五章
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――やわらかな香りが、微睡みの底に落ちた意識をそっと引き上げていく。
それは、夜闇の中でしか咲かぬ花が放つような、ほの甘く清らかな匂い。
藤の花だ。
(……ここは……)
ゆっくりと瞼を開けると、格子越しに漏れる朝の光が、畳の上に淡く射していた。
天井には木の梁が走り、部屋の隅では小さな香炉から白い煙が揺れている。
敷布団の下の柔らかな感触が、全身の緊張をほどくように広がっていた。
ぼんやりと周囲を見渡した次の瞬間、昨夜の戦いが脳裏に鮮やかに甦る。
黒紙の刃、鋭い痛み、そして――気が遠くなる瞬間。
上体を起こそうとした途端、脇腹に激しい痛みが走り、息が詰まった。
「……っ」
その小さな呻き声に呼応するように、障子が静かに開く。
「――あまり動かないでください」
低く落ち着いた声。
入ってきたのは、紺の着物に白い襷をかけた年配の男。片手には黒光りする薬箱を提げている。
「この屋敷に呼ばれた医者です。あなたはかなりの出血で意識を失っていました」
膝をつくと、丁寧に包帯の具合を確かめる。
指先の動きは無駄なく、しかし温かい。
「命に別状はありませんが……筋肉を深く傷つけています。数日は安静に」
名前は浅く息をつき、かすれた声で問いかけた。
「……ここは、藤の家紋の……屋敷ですか」
医者はうなずき、淡々と答える。
「ええ。鬼が近寄らぬ土地です。外の者は入れません。どうか、この機会に休んでください」
安堵の色をわずかに宿した瞬間――
「カァァーー!! 名前様ァーー!! 目覚メタ目覚メタ目覚メタァーー!!」
突如、天井近くから影が舞い降りた。
黒い翼が勢いよく広がり、鎹鴉が名前の枕元へと器用に着地する。
つややかな羽をふくらませ、いきなり名前の頬を突いた。
「……いっ」
「無事無事無事ッ!! 喜ベ喜ベ喜ベェーー!! ダガ安静安静安静ーー!!」
医者が思わず目を丸くする横で、鴉はさらに名前の額へと嘴を伸ばしてくる。
名前は眉をひそめ、半眼のまま小さく息をつく。
「……目が覚めた。お陰様で」
「任務報告報告報告ッ!! アトデアトデアトデーー!!」
鴉は勝手に納得したように羽をばさつかせると、障子の桟に移動し、外を警戒するように首を回す。
藤の花の香りが、部屋中に満ちていた。
その甘く静かな匂いの奥で――名前は、遠くに迫る戦いの気配を、まだぼんやりと感じていた。
⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎
それから、何日経っただろうか。
薄い布越しに差し込む朝の光が、布団に横たわり輸血をされる名前の頬をやわらかく照らしていた。
まだ体は重く、まぶたも思うように上がらない。
それでも、遠くから近づく足音に、ぼんやりと意識が向く。
――その足音に、名前は聞き覚えがあった。
「――おーい!入っていいですかー!……返事がないので……入っちゃいまーーす!!」
障子が勢いよく開き、光が差し込む。
その輪郭を目にした瞬間、名前は微かに瞬きをした。
立っていたのは、黒髪の少年――鷹司綾斗。
見間違えるはずもない顔。
けれど、ここで会うとは思っていなかった。
「……っ、やっ……っと会えたぁああああ!!」
綾斗はぱぁっと表情を明るくし、まっすぐ駆け寄ってきた。
布団の脇に膝をつき、息を弾ませたまま顔を覗き込む。
「生きてたーー!いやもう、ほんっと心配したんだからな!あの後ぜんっぜん連絡なくてさ、鴉も“任務中”とかしか言わないし!あー、もうっ!こんな顔色になっちゃって……!ご飯ちゃんと食べてる!!?」
言葉の奔流を、名前はしばし見つめて受け止めた。
心のどこかが、じんわりと温かくなる。
やがて、静かに口を開いた。
「……綾斗……?」
その名を呼ぶ声は、驚きと安堵が混じった、かすかな音だった。
綾斗は「おう!」と笑顔で返した後、両手で名前の腕をそっと取った。
「ほんっと……生きててくれて、良かった……」
ぽつりと呟く綾斗に、名前は小さく問いかける。
「……何で、ここに……?」
名前が小さく問うと、綾斗は「いやそれがさ!」と勢いよく語り出す。
「たまたま近くで任務があって、その帰りにね、後始末してた隠たちが話してたんだよ」
『そういや知ってるか?最近入ってきた新人の話』
『あ〜…なんだっけ、たしか珍しい呼吸の……あ、雫?だっけ』
『そうそう。三日前、血まみれの重体で運ばれたらしい』
『しかも女の子だろ?すげーよなぁ。全く、頭が上がりませんわ』
「……って聞いた瞬間、“それ絶対名前ちゃんじゃん!”ってなってさ!」
「そっからはもう隠に聞きまくって、場所教えてもらって……」
少し照れくさそうに笑いながら、綾斗は続ける。
「……会いたかったから」
名前はその言葉に一瞬だけまばたきをして、視線を伏せる。
ほんのわずかに、指先が布団の上で動いた。
「……そう」
それ以上多くは言わなかったが、その声には微かに安堵がにじんでいた。
けれど、その笑みはすぐに消え、眉が寄せられた。
「……あんまり、無茶しないでよ。話聞いた時、心臓止まるかと思ったんだから」
声は静かだったが、その奥ににじむのは、冗談でも軽口でもない本気の色だった。
「隠の話聞いてさ……“血まみれで運ばれた”なんて言われたら、そりゃ焦るだろ」
視線が、布団の上からわずかに覗く包帯に落ちる。
そこにじんわりとにじむ赤に、綾斗は唇を噛んだ。
「 名前ちゃんは……俺なんかよりずっと強いの、分かってるけど……それでも怖いんだよ。もう一回会える保証なんて、どこにも無いんだから」
絞り出す様に言う綾斗に、名前は淡々と答える。
「……無茶をしなければ、鬼を斬れない。鬼の首を斬るためなら、私もこれからもいくらでも無茶をする」
「名前ちゃん…」
名前の答えに泣き出しそうになる綾斗。
その顔を正面に見据え、名前は、「でも」と続けた。
「私は、死なない。目的を果たすまでは絶対に死なない」
「だから……綾斗が死なない限り、何度でも再会できる」
綾斗は、名前の言葉を聞いた瞬間、ぐっと目を見開いた。
そして、拳を握りしめ――次の瞬間、感情が一気に爆発する。
「絶対死なない!!」
声が震えていた。
必死さと恐れとが入り混じった、子どものような叫び。
「だから、名前ちゃんも死なないでよ!?絶対……絶対……約束だから!!!」
ほとんど喚くように言いながら、綾斗は涙をにじませたまま、小指を突き出してきた。
震える指先は、必死に「約束」の形を求めている。
名前は、その勢いに少し引きながらも、視線を落とす。
――ほんのわずかにためらった後、頷いて、そっと自分の小指を伸ばした。
「……約束」
指先が触れ合い、ゆっくりと絡まる。
朝の光が、二人の影を畳の上に長く落としていた。
「絶対だからな!……二回言うぞ、絶対!」
「俺達は……死なない!!」
綾斗は食い下がるように念を押す。
名前は小さく息を吐き、ほんの僅かに口元を緩めた。
「三回目も言おうか!!?」
「もういい」
⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎
綾斗が鼻をすすり、少し落ち着きを取り戻した頃だった。
「そうだ名前ちゃん!ちょっと聞いてよ!」
『ちょっと奥さん!』とでも言う様に綾斗が右手を煽る。
「この前さ!すっごい変な隊士と一緒だったんだよ!」
「変?」
「俺らの少し後に入隊したらしいんだけど、頭が真っ黄色でさ、もう戦いたくないーー!怖いーー!!って泣きわめいて隙を見て逃げ出そうとしてさ!女の子見るとすぐちょっかい出しに行くし!俺そいつの次に一番後輩だったから、先輩達から世話押し付けられて大変だったんだよ!」
「………」
「だけど……いざ鬼が出てきたら――」
綾斗は、わざと間をあけ、身振りで勢いよく刀を振る真似をした。
「……一番強かった」
名前は目を瞬かせる。
綾斗は大げさに肩をすくめた。
「信じられる?その鬼、血鬼術持ちでさ…先輩達、やられちゃって…そいつと俺だけになっちゃって、もうダメだ!って思ったら……一瞬で斬り落としたんだ。俺には、閃光が走った様にしか見えなかった」
「……雷の、呼吸」
名前が呟くと、綾斗は「そうそう!」と身を乗り出す。
「……まあ、戦いが終わったらまた泣いてたけどさ。訳わかんない奴だったよ。……あ!そういえば名前聞くの忘れてた!」
名前は、ふっと小さく息を漏らした。
それが笑みだったのか、ただの吐息だったのかは、自分でも分からない。
綾斗が雷の呼吸の隊士の話を終えると、今度は視線を名前に向けた。
「……名前ちゃんは?どのくらい倒したの?」
名前は、少しだけ視線を落とし、静かに口を開く。
「…二体だけ」
返ってきたのは、意外なほど短く、そして淡々とした答えだった。
綾斗は一瞬、言葉を失う。
(……え? 二体……?いやいや、名前ちゃんなら、もっとこう……十とか二十とか……俺なんかと比べものにならないくらい倒してると思ってたのに……)
心の中でぐるぐると考えながら、気まずさを振り払うように笑ってみせた。
「そ、そっか……」
そして、わざとらしく胸を張り――
「俺は、五体倒したよ!」
(……まあ全部団体任務で、先輩たちが殆どやってくれたんだけど!数は数だし!)
名前は視線をわずかに上げ、穏やかな声で「すごいね」と言った。
ほんの一言。それだけなのに、綾斗の胸の奥にじんわりと温かいものが広がっていく。
「で、でしょ? えへへ……」
思わず頬がゆるみ、耳まで熱を帯びる。
勢いづいて、少し照れ隠しをするように腕を組み、わざと偉そうに言った。
「まあ、もし今度一緒に任務があったらさ――俺が名前ちゃんを守ってあげるから!」
言いながら、鼻先が少し高くなる。
名前は「……そう」とだけ返す。
その声は淡々としていて、特に何の感情も混ざっていないように聞こえたが――
綾斗は勝手に「照れてるのかも」と解釈して、ますます顔を綻ばせた。
(……いつかきっと、一緒に任務に出る日が来る。その時は……絶対俺が守るんだ)
胸の奥で密かに拳を握りしめながら、綾斗はひとり決意を固めていた。
それは、夜闇の中でしか咲かぬ花が放つような、ほの甘く清らかな匂い。
藤の花だ。
(……ここは……)
ゆっくりと瞼を開けると、格子越しに漏れる朝の光が、畳の上に淡く射していた。
天井には木の梁が走り、部屋の隅では小さな香炉から白い煙が揺れている。
敷布団の下の柔らかな感触が、全身の緊張をほどくように広がっていた。
ぼんやりと周囲を見渡した次の瞬間、昨夜の戦いが脳裏に鮮やかに甦る。
黒紙の刃、鋭い痛み、そして――気が遠くなる瞬間。
上体を起こそうとした途端、脇腹に激しい痛みが走り、息が詰まった。
「……っ」
その小さな呻き声に呼応するように、障子が静かに開く。
「――あまり動かないでください」
低く落ち着いた声。
入ってきたのは、紺の着物に白い襷をかけた年配の男。片手には黒光りする薬箱を提げている。
「この屋敷に呼ばれた医者です。あなたはかなりの出血で意識を失っていました」
膝をつくと、丁寧に包帯の具合を確かめる。
指先の動きは無駄なく、しかし温かい。
「命に別状はありませんが……筋肉を深く傷つけています。数日は安静に」
名前は浅く息をつき、かすれた声で問いかけた。
「……ここは、藤の家紋の……屋敷ですか」
医者はうなずき、淡々と答える。
「ええ。鬼が近寄らぬ土地です。外の者は入れません。どうか、この機会に休んでください」
安堵の色をわずかに宿した瞬間――
「カァァーー!! 名前様ァーー!! 目覚メタ目覚メタ目覚メタァーー!!」
突如、天井近くから影が舞い降りた。
黒い翼が勢いよく広がり、鎹鴉が名前の枕元へと器用に着地する。
つややかな羽をふくらませ、いきなり名前の頬を突いた。
「……いっ」
「無事無事無事ッ!! 喜ベ喜ベ喜ベェーー!! ダガ安静安静安静ーー!!」
医者が思わず目を丸くする横で、鴉はさらに名前の額へと嘴を伸ばしてくる。
名前は眉をひそめ、半眼のまま小さく息をつく。
「……目が覚めた。お陰様で」
「任務報告報告報告ッ!! アトデアトデアトデーー!!」
鴉は勝手に納得したように羽をばさつかせると、障子の桟に移動し、外を警戒するように首を回す。
藤の花の香りが、部屋中に満ちていた。
その甘く静かな匂いの奥で――名前は、遠くに迫る戦いの気配を、まだぼんやりと感じていた。
⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎
それから、何日経っただろうか。
薄い布越しに差し込む朝の光が、布団に横たわり輸血をされる名前の頬をやわらかく照らしていた。
まだ体は重く、まぶたも思うように上がらない。
それでも、遠くから近づく足音に、ぼんやりと意識が向く。
――その足音に、名前は聞き覚えがあった。
「――おーい!入っていいですかー!……返事がないので……入っちゃいまーーす!!」
障子が勢いよく開き、光が差し込む。
その輪郭を目にした瞬間、名前は微かに瞬きをした。
立っていたのは、黒髪の少年――鷹司綾斗。
見間違えるはずもない顔。
けれど、ここで会うとは思っていなかった。
「……っ、やっ……っと会えたぁああああ!!」
綾斗はぱぁっと表情を明るくし、まっすぐ駆け寄ってきた。
布団の脇に膝をつき、息を弾ませたまま顔を覗き込む。
「生きてたーー!いやもう、ほんっと心配したんだからな!あの後ぜんっぜん連絡なくてさ、鴉も“任務中”とかしか言わないし!あー、もうっ!こんな顔色になっちゃって……!ご飯ちゃんと食べてる!!?」
言葉の奔流を、名前はしばし見つめて受け止めた。
心のどこかが、じんわりと温かくなる。
やがて、静かに口を開いた。
「……綾斗……?」
その名を呼ぶ声は、驚きと安堵が混じった、かすかな音だった。
綾斗は「おう!」と笑顔で返した後、両手で名前の腕をそっと取った。
「ほんっと……生きててくれて、良かった……」
ぽつりと呟く綾斗に、名前は小さく問いかける。
「……何で、ここに……?」
名前が小さく問うと、綾斗は「いやそれがさ!」と勢いよく語り出す。
「たまたま近くで任務があって、その帰りにね、後始末してた隠たちが話してたんだよ」
『そういや知ってるか?最近入ってきた新人の話』
『あ〜…なんだっけ、たしか珍しい呼吸の……あ、雫?だっけ』
『そうそう。三日前、血まみれの重体で運ばれたらしい』
『しかも女の子だろ?すげーよなぁ。全く、頭が上がりませんわ』
「……って聞いた瞬間、“それ絶対名前ちゃんじゃん!”ってなってさ!」
「そっからはもう隠に聞きまくって、場所教えてもらって……」
少し照れくさそうに笑いながら、綾斗は続ける。
「……会いたかったから」
名前はその言葉に一瞬だけまばたきをして、視線を伏せる。
ほんのわずかに、指先が布団の上で動いた。
「……そう」
それ以上多くは言わなかったが、その声には微かに安堵がにじんでいた。
けれど、その笑みはすぐに消え、眉が寄せられた。
「……あんまり、無茶しないでよ。話聞いた時、心臓止まるかと思ったんだから」
声は静かだったが、その奥ににじむのは、冗談でも軽口でもない本気の色だった。
「隠の話聞いてさ……“血まみれで運ばれた”なんて言われたら、そりゃ焦るだろ」
視線が、布団の上からわずかに覗く包帯に落ちる。
そこにじんわりとにじむ赤に、綾斗は唇を噛んだ。
「 名前ちゃんは……俺なんかよりずっと強いの、分かってるけど……それでも怖いんだよ。もう一回会える保証なんて、どこにも無いんだから」
絞り出す様に言う綾斗に、名前は淡々と答える。
「……無茶をしなければ、鬼を斬れない。鬼の首を斬るためなら、私もこれからもいくらでも無茶をする」
「名前ちゃん…」
名前の答えに泣き出しそうになる綾斗。
その顔を正面に見据え、名前は、「でも」と続けた。
「私は、死なない。目的を果たすまでは絶対に死なない」
「だから……綾斗が死なない限り、何度でも再会できる」
綾斗は、名前の言葉を聞いた瞬間、ぐっと目を見開いた。
そして、拳を握りしめ――次の瞬間、感情が一気に爆発する。
「絶対死なない!!」
声が震えていた。
必死さと恐れとが入り混じった、子どものような叫び。
「だから、名前ちゃんも死なないでよ!?絶対……絶対……約束だから!!!」
ほとんど喚くように言いながら、綾斗は涙をにじませたまま、小指を突き出してきた。
震える指先は、必死に「約束」の形を求めている。
名前は、その勢いに少し引きながらも、視線を落とす。
――ほんのわずかにためらった後、頷いて、そっと自分の小指を伸ばした。
「……約束」
指先が触れ合い、ゆっくりと絡まる。
朝の光が、二人の影を畳の上に長く落としていた。
「絶対だからな!……二回言うぞ、絶対!」
「俺達は……死なない!!」
綾斗は食い下がるように念を押す。
名前は小さく息を吐き、ほんの僅かに口元を緩めた。
「三回目も言おうか!!?」
「もういい」
⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎
綾斗が鼻をすすり、少し落ち着きを取り戻した頃だった。
「そうだ名前ちゃん!ちょっと聞いてよ!」
『ちょっと奥さん!』とでも言う様に綾斗が右手を煽る。
「この前さ!すっごい変な隊士と一緒だったんだよ!」
「変?」
「俺らの少し後に入隊したらしいんだけど、頭が真っ黄色でさ、もう戦いたくないーー!怖いーー!!って泣きわめいて隙を見て逃げ出そうとしてさ!女の子見るとすぐちょっかい出しに行くし!俺そいつの次に一番後輩だったから、先輩達から世話押し付けられて大変だったんだよ!」
「………」
「だけど……いざ鬼が出てきたら――」
綾斗は、わざと間をあけ、身振りで勢いよく刀を振る真似をした。
「……一番強かった」
名前は目を瞬かせる。
綾斗は大げさに肩をすくめた。
「信じられる?その鬼、血鬼術持ちでさ…先輩達、やられちゃって…そいつと俺だけになっちゃって、もうダメだ!って思ったら……一瞬で斬り落としたんだ。俺には、閃光が走った様にしか見えなかった」
「……雷の、呼吸」
名前が呟くと、綾斗は「そうそう!」と身を乗り出す。
「……まあ、戦いが終わったらまた泣いてたけどさ。訳わかんない奴だったよ。……あ!そういえば名前聞くの忘れてた!」
名前は、ふっと小さく息を漏らした。
それが笑みだったのか、ただの吐息だったのかは、自分でも分からない。
綾斗が雷の呼吸の隊士の話を終えると、今度は視線を名前に向けた。
「……名前ちゃんは?どのくらい倒したの?」
名前は、少しだけ視線を落とし、静かに口を開く。
「…二体だけ」
返ってきたのは、意外なほど短く、そして淡々とした答えだった。
綾斗は一瞬、言葉を失う。
(……え? 二体……?いやいや、名前ちゃんなら、もっとこう……十とか二十とか……俺なんかと比べものにならないくらい倒してると思ってたのに……)
心の中でぐるぐると考えながら、気まずさを振り払うように笑ってみせた。
「そ、そっか……」
そして、わざとらしく胸を張り――
「俺は、五体倒したよ!」
(……まあ全部団体任務で、先輩たちが殆どやってくれたんだけど!数は数だし!)
名前は視線をわずかに上げ、穏やかな声で「すごいね」と言った。
ほんの一言。それだけなのに、綾斗の胸の奥にじんわりと温かいものが広がっていく。
「で、でしょ? えへへ……」
思わず頬がゆるみ、耳まで熱を帯びる。
勢いづいて、少し照れ隠しをするように腕を組み、わざと偉そうに言った。
「まあ、もし今度一緒に任務があったらさ――俺が名前ちゃんを守ってあげるから!」
言いながら、鼻先が少し高くなる。
名前は「……そう」とだけ返す。
その声は淡々としていて、特に何の感情も混ざっていないように聞こえたが――
綾斗は勝手に「照れてるのかも」と解釈して、ますます顔を綻ばせた。
(……いつかきっと、一緒に任務に出る日が来る。その時は……絶対俺が守るんだ)
胸の奥で密かに拳を握りしめながら、綾斗はひとり決意を固めていた。