強く、強く誓った。
やがて遠くに町の灯りがぼんやりと揺れ始める。
任務の地は、もうすぐそこだった。
***
山間の夜は冷たかった。
谷を吹き抜ける風が、竹林や松の枝をざわりと鳴らし、空には細い月がかかっている。
遠くで鳥の声が一度だけ響き、その後は不自然なほどの静寂が広がっていた。
先に駆けていた名前が足を止める。
鼻を掠めるのは、鉄のような生臭い匂い。乾ききらぬ血の匂いだった。
「……っ」
綾斗は息を呑んだ。
谷を見下ろす岩場の前に、二つの影が立っていた。
どちらも隊服を纏い、腰には日輪刀。だがその佇まいは、名前や綾斗とは比べ物にならないほど余裕に満ちている。
「やっと来やがったか」
声をかけてきたのは背の高い男。
黒髪を後ろで無造作に束ね、水色の鍔が月明かりを反射していた。
水の呼吸を使う隊士――長谷。
その隣に立つのは、鋭い目つきに乱れた髪を持つ若い男。
肩を揺らして笑いながら、刀の柄を指で小突いている。
雷の呼吸を使う隊士――榊。
「お前らか、新しく回されたっていう増援は」
長谷が冷ややかに言い放つ。
名前と綾斗は揃って立ち止まり、深く一礼した。
「階級は?」
長谷の問に、綾斗が慌てて答えた。
「み、癸です!」
次の瞬間、榊が盛大に吹き出した。
「ははっ! 癸だってよ。最下っ端じゃねぇか」
「なっ」
「………」
「こんな任務に回すとか、本部も正気かよ? 死傷者が出てんのに、ガキの散歩を増やしてどうするんだ」
「……癸が二人。足手まとい以外の何者でもない」
長谷が吐き捨てるように言った。
綾斗の拳が強く握り締められる。
だが名前は表情ひとつ動かさない。
静かに、ただ夜風を受けて佇んでいた。
榊は一歩近づき、綾斗と名前を上から下まで見下ろす。
「……で? 何の呼吸を使えるんだよ、お前ら」
「……鷹司綾斗。水の呼吸、です」
綾斗は息を整え、簡潔に頭を下げる。
(……嫌な奴ら)
内心で舌打ちしたくなりながらも、言葉には出さない。
「名前。雫の呼吸です」
名前もまた、簡潔に名乗った。
その瞬間、榊が鼻で笑った。
「……雫ぅ?」
「聞いたこともねぇな」
長谷も目を細める。
榊が口端を吊り上げ、わざとらしく吐き捨てる。
「名前からして水の呼吸の下位互換だろう。ちょろちょろと垂れる雫じゃ、鬼の首は斬れまい」
二人の嘲りが、谷風よりも冷たく響いた。
名前は表情を変えず、無言。
だが隣で綾斗の拳が震え、爪が手のひらに食い込んでいた。
長谷と榊の嘲笑は続く。
「所詮は枝分かれの末路だろう。本流に成れず、誰にも受け継がれず、ひっそり消えていく類の“欠けた呼吸”だ」
「はっ! そんなんで鬼に挑むとか、哀れだな」
榊が嘲るように吐き捨てる。
「お嬢さんの遊び場じゃねぇんだよ、ここは」
二人の声が夜風に混じり、耳障りに響いた。
その瞬間、綾斗の中で何かが切れた。
「……黙れよ」
低く震える声が、夜気に混じって落ちた。
「……あ?」
榊が眉を吊り上げる。
綾斗はもう堪え切れなかった。
夜風で髪が揺れるのも構わず、一歩前へ踏み出す。
「名前ちゃんを……馬鹿にすんな!!」
声は張り裂けるほど大きかった。
喉が焼けても、吐き出さずにはいられなかった。
「名前ちゃんの雫の呼吸は、すごいんだ!!何度助けてもらったか……! 俺は見たんだ! 名前ちゃんが……命を懸けて鬼の首を斬ったのを!」
「…………」
「俺は知ってるんだ! あんたらみたいに偉そうに笑ってる奴らより、よっぽど強くて……よっぽど覚悟を持ってるってこと!!」
月明かりの下で、綾斗の肩は大きく上下していた。
顔は紅潮し、拳は震えている。
それでも瞳だけは真っ直ぐに燃えていた。
「……ガキが」
榊の顔がすっと曇った。
次の瞬間、雷のような速さで拳が綾斗の頬を打った。
「がはっ!」
綾斗の身体が横へ吹き飛び、土に倒れる。
口の端から血が滲むのを拭う暇もなく、綾斗は唇を噛んで睨み返した。
「おい、榊」
長谷が眉をひそめる。
「遊ぶな。任務中だ」
「ちっ、悪い悪い。つい腹が立ってよ」
榊は肩をすくめた。
――その時。
風が、止んだ。
カチリ。
刃鳴りのような微かな音と共に、空気が一変する。
次に榊が気づいた時には、首筋に冷たい刃が触れていた。
「……なっ……!?」
榊の目が見開かれる。
ほんの瞬きの間に、名前が抜刀していた。
「……っ、いつ……!?」
長谷が息を呑む。
二人を包むのは、凍りつくような圧。
夜気ごと張り詰めるような、冷ややかな殺気。
喉が勝手に縮み、背筋を氷柱で突かれたような錯覚に襲われる。
「た、隊律違反だぞ……!」
榊の声が上ずる。
名前は微動だにせず、首筋へ添えた刃を揺らすこともなく、静かに言い放った。
「隊士同士でやり合うのが……隊律違反」
その声音は淡々としているのに、逃げ場を与えぬ冷気を孕んでいた。
「わ、分かってんなら……!」
「私が一方的に貴方を斬るのは――違反じゃない」
怯えを孕んだ榊の言葉をねじ伏せる、夜の静寂を震わせるほど、冷ややかな一言。
「今貴方が、綾斗を殴った様に」
榊の喉がひくりと鳴る。
額に冷や汗が伝い、背中が粟立つ。
長谷もまた目を細めるが、額にはじっとりと汗が滲んでいた。
(……っな、なんだ、この女……! ただの新人じゃない……!)
二人の嘲笑はすでに霧散し、代わりに飲み込まれたのは確かな恐怖だった。
名前は刃を一寸も動かさず、ただ榊の首筋に冷たく当て続けている。
その横で土に倒れていた綾斗は、頬の痛みも忘れてぽかんと名前を見上げていた。
(んな無茶苦茶な……!)
(……でも……かっこ良すぎるよ、名前様……!)
自分を庇うために、一切の躊躇なく刃を振るうその姿に、胸が熱くなるのを止められなかった。
――その時。
山中に、甲高い叫びが木霊した。
「ぎゃあああああっ!!!」
血を引き裂くような悲鳴。
続いて、木々を揺らすような鬼の咆哮が轟いた。
「っ……!」
三人が同時に振り向く。
谷の奥、闇の向こうで確かに人が襲われている。
名前は刃を静かに引き、音もなく鞘へ納めた。
その動きに迷いはない。
そして、言葉ひとつなく駆け出した。
「お、おい待っ――!」
榊が呼び止めるよりも早く、名前の姿は闇に溶けていく。
彼女の背中からは、冷たい殺気は消え、ただ一心に任務へ向かう烈々たる気迫だけが放たれていた。
「……っち!」
榊が舌打ちする。
「任務だ。追うぞ」
長谷が短く言い、刀を抜く。
綾斗はぐっと拳を握りしめ、息を荒くしながらその背を追った。
「……待ってよ、名前ちゃん……!」
竹林を抜ける夜風が、四人の足音をかき消すようにざわめいた。
いざこざなど吹き飛ばす、戦場の気配が、確かに迫っていた。
***
谷あいを抜けた瞬間、四人の足が止まった。
斜面に広がるのは、血の匂いに満ちた地獄だった。
裂けた木々、粉砕された岩、踏み荒らされた大地。
そして無惨に引き裂かれ、力尽きた隊士たちの亡骸が幾つも転がっている。
風が谷を渡るたびに、血と鉄の生臭さが鼻を刺した。
その中心に――ひとつの影が、立っていた。
筋肉が異様に膨張し、皮膚の下で生き物のように蠢いている。
肩も腕も、人の形を留めながらも不自然に肥大し、張り裂けんばかりに盛り上がっていた。
首を僅かに傾げ、笑みとも嘲りともつかぬ歪んだ口元が、月光に照らし出される。
そして――左眼。
そこには、くっきりと刻まれていた。
『下参』
長谷の口から、無意識に声が漏れた。
「……あ、ぁ……嘘、だろ……」
榊も血の気が引き、額に冷や汗を浮かべる。
「……下……弦……!? なんで、こんな所に……!」
名前と綾斗は、一瞬言葉の意味を掴めずに顔を見合わせた。
綾斗が震える声で呟く。
「か、下弦……?」
「……十二鬼月」
長谷が噛み殺すように吐き捨てる。
名前が眉を僅かに寄せた。
聞き覚えのない名だった。
榊は声を荒げ、怒鳴るように二人へ振り返った。
「おい逃げるぞ!! 十二鬼月だ!! 俺達が適う様な相手じゃねぇ!!」
「な…何なんですかさっきから……!?」
綾斗が混乱の色を浮かべる。
長谷が早口で叩きつけるように言った。
「鬼舞辻無惨直属の精鋭……鬼の中の鬼だ! 上弦六体、下弦六体、合わせて十二。数百年の鬼狩りの歴史で、何百、何千もの隊士が奴らに殺されてきた……!」
その声は谷を震わせるほど切迫していた。
「殺されるぞ!! いいか、逃げるんだ!!」
だが――その叫びを嘲笑うように、鬼が一歩踏み込んだ。
ドンッ、と大地が鳴動する。
乾いた土が爆ぜ、足元に小さな地割れが走った。
「……逃がすと思うか」
低い声が響く。
それだけで背骨に冷たいものが走り、空気が一気に重くなる。
鬼の唇が吊り上がり、牙の間から舌が覗いた。
「ここにいる者は皆……肉片ひとつ残さず、喰い尽くしてやる」
夜風がざわりと揺れる。
長谷と榊の背に冷や汗が滲み、綾斗は思わず一歩後ずさった。
だが―― 名前だけは、一歩も引かずにその眼を見据えていた。