一章
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夜深く。
名前は虫の鳴き声に混じる聞き慣れない物音で目を覚ました。
ぺちゃ…ぐちゅ…
何かを、咀嚼し、啜る音。
聞いたことのない、音。
布団の中で数秒、動けなかった。
しかし、玖波家の者として屋敷内での異変に対応しない訳にはいかない。
音を立てない様にそっと布団を抜け出した名前は、原因を突き止めるため部屋を出た。
待っていたのは、地獄だった。
「……え………」
部屋を出るとすぐに、足元が生ぬるい何かに触れた。
追って気が付いたのは、匂い。
むせ返る様な--血の、匂い。
ドクドクと痛みを伴って脈打つ心臓を押さえ、生臭い廊下で息を整える。
名前は血の感触を足の裏に感じたまま、固まったように立ち尽くした。
けれど、動かなければ。
状況を――把握しなければ。
息を殺しながら、廊下を進む。
障子の向こう、風の通り道に、ひときわ濃い鉄の匂いが漂っていた。
恐る恐る、障子を開けた。
「……っ新、一……っそんな…!」
そこにあったのは、人の胴体だった。
半ばからちぎれ、畳を濡らす血溜まりに沈むそれは、新一。
いつもキラキラと輝いていた彼の眼は、虚空を見つめたまま微かに開いていた。
「どうして……っ」
声が震える。
足が、動いてくれない。
でも、進まなければ。
理解したいわけじゃない。ただ……この“異常”が、何なのかを見届けなければいけないと、本能が言っていた。
名前は、足元の血を避けるようにしながら、次の部屋へ向かう。
開けた障子の向こう、女中が二人――互いに抱き合うように倒れていた。
「ッッあ……あぁ……」
一人は--桐子だった。
彼女の胸には、歯形のような傷。
もう一人の喉は、何か鋭いもので深く裂かれていた。
まるで、捕食。
名前の頭の中で、警鐘が鳴る。
(まさか……熊……!?)
否定したい。
だが、状況がそう告げていた。
これは“人の仕業”ではない。
普通の人間が、こんな殺し方をするはずがない。
(逃げなきゃ……でも、逃がしちゃいけない)
やらなければいけない。
ここで“何が起きたか”を、しっかりとこの目に刻まなければ。
生き残りがいるかもしれない。
さもなければ--家は、本当に終わってしまう。
「…っ、陽太…!」
陽太は、無事だろうか。
陽太を探さなければ。
名前はもはや足音が響くのも気にせず一目散に陽太の部屋へと向かった。
しかし。
陽太はいなかった。
布団はきちんと畳まれ、一雫の血もここにはなかった。
血の海と化しているこの屋敷で、むしろそれは酷く異様な光景に見えた。
だが今はそんなことを考えている場合ではない。
名前は立てかけられていた陽太の木刀を持つと駆け出した。
開いた部屋の全てで、門下生や女中が死んでいた。
ある者は腹を裂かれ、ある者は両脚を引き抜かれ、ある者は首から上は何もなかった。
そして、最後の襖の前にたどり着いた。
両親の、部屋だった。
「はぁっ…はぁっ…」
名前は、震える手で扉を開けた。
「っ……!」
畳に広がる血は、もはや一面に染みていた。
室内には、父・澄誠と、母・綺羅子、颯太郎の姿があった。
颯太郎の首は深くえぐり取られ、腹に中身は無かった。
その瞳にもはや名前を映すことはない。
綺羅子の喉元は喰いちぎられ、口元が引き攣ったように開いている。
あの優しく澄んだ声は、二度と聞こえない。
その下に、父がいた。
腹を裂かれ、血が布団から畳へと染み出していた。
あれほど凛々しかった人が、ただの肉になっていた。
そして、その父の腸を貪る何かが、そこにいた。
その背丈。
その髪の色。
その細い肩。
嗚呼…全て、知っている。
「…………陽太………」
『それ』が、ゆっくりとこちらを向く。
赤い瞳。
歯にはまだ、肉の繊維が挟まり、口元は血で濡れていた。
それでも。
それでも、私にはわかった。
弟だった。
間違いなく、私の、弟だった。
「あ〜〜、姉上ぇ」
赤い瞳が、ゆっくりと細められる。
口角が吊り上がり、血塗れの唇から音が零れる。
視界が、揺れる。
脚が、心が、壊れてゆく。
こんなのは、おかしい。
「姉上ぇ。知ってたぁ?人ってさぁ……とろけるんだよぉ……。あったかくて……甘くってぇ……」
だって世界は。
「でもさぁ。僕、一番好きなものは一番最後にとっておくからさあぁ」
優しく。
「姉上を一番最後に食べよぉってさぁ、とっといたんだあああぁ」
美しいはずなのに。
名前は虫の鳴き声に混じる聞き慣れない物音で目を覚ました。
ぺちゃ…ぐちゅ…
何かを、咀嚼し、啜る音。
聞いたことのない、音。
布団の中で数秒、動けなかった。
しかし、玖波家の者として屋敷内での異変に対応しない訳にはいかない。
音を立てない様にそっと布団を抜け出した名前は、原因を突き止めるため部屋を出た。
待っていたのは、地獄だった。
「……え………」
部屋を出るとすぐに、足元が生ぬるい何かに触れた。
追って気が付いたのは、匂い。
むせ返る様な--血の、匂い。
ドクドクと痛みを伴って脈打つ心臓を押さえ、生臭い廊下で息を整える。
名前は血の感触を足の裏に感じたまま、固まったように立ち尽くした。
けれど、動かなければ。
状況を――把握しなければ。
息を殺しながら、廊下を進む。
障子の向こう、風の通り道に、ひときわ濃い鉄の匂いが漂っていた。
恐る恐る、障子を開けた。
「……っ新、一……っそんな…!」
そこにあったのは、人の胴体だった。
半ばからちぎれ、畳を濡らす血溜まりに沈むそれは、新一。
いつもキラキラと輝いていた彼の眼は、虚空を見つめたまま微かに開いていた。
「どうして……っ」
声が震える。
足が、動いてくれない。
でも、進まなければ。
理解したいわけじゃない。ただ……この“異常”が、何なのかを見届けなければいけないと、本能が言っていた。
名前は、足元の血を避けるようにしながら、次の部屋へ向かう。
開けた障子の向こう、女中が二人――互いに抱き合うように倒れていた。
「ッッあ……あぁ……」
一人は--桐子だった。
彼女の胸には、歯形のような傷。
もう一人の喉は、何か鋭いもので深く裂かれていた。
まるで、捕食。
名前の頭の中で、警鐘が鳴る。
(まさか……熊……!?)
否定したい。
だが、状況がそう告げていた。
これは“人の仕業”ではない。
普通の人間が、こんな殺し方をするはずがない。
(逃げなきゃ……でも、逃がしちゃいけない)
やらなければいけない。
ここで“何が起きたか”を、しっかりとこの目に刻まなければ。
生き残りがいるかもしれない。
さもなければ--家は、本当に終わってしまう。
「…っ、陽太…!」
陽太は、無事だろうか。
陽太を探さなければ。
名前はもはや足音が響くのも気にせず一目散に陽太の部屋へと向かった。
しかし。
陽太はいなかった。
布団はきちんと畳まれ、一雫の血もここにはなかった。
血の海と化しているこの屋敷で、むしろそれは酷く異様な光景に見えた。
だが今はそんなことを考えている場合ではない。
名前は立てかけられていた陽太の木刀を持つと駆け出した。
開いた部屋の全てで、門下生や女中が死んでいた。
ある者は腹を裂かれ、ある者は両脚を引き抜かれ、ある者は首から上は何もなかった。
そして、最後の襖の前にたどり着いた。
両親の、部屋だった。
「はぁっ…はぁっ…」
名前は、震える手で扉を開けた。
「っ……!」
畳に広がる血は、もはや一面に染みていた。
室内には、父・澄誠と、母・綺羅子、颯太郎の姿があった。
颯太郎の首は深くえぐり取られ、腹に中身は無かった。
その瞳にもはや名前を映すことはない。
綺羅子の喉元は喰いちぎられ、口元が引き攣ったように開いている。
あの優しく澄んだ声は、二度と聞こえない。
その下に、父がいた。
腹を裂かれ、血が布団から畳へと染み出していた。
あれほど凛々しかった人が、ただの肉になっていた。
そして、その父の腸を貪る何かが、そこにいた。
その背丈。
その髪の色。
その細い肩。
嗚呼…全て、知っている。
「…………陽太………」
『それ』が、ゆっくりとこちらを向く。
赤い瞳。
歯にはまだ、肉の繊維が挟まり、口元は血で濡れていた。
それでも。
それでも、私にはわかった。
弟だった。
間違いなく、私の、弟だった。
「あ〜〜、姉上ぇ」
赤い瞳が、ゆっくりと細められる。
口角が吊り上がり、血塗れの唇から音が零れる。
視界が、揺れる。
脚が、心が、壊れてゆく。
こんなのは、おかしい。
「姉上ぇ。知ってたぁ?人ってさぁ……とろけるんだよぉ……。あったかくて……甘くってぇ……」
だって世界は。
「でもさぁ。僕、一番好きなものは一番最後にとっておくからさあぁ」
優しく。
「姉上を一番最後に食べよぉってさぁ、とっといたんだあああぁ」
美しいはずなのに。