六章
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「今日はありがとー!!また会えたら、ご飯を一緒に食べようねーー!!」
蜜璃を見送った後、屋敷の前には再び静けさが戻った。
去っていく後ろ姿は、夕陽に照らされてまるで光のようだった。
「……はぁ〜〜〜……やっぱ柱ってすげぇなぁ……」
部屋に戻ってきた綾斗は大きく息を吐き、ぽりぽりと頭を掻いた。
「“常中”か……俺なんか全集中の呼吸、五分やったら足ガクガクになって動けなくなるのに」
軽口混じりに隣へ視線を向け――固まった。
「…… 名前ちゃん?」
名前は座布団の上で背を丸め、胸を押さえていた。
荒く、ひゅー、ひゅーっと擦れるような音が喉から漏れている。
汗が額を伝い、肩は小刻みに震えていた。
「ちょ、ちょっと!?何、ど、どうしたの!?」
綾斗が慌てて駆け寄る。
名前は苦しげに唇を噛み、震える声を絞り出した。
「……全集中の……呼吸……っ」
「はぁ!?今やってんの!?」
綾斗は頭を抱えた。
「無理だって!そんないきなりできる訳ないって!まだ傷も完全に塞がってないのに……!」
止めようと肩に手を置く。
だが名前は首を横に振り、呼吸を乱しながらも腹の奥に力を込め続けていた。
吐く息を絞り、吸う息を細く長く――。
胸が焼けるほど苦しくても、その瞳はまっすぐだった。
(……うそだろ、止める気全く無いじゃん……!)
「お、おい、ほんとにやめろって! そんな無茶してどうすんの!?」
必死に声をかける綾斗に、名前は荒い息を繰り返しながらも、掠れた声で答えた。
「……強く、なる……私は……どんな、鬼にも……負けたく、……っ!」
言葉はそこまでしか続かなかった。
けれど、その震える瞳には強い焦りと決意が宿っていた。
「……はぁ……っ、はぁっ……!」
綾斗は言葉を失う。
自分ならとっくに諦めている。
だけど名前は、どんなに苦しくても一歩も退かない。
(……ほんと、なんなんだよ……俺とは……全然違う……)
胸の奥がざわつき、悔しさとも畏怖ともつかない感情が渦巻いた。
名前の胸は上下に激しく波打ち、顔色は真っ青だった。
それでもなお、彼女は呼吸を切らすまいと必死に腹へ力を込め続けている。
「……はっ……ひゅっ……っは……」
指先は痺れ、全身が震えていた。
「も、もう限界だろ!! やめろってば!」
綾斗は両肩を揺さぶったが、名前は首を振り、なおも吸って吐いてを繰り返した。
(――気絶寸前だ……!)
その姿に、綾斗の中で何かがぶちっと切れた。
「……もぉおおお!!分かったよ!!」
怒鳴るように言うと、綾斗はぐっと腹に力を込め、大きく息を吸い込んだ。
「俺だってやる!やってやる!!俺だって……ぜっ、絶対柱になるんだからァァーー!!!」
がむしゃらに全集中の呼吸を始める。
まだ傷が塞がっていない腹部が悲鳴を上げる。
けれど、意地と勢いだけで呼吸を続けた。
「はぁっ……ひゅ……っ……!!」
数分も経たぬうちに、視界がぐるぐると回り始める。
頭の芯が真っ白に霞み――
「……あ、れれ……っ」
ぐらりと崩れるように横へ倒れた。
そのすぐ傍で、名前もまた、力尽きたように膝から崩れ落ちる。
二人は並んで畳に突っ伏し、ぐったりと動かなくなった。
***
「――馬鹿なのォォオオオ!!?」
程なくして駆けつけた医師の怒号が、藤の屋敷中に響き渡った。
「分かってんの!?アンタ達、重症なの!!普通は死んでんの!!何で生きてんのか分かんないの!!」
「私言いましたよね!?絶・対・安・静!!意味分かる!?絶対に安静ってコト!!」
こっぴどく叱られる二人。
鬼より恐ろしい剣幕に、布団へ突っ伏した二人はしゅん、と小さくなった。
襖の向こうでは、その様子を女中達がハラハラしながら見守っている。
「「……すみません……」」
蚊の鳴くような声で揃って謝る。
医師は腰に手を当てて一層目を吊り上げると、びしりと指を突きつけた。
「特に女の子の方!!」
ビクッ!
名前の肩が大きく震えた。
医師の血走った目が、震える名前を容赦なく睨んだ。
「貴女、私の目を盗んで庭で鍛錬している事、鬼狩りに行った事――知ってますからね……!」
低い声音に、名前はますます縮こまり、布団の端をぎゅっと握りしめた。
「……すみません……」
消え入りそうな声。
その姿に綾斗は「(だから言ったのに……)」と哀れみ半分、呆れ半分で内心呟いた。
「まったく……命を粗末にするくらいなら、いっそ刀を置きなさい!!」
それから、怒りの混じった説教は何時間も続いた。
結局その夜、二人は布団に並べて寝かされ、厳重に見張りをつけられる羽目になった。
***
夜の帳が落ちて、更に少しして。
外からは虫の声が絶え間なく続き、見張りの寝息も聞こえ始めた頃、ぽつりと綾斗が呟いた。
「 名前ちゃん……起きてる?」
「…うん」
「……怒られちゃったね」
「……うん」
「めっちゃ怖かったね」
「………うん」
二人の声がやけに小さく響く。
しばらく間を置いてから、綾斗がさらに囁くように言った。
「……俺、ちょっと漏らしちゃった」
「…………私も」
「え!?嘘!!」
「嘘」
「ちょ……もー!なんだよー!」
綾斗は布団をばさっとはだけさせ、思わず跳ね起きそうになる。
その横で、名前は小さく唇を押さえた。
かすかに震える肩――笑っていた。
「……今の、冗談?」
「……うん」
掠れるような返事だった。
けれど確かに、名前の声に柔らかな色が混じっていた。
綾斗の心臓が、不意に大きく跳ねる。
「…… 名前ちゃんの冗談、初めて聞いた」
そのままじっと名前を見つめ、次第に頬がゆるんでいく。
「…変?」
「ううん。なんか…… 名前ちゃんと仲良くなれたかなって思ったら……すげぇ嬉しい」
布団に潜った名前は、答えずにただ視線を逸らす。
けれど赤く染まった耳が、小さな照れを代弁していた。
綾斗は天井を仰ぎ、静かに息を吐く。
「……俺、もっと頑張る」
名前が綾斗に視線を向ける。
「今日みたいにさ、隣で無茶してる名前ちゃん見て……悔しかったんだ」
「俺だって本気でやる。怪我が治ったら、一緒に“常中”頑張ろう」
そう言った声は震えていなかった。
まっすぐな響きに、名前は少し目を瞬き――やがて静かに頷いた。
「……うん」
その短い返事に、綾斗の胸の奥がじんわりと熱を帯びる。
しばらくして、綾斗がまた口を開いた。
今度は、少し照れたように笑って。
「……それでさ」
「うん」
「一緒に……柱、目指そうよ」
名前は一瞬、目を見開いた。
けれどすぐに、布団の中で小さく笑った。
「……うん」
怒られて、叱られて、布団に並べて寝かされている夜なのに。
何故だろう。
胸の奥では、不思議とあたたかいものが芽吹いていた。
***
朝。
藤の屋敷の庭はまだ薄靄がかかり、涼やかな風が木々を揺らしていた。
名前と綾斗は向かい合い、膝をつき、腹へ深く息を落とす。
「……すぅぅぅ……はぁぁぁ……」
腹の奥で膨らませ、細く長く吐き出す。
それを絶え間なく繰り返す。
名前は目を閉じ、微動だにせず座っていた。
その気配はまるで水底に沈む石のようで、存在が空気に溶け込むほど静かだった。
すでに数時間、全集中の呼吸を途切れさせずに続けている。
汗は頬を伝っているはずなのに、その姿には一切の乱れがない。
一方、隣の綾斗は――
「……すっ……はっ……はぁっ……ひぃっ……くそ……!」
肩が上下し、額から汗が滝のように流れ落ちていた。
唇は震え、声が漏れる。
呼吸の音は荒く、今にも途切れそうだ。
(っぐ……もう無理……でも……っ!)
それでも綾斗は食いしばる。
目の端に映る名前が、あまりに静かで強く見えたから。
名前の呼吸は、揺るぎない。
胸の動きは僅かで、吐き出す音は清らかな水流のように穏やかだった。
綾斗は歯を食いしばり、内心で悪態をつく。
(なんで……同じ人間なのに……こんなに違うんだよ……!)
肺が焼けるように熱い。
腹は張り裂けそうで、視界も滲む。
「……っはぁああ……!」
ついに膝が崩れかける。
それでも名前は揺るがない。
閉じた瞼の奥に、彼女は何を見ているのだろう。
――やがて、綾斗はがくんと前に倒れ込み、芝へ大の字に崩れた。
「ぜぇ……はぁ……もう……だめ……っ!」
肩で荒い呼吸を繰り返す彼を、名前は静かに見下ろした。
そして短く告げる。
「……二十分」
「……え?」
「昨日より……二分、長い」
名前の声は淡々としていた。
けれど、その瞳には僅かな光が宿っていた。
「……へへ……ほんとに?」
綾斗の顔に安堵の笑みが広がった。
苦しくて仕方ないのに、その一言がたまらなく嬉しかった。
「俺……ちゃんと、伸びてるんだな」
名前は小さく頷き、再び深く息を吸い込む。
呼吸の音がまた静かに庭へ溶け込む。
綾斗は汗まみれの顔を両手で覆い、芝に寝転がったまま天を仰ぐ。
「……ほんっと、敵わねぇな……」
それでも悔しさより、尊敬の方が勝っていた。
そして胸の奥で、ふと拳を握りしめる。
(……俺だって、絶対できるようになってやる)
その決意が芽吹いた瞬間、再び名前の呼吸音が耳に届いた。
静かで、強くて、どこまでも揺るぎない音だった。
――常中の鍛錬の日々は、こうして重ねられていった。
***
数日後。
この日も揃って常中の修行をしていた名前と綾斗の元に、突如それはやってきた。
「カァァァアアアッ!!」
名前の肩へ降り立った鎹鴉が、羽を大きく広げる。
その声は芝居がかった調子ながら、どこか切迫した色を帯びていた。
「告グ―― 名前様、並ビニ鷹司綾斗!」
「北方ノ山間――朝霧山ニテ、鬼現ル!討伐ニ当タリシ隊士、死傷者多数!事態甚ダ深刻ナリ!」
その名が告げられた瞬間、名前の表情がぴくりと強ばった。
わずかに動いた指先。
胸の奥に冷たい脈動が走る。
だが、すぐに顔を伏せて呼吸を整える。
綾斗はそんな名前の様子に気づくことなく、
「死傷者多数って……やばい任務だ」
と息を呑んだ。
「別ノ地ヨリ向カウ二名ノ隊士アリ!両名ハ直チニ支度シ、其ノ者達ト合流スベシ!任務急ヲ要ス!速ヤカニ出立セヨ!!」
鴉の鋭い声が、庭一面に木霊する。
名前は深く息を吐き、汗で濡れた手のひらをぎゅっと握り締めた。
綾斗もまた、乱れる呼吸を整えながら立ち上がる。
鎹鴉は翼を一振りし、最後に叫んだ。
「其ノ武運、天照ラスコトヲ!!」
再び舞い上がった黒い影を見送りながら、綾斗は無意識に拳を握り締めていた。
そして名前は、空を見上げた。
強張ったままの表情。
手の震えを隠すように、裾の影へ押し込む。
互いの視線が交わり、短い頷き。
次なる戦いは、待ってはくれない。
戦いの場は――朝霧山。
それは、名前の故郷の山の名前だった。
蜜璃を見送った後、屋敷の前には再び静けさが戻った。
去っていく後ろ姿は、夕陽に照らされてまるで光のようだった。
「……はぁ〜〜〜……やっぱ柱ってすげぇなぁ……」
部屋に戻ってきた綾斗は大きく息を吐き、ぽりぽりと頭を掻いた。
「“常中”か……俺なんか全集中の呼吸、五分やったら足ガクガクになって動けなくなるのに」
軽口混じりに隣へ視線を向け――固まった。
「…… 名前ちゃん?」
名前は座布団の上で背を丸め、胸を押さえていた。
荒く、ひゅー、ひゅーっと擦れるような音が喉から漏れている。
汗が額を伝い、肩は小刻みに震えていた。
「ちょ、ちょっと!?何、ど、どうしたの!?」
綾斗が慌てて駆け寄る。
名前は苦しげに唇を噛み、震える声を絞り出した。
「……全集中の……呼吸……っ」
「はぁ!?今やってんの!?」
綾斗は頭を抱えた。
「無理だって!そんないきなりできる訳ないって!まだ傷も完全に塞がってないのに……!」
止めようと肩に手を置く。
だが名前は首を横に振り、呼吸を乱しながらも腹の奥に力を込め続けていた。
吐く息を絞り、吸う息を細く長く――。
胸が焼けるほど苦しくても、その瞳はまっすぐだった。
(……うそだろ、止める気全く無いじゃん……!)
「お、おい、ほんとにやめろって! そんな無茶してどうすんの!?」
必死に声をかける綾斗に、名前は荒い息を繰り返しながらも、掠れた声で答えた。
「……強く、なる……私は……どんな、鬼にも……負けたく、……っ!」
言葉はそこまでしか続かなかった。
けれど、その震える瞳には強い焦りと決意が宿っていた。
「……はぁ……っ、はぁっ……!」
綾斗は言葉を失う。
自分ならとっくに諦めている。
だけど名前は、どんなに苦しくても一歩も退かない。
(……ほんと、なんなんだよ……俺とは……全然違う……)
胸の奥がざわつき、悔しさとも畏怖ともつかない感情が渦巻いた。
名前の胸は上下に激しく波打ち、顔色は真っ青だった。
それでもなお、彼女は呼吸を切らすまいと必死に腹へ力を込め続けている。
「……はっ……ひゅっ……っは……」
指先は痺れ、全身が震えていた。
「も、もう限界だろ!! やめろってば!」
綾斗は両肩を揺さぶったが、名前は首を振り、なおも吸って吐いてを繰り返した。
(――気絶寸前だ……!)
その姿に、綾斗の中で何かがぶちっと切れた。
「……もぉおおお!!分かったよ!!」
怒鳴るように言うと、綾斗はぐっと腹に力を込め、大きく息を吸い込んだ。
「俺だってやる!やってやる!!俺だって……ぜっ、絶対柱になるんだからァァーー!!!」
がむしゃらに全集中の呼吸を始める。
まだ傷が塞がっていない腹部が悲鳴を上げる。
けれど、意地と勢いだけで呼吸を続けた。
「はぁっ……ひゅ……っ……!!」
数分も経たぬうちに、視界がぐるぐると回り始める。
頭の芯が真っ白に霞み――
「……あ、れれ……っ」
ぐらりと崩れるように横へ倒れた。
そのすぐ傍で、名前もまた、力尽きたように膝から崩れ落ちる。
二人は並んで畳に突っ伏し、ぐったりと動かなくなった。
***
「――馬鹿なのォォオオオ!!?」
程なくして駆けつけた医師の怒号が、藤の屋敷中に響き渡った。
「分かってんの!?アンタ達、重症なの!!普通は死んでんの!!何で生きてんのか分かんないの!!」
「私言いましたよね!?絶・対・安・静!!意味分かる!?絶対に安静ってコト!!」
こっぴどく叱られる二人。
鬼より恐ろしい剣幕に、布団へ突っ伏した二人はしゅん、と小さくなった。
襖の向こうでは、その様子を女中達がハラハラしながら見守っている。
「「……すみません……」」
蚊の鳴くような声で揃って謝る。
医師は腰に手を当てて一層目を吊り上げると、びしりと指を突きつけた。
「特に女の子の方!!」
ビクッ!
名前の肩が大きく震えた。
医師の血走った目が、震える名前を容赦なく睨んだ。
「貴女、私の目を盗んで庭で鍛錬している事、鬼狩りに行った事――知ってますからね……!」
低い声音に、名前はますます縮こまり、布団の端をぎゅっと握りしめた。
「……すみません……」
消え入りそうな声。
その姿に綾斗は「(だから言ったのに……)」と哀れみ半分、呆れ半分で内心呟いた。
「まったく……命を粗末にするくらいなら、いっそ刀を置きなさい!!」
それから、怒りの混じった説教は何時間も続いた。
結局その夜、二人は布団に並べて寝かされ、厳重に見張りをつけられる羽目になった。
***
夜の帳が落ちて、更に少しして。
外からは虫の声が絶え間なく続き、見張りの寝息も聞こえ始めた頃、ぽつりと綾斗が呟いた。
「 名前ちゃん……起きてる?」
「…うん」
「……怒られちゃったね」
「……うん」
「めっちゃ怖かったね」
「………うん」
二人の声がやけに小さく響く。
しばらく間を置いてから、綾斗がさらに囁くように言った。
「……俺、ちょっと漏らしちゃった」
「…………私も」
「え!?嘘!!」
「嘘」
「ちょ……もー!なんだよー!」
綾斗は布団をばさっとはだけさせ、思わず跳ね起きそうになる。
その横で、名前は小さく唇を押さえた。
かすかに震える肩――笑っていた。
「……今の、冗談?」
「……うん」
掠れるような返事だった。
けれど確かに、名前の声に柔らかな色が混じっていた。
綾斗の心臓が、不意に大きく跳ねる。
「…… 名前ちゃんの冗談、初めて聞いた」
そのままじっと名前を見つめ、次第に頬がゆるんでいく。
「…変?」
「ううん。なんか…… 名前ちゃんと仲良くなれたかなって思ったら……すげぇ嬉しい」
布団に潜った名前は、答えずにただ視線を逸らす。
けれど赤く染まった耳が、小さな照れを代弁していた。
綾斗は天井を仰ぎ、静かに息を吐く。
「……俺、もっと頑張る」
名前が綾斗に視線を向ける。
「今日みたいにさ、隣で無茶してる名前ちゃん見て……悔しかったんだ」
「俺だって本気でやる。怪我が治ったら、一緒に“常中”頑張ろう」
そう言った声は震えていなかった。
まっすぐな響きに、名前は少し目を瞬き――やがて静かに頷いた。
「……うん」
その短い返事に、綾斗の胸の奥がじんわりと熱を帯びる。
しばらくして、綾斗がまた口を開いた。
今度は、少し照れたように笑って。
「……それでさ」
「うん」
「一緒に……柱、目指そうよ」
名前は一瞬、目を見開いた。
けれどすぐに、布団の中で小さく笑った。
「……うん」
怒られて、叱られて、布団に並べて寝かされている夜なのに。
何故だろう。
胸の奥では、不思議とあたたかいものが芽吹いていた。
***
朝。
藤の屋敷の庭はまだ薄靄がかかり、涼やかな風が木々を揺らしていた。
名前と綾斗は向かい合い、膝をつき、腹へ深く息を落とす。
「……すぅぅぅ……はぁぁぁ……」
腹の奥で膨らませ、細く長く吐き出す。
それを絶え間なく繰り返す。
名前は目を閉じ、微動だにせず座っていた。
その気配はまるで水底に沈む石のようで、存在が空気に溶け込むほど静かだった。
すでに数時間、全集中の呼吸を途切れさせずに続けている。
汗は頬を伝っているはずなのに、その姿には一切の乱れがない。
一方、隣の綾斗は――
「……すっ……はっ……はぁっ……ひぃっ……くそ……!」
肩が上下し、額から汗が滝のように流れ落ちていた。
唇は震え、声が漏れる。
呼吸の音は荒く、今にも途切れそうだ。
(っぐ……もう無理……でも……っ!)
それでも綾斗は食いしばる。
目の端に映る名前が、あまりに静かで強く見えたから。
名前の呼吸は、揺るぎない。
胸の動きは僅かで、吐き出す音は清らかな水流のように穏やかだった。
綾斗は歯を食いしばり、内心で悪態をつく。
(なんで……同じ人間なのに……こんなに違うんだよ……!)
肺が焼けるように熱い。
腹は張り裂けそうで、視界も滲む。
「……っはぁああ……!」
ついに膝が崩れかける。
それでも名前は揺るがない。
閉じた瞼の奥に、彼女は何を見ているのだろう。
――やがて、綾斗はがくんと前に倒れ込み、芝へ大の字に崩れた。
「ぜぇ……はぁ……もう……だめ……っ!」
肩で荒い呼吸を繰り返す彼を、名前は静かに見下ろした。
そして短く告げる。
「……二十分」
「……え?」
「昨日より……二分、長い」
名前の声は淡々としていた。
けれど、その瞳には僅かな光が宿っていた。
「……へへ……ほんとに?」
綾斗の顔に安堵の笑みが広がった。
苦しくて仕方ないのに、その一言がたまらなく嬉しかった。
「俺……ちゃんと、伸びてるんだな」
名前は小さく頷き、再び深く息を吸い込む。
呼吸の音がまた静かに庭へ溶け込む。
綾斗は汗まみれの顔を両手で覆い、芝に寝転がったまま天を仰ぐ。
「……ほんっと、敵わねぇな……」
それでも悔しさより、尊敬の方が勝っていた。
そして胸の奥で、ふと拳を握りしめる。
(……俺だって、絶対できるようになってやる)
その決意が芽吹いた瞬間、再び名前の呼吸音が耳に届いた。
静かで、強くて、どこまでも揺るぎない音だった。
――常中の鍛錬の日々は、こうして重ねられていった。
***
数日後。
この日も揃って常中の修行をしていた名前と綾斗の元に、突如それはやってきた。
「カァァァアアアッ!!」
名前の肩へ降り立った鎹鴉が、羽を大きく広げる。
その声は芝居がかった調子ながら、どこか切迫した色を帯びていた。
「告グ―― 名前様、並ビニ鷹司綾斗!」
「北方ノ山間――朝霧山ニテ、鬼現ル!討伐ニ当タリシ隊士、死傷者多数!事態甚ダ深刻ナリ!」
その名が告げられた瞬間、名前の表情がぴくりと強ばった。
わずかに動いた指先。
胸の奥に冷たい脈動が走る。
だが、すぐに顔を伏せて呼吸を整える。
綾斗はそんな名前の様子に気づくことなく、
「死傷者多数って……やばい任務だ」
と息を呑んだ。
「別ノ地ヨリ向カウ二名ノ隊士アリ!両名ハ直チニ支度シ、其ノ者達ト合流スベシ!任務急ヲ要ス!速ヤカニ出立セヨ!!」
鴉の鋭い声が、庭一面に木霊する。
名前は深く息を吐き、汗で濡れた手のひらをぎゅっと握り締めた。
綾斗もまた、乱れる呼吸を整えながら立ち上がる。
鎹鴉は翼を一振りし、最後に叫んだ。
「其ノ武運、天照ラスコトヲ!!」
再び舞い上がった黒い影を見送りながら、綾斗は無意識に拳を握り締めていた。
そして名前は、空を見上げた。
強張ったままの表情。
手の震えを隠すように、裾の影へ押し込む。
互いの視線が交わり、短い頷き。
次なる戦いは、待ってはくれない。
戦いの場は――朝霧山。
それは、名前の故郷の山の名前だった。