六章
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こんにちは、鷹司綾斗です。
あの鏡と影の鬼との戦いから、何日経っただろうか。
俺と名前ちゃんは藤の家紋の屋敷に運ばれて、しばらく寝込みました。
正直、あの時は二人とももう駄目かと思った。
けど、今こうして布団の上で筆を持っている。生きているってだけで、十分奇跡だと思う。
俺の方はまだ全然ダメだ。
名前ちゃんに雫の呼吸で応急処置してもらったけど、深く息をするだけで傷が痛むし、刀を握るなんてもってのほか。
お医者様や隠の人に「しばらくは大人しくしてろ」って何度も言われた。
……でも。名前ちゃんは違った。
ほんの数日、血の気のない顔で寝込んでいたはずなのに、目が覚めたと思ったら、もう庭に出て木刀を振っていた。
体はまだふらついてる。呼吸だって荒いままなのに、何度も何度も型を繰り返して――。
俺が「少し休まなきゃ駄目だよ」って声をかけても、名前ちゃんは黙って首を横に振るだけ。
その瞳は、俺が何を言っても止められないって告げてるみたいだった。
この間なんか、近くに鬼が出たって隠が報告に来たんだ。
まだ傷も塞がってないのに、名前ちゃんはほとんど迷いなく刀を手に取って立ち上がった。
慌てて「無茶だ!」って止めた俺に、彼女は静かに言った。
「今行かないと、後悔する」
……あの言葉、まだ耳に残ってる。
怖くて足がすくむ俺と、迷わず前へ出ていく名前ちゃん。
同じ隊士のはずなのに、全然違う。
鬼に追い詰められても、顔色ひとつ変えなかったあの時のことを思い出す。
呼吸の反動で震えていたのに、俺を見て微笑んだ顔。
あれを思い出すと、胸がぎゅっと掴まれる。
……なんでだろう。
ただ「すごい」って思うだけなら分かる。尊敬だとか憧れだとか、そういうのは当然だ。
でも、それだけじゃない気がする。
名前ちゃんを見てると、息が止まったみたいになったり、顔が熱くなったり、胸がやけにうるさくなったり――。
なのに理由が分からない。
俺は、もっと強くなりたい。
妹や弟の、自慢の兄ちゃんになれるように。
名前ちゃんみたいに真っ直ぐ前に進めるように。
せめて、彼女の背中に隠れてばかりじゃなくて、隣に並べるくらいには。
……いや、きっとそれだけじゃない。
隣に並んで戦いたい、じゃなくて――。
(……なんだろうな、これ)
自分でもよく分からないまま、筆を置く。
答えはそのうち見つかるだろう。
――鷹司綾斗、藤の家紋の屋敷にて。
***
夕暮れ時。
藤の屋敷の廊下は、障子越しの光にほんのり染まり、静かな匂いを帯びていた。
「……よいしょ、って、いててて……!」
ようやく身体を起こせるようになった綾斗は、まだ足取りも危うく、肩を貸してくれる名前に何度も頭を下げていた。
「気にしないで」
淡々とした声で言いながらも、名前の手はしっかりと彼の腕を支えている。
その細い指先に頼らざるを得ない自分が情けないやら、ありがたいやら――綾斗は複雑な顔で、ただ前に進んだ。
「夕餉に行くだけで、このざまか……」
「食べないと、また倒れる」
「……はい」
彼女にぴしゃりと言われ、素直に返事するしかなかった。
二人が廊下を進むと、不意に、ざわつきが耳に届いた。
女中たちが慌ただしく行き来し、膳や椀を次々に運んでいる。
普段は落ち着いた屋敷で、これほどの喧騒は珍しい。
「「?」」
名前と綾斗は顔を見合わせ、足を止めた。
すれ違う女中が、湯気を立てる大皿を抱えて走り抜ける。
その表情は忙しなくも楽しげで、どこか誇らしさすら浮かんでいるように見えた。
気になって障子の先へと視線をやる。
その瞬間、綾斗は目を丸くした。
――そこにいたのは、一際鮮やかな存在だった。
鮮やかな桃色と黄緑が混じる長い髪。
微笑むだけで場をぱっと明るく照らすような、華やかな気配。
艶やかな隊服に身を包みながら、膳の前で「わぁ!」と嬉しそうに手を合わせる姿。
「……う、うそだろ……」
思わず綾斗が呟く。
恋柱――甘露寺蜜璃。
藤の家紋の屋敷に似つかわしくないほどの鮮烈さで、彼女はそこに座していた。
名前もまた、静かな眼差しでその光景を見つめていた。
食堂を満たす湯気と香り、ざわめき。
その中心で微笑む蜜璃の姿は、嵐を越えた後の安堵を象徴するかのように――あまりにも眩しかった。
綾斗は息を呑み、名前の袖を引っ張った。
「や、やばいって……! あの人……!」
名前は小首を傾げ、首筋にかかる髪をわずかに揺らす。
「……誰?」
「えっ!? 知らないの!? もぉ!相変わらず世間知らずなんだから……!」
綾斗が名前に耳打ちする。
「“恋柱”甘露寺蜜璃様! 柱だよ!? 鬼殺隊の最強剣士のひとりだよ!」
声を抑えながらも、綾斗は早口で説明をまくしたてる。
名前は瞬きをしてから、障子の向こうを静かに見やる。
蜜璃は大皿を前にして、頬をほんのり紅潮させながら、幸せそうに手を合わせていた。
「いただきますっ!」
その一言に、食堂全体の空気がぱっと華やいだ。
「……柱」
名前は短く呟く。
その声音には驚きよりも、静かな興味の色が滲んでいた。
その時。
「――あら!」
蜜璃の視線がこちらに気づいた。
ぱっと顔を輝かせて立ち上がると、障子を開けて二人に手を振る。
「ねぇ!そこのお二人も一緒に食べましょう! ほらほら、席はたくさんあるの!」
「えっ!!?」
「い、いや俺らなんて……!」と慌てる綾斗をよそに、蜜璃は笑顔で手を引きそうな勢いで勧めてくる。
結局、断れるはずもなく――二人は揃って食堂へ足を踏み入れた。
綾斗は妙にぎこちない動きで座布団に腰を下ろし、蜜璃の隣に座るや否や顔が熱を帯びる。
「(やっべぇ……ち、近い……めっちゃいい匂いする……!)あ、あの、その……甘露寺様、ですよね!? あの、いつもご活躍を……!」
すっかり舞い上がっている。
一方の名前は、座るときも背筋を正して丁寧に頭を下げ、無駄なく箸を取った。
「いただきます」
その落ち着いた所作が、余計に綾斗の挙動不審さを際立たせていた。
「えへへ、ありがとう! 一緒に食べられて嬉しいわ!」
蜜璃は満面の笑みで返すと、早速目の前の料理に手を伸ばす。
そして――次の瞬間。
「おいし~~いっ!!」
感極まった声と共に、蜜璃は勢いよく頬張り始めた。
一口、二口……いや、もはや数える間もなく、どんどん膳が空になっていく。
綾斗はぽかんと口を開けた。
「(は、速ぇ……!? いや量、多っ……!? これほんとに全部入ってんの……!?)」
最初はにこにこと見守っていたが、次第に額に汗を浮かべ、箸を止めてしまう。
「……な、なんか……俺の方が食欲無いみたいに見えるな……」
名前はといえば、無言で黙々と、きちんとした動きで食事を進めている。
その姿勢は変わらず凛としていて、蜜璃の豪快さと対照的だった。
「皆で食べるとおいしいご飯がもっとおいしくなるよねー!!」
――片や、豪快に食べる柱。
――片や、静かに箸を進める少女。
――そしてその狭間で、頬を赤らめたり青ざめたりしながら、ただ圧倒されていく綾斗。
賑やかな湯気の中で、三人の食卓は不思議な調和を見せていた。
***
豪快に食べ進めていた蜜璃が、湯気立つ最後の椀をぺろりと平らげると、満足げに「はぁ~おいしかった!」と手を合わせた。
積み上がった空の皿の山に、綾斗は口をぱくぱくさせたまま固まっている。
蜜璃はそんな彼を気にする様子もなく、にこにこと二人へ向き直った。
「ねえねえ! あなた達、お名前は?」
綾斗は慌てて正座し直し、背筋を伸ばす。
「あっ、た、鷹司綾斗です! よろしくお願いします!」
頬を赤らめながら勢いよく頭を下げる。
「名前です」
名前は控えめに名乗り、深く一礼した。
「綾斗君と、名前ちゃん! 女の子の隊士って本当に少ないの! 嬉しいわ、仲良くしてね!」
蜜璃は瞳をきらきら輝かせて、遠慮もなく名前の手をぎゅっと取った。
綾斗はその光景に「あ、ああ……(近い……!近いよ……!)」と内心で大騒ぎしている。
一方の名前は驚きに瞬きをしたものの、蜜璃の明るさを真正面から受け止めて、小さく頷いた。
「……はい」
その声は柔らかくも、どこか畏敬を帯びていた。
目の前にいるのは、“柱”――鬼殺隊最強の剣士のひとり。
無邪気に手を握られたその温かさの奥に、揺るぎない強さを名前は感じ取っていた。
自分とは比べものにならない、圧倒的な存在。
格の違い。
一瞬の沈黙ののち、名前は視線を落とし、静かに口を開いた。
「恋柱様。……無礼を承知で、お聞きします」
蜜璃が「ん?」と可愛らしく首を傾げる。
名前の声音は真剣で、決意を帯びていた。
「どうしたら――強くなれますか」
綾斗が「えっ……」と目を見開く。
その問いはあまりにも率直で、あまりにも重かった。
蜜璃は、ぱちぱちと大きな瞳を瞬きさせた後、少し困ったように笑った。
「どうしたら……強くなれるか、かぁ。うーん……」
箸を置き、両手で頬を支えながら首を傾げる。
その仕草は可憐だが、考え込む表情は真剣だった。
「私ね、最初から“強くなりたい”って思って鍛錬してきたわけじゃないの。むしろ……“普通の女の子みたいになりたかった”のに、それができなくて……」
綾斗が思わず息を呑む。名前も静かに見守っていた。
「でも、鬼殺隊に入って、“強さ”を受け入れたら、やっとここが自分の居場所になったの。だから……強くなる方法って聞かれても、うまく言えないんだけど……」
蜜璃は恥ずかしそうに笑みを浮かべ、それでもまっすぐに名前を見た。
「……好きなものを、大事にすることかな」
名前が目を瞬かせる。
「誰かでも、何かでも、どんな理由でもいい。
“これが好き”“守りたい”“失いたくない”って気持ちがあれば、どんな鍛錬も続けられるし、苦しい時も立ち上がれる。
……私はそれで、ここまで来たの」
そう言って、蜜璃はまた明るく笑った。
その笑みは、柱の風格と同時に、どこか普通の女の子らしい照れもにじんでいた。
名前は俯いたまま、膝の上で握る指をほんの少し震わせていた。
蜜璃の「好きなものを大事にすること」という言葉は、心のどこかに温かい響きを残したものの――その温かさを素直に受け止めるには、彼女の傷は深すぎた。
(……“好き”なんて。守りたいなんて。私には、もう……)
胸の奥が冷たい水に沈む感覚。
名前はわずかに眉を伏せ、黙り込んだ。
その様子に気づいたのか、蜜璃は小さく目を瞬き、やがてふっと表情を変えた。
まるで気分を切り替えるように、少し声を弾ませて言う。
「ねぇ名前ちゃん。全集中の呼吸、常にやってる?常中って言うんだけど…」
名前は、顔を上げた。
思わぬ問いかけに、わずかに戸惑いを見せる。
「……いえ。常には、できません。戦闘の時だけです」
蜜璃は「やっぱり!」と勢いよく立ち上がり、両手を腰に当てて胸を張った。
「それね!すっごく大事なのよ!だって鬼ってね、隙あらばバーン!って来ちゃうじゃない!?」
蜜璃は両手を前に突き出して「バーン!」と擬音を響かせる。
綾斗がびくっと肩を揺らした。
「で!呼吸を切らしちゃうとね、動きがガクーン!って鈍くなっちゃうの!」
今度は両膝を折って「ガクーン!」と崩れるジェスチャーをする蜜璃。
名前は目を見開いて黙って見つめていたが、ちゃんと意味は理解しているようだった。
蜜璃はぐっと拳を握り、胸の前でぐるぐる振ってみせる。
「だから!常に呼吸をぎゅーっ!て続けるの!もう寝てる時も食べてる時も、ずーっと!」
「最初はすっごいしんどいの!ぜぇぜぇはぁはぁもう無理〜ってなっちゃうけど……!」
蜜璃が身を乗り出す。
名前の目前で彼女の豊満な胸が揺れた。
「でもそこを続けるの!!」
蜜璃がぱっと背筋を伸ばして笑う。
「そうするとね、ふわ〜って身体が慣れてくるの!呼吸が身体に染み込むって感じ!」
「ふわ〜……」名前がぽつりと繰り返す。
綾斗は横で、口を半開きにしていた。
(……いや、全然わっかんねぇ……)
蜜璃はなおも手振りを交えて続ける。
「私ね、最初は全然できなかったの!でも――」
ふっと視線を伏せ、少し照れくさそうに笑った。
「“できるようになるまでやり続けろ!心を燃やせ!”って、すっごく熱心に教えてくれた人がいてね。……そのおかげで今の私があるの!」
懐かしむ様な、慈しむ様なその声色。
彼女の師匠なのだろう。
その人物の顔も名前も知らない。けれど、蜜璃の声に宿った熱だけは、まっすぐに胸へ届いた。
蜜璃は再び胸を張り、拳を握って言った。
「だから、名前ちゃんもきっと大丈夫!!心を燃やして、一緒に頑張ろう!!」
まるで春の日差しの様な人だと、名前は思った。
裏も表もなく、自分の様な末端に、心からの助言と声援を、惜しみなく与えてくれる。
なんて温かな人だろう。
名前は、深々と頭を垂れた。
「恋柱様。……お心遣いと、御指南。心から感謝いたします」
「……!」
蜜璃は一瞬の後、顔をとろけさせて両手を合わせた。
「な、なんて……なんていい子なの〜〜!!キュンキュンしちゃう!!」
「うっ」
目尻に涙をにじませながら、名前を「ぎゅーっ!」と抱きしめた。
(ち……力強……!?)
名前は見た目と反した蜜璃の力強さに困惑し、やや青い顔色をしながらも、それを拒むことはしなかった。
その横で綾斗は――
(……なんだかよく分からないけど……どっちも羨ましい……)
自分でも理解できない複雑な感情を胸に、二人を見つめていた。
あの鏡と影の鬼との戦いから、何日経っただろうか。
俺と名前ちゃんは藤の家紋の屋敷に運ばれて、しばらく寝込みました。
正直、あの時は二人とももう駄目かと思った。
けど、今こうして布団の上で筆を持っている。生きているってだけで、十分奇跡だと思う。
俺の方はまだ全然ダメだ。
名前ちゃんに雫の呼吸で応急処置してもらったけど、深く息をするだけで傷が痛むし、刀を握るなんてもってのほか。
お医者様や隠の人に「しばらくは大人しくしてろ」って何度も言われた。
……でも。名前ちゃんは違った。
ほんの数日、血の気のない顔で寝込んでいたはずなのに、目が覚めたと思ったら、もう庭に出て木刀を振っていた。
体はまだふらついてる。呼吸だって荒いままなのに、何度も何度も型を繰り返して――。
俺が「少し休まなきゃ駄目だよ」って声をかけても、名前ちゃんは黙って首を横に振るだけ。
その瞳は、俺が何を言っても止められないって告げてるみたいだった。
この間なんか、近くに鬼が出たって隠が報告に来たんだ。
まだ傷も塞がってないのに、名前ちゃんはほとんど迷いなく刀を手に取って立ち上がった。
慌てて「無茶だ!」って止めた俺に、彼女は静かに言った。
「今行かないと、後悔する」
……あの言葉、まだ耳に残ってる。
怖くて足がすくむ俺と、迷わず前へ出ていく名前ちゃん。
同じ隊士のはずなのに、全然違う。
鬼に追い詰められても、顔色ひとつ変えなかったあの時のことを思い出す。
呼吸の反動で震えていたのに、俺を見て微笑んだ顔。
あれを思い出すと、胸がぎゅっと掴まれる。
……なんでだろう。
ただ「すごい」って思うだけなら分かる。尊敬だとか憧れだとか、そういうのは当然だ。
でも、それだけじゃない気がする。
名前ちゃんを見てると、息が止まったみたいになったり、顔が熱くなったり、胸がやけにうるさくなったり――。
なのに理由が分からない。
俺は、もっと強くなりたい。
妹や弟の、自慢の兄ちゃんになれるように。
名前ちゃんみたいに真っ直ぐ前に進めるように。
せめて、彼女の背中に隠れてばかりじゃなくて、隣に並べるくらいには。
……いや、きっとそれだけじゃない。
隣に並んで戦いたい、じゃなくて――。
(……なんだろうな、これ)
自分でもよく分からないまま、筆を置く。
答えはそのうち見つかるだろう。
――鷹司綾斗、藤の家紋の屋敷にて。
***
夕暮れ時。
藤の屋敷の廊下は、障子越しの光にほんのり染まり、静かな匂いを帯びていた。
「……よいしょ、って、いててて……!」
ようやく身体を起こせるようになった綾斗は、まだ足取りも危うく、肩を貸してくれる名前に何度も頭を下げていた。
「気にしないで」
淡々とした声で言いながらも、名前の手はしっかりと彼の腕を支えている。
その細い指先に頼らざるを得ない自分が情けないやら、ありがたいやら――綾斗は複雑な顔で、ただ前に進んだ。
「夕餉に行くだけで、このざまか……」
「食べないと、また倒れる」
「……はい」
彼女にぴしゃりと言われ、素直に返事するしかなかった。
二人が廊下を進むと、不意に、ざわつきが耳に届いた。
女中たちが慌ただしく行き来し、膳や椀を次々に運んでいる。
普段は落ち着いた屋敷で、これほどの喧騒は珍しい。
「「?」」
名前と綾斗は顔を見合わせ、足を止めた。
すれ違う女中が、湯気を立てる大皿を抱えて走り抜ける。
その表情は忙しなくも楽しげで、どこか誇らしさすら浮かんでいるように見えた。
気になって障子の先へと視線をやる。
その瞬間、綾斗は目を丸くした。
――そこにいたのは、一際鮮やかな存在だった。
鮮やかな桃色と黄緑が混じる長い髪。
微笑むだけで場をぱっと明るく照らすような、華やかな気配。
艶やかな隊服に身を包みながら、膳の前で「わぁ!」と嬉しそうに手を合わせる姿。
「……う、うそだろ……」
思わず綾斗が呟く。
恋柱――甘露寺蜜璃。
藤の家紋の屋敷に似つかわしくないほどの鮮烈さで、彼女はそこに座していた。
名前もまた、静かな眼差しでその光景を見つめていた。
食堂を満たす湯気と香り、ざわめき。
その中心で微笑む蜜璃の姿は、嵐を越えた後の安堵を象徴するかのように――あまりにも眩しかった。
綾斗は息を呑み、名前の袖を引っ張った。
「や、やばいって……! あの人……!」
名前は小首を傾げ、首筋にかかる髪をわずかに揺らす。
「……誰?」
「えっ!? 知らないの!? もぉ!相変わらず世間知らずなんだから……!」
綾斗が名前に耳打ちする。
「“恋柱”甘露寺蜜璃様! 柱だよ!? 鬼殺隊の最強剣士のひとりだよ!」
声を抑えながらも、綾斗は早口で説明をまくしたてる。
名前は瞬きをしてから、障子の向こうを静かに見やる。
蜜璃は大皿を前にして、頬をほんのり紅潮させながら、幸せそうに手を合わせていた。
「いただきますっ!」
その一言に、食堂全体の空気がぱっと華やいだ。
「……柱」
名前は短く呟く。
その声音には驚きよりも、静かな興味の色が滲んでいた。
その時。
「――あら!」
蜜璃の視線がこちらに気づいた。
ぱっと顔を輝かせて立ち上がると、障子を開けて二人に手を振る。
「ねぇ!そこのお二人も一緒に食べましょう! ほらほら、席はたくさんあるの!」
「えっ!!?」
「い、いや俺らなんて……!」と慌てる綾斗をよそに、蜜璃は笑顔で手を引きそうな勢いで勧めてくる。
結局、断れるはずもなく――二人は揃って食堂へ足を踏み入れた。
綾斗は妙にぎこちない動きで座布団に腰を下ろし、蜜璃の隣に座るや否や顔が熱を帯びる。
「(やっべぇ……ち、近い……めっちゃいい匂いする……!)あ、あの、その……甘露寺様、ですよね!? あの、いつもご活躍を……!」
すっかり舞い上がっている。
一方の名前は、座るときも背筋を正して丁寧に頭を下げ、無駄なく箸を取った。
「いただきます」
その落ち着いた所作が、余計に綾斗の挙動不審さを際立たせていた。
「えへへ、ありがとう! 一緒に食べられて嬉しいわ!」
蜜璃は満面の笑みで返すと、早速目の前の料理に手を伸ばす。
そして――次の瞬間。
「おいし~~いっ!!」
感極まった声と共に、蜜璃は勢いよく頬張り始めた。
一口、二口……いや、もはや数える間もなく、どんどん膳が空になっていく。
綾斗はぽかんと口を開けた。
「(は、速ぇ……!? いや量、多っ……!? これほんとに全部入ってんの……!?)」
最初はにこにこと見守っていたが、次第に額に汗を浮かべ、箸を止めてしまう。
「……な、なんか……俺の方が食欲無いみたいに見えるな……」
名前はといえば、無言で黙々と、きちんとした動きで食事を進めている。
その姿勢は変わらず凛としていて、蜜璃の豪快さと対照的だった。
「皆で食べるとおいしいご飯がもっとおいしくなるよねー!!」
――片や、豪快に食べる柱。
――片や、静かに箸を進める少女。
――そしてその狭間で、頬を赤らめたり青ざめたりしながら、ただ圧倒されていく綾斗。
賑やかな湯気の中で、三人の食卓は不思議な調和を見せていた。
***
豪快に食べ進めていた蜜璃が、湯気立つ最後の椀をぺろりと平らげると、満足げに「はぁ~おいしかった!」と手を合わせた。
積み上がった空の皿の山に、綾斗は口をぱくぱくさせたまま固まっている。
蜜璃はそんな彼を気にする様子もなく、にこにこと二人へ向き直った。
「ねえねえ! あなた達、お名前は?」
綾斗は慌てて正座し直し、背筋を伸ばす。
「あっ、た、鷹司綾斗です! よろしくお願いします!」
頬を赤らめながら勢いよく頭を下げる。
「名前です」
名前は控えめに名乗り、深く一礼した。
「綾斗君と、名前ちゃん! 女の子の隊士って本当に少ないの! 嬉しいわ、仲良くしてね!」
蜜璃は瞳をきらきら輝かせて、遠慮もなく名前の手をぎゅっと取った。
綾斗はその光景に「あ、ああ……(近い……!近いよ……!)」と内心で大騒ぎしている。
一方の名前は驚きに瞬きをしたものの、蜜璃の明るさを真正面から受け止めて、小さく頷いた。
「……はい」
その声は柔らかくも、どこか畏敬を帯びていた。
目の前にいるのは、“柱”――鬼殺隊最強の剣士のひとり。
無邪気に手を握られたその温かさの奥に、揺るぎない強さを名前は感じ取っていた。
自分とは比べものにならない、圧倒的な存在。
格の違い。
一瞬の沈黙ののち、名前は視線を落とし、静かに口を開いた。
「恋柱様。……無礼を承知で、お聞きします」
蜜璃が「ん?」と可愛らしく首を傾げる。
名前の声音は真剣で、決意を帯びていた。
「どうしたら――強くなれますか」
綾斗が「えっ……」と目を見開く。
その問いはあまりにも率直で、あまりにも重かった。
蜜璃は、ぱちぱちと大きな瞳を瞬きさせた後、少し困ったように笑った。
「どうしたら……強くなれるか、かぁ。うーん……」
箸を置き、両手で頬を支えながら首を傾げる。
その仕草は可憐だが、考え込む表情は真剣だった。
「私ね、最初から“強くなりたい”って思って鍛錬してきたわけじゃないの。むしろ……“普通の女の子みたいになりたかった”のに、それができなくて……」
綾斗が思わず息を呑む。名前も静かに見守っていた。
「でも、鬼殺隊に入って、“強さ”を受け入れたら、やっとここが自分の居場所になったの。だから……強くなる方法って聞かれても、うまく言えないんだけど……」
蜜璃は恥ずかしそうに笑みを浮かべ、それでもまっすぐに名前を見た。
「……好きなものを、大事にすることかな」
名前が目を瞬かせる。
「誰かでも、何かでも、どんな理由でもいい。
“これが好き”“守りたい”“失いたくない”って気持ちがあれば、どんな鍛錬も続けられるし、苦しい時も立ち上がれる。
……私はそれで、ここまで来たの」
そう言って、蜜璃はまた明るく笑った。
その笑みは、柱の風格と同時に、どこか普通の女の子らしい照れもにじんでいた。
名前は俯いたまま、膝の上で握る指をほんの少し震わせていた。
蜜璃の「好きなものを大事にすること」という言葉は、心のどこかに温かい響きを残したものの――その温かさを素直に受け止めるには、彼女の傷は深すぎた。
(……“好き”なんて。守りたいなんて。私には、もう……)
胸の奥が冷たい水に沈む感覚。
名前はわずかに眉を伏せ、黙り込んだ。
その様子に気づいたのか、蜜璃は小さく目を瞬き、やがてふっと表情を変えた。
まるで気分を切り替えるように、少し声を弾ませて言う。
「ねぇ名前ちゃん。全集中の呼吸、常にやってる?常中って言うんだけど…」
名前は、顔を上げた。
思わぬ問いかけに、わずかに戸惑いを見せる。
「……いえ。常には、できません。戦闘の時だけです」
蜜璃は「やっぱり!」と勢いよく立ち上がり、両手を腰に当てて胸を張った。
「それね!すっごく大事なのよ!だって鬼ってね、隙あらばバーン!って来ちゃうじゃない!?」
蜜璃は両手を前に突き出して「バーン!」と擬音を響かせる。
綾斗がびくっと肩を揺らした。
「で!呼吸を切らしちゃうとね、動きがガクーン!って鈍くなっちゃうの!」
今度は両膝を折って「ガクーン!」と崩れるジェスチャーをする蜜璃。
名前は目を見開いて黙って見つめていたが、ちゃんと意味は理解しているようだった。
蜜璃はぐっと拳を握り、胸の前でぐるぐる振ってみせる。
「だから!常に呼吸をぎゅーっ!て続けるの!もう寝てる時も食べてる時も、ずーっと!」
「最初はすっごいしんどいの!ぜぇぜぇはぁはぁもう無理〜ってなっちゃうけど……!」
蜜璃が身を乗り出す。
名前の目前で彼女の豊満な胸が揺れた。
「でもそこを続けるの!!」
蜜璃がぱっと背筋を伸ばして笑う。
「そうするとね、ふわ〜って身体が慣れてくるの!呼吸が身体に染み込むって感じ!」
「ふわ〜……」名前がぽつりと繰り返す。
綾斗は横で、口を半開きにしていた。
(……いや、全然わっかんねぇ……)
蜜璃はなおも手振りを交えて続ける。
「私ね、最初は全然できなかったの!でも――」
ふっと視線を伏せ、少し照れくさそうに笑った。
「“できるようになるまでやり続けろ!心を燃やせ!”って、すっごく熱心に教えてくれた人がいてね。……そのおかげで今の私があるの!」
懐かしむ様な、慈しむ様なその声色。
彼女の師匠なのだろう。
その人物の顔も名前も知らない。けれど、蜜璃の声に宿った熱だけは、まっすぐに胸へ届いた。
蜜璃は再び胸を張り、拳を握って言った。
「だから、名前ちゃんもきっと大丈夫!!心を燃やして、一緒に頑張ろう!!」
まるで春の日差しの様な人だと、名前は思った。
裏も表もなく、自分の様な末端に、心からの助言と声援を、惜しみなく与えてくれる。
なんて温かな人だろう。
名前は、深々と頭を垂れた。
「恋柱様。……お心遣いと、御指南。心から感謝いたします」
「……!」
蜜璃は一瞬の後、顔をとろけさせて両手を合わせた。
「な、なんて……なんていい子なの〜〜!!キュンキュンしちゃう!!」
「うっ」
目尻に涙をにじませながら、名前を「ぎゅーっ!」と抱きしめた。
(ち……力強……!?)
名前は見た目と反した蜜璃の力強さに困惑し、やや青い顔色をしながらも、それを拒むことはしなかった。
その横で綾斗は――
(……なんだかよく分からないけど……どっちも羨ましい……)
自分でも理解できない複雑な感情を胸に、二人を見つめていた。