三章
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脇腹からの出血が、じわじわと衣を濡らしていく。
名前は、痛みを押し殺しながら――静かに剣を引き寄せるように胸の前で構えた。
《雫の呼吸・肆ノ型――流涙》
静かな呼吸と共に、水のように緩やかな動きが身体を包み込む。
傷の痛覚を和らげ、出血を抑える――はずだった。
だが。
(……止まらない)
血が滲み出るのを、完全には封じきれない。
呼吸の乱れが、それを明確に示していた。
鬼の顔――空洞の“顔”が、笑う。
「……ああ、痛そう。痛そうだねぇ……」
「でも、まだ終わらないよ?」
次の瞬間、“首の腕”が唸るように迫る。
名前は、再び《漆ノ型・水輪の残響》でいなそうとする。
だが――
(遅れた……!)
体がついてこない。
負傷した背中が、動きを鈍らせる。
本来なら抜けられた軌道に、わずかに触れた。
「っ……!」
腕に衝撃が走る。
弾かれ、地を転がる。
血の跡が、地面にいくつも花開く。
「くくくく……」
鬼が、崩れた“顔”で嗤う。
「君さぁ……攻撃の技、ないんでしょ?」
「さっき斬れたと思った“首”も……あれ、人間の首だったからさ。だから斬れたんだよ」
「ボクの首は……斬れないよ?」
ずるり、と鬼が迫る。
髪を引きずる首が、なお揺れている。
名前は、膝をつきながら立ち上がり――剣を構え、静かに言った。
「それが、何だ」
「私の呼吸は、雫の呼吸。守り、避ける呼吸」
「――だけど」
呼吸が整う。
その声は低く、鋭く、しかし凪のように静かだった。
静水の言葉が蘇る。
《私たちは…夜が明けるその瞬間まで、ひたすらに、耐え続けてきたのです。鬼への果てなき怒りの火を、心に灯して》
嗚呼。そうだ。
――私たちは、
終わらせる者ではない。
ただ、
終わりが訪れるまでを、繋ぐ者。
夜の底で、
命を、痛みを、希望を、
守りきるための剣。
踏み込まず、
打たず、
ただ、何度でも立ち塞がる。
「鬼への怒りの火を絶やしたことは、ない」
「焼き尽くす、お前の夜を。そして、お前の全てを陽の元に引きずり出す」
「持久戦こそが、雫の本懐だ」
名前の眼は、凪いだ水面のように静かに澄んでいた。
しかし、雫の火は、叫ばずとも燃えている。
ただ静かに、けれど確かに。
――夜明けまで、燃え続ける。
鬼の足が、ぴたりと止まった。
顔に表情はないはずなのに、空いた“穴”の奥がわずかに揺れた気がした。
「……は?」
掠れた声が、喉の奥から漏れる。
「なに、それ……」
「斬れない、って、言ってるでしょ……なのに……なんで、そんな顔、してるの……?」
一歩、踏み出しかけた足が、ごく僅かに鈍る。
“ただ守るだけ”だったはずの剣士。
けれど、目の前にいる少女は――何か、違っていた。
(……なんか、やだ)
(なんで……そんなに、怖い顔、してるの……)
「……やだなぁ、やだやだ」
「それじゃ、全然楽しくないのに……」
鬼の“首の腕”がわずかに揺れる。
その声音には、怒りではなく――ほんの一瞬、戸惑いのようなものが滲んでいた。
「なんで…ボクが、せっかく集めてきたのに……」
「君、全部壊す気でいるの……?」
その呟きに、名前は何も答えない。
ただ、剣を構え直した。
その静けさが、言葉よりも深く、鬼の神経をじわりと逆撫でしていた。
鬼の足が、ぐしゃりと地を踏みしめる。
次の瞬間、背から伸びた“首の腕”が、一斉に燕里へと襲いかかる。
「壊させない……ぜったい、壊させないッ!!」
叫びと共に振るわれた一撃は、もはや怒りというより――執着の塊だった。
空気が唸り、地が抉れ、首がぶつかり合う音が響く。
名前は、剣を傾けて低く構える。
守りの剣が、夜を越えるための一閃へと、静かに煌めいた。
⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎
戦いは、いつ終わるとも知れず続いていた。
宵闇に沈んだ山奥で、剣戟と咆哮だけが、絶え間なく木霊していた。
鬼の“首の腕”は何度も唸りを上げて振り下ろされ、地を裂き、岩を砕いた。
だがそのすべてに――名前は耐えた。
《雫の呼吸・壱ノ型》《陸ノ型》《肆ノ型》《漆ノ型》――
名前の繰り出す技は、水輪のように流れ、斬撃のようにしなり、何度も鬼の攻撃を受け流した。
何時間も経っていた。
それでも、名前は立っていた。
全身、傷だらけだった。血が流れ、肩も脚も裂けていた。
膝は震え、呼吸はとっくに限界を越えていた。
だが――彼女は、剣を握り続けていた。
歯を食いしばり、視線を逸らさず、ただ静かに立ち塞がる。
その姿に、鬼の動きが、僅かに鈍る。
「……おかしい……ッ」
「なんで……倒れないんだよ……?」
「いい加減死ねよ……立つな……っ!」
名前は、答えなかった。
ただ、剣を構え直した。
その“沈黙”が、鬼の心を揺らした。
――夜が、明ける。
鬼は、それを本能で悟った。
「ひっ…やだ……やだ……やだァァァ!!!」
鬼は踵を返し、逃げようとした。
しかし――
名前の脚が、音もなく動く。
その刹那。
《雫の呼吸・参ノ型――深潭の衣》
姿が、気配ごと掻き消える。
「――っ!?」
次に鬼が視界を捉えた時には、名前の剣が、その背後にいた。
斬撃が走る。
“首の腕”の束の一つが、根元から斬り飛ばされた。
ぎし、と断面から軋む音。
そして――その一瞬の“破損”によって、鬼の体の内部で、何かがずれた。
背の肉が裂ける。
そこから――一本の“首”が、にゅるりと這い出す。
他の首とは違う。
顔には、しっかりと眼球があり、舌も歯もあった。
唇は歪み、首筋には鬼の痣のような文様が刻まれている。
「ア、ァァァァァッ……見ないで……っ……見ないでよ……ボクの、ほんとの顔……っ!!」
それは、“本物”だった。
鬼の真の首。
隠し、守り、埋め込むようにして隠していた最後の核。
焦燥と恐怖に掻き乱された鬼の声が、ひび割れるように響いた。
だが――それは同時に、鬼の“真の力”の解放でもあった。
「殺す……!」
「絶対に殺す……ッ!」
「ボクは…醜くなんか……ないんだッッ!」
鬼が、跳ねる。
その速度は、今までとは段違いだった。
本気を出した鬼が、暴風のような猛攻を繰り出してくる。
地を跳び、四肢を折り曲げ、身を捻り、足を地面に突き刺すようにして体重を乗せた突進――
名前の胸を、裂いた。
だが、名前の目は――
すでに、鬼の“芯”を捉えていた。
(……見えた)
(お前の、“芯”)
痛みも、恐怖も、今はなかった。
ただ、鬼の動きの“隙間”にある静かな一点を、
彼女の全神経が――
見据えていた。
鬼が喉元を露わにした一瞬。
名前の剣が、風のように、波紋のように――
音もなく、振り抜かれた。
“静寂の芯”を斬る、それは剣士・名前だけがなせる一太刀。
斬撃は、真の首を、鮮やかに断ち切った。
鬼の動きが、止まる。
声が、失われる。
首が、ずるりと落ちた。
――夜が、終わった。
名前は、ひとつ長く、息を吐いた。
ぶつりと断たれた頸が、地に転がる。
その顔には――眼球があり、舌があり、涙腺があった。
「……や……だ……」
かすれた声が、切れた喉から漏れる。
「見ないで……っ、ボクの……顔……見ないで……ッ」
「どうせ……っ、醜いって、思ってるんだろっ……」
瞳が揺れていた。
涙が、はっきりと滲んでいた。
(……泣いている)
炭になりかけたその瞼の奥に――
ほんの一瞬、“かつて”の映像が差し込む。
•
――誰にも、見られたくなかった。
井戸に映る、自分の顔。
ただ、それを見ただけで吐き気を催した少女の顔。
陰で笑っていた、近所の子供たちの声。
石を投げつけ、嫌悪に満ちた表情で見つめる大人達。
「気持ち悪い」
「なんであんな顔してるんだろ」
振り向けば、母親ですら目を逸らしていた。
“おっかぁ。こっち見てよ。ねぇ”
“おっかぁ……ボク、醜くなんかないよ……”
•
「見ないで……お願い……やっと、“綺麗な首”に囲まれて……やっと……ボクは……」
涙と一緒に、熱が広がっていく。
顔が崩れ、輪郭が溶けていく。
その“声”は、怒りでも怨嗟でもなかった。
ただ、どこまでも幼く、ただただ怯えたものだった。
名前は、しばらく何も言わなかった。
静かに剣を納め、そして淡々と――けれど確かな声で言葉を紡ぐ。
「……鬼は、みんな醜い」
「お前が特別、醜いとは思わない」
鬼の目が、かすかに揺れた。
「……みんな……?」
その声に、迷いのようなものが宿る。
喉が震え、舌がかすかに動く。
「じゃあ……ボクだけが……“気持ち悪い”んじゃ……なかったの……?」
瞳が潤みながら、うっすらと笑ったように見えた。
「……ふふ……なぁんだ……」
「そっか……そっか……」
「……そっかぁ……良かっ……た……」
言葉はそれきりだった。
だが、その“声”は、どこか安堵に似た響きを残していた。
顔が、輪郭ごと崩れていく。
瞳も、涙も、ゆっくりと黒灰に飲まれていく。
ずっと欲していた“他者の視線”に――
最後の最後、ほんのわずかだけ触れられたまま、鬼は、静かに炭となって消えていった。
風が吹く。
それは、誰も振り返らない、ひとつの終わり。
けれど、たしかに、ここに一つの“魂”が還った。
名前は、立ったまま動かず――
何も言わず、目を閉じる。
一振りの剣だけが、朝陽に静かに光っていた。
●●●●●
〜大正コソコソ噂話〜
名前の初任務、実は常より少し時間がかかっていた。
それには理由があって…
最初に支給された隊服を受け取ったのは静水だったのだけど、それがまずかった。
胸元はざっくり開き、下履きはギリギリ股が隠れるくらいの丈だった。
それを見た静水はビシりと固まり…十文字に破いた。
驚く名前には何も告げず、即座に長文のクレーム手紙を鬼殺隊本部にしたためた。
おかげで、代わりの隊服が来るまで時間がかかり…初任務が遅れたのだ。
以下、静水の手紙である。
「拝復
いつも鬼殺隊の皆様には、世の安寧のためご尽力賜り、心より御礼申し上げます。
またこの度は、我が弟子・名前が最終選別を突破した折、迅速にご配慮いただき、隊服をご支給いただきましたこと、厚く御礼申し上げます。
……しかしながら、誠に遺憾ながら、届いた衣服を目にし、私は一瞬、自身の目を疑いました。
該当の衣服は、装飾過多にして過度な露出が見られ――
肩口から胸元にかけての裁断は、もはや“戦う者の衣”ではなく、“艶姿を競う装”の如く。
我が弟子は、派手を好む者ではございません。
あらゆる虚飾を避け、剣に生きる者であり、鬼を前にしてすら眉ひとつ動かさぬ性質の者です。
にもかかわらず、あのような衣装を新たなる一歩の“装い”として与えるなど――
はなはだしく本人の資質・志にそぐわず、あまつさえ羞恥と困惑を強いる仕打ちではないかと、私は深い憤りを禁じ得ません。
隊服とは、ただの衣ではなく、剣士の誇りと矜持を背負う象徴でありましょう。
それをもって戦場に赴く弟子に、あのようなものを着せることなど、私としては到底、許容できぬものでございます。
仕立て担当者の不備なのか、選定上の手違いかは存じません。
されど、このまま着用を命じられるようであれば、私としては師の立場より改めて抗議を申し上げる所存です。
可能であれば、より実戦的かつ機能性と品位を伴う隊服への再支給を、切にお願い申し上げます。
弟子の歩む道が、無用な羞恥や困惑によって曇らぬよう――
どうか、ご配慮賜れますよう、伏してお願い申し上げます。
末筆ながら、鬼殺隊の皆様のご無事とご健勝を、心よりお祈り申し上げます。
敬具
雫の呼吸 育手 静水」
後日、仕立てた隠が静水庵にて土下座をする姿があったとか。
終。
名前は、痛みを押し殺しながら――静かに剣を引き寄せるように胸の前で構えた。
《雫の呼吸・肆ノ型――流涙》
静かな呼吸と共に、水のように緩やかな動きが身体を包み込む。
傷の痛覚を和らげ、出血を抑える――はずだった。
だが。
(……止まらない)
血が滲み出るのを、完全には封じきれない。
呼吸の乱れが、それを明確に示していた。
鬼の顔――空洞の“顔”が、笑う。
「……ああ、痛そう。痛そうだねぇ……」
「でも、まだ終わらないよ?」
次の瞬間、“首の腕”が唸るように迫る。
名前は、再び《漆ノ型・水輪の残響》でいなそうとする。
だが――
(遅れた……!)
体がついてこない。
負傷した背中が、動きを鈍らせる。
本来なら抜けられた軌道に、わずかに触れた。
「っ……!」
腕に衝撃が走る。
弾かれ、地を転がる。
血の跡が、地面にいくつも花開く。
「くくくく……」
鬼が、崩れた“顔”で嗤う。
「君さぁ……攻撃の技、ないんでしょ?」
「さっき斬れたと思った“首”も……あれ、人間の首だったからさ。だから斬れたんだよ」
「ボクの首は……斬れないよ?」
ずるり、と鬼が迫る。
髪を引きずる首が、なお揺れている。
名前は、膝をつきながら立ち上がり――剣を構え、静かに言った。
「それが、何だ」
「私の呼吸は、雫の呼吸。守り、避ける呼吸」
「――だけど」
呼吸が整う。
その声は低く、鋭く、しかし凪のように静かだった。
静水の言葉が蘇る。
《私たちは…夜が明けるその瞬間まで、ひたすらに、耐え続けてきたのです。鬼への果てなき怒りの火を、心に灯して》
嗚呼。そうだ。
――私たちは、
終わらせる者ではない。
ただ、
終わりが訪れるまでを、繋ぐ者。
夜の底で、
命を、痛みを、希望を、
守りきるための剣。
踏み込まず、
打たず、
ただ、何度でも立ち塞がる。
「鬼への怒りの火を絶やしたことは、ない」
「焼き尽くす、お前の夜を。そして、お前の全てを陽の元に引きずり出す」
「持久戦こそが、雫の本懐だ」
名前の眼は、凪いだ水面のように静かに澄んでいた。
しかし、雫の火は、叫ばずとも燃えている。
ただ静かに、けれど確かに。
――夜明けまで、燃え続ける。
鬼の足が、ぴたりと止まった。
顔に表情はないはずなのに、空いた“穴”の奥がわずかに揺れた気がした。
「……は?」
掠れた声が、喉の奥から漏れる。
「なに、それ……」
「斬れない、って、言ってるでしょ……なのに……なんで、そんな顔、してるの……?」
一歩、踏み出しかけた足が、ごく僅かに鈍る。
“ただ守るだけ”だったはずの剣士。
けれど、目の前にいる少女は――何か、違っていた。
(……なんか、やだ)
(なんで……そんなに、怖い顔、してるの……)
「……やだなぁ、やだやだ」
「それじゃ、全然楽しくないのに……」
鬼の“首の腕”がわずかに揺れる。
その声音には、怒りではなく――ほんの一瞬、戸惑いのようなものが滲んでいた。
「なんで…ボクが、せっかく集めてきたのに……」
「君、全部壊す気でいるの……?」
その呟きに、名前は何も答えない。
ただ、剣を構え直した。
その静けさが、言葉よりも深く、鬼の神経をじわりと逆撫でしていた。
鬼の足が、ぐしゃりと地を踏みしめる。
次の瞬間、背から伸びた“首の腕”が、一斉に燕里へと襲いかかる。
「壊させない……ぜったい、壊させないッ!!」
叫びと共に振るわれた一撃は、もはや怒りというより――執着の塊だった。
空気が唸り、地が抉れ、首がぶつかり合う音が響く。
名前は、剣を傾けて低く構える。
守りの剣が、夜を越えるための一閃へと、静かに煌めいた。
⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎
戦いは、いつ終わるとも知れず続いていた。
宵闇に沈んだ山奥で、剣戟と咆哮だけが、絶え間なく木霊していた。
鬼の“首の腕”は何度も唸りを上げて振り下ろされ、地を裂き、岩を砕いた。
だがそのすべてに――名前は耐えた。
《雫の呼吸・壱ノ型》《陸ノ型》《肆ノ型》《漆ノ型》――
名前の繰り出す技は、水輪のように流れ、斬撃のようにしなり、何度も鬼の攻撃を受け流した。
何時間も経っていた。
それでも、名前は立っていた。
全身、傷だらけだった。血が流れ、肩も脚も裂けていた。
膝は震え、呼吸はとっくに限界を越えていた。
だが――彼女は、剣を握り続けていた。
歯を食いしばり、視線を逸らさず、ただ静かに立ち塞がる。
その姿に、鬼の動きが、僅かに鈍る。
「……おかしい……ッ」
「なんで……倒れないんだよ……?」
「いい加減死ねよ……立つな……っ!」
名前は、答えなかった。
ただ、剣を構え直した。
その“沈黙”が、鬼の心を揺らした。
――夜が、明ける。
鬼は、それを本能で悟った。
「ひっ…やだ……やだ……やだァァァ!!!」
鬼は踵を返し、逃げようとした。
しかし――
名前の脚が、音もなく動く。
その刹那。
《雫の呼吸・参ノ型――深潭の衣》
姿が、気配ごと掻き消える。
「――っ!?」
次に鬼が視界を捉えた時には、名前の剣が、その背後にいた。
斬撃が走る。
“首の腕”の束の一つが、根元から斬り飛ばされた。
ぎし、と断面から軋む音。
そして――その一瞬の“破損”によって、鬼の体の内部で、何かがずれた。
背の肉が裂ける。
そこから――一本の“首”が、にゅるりと這い出す。
他の首とは違う。
顔には、しっかりと眼球があり、舌も歯もあった。
唇は歪み、首筋には鬼の痣のような文様が刻まれている。
「ア、ァァァァァッ……見ないで……っ……見ないでよ……ボクの、ほんとの顔……っ!!」
それは、“本物”だった。
鬼の真の首。
隠し、守り、埋め込むようにして隠していた最後の核。
焦燥と恐怖に掻き乱された鬼の声が、ひび割れるように響いた。
だが――それは同時に、鬼の“真の力”の解放でもあった。
「殺す……!」
「絶対に殺す……ッ!」
「ボクは…醜くなんか……ないんだッッ!」
鬼が、跳ねる。
その速度は、今までとは段違いだった。
本気を出した鬼が、暴風のような猛攻を繰り出してくる。
地を跳び、四肢を折り曲げ、身を捻り、足を地面に突き刺すようにして体重を乗せた突進――
名前の胸を、裂いた。
だが、名前の目は――
すでに、鬼の“芯”を捉えていた。
(……見えた)
(お前の、“芯”)
痛みも、恐怖も、今はなかった。
ただ、鬼の動きの“隙間”にある静かな一点を、
彼女の全神経が――
見据えていた。
鬼が喉元を露わにした一瞬。
名前の剣が、風のように、波紋のように――
音もなく、振り抜かれた。
“静寂の芯”を斬る、それは剣士・名前だけがなせる一太刀。
斬撃は、真の首を、鮮やかに断ち切った。
鬼の動きが、止まる。
声が、失われる。
首が、ずるりと落ちた。
――夜が、終わった。
名前は、ひとつ長く、息を吐いた。
ぶつりと断たれた頸が、地に転がる。
その顔には――眼球があり、舌があり、涙腺があった。
「……や……だ……」
かすれた声が、切れた喉から漏れる。
「見ないで……っ、ボクの……顔……見ないで……ッ」
「どうせ……っ、醜いって、思ってるんだろっ……」
瞳が揺れていた。
涙が、はっきりと滲んでいた。
(……泣いている)
炭になりかけたその瞼の奥に――
ほんの一瞬、“かつて”の映像が差し込む。
•
――誰にも、見られたくなかった。
井戸に映る、自分の顔。
ただ、それを見ただけで吐き気を催した少女の顔。
陰で笑っていた、近所の子供たちの声。
石を投げつけ、嫌悪に満ちた表情で見つめる大人達。
「気持ち悪い」
「なんであんな顔してるんだろ」
振り向けば、母親ですら目を逸らしていた。
“おっかぁ。こっち見てよ。ねぇ”
“おっかぁ……ボク、醜くなんかないよ……”
•
「見ないで……お願い……やっと、“綺麗な首”に囲まれて……やっと……ボクは……」
涙と一緒に、熱が広がっていく。
顔が崩れ、輪郭が溶けていく。
その“声”は、怒りでも怨嗟でもなかった。
ただ、どこまでも幼く、ただただ怯えたものだった。
名前は、しばらく何も言わなかった。
静かに剣を納め、そして淡々と――けれど確かな声で言葉を紡ぐ。
「……鬼は、みんな醜い」
「お前が特別、醜いとは思わない」
鬼の目が、かすかに揺れた。
「……みんな……?」
その声に、迷いのようなものが宿る。
喉が震え、舌がかすかに動く。
「じゃあ……ボクだけが……“気持ち悪い”んじゃ……なかったの……?」
瞳が潤みながら、うっすらと笑ったように見えた。
「……ふふ……なぁんだ……」
「そっか……そっか……」
「……そっかぁ……良かっ……た……」
言葉はそれきりだった。
だが、その“声”は、どこか安堵に似た響きを残していた。
顔が、輪郭ごと崩れていく。
瞳も、涙も、ゆっくりと黒灰に飲まれていく。
ずっと欲していた“他者の視線”に――
最後の最後、ほんのわずかだけ触れられたまま、鬼は、静かに炭となって消えていった。
風が吹く。
それは、誰も振り返らない、ひとつの終わり。
けれど、たしかに、ここに一つの“魂”が還った。
名前は、立ったまま動かず――
何も言わず、目を閉じる。
一振りの剣だけが、朝陽に静かに光っていた。
●●●●●
〜大正コソコソ噂話〜
名前の初任務、実は常より少し時間がかかっていた。
それには理由があって…
最初に支給された隊服を受け取ったのは静水だったのだけど、それがまずかった。
胸元はざっくり開き、下履きはギリギリ股が隠れるくらいの丈だった。
それを見た静水はビシりと固まり…十文字に破いた。
驚く名前には何も告げず、即座に長文のクレーム手紙を鬼殺隊本部にしたためた。
おかげで、代わりの隊服が来るまで時間がかかり…初任務が遅れたのだ。
以下、静水の手紙である。
「拝復
いつも鬼殺隊の皆様には、世の安寧のためご尽力賜り、心より御礼申し上げます。
またこの度は、我が弟子・名前が最終選別を突破した折、迅速にご配慮いただき、隊服をご支給いただきましたこと、厚く御礼申し上げます。
……しかしながら、誠に遺憾ながら、届いた衣服を目にし、私は一瞬、自身の目を疑いました。
該当の衣服は、装飾過多にして過度な露出が見られ――
肩口から胸元にかけての裁断は、もはや“戦う者の衣”ではなく、“艶姿を競う装”の如く。
我が弟子は、派手を好む者ではございません。
あらゆる虚飾を避け、剣に生きる者であり、鬼を前にしてすら眉ひとつ動かさぬ性質の者です。
にもかかわらず、あのような衣装を新たなる一歩の“装い”として与えるなど――
はなはだしく本人の資質・志にそぐわず、あまつさえ羞恥と困惑を強いる仕打ちではないかと、私は深い憤りを禁じ得ません。
隊服とは、ただの衣ではなく、剣士の誇りと矜持を背負う象徴でありましょう。
それをもって戦場に赴く弟子に、あのようなものを着せることなど、私としては到底、許容できぬものでございます。
仕立て担当者の不備なのか、選定上の手違いかは存じません。
されど、このまま着用を命じられるようであれば、私としては師の立場より改めて抗議を申し上げる所存です。
可能であれば、より実戦的かつ機能性と品位を伴う隊服への再支給を、切にお願い申し上げます。
弟子の歩む道が、無用な羞恥や困惑によって曇らぬよう――
どうか、ご配慮賜れますよう、伏してお願い申し上げます。
末筆ながら、鬼殺隊の皆様のご無事とご健勝を、心よりお祈り申し上げます。
敬具
雫の呼吸 育手 静水」
後日、仕立てた隠が静水庵にて土下座をする姿があったとか。
終。