四章
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名前の眼差しは、夜の湖面のように静かだった。
だがその奥に、息を潜める怒りと、深い哀しみが滲んでいる。
「それ以上喋ってみろ……お前のその舌を、なます切りにしてやる」
声は静かだった。
それでも鬼は、思わず後ずさるように足を引いた。
(……なんという気配……!)
言葉は鋭利な刃となり、鬼の皮膚を撫でるようにぞわりと寒気を走らせた。
だが。
「……ぬぅっ…!この、小娘が……!」
怒りと怯えをない交ぜにした鬼が、裂けるような声で叫ぶ。
「目上の者に対する口の利き方を……知らんのかァーーっ!!」
「《避ケルナ》! 《避ケルナ》! 《避ケルナ》! 《避ケルナ》ァアアッッ!!」
黒紙が、怒涛のように投げ放たれた。
空中を舞い、八方から名前に迫る紙の群れ――
その全てが、紅く濡れた“命令”と共に、鋭い“刃”へと変貌する。
(……くる)
名前の目が静かに細まる。
鬼が怒声のように血の命令を吐く。
黒紙が、連続して宙を舞った。
四方八方へ散りながら、くるくると踊るその一枚一枚が、赤黒い“文字”を帯びたまま、次第に鋭利な刃へと変貌していく。
(“避けるな”の命令――紙を見た者に、回避という選択肢を封じる……!)
“隔水の盾”は一方向にしか対応できず、同時に連続して繰り出すことは困難。
失敗すればつぐみに攻撃される危険がある。
ならば、これしかない。
名前は、流れるように足を踏み出した。
《雫の呼吸・漆ノ型――水輪の残響》
静かに――しかし鋭く、彼女の身体が沈み込む。
紙の刃を“避ける”のではない。流れを読み、力を抜き、身を委ね、刃の進行線そのものから身体を“滑らせる”。
水面に石を落としたときのように、波紋が刃の軌道を逸らしていく。
だが。
(……だめだ……っ)
《避ケルナ》の命令を、既に見てしまっていた。
――これは“回避してはいけない”という絶対の干渉。
水輪の残響は本来、“完全回避”を目的とした流れで構成されている。
その型が完璧であれば、どんな攻撃であろうと回避が可能。
だが今、この術にすら、命令の干渉が入り込んでくる。
結果――
刃の一つが、名前の動きのわずかな遅れを捉えた。
「っ……!」
黒紙の刃が、名前の肩を深く裂く。
ざくりと。
直後、数枚の刃が体勢を崩した名前に次々襲いかかり、皮膚を、肉を、容赦なく貫く。
「ッぁ……!」
鈍い痛みとともに、熱い血が飛び散る。
「お姉さんっ!」
背のつぐみが、恐怖に震えた声をあげる。
名前の足元が、かすかにぐらついた。
「……ふふ、ほれ見たことか……!」
鬼が唸るように笑う。
「“避けるな”の命に逆らい、無理に呼吸を使ったその報いじゃ……! 斬られたな? 傷を負うたな? ならば、次は――死ぬ番じゃ!」
名前は、それでも倒れなかった。
膝をつかず、背を丸めず、なおもつぐみを庇う姿勢を崩さない。
しかし、負傷の出血は深く――視界の端に、じわじわと黒い滲みが広がっていた。
《水輪の残響》――鋭く、精緻で、的確な動きで流し避ける技。
だが今、それを“避ける”という行動に干渉された状態で無理矢理使えば、当然、精度は落ちる。
それでも名前は使った。
(こんな命令に……従うものか)
(従って、私が止まれば――つぐみが死ぬ)
肩を震わせながら、彼女は己の足を前に出し続けた。
――ふらつきながらも、確かに、そこに“剣士”としての覚悟があった。
鬼の顔に、次第に恐れが戻ってくる。
(まだ、立っておる……!?)
(あの血の量で……あの集中で……)
名前は、無言のままその場に立ち尽くしていた。
背のつぐみは、声も出せぬまま、ただ必死にその背中にしがみついていた。
つぐみの鼓動が震えている。
だが、名前の鼓動は、なおもその下で――しっかりと、生きていた。
⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎
「……《避ケルナ》!!」
鬼の叫びと共に、再び黒紙が宙に舞った。
今度は三枚、五枚、七枚と連続で―― 名前を包囲するように。
視界に散る《避ケルナ》の文字。
名前はその全てを、見ているはずだった。
(見たな。ならば――避けられぬ)
鬼の口角が吊り上がる。
“避ける”という選択そのものを奪う強制の言葉。
それを視界に入れた時点で、この女は終わる。
先程の呼吸の技も、そう何度も出せる技ではないのだろう。
斬るか、喰らうかしかない。
だが――
「!!?」
名前は、避けた。
一瞬の身の傾き。
紙の刃が空を裂く寸前、その身はしなやかに沈み、角度を変え、紙の軌道を外れる。
「……なに……!?」
再び、別の刃が飛来する。
名前は、再度避けた。まるで命の波を読んでいるかのように。
(馬鹿な……“避けるな”は見たはず……効かぬはずがない)
(なぜ……なぜ、避けられる……!?)
追い詰められた鬼の顔が、じわじわと引き攣っていく。
「……《避ケルナ》……ッ!!」
鬼の悲鳴のような叫びが夜に響く。
次の瞬間、漆黒の紙が幾重にも宙を舞った。
十枚、二十枚、三十枚――視界を覆い尽くすほどの《避ケルナ》。
名前の目の前に血の文字が降り注ぎ、刃の渦と化して空を裂いてくる。
(今度こそ――避けられまい!!)
鬼の瞳が、射抜くように名前を見据える。
しかし、そのいずれの刃も名前の皮膚を削ぐことは無かった。
真横から迫る紙の刃を、肩を落とし身体を滑らせてくぐり抜ける。
斜め後方からの一撃は、わずかに腰を捻るだけでかわした。
足元から突き上げてくる一枚は、片足を浮かせた瞬間に空振りへと変わる。
《全集中》
《雫の呼吸・漆ノ型――水輪の残響》
名前は、残像のように波打つ動きで、黒紙の連撃のただ中を駆け抜けていく。
鬼の命令など、聞く耳持たぬとでも言う様に。
名前のその瞳は、静かな、しかし燃え滾る火を宿し、真っ直ぐに、ただ鬼を見据えていた。
鬼が思わず息を呑む。
「何故じゃッ!何故避けられる!!?」
「見た筈なのに……何故じゃああッ!!?」
名前の回避は、もはや人の域とは思えなかった。
紙が飛ぶ直前に反応するのではなく、まるでそれが来ることを“感じ取っていた”かのように、刃の間を縫って進む。
名前の動きに耐えきれず、傷口から血が噴き出す。
先の首の鬼との戦闘で負い、縫われた背の傷が開く。
だが止まらない。
その足取りは確実に鬼との距離を詰めていた。
「ひぃっ……くるな、くるなァァアアッッ!」
鬼は後ずさる。
逃げるというよりも、反射的な本能の退避だった。
この女は、死を背負っている。
踏み込み一歩、もう一歩。
名前の姿が、夜に溶けて疾風のように迫る。
その剣先は――もう、鬼の首元まで届こうとしていた。
「ッ……ならば――これで、終いじゃ!!」
鬼が、最後の一枚を抜き放つ。
それは、どの黒紙よりも分厚く、血の匂いが濃い。
滲んだ文字が、名前の目の前ではっきりと踊る。
《斬 ル ナ》
その黒紙を、名前は真正面から――“見た”。
(よしッ!!見た!!)
(……これで終わりじゃ…!これを見て、斬れるはずがない!)
(勝っ――)
だが次の瞬間。
鬼の首が、宙に浮いた。
剣は止まらなかった。
振り抜かれた刀身は、鬼の首を確かに断ち切っていた。
混乱のまま視界がぐるりと回る――。
(なぜ……? なぜじゃ……!?)
《斬ルナ》の命令が効いていない。
名前は確かに黒紙を“見ていた”。
ならば――なぜ、斬れたのか。
その答えは、倒れゆく己の視界にあった。
―― 名前の青い顔。
焦点の合わぬ瞳。
脱力した四肢。
そして、剣を握ったまま、静かに倒れ込もうとするその姿――
「………気絶、しとる……?」
混乱の渦が、意識の残滓を飲み込む。
(命令が……届いていなかった……!?)
刹那、鬼の脳裏を過ぎる。
“視認”だけでは術は発動しない。
“意識ある状態”で、“言葉の意味”を脳が捉えるからこそ、暗示は深く根を張る。
だがこの女は――
(とうに…気を、失っていた……!)
戦闘中、命令を打ち破るために、自らの脇腹を斬り、流血と痛みの中で“恐怖”を消し去った。
そして今は――出血と、限界の集中に飲まれ、静かに意識を手放していたのだ。
(気絶したまま――剣を振るった……!?)
――是。
本能が、剣を握り、斬った。
鬼の目に最後に映ったのは、意識を失い、なお己を睨み剣を構えて佇む、女。
それはもはや、人の形を成した執念、そのものだった。
(………この女……人間では、ない……)
そう思った瞬間、
鬼の意識もまた、闇に沈んだ。
灰が、さらさらと風に舞い、そして消える。
名前の体が、その場にゆっくりと崩れる。
そして――
朝焼けが、訪れようとしていた。
だがその奥に、息を潜める怒りと、深い哀しみが滲んでいる。
「それ以上喋ってみろ……お前のその舌を、なます切りにしてやる」
声は静かだった。
それでも鬼は、思わず後ずさるように足を引いた。
(……なんという気配……!)
言葉は鋭利な刃となり、鬼の皮膚を撫でるようにぞわりと寒気を走らせた。
だが。
「……ぬぅっ…!この、小娘が……!」
怒りと怯えをない交ぜにした鬼が、裂けるような声で叫ぶ。
「目上の者に対する口の利き方を……知らんのかァーーっ!!」
「《避ケルナ》! 《避ケルナ》! 《避ケルナ》! 《避ケルナ》ァアアッッ!!」
黒紙が、怒涛のように投げ放たれた。
空中を舞い、八方から名前に迫る紙の群れ――
その全てが、紅く濡れた“命令”と共に、鋭い“刃”へと変貌する。
(……くる)
名前の目が静かに細まる。
鬼が怒声のように血の命令を吐く。
黒紙が、連続して宙を舞った。
四方八方へ散りながら、くるくると踊るその一枚一枚が、赤黒い“文字”を帯びたまま、次第に鋭利な刃へと変貌していく。
(“避けるな”の命令――紙を見た者に、回避という選択肢を封じる……!)
“隔水の盾”は一方向にしか対応できず、同時に連続して繰り出すことは困難。
失敗すればつぐみに攻撃される危険がある。
ならば、これしかない。
名前は、流れるように足を踏み出した。
《雫の呼吸・漆ノ型――水輪の残響》
静かに――しかし鋭く、彼女の身体が沈み込む。
紙の刃を“避ける”のではない。流れを読み、力を抜き、身を委ね、刃の進行線そのものから身体を“滑らせる”。
水面に石を落としたときのように、波紋が刃の軌道を逸らしていく。
だが。
(……だめだ……っ)
《避ケルナ》の命令を、既に見てしまっていた。
――これは“回避してはいけない”という絶対の干渉。
水輪の残響は本来、“完全回避”を目的とした流れで構成されている。
その型が完璧であれば、どんな攻撃であろうと回避が可能。
だが今、この術にすら、命令の干渉が入り込んでくる。
結果――
刃の一つが、名前の動きのわずかな遅れを捉えた。
「っ……!」
黒紙の刃が、名前の肩を深く裂く。
ざくりと。
直後、数枚の刃が体勢を崩した名前に次々襲いかかり、皮膚を、肉を、容赦なく貫く。
「ッぁ……!」
鈍い痛みとともに、熱い血が飛び散る。
「お姉さんっ!」
背のつぐみが、恐怖に震えた声をあげる。
名前の足元が、かすかにぐらついた。
「……ふふ、ほれ見たことか……!」
鬼が唸るように笑う。
「“避けるな”の命に逆らい、無理に呼吸を使ったその報いじゃ……! 斬られたな? 傷を負うたな? ならば、次は――死ぬ番じゃ!」
名前は、それでも倒れなかった。
膝をつかず、背を丸めず、なおもつぐみを庇う姿勢を崩さない。
しかし、負傷の出血は深く――視界の端に、じわじわと黒い滲みが広がっていた。
《水輪の残響》――鋭く、精緻で、的確な動きで流し避ける技。
だが今、それを“避ける”という行動に干渉された状態で無理矢理使えば、当然、精度は落ちる。
それでも名前は使った。
(こんな命令に……従うものか)
(従って、私が止まれば――つぐみが死ぬ)
肩を震わせながら、彼女は己の足を前に出し続けた。
――ふらつきながらも、確かに、そこに“剣士”としての覚悟があった。
鬼の顔に、次第に恐れが戻ってくる。
(まだ、立っておる……!?)
(あの血の量で……あの集中で……)
名前は、無言のままその場に立ち尽くしていた。
背のつぐみは、声も出せぬまま、ただ必死にその背中にしがみついていた。
つぐみの鼓動が震えている。
だが、名前の鼓動は、なおもその下で――しっかりと、生きていた。
⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎
「……《避ケルナ》!!」
鬼の叫びと共に、再び黒紙が宙に舞った。
今度は三枚、五枚、七枚と連続で―― 名前を包囲するように。
視界に散る《避ケルナ》の文字。
名前はその全てを、見ているはずだった。
(見たな。ならば――避けられぬ)
鬼の口角が吊り上がる。
“避ける”という選択そのものを奪う強制の言葉。
それを視界に入れた時点で、この女は終わる。
先程の呼吸の技も、そう何度も出せる技ではないのだろう。
斬るか、喰らうかしかない。
だが――
「!!?」
名前は、避けた。
一瞬の身の傾き。
紙の刃が空を裂く寸前、その身はしなやかに沈み、角度を変え、紙の軌道を外れる。
「……なに……!?」
再び、別の刃が飛来する。
名前は、再度避けた。まるで命の波を読んでいるかのように。
(馬鹿な……“避けるな”は見たはず……効かぬはずがない)
(なぜ……なぜ、避けられる……!?)
追い詰められた鬼の顔が、じわじわと引き攣っていく。
「……《避ケルナ》……ッ!!」
鬼の悲鳴のような叫びが夜に響く。
次の瞬間、漆黒の紙が幾重にも宙を舞った。
十枚、二十枚、三十枚――視界を覆い尽くすほどの《避ケルナ》。
名前の目の前に血の文字が降り注ぎ、刃の渦と化して空を裂いてくる。
(今度こそ――避けられまい!!)
鬼の瞳が、射抜くように名前を見据える。
しかし、そのいずれの刃も名前の皮膚を削ぐことは無かった。
真横から迫る紙の刃を、肩を落とし身体を滑らせてくぐり抜ける。
斜め後方からの一撃は、わずかに腰を捻るだけでかわした。
足元から突き上げてくる一枚は、片足を浮かせた瞬間に空振りへと変わる。
《全集中》
《雫の呼吸・漆ノ型――水輪の残響》
名前は、残像のように波打つ動きで、黒紙の連撃のただ中を駆け抜けていく。
鬼の命令など、聞く耳持たぬとでも言う様に。
名前のその瞳は、静かな、しかし燃え滾る火を宿し、真っ直ぐに、ただ鬼を見据えていた。
鬼が思わず息を呑む。
「何故じゃッ!何故避けられる!!?」
「見た筈なのに……何故じゃああッ!!?」
名前の回避は、もはや人の域とは思えなかった。
紙が飛ぶ直前に反応するのではなく、まるでそれが来ることを“感じ取っていた”かのように、刃の間を縫って進む。
名前の動きに耐えきれず、傷口から血が噴き出す。
先の首の鬼との戦闘で負い、縫われた背の傷が開く。
だが止まらない。
その足取りは確実に鬼との距離を詰めていた。
「ひぃっ……くるな、くるなァァアアッッ!」
鬼は後ずさる。
逃げるというよりも、反射的な本能の退避だった。
この女は、死を背負っている。
踏み込み一歩、もう一歩。
名前の姿が、夜に溶けて疾風のように迫る。
その剣先は――もう、鬼の首元まで届こうとしていた。
「ッ……ならば――これで、終いじゃ!!」
鬼が、最後の一枚を抜き放つ。
それは、どの黒紙よりも分厚く、血の匂いが濃い。
滲んだ文字が、名前の目の前ではっきりと踊る。
《斬 ル ナ》
その黒紙を、名前は真正面から――“見た”。
(よしッ!!見た!!)
(……これで終わりじゃ…!これを見て、斬れるはずがない!)
(勝っ――)
だが次の瞬間。
鬼の首が、宙に浮いた。
剣は止まらなかった。
振り抜かれた刀身は、鬼の首を確かに断ち切っていた。
混乱のまま視界がぐるりと回る――。
(なぜ……? なぜじゃ……!?)
《斬ルナ》の命令が効いていない。
名前は確かに黒紙を“見ていた”。
ならば――なぜ、斬れたのか。
その答えは、倒れゆく己の視界にあった。
―― 名前の青い顔。
焦点の合わぬ瞳。
脱力した四肢。
そして、剣を握ったまま、静かに倒れ込もうとするその姿――
「………気絶、しとる……?」
混乱の渦が、意識の残滓を飲み込む。
(命令が……届いていなかった……!?)
刹那、鬼の脳裏を過ぎる。
“視認”だけでは術は発動しない。
“意識ある状態”で、“言葉の意味”を脳が捉えるからこそ、暗示は深く根を張る。
だがこの女は――
(とうに…気を、失っていた……!)
戦闘中、命令を打ち破るために、自らの脇腹を斬り、流血と痛みの中で“恐怖”を消し去った。
そして今は――出血と、限界の集中に飲まれ、静かに意識を手放していたのだ。
(気絶したまま――剣を振るった……!?)
――是。
本能が、剣を握り、斬った。
鬼の目に最後に映ったのは、意識を失い、なお己を睨み剣を構えて佇む、女。
それはもはや、人の形を成した執念、そのものだった。
(………この女……人間では、ない……)
そう思った瞬間、
鬼の意識もまた、闇に沈んだ。
灰が、さらさらと風に舞い、そして消える。
名前の体が、その場にゆっくりと崩れる。
そして――
朝焼けが、訪れようとしていた。