五章
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鏡像の刃が奔流のように押し寄せる。
一振りを捌けば三振りが迫り、三振りを弾けば十振りが覆い被さる。
水面を踏み割るように無数の名前と綾斗が現れ、その一体一体が確かな殺意を持って斬りかかってくる。
「くっ……は、ぁッ!」
綾斗は肺を焼き尽くすような呼吸で必死に斬り払った。
《水の呼吸・弐ノ型 水車》が水流の弧を描き、鏡像の胴を裂く。
だが裂けた鏡は光の粒となって消えるだけで、すぐさま次の鏡像が踏み込んでくる。
「いくら、何でも……!!」
足元でうごめく影が、刹那の隙を狙って絡みつこうと伸び上がる。
黒い縄のような腕が脛に巻き付こうと迫り、綾斗は慌てて刃を振るった。
「《水の呼吸・肆ノ型 打ち潮》ッ!!」
渦巻く斬撃が影を裂く。だが裂けた影は水滴のように散って、また足元からじわじわと滲み出してくる。
無限だ。終わりが見えない。
「綾斗、左!」
背後から燕里の鋭い声。
次の瞬間、名前の刃が彼の左脇を掠め、迫っていた鏡像の喉を斬り裂いた。
水飛沫のように弾けて散る。だが――また湧き出す。
「ぜぇっ……はぁ……はぁっ……!お……多すぎるだろーーッ!!」
肩越しに綾斗が荒く吐き出す。
だが名前は答えない。彼女は、ただ黙々と刃を振るい続けていた。
鏡像の群れが再び一斉に刃を振り下ろす。
名前は沈み込むように身を捻ると、一筋の鋭い斬撃が波紋を描き、十体近い鏡像の胴を一度に薙ぎ払った。
「……っ」
だがその肩には何筋もの傷が走り、血液が噴き出す。
名前ですら、すべては防ぎ切れない。
「逃がすなァァ!!」
弟鬼“踏”の声が轟くと同時に、床一面から影の縄が一斉に跳ね上がった。
獲物を捕らえる百の蛇。狙うは足首、手首、喉元――一瞬でも気を抜けば、絡み取られて終わりだ。
「ッぐぅぅ……!!」
綾斗の刀が辛うじて一束を裂く。だが背中を冷や汗が流れる。
もし名前が背を守ってくれていなければ――何度も、影に呑まれていた。
(ダメだ……!守られてばっかじゃ……!)
必死に歯を食いしばり、綾斗は踏み込む。
だが、その一瞬。
「……?」
“踏”の眉が僅かに動いた。
伸ばした影が空を切る。
狙ったはずの名前の姿が――そこにはなかった。
(……小僧しか、いない……?)
視界を探る。
左右にも、背後にも、無数の鏡像の波にも――女の姿が見当たらない。
さっきまで確かにいたはずだ。
血の匂いも、息遣いも、耳に残っている。
(女は……どこだ……!?)
嫌な汗が背を伝った。
影を奔らせる。
影が四方に走り、床を裂き、壁を這い、鏡像をも掻き消す。
だが――何もない。
(斬ったか……? いや、違う……気配が消えたわけじゃない……確かに、いる……!)
影の感覚が告げていた。
その女は、まだこの場にいる。
見えていないだけだ。
「兄者!」
思わず声が荒くなる。
その瞬間、心臓を握られたような悪寒が走った。
――見えた。
兄鬼“写”の背後。
振りかぶった名前が、無防備な頸へと刃を振り下ろそうとしている。
「兄者ァァアッ!!」
絶叫とともに、踏の影が地を裂いて奔る。
床板をめくり上げ、鏡像を粉砕し、狙うはただひとつ――名前の脚。
逃がさぬ。必ず縫い止める。
影が迫り、ついにその足首を絡め取った――はずだった。
……パリン。
軽やかで、しかし残酷な音が鳴る。
名前の身体は、刃が触れるより早く砕け散った。
血肉ではない。
砕けた鏡の破片が、白い光の粒となって宙に舞った。
「っ……!? か、鏡……!」
踏の顔から血の気が引いた。
影は止まらず、そのまま一直線に――
「なっ…このっ…痴れ者がァアッッ!!」
兄鬼“写”の両脚を、容赦なく縫い留めた。
鏡が軋み、空気が震える。
影は容赦なく喰らいつき、兄鬼の身体を地に縫い付けて離さない。
その瞬間、広間を覆っていた鏡像の生成がわずかに途切れ、波のように乱れた。
――そして。
鏡面の揺らぎの中から、名前が姿を現す。
まるで、深淵の更に底から浮かび上がる影のように、静かに。
地獄から現れた様な、幽鬼の如きその姿に、兄鬼と弟鬼の背筋が凍る。
「兄者ッ!! 逃げろ!!」
「くっ……影を……解け……ッ!!」
必死の叫びは届かない。
踏の影は、今や自らの兄を縫い止めていた。
その刹那、綾斗の唇が吊り上がる。
荒く息を吐きながら、皮肉に似た声を吐き捨てた。
「……ありがとな。止めてくれて」
全身をしならせ、一気に駆け抜ける。
「おかげで……俺でも、斬れる!!」
その刃に迷いはなく、ただ決意の光だけが宿っていた。
「《水の呼吸・壱ノ型 水面斬り》――ッ!!」
奔る水刃が蒼白な閃光となり、兄鬼“写”の頸を容赦なく薙ぎ払った――。
「……ッ、が……ァ……!」
首を斬り飛ばされた兄鬼“写”の身体が、ぐらりと揺らぐ。
だがその目は、なおも見開かれていた。
頸から崩れ落ちるはずの鏡面の術式が、むしろ暴走するかのように広間を埋め尽くす。
壁一面、天井一面――いや、床の奥底に至るまで。
砕け散った鏡片が再び組み合わされ、無数の“名前”と“綾斗”が生まれていく。
「あ、兄者ッ……!」
弟鬼“踏”の叫びは届かない。
兄鬼の唇が半ば千切れかけながらも、不気味に吊り上がる。
「……映せ……映せェ……灰になろうと……俺が……消えるまで……鏡は……俺の敵を……斬り刻む……ッ!!」
頭部だけとなった兄鬼の残骸が、狂気の呻きと共に命を削る。
身体が崩れ、頸が灰に変わってもなお――鏡像は次々と立ち現れ、ぎらつく刃を振り上げた。
綾斗が目を見張る。
「なんつー往生際の悪さ……!」
名前もまた、一歩引きながら息を整えた。
目の前に立ち尽くす鏡像の数は、先ほどよりさらに膨れ上がっている。
敵は死にかけているはずなのに、執念だけが肥大化し、災厄の波のように押し寄せてきていた。
その狂気に、踏は歯を噛み締め音が鳴る程歯軋りする。
(……兄者は、灰になっても止まらない……)
(だが、今なら――!)
視線が名前に吸い寄せられる。
小僧は力を使い果たし、息も荒く肩で呼吸している。
だが女――名前は、違う。
静かに、確実に“殺す”気配を纏っていた。
(……先に、あの女を斬る……!)
そうすれば。
そうすれば、小僧は後でいくらでも殺せる。
そもそもあの女が元凶だ。
あの女のお膳立てが無ければ、こんな小僧に兄の首が斬られることは無かった。
あの女、どれだけ状況が劣勢であろうと決して逃げようとはしなかった。
鬼殺しへの異常なまでの執着。
ずっとこちらを、睨みつけていた。
なんと忌々しい。
殺す、必ず殺す。
「……小僧は、後だ……」
踏の口元が歪む。
黒い影がさらに膨れ、縄のように絡み合い、まるで百の蛇がのたうつように地を覆う。
「――女ァァ!!」
叫びと同時に、残された兄鬼の鏡像が一斉に踏み込み、名前を囲むように刃を振り下ろす。
影と鏡の猛攻が重なり合い、空気が圧縮されるほどの殺気が渦巻いた。
綾斗の心臓が跳ねる。
「ッ!名前ちゃ、!」
焦燥が喉を焼く。
刃を振るおうとするも、間に合わない――そう思った、その時。
名前は、一歩、前に出ていた。
刃を受け止めるのではなく。
逃げるのでもなく。
その佇まいは、むしろ静寂そのものだった。
揺るがぬ眼差し。
わずかな呼吸の律動。
背筋に走る気配が、綾斗に不可思議な安心を与える。
(……大丈夫だ)
なぜか、そう思えた。
何の根拠もない。
ただ、背を預けてきた短い時間の中で、確信に変わっていた。
「……馬っ鹿だなぁ」
綾斗の口から、気づけば笑み混じりの声が漏れていた。
「その女の子が、誰だと思ってんの?」
鏡像の刃が一斉に襲いかかり、足元からは黒い影が殺到する。
――だが。
「な、何ッ!!?」
名前の身体が、沈み込む。
(……そうだよな。俺を守らなくていい名前ちゃんが――弱いわけ、ないよな)
刃が名前を捕らえたはずの瞬間、そこには霞のように薄れた虚像しか残っていない。
鏡像の群れが一瞬、混乱する。
踏が舌打ちを響かせる。
「また……ッ! また見失ったか!」
次の瞬間――名前が疾風のごとく駆け抜けた。
水面を蹴るように軽やかに、しかし烈しい勢いで。
刃が、奔る。
影を断ち、鏡像を弾き飛ばし、四方からの攻撃をまるで織り成すように捌き切る。
残光が縦横無尽に広間を奔り、黒い影をことごとく切り裂いた。
「なっ……!?」
「すっご……」
踏が目を見開く。
綾斗の口から、思わず感嘆が溢れる。
次の瞬間、名前の足が地を離れた。
水滴が弾けるように軽やかに、高く――高く舞い上がる。
「上かっ……!!」
踏の絶叫と同時に、地を覆う影がいっせいに天を突いた。
幾百もの黒い腕が、名前を空へと絡め取ろうと伸びる。
まるで巨大な樹木の枝が絡みつくように、絡め、縛ろうと迫る。
だが。
名前の眼差しは、静謐のまま。
振り抜かれる刃が、光と共に煌めく。
空を裂く連撃が、伸び上がる影を次々と断ち切った。
腕は斬られ、黒い飛沫を散らして霧散する。
まるで天を割る雨脚のように、絶え間ない斬撃が降り注いだ。
「ば、馬鹿な……止めろ、止めろォォッ!!」
「踏ォォオオッッ!!」
踏の叫びはもはや悲鳴だった。
写の血を吐く様な絶叫。
空中で最後の残響を描き、名前の姿が流星のように弟鬼へと落ちる。
全ての音が、置き去りにされる。
血の匂いも、鏡の砕ける破片の響きも、踏の悲鳴すら――遠い。
(……見えた)
影が蠢く。
刃が乱れ飛ぶ。
だが名前の瞳には、もはや雑音は映らなかった。
弟鬼の身体。
その動きのわずかな“揺らぎ”。
足裏に過重した重心、息を呑んだ胸郭の張り、拳を握る前の指先の遅れ。
――静寂の芯。
誰にも見えない。
誰の耳にも届かない。
ただ剣を振るう者だけが知る、一瞬の崩れ。
名前はそこへ、迷いなく身を沈めた。
――刃が、走る。
空気を割る音すらなく。
ただ、一閃。
「……ッ!!?」
弟鬼“踏”の眼が見開かれた。
視界に名前の姿が映った瞬間、すでに遅い。
斬撃は影もろとも首を断ち、刹那の間に声を奪った。
ごろりと転がる頭部は、なおも名前を睨みつけ、声なき呪詛を吐こうと口を開いたが――。
灰。
黒く崩れ落ち、指先すら残さず風に溶けた。
いつしか、兄鬼の首も体も、灰となっていた。
鏡像も、影も、嘘のように霧散していく。
広間を満たしていた重圧は、夜明け前の静けさのように消え去った。
――沈黙。
わずかに震える呼吸を繰り返しながら、名前は静かに刀を下ろした。
「……一生着いてきます。名前様」
綾斗の声は呆気と賞賛をないまぜにし、妙に澄んで広間を満たした。
一振りを捌けば三振りが迫り、三振りを弾けば十振りが覆い被さる。
水面を踏み割るように無数の名前と綾斗が現れ、その一体一体が確かな殺意を持って斬りかかってくる。
「くっ……は、ぁッ!」
綾斗は肺を焼き尽くすような呼吸で必死に斬り払った。
《水の呼吸・弐ノ型 水車》が水流の弧を描き、鏡像の胴を裂く。
だが裂けた鏡は光の粒となって消えるだけで、すぐさま次の鏡像が踏み込んでくる。
「いくら、何でも……!!」
足元でうごめく影が、刹那の隙を狙って絡みつこうと伸び上がる。
黒い縄のような腕が脛に巻き付こうと迫り、綾斗は慌てて刃を振るった。
「《水の呼吸・肆ノ型 打ち潮》ッ!!」
渦巻く斬撃が影を裂く。だが裂けた影は水滴のように散って、また足元からじわじわと滲み出してくる。
無限だ。終わりが見えない。
「綾斗、左!」
背後から燕里の鋭い声。
次の瞬間、名前の刃が彼の左脇を掠め、迫っていた鏡像の喉を斬り裂いた。
水飛沫のように弾けて散る。だが――また湧き出す。
「ぜぇっ……はぁ……はぁっ……!お……多すぎるだろーーッ!!」
肩越しに綾斗が荒く吐き出す。
だが名前は答えない。彼女は、ただ黙々と刃を振るい続けていた。
鏡像の群れが再び一斉に刃を振り下ろす。
名前は沈み込むように身を捻ると、一筋の鋭い斬撃が波紋を描き、十体近い鏡像の胴を一度に薙ぎ払った。
「……っ」
だがその肩には何筋もの傷が走り、血液が噴き出す。
名前ですら、すべては防ぎ切れない。
「逃がすなァァ!!」
弟鬼“踏”の声が轟くと同時に、床一面から影の縄が一斉に跳ね上がった。
獲物を捕らえる百の蛇。狙うは足首、手首、喉元――一瞬でも気を抜けば、絡み取られて終わりだ。
「ッぐぅぅ……!!」
綾斗の刀が辛うじて一束を裂く。だが背中を冷や汗が流れる。
もし名前が背を守ってくれていなければ――何度も、影に呑まれていた。
(ダメだ……!守られてばっかじゃ……!)
必死に歯を食いしばり、綾斗は踏み込む。
だが、その一瞬。
「……?」
“踏”の眉が僅かに動いた。
伸ばした影が空を切る。
狙ったはずの名前の姿が――そこにはなかった。
(……小僧しか、いない……?)
視界を探る。
左右にも、背後にも、無数の鏡像の波にも――女の姿が見当たらない。
さっきまで確かにいたはずだ。
血の匂いも、息遣いも、耳に残っている。
(女は……どこだ……!?)
嫌な汗が背を伝った。
影を奔らせる。
影が四方に走り、床を裂き、壁を這い、鏡像をも掻き消す。
だが――何もない。
(斬ったか……? いや、違う……気配が消えたわけじゃない……確かに、いる……!)
影の感覚が告げていた。
その女は、まだこの場にいる。
見えていないだけだ。
「兄者!」
思わず声が荒くなる。
その瞬間、心臓を握られたような悪寒が走った。
――見えた。
兄鬼“写”の背後。
振りかぶった名前が、無防備な頸へと刃を振り下ろそうとしている。
「兄者ァァアッ!!」
絶叫とともに、踏の影が地を裂いて奔る。
床板をめくり上げ、鏡像を粉砕し、狙うはただひとつ――名前の脚。
逃がさぬ。必ず縫い止める。
影が迫り、ついにその足首を絡め取った――はずだった。
……パリン。
軽やかで、しかし残酷な音が鳴る。
名前の身体は、刃が触れるより早く砕け散った。
血肉ではない。
砕けた鏡の破片が、白い光の粒となって宙に舞った。
「っ……!? か、鏡……!」
踏の顔から血の気が引いた。
影は止まらず、そのまま一直線に――
「なっ…このっ…痴れ者がァアッッ!!」
兄鬼“写”の両脚を、容赦なく縫い留めた。
鏡が軋み、空気が震える。
影は容赦なく喰らいつき、兄鬼の身体を地に縫い付けて離さない。
その瞬間、広間を覆っていた鏡像の生成がわずかに途切れ、波のように乱れた。
――そして。
鏡面の揺らぎの中から、名前が姿を現す。
まるで、深淵の更に底から浮かび上がる影のように、静かに。
地獄から現れた様な、幽鬼の如きその姿に、兄鬼と弟鬼の背筋が凍る。
「兄者ッ!! 逃げろ!!」
「くっ……影を……解け……ッ!!」
必死の叫びは届かない。
踏の影は、今や自らの兄を縫い止めていた。
その刹那、綾斗の唇が吊り上がる。
荒く息を吐きながら、皮肉に似た声を吐き捨てた。
「……ありがとな。止めてくれて」
全身をしならせ、一気に駆け抜ける。
「おかげで……俺でも、斬れる!!」
その刃に迷いはなく、ただ決意の光だけが宿っていた。
「《水の呼吸・壱ノ型 水面斬り》――ッ!!」
奔る水刃が蒼白な閃光となり、兄鬼“写”の頸を容赦なく薙ぎ払った――。
「……ッ、が……ァ……!」
首を斬り飛ばされた兄鬼“写”の身体が、ぐらりと揺らぐ。
だがその目は、なおも見開かれていた。
頸から崩れ落ちるはずの鏡面の術式が、むしろ暴走するかのように広間を埋め尽くす。
壁一面、天井一面――いや、床の奥底に至るまで。
砕け散った鏡片が再び組み合わされ、無数の“名前”と“綾斗”が生まれていく。
「あ、兄者ッ……!」
弟鬼“踏”の叫びは届かない。
兄鬼の唇が半ば千切れかけながらも、不気味に吊り上がる。
「……映せ……映せェ……灰になろうと……俺が……消えるまで……鏡は……俺の敵を……斬り刻む……ッ!!」
頭部だけとなった兄鬼の残骸が、狂気の呻きと共に命を削る。
身体が崩れ、頸が灰に変わってもなお――鏡像は次々と立ち現れ、ぎらつく刃を振り上げた。
綾斗が目を見張る。
「なんつー往生際の悪さ……!」
名前もまた、一歩引きながら息を整えた。
目の前に立ち尽くす鏡像の数は、先ほどよりさらに膨れ上がっている。
敵は死にかけているはずなのに、執念だけが肥大化し、災厄の波のように押し寄せてきていた。
その狂気に、踏は歯を噛み締め音が鳴る程歯軋りする。
(……兄者は、灰になっても止まらない……)
(だが、今なら――!)
視線が名前に吸い寄せられる。
小僧は力を使い果たし、息も荒く肩で呼吸している。
だが女――名前は、違う。
静かに、確実に“殺す”気配を纏っていた。
(……先に、あの女を斬る……!)
そうすれば。
そうすれば、小僧は後でいくらでも殺せる。
そもそもあの女が元凶だ。
あの女のお膳立てが無ければ、こんな小僧に兄の首が斬られることは無かった。
あの女、どれだけ状況が劣勢であろうと決して逃げようとはしなかった。
鬼殺しへの異常なまでの執着。
ずっとこちらを、睨みつけていた。
なんと忌々しい。
殺す、必ず殺す。
「……小僧は、後だ……」
踏の口元が歪む。
黒い影がさらに膨れ、縄のように絡み合い、まるで百の蛇がのたうつように地を覆う。
「――女ァァ!!」
叫びと同時に、残された兄鬼の鏡像が一斉に踏み込み、名前を囲むように刃を振り下ろす。
影と鏡の猛攻が重なり合い、空気が圧縮されるほどの殺気が渦巻いた。
綾斗の心臓が跳ねる。
「ッ!名前ちゃ、!」
焦燥が喉を焼く。
刃を振るおうとするも、間に合わない――そう思った、その時。
名前は、一歩、前に出ていた。
刃を受け止めるのではなく。
逃げるのでもなく。
その佇まいは、むしろ静寂そのものだった。
揺るがぬ眼差し。
わずかな呼吸の律動。
背筋に走る気配が、綾斗に不可思議な安心を与える。
(……大丈夫だ)
なぜか、そう思えた。
何の根拠もない。
ただ、背を預けてきた短い時間の中で、確信に変わっていた。
「……馬っ鹿だなぁ」
綾斗の口から、気づけば笑み混じりの声が漏れていた。
「その女の子が、誰だと思ってんの?」
鏡像の刃が一斉に襲いかかり、足元からは黒い影が殺到する。
――だが。
「な、何ッ!!?」
名前の身体が、沈み込む。
(……そうだよな。俺を守らなくていい名前ちゃんが――弱いわけ、ないよな)
刃が名前を捕らえたはずの瞬間、そこには霞のように薄れた虚像しか残っていない。
鏡像の群れが一瞬、混乱する。
踏が舌打ちを響かせる。
「また……ッ! また見失ったか!」
次の瞬間――名前が疾風のごとく駆け抜けた。
水面を蹴るように軽やかに、しかし烈しい勢いで。
刃が、奔る。
影を断ち、鏡像を弾き飛ばし、四方からの攻撃をまるで織り成すように捌き切る。
残光が縦横無尽に広間を奔り、黒い影をことごとく切り裂いた。
「なっ……!?」
「すっご……」
踏が目を見開く。
綾斗の口から、思わず感嘆が溢れる。
次の瞬間、名前の足が地を離れた。
水滴が弾けるように軽やかに、高く――高く舞い上がる。
「上かっ……!!」
踏の絶叫と同時に、地を覆う影がいっせいに天を突いた。
幾百もの黒い腕が、名前を空へと絡め取ろうと伸びる。
まるで巨大な樹木の枝が絡みつくように、絡め、縛ろうと迫る。
だが。
名前の眼差しは、静謐のまま。
振り抜かれる刃が、光と共に煌めく。
空を裂く連撃が、伸び上がる影を次々と断ち切った。
腕は斬られ、黒い飛沫を散らして霧散する。
まるで天を割る雨脚のように、絶え間ない斬撃が降り注いだ。
「ば、馬鹿な……止めろ、止めろォォッ!!」
「踏ォォオオッッ!!」
踏の叫びはもはや悲鳴だった。
写の血を吐く様な絶叫。
空中で最後の残響を描き、名前の姿が流星のように弟鬼へと落ちる。
全ての音が、置き去りにされる。
血の匂いも、鏡の砕ける破片の響きも、踏の悲鳴すら――遠い。
(……見えた)
影が蠢く。
刃が乱れ飛ぶ。
だが名前の瞳には、もはや雑音は映らなかった。
弟鬼の身体。
その動きのわずかな“揺らぎ”。
足裏に過重した重心、息を呑んだ胸郭の張り、拳を握る前の指先の遅れ。
――静寂の芯。
誰にも見えない。
誰の耳にも届かない。
ただ剣を振るう者だけが知る、一瞬の崩れ。
名前はそこへ、迷いなく身を沈めた。
――刃が、走る。
空気を割る音すらなく。
ただ、一閃。
「……ッ!!?」
弟鬼“踏”の眼が見開かれた。
視界に名前の姿が映った瞬間、すでに遅い。
斬撃は影もろとも首を断ち、刹那の間に声を奪った。
ごろりと転がる頭部は、なおも名前を睨みつけ、声なき呪詛を吐こうと口を開いたが――。
灰。
黒く崩れ落ち、指先すら残さず風に溶けた。
いつしか、兄鬼の首も体も、灰となっていた。
鏡像も、影も、嘘のように霧散していく。
広間を満たしていた重圧は、夜明け前の静けさのように消え去った。
――沈黙。
わずかに震える呼吸を繰り返しながら、名前は静かに刀を下ろした。
「……一生着いてきます。名前様」
綾斗の声は呆気と賞賛をないまぜにし、妙に澄んで広間を満たした。