四章
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夜が深く、村の片隅は闇に沈んでいた。
家々は早々に戸を閉ざし、灯も落ち、風の音すら遠のいている。
その中でただ一軒――
ぼんやりと人の気配が残る家の前に、一人の少女が立っていた。
つぐみは、何も言わずに縁側に腰を下ろす。
(……お父さんと、お母さんが帰ってくるかもしれない)
根拠のない希望。
誰も信じてくれなかった“あれ”が、また現れる気がして――怖かったけど、それでも帰ってきてしまった。
そのときだった。
ふらり、と闇が歪んだ。
「…………いた、いた……いたぞ……ようやく、ようやく……」
よろめくように現れたのは、背を丸めた年老いた男。
やせ細った手足。破れた袷。
その体からは、異様な圧がじわじわとにじみ出ていた。
つぐみは反射的に立ち上がろうとする。
だが――
《動クナ》
黒く滲んだ紙がひらりと宙を舞う。
そこに、赤黒い字がにじんでいた。
……その瞬間、つぐみの身体が固まる。
(……声が……でない……!?)
足も、腕も、喉も、まるで凍ったように動かない。
男の鼻が、音を立てて鳴る。
「ふぉふぉ……この香り……やはりこの村じゃったか……稀血の香……実に、実に久しい……」
「この血を求めて、何十里と歩いたわ……」
「小さき娘よ、お前じゃな……“探し当てた”ぞ……」
その“顔”が、にたりと歪む。
顔の上半分は皺で覆われているのに、眼の中だけが異様に澄んでいる。
その瞳が、ねっとりとつぐみを舐めるように追っていた。
「書かねばならぬ……お前の血で……まだ見ぬ“字”を、わしの“頁”に刻むのじゃ……」
枯れた指が、再び黒紙を抜く。
《恐レロ》
びく、とつぐみの心が悲鳴をあげる。
黒紙を見た瞬間、意識の奥底に恐怖が流れ込んでくる。
手足ががたがたと震える。
涙が勝手に溢れる。
「いい、いい……良いぞ……その震え、その怯え、その混濁が……最も良き“墨”となる……」
伸ばされた指が、つぐみの頬に届こうとした、その瞬間――
空気が裂けた。
その手首が、音もなく地面に落ちる。
「…………」
しばらく、何が起きたのか分からず、鬼が首を傾げる。
その視線の先。
つぐみを背に立っていたのは――
名前だった。
漆黒の隊服に、静かに構えられた日輪刀。
その瞳には、怒りも憐れみもない。
ただ、まっすぐに鬼を見据える、研ぎ澄まされた剣士の眼差しだった。
「……この子に、触れるな」
その一言が、夜の空気を断ち切った。
⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎
鬼の視線が、宙に浮かんだ自らの手首に吸い寄せられる。
血飛沫と共に地に落ちた手首の先は、痙攣のように蠢き、やがて黒い灰となり消えた。
「…………」
鬼が、その先にいる者を捉えた。
(……鬼殺隊か。面倒、面倒……)
つぐみの前に、音もなく立ち塞がっていた。
風もないのに、彼女の羽織がふわりと揺れる。
その手には、淡く群青に染まった日輪刀。
つぐみは混乱の中、誰かが来てくれたことをやっと理解する。
「た、す……け……」
喉から漏れた声は涙に溺れて、言葉にならなかった。
「この子に……何をした」
名前の低く静かな声が、夜気を切り裂いた。
鬼の肩が、ぴくりと震える。
「…………」
そのまま口元を吊り上げ、ずるりと懐から一枚の紙を取り出す。
漆黒の紙の中央に、赤黒い“血の文字”がしたためられていた。
《血鬼術――血筆ノ戒(けっぴつのいましめ)》
《恐レロ》
その瞬間―― 名前の眼前に、異様な違和感が走る。
視界の端に入った“文字”。
ただ見た、それだけで。
心臓が、ぎゅう、と締め付けられた。
胸の奥から、冷たい汗が噴き出す。
肩が震え、手が強張り、刀を握る指先に、妙に力が入らなくなる。
(……これは……何かがおかしい)
(身体が、こわばる……!)
鬼の顔が、笑いに歪む。
「見たな。もう、おしまいじゃ」
「わしの“頁”を覗いた者は、心の奥底を掴まれる。お主はもう、“恐怖”に抗えん」
名前は、震える指先を押さえ込むように、剣を握り直した。
その刹那――
口から吸った酸素を、全集中の呼吸に変化させる。
ヒュッ、と風が吹いたように、名前の体が動いた。
日輪刀が閃き、血文字の黒紙を、斜めに断ち切る。
ぱさり、と紙片が地に落ちた。
途端に、心の中にあった冷たい鉄の枷が外れたように、呼吸が戻ってくる。
(これが……血鬼術)
(……この術は、“黒紙”に書かれた事を強制するのか)
(でも、斬れた。斬れば、効果は消える。それなら大した能力じゃない)
鬼の笑みが、ぴたりと止まる。
「……ほう。斬ったか……!」
「だが、それは偶然じゃろう。黒紙を見てから反応するまでの時間、次は与えん」
名前は、答えない。
ただつぐみの前に立ち、背後の少女に向けて視線は鬼から逸らさぬままに口を開いた。
「……立てる?」
つぐみは、何も言葉が出なかった。
「立てなくても、立って、逃げて。こいつはあなたを狙っている」
名前の声は静かだった。
だが、その背中から溢れる気配は、夜を斬る刃のように鋭かった。
鬼の目が、名前を通り越し――その背にいる、つぐみへと、ねっとりと視線を這わせた。
「……逃がさんぞ……」
「わしが求めてきた“血”じゃ……」
「何十人の文字を刻んでも……まだ足らなんだ……」
「だがのう……その娘の血から立ちのぼる香り……あれは、“理”を超えておる」
「この村に入った夜から感じておった……稀なる香……人ではない、奇跡の滴……」
「それが――そこに、ある……!」
ぐぐ、と鬼の身体が前傾する。
骨が軋むような音。
背骨が、皮膚の上から蛇のように蠢く。
そして――
《動クナ》
ふたたび、黒紙が宙を舞う。
名前の眼前を通り過ぎ、まっすぐにつぐみの方角へ。
(――まずい!)
名前は反射的に身を捻り、刀を振るう。
――瞬撃。
黒紙は寸前で斬られ、斜めに裂けて地へ落ちる。
だが、その瞬間――
「!?」
紙片が、ぴくりと空中で跳ねた。
直後、破られた黒紙が、裂け目から鋭く尖った“刃”と化し、名前の頬をかすめた。
血が一筋、斜めに飛ぶ。
(紙そのものが……刃に!?)
鬼の笑みが深まる。
「――面白かろ?“頁”をめくった者は、命で支払うのじゃ」
「黒紙は“言葉”であり、“刃”であり、“命令”そのもの……!」
「その娘は、わしの“頁”のためにある!」
「稀血の娘よ……お前の血で、まだ見ぬ“文字”を記す……!」
その声は、狂信的な陶酔を帯びていた。
名前の目が、わずかに細まる。
稀血――静水から話は聞いていた。
人間の中で、極めて珍しい血液の型を持つ者がおり、その人間を喰うと五十から百人程喰ったのに値する力を得られる。
そのため、彼らは鬼を引き寄せる。
(つぐみを狙っている――完全に)
(…このままでは、また標的にされる)
(下手に逃がすのは、悪手か)
つぐみの呼吸が、背後で震えるように乱れているのが分かる。
名前は、ぐっと息を吸い込んだ。
そして――
「つぐみ。こっちに来て」
その一声に、つぐみはびくりと体を揺らす。
「え……?」
「走れる?」
つぐみは首を振る。涙でくしゃくしゃの顔で、声も出ない。
名前はそれを確認すると、背を向け、しゃがみ込んだ。
「じゃあ、掴まって。落ちないように」
「えっ……!」
「大丈夫。“見えなければ”命令は届かない。だから――私の背中に隠れて」
言いながら、名前は背に片腕を回し、つぐみの腕を抱え込むように固定した。
そして、低く囁いた。
「……必ず、目を瞑っていて。絶対に、黒い紙を見ないこと。わかったね?」
つぐみは、その声に導かれるように、ぎゅっと目を閉じた。
「……うん」
名前の胸の奥で、小さく息が落ち着いていく。
おんぶされたつぐみの鼓動が背に伝わる。
――それは、確かにそこにある“命”だった。
(守る。命を繋ぐ。それが、“雫”の剣)
そのやり取りの間にも――鬼は、次なる黒紙を抜き放っていた。
家々は早々に戸を閉ざし、灯も落ち、風の音すら遠のいている。
その中でただ一軒――
ぼんやりと人の気配が残る家の前に、一人の少女が立っていた。
つぐみは、何も言わずに縁側に腰を下ろす。
(……お父さんと、お母さんが帰ってくるかもしれない)
根拠のない希望。
誰も信じてくれなかった“あれ”が、また現れる気がして――怖かったけど、それでも帰ってきてしまった。
そのときだった。
ふらり、と闇が歪んだ。
「…………いた、いた……いたぞ……ようやく、ようやく……」
よろめくように現れたのは、背を丸めた年老いた男。
やせ細った手足。破れた袷。
その体からは、異様な圧がじわじわとにじみ出ていた。
つぐみは反射的に立ち上がろうとする。
だが――
《動クナ》
黒く滲んだ紙がひらりと宙を舞う。
そこに、赤黒い字がにじんでいた。
……その瞬間、つぐみの身体が固まる。
(……声が……でない……!?)
足も、腕も、喉も、まるで凍ったように動かない。
男の鼻が、音を立てて鳴る。
「ふぉふぉ……この香り……やはりこの村じゃったか……稀血の香……実に、実に久しい……」
「この血を求めて、何十里と歩いたわ……」
「小さき娘よ、お前じゃな……“探し当てた”ぞ……」
その“顔”が、にたりと歪む。
顔の上半分は皺で覆われているのに、眼の中だけが異様に澄んでいる。
その瞳が、ねっとりとつぐみを舐めるように追っていた。
「書かねばならぬ……お前の血で……まだ見ぬ“字”を、わしの“頁”に刻むのじゃ……」
枯れた指が、再び黒紙を抜く。
《恐レロ》
びく、とつぐみの心が悲鳴をあげる。
黒紙を見た瞬間、意識の奥底に恐怖が流れ込んでくる。
手足ががたがたと震える。
涙が勝手に溢れる。
「いい、いい……良いぞ……その震え、その怯え、その混濁が……最も良き“墨”となる……」
伸ばされた指が、つぐみの頬に届こうとした、その瞬間――
空気が裂けた。
その手首が、音もなく地面に落ちる。
「…………」
しばらく、何が起きたのか分からず、鬼が首を傾げる。
その視線の先。
つぐみを背に立っていたのは――
名前だった。
漆黒の隊服に、静かに構えられた日輪刀。
その瞳には、怒りも憐れみもない。
ただ、まっすぐに鬼を見据える、研ぎ澄まされた剣士の眼差しだった。
「……この子に、触れるな」
その一言が、夜の空気を断ち切った。
⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎
鬼の視線が、宙に浮かんだ自らの手首に吸い寄せられる。
血飛沫と共に地に落ちた手首の先は、痙攣のように蠢き、やがて黒い灰となり消えた。
「…………」
鬼が、その先にいる者を捉えた。
(……鬼殺隊か。面倒、面倒……)
つぐみの前に、音もなく立ち塞がっていた。
風もないのに、彼女の羽織がふわりと揺れる。
その手には、淡く群青に染まった日輪刀。
つぐみは混乱の中、誰かが来てくれたことをやっと理解する。
「た、す……け……」
喉から漏れた声は涙に溺れて、言葉にならなかった。
「この子に……何をした」
名前の低く静かな声が、夜気を切り裂いた。
鬼の肩が、ぴくりと震える。
「…………」
そのまま口元を吊り上げ、ずるりと懐から一枚の紙を取り出す。
漆黒の紙の中央に、赤黒い“血の文字”がしたためられていた。
《血鬼術――血筆ノ戒(けっぴつのいましめ)》
《恐レロ》
その瞬間―― 名前の眼前に、異様な違和感が走る。
視界の端に入った“文字”。
ただ見た、それだけで。
心臓が、ぎゅう、と締め付けられた。
胸の奥から、冷たい汗が噴き出す。
肩が震え、手が強張り、刀を握る指先に、妙に力が入らなくなる。
(……これは……何かがおかしい)
(身体が、こわばる……!)
鬼の顔が、笑いに歪む。
「見たな。もう、おしまいじゃ」
「わしの“頁”を覗いた者は、心の奥底を掴まれる。お主はもう、“恐怖”に抗えん」
名前は、震える指先を押さえ込むように、剣を握り直した。
その刹那――
口から吸った酸素を、全集中の呼吸に変化させる。
ヒュッ、と風が吹いたように、名前の体が動いた。
日輪刀が閃き、血文字の黒紙を、斜めに断ち切る。
ぱさり、と紙片が地に落ちた。
途端に、心の中にあった冷たい鉄の枷が外れたように、呼吸が戻ってくる。
(これが……血鬼術)
(……この術は、“黒紙”に書かれた事を強制するのか)
(でも、斬れた。斬れば、効果は消える。それなら大した能力じゃない)
鬼の笑みが、ぴたりと止まる。
「……ほう。斬ったか……!」
「だが、それは偶然じゃろう。黒紙を見てから反応するまでの時間、次は与えん」
名前は、答えない。
ただつぐみの前に立ち、背後の少女に向けて視線は鬼から逸らさぬままに口を開いた。
「……立てる?」
つぐみは、何も言葉が出なかった。
「立てなくても、立って、逃げて。こいつはあなたを狙っている」
名前の声は静かだった。
だが、その背中から溢れる気配は、夜を斬る刃のように鋭かった。
鬼の目が、名前を通り越し――その背にいる、つぐみへと、ねっとりと視線を這わせた。
「……逃がさんぞ……」
「わしが求めてきた“血”じゃ……」
「何十人の文字を刻んでも……まだ足らなんだ……」
「だがのう……その娘の血から立ちのぼる香り……あれは、“理”を超えておる」
「この村に入った夜から感じておった……稀なる香……人ではない、奇跡の滴……」
「それが――そこに、ある……!」
ぐぐ、と鬼の身体が前傾する。
骨が軋むような音。
背骨が、皮膚の上から蛇のように蠢く。
そして――
《動クナ》
ふたたび、黒紙が宙を舞う。
名前の眼前を通り過ぎ、まっすぐにつぐみの方角へ。
(――まずい!)
名前は反射的に身を捻り、刀を振るう。
――瞬撃。
黒紙は寸前で斬られ、斜めに裂けて地へ落ちる。
だが、その瞬間――
「!?」
紙片が、ぴくりと空中で跳ねた。
直後、破られた黒紙が、裂け目から鋭く尖った“刃”と化し、名前の頬をかすめた。
血が一筋、斜めに飛ぶ。
(紙そのものが……刃に!?)
鬼の笑みが深まる。
「――面白かろ?“頁”をめくった者は、命で支払うのじゃ」
「黒紙は“言葉”であり、“刃”であり、“命令”そのもの……!」
「その娘は、わしの“頁”のためにある!」
「稀血の娘よ……お前の血で、まだ見ぬ“文字”を記す……!」
その声は、狂信的な陶酔を帯びていた。
名前の目が、わずかに細まる。
稀血――静水から話は聞いていた。
人間の中で、極めて珍しい血液の型を持つ者がおり、その人間を喰うと五十から百人程喰ったのに値する力を得られる。
そのため、彼らは鬼を引き寄せる。
(つぐみを狙っている――完全に)
(…このままでは、また標的にされる)
(下手に逃がすのは、悪手か)
つぐみの呼吸が、背後で震えるように乱れているのが分かる。
名前は、ぐっと息を吸い込んだ。
そして――
「つぐみ。こっちに来て」
その一声に、つぐみはびくりと体を揺らす。
「え……?」
「走れる?」
つぐみは首を振る。涙でくしゃくしゃの顔で、声も出ない。
名前はそれを確認すると、背を向け、しゃがみ込んだ。
「じゃあ、掴まって。落ちないように」
「えっ……!」
「大丈夫。“見えなければ”命令は届かない。だから――私の背中に隠れて」
言いながら、名前は背に片腕を回し、つぐみの腕を抱え込むように固定した。
そして、低く囁いた。
「……必ず、目を瞑っていて。絶対に、黒い紙を見ないこと。わかったね?」
つぐみは、その声に導かれるように、ぎゅっと目を閉じた。
「……うん」
名前の胸の奥で、小さく息が落ち着いていく。
おんぶされたつぐみの鼓動が背に伝わる。
――それは、確かにそこにある“命”だった。
(守る。命を繋ぐ。それが、“雫”の剣)
そのやり取りの間にも――鬼は、次なる黒紙を抜き放っていた。