五章
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(……たしかに、一緒に任務に行くなら、とは言ったけれど……)
まさか、こんなに早く現実になるとは思わなかった。
***
名前と綾斗が再会し、数日後の朝。
藤の屋敷の庭は、夜明けの名残を引く淡い光に包まれていた。
露の残る草を踏みしめると、冷えた空気が肺の奥まで入り込み、しゃんと背筋が伸びる。
「カァァ!! 通告! 通告! 重大発表ゥゥゥ!!」
甲高い声が空を裂き、黒い影が名前の肩へ舞い降りた。
勢いよく羽ばたきながら、やたらと張り切った様子で嘴を開く。
「新任務、新任務デス! 隠ヨリ通報、山間部ニテ鬼ノ出没! 数日前ヨリ行方不明者アリ!」
「任務地点ハ“白影山”! 徒歩ニテ半日! 空気ウスシ! 危険多シ! 緊張セヨ!」
「名前様! 及ビオマケノ綾斗! 白影山二向カエェーー!!」
名前は短く息を吐き、刀の柄から手を離す。
「……分かった」
「良キ返答! 流石ハ主! 我、誇リニ思ウ! 褒メル! 褒メル褒メル褒メル!!」
騒々しい鴉の声に、すぐ近くから別の声が割り込んだ。
「ね、ねぇ……なんか今、俺の名前も呼ばれた気がしたんだけど……」
振り返ると、そこには綾斗が半ば固まったように立っていた。
「えっ、まさか……俺と名前ちゃん、二人で……?」
鴉が満足げに羽を広げ、甲高く告げる。
「然リ! 同行者ハ“鷹司綾斗”! 息ピッタリ目指シ、任務遂行セヨ!」
「え、ええええっ!!?」
「煩イ、早ク行ケ」
「いでっ!わ、分かった!分かったよ!」
自分の鎹鴉に頭を鋭く嘴でつつかれた綾斗の声は裏返り、慌てて咳払いした。
(ど、どうしよ……心臓が変な音してる……)
名前は鴉を振り払い、淡々と告げる。
「行こう。綾斗」
***
白影山へと続く山道は、霧に包まれ薄暗い。
木々の間から冷たい風が吹き抜け、葉がかすかに鳴る。
二人の足音が、湿った土の上でぬかるむように響く。
木々の間をすり抜けてくる風は冷たく、背中の汗を奪っていく。
先を歩く名前は、一定の呼吸で淡々と進む。
足音も、衣擦れの音も、ほとんど立てない。
その背中を見ながら、綾斗は胸の奥のざわつきを押し殺すように、やけに明るい声を出した。
「ね、ねぇ名前ちゃん……名前ちゃんの鎹鴉、お喋りになんか磨きかかってなかった?“重大発表”とか“誇リニ思ウ!”とかさ……あんなに喋る鴉、初めて見たよ俺。なんかもう、あの声だけで疲れちゃった」
名前は振り向かずに歩き続ける。
綾斗はそれに構わず、さらに喋る。
「そういえば、白影山って昔から怪談があるらしいよ。村人が言ってた。“夜になると山の中で笑い声が聞こえる”ってさ……あれ、やっぱ鬼だよね?でも笑い声の鬼って、ちょっと変だよな。俺、今まで斬ったのは――いや、ほとんど先輩方が斬ったんだけど――もっとこう、唸るか吠えるかだったし」
やはり返事はない。
綾斗は小走りで並び立ち、肩を少しすくめながら続ける。
「それにさ、この霧……なんか嫌な感じしない?音が全部ぼやけてるみたいで……自分の足音が自分のじゃないみたいな。あ!音と言えばさぁ…知ってる?音柱の宇隨様ってお嫁さんが――」
「……静かにした方がいいと思う」
淡々とした、短い声。
名前は歩調を変えず、横目だけで綾斗を見やる。
「声が大きいと、鬼に気付かれる」
その一言は決して冷ややかではなかったが、綾斗の心を刃物のように鋭く抉った。
綾斗は背中に冷たい汗がつっと流れるのを感じ、しゅんと肩を落とした。
「あ、ハイ……ゴメンナサイ」
それきり、綾斗は黙った。
湿った落ち葉を踏みしめる音と、風に揺れる枝葉のざわめきだけが耳に届く。
霧の奥に伸びる細い山道を、二人は言葉もなく進んだ。
やがて、木々の切れ間に、歪んだ屋根の影がぼんやりと浮かび上がる――。
***
霧の中にぼんやりと浮かんでいた影が、次第に輪郭を帯びていく。
近づくにつれ、それが山中には似つかわしくない、古びた一軒家だと分かった。
屋根は苔に覆われ、軒先には風に揺れる蜘蛛の巣。
しかし何より目を引いたのは、外壁の一部――歪んだ板戸や壁の間に、鏡のように磨かれた板がはめ込まれていることだった。
霧を透かして届くわずかな光を受け、鈍く冷たい反射が返ってくる。
「……鏡?」
綾斗が小声で呟く。
名前は答えず、家の周囲へと足を運んだ。
裏手へ回ると、湿った土と枯れ葉の匂いに混じって、鼻を刺すような異臭が漂ってきた。
綾斗も思わず足を止め、眉をひそめる。
「……なんだ、この匂い……」
次の瞬間、名前が低く「下がって」と告げ、草むらに覆われた一角へ近づいた。
背の高い茂みを刀の鞘で押し分けると――そこに現れたのは、黒ずんだ皮膚と白骨の入り混じった、無惨な骸の山だった。
衣服は破れ、干からびた手足は絡み合い、数え切れないほど折り重なっている。
新しい血の匂いと、長く晒された腐臭が、同じ場所から漂っていた。
綾斗は顔を青ざめさせ、一歩退く。
「……これ、全部……」
名前は短く頷き、静かに言った。
「……ここが、鬼の巣」
霧が、家と死体の山を覆い隠すように流れていく。
二人の間に、重く張り詰めた沈黙が落ちた。
その沈黙を破ったのは、名前の短い一言だった。
「行こう」
その一言と同時に、ためらいもなく板戸へ歩を進める。
草むらを踏み分ける足取りは迷いがなく、まるでそこが既に戦場であることを当然と受け止めているようだった。
「ま、待って!ちょっと!こんな……見たら分かるだろ、絶対罠じゃん!い、一旦戻って応援呼んだ方が…!」
綾斗は慌ててその後を追い、腕を伸ばして引き留めようとした。
だが名前は振り返らず、答える。
「……鬼は、待ってくれない」
「私達がここで立ち止まれば、また犠牲者が出る」
その背に綾斗は言葉を詰まらせる。
手を伸ばす指先は空を切り、名前は板戸の前に立った。
軋む音とともに扉が押し開かれる。
中から吹き出したのは、湿った空気と、鏡面のようにきらめく光だった。
名前の背が闇に溶けるように室内へと消える。
綾斗は口をへの字に結び、肩越しに再び死体の山を振り返る。
喉の奥がひりつき、全身が「引き返せ」と告げていた。
「〜〜もうっ!名前ちゃん絶対俺のこと守ってよ!?」
数日前の誓いはどこへやら、綾斗は半ばやけくそで涙ながらにそう叫びながら、名前の背中を追って敷居を跨ぐ。
――足を踏み入れた瞬間、異様な感覚に襲われた。
壁も天井も、磨き上げられた鏡で覆われている。
中は薄暗いのに、四方八方からこちらを見返す影が無数に揺らめき、どこからともなく自分の息遣いが返ってくる。
「な…なんだこれ……全部、鏡……?」
声が反響し、すぐ横からもう一人の自分が囁いたように聞こえる。
綾斗は思わず足を止め、腰の刀に手をかけた。
名前は振り返らない。
迷いなく奥へ進み、反射する鏡像を一瞥もしない。
「綾斗、離れないで」
その静かな声だけが、妙に鮮明に響いた。
綾斗は唾を飲み込み、肩をすくめながらも足を早めた。
――鏡に映る自分の目が、一瞬、知らない誰かのように笑った気がして、背筋が冷たくなる。
奥へ進むごとに、空気が重く、湿っていく。
吐き出す息が鏡に白く曇り、その曇りがゆっくりと消えるたび、ぼやけた自分の顔が浮かび上がった。
「…や、やっぱりこれ……罠だよね……?ねぇ、名前ちゃん……」
綾斗の声は、かすかに震えていた。
返事はない。ただ、足音だけが二人の間に続く。
やがて、行く手に開けた広間が現れた。
床まで鏡が敷き詰められ、どこに立っても無数の自分が映る。
その中の一つが――わずかに遅れて動いた。
「……っ、今、動き……!」
綾斗が声を上げかけた瞬間。
鏡の奥から、同じ背丈、同じ顔立ちの“綾斗”が一歩、踏み出してきた。
それと同時に、別の鏡からは“ 名前”の姿をした影が現れる。
同じ顔、同じ構え――だが、その瞳は濁った闇に満ちていた。
「は……はぁぁあああ!!?」
「……来た」
綾斗の絶叫と同時、名前は刀に手をかけ、低く構えた時、広間に響いたのは、耳障りなほど甲高い笑い声だった。
鏡像の“ 名前”と“綾斗”の背後、奥の壁面の鏡が波打つように揺れ、そこから長身の影が滲み出す。
「……人は、鏡を覗く時……必ず己を見る」
低く湿った声とともに、鏡面から完全に抜け出たそれは、病的に白い肌を持つ鬼だった。
裂けた口元には常に作り物めいた笑みが貼り付き、右の額からは長い角が生えている。
鬼は片手を掲げ、鏡像の背中を軽く押すような仕草をした。
次の瞬間、“ 名前”が疾風のごとく間合いを詰め、鏡像の刀が名前本人に振り下ろされる。
「なっ……これ、俺らの動き……!」
名前への攻撃と同時に振り下ろされていた自身の鏡像に、綾斗が慌てて刃を受ける。
金属がぶつかる甲高い音と共に、腕の中まで衝撃が伝わり、足が床を滑った。
(……動きだけじゃない。間合いも、呼吸も……そっくり)
名前の目がわずかに細められる。
鏡像の“ 名前”はまるで予知しているかのように彼女の斬撃を捌き、わずかな隙に反撃を返してきた。
その様を、鏡から抜け出した鬼は愉快そうに見下ろしている。
「鏡は真実を映す。お前たちの技も、癖も、恐怖も……全部な」
綾斗は歯を食いしばり、汗で湿った掌を柄に強く押し付ける。
「……ふざけんな…っ!俺はもっと……男前だ、っての!!」
叫びざま、水の呼吸・壱ノ型〈水面斬り〉を放つ。
だが――鏡像の“綾斗”も全く同じ動きで迎え撃ち、刃と刃が正面から激突した。
火花が散り、広間の鏡が一瞬ぎらりと光を返す。
その光の中、名前は一歩踏み込み、低く呟いた。
「……綾斗。鏡像は、本体じゃない」
鬼の口元が、ニヤリと深く裂けた。
「さて……本当の地獄は、これからだ」
――奥の鏡が、再び波打つ。
そこからは、新たな鏡像たちが、ぞろぞろと抜け出そうとしていた。
まさか、こんなに早く現実になるとは思わなかった。
***
名前と綾斗が再会し、数日後の朝。
藤の屋敷の庭は、夜明けの名残を引く淡い光に包まれていた。
露の残る草を踏みしめると、冷えた空気が肺の奥まで入り込み、しゃんと背筋が伸びる。
「カァァ!! 通告! 通告! 重大発表ゥゥゥ!!」
甲高い声が空を裂き、黒い影が名前の肩へ舞い降りた。
勢いよく羽ばたきながら、やたらと張り切った様子で嘴を開く。
「新任務、新任務デス! 隠ヨリ通報、山間部ニテ鬼ノ出没! 数日前ヨリ行方不明者アリ!」
「任務地点ハ“白影山”! 徒歩ニテ半日! 空気ウスシ! 危険多シ! 緊張セヨ!」
「名前様! 及ビオマケノ綾斗! 白影山二向カエェーー!!」
名前は短く息を吐き、刀の柄から手を離す。
「……分かった」
「良キ返答! 流石ハ主! 我、誇リニ思ウ! 褒メル! 褒メル褒メル褒メル!!」
騒々しい鴉の声に、すぐ近くから別の声が割り込んだ。
「ね、ねぇ……なんか今、俺の名前も呼ばれた気がしたんだけど……」
振り返ると、そこには綾斗が半ば固まったように立っていた。
「えっ、まさか……俺と名前ちゃん、二人で……?」
鴉が満足げに羽を広げ、甲高く告げる。
「然リ! 同行者ハ“鷹司綾斗”! 息ピッタリ目指シ、任務遂行セヨ!」
「え、ええええっ!!?」
「煩イ、早ク行ケ」
「いでっ!わ、分かった!分かったよ!」
自分の鎹鴉に頭を鋭く嘴でつつかれた綾斗の声は裏返り、慌てて咳払いした。
(ど、どうしよ……心臓が変な音してる……)
名前は鴉を振り払い、淡々と告げる。
「行こう。綾斗」
***
白影山へと続く山道は、霧に包まれ薄暗い。
木々の間から冷たい風が吹き抜け、葉がかすかに鳴る。
二人の足音が、湿った土の上でぬかるむように響く。
木々の間をすり抜けてくる風は冷たく、背中の汗を奪っていく。
先を歩く名前は、一定の呼吸で淡々と進む。
足音も、衣擦れの音も、ほとんど立てない。
その背中を見ながら、綾斗は胸の奥のざわつきを押し殺すように、やけに明るい声を出した。
「ね、ねぇ名前ちゃん……名前ちゃんの鎹鴉、お喋りになんか磨きかかってなかった?“重大発表”とか“誇リニ思ウ!”とかさ……あんなに喋る鴉、初めて見たよ俺。なんかもう、あの声だけで疲れちゃった」
名前は振り向かずに歩き続ける。
綾斗はそれに構わず、さらに喋る。
「そういえば、白影山って昔から怪談があるらしいよ。村人が言ってた。“夜になると山の中で笑い声が聞こえる”ってさ……あれ、やっぱ鬼だよね?でも笑い声の鬼って、ちょっと変だよな。俺、今まで斬ったのは――いや、ほとんど先輩方が斬ったんだけど――もっとこう、唸るか吠えるかだったし」
やはり返事はない。
綾斗は小走りで並び立ち、肩を少しすくめながら続ける。
「それにさ、この霧……なんか嫌な感じしない?音が全部ぼやけてるみたいで……自分の足音が自分のじゃないみたいな。あ!音と言えばさぁ…知ってる?音柱の宇隨様ってお嫁さんが――」
「……静かにした方がいいと思う」
淡々とした、短い声。
名前は歩調を変えず、横目だけで綾斗を見やる。
「声が大きいと、鬼に気付かれる」
その一言は決して冷ややかではなかったが、綾斗の心を刃物のように鋭く抉った。
綾斗は背中に冷たい汗がつっと流れるのを感じ、しゅんと肩を落とした。
「あ、ハイ……ゴメンナサイ」
それきり、綾斗は黙った。
湿った落ち葉を踏みしめる音と、風に揺れる枝葉のざわめきだけが耳に届く。
霧の奥に伸びる細い山道を、二人は言葉もなく進んだ。
やがて、木々の切れ間に、歪んだ屋根の影がぼんやりと浮かび上がる――。
***
霧の中にぼんやりと浮かんでいた影が、次第に輪郭を帯びていく。
近づくにつれ、それが山中には似つかわしくない、古びた一軒家だと分かった。
屋根は苔に覆われ、軒先には風に揺れる蜘蛛の巣。
しかし何より目を引いたのは、外壁の一部――歪んだ板戸や壁の間に、鏡のように磨かれた板がはめ込まれていることだった。
霧を透かして届くわずかな光を受け、鈍く冷たい反射が返ってくる。
「……鏡?」
綾斗が小声で呟く。
名前は答えず、家の周囲へと足を運んだ。
裏手へ回ると、湿った土と枯れ葉の匂いに混じって、鼻を刺すような異臭が漂ってきた。
綾斗も思わず足を止め、眉をひそめる。
「……なんだ、この匂い……」
次の瞬間、名前が低く「下がって」と告げ、草むらに覆われた一角へ近づいた。
背の高い茂みを刀の鞘で押し分けると――そこに現れたのは、黒ずんだ皮膚と白骨の入り混じった、無惨な骸の山だった。
衣服は破れ、干からびた手足は絡み合い、数え切れないほど折り重なっている。
新しい血の匂いと、長く晒された腐臭が、同じ場所から漂っていた。
綾斗は顔を青ざめさせ、一歩退く。
「……これ、全部……」
名前は短く頷き、静かに言った。
「……ここが、鬼の巣」
霧が、家と死体の山を覆い隠すように流れていく。
二人の間に、重く張り詰めた沈黙が落ちた。
その沈黙を破ったのは、名前の短い一言だった。
「行こう」
その一言と同時に、ためらいもなく板戸へ歩を進める。
草むらを踏み分ける足取りは迷いがなく、まるでそこが既に戦場であることを当然と受け止めているようだった。
「ま、待って!ちょっと!こんな……見たら分かるだろ、絶対罠じゃん!い、一旦戻って応援呼んだ方が…!」
綾斗は慌ててその後を追い、腕を伸ばして引き留めようとした。
だが名前は振り返らず、答える。
「……鬼は、待ってくれない」
「私達がここで立ち止まれば、また犠牲者が出る」
その背に綾斗は言葉を詰まらせる。
手を伸ばす指先は空を切り、名前は板戸の前に立った。
軋む音とともに扉が押し開かれる。
中から吹き出したのは、湿った空気と、鏡面のようにきらめく光だった。
名前の背が闇に溶けるように室内へと消える。
綾斗は口をへの字に結び、肩越しに再び死体の山を振り返る。
喉の奥がひりつき、全身が「引き返せ」と告げていた。
「〜〜もうっ!名前ちゃん絶対俺のこと守ってよ!?」
数日前の誓いはどこへやら、綾斗は半ばやけくそで涙ながらにそう叫びながら、名前の背中を追って敷居を跨ぐ。
――足を踏み入れた瞬間、異様な感覚に襲われた。
壁も天井も、磨き上げられた鏡で覆われている。
中は薄暗いのに、四方八方からこちらを見返す影が無数に揺らめき、どこからともなく自分の息遣いが返ってくる。
「な…なんだこれ……全部、鏡……?」
声が反響し、すぐ横からもう一人の自分が囁いたように聞こえる。
綾斗は思わず足を止め、腰の刀に手をかけた。
名前は振り返らない。
迷いなく奥へ進み、反射する鏡像を一瞥もしない。
「綾斗、離れないで」
その静かな声だけが、妙に鮮明に響いた。
綾斗は唾を飲み込み、肩をすくめながらも足を早めた。
――鏡に映る自分の目が、一瞬、知らない誰かのように笑った気がして、背筋が冷たくなる。
奥へ進むごとに、空気が重く、湿っていく。
吐き出す息が鏡に白く曇り、その曇りがゆっくりと消えるたび、ぼやけた自分の顔が浮かび上がった。
「…や、やっぱりこれ……罠だよね……?ねぇ、名前ちゃん……」
綾斗の声は、かすかに震えていた。
返事はない。ただ、足音だけが二人の間に続く。
やがて、行く手に開けた広間が現れた。
床まで鏡が敷き詰められ、どこに立っても無数の自分が映る。
その中の一つが――わずかに遅れて動いた。
「……っ、今、動き……!」
綾斗が声を上げかけた瞬間。
鏡の奥から、同じ背丈、同じ顔立ちの“綾斗”が一歩、踏み出してきた。
それと同時に、別の鏡からは“ 名前”の姿をした影が現れる。
同じ顔、同じ構え――だが、その瞳は濁った闇に満ちていた。
「は……はぁぁあああ!!?」
「……来た」
綾斗の絶叫と同時、名前は刀に手をかけ、低く構えた時、広間に響いたのは、耳障りなほど甲高い笑い声だった。
鏡像の“ 名前”と“綾斗”の背後、奥の壁面の鏡が波打つように揺れ、そこから長身の影が滲み出す。
「……人は、鏡を覗く時……必ず己を見る」
低く湿った声とともに、鏡面から完全に抜け出たそれは、病的に白い肌を持つ鬼だった。
裂けた口元には常に作り物めいた笑みが貼り付き、右の額からは長い角が生えている。
鬼は片手を掲げ、鏡像の背中を軽く押すような仕草をした。
次の瞬間、“ 名前”が疾風のごとく間合いを詰め、鏡像の刀が名前本人に振り下ろされる。
「なっ……これ、俺らの動き……!」
名前への攻撃と同時に振り下ろされていた自身の鏡像に、綾斗が慌てて刃を受ける。
金属がぶつかる甲高い音と共に、腕の中まで衝撃が伝わり、足が床を滑った。
(……動きだけじゃない。間合いも、呼吸も……そっくり)
名前の目がわずかに細められる。
鏡像の“ 名前”はまるで予知しているかのように彼女の斬撃を捌き、わずかな隙に反撃を返してきた。
その様を、鏡から抜け出した鬼は愉快そうに見下ろしている。
「鏡は真実を映す。お前たちの技も、癖も、恐怖も……全部な」
綾斗は歯を食いしばり、汗で湿った掌を柄に強く押し付ける。
「……ふざけんな…っ!俺はもっと……男前だ、っての!!」
叫びざま、水の呼吸・壱ノ型〈水面斬り〉を放つ。
だが――鏡像の“綾斗”も全く同じ動きで迎え撃ち、刃と刃が正面から激突した。
火花が散り、広間の鏡が一瞬ぎらりと光を返す。
その光の中、名前は一歩踏み込み、低く呟いた。
「……綾斗。鏡像は、本体じゃない」
鬼の口元が、ニヤリと深く裂けた。
「さて……本当の地獄は、これからだ」
――奥の鏡が、再び波打つ。
そこからは、新たな鏡像たちが、ぞろぞろと抜け出そうとしていた。