五章
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灰が雪のように舞い散り、広間を覆っていた影も鏡像も霧のように消え去った。
張りつめていた気配が途切れた瞬間、名前の肩が大きく揺れる。
「が……っ、は……ぁ……ッ」
喉が塞がれるような息苦しさ。
胸郭がぎしぎしと悲鳴を上げ、肺が空気を拒むかのように収縮する。
吸えば吸うほどに逆に酸素が奪われ、頭の奥が霞んでいった。
――先ほど、兄弟鬼の目を眩ませた時。
鏡像と影を乱し、綾斗に斬撃の隙を作るために、名前は《全集中》による《雫の呼吸・深潭の衣》を発動していた。
全身を包む“静の気配”を極限まで研ぎ澄まし、自身の気配を空気に溶け込ませ、敵の視覚と聴覚を鈍らせるその技。
だが名前にとって、それを成立させるには全集中の呼吸を張り詰め続けねばならず――
(……少し長く、使っただけなのに……ッ)
(これ、程……っ!?)
反動は、今まさに訪れていた。
「――ッ、は、っはあ……あ、っ……ッヒュっ……ヒューッ……!」
視界が暗転し、耳鳴りが鼓膜を叩く。
指先が痺れ、刀を支える力すら抜け落ちていく。
名前は膝をつき、胸を裂かれるような痛みに耐えながら必死に呼吸を貪った。
「ちょ……名前ちゃん!? ど、どうしたの!?」
綾斗が慌てて駆け寄ろうとした、その時。
彼自身の顔色も真っ青だった。
「う……あれ、ちょっと、待って……」
くらり、と視界が回る。
血を流しすぎた身体はとうに限界を超えていた。
「わ、わっ……あ、これやば…」
ドサッ。
綾斗は床に大の字で倒れ込み、天井を見ながら間抜けな呻きを上げる。
「……俺ってほんと……駄目すぎて泣けてくる…」
広間には、名前の必死の呼吸と、綾斗の情けない声が交錯する。
凄惨な戦いを終えたばかりだというのに、奇妙に間の抜けた静けさがそこにあった。
***
「……っ、は……ッ……が……!」
名前の荒い呼吸は、尚続いていた。
喉は軋み、胸郭は軋んで悲鳴を上げる。
全身からは湯気のように熱が立ち上り、血の気が抜け落ちた顔は蒼白だった。
それでも。
名前はゆっくりと立ち上がった。
片膝を押さえながら、日輪刀をぎり、と握り直す。
刃先が揺れ、荒い呼吸と共に肩も震えていた。
そして、名前は、無言で一歩を踏み出す。
刀を構えたまま、こちらへ、こちらへと近寄ってくる。
綾斗の元へ。
呼吸の反動で血走った目。
歯を食いしばる顔は、今にも斬りかかる鬼そのもの。
「………え、ちょ……ま、待っ…… 名前ちゃん……!? ちょ、ちょっと待って!!」
綾斗はずるずると後ずさり、必死に両手を振った。
「ちょちょ……っ! う、うそ、嘘でしょ!?に、逃げたこと怒ってる!? いや、あれは、あいつらを出し抜くためであって! ほら、敵を欺くには味方からって言うデショ!!?」
名前の歩みは、止まらない。
「お、おお俺が役立たずだったのは認める! 足引っ張って本当にごめん!ごめんなさい!!でででも俺には、養わなきゃいけない家族が!!」
名前は答えない。
その無言が、綾斗の恐怖をさらに煽る。
「イヤァアアっ! まさか……まさか本気で俺を……!?」
刀の光が迫る。
綾斗は涙目で這いずりながら叫んだ。
「わ、悪かった!ほんと悪かった!俺、名前ちゃんの背中に隠れてばっかで……でも!でもこれからはちゃんと頑張るから!!」
ずるずると後退、壁際まで追い詰められる。
「い、命だけはお助けを名前様ぁぁぁーー!!」
その時――
す、と刃が下ろされた。
だが、綾斗の身体を切り裂くことはなく。
代わりに、冷たい清流のような気流が肩から胸にかけて流れ込んだ。
「……《雫の呼吸・伍ノ型 澄み守り》」
名前の低い声が響いた瞬間、痛みで火照っていた綾斗の身体から、ふっと熱が引いた。
裂けていた傷口の血はおさまり、焼けつくような痛みが嘘のように和らいでいく。
「…………あ……れ?」
呆気にとられた綾斗が、ぽかんと口を開けた。
「……い、……痛くない……?っていうか…血、止まってる……?」
名前は荒い呼吸を繰り返しながらも、先程の殺気じみた気迫はすっかり消えていた。
綾斗は頭を抱え、床を転がるように呻く。
「もぉぉおおお!!紛らわし過ぎるからぁあ!!」
「疑ってごめんなさいいいぃぃ!!!」
名前が力抜けた様に座り込んだと同時、綾斗の情けない絶叫が響いた。
***
綾斗の泣き声が木霊する中、徐々に静寂が戻った。
名前は日輪刀を支えに、その呼吸も漸く整い始めていた。
綾斗はまだ胸を押さえながら、涙目で恨みがましく叫ぶ。
「ほんっと心臓に悪いって! 俺、もう絶対寿命縮んだよ……!」
その声を聞きながら、名前はゆっくりと顔を上げた。
彼女の瞳はまだ赤く潤んでいたが、その色は鬼気ではなく、確かな静けさを帯びていた。
そして、ぽこぽこと軽く叩いてくる綾斗に、そっと口を開く。
「……綾斗を、役立たずだなんて思ったことはない」
「……え?」
綾斗が目を瞬く。
名前は、呼吸に乱れを抱えながらも、はっきりと告げた。
「綾斗が逃げたなんて、一度も思わなかった」
「……私に、“守る”って……そう言ってくれたから」
その言葉に、綾斗の脳裏に鮮明に蘇る。
今回の任務の前、冗談めかして言った、あの一言。
『まあ、もし今度一緒に任務があったらさ。俺が名前ちゃんを守ってあげるから!』
あんな言葉を。
他人から見たら、『お前が守られる側だろ』なんて笑われてしまいそうな、あんな言葉を。
彼女は、本当に信じてくれていた。
彼女は確かに、それを信じて、ここまで共に戦ってくれていた。
名前は荒い息を押さえながらも、まっすぐ綾斗を見つめた。
「それに」
言葉を続ける。
血走った目の奥に、ふっと――柔らかな光が揺れる。
「私達は……死なないんでしょ?」
その瞬間。
名前の唇が、柔らかくほころんだ。
それは、これまで一度も見せたことのない笑みだった。
苦しさの中で無理やり形作られたものかもしれない。
けれど、それは――どこまでも静かで、澄んだ微笑みだった。
綾斗の胸が、どくん、と大きく鳴った。
呼吸が止まったかと思うほどに。
喉が渇く。耳の奥まで熱くなる。
さっきまで血の気を失っていたはずの心臓が、今は暴れるように脈打っている。
(……な、なにこれ……)
目が離せない。
戦場で、あれほど恐ろしい鬼と刃を交えたはずなのに――。
その微笑みの方が、ずっと強烈に胸を抉ってくる。
「……っ、ああもう……反則だよ、それ」
声が掠れる。
情けなく笑いながら、綾斗は袖で乱暴に目を拭った。
「……そうだよ、死なないんだよ。絶対」
「俺達は、死ぬ訳がない。だって――」
一呼吸置き、彼は笑う。
今度は震えていない、照れ隠しのような笑みで。
「名前ちゃんは、俺が守るって……約束しちゃったからな」
名前は、再び微笑んだ。
ほんの一瞬だけ。
けれどその一瞬が、綾斗にとっては永遠に焼き付くほどの輝きに見えた。
「でも!俺のことは、これからも名前ちゃんがしっかり守ってよね!」
広間を舞う灰が、白い光の粒となって二人を包み込む。
死闘の余韻はまだ消えていない。
だがその中心で、確かな約束と――胸の奥に芽吹いた小さな想いが、確かに息づいていた。
●●●●●
大正コソコソ噂話
鷹司綾斗という青年、出陣の朝はやたらと気取る。
「それじゃ……行ってくるぜ」などと格好つけて家を出るのだが――。
背後から飛んでくるのは弟や妹たちの声。
「兄ちゃーん!危なかったらすぐ逃げてねー!」
「お弁当持った!? ちゃんと食べろよ!」
「足袋の親指、破れてるぞー!」
「寝癖付いてるよー!」
そのたび綾斗は顔を真っ赤にして「うるせぇよ!!」と怒鳴り返すのだが、声は全然迫力がなく、むしろ心配されているのが丸わかり。
それでも、給金が入ると真っ先に駄菓子屋に走り、両手一杯のお菓子を持って帰るのだった。
終。
張りつめていた気配が途切れた瞬間、名前の肩が大きく揺れる。
「が……っ、は……ぁ……ッ」
喉が塞がれるような息苦しさ。
胸郭がぎしぎしと悲鳴を上げ、肺が空気を拒むかのように収縮する。
吸えば吸うほどに逆に酸素が奪われ、頭の奥が霞んでいった。
――先ほど、兄弟鬼の目を眩ませた時。
鏡像と影を乱し、綾斗に斬撃の隙を作るために、名前は《全集中》による《雫の呼吸・深潭の衣》を発動していた。
全身を包む“静の気配”を極限まで研ぎ澄まし、自身の気配を空気に溶け込ませ、敵の視覚と聴覚を鈍らせるその技。
だが名前にとって、それを成立させるには全集中の呼吸を張り詰め続けねばならず――
(……少し長く、使っただけなのに……ッ)
(これ、程……っ!?)
反動は、今まさに訪れていた。
「――ッ、は、っはあ……あ、っ……ッヒュっ……ヒューッ……!」
視界が暗転し、耳鳴りが鼓膜を叩く。
指先が痺れ、刀を支える力すら抜け落ちていく。
名前は膝をつき、胸を裂かれるような痛みに耐えながら必死に呼吸を貪った。
「ちょ……名前ちゃん!? ど、どうしたの!?」
綾斗が慌てて駆け寄ろうとした、その時。
彼自身の顔色も真っ青だった。
「う……あれ、ちょっと、待って……」
くらり、と視界が回る。
血を流しすぎた身体はとうに限界を超えていた。
「わ、わっ……あ、これやば…」
ドサッ。
綾斗は床に大の字で倒れ込み、天井を見ながら間抜けな呻きを上げる。
「……俺ってほんと……駄目すぎて泣けてくる…」
広間には、名前の必死の呼吸と、綾斗の情けない声が交錯する。
凄惨な戦いを終えたばかりだというのに、奇妙に間の抜けた静けさがそこにあった。
***
「……っ、は……ッ……が……!」
名前の荒い呼吸は、尚続いていた。
喉は軋み、胸郭は軋んで悲鳴を上げる。
全身からは湯気のように熱が立ち上り、血の気が抜け落ちた顔は蒼白だった。
それでも。
名前はゆっくりと立ち上がった。
片膝を押さえながら、日輪刀をぎり、と握り直す。
刃先が揺れ、荒い呼吸と共に肩も震えていた。
そして、名前は、無言で一歩を踏み出す。
刀を構えたまま、こちらへ、こちらへと近寄ってくる。
綾斗の元へ。
呼吸の反動で血走った目。
歯を食いしばる顔は、今にも斬りかかる鬼そのもの。
「………え、ちょ……ま、待っ…… 名前ちゃん……!? ちょ、ちょっと待って!!」
綾斗はずるずると後ずさり、必死に両手を振った。
「ちょちょ……っ! う、うそ、嘘でしょ!?に、逃げたこと怒ってる!? いや、あれは、あいつらを出し抜くためであって! ほら、敵を欺くには味方からって言うデショ!!?」
名前の歩みは、止まらない。
「お、おお俺が役立たずだったのは認める! 足引っ張って本当にごめん!ごめんなさい!!でででも俺には、養わなきゃいけない家族が!!」
名前は答えない。
その無言が、綾斗の恐怖をさらに煽る。
「イヤァアアっ! まさか……まさか本気で俺を……!?」
刀の光が迫る。
綾斗は涙目で這いずりながら叫んだ。
「わ、悪かった!ほんと悪かった!俺、名前ちゃんの背中に隠れてばっかで……でも!でもこれからはちゃんと頑張るから!!」
ずるずると後退、壁際まで追い詰められる。
「い、命だけはお助けを名前様ぁぁぁーー!!」
その時――
す、と刃が下ろされた。
だが、綾斗の身体を切り裂くことはなく。
代わりに、冷たい清流のような気流が肩から胸にかけて流れ込んだ。
「……《雫の呼吸・伍ノ型 澄み守り》」
名前の低い声が響いた瞬間、痛みで火照っていた綾斗の身体から、ふっと熱が引いた。
裂けていた傷口の血はおさまり、焼けつくような痛みが嘘のように和らいでいく。
「…………あ……れ?」
呆気にとられた綾斗が、ぽかんと口を開けた。
「……い、……痛くない……?っていうか…血、止まってる……?」
名前は荒い呼吸を繰り返しながらも、先程の殺気じみた気迫はすっかり消えていた。
綾斗は頭を抱え、床を転がるように呻く。
「もぉぉおおお!!紛らわし過ぎるからぁあ!!」
「疑ってごめんなさいいいぃぃ!!!」
名前が力抜けた様に座り込んだと同時、綾斗の情けない絶叫が響いた。
***
綾斗の泣き声が木霊する中、徐々に静寂が戻った。
名前は日輪刀を支えに、その呼吸も漸く整い始めていた。
綾斗はまだ胸を押さえながら、涙目で恨みがましく叫ぶ。
「ほんっと心臓に悪いって! 俺、もう絶対寿命縮んだよ……!」
その声を聞きながら、名前はゆっくりと顔を上げた。
彼女の瞳はまだ赤く潤んでいたが、その色は鬼気ではなく、確かな静けさを帯びていた。
そして、ぽこぽこと軽く叩いてくる綾斗に、そっと口を開く。
「……綾斗を、役立たずだなんて思ったことはない」
「……え?」
綾斗が目を瞬く。
名前は、呼吸に乱れを抱えながらも、はっきりと告げた。
「綾斗が逃げたなんて、一度も思わなかった」
「……私に、“守る”って……そう言ってくれたから」
その言葉に、綾斗の脳裏に鮮明に蘇る。
今回の任務の前、冗談めかして言った、あの一言。
『まあ、もし今度一緒に任務があったらさ。俺が名前ちゃんを守ってあげるから!』
あんな言葉を。
他人から見たら、『お前が守られる側だろ』なんて笑われてしまいそうな、あんな言葉を。
彼女は、本当に信じてくれていた。
彼女は確かに、それを信じて、ここまで共に戦ってくれていた。
名前は荒い息を押さえながらも、まっすぐ綾斗を見つめた。
「それに」
言葉を続ける。
血走った目の奥に、ふっと――柔らかな光が揺れる。
「私達は……死なないんでしょ?」
その瞬間。
名前の唇が、柔らかくほころんだ。
それは、これまで一度も見せたことのない笑みだった。
苦しさの中で無理やり形作られたものかもしれない。
けれど、それは――どこまでも静かで、澄んだ微笑みだった。
綾斗の胸が、どくん、と大きく鳴った。
呼吸が止まったかと思うほどに。
喉が渇く。耳の奥まで熱くなる。
さっきまで血の気を失っていたはずの心臓が、今は暴れるように脈打っている。
(……な、なにこれ……)
目が離せない。
戦場で、あれほど恐ろしい鬼と刃を交えたはずなのに――。
その微笑みの方が、ずっと強烈に胸を抉ってくる。
「……っ、ああもう……反則だよ、それ」
声が掠れる。
情けなく笑いながら、綾斗は袖で乱暴に目を拭った。
「……そうだよ、死なないんだよ。絶対」
「俺達は、死ぬ訳がない。だって――」
一呼吸置き、彼は笑う。
今度は震えていない、照れ隠しのような笑みで。
「名前ちゃんは、俺が守るって……約束しちゃったからな」
名前は、再び微笑んだ。
ほんの一瞬だけ。
けれどその一瞬が、綾斗にとっては永遠に焼き付くほどの輝きに見えた。
「でも!俺のことは、これからも名前ちゃんがしっかり守ってよね!」
広間を舞う灰が、白い光の粒となって二人を包み込む。
死闘の余韻はまだ消えていない。
だがその中心で、確かな約束と――胸の奥に芽吹いた小さな想いが、確かに息づいていた。
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大正コソコソ噂話
鷹司綾斗という青年、出陣の朝はやたらと気取る。
「それじゃ……行ってくるぜ」などと格好つけて家を出るのだが――。
背後から飛んでくるのは弟や妹たちの声。
「兄ちゃーん!危なかったらすぐ逃げてねー!」
「お弁当持った!? ちゃんと食べろよ!」
「足袋の親指、破れてるぞー!」
「寝癖付いてるよー!」
そのたび綾斗は顔を真っ赤にして「うるせぇよ!!」と怒鳴り返すのだが、声は全然迫力がなく、むしろ心配されているのが丸わかり。
それでも、給金が入ると真っ先に駄菓子屋に走り、両手一杯のお菓子を持って帰るのだった。
終。