三章
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納屋を後にし、夜の冷たい風を受けながら、名前は山道を一人歩いていた。
月はまだ雲に隠れている。足元を照らす光はない。
それでも、名前の呼吸は乱れず、目も迷わなかった。
耳を澄ませば、虫の音すら凍るような沈黙が森を支配している。
(気配がある……)
山に入った瞬間から、どこか、肌に纏わりつくような“濁り”があった。
――気配は薄い。
だが、確かに何かがいる。
名前は地を蹴る足音すら、風に溶けるように沈めながら進んでいく。
森は鬱蒼とし、梢が風に揺れる音すら妙に不気味に響いた。
すると、足元に、靴のような踏み跡が――否、それは違った。
「……引きずった、痕跡……?」
人間のものにしては深く、重すぎる。
地面に刻まれたその筋は、斜面に向かって奥へと伸びていた。
――間違いない。何かが、誰かを攫っていった跡だ。
名前は足を止め、しゃがみ込んだ。
小石や折れた枝の角度から、移動方向と速度を見極める。
「……斜面の下へ……」
風が、頬を撫でた。
日輪刀の鞘が、かすかに揺れる。
名前は剣に触れたまま、進路を定めると再び立ち上がった。
その先――小さな山小屋があった。
やがて、唐突に、森の空気が変わる。
静かすぎる。
木々が音を失い、草が鳴くことを忘れたように沈黙していた。
名前は呼吸を整え、戸の前に静かに立つ。
――軋む。
わずかに開いた戸の隙間から、冷たい空気が流れ出した。
鼻を掠める、わずかに甘く、そして鉄錆びたような匂い。
一歩、踏み込む。
小屋の中は真っ暗だった。だが、薄月がかろうじて差し込む隙間から――“それ”が見えた。
並んでいた。
粗末な棚、木箱の上、壁際の地面に、同じ“何か”がずらりと。
名前が、息を殺して目を凝らす。
――首。
切断された、無数の人間の首だった。
目を見開いたもの。叫びのまま口を開いたままのもの。
だが、どれも、共通して“何か”が欠けていた。
目玉がない。
歯も、舌も、くり抜かれたように消えている。
まるで「そこにあるはずのもの」を、誰かが丁寧に“剥ぎ取った”かのように――。
ぞっとする沈黙が、小屋に満ちる。
(……集めている?)
(――いや、奪っている)
その瞬間、背後に、ずる……と湿った音が走った。
⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎
名前は振り返らない。
鞘に添えた手が、じわりと力を帯びる。
気配が変わった。
ただの静寂ではない。
空気の底に、どろりと濁った“視線”が沈んでいる。
(――いる)
小屋の戸口の隙間から、暗がりの向こう。
ゆっくりと、“それ”は入ってきた。
ぬめるような気配と共に現れたのは――
人のようで、人ではない“異形”。
名前は、脈打つ心臓を呼吸で落ち着かせながら、視線と共に身体を振り向かせる。
四肢の長さが左右で違い、頭の輪郭は、どこか歪んでいる。
何より、顔に目も鼻も、何も“表情を形づけるもの”がなかった。
あるのは、ただ“穴”だけだった。
左右非対称にぽっかりと開いた空洞が、そこに“顔”を装っていた。
その穴から、ゆっくりと、音が漏れる。
「……さわっ……た……?」
ぐちゅ、と奥の粘膜が蠢く音。
「ボクの……たからものに……」
名前は返答しない。
剣を静かに抜き、鞘を後ろへ下ろした。
鬼は、首だけを傾けた。
「……ひとつ……たりない……」
「ついさっき……ここに……置いておいたのに……」
「……ひとつ……どこ……いった……?」
(木島さんの、ことか)
(喰う前に、捕まえてたんだ。こいつは、喰うことよりも、“首”に執着している)
ずれた顔の空洞が、名前のほうを向く。
「キミ……知ってる……?」
「ボクの……首……」
「……どこに……あるの……?」
その声は低く、そして甘えるように湿っていた。
一歩、踏み出してきた。
足音はほとんどない。
代わりに、背中で何かがずるずると引きずられている。
それは……人間の首が、三つ。髪を持たれて引きずられていた。
口元から、ぼとり、と鮮血が滴る。
鬼の背後から、闇がじわりとにじんでいた。
名前は、呼吸を整えた。
「――知っている」
その一言が、小屋の中の空気を変えた。
鬼は、ぴたりと動きを止めた。
眼球の無いその“瞳”が、名前をじぃっと凝視する。
「……いま……なんて……言ったの……?」
声が低く、震えていた。
それは怯えではない。
自分の“宝”を汚されたと信じる、怒りの予兆だった。
「知っている」と告げた少女は、怯える素振りもなく、ただ静かに、剣の柄に手を添えていた。
鬼の背に、ずるずると引きずっていた首がぶつかり合って音を立てる。
その音に――
鬼の中で、何かが“壊れた”。
「……ッ……ッァアアアアア……ッッ!!」
空洞の口が、裂けるように開く。
腹の底から沸き起こるような咆哮。
血の混じった唾が飛び、粘膜が震え、闇の中で唸り声が響いた。
「……返せ返せ返せ返せェェェェエエエ!!!」
「お前が……お前が、ボクの首を取ったんだろう……!!」
「汚したんだろう!? 喰ったんだろう!? なんでボクの首を喰ったんだよォオオオ!!」
拳が地面を砕く。
肩が震え、全身の筋肉が、怒りで膨張するように波打った。
顔の穴から、どろりと黒い体液が零れる。
怒りが、興奮が、その“形”を歪めていく。
「ボクのたからを返せェェ!!」
鬼は、今にも破裂しそうな怒気をまとうまま、地を蹴った。
膝が地面を抉り、空気が爆ぜる。
名前は、それを見据えたまま、静かに言葉を紡ぐ。
「私が欲しいのは、お前の首だ」
その言葉が、決定的だった。
鬼の怒りが一線を越える。
咆哮と共に飛びかかってくる。
異形の四肢が、奇妙な軌道を描きながら迫る。
だが――その刹那、
名前の身体がふわりと沈んだ。
《雫の呼吸・弐ノ型――垂香》
香のように残る“気配”だけが、鬼の眼前を横切った――。
月はまだ雲に隠れている。足元を照らす光はない。
それでも、名前の呼吸は乱れず、目も迷わなかった。
耳を澄ませば、虫の音すら凍るような沈黙が森を支配している。
(気配がある……)
山に入った瞬間から、どこか、肌に纏わりつくような“濁り”があった。
――気配は薄い。
だが、確かに何かがいる。
名前は地を蹴る足音すら、風に溶けるように沈めながら進んでいく。
森は鬱蒼とし、梢が風に揺れる音すら妙に不気味に響いた。
すると、足元に、靴のような踏み跡が――否、それは違った。
「……引きずった、痕跡……?」
人間のものにしては深く、重すぎる。
地面に刻まれたその筋は、斜面に向かって奥へと伸びていた。
――間違いない。何かが、誰かを攫っていった跡だ。
名前は足を止め、しゃがみ込んだ。
小石や折れた枝の角度から、移動方向と速度を見極める。
「……斜面の下へ……」
風が、頬を撫でた。
日輪刀の鞘が、かすかに揺れる。
名前は剣に触れたまま、進路を定めると再び立ち上がった。
その先――小さな山小屋があった。
やがて、唐突に、森の空気が変わる。
静かすぎる。
木々が音を失い、草が鳴くことを忘れたように沈黙していた。
名前は呼吸を整え、戸の前に静かに立つ。
――軋む。
わずかに開いた戸の隙間から、冷たい空気が流れ出した。
鼻を掠める、わずかに甘く、そして鉄錆びたような匂い。
一歩、踏み込む。
小屋の中は真っ暗だった。だが、薄月がかろうじて差し込む隙間から――“それ”が見えた。
並んでいた。
粗末な棚、木箱の上、壁際の地面に、同じ“何か”がずらりと。
名前が、息を殺して目を凝らす。
――首。
切断された、無数の人間の首だった。
目を見開いたもの。叫びのまま口を開いたままのもの。
だが、どれも、共通して“何か”が欠けていた。
目玉がない。
歯も、舌も、くり抜かれたように消えている。
まるで「そこにあるはずのもの」を、誰かが丁寧に“剥ぎ取った”かのように――。
ぞっとする沈黙が、小屋に満ちる。
(……集めている?)
(――いや、奪っている)
その瞬間、背後に、ずる……と湿った音が走った。
⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎
名前は振り返らない。
鞘に添えた手が、じわりと力を帯びる。
気配が変わった。
ただの静寂ではない。
空気の底に、どろりと濁った“視線”が沈んでいる。
(――いる)
小屋の戸口の隙間から、暗がりの向こう。
ゆっくりと、“それ”は入ってきた。
ぬめるような気配と共に現れたのは――
人のようで、人ではない“異形”。
名前は、脈打つ心臓を呼吸で落ち着かせながら、視線と共に身体を振り向かせる。
四肢の長さが左右で違い、頭の輪郭は、どこか歪んでいる。
何より、顔に目も鼻も、何も“表情を形づけるもの”がなかった。
あるのは、ただ“穴”だけだった。
左右非対称にぽっかりと開いた空洞が、そこに“顔”を装っていた。
その穴から、ゆっくりと、音が漏れる。
「……さわっ……た……?」
ぐちゅ、と奥の粘膜が蠢く音。
「ボクの……たからものに……」
名前は返答しない。
剣を静かに抜き、鞘を後ろへ下ろした。
鬼は、首だけを傾けた。
「……ひとつ……たりない……」
「ついさっき……ここに……置いておいたのに……」
「……ひとつ……どこ……いった……?」
(木島さんの、ことか)
(喰う前に、捕まえてたんだ。こいつは、喰うことよりも、“首”に執着している)
ずれた顔の空洞が、名前のほうを向く。
「キミ……知ってる……?」
「ボクの……首……」
「……どこに……あるの……?」
その声は低く、そして甘えるように湿っていた。
一歩、踏み出してきた。
足音はほとんどない。
代わりに、背中で何かがずるずると引きずられている。
それは……人間の首が、三つ。髪を持たれて引きずられていた。
口元から、ぼとり、と鮮血が滴る。
鬼の背後から、闇がじわりとにじんでいた。
名前は、呼吸を整えた。
「――知っている」
その一言が、小屋の中の空気を変えた。
鬼は、ぴたりと動きを止めた。
眼球の無いその“瞳”が、名前をじぃっと凝視する。
「……いま……なんて……言ったの……?」
声が低く、震えていた。
それは怯えではない。
自分の“宝”を汚されたと信じる、怒りの予兆だった。
「知っている」と告げた少女は、怯える素振りもなく、ただ静かに、剣の柄に手を添えていた。
鬼の背に、ずるずると引きずっていた首がぶつかり合って音を立てる。
その音に――
鬼の中で、何かが“壊れた”。
「……ッ……ッァアアアアア……ッッ!!」
空洞の口が、裂けるように開く。
腹の底から沸き起こるような咆哮。
血の混じった唾が飛び、粘膜が震え、闇の中で唸り声が響いた。
「……返せ返せ返せ返せェェェェエエエ!!!」
「お前が……お前が、ボクの首を取ったんだろう……!!」
「汚したんだろう!? 喰ったんだろう!? なんでボクの首を喰ったんだよォオオオ!!」
拳が地面を砕く。
肩が震え、全身の筋肉が、怒りで膨張するように波打った。
顔の穴から、どろりと黒い体液が零れる。
怒りが、興奮が、その“形”を歪めていく。
「ボクのたからを返せェェ!!」
鬼は、今にも破裂しそうな怒気をまとうまま、地を蹴った。
膝が地面を抉り、空気が爆ぜる。
名前は、それを見据えたまま、静かに言葉を紡ぐ。
「私が欲しいのは、お前の首だ」
その言葉が、決定的だった。
鬼の怒りが一線を越える。
咆哮と共に飛びかかってくる。
異形の四肢が、奇妙な軌道を描きながら迫る。
だが――その刹那、
名前の身体がふわりと沈んだ。
《雫の呼吸・弐ノ型――垂香》
香のように残る“気配”だけが、鬼の眼前を横切った――。